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2018年1月 6日 (土)

日本の伝統的死生観

日本の伝統的死生観においては、肉体の死は、人間そのものの消滅ではなく、現世から身を隠すことに過ぎないと信じられてきた。だから、死後の世界を幽世(かくりよ)と言ひ、死後の人間を隱身(かくりみ)と言ふのである。

 

『萬葉集』に収められてゐる大津皇子(ほおつのみこ)の御歌では、

 

「ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隱(がく)りなむ
                     (

と歌はれてゐる。死に対して否定的懐疑的要素は全くなく、積極的・肯定的な精神が歌ひあげられてゐる。。

 

「今日のみ見てや雲隱りなむ」は、日本武尊が薨去の直前に歌った「はしけやし 吾家(わぎへ)の方よ 雲居起ち來も」と同じ信仰である。雲は霊であった。日本武尊にとって雲はご自分と故郷大和との間をつなぐ霊であった。雲は霊魂の運搬車であった。萬葉集の225,799の歌は、雲の中に霊・生命を見た歌である。

 

柳田國男氏は、「日本人の死後の観念、即ち霊は永久にこの国土のうちに留まってさう遠くへは行ってしまはないといふ信仰が、恐らくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられて居るといふことである」(『先祖の話』)と論じてゐる。

 

死者の霊魂は、はるか彼方の他界に行ってしまふのではなく、この国土に留まって子孫を見守ってゐるは、わが国において永く継承されてきている。それは、「先祖様が草葉の蔭から見守ってゐる」といふ言葉がある通りである。

 

この世を去った人の霊魂を身近に感じて来たのが日本人の伝統的祖霊観、生死観である。日本人が比較的死を恐れない強靭な精神を持っているのは、かうした信仰が根底にあるからであらう。

 

魂が身体から遊離することが死である。それがために肉体人間は力を失ふ。死とは無に帰するのではない。勢ひがなくなることを意味する「しほれる」が「しぬ」といふ言葉の語源である。「心もしのにいにしへおもほゆ」の「しの」である。くたくたになってしまって疲れるといふ意味である。気力がなくなってしまったといふ意味である。

 

枯れるといふ言葉と同根の「から」が「亡骸」の「から」である。死とは命が枯れることであり、肉体から魂・生命が去ることである。

 

人間の死を「神去る」「逝く」「身まかる」と言ふ。葬るを「はふる」といふ。「はふる」とは羽振るである。魂が空を羽ばたいて飛んでいくといふことである。羽振りが良いとは勢ひがあるといふ意である。

 

死は消滅ではなく、生き返るのであり、甦るのである。日本伝統信仰には死はない。

 

「よみがへり」とは、黄泉の国から帰ることである。『萬葉集』では「よみがへり」といふ言葉に対して「死還生」(三二七)といふ字をあててゐる。「黄泉の国」とは死後の世界である。

 

「このよみがへり」の思想が、仏教の輪廻転生思想を受け入れた信仰的素地とされる。あの世もこの世もそれほどお互いに遠いところではないのである。

 

死後の世界は近く親しく、いつでも連絡が取れるところである。だから草葉の陰から見守ってゐてくれるといふ言葉があるのである。お盆には先祖の御霊が帰って来るといふ信仰もある。生と死の区別は明白ではなく、人はこの世を去ってもまた帰って来るといふ信仰がある。日本伝統信仰における「死」とは誕生・元服・結婚と同様の「生まれ変はりの儀式の一環」である。

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