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2018年1月30日 (火)

「もののふの道」とは

 

 「もののふ」とは、武人・武士のことをやまとことば(和語すなはち漢語や西洋などからの外来語に對し、日本固有の語)で表現した言葉であり、雅語(上品な言葉。正しくてよい言葉。特に、和歌などに使ふ、平安時代風の言葉)的表現である。

 

 「もののふ」とは、「宮廷を守護する者」即ち「物部(もののべ)」の音韻が変化した語であるといふ。「もの」とは「もののけ」の「もの」と同じで、不思議な霊力がある存在のことである。物部氏という氏族は、もっとも有力な「もののふ」だった。

 

 「物部」の原義は、宮廷の妨げをするものを平らげ鎮める働きをする部(群れ・組。世襲的に一定の職業に従事した団体)のことである。物部氏は、古代の氏族の一つで、朝廷の軍事・刑獄のことを司った。 

 

物部氏は饒速日命の後裔にして武勇を以て聞こえた家柄で、神武天皇に奉仕し、御東征の折に大和で長髄彦を討って勲功があった。大伴氏と共に宮門を護衛し、軍事を担当した。用命天皇崩御直後(用命天皇二年・五八七)、仏教受容を唱へた蘇我氏と物部守氏が戦ひ、物部氏は滅びた。

 

霊的力即ち巫術(超自然的存在が人にのりうつり、その人を通して話し、行動するもの)を以て戦場に臨み、敵軍を守る精霊を抑圧する役目を帯びた者たちが「もののふ」(物部)であったと傳へられてゐる。

 

折口信夫氏は、「(古代日本では)多くは巫術を以て戰場に臨み、敵軍を守る精靈を抑壓する者だったらう。大體、男軍其ものが既に、軍靈を使って、敵軍の守護靈を壓倒することを第一義にして居た。其爲に戰士のことを靈部(物部)と言ったのである」(『大倭朝廷の刱業期』と論じてゐる。

 

『日本書紀』の神武天皇御東征の折の長髄彦(ながすねひこと)との一戦の条に「…神祇(あまつやしろくにつやしろ)を禮(ゐやま)ひ祭(いは)ひて、日神の威(みいきほひ)を背(そびら)に負ひたてまつりて、影(みかげ)のままに壓躡(おそひふ)まむに若かじ。かからば則ち曽て刃に血ぬらずして、虜(あだ)必ず自らに敗れなむ」と記されてゐる。

 

古代日本における戦ひは靈力の戦ひであったのであり、それに従事する士が「もののふ(靈部)」であった。とりわけ上御一人の「みいくさ」は、日の神の御神靈を祭りその神威を背負ひて神のまにまに戦はれたのである。

 

「神武」「天武」「文武」「聖武」といふ御歴代天皇の御諡号は、文武對立の武ではなく神威と一体の武である。

 

日本の武士が戦場に於いてお互ひに名乗りをあげたのは、互ひに名乗り合ふことによって相手方の靈を圧伏する意義があったと思はれる。

 

「もののふのみち」(支那から傳来してわが國の言葉となった「漢語」でいふと「武士道」)は、物部、大伴の二氏によって明確なる史實として表現せられた。

 

 なほ、「もののふ」を漢語で「武士」(ぶし)といふのは、折口信夫氏の説では、野に伏し山に伏して主君のために仕へる者であるからといふ

 

 もののふの道(武士道)とは、古代日本(古事記・萬葉時代)においては、天皇・朝廷に忠誠を尽しお護り申し上げる精神そのものである。それが原義である。日本武尊の御生涯を拝してもそれは明らかである。

 

もののふの道(武士道)とは、「尊皇心」「祖先を崇拝する心」「父母に對する孝の心」そして「名誉心(名を惜しむ心)」などがその内容となってゐる。名誉を重んずる心は、自己の一身を忠義・戀闕の對象(天皇・祖先・親・家)に捧げることに十分なる理由を与へた。

 

 かうした日本の傳統的倫理観念が、人並み優れて強い男子といふ武士(もののふ)に、節度・忍従・帰服の心を付与した。「武」によって立つ者に道徳を与へたのは尊皇精神を中核とする日本傳統倫理精神であった。

 

新渡戸稲造氏は、「仏教の与え得ざりしものを、神道が豊かに供給した。神道の教義によりて刻みこまれたる主君に對する忠誠、祖先に對する尊敬、ならびに親に對する孝行は、他のいかなる宗教によっても教えられなかったほどのものであって、これによって武士の傲慢なる性格に服従性が賦与せられた。」(『武士道』)と論じてをられる。

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千駄木庵日乗一月三十日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。書状執筆。原稿執筆。

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「天皇」といふ御稱号の意義

「天皇」といふ御稱号の字義は、「天」は天つ神のをられるところすなはち高天原である。「皇」は冠が架上に置かれている形の象形文字であり天の神をいふ。(加藤常賢・山田勝美両氏著『当用漢字字源辞典』)

 

津田左右吉氏は、「推古天皇時代にかういふ御稱號の用ゐられたことは確實であらう。これは此の天皇の丁卯の年に書かれた法隆寺金堂の藥師像の光背の銘に『池邊大宮治天下天皇』とあるからである。」「『天皇』といふ御稱号がやはりシナの成語を採ったものであることは、おのづから推知せられる。さうしてそれは、多分、神仙説もしくは道教に關係ある書物から来たのであらう」「支那に於ける天皇の稱呼は、帝王としての意義を裏面には含みながら、宗教的觀念が主になってゐるのであるが、それは恰もよく、上代人の思想に於いて政治的君主の地位に宗教的由来があり、その意味で神とも呼ばれ、そこから天つ神の御子孫として天から降られたといふことになってゐた、わが皇室の地位に適合するものであって、此の語の採られた主旨もそこにあったに違ひない」と論じてゐる。(『日本上代史の研究』)

 

肥後和男氏は、「『天皇』というのはもちろん中國語で、『三皇本紀』に『天地初めて立つ、天皇氏有り』と見え、天の支配者といった意味で、いわば最高の神格をさした名称であり、中國でも君主をば天子と称し、あえて天皇とはいわなかった。」「聖徳太子は…スメラミコトは天皇という新しい称号のもとに、絶対なる存在たらしめようとした。ここに、中國では天の支配者をさす『天皇』という大きな名を、スメラミコトの称号として採用することにふみきったものと思われる。」「聖徳太子等をして、そこまでふみきらせた歴史的根拠は…古くからの日神信仰にあったと考えられる。…日本民族は『ことば』にひとつの力を認める。それがいわゆる言霊の説であるが、スメラミコトが天皇という称号を用いることによって、その本質が一段と高められ、一種の神格的存在となった…。」「太子が隋との國交において対等の礼を用い、その國書に『東天皇つつしみて西皇帝に申す』といった用語をされたことは、日本を未開の外蕃とみなしてきた中國古来のゆきかたに正面から挑戦したもの…。」と論じてゐる。(『天皇と國のあゆみ』)

 

高森明勅氏は、「天皇号の成立は、シナ王朝を中心とする古代東アジア世界において、わが國が自尊独立の文明國家を目指すことを内外に闡明したもの」「天皇号成立の意義については、対外的には何ものにも従属しない國家の主体性と尊厳を表徴するものであって、同時に國内的には、君主大権の神聖な超越的権威と公的・普遍的統治の理念を堅持するものだったと言へるのである。」と論じてゐる。(「天皇号の濫觴」・『立正』誌皇紀二六五五年一月号)

 

「天皇」といふ御稱号は、「天の神」を指す言葉である。日本國の君主を『天皇』と申し上げるのは、天命の主体たる天つ神の地上的御顕現、言ひ換へると肉身をそなへた天つ神すなはち『現御神』『現人神』がわが國の君主であらせられるといふわが國の傳統的な「天皇信仰」に基づく御稱号である。

 

山崎闇斎を祖とする「垂加神道」の「異國には大君の上に天帝あり。敕命の上に上天の命あり。吾國の大君は、所謂天帝也。敕命は所謂天命と心得べし。假令へば天災ありて、大風洪水或は時疫流行して人民多く死亡に至ると雖も、一人も天を怨むる者なく、下民罪ある故に、天此災を降せりとして、反て身を省る、是常に天帝の清明なるを仰ぎ尊む故なり。」(玉木清英『藻盬草』)といふ「絶対尊皇思想」は、「天皇」といふ御稱号の意義と一致する。

 

わが國においては、神聖なる君主の御事を「天皇」と申し上げるのであり、成文憲法の規定によって天皇が君主となられるのではないのである。

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千駄木庵日乗一月二十九日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、明後日行うインタビューの準備、原稿執筆など。

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2018年1月28日 (日)

絶對尊皇精神について

 

尊皇精神とは、日本國の祭祀主であられ神聖なる君主であられる天皇への「かしこみの心」である。そしてそれは日本人の道義精神の根本である。

 

村岡典嗣氏は、「歴史日本が創造した道徳的價値の重要なものとしては、尊皇道と武士道との二つを、擧げ得る。尊皇道徳は太古に淵源し、我が國體の完成とともに、而してまたその根柢ともなって成就したものである…そは即ち、天皇に對し奉る絶對的忠誠の道徳であって…太古人がその素朴純眞な心に有した天皇即現人神の信念こそは、實にその淵源であった」と論じてゐる。(『日本思想史研究・第四』)

 

天皇に対する絶対忠誠の心は太古以来今日に至るまで継承されて来てゐる。『古事記』には次のやうなことが記されてゐる。

 

第二十三代・顕宗天皇はその父君市辺押磐(いちのべのおしは)皇子を殺したまふた雄略天皇をお怨みになり、その御霊に報復せんとされて御陵を毀損しやうとされ、弟君・意祁命(おけのみこと)にそれを命じられた。だが、意祁命は御陵の土を少し掘っただけであられた。天皇がその理由を尋ねられると意祁命は「大長谷の天皇(雄略天皇の御事)は、父の怨みにはあれども、還りてはわが従父(をぢ)にまし、また天の下治らしめしし天皇にますを、今単(ひとへ)に父の仇といふ志を取りて、天の下治らしめしし天皇の陵を悉に破壊りなば、後の人かならず誹謗(そし)りまつらむ」と奉答された。この意祁命のみ心に、天皇に対し奉り絶対的に従ひ奉る尊皇精神がよく表れてゐる。

 

本居宣長は、「から國にて、臣君を三度諌めて聽ざる時は去といひ、子父を三たびいさめて聽ざるときは泣てしたがふといへり、これは父のみに厚くして、君に薄き悪風俗也。…皇國の君は、神代より天地と共に動き給はぬ君にましまして、臣下たる者去べき道理もなく、まして背くべき道理もなければ、したがひ奉るより外なし。なほその君の御しわざ悪くましまして、従ふに忍びず思はば、楠主の如く、夜見の國へまかるより外はなきことと知べし、たとひ天地はくつがへるといふとも、君臣の義は違ふまじき道なり…然れば君あししといへ共、ひたふるに畏こみ敬ひて、従ひ奉るは一わたりは婦人の道に近きに似たれ共、永く君臣の義の敗るまじき正道にして、つひには其益広大なり。」(『葛花』)と論じてゐる。

 

天皇は現御神であらせられ絶対的に尊ぶべき御存在である。もしも、万が一、天皇の御心や御行動が、自分の考へや思想や理想と異なることがあっても、天皇陛下を批判する事は絶対にあってはならない。むしろ自らの祈りが足りないことを反省すべきである。天皇陛下が間違ったご命令を下されたり行動をされてゐるとたとへ思ったとしても、國民は勅命に反してはならずまして反対したり御退位を願ったりしてはならない、如何にしても従へない場合は楠正成の如く自ら死を選ぶべきであるといふのが、わが國の尊皇の道であり、勤皇の道であることを、本居宣長先生は教へられてゐるのである。

 

山崎闇斎(江戸初期の朱子學者、神道家。朱子學の純粋化・日本化に努め、門弟は数千人を数へた。また、神道を修め、垂加神道を創始し、後世の尊皇運動に大きな影響を与へた)を祖とする「垂加神道」は、「異國には大君の上に天帝あり。敕命の上に上天の命あり。吾國の大君は、所謂天帝也。敕命は所謂天命と心得べし。假令へば天災ありて、大風洪水或は時疫流行して人民多く死亡に至ると雖も、一人も天を怨むる者なく、下民罪ある故に、天此災を降せりとして、反て身を省る、是常に天帝の清明なるを仰ぎ尊む故なり。」(玉木清英『藻盬草』)と説いてゐる。

 

村岡典嗣氏はこの文章を、「(絶對尊皇道徳の・註)最も代表的なものを山崎闇斎を祖とする垂加神道の所説とする。曰く、日本の天皇は、支那に比すれば天子でなくて天そのものに當る。儒教の天がわが皇室である。儒教でいへば、大君の上に天命がある。勅令の上に天命がある。しかるに我國では、大君なる天皇は即ち天帝であり、勅命はやがて天命である。されば假に君不徳にましまして、無理を行はれるといふやうなことがあっても、日本では國民たるものは決してその爲に、天皇に背き奉り、また怨み奉るべきでないことは、恰かも天災がたまたまあったとて、ために支那に於いて、天帝に背き、また天帝を恨むべきではないとされると同様である。」と解釈し、「これまさしく、わが國民精神の中核を爲した絶対對尊皇思想である。」(『日本思想史研究・第四』)と論じてゐる。

 

二・二六事件に指導的立場で参加し処刑された村中孝次氏(元陸軍大尉)は獄中において「吾人は三月事件、十月事件などのごとき『クーデター』は國體破壊なることを強調し、諤々として今日まで諫論し来たれり。いやしくも兵力を用いて大権の発動を強要し奉るごとき結果を招来せば、至尊の尊厳、國體の権威をいかんせん、…吾人同志間には兵力をもって至尊を強要し奉らんとするがごとき不敵なる意図は極微といえどもあらず、純乎として純なる殉國の赤誠至情に駆られて、國體を冒す奸賊を誅戮せんとして蹶起せるものなり。」(獄中の遺書『丹心録』)と書き遺してゐる。

 

この精神こそが真の絶対尊皇精神である。わが國道義精神の基本は「清明心(きよらけくあきらけきこころ)」である。それは「まごころ」「正直」と言ひ換へられる。まごごろをつくし、清らかにして明るい心で、大君に仕へまつる精神が古来からのわが國の尊皇精神である。

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千駄木庵日乗一月二十八日

午前は、諸事。

午後は、今夜行う講演の準備。

午後六時より、春日の文京区民センターにて、『日本の心を学ぶ会』開催。林大悟氏が司会。渡邊昇氏が主催者挨拶。小生が「明治維新百五十年と国難打開」と題して講演。質疑応答、討論。

帰宅後は、原稿執筆。

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2018年1月27日 (土)

野中広務氏のご冥福を心より祈念申し上げます

野中広務氏が逝去されました。

 

私は、野中氏が権力の中枢にいた頃は、歴史観・対支那外交・拉致問題への対応、などで随分批判し攻撃もしました。しかし、率直に言って人間的には嫌いな人ではありませんでした。私の一方的な思い入れかも知れませんが、「野中氏は血も涙もある人間」と思っていました。そこが野中氏から「悪魔」と言われた人との違いかと思います。ご異論も大いにあるかと思いますがご容赦下さい。

 

野中広務氏のご冥福を心より祈念申し上げます。

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デニス・C・ブレア氏(元米国太平洋軍司令官 米国第3代国家情報長官)による講演内容

昨年十月三十日に開催された笹川平和財団主催「第3回サイバーセキュリティ月例セミナー」におけるデニス・C・ブレア氏(元米国太平洋軍司令官 米国第3代国家情報長官)による講演内容は次の通り。

 

「日本のセキュリティは脅威に見合う軍事的対応の立法化が進んでいない。情報共有についての連携が義務化されていない。多くの官庁企業の協力が必要。インフラ防護の調整と協力は企業の利害が一致していればうまくいく。官僚間のライバル意識が阻んでいる。

 

犯罪グループや北朝鮮が攻撃を仕掛けてくる。日本はサイバーセキュリティの専門家が不足している。アメリカよりも深刻。経産省・総務省・防衛省は訓練プログラムを持っている。担当職員を増している。世界第三位の経済大国日本においてはサイバーセキュリティ企業と利用者企業の適正な比率はない。強い部署を自社の中で持っているべし。

 

官民協力・法律と規制を作ることで國民をサイバー犯罪から守る。官は民の声を聞くべきだが、民間に決めさせてはならない。ⅠOT(注・Internet of Thingsの略で、『モノのインターネット』と訳される。パソコンやスマホなどの情報通信機器に限らず、すべての『モノ』がインターネットにつながることで、生活やビジネスが根底から変わるという)が最近の事例。インターネットに多くの製品をつないでいる。ハッカーによる攻撃の面積が拡大している。日本とドイツはIOTスタンダードを設定しようとしている。

 

日本における官民協力は発展途上。秘密主義的文化が日本は強いので官民協力が阻害されている。スキルを持った人材が不足。サイバー犯罪抑止の結果が出ていない。サイバー攻撃の数は増えている。検挙数は横ばい。日本においてはサイバー犯罪がしやすくなっている。ハッカーは脅威を感じていない。警察庁の持つ権限、セキュリティ組織の持つ権限が限られている。FBIは裁判所の許可があればコントローラーをハッキングすることが出来る。日本は権限を法執行機関に与えるべし。国民のプライバシーの権利を保護するためにもそれは必要。IGCT(国際刑事機構のサイバー捜査部門)の初代局長に日本の警察庁の官僚がなった。

 

サイバー保険は日本では大きなトピックにはなっていない。日本はこの数年サイバーセキュリティの能力は高まっている。技術者と経営幹部のコミュニケーションが大切。サイバー技術専門家と経営者の共通言語を作らねばならない。

 

日本のレガシーは質の高いモノづくりの長けた品物を売ること。知的財産の保護・インターネットのコントロールは、通常の外交とは異なる。どこの国の外交官も迷っている。アメリカの優位性はFBIや州警察で体験した人が企業の専門家になること。日本は才能の民間と官の回転ドアが無いので信頼関係が無い。態勢が整っていない。中小企業をサイバーセキュリティにどう巻き込むことが出来るかが問題。ハッカー侵入を防ぐシステムが大切。いずれにしても人材が不足している。何万人という専門家を集めねばならない。脅威の情報を収集すべし。

 

ハッキングは少人数で出来る。それほど経験も要らない。だから北朝鮮を過小評価してはいけない。北朝鮮・中国・ロシア在住の人に攻撃的存在がある。もっとも良いサイバー防衛は、ハッカーの立場に立って考えること。そして自分の防衛に組み込むこと。それが実効性が高い」。

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千駄木庵日乗一月二十七日

午前は、諸事。『政治文化情報』の発送作業・発送完了。購読者の皆様には週明けにお届けできると存じます。

午後は、親族と共に菩提寺に赴き、四宮家の墓所を掃苔、拝礼。ご冥福とご加護を祈る。

帰宅後は、明日行われる『日本の心を学ぶ会』おける講演準備、原稿執筆など。

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半藤一利氏の祖国を貶める歴史観は全く間違ってゐる

半藤一利氏は、平成二十七年六月九日号の『朝日新聞』で、記者の質問に答へて次のやうに語った。「満州事変にしろ、上海事変にしろ、日本のやったことは、不戦条約違反であり、明らかな國際法違反だった」「日本國内だけの理屈ならば、『自存自衛』かも知れないが、國際社會の一員としては通用しない。日本はやはり戦争責任國なのです」「戦後の婦人参政権などが加わった新選挙法による國民の選良が、徹底的に討議して、GHQ案に日本人の意思と気持ちをこめてどんどん筆を加えたものが憲法(『現行占領憲法』・注)です」に論じた。 

 

「満州事変」「上海事変」が当時の國際法に違反してゐたと言ふが、当時の國際社會において國際法に違反せずに対外戦略を實行した國はない。祖國日本のみを「違反した」と責め立てるのはあまりにも一方的な論議である。

 

半藤一利氏は「反戦」「反軍」の作家として永井荷風を評価し、『昭和史1926-1945』において度々永井荷風の『断腸亭日記』を引用して、当時の世相、軍及び政府、ナチスドイツを批判してゐる。

 

しかし、三月一日に満州國建國が行はれた昭和七年八月二十日の『断腸亭日記』には、「満州外交問題の記事誌面をうづむ。余窃に思ふに英國は世界到る處に領地を有す。然るに今日吾國が満洲占領の野心あるを喜ばざるは奇怪の至極といふべきなり。…畢竟強者の食たるに過ぎず。國家は國家として惡をなさざれば立つこと難く一個人は一個人として罪惡をなさざれば生存する事能はざるなり。之を思へば人生は悲しむべきものなり。天地間の生物は各其處を得て始めて安泰なり」と書かれてゐる。

 

永井荷風ですら当時の弱肉強食の世界情勢の中にあって、日本の自存自衛のための海外進出を止むを得ざることとしてゐたのである。

 

半藤氏はまた、「自存自衛」は「日本國内だけの理屈」と言ふが、日本にとって、「自存自衛」は、國が滅亡するか否か、國家民族の存亡をかけた大問題である。「國内だけ」などと言ふ言葉で片付けられる問題ではない。日本も「國際社會」の一員だったが、東亜侵略・植民地支配を行った欧米列強も言ふまでもなく「國際社會の一員」であった。日本のみが「國際社會の一員」として何処の國も守ってゐない「國際法」を遵守し國が滅びても良かったといふ理屈は全く成り立たない。

 

「占領憲法」の押しつけについても半藤氏は、「戦後の婦人参政権などが加わった新選挙法による國民の選良が、徹底的に討議した」などと言ってゐるが、戦争終了直後、國民の大多数が食ふや食はずの状態にあり、さらに海外にも未帰還同胞が多数ゐた。とても日本國民全体が憲法について真剣にそして徹底的に考へ論議する状況ではなかった。さうした時期に行はれた選挙、そしてその選挙で選ばれた議員が行った「討議」とそれに基づく「意思」が真の意味の「日本國民の自由に表明せられた意思」(『ポツダム宣言』)とすること到底できない。

 

半藤一利氏の好きな永井荷風は『断腸亭日乗』昭和二十二年五月三日の記述において「五月初三。雨。米人の作りし日本新憲法今日より實施の由、笑ふべし」と記されてゐる。

 

荷風は、『現行占領憲法』は「日本人の意思と気持ちをこめてどんどん筆を加えた憲法」即ち日本國民が自主的に作った憲法などとは全く思ってゐなかった。「占領憲法實施」を冷笑してゐたのだ。半藤一利氏の祖国を貶める歴史観は全く間違ってゐる。

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2018年1月26日 (金)

千駄木庵日乗一月二十六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、明後日「日本の心を学ぶ会」で行う講演の準備。

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後醍醐天皇の大御心と建武中興

覇道を排し皇道を根幹とした理想国家建設をめざした変革が建武中興であった。建武の中興について時代錯誤だアナクロニズムだといふ批判が喧しいが、決してさうではない。武家の軍事力・権力=覇道を排し、天皇・皇室の神聖権威=皇道を根幹とした理想国家建設をめざした一大変革が建武中興である。

 

また、「後醍醐天皇は宋学の影響を受け、支那の専制君主に倣って自らも日本国の専制君主にならうとした」「後醍醐天皇やその近臣らは支那への関心や朱子学(宋学)的な君臣名分論の影響を受けていたとされ、宋代の官制との比較などから、君主独裁政治を目指していた」といふ説がある。

 

しかし、後醍醐天皇が目指されたのは、単なる天皇権力の回復ではないし、天皇専制独裁政治の実現を目指されたのではない。摂関政治・院政・武家の専横を正され、上御一人日本天皇を唯一の君主と仰ぐ肇国以来の「一君萬民の國體の真姿回復」を目指されたのである。これが建武の中興において後醍醐天皇が目指された理想である。

 

後醍醐天皇は、臣下たる武家幕府が、皇位継承にまで介入して来るといふ異常事態を是正し、皇位継承は天皇のご意志によってのみ決せられるべきであるといふ國體の真姿回復につとめられた。

 

和辻哲郎氏は、「建武中興の事業は短期間で終わったが、その与えた影響は非常に大きかった。…建武中興が表現しているのは、武士勃興以前の時代の復活である。神話伝説の時代には、天皇尊崇や清明心の道徳が著しかった。…しかし鎌倉時代の倫理思想の主導音は、…武者の習いであり、…慈悲の道徳であった。建武中興は、この主導音を押えて、それ以前の伝統的なものを強く響かせはじめたのである。だからこのあと、武家の執権が再びはじまってからも、幕府の所在地が鎌倉から京都に移ったのみではない。文化の中心が武家的なものから公家的なものに移ったのである。…室町時代は日本のルネッサンスの時代であるということができる。…そのルネッサンスを開始したのは、建武中興の事業であった。」(『日本倫理思想史』)と論じておられる。

 

これはもっとも正統なる建武中興への評価であると思ふ。後醍醐天皇は「朕の新儀は未来の先例たるべし」と仰せになり、大胆な改革を実施せんとせられた。この言葉は単に、後醍醐天皇の定められた「新儀」を以て全ての「旧儀」に代へるといふものではない。旧儀についても、用いられるべきものとさうでないものとを弁別し、且つ、将来にわたって用いられるべき「先例」を、後醍醐天皇の大御心によって決定せられるといふことである。

 

そして後醍醐天皇の断行された建武中興は、公家のみならず武家や一般民衆からも大きな支持を得た変革であった。故に、各地に反幕府勢力が挙兵し、足利・千葉などの有力御家人から土豪・水軍・野伏などが変革の戦ひに参加したのである。「建武中興はいはゆる大覚寺統の政治権力専断を目指したアナクロニズムだ」などといふ批判は全く当らない。

 

後醍醐天皇は、武家による政治権力の壟断は否定せられたが、「武」を否定されたわけではない。

 

久保田収氏は次のごとくに論じてゐる。「文武二道が別々となって、そのために武家政治が実現したことにかんがみ、文武の道をつねに一つにしようとするのが、中興時の方針であった。武の精神を重視されたことは、元弘四年正月二十九日に『建武』と改元されたことからも明らかである。…文と併せて武を重んぜられたのであり、征夷大将軍任命についても、このことを顧慮せられたのであった。この方針は地方の要地に対する御子派遣という点にもみられる。」(『建武中興』)

 

後醍醐天皇が、護良親王を征夷大将軍・兵部卿に任じられたり、皇子を要地に派遣されたのは、天皇・朝廷が兵馬の大権を把握する正しいあり方を回復されたのである。

 

天皇を神聖君主と仰ぐ國體を回復し、古代日本の理想の世を回復することによって内憂外患を打開せんとした建武中興の意義は非常に大きい。

 

後醍醐天皇御製

 

さしてゆく 笠置の山を いでしより 天が下には かくれがもなし

 

都だに さびしかりしを 雲晴れぬ よしのの奥の さみだれのころ

 

ふしわびぬ 霜さむき夜の 床はあれて 袖にはげしき 山嵐のかぜ

 

霜の身を 草の枕に おきながら 風にはよもと たのむはかなさ

 

あだにちる 花を思ひの 種として この世にとめぬ 心なりけり

 

 

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千駄木庵日乗一月二十五日

午前は、諸事。

午後二時より、六本木ヒルズにて、島田裕巳氏にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

帰宅後は、原稿執筆、書状執筆、資料の整理など。

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萬葉古代史研究會

萬葉古代史研究會

 

四宮正貴が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

 

日時 二月十四日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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2018年1月25日 (木)

第八十回日本の心を学ぶ会

第八十回日本の心を学ぶ会

 

テーマ 明治維新の意義を考える

 

今年、平成30年は明治維新から150年という節目の年にあたります。

 

150年前の、慶応4314日(186846日)、京都御所・紫振殿において明治天皇と公家、諸侯が列席し新政府の基本方針を天神地祇の前で誓約いたしました。

 

この基本方針はのちに「五箇条の御誓文」と呼ばれ、明治維新の指導的精神として近代国家建設に受け継がれました。これまで明治維新とは欧米列強の圧倒的な脅威のなかで近代化を達成し国家の独立を守った国民的な物語として語られてきました。

 

しかしながら最近、従来の明治維新の評価に異議を唱える動きがあります。明治維新は単なる「薩長クーデター」であり維新の志士と呼ばれるものの実態はテロリストにすぎないとする歴史観が流布されています。

 

さらに、安倍首相が長州・山口県出身であることから政権批判の一環として明治維新をおとしめるかのような言説も少なくありません。

 

明治維新から150年の今年はさまざまな場所で明治維新について考えることが多くなると思われます。

 

天皇陛下の御譲位や憲法改正など今日の問題を考える上でも明治維新は重要な意味を持つと思われます。今年最初の勉強会では明治維新の意義について考えてみようと思います。

 

【日時】平成三十年一月二十八日 午後六時から
【場 所】文京区民センター 2-B会議室 
http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumin/shukai/kumincenter.html
住所:文京区本郷4-15-14都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、東京メトロ丸の内線【後楽園駅4B出口徒歩5分東京メトロ南北線「後楽園駅6番出口」徒歩5分、JR水道橋駅東口徒歩15分都バス(02・都02乙・上69・上60)春日駅徒歩2分

【講 演】国難打開と明治維新百五十年
【講師】 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所
【司会者】林大悟
【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)
【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

 

 

この告知文は主催者が作成しました。

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2018年1月24日 (水)

和歌はなぜ定型なのか

 

やまと歌の「五・七・五・七・七」といふ形は、まつりごと=祭祀に於いて自然に神ながらに整へられたといへる。これは「七・五調」に日本人の魂をゆさぶる何ものかがあるといふことである。

 

『萬葉集』の九十五%が、短歌(五・七・五・七・七)である。短歌形式を古代日本人は、自分たちの抒情の文藝形式として獲得した。『記紀』『萬葉』以来今日まで千数百年にわたって、短歌形式が日本人の生活の中に生きてきて断絶がなかったゐるといふ事実が非常に重要である。

 

それだけ、「五・七・五・七・七」の短歌形式には魅力があり、日本人の心を表現する形式として非常に適していたといふことになる。

 

和歌は、何ゆへ定型・韻律に則って歌はれるのか。それは日本人の生活が常にある一定の規則・リズムに則ってゐるからであらう。日本の四季は規則正しく変化する。したがって農業を基本としてきた我が国民の生活も規則正しいものとなってゐる。わが国においては四季の変化と農耕生活とが調和してをり、毎年一定の「型」が繰り返されてゐるといへる。規則正しい四季の変化と農耕を基本とする規則正しい生活が、定型詩である和歌が生んだといふことができる。

 

和歌は、人知のさかしらを超えて自然に生まれてくる『素直な心』(まごころ・もののあはれ)の表白であるから、規則正しい生活の中から、自然にある声調を生み、「五・七・五・七・七」の定型を生み出したのである。

 

田谷鋭氏は、短歌とは何かを論じて、「()短歌は日本古来からの定型詩で、その形式はわれわれに与えられたもの──民族の約束──として存在し、ほとんど黄金形式と言っていい完璧さを持っている。()短歌は意味と韻律の融合から成り立っていて、その持つ意味や韻律は無数の変化とその組み合わせから成り立っている」(『短歌とは』・「短歌」昭和五十六年一月号所収)と論じてゐる。

 

中河與一氏は、「大体ものに規格を与へるということは常に全体的意志があるのであって、三十一字を決定したといふこと自体に、古代人の聡明な民族的理由をわれわれは読まねばならぬのである。…それは初めから意図したものではなく、自然に民族の直感がさぐりあてたものといふべきである。かくて三十一字形式といふものは古代人の発明した実に見事な、芸術における全体的意図をもった形式となったのである。三十一字といふ一つの形式によることによって、民族を自然に結んだのであるが、その定着が何によってゐるかは誰にもわからない」 (『中河与一歌論集』)と論じてゐる。

 

阿部正路氏は、「『平家物語』にあらわれた長歌は、七・五調を基調とした短歌の影響を受けながら発生したものであろう…夭折者の無念の思いは、こうした歌によって、こんにちもなお人々の心を動かしてやまないのである。その心をさそうのが、五音あるいは七音を基調とする律文学だったのである。…(四註・それは)言葉の長さの組み合わせではなく《しらべ》の組み合わせなのであって、それゆえにこそ《歌》なのである。…現行の『日本国憲法』の第八十二条の条文…美事に、五・七・五・七・七の五句七音の短歌なのである。…きわめて散文的な憲法の条文に、五句三十一音の韻律がそのまま重なり合っているという事実。この事実こそが、日本の言葉の一特色を典型的に指し示しているということができる。…短歌は、日本人の精神の最深部に常に確固として存在しつづけており、決して日本人と切り離すことのできない文学であり、精神領域であることを知る」(『和歌文学発生史論』)と論じてゐる。

 

折口信夫氏は、「日本人のもっている文學といふものには、常に典型といふものがあり…日本では、型を重んじてゐる。…歌舞伎芝居の型を見ますと、型を守って今の役者がしてゐるといふのは、その型を創始した役者より劣っているといふことではない。…技術をなぞって來たために、そこに傑れた技術が生れて來た…日本の短歌と演劇とは一つに言へないほど非常な力量が撥揮せられた。…典型をなぞってゆくといふことによって、更に大きな文學が生れて來る。」(『與謝野寛論』)と論じてゐる。

 

「型」を大切にするのは日本人の特性である。歌舞伎などの演劇の世界をはじめとして茶道・歌道・書道などにおいて型の継承が、非常に大切なものとされる。武道もしかりである。「型」を継承することは、単に旧態依然としたものを墨守するといふのではなく、新しい創造をともなふのである。典型をなぞっていくことによって新たなる進歩発展があるといふところに和歌の面白さがある。

 

これは和歌のみならず学問においてもいへる。「学ぶ」の語源は「まねぶ」であるといふ。先達・師匠の真似をすることにが「学ぶ」の原点である。

 

正岡子規に、「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり」といふ歌がある。「花瓶にさしてある藤の花房が短いので、畳の上にとどかないでゐるなあ」といふ意味である。これは韻律を踏み定型になってゐるから文藝作品としての価値が生まれるのである。また、子規が死の床にあって詠んだ歌といふことだから感動を呼ぶのである。歌にはかういふ不思議さがある。

 

「自分の本当の心・素直な心・そのままのこころ・まごころ」は、わが国文学の基本的情緒とされる「もののあはれを知る心」と同意義と考へてよいと思ふ。見るものにつけて聞くものにつけて自分の心が感動することを「もののあはれ」といふ。それが「五・七・五・七・七」といふ形式で表白され、読んだ人・聞いた人の魂を動かすといふのが「やまとうた」である。

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千駄木庵日乗一月二十四日

午前は、諸事。

午後は、明日行うインタビューの準備。。

午後六時より、ホテルグランドアーク半蔵門にて開催された『呉竹会新年会』に出席。同志の方々と懇談。

帰宅後は、資料の整理。

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和歌の復興と維新

 

 

日本人の伝統精神を理解し継承するには、古代から現代に至るそれぞれの時代に生きた人々の心情・まごころに直結することが大切である。それは、古代から現代に至るまでの日本人のまごころを歌ひあげた『和歌』を読むことによって可能となる。

 

中河与一氏は「和歌が国風(四註・飛鳥・奈良・平安初期にかけての唐風文化に対して、平安中期から後期にかけてみられた日本回帰の文化活動の総称)と呼ばれて来たったことには深い理由がある…和歌こそその発想に根本於て、わが民族の生命と共にある…時代が進めば進むほど、古代と現代とを結ぶものとしての和歌の意味はむしろ重大になってくると考へられる。ヨーロッパでは叙事詩がまづ存在し、抒情詩がそれにつづいた。然し抒情詩こそ人間感情に最も直接的なものであり、日本人はその根本的なものから詩歌を始めた。それは情緒の表出、感情の爆発として特色をもち、人間感情を直接に訴へるものとしてのその形式を持続した。」(『中河与一歌論集』)と論じてゐる。

 

今日の日本は、文字通り内憂外患交々来るといった状況である。かうした状況にあって、我々の維新の情念を伝統的な文學によって訴へる「言靈のさきはへ」が今こそ必要なのである。和歌の復興が大切である。現代日本において和歌を詠む人は多いが、日本人の深層精神において継承して来ている民族の共同精神を表白し訴へるものとしての和歌を詠んでゐる人はとても少ない。

 

真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。

 

そもそも愛国心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言へば日本人の「道」であり「まごころ」である。したがって愛国心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。現代に生きる我々は古人の歌によってその志・まごころ・道を学ぶべきである。

 

今こそ危機を脱出する方途として、単に政治体制の革新のみではなく、国民精神の革新・日本の伝統精神の復興を期さなければならない。そしてその中核が和歌の復興なのである。

 

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千駄木庵日乗一月二十三日

午前は、諸事。

午後は、資料の整理。

午後六時より、千駄木にて、若き友人二氏と懇談。意見交換。

帰宅後はも、資料の整理、原稿執筆。

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2018年1月23日 (火)

日本人の海の神と山の神への信仰

 

 日本人の海の彼方への憧れは非常に強い。日本人はお淨めに塩を用いる。塩は海から取れる。海が清らかなところと信ずるがゆえである。清らかさ・明るさを好む日本人のロマン精神は「海」への憧れと一体であったのである。また陸地の穢れたものはすべて海に流せば淨まってしまうという信仰があった。海には伊耶那岐伊耶那美二神の御子神であられる「わたつみの神(綿津見神)」がおられるという信仰がある。この綿津見神は伊耶那岐命が筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊されました時になりませる神である。古来日本人は清潔さを好み、海は清めの場所であり、海の神は清めの神であると信じたのである。日本文学の起源と言われている「祝詞」にはこの海への憧れ・日本人の持っている「陸地の穢れたものはすべて海に流せば淨まってしまう」という信仰が歌われている

 

 『大祓詞』には「天下四方(あめのしたよも)の國には、罪と云ふ 罪は在らじと、…大海原に押し放つ事の如 く、遺(のこ)る罪は在らじと祓ひ給ひ清め給ふ事を、…瀬織津比(せおりつひめ)と云ふ神、大 海原に持ち出でなむ。如此(かく)持ち出で往() なば、荒鹽(あらしほ)の鹽の八百道(やほぢ) の、 八鹽道(やしほぢ)の鹽の八百會(やほあひ)に座() す、速開都比(はやあきつひめ) と云ふ神、持ち可 可(かか)(のみ)てむ…」と語られている。

 

 綿津見の神のおられるところが即ち綿津見の神の宮・龍宮である。綿津見の神は、日子穂穂出見の命が兄君から借りた釣針を失って苦しまれていた時に、お助けした神である。

 

 柿本人麿は

 

「海神(わたつみ)の 手に纒()き持てる 玉故(ゆえ)に 磯の浦廻(うらみ) に 潜(かづき)するかも」(海の神が手に巻いて持っている玉のために、それを得ようと岩礁のある浦のほとりで水に潜ることよ)。

 

と歌った。

 

これは譬喩歌で、親許で拘束され自由に恋愛できない娘を、海神が手に巻いている玉に譬え、困難を冒してその娘を得むとする作者自身を海に潜って玉を取ろうとする人に譬えたのである。

 

「うみ」は「生み」に通じ、創造・生産の本源世界である。常世とも妣の国とも言うところは海の彼方の神のいる国なのである。そこは、太平洋岸では日の昇る水平線の彼方であり、日本海岸では日の沈む水平線の彼方である。そこには浦島太郎が老いなかった永遠の国・龍宮世界があると信じたのである。

 

 日本人はまた、山を信仰の対象として来ている。これを山岳信仰という。三輪山信仰・富士山信仰・御嶽信仰・白山信仰等々日本各地に山への信仰が今日も根強く行われている。これは山そのものを御神体としているが、その山を階梯としてより高い天上の清らかな世界に憧れているのである。

 

大和にある天の香具山は高天原につながる山として仰がれている。天の香具山を歌った歌は数多いが、その代表的な歌が、次に掲げさせいただく持統天皇御製である。

 

「春過ぎて 夏来(きた)たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香具山」(春が過ぎて夏が来たのであろう。天の香具山には真っ白い衣が乾してあるなあ)

 

同じく大和の国の東側にある三輪山は、太陽の昇るところであるため、太陽信仰・天照大神信仰とつながり、三輪山のふもとに、伊勢に移られる前に天照大神が祭られたのである。ここから天の神、高天原の神への信仰が形成される。

 

三輪山を歌った歌は、額田王の

 

「三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ) あらなも隠さふべしや」(三輪山をどうしてあのように隠すのか。せめて雲だけでも情けががあってほしい。隠し続けることがあるべきだろうか、あってはならない)

 

が最も有名である。これは額田王が天智天皇に従って大和から近江に移る時に、大和地方の象徴とも言える神の山たる三輪山との別れを悲しんで歌った歌である。

 

 海の彼方の世界も、山の上の天の世界も清らかで明るい世界である。海の明るさ・清らかさ、太陽の明るさ・天空の清らかさを憧れたということは、日本人がその基本的な感覚として、清らかさ・明るさを好んだことが知られるのである。

 混迷せる現実の世界から脱却し、理想の国を建設せんとする変革運動もまた、日本人が伝統的に抱いてきた他界即ち理想国へのロマン精神にほかならない。大化改新・明治維新・明治維新は全て神武建国への回帰という理想とロマンのもとに断行された。今日我々の目ざす維新変革もまたそうであらねばならない。

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千駄木庵日乗一月二十二日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、書状執筆、原稿執筆、資料の整理。

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2018年1月22日 (月)

西部邁氏のご冥福を衷心よりお祈りさせていただきます

西部邁氏が亡くなられました。西部邁氏と初めてお会ひしたのは、平成二年二月二十三日に放送された『激論!日本の右翼と言論の自由と暴力』でご一緒した時です。もう二十八年前のことです。まさに光陰矢のごとしです。西部氏は、東京大学教授の職を投げ捨て、言論人として学者として在野にあって活躍して来られました。国会議員にならうなどといふ気もさらさらなかったに違ひありません。さういふ西部氏の姿勢に敬意を抱いてきました。

 

社会科学の専門用語が多く登場する西部氏の著書は私のやうに国文科出身の者にはなかなか難解です。しかし、一生懸命読むと、共感するところが多かったのです。

 

『伝統と革新』誌でインタビューさせていただいた時、「アメリカにも頼らない、中国にも擦り寄らないという人間たちだけが、天皇を語るに値する」「アメリカとソ連は『歴史を無視して社会を合理的に編成できると考えた』いわゆる『近代合理主義』を信奉するという意味で『似た者』同士であり、米ソの対立は実は『内ゲバ』であった」「おかしな憲法だと思ったなら無視すればいい」と論じてをられました。正論と思ひます。制定過程のみならずその理念内容も全く戦勝国の押しつけである「現行憲法」を無視することが自主性の回復であると思ひます。

 

西部氏は私より八歳年長ですから、一世代上といふ事になります。私には西部氏のやうな終戦体験が無いからか、西部氏ほど反米意識は強くはありません。しかし私は、自分が親米であるとは絶対思ってゐません。今日唯今の時点では、日米同盟は大事だと思ってゐます。西部邁氏が「アメリカにも頼らない、中国にも擦り寄らないという人間たちだけが、天皇を語るに値する」と言はれた通り、「対米自立」にしろ、「反中国」にしろ、日本の拠って立つ基盤の中核には、天皇・皇室の御存在があると考へます。

 

報道によると西部氏は、「結論から言うと、病院死を選びたくないと強く感じかつ考えている」と語ってをられたとのことです。私もこの十数年間、父母の介護、入院、そして逝去を経験し、長期にわたる入院、介護施設における生活そして病院死がいかに本人にとってつらいものであるかを実感しました。「延命とは延苦である」と医者から言われたこともあります。

 

西部邁氏のご冥福を衷心よりお祈りさせていただきます。

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千駄木庵日乗一月二十一日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、書状執筆、資料の整理、原稿執筆。

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2018年1月21日 (日)

水戸學の基本精神が記された『弘道館記』

 

水戸藩第九代藩主・徳川斉昭(烈公・寛政十二<一八〇〇>~萬延元年<一八六〇>)は、七代藩主・治紀の第三子。幕末の國難の時期に積極果敢な言動を示して國政に大きな影響を与へた人物である。自ら先頭に立って藩政改革を断行した。また尊皇攘夷の基本的立場から幕政改革を求め続けた。ために、六十三歳でその生涯を終へるまで前後三回幕府から処罰を受けた。

 

藩政改革に燃えた徳川斉昭は、天保十二年(一八四一)に弘道館を創立した。弘道館が創設されやうとしてゐた時期は、丁度阿片戦争が勃発し、イギリスの東亜侵略がますます活発化してゐた。支那が侵されれば次はわが國である。水戸における尊皇攘夷の精神の興起はまさにさうした危機的状況における國家防衛精神の勃興であった。

 

弘道館は単なる藩校ではなく、内憂外患交々来たるといった情勢にあった幕末のわが國の危機を救ふための人材を養成する目的で作られた。儒學・諸武芸のみならず、天文、地理、数學から医學まで教授した当時としては稀に見る壮大な規模の総合教育施設である。斉昭の學校建設の基本精神は、「神儒一致、文武合併」(神道と儒教の融合、文と武を共に學ぶ)であった。

 

 幕末には、水戸藩だけでなく維新回天の大事業に貢献した薩摩藩・長州藩、そして後に徳川幕府のために奮闘した會津藩もかうした教育振興策が講じられた。

 

 徳川斉昭が天保三年(一八三八)三月、弘道館の建學の精神と綱領とを記したのが『弘道館記』である。『館記』の草案については、天保七年(一八三六)に斉昭から藤田東湖に下問があり、斉昭・東湖・會澤正志斎・青山延于(のぶゆき・水戸藩士、儒學者)・佐藤一斎(陽明學者)の意見が入れられてゐるといふ。

 

 藤田東湖は、文化三年(一八〇六)三月十六日に生まれ、安政二年(一八五五)に亡くなった。藤田幽谷の次男。東湖の号は屋敷の東に千波湖を望見したことによる。『正気の歌』『回天詩史』『壬辰封事』『弘道館記述義』の著者。父の學問を継承発展させ、徳川斉昭の改革の事業を補佐する一方、熱烈な尊皇攘夷論で勤皇家を主導、安政の大地震で圧死した。道義によって鍛へられた日本人の純正な在り方を示した不朽の英傑である。

 

 東湖から正志斎に宛てた書状に、「神州の一大文字にも相成るべき儀、東藩(水戸藩のこと)學術の眼目に仕り」と記されてゐるやうに、『館記』の草案は、水戸の學問の眼目ばかりでなく、わが國の一大文字にしたいといふ志で書かれた。

 

 『弘道館記』には、「弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経(天地の間にそなはっている大道)にして、生民の須由も離るべからざるものなり。弘道の館は、何のために設けたるや。…上古、神聖(記紀の神々)極(窮極の標準)を立て統を垂れたまひ……宝祚(天皇の御位)これを以て無窮、國體、これを以て尊厳、蒼生(國民)、これを以て安寧、蕃夷戎狄、之を以て率服(服従)す。……中世以降、…皇化陵夷(天皇の徳化が次第に衰退する)し、禍乱相次ぎ、大道の世に明らかならざるや、蓋しまた久し。わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。……義公(徳川光圀)…儒教を崇び、倫を明らかにし、名を正し、以て國家の藩屏(朝廷の守護となること、またその人)たり。……臣士たる者は、豈に斯道を推し弘め、先徳を発揚する所以を思はざるべけんや、これすなはち館の、為に設けられし所以なり。……わが國中の士民、夙夜解(おこた)らず(朝早くから夜遅くまで勉励する)、斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の教へ(儒教)を資(と)り、忠孝二无(な)く(忠と孝とは根本において一つであることを知る)、……神を敬ひ儒を崇び、偏黨あるなく(一方にかたよらず)、衆思(多くの人々の考へ)を集め郡力(多くの力)を宣べ、以て國家無窮の恩に報いなば、すなはち豈にただに祖宗(徳川頼房・光圀)の志、墜ちざるのみならんや、神皇(神々と御歴代の天皇)在天の靈も、またまさに降鑒(天より人間界のことを見る)したまはんとす」と記されてゐる。

 

 『館記』の精神は要するに、日本の神々を敬ひ、天皇を尊び、祖先を崇める精神である。そして、神道と儒教を尊ぶ姿勢である。この精神によって藩士を教育し、國家的危機打開の為に役立たせやうとしたのである。『館記』には水戸學の精神が端的に表現されてゐる。

 

荒川久壽男氏は「烈公の新政は…尊皇と民政と國防の三大眼目に集中する。これは言葉をかえれば藤田東湖が、日本の政治の最大焦点を、敬神・愛民・尚武の三点に要約したところでもあった。しかしながら、この三事三点を貫き、その根底をなすものは正しい學問と教育でなければならぬ。正しい學問と教育があってはじめて尊皇にも目覚め、愛國の意識も育ち、人間尊重の政治も行われる。ここに烈公は水戸藩の學問教育の振興を目ざし、水府大學ともいうべき弘道館の建設を計画した。」(『維新前夜』)と論じてゐる。

 

「水戸學」は支那思想を重んじたが、無批判に支那思想を受け入れたのではない。『弘道館記』に「神州の道を奉じ、西土の教え(儒教)を資(と)り」とある通り、神州の道を第一とし、儒教は第二と考へた。しかしながら、外来思想・文化・文明を一切排斥するといふ考へ方ではなかった。

 

藤田東湖はその著『常陸帯』で、「皇朝の風俗萬國にすぐれて貴しと雖も、文字を初め萬事の開けぬるは漢土の勝れぬる所なり。其勝れたる所を取りて皇朝の助とせん事何の耻ることや有るべき、銃砲は西北の夷狄より渡りぬるものなれども、之を取りて用る時は夷狄を防ぐべき良器なり。漢土の教を取りて用る事これに同じと、我君常に宣ふは御卓見と申すべし」と論じた。

 

日本は、古来、外来文化・文明を包摂してきた。そのことが日本文化・文明をより洗練せしめ高度にものにしてきた。しかし、その根底には、日本傳統精神を厳然として固守する根本姿勢があった。

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2018年1月20日 (土)

千駄木庵日乗一月二十日

午前は、諸事。

午後二時より、内幸町の日本プレンセンターにて、『アジア問題懇話会』開催。澤英武氏が司会。フリージャーナリストの福島香織氏(元産経新聞中国総局特派員)が、「二〇一八年、中台関係はどうなる」と題して講演。質疑応答。

帰宅後は、『政治文化情報』発送準備、書状執筆、原稿執筆。

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2018年1月19日 (金)

三島由紀夫氏の武士道と散華の美

 

 『美しい死』(昭和四二年八月)という文章で三島由紀夫氏は、「武士道の理想は美しく死ぬことであった」ということを前提にして、「ところが、現代日本の困難な状況は、美しく生きるのもむづかしければ、美しく死ぬこともむづかしいといふところにある。武士的理想が途絶えた今では、金を目あてでない生き方をしてゐる人間はみなバカかトンチキになり、金が人生の至上價値になり、又、死に方も、無意味な交通事故死でなければ、もっとも往生際の悪い病氣である癌で死ぬまで待つほかはない」「武士が人に尊敬されたのは、少なくとも武士には、いさぎよい美しい死に方が可能だと考へられたからである。……死を怖れず、死を美しいものとするのは、商人ではない」と論じている。

 

 さらに、『維新の若者』という文章では、「今年こそ、立派な、さはやかな、日本人らしい『維新の若者』が陸續と姿を現はす年になるだらうと信じてゐる。日本がこのままではいけないことは明らかで、戰後二十三年の垢がたまりにたまって、經濟的繁榮のかげに精神的ゴミためが累積してしまった。われわれ壮年も若者に伍して、何ものをも怖れず、歩一歩、新らしい日本の建設へと踏み出すべき年が來たのである。」(昭和四四年一月)と論じている。

 

 残念ながら、新しい日本はまだまだ建設されていない。それどころか三島氏が嫌悪した「現代日本の困難な状況」はますますひどくなっている。

 

 三島由紀夫氏にとって、「武」と「死」とは同義語であったのだろう。三島氏がドナルド・キーン氏に宛てた遺書で、「ずっと以前から、小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました」と書いた。今はこの「文士」という言葉すら死語になってしまった。「文士」という言葉には、文を書くことに最高の価値を求め、他を顧みない男児というほどの意味が含まれる。「士」とは立派な男子という意味である。三島氏は「文士」といふ言葉を使った。

 

 三島由紀夫氏は、言葉の真の意味において「高貴さ」を顕示しつつ死ぬことに憧れていた。ここでいう「高貴さ」とは、死を恐れない武士の高貴さことである。文士ではなく武士として死にたいというのは戦時下における三島氏の武士(国のために身を捧げる軍人)への憧れから来ていると思う。

 

 三島氏の作品と人生における文化意志は、文武両道・散華の美であった。三島氏は、「『文武両道』とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであった。……本当の文武両道が成り立つのは死の瞬間しかないだろう」(『太陽と鉄』)と論じている。

 

 三島氏は自己の実人生でそれを実現した。三島由紀夫氏が生涯の理想としたのは、文武両道の実現であった。それは三島氏にとって最高の美の実現であり、日本の傳統的文化意志の継承であり、創造であった。

 

 日本民族の文化意志において、切腹はまさに美の実現であった。『忠臣蔵』の浅野内匠頭や大石蔵之助等四十七士の切腹を、江戸時代以来のわが國の庶民大衆が讃美し続けているように、切腹とは、日本人にとって『美』であった。それは武における美の実現の最高の形態と言っていい。

 

 詩歌などの『文』はいうまでもなく『美』を求める。切腹や特攻隊の自爆などに見える散華の美とは、『文』が求めてやまない『美』の極致である。三島氏はその美の極致を少年期より求め続け、割腹自決によって実現したと言える。

 

 愛するものへいのちを捧げることを、清水文雄氏は、「『死』をもてみやびする」と表現した。相聞の心を戀闕にかえれば三島氏の自決も、「死をもてみやびしたのだ」と、岡保生氏は言う。               

 

 柿本人麿歌集の「戀するに死(しに)するものにあらませばわが身は千(ち)たび死にかへらまし」(萬葉集・二三九〇)

 

という歌も、相聞の心を戀闕心に変えれば、まさに「七生報国」の楠公精神を歌った歌である。

 

 切腹とは名誉ある死である。しかも実に克己心が必要な苦しい死である。これは、現代日本の自殺の横行とは全く別次元の話である。絶望と苦しさからの逃避のための自殺ではない。

 

 戦後の『平和と民主主義』の時代は、三島氏の理想とした美を全く否定してきた。できるだけ平和のうちに長生きし、苦しまないで死ぬことを希求する。戦後の政治も文化も、散華の美とは全く対極にある。責任を取って自決するなどということはあってはならないしあるべきではない。そして、人生に行き詰まり、絶望して死を選ぶ人は多いが、おのれの美學のために死ぬなどということはない。

 

 「大君の御為・國の為に、責任を取って自決するなどということ、七度生きて国に報いるなどという精神はあってはならないしあるべきではない」というのが、今日の考え方である。

 

 大正十四年(一九二五)一月生まれの三島氏は、終戦の時二十歳であった。三島氏は、戦争で死ぬことができなかったという思い、死に遅れたという悔恨(かいこん)の思いを持ち続けた。感受性の強い三島氏にとって、十代後半における祖國への献身・天皇のために身を捧げることの美しさへの感動を源泉の感情として生涯持ち続けたと推測される。戦後日本が虚妄と偽善と醜悪さと道義の頽廃に満たされ続けたから、それはより激しいものとなったであろう。三島氏はそういう意味で、戦後を否定し拒否した。それは「檄文」の冒頭に書かれている通りである。

 

 戦後日本の救済・革命のために、日本の文化的同一性と連続性の体現者たる神聖君主・日本天皇への回帰を求めた。一切の頽廃を清め、虚妄を打破するために、道義の回復を求めた。それは三島由紀夫氏の少年時代の源泉の感情への回帰であった。祖國への献身、天皇への捨身である。

                                   

 三島由紀夫氏の自決の決意は、檄文の「共に立って義のために共に死ぬのだ。……日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の國、日本だ」に示されている。それは十代の三島氏が信じたものであったに違いない。三島氏が「鼻をつまんで通りすぎた」だけの戦後社会以前の源泉の感情が死を決意させたと言える。

 

 三島氏は芥川龍之介の自殺にふれて、「文學者の自殺を認めない」と断言した。三島氏の自決は自殺ではない。いわんや文學者の自殺ではない。

 

 三島由紀夫氏は、死に遅れたというよりも生き残った人々が生活し構築した戦後社会を醜悪なるものとして嫌悪したのであろう。そして國のため天皇の御為に身を捧げた青年たちの散華の美を憧憬しその人たちの後を追ったのであろう。

 

 しかし、自決後四十八年以上を経過して、時代の激動は三島氏の自決と叫びと訴えを忘却した。その結果が今日の混迷である。今こそ、霊となった三島氏の復活が求められる。  

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千駄木庵日乗一月十九日

午前は、諸事。

午後は、書状執筆など。

午後六時、団子坂下にて、永年の同志と懇談。意見交換。

帰宅後は、『政治文化情報』発送準備、原稿執筆。

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2018年1月18日 (木)

加藤達也産経新聞編集委員(前ソウル支局長)による「日韓関係の現状と将来」と題する講演内容

昨年十月二十一日午後二時よりTAP高田馬場にて開催された『共済セミナー』における加藤達也産経新聞編集委員(前ソウル支局長)による「日韓関係の現状と将来」と題する講演内容は次の通り。

 

「何が朴槿恵の逆鱗に触れたのか分からなかったが、後で明らかになった。社長・社員・読者・読者以外の方も心を痛めて下さり感謝の気持ちで一杯です。取材・人間関係を通じて朴槿恵政権との無益の五百日戦争に突入。この体験で韓国を見る目が養われた。二〇一四年四月セオウル号沈没事故の時、六時間朴大統領が何をしているか分からない時間があったことが問題になり、国会・メディアで取り上げられた。権力は市民社会をあらゆるやり方で監視する。『記事を取り下げて謝れば日本に帰す』と言われた。私は納得できなかった。隣国韓国が自由民主の価値を共有しているかを新聞記者として確認したかった。二〇一四年八月五日に大統領府から電話がかかった。

 

私は『朝鮮日報』の記事を引用し、私の取材、国会審議状況を記事にした。その私の記事が左派系メディアに取り上げられた。それが国内で大きく広がった。大統領府がこれに反応し、『民事刑事で追及する』と言われた。『産経』が大統領を攻撃したというすり替えが行われた。『産経』をとっちめようという意識が働いた。事実や法よりも国民の情緒によって決まる。『論より証拠』よりも『証拠より論』。国民情緒→法→証拠事実という関係性。ガラの良くない保守派団体にデモをやらせる。二〇一四年八月十三日に検察に呼ばれた。『見てくれの社会だから見てくれを良くすれば良い』と女子社員に言われた。新しいスーツ・ネクタイ・ワイシャツを着て行った。検察官とはまず最初に服の値段の攻防があった。

 

韓国は忖度の社会。新聞社は五人の『加藤救援チーム』・サポート体制を作ってくれた。社からは『撤収しても良い』と言われたが、最後まで戦うと言った。理不尽な譲歩はしないことにした。六人の弁護士のチームが作られた。法廷で傍聴人がプラカードを持って騒いでも裁判長は制止しない。韓国人の忠誠心はあまり質の高いものではない。裁判で分かったことは告発の根拠が無かったこと。加藤の記事は気分が悪かったから告発したということ。裁判所の前で自動車の通行を妨害するパフォーマンスをやる。ガス抜き。朴槿恵裁判も同じ。拘留期限を延長し、手錠腰縄姿を何回も写させ報道させる。人民裁判。新しい大統領が『私が王様だ』と宣言。報復・見せしめをする。クリーニング屋などの市民から激励された。『朴槿恵に負けるな』と言われた。駐車場から法廷まで案内をしてくれた裁判所の職員が『無罪祈願をしていた』と私に言った。素朴な正義感。

 

押し付けられた反日に懐疑的な人もいる。しかし多くの人々には日本統治時代の悪い神話が染みついている。これに触れなければ友好的に付き合える。何でも取引材料にする。人質を取る。文在寅政権で不毛の歴史戰爭に日本は巻き込まれる。親日派を清算する。文在寅は徴用工問題という反日スローガンで当選。竹島に専属軍を置く。軍事拠点にした。韓国内は反日政策に誰も異を唱えない。大統領秘書室長は大変な金日成シンパ。日本は、北方領土(ロシア)・尖閣(中国)・拉致(北朝鮮)・竹島(韓国)という四つの國に包囲されている。十九世紀の世界観を持っている四つの國に取り巻かれている。『ニューヨークタイムズ』は憎むべき相手ではないので『ニューヨークタイムズ』の記者が私と同じことをしても裁判にかけられない」。

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千駄木庵日乗一月十八日

午前は、諸事。

午後は、『政治文化情報』原稿脱稿、送付。

午後六時より、水道橋にて、永年の同志と懇談。意見交換。

帰宅後は、資料の整理など。

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歴史に学ぶということの意義を全く知らない野田聖子

報道によると野田聖子総務相は十五日、金沢市での講演で、明治維新から今年で150年となることに触れ、「明治維新をなぞっても次の日本は描けない。私たちはここで決別しないといけない」と述べ、「現在の高齢化率は明治維新の頃を大幅に上回っており、社会の姿が全く違う」と指摘し、「あの時は良かったということで、明治維新をもう一度というわけにはいかない」と語ったという。また、「明治は一握りの強い人が国を支える社会だった」とする一方で、「人が抱えている不自由を取り除くことが、これからの日本にとって極めて重要。弱者をなくしていく時代をつくっていかなければいけない」と強調したという。

 

まともに論評するのも馬鹿馬鹿しい主張である。しかし、野田聖子は総務大臣という現職の閣僚である。しかも、次の自民党総裁選に出馬すると息巻いている人だ。

 

「明治維新をなぞっても次の日本は描けない」とはどういう意味か。「なぞる」とは「すでに書かれている詩や文をそのまま真似する」という意味と辞書に書かれている。明治維新百五十年の意義を確認し学ぶとは、「そのまま真似する」ということではない。

 

幕末明治初期と同じように内憂外患交々来たるといった今日の危機的状況を打開するために、德川幕藩体制を解体し、鎖国体制から脱却し、士農工商の身分差別を廃止して、内憂外患を打開して祖国の独立を護り抜き、近代化を為し遂げて祖国を発展させた明治維新の歴史を振り返り、今日に於いて生かすべきところは生かすということである。

 

「明治維新をもう一度というわけにはいかない」などと言っているが、明治維新によって、德川幕藩体制も存在せず、鎖国体制もなくなり、士農工商の身分差別のなくなった今日において、「明治維新をもう一度」などということがあろうはずがない。

 

天皇を君主と仰ぐ日本國體を正しく開顕してこそ、日本國の主体性の確立が行われ、外國の侵略を撃退し祖國の独立を維持することができるのである。それが明治維新の基本理念である「尊皇攘夷」である。「尊皇攘夷」という基本理念は今日においても極めて大切である。というよりも「尊皇攘夷」は今日における国家変革即ち維新の基本理念であらねばならない。

 

明治維新は単なる政治変革ではなかった。日本の伝統への回帰を目指したのである。そして日本の道統への回帰がそのまま現状の変革になった。「維新とは復古即革新である」とはそういう意味である。

 

日本が、大胆に外来文化・文明を受容しながらも、傳統文化を喪失することなく日本の独自性を護ることが出来た強靭性を持っていたのは、天皇・皇室のご存在があったからである。近代化・文明開化においても、天皇・皇室が、積極的に外来文化・文明の受容を推進するご意志を示された。

 

明治天皇は明治維新の基本理念が示された『五箇条の御誓文』(明治元年三月十四日)において、

 

「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」

智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」

 

と示された。

 

さらに、御製において、

 

「よきをとりあしきをすてゝ外國におとらぬ國となすよしもがな」

「世の中の人におくれをとりぬべしすゝまむときに進まざりせば」

 

と詠まれた。

 

明治天皇は「皇基ヲ振起スヘシ」「あしきをすてて」と示されている。日本近代化にあたって、大いに欧米をはじめとして外國文化・文明を取り入れ學ぶとしても、それは無原則に取り入れるのでない。あくまでも、わが國の傳統に合致せずわが國の國柄を破壊する要素のある悪しき事はこれを排除するのである。

 

つまり、日本文化の独自性・傳統を維持しつつ外来文化文明を包摂して来たのである。「和魂漢才」「和魂洋才」はわが國の古代からの文化道統である。

 

日本傳統精神に回帰しつつ、徹底した大変革を行ったのが、明治維新であった。まさに「復古即革新」「保守即変革」である。未曽有の危機にある現代においてこそ、この理念が継承されるべきである。

「明治維新から決別する」とは何事か!。明治維新以来百五周年の光輝あるわが国の歴史を否定し侮辱する妄論である。

 

野田聖子という人は全く歴史を学ぶ事の意義を知らないのである。冒頭にも書いたが、こういう人の言うことにまともに反論し批判するのも馬鹿馬鹿しい限りであるが敢て書かせてもらった。ともかくこんな人を総理にしてはならないとつくづく思った。

 

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2018年1月17日 (水)

千駄木庵日乗一月十七日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆。

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『政治文化情報』平成三十年一月号

四宮政治文化研究所発行・『政治文化情報』平成三十年一月号のお知らせ

 

『政治文化情報』は、昭和五十九年創刊以来、小生の論考、時局問題などに関する主張、活動状況の報告、各方面から得た様々な情報などを掲載し、それなりの評価を得て来たと自負致しております。
多くの心有る皆様方のご購読をお願い申し上げます。
見本誌御希望の方はご遠慮なくメールでお申し込み下さい。

メールアドレス m-shinomiya@max.hi-ho.ne.jp

購読料
年間 12000
半年 6000

平成二十九年十二月号(平成二十九年十月二十五日発行)の内容

 

〈皇都の一隅より〉

日本共産党は自由を圧殺する政党である

 

共産党を「リベラル政党」とするのは全く間違ってゐる

 

立憲民主党が本当にリベラルなら共産・社民を厳しく批判すべきである

 

共産主義と自由は理念的に無縁である

共産主義体制とは、プロレタリア独裁=共産党独裁=党最高指導者専制といふ政治である

 

自由を奪ひ日本の文化を破壊する独裁専制主義政党に対しては徹底して不寛容でなければならない

千駄木庵日乗

 

橋下富太郎麗澤大学助教「日本人としてのあり方・道徳の指標は天皇・皇室である。新渡戸稲造の意思を継いでゆくべし。武士道を素養として身につけさせるには新渡戸の『武士道』を学ばせることが大事」

 

武貞英士拓殖大学大学院教授「脱北者が亡命政府の主席に金正男を据えようとした。見せしめにカメラの前で殺された」

 

猪子恒大本東京宣教センター次長「天地間の森羅万象は、何れも皆神の藝術的産物である。この大藝術者、即ち造物主の内面的真態に触れ、神と共に悦楽し、神と共に生き、神と共に動かむとするのが、真の宗教でなければならない」

 

久保文明東京財団上席研究員・東京大学法学部教授「アメリカ大統領は行政部の中では強い権限を持っているが、議會に対してはそうではない」

 

梅川健首都大学東京都市教養学部法学系教授「メキシコとの國境の壁の建設には金がかかる。金の措置をするのは議會」

 

千駄木庵主人「いまの支那人は孔子の教えに反することばかりやっている。『論語読みの論知らず』という言葉あるが、『論語』を全く読んでいないのである。讀んでいても書いてあることと逆のことをしているのだ。こういうことを書くのも『ヘイトスピーチ』になるのだろうか?」

 

この頃詠みし歌

 

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この頃詠みし歌

おほつもごり美味し美味しと蕎麦食す

 

多くの人が参り来にける籠神社我もはるばると参り来にけり

 

海岸をひた走りくバスに乗り丹後の國で新春を祝ふ

 

限りなく打ち寄せる波この浜の彼方に常世のあるを信ぜん

 

浦島太郎の祭れる宮の宮司殿講談師の如く滔々と語る

 

初詣の賑はひの中に我もゐて新しき年を生きゆかんとす

 

車窓より見ゆる満月どこまでもわが乗る列車について来るなり 

 

煌々と照る満月を車窓より眺めつつ行く旅は楽しき

 

日々をたゞ自らを励まし生きてゆく吾を守らせ天地の神

 

友の声健やかにしも聞こえきてあな嬉しもよ新春の電話

 

晴れわたる新春の空 日の本の永久の平和を祝す如くに

 

久方の天に照り映える満月の光わが身にしんしんと降る

 

満月の隅無き光に照らされてベランダに立つ時のすがしさ

 

雨止みて空は明るく晴れわたりあな嬉しくも洗濯物干す

 

西の空に日の沈む見ゆ眩しくも朱色に光るその姿はや

 

渡辺はま子逝きて幾歳(いくとせ)今日も聴くサンフランシスコのチャイナタウンを

 

一日を忙しなく過ごせし夜にしも一人もの書くことの楽しさ

 

お互ひにボタンはあると脅し合ふ國の狭間にわが国はある

 

久しぶりに来たりし店のつけめんを美味し美味しと食す喜び

 

裸木となりたる銀杏春を待つ

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千駄木庵日乗一月十六日

午前は、諸事。

 

午後は、資料の整理。

 

午後五時より、虎ノ門の笹川平和財団ビルにて、笹川平和財団主催「1/16 知的対話:日印パートナーシップの深化が生み出す可能性と役割」開催。田中伸男笹川平和財団会長が挨拶。ハリンダ―・コーリー氏(センテニアルグループインターナショナル会長)、モンテック・アフルワリア氏(元インド中央計画委員会の副委員長)、コメント ラジャット・ナグ氏(元アジア開発銀行 事務総局長)が講演。質疑応答

 

帰宅後は、原稿執筆など。

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2018年1月16日 (火)

オピニオン雑誌『傳統と革新』 第二十八号

 

オピニオン雑誌『傳統と革新』 第二十八号

 

平成三十年一月 たちばな出版発行(四宮正貴責任編集)

 

特集 「明治維新百五十年―國難打開と日本の近代

 

巻頭言

 

 半藤一利氏の吉田松陰批判について                     四宮正貴

 

「インタビュー」

 

明治維新から百五十年の今だからこそ、日本國憲法の改正を     ケント・ギルバート 

 

明治維新と日本の近代化の中で、変わることのない「日本の核」を大切にしたい  山田宏 

 

「佐藤優の視点」

 

明治維新百五十年―尊皇攘夷思想の現代的意義 

 

ナショナリズムと明治維新                          佐藤優

 

明治維新と現在の連続性で、維新百五十年を捉えることが必要である       西村眞悟

 

わが幕末小史                                中村彰彦

 

二十一世紀における「尊皇攘夷」思想―島崎藤村『夜明け前』再読       富岡幸一郎明治維新の本質にある精神                          宮崎正弘

 

「聞き書き」

 

日本は、明治維新と近代化を経て後も、國家の組織原理は変わらず連続している

 

猪瀬直樹

 

明治維新から百五十年。皇室の存在を踏まえて、今の日本が学ぶべきこと     古賀俊昭

 

「論文」

 

新しい日本の政治の幕開けを目指す『希望の党』それはまだスタート地点に立ったばかり

 

上杉隆

 

明治維新の輝かしい栄光と日本人の心                     永江太郎

 

明治維新百五十年 尊王攘夷思想の現代的意義                 小林興起

 

明治維新の現代的意義                            岡田幹彦

 

明治維新で大切な歴史観とは何か                       山村明義

 

明治改元百五十年 明治維新とは果たして何であったか             岡村青

 

明治維新から百五十年~國の独立を守った日本人の気概~            木村三浩

 

「連載」

 

『やまと歌の心』                            千駄木庵主人

 

「石垣島便り」22  自然と共生する島人と受け継がれてゆく神事       中尾秀一

 

我が体験的維新運動史 第27回 「維新」の夢を追い求めて          犬塚博英

 

編集後記

 

定価 本体価格1000円+税。 168頁

 

168〒167―0053 東京都杉並区西荻南二-二〇-九 たちばな出版ビル

 

 たちばな出版  ☎代表03―5941―2341 FAX5941―2348

 

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神道とは祭祀を基本とし、國民の生活と共に継承されてきた信仰である

 

日本傳統信仰を神道といふ。神道とは、日本民族生成以来の民族信仰である。そして日本民族の形成する共同体と共に継承されてきた信仰である。神道は日本民族および日本國と一体の信仰である。日本の神々への信仰を基本とし、太古より行はれ続けてゐる神々への祭祀を基本行事とする。そして祭祀共同体國家日本の最高の祭祀主が天皇であらせられる。日本國民の生活の中に生まれ生活と共に継承されてきた「祭り」を基本とする信仰が神道であると言って良いと思ふ。

 

葦津珍彦氏は、次のやうに論じてを等れる。

「神道とは、日本民族に固有の精神であり、文化でもあるが、それを精緻に理論的に分析すれば、それは多用な宗教的精神信条をふくんでゐる。そこに日本國固有のものとしての共通性もあるが、相異なる特殊の多様性の存在をも否定しえない。それを総称して、『惟神の大道』といふのであらうが、その主流、源泉を形成したものとして全國に鎮座するところの神社がある。」

「神道とは、一人の天才の教祖の教義に源流する仏教やキリスト教とは異なってゐる。それは、数千年の日本民族大衆の精神生活の中で、自然成長的に育成されて来た民族固有の精神の総称である。そこには複雑にして多様な精神が、ふくまれてゐる。それは多くの祖神や郷土の自然神への信仰もあり、水野練太郎(四宮註・昭和初期の内務官僚)のいふやうに異國渡来文化の日本的土着化的影響もある。それを、すべて教義化しようとしても、特定一宗教の一教會『一教団』として統一し得るものではない。古来いくたのニュアンスの異なる神道流派を生み出し、明治維新後においても、各流派の神道説が相対決したのも当然である。…強ひて宗教か非宗教かを論ずるとすれば、各流各派の日本固有の宗教をふくむものであって、特定の一宗教として限定すべきでないといふのが、公正なのであらう」(『國家神道とは何だったのか』)。

 

神道は共同体信仰であるから、日本の天皇中心の國體と一体である。また、日本人の心の奥深く、あるいは意識の深層に脈々と流れ、何か事が起るとそれに応じて表面の意識に働きかけ、行動にまで駆り立てる精神が神道精神である。國民道徳・政治・法律・芸術・文化の根底にあるものである。

 

「神道」といふ言葉自体、わが國に仏教や儒教が傳来した後にそれと区別するために生まれてきたのである。『日本書紀』の用明天皇の巻並びに孝徳天皇の巻に見えるのが最も古い「神道」といふ言葉の用例である。神道は、教祖はゐない。また、独善的な教条・思想体系・神學大系はない。したがって独善的教条の布教活動は行はない。

 

明治維新後、政府は、近代における國家建設のために、神道を國民精神の基盤にしようとした。しかし、政府権力が特定の宗教を援助するといふ批判を避け、政教分離の原則、信教の自由の原則を守るために、「神社神道は宗教ではないから、國民個人の信仰とは相矛盾しない」といふことを強調しなければならなかった。つまり明治以後の「國家神道」とは、神社神道から宗教性を除去したものとなった。

 

たしかに神社神道は、教祖がをり、独善的な教条・思想体系・神學大系を持ち、布教活動を行ふ一般の教団宗教とは異なる。したがって「神道非宗教論」が、「神道は教団宗教ではない」「神道は一般宗教とは次元を異にする宗教である」といふ意味なら正しい。しかし神道が「宗教ではない」といふのは誤りである。

 

神社は、國家の功労のあった人を記念する無宗教の施設ではない。さうした考へは、今日問題になっている無宗教の戦没者慰靈施設と同じである。偉人・賢人を顕彰するのみの儀礼行為およびその施設が神社神道なのではない。神道の祭りは、本居宣長のいふ「尋常ならず、すぐれた徳のありて、可畏しこきもの」を神として祭るのである。祭祀は宗教行為であり信仰的行事である。

 

宗教とは、神といふ根源的な大いなる存在との一体観(神道の祭祀はまさに神人合一の行事である)によって共同体および個人の安穏を得ることである。「宗教性」とは、神靈を信ずることである。神靈を除去した神道そして神社といふものはあり得ない。日本國中の神社に祀られている天地の神々を信仰し祭祀する宗教が神道であり、その祭祀主が天皇であらせられる。

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千駄木庵日乗一月十五日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、資料の整理、原稿執筆など。

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2018年1月15日 (月)

慶野義雄平成國際大学教授による「憲法改正への現実的対応ーもう一つの道」と題する報告内容

昨年十月十四日に開催された『憲法懇話会』における慶野義雄平成國際大学教授による「憲法改正への現実的対応ーもう一つの道」と題する報告内容は次の通り。

 

「『加憲論』より九条二項を削除する『減憲論』の方が良い。私は、第九条全面削除論。『芦田修正』は将来軍備を持つためだったというのはとんでもない間違い。『交戦権』を持たない自衛隊に『戦力』は無い。だから『二項削除』は当たり前。安倍氏は二項をそのままにして三項を加えるとした。戦力の不保持と交戦権の否認を定める第二項と自衛隊の保有を明記する新條項は水と油。自民党は平成二十四年の党議決定で一項を残して二項を削除するとした。

 

憲法第九条二項の『交戦権』とは何か。戦争する権利。国際法上は戦時国際法の権利。欠落しているのは国の最高法規を論ずるのに必要な主権論、国家哲学、国防論。政治腐敗の前に理念の腐敗が起こる。最初に腐敗したのは憲法理念の腐敗。そして見えやすい腐敗が起こる。安倍氏は戦後レジームからの脱却と言ったが、『慰安婦問題』の決着・『村山談話』の継承の二つは戦後レジームの固定化。北方領土も固定化、憲法も固定化。

 

何故憲法学者が自衛隊を憲法違反と考えるのか。どの条項に違反すると考えるのか。言うまでもなく九条一項二項である。九条を廃棄することが唯一の解決。『帝国憲法』には軍保有は明記していない。間接的規定があるだけ。自衛隊を憲法に規定しなくても主権国家であることさえ確認すれば何ら問題ない。九条さえ廃棄すれば、自衛隊保持を明記しなくても、自衛隊の現状維持には何の問題もない。『加憲』ではなく『減憲』」。

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千駄木庵日乗一月十四日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆、資料の整理など。

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2018年1月14日 (日)

皇室会議について

昨年十二月一日に宮内庁で開かれた皇室会議において、安倍総理は、常陸宮同妃両殿下よりも上座に座っていた。安倍氏が「議長」だということからであろうが、臣下が皇族よりも上座に座るなどということがあっていいはずがない。かかる席順にした内閣・宮内庁の考え方は間違っている。尊皇精神は、日本国民の道義精神の基本である。また権力の頂点に立つ政治家が正しく保持していなければならない精神である。席順を正さなかった安倍総理にも猛省を促す。

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2018年1月13日 (土)

田中達浩氏(富士通システム統合研究所 安全保障研究所 主任研究員 元通信学校長兼久里浜駐屯地司令、元陸将補)に「サイバー抑止について」と題する講演内容

昨年十月十三日に開催された笹川平和財団主催『第二回サイバーセキュリティ月例セミナー』における田中達浩氏(富士通システム統合研究所 安全保障研究所 主任研究員 元通信学校長兼久里浜駐屯地司令、元陸将補)に「サイバー抑止について」と題する講演内容は次の通り。

 

「サイバー攻撃は圧倒的に有利。抑止は不可能と言われている。証拠は残らない。金もかからない。オバマは二〇一六年五月に広島で『科学の革命には倫理的革命も必要』と言った。サイバーセキュリティは悪意ある攻撃を排除するだけでなく、国家安全保障の観点から抑止しなければならない。サイバー兵器は核兵器のようにはカウントできない。物理的にシステムそのものを攻撃してくる。心理的インパクトも狙ってくる。重要インフラの破壊は心理的にも物理的にも一番インパクトが強い。国防省のシステム妨害もインパクトが強い。大規模金融のシステム妨害もある。攻撃者が圧倒的に有利なので抑止効果が低い。報復抑止=攻撃者に攻撃の成果に見合わないコストを負わせる。心理的インパクトと物理的インパクトの相乗効果。報復する能力、意志、世論の支援、同盟国友好国の支援、この四つの要素を使って相手に不安を与え、攻撃を躊躇もしくは停止させる。

 

ハイブリット戰爭は、国際法事態なのか国内法事態なのかあいまい。全てをインターネット、サイバー空間に依存している。情報戦、心理戦、サイバー戦、EW戦(電子戦)がわが国周辺でも行われている。国際法で自衛権を行使するのか、国内法で取り締まるのか判断できない。中国ロシアのような総合力を持っている國が攻撃して来る場合、通常兵器では勝てない。非国家主体のテロリストは同時多発テロの指令にサイバー空間を使う。資金調達にサイバー空間を使う。

 

『国連憲章』二条四項で武力による威嚇・武力行使は禁止されている。『国連憲章』五十一条によってサイバー攻撃は自衛権行使としてあり得る。『重大被害を及ぼすサイバー攻撃を受けた場合物理的報復をする』とアメリカは宣言した。原発の破壊、大規模ダムの破壊、航空機へのサイバー攻撃に対して物理的報復をすると宣言。

 

サイバー攻撃のグレーゾーン。国家がやっているサイバー攻撃なのだが、武力攻撃相当と認定できない場合はどうするか。国際法で対処するのか、国内法で対処するのか。拒否力型抑止と報復型抑止とがある。反撃能力を確実に作る。サイバー攻撃発信点をエネルギー兵器による攻撃。通信衛星システムへの攻撃。情勢緊迫の過程で直接武力衝突をさせないためのサイバーの示威行動が必要になってくる。サイバー軍を軍の中に定義として確認する。

 

ロシアは色々な所を攻撃しているのに国家がやっていることではないと強弁。レリジエント(注・回復力のある)国家全体としてサイバーフィジカル(注・物理的)システムの安全確保。グレーゾーンにおける対抗措置の準備と合法化。自衛権の行使にどんな手段を使うのか。国内法による司法行政の対応。情報力の強化。予知・予見能力の強化。

 

小さな情報を集めてまとめてみると大きな目的が見える。日本はソフトな国際的枠組みは得意。国家の総合力で抑止する総合安全保障戦略の主たる部分を占めて良い。日本の原発は基本的には安全だが、その安全性を脅かすことを考えている人がいる。アナログからデジタルへの変換の時に何かをやられると問題。規制しすぎるとインターネットの利便性が失われる。その逆もまた真なり。日本は、技術力は高いが攻撃力は弱い。基本的にやらねばならないことをきっちりやるべし。セキュリティの強度を標準化する。人権と安全性の強制力の問題。基本的なことをしっかり決めて行く」。

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千駄木庵日乗一月十三日

午前は、諸事。

午後二時より、千駄木の坂下会館にて会合。

帰宅後はも原稿執筆・資料の整理など。

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日本精神・日本主義について

 

日本精神とは、天皇仰慕の心・天神地祇崇拝の精神(祖先と自然の霊を尊ぶ心)・父母兄弟を尊ぶ心である。そこから明朗心・清明心・武の心・慈しみの心・むすびの心・神人合一(すべてに神を観る心)・天皇仰慕の心・まつりの心などの倫理精神が生まれる。それは古代日本の稲作生活から生まれた。

 

日本精神を常に実践されているお方が祭祀主・日本天皇である。日本の伝統精神・生活・文化の基本・核は天皇の祭祀である。

 

和辻哲郎氏は、「大和魂と同じく、個々の日本人に宿るところの何らかの形而上的な実体を指す…或いは、漠然と気魄、気概といふ如きものを指すのかもしれない」論じている。

 

安岡正篤氏は「日本精神そのものは、日本として真に日本たらしめてゐるあるもの、これなくば日本及び日本人が、存立できないものであって、斯くの如きものは、概念的に説明できるものでない。冷暖自知(註・悟りが他人から教えられるものではなく、自分で会得するものであることにたとえる)する外はない」と論じている。

 

村岡典嗣氏は「日本精神はその本来の丹き心、又は正直の徹することに於いて、苟(いやし)くも人類の創造した一切の価値を摂取し、動かして、新たな文化を建設し、以て自己を実現し得る」と論じている。

 

日本精神・民族精神とは天皇を中心とする國體より発生し継承されてきた国民精神ということが出来る。天地生成・神武建国・八紘為宇の精神がその根底にある。

 

そういう精神を根幹として日本国をそして世界を変革しようとする行動的な主義が日本主義ということが出来る。それは自然に祖先から継承され生活の中に息づいている国を愛する心・郷土を思う心よりも戦闘的行動的である。

 

日本精神を実践し行動し実現する「主義」を日本主義という。一貫不変不動の日本精神を覚醒し、日本精神をその時代において実現せんとする主張であり政策であり主義である。日本主義とは、日本精神から噴出してきたところの現代日本を政治・経済・社会的に変革しようとする一つの行動原理と言い得る。

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千駄木庵日乗一月十二日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2018年1月12日 (金)

大和魂と武士道

 

 戦後日本は、「平和と民主主義」「人権尊重」「生命尊重」「個の尊重」を最高の価値として押し戴いた。「平和と民主主義」は、國のために戦うという強者の思想を否定し、武力は放棄する、軍隊は持たない、國家の独立・主権・領土・平和・歴史・傳統が侵略的意図を持った外國から蹂躙されても、「戦争は無い方が良い、人命尊重だ」と言って、戦うことを忌避する弱者の思想である。

 

 國家を守ることは、國民の道義精神の要である。國防と道義は不離一體の関係にある。國を守る使命、言い換えれば、兵役の義務・國防の義務がない國民は、真の國民とはいえない。運命共同體であるところの國家を生命を賭けて守る使命感・義務観念があってこそ、真の國民である。

 

 現代日本人の中には、崇高なる道義精神である「國家を生命を賭けて守る使命感・義務観念」を喪失し、利己主義・利益至上主義に陥り、自分さえよければ他人はどうなってもいいという考え方に陥ってい人がいる。

 

 外國人参政権付与も、國民としての義務に「兵役の義務」がきちんと憲法に書かれていないから起こる問題である。税金さえ納めていれば國民であるというまさに利益至上主義的考え方が、「定住外國人も税金を納めているから参政権を付与すべきだ」という考えを生むのである。      

 

 われわれ神洲清潔の民は、強者の立場をとらなければならない。「一人立つ」の精神がなければならない。眞の独立自尊の精神がなければならない。「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の精神を払拭し、祓い清めなければならない。そして、もののふの心・大和魂=日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さを回復しなければならない。須佐之男命・日本武尊そして防人以来の武士道精神・もののふの心に回帰しなければならない      。 

 

 李登輝氏は次の如くにいう。「まことに残念なことには、一九四五年(昭和に十年)以降の日本においては、……『大和魂』や『武士道』といった、日本・日本人特有の指導理念や道徳規範が、根底から否定され、足蹴にされ続けてきたのです。……いま日本を震撼させつつある學校の荒廃や少年非行、凶悪犯罪の横行、…などこれからの國家の存亡にもかかわりかねないさまざまなネガティヴな現象も、『過去を否定する』日本人の自虐的価値観と決して無縁ではない、……『日本および日本人の醇風美俗』や『敷島の大和心』、もっと単刀直入に言えば『武士道』について声を大にして大覚醒を呼びかけ、この書を世に問わねばならなかったのです。」(『「武士道」解題』)と。

 

 「武士道」とは、字義的には武士が守るべき道を意味する。中世以後発生した武士階級の間に発達した道徳律すなわち道徳的原理の規範のことといわれている。規範ではあるが、聖書やコーランや論語のように特定の人物によって書かれた教義書はない。

 

 武士道は、忠誠・名誉・尚武・勇気などを重んずる。その内容を詳しく言えば、(一)、忠孝を第一とし、(二)、廉恥(心が清らかで、名を惜しみ恥を知る心がつよいこと)を重んじ、(三)、義勇に励み、(四)、狂暴を挫いて孤弱を扶け、(五)、自己の責務を果たすということという。一言にして言えば、何に臨んで死を畏れず、一命を賭して君に仕えることである。

 

 和辻哲郎氏は、武士道の内容について、「(注・武士の)献身の道徳の中核とは…利己主義の克服、無我の実現である。…享楽を欲する自我の没却、主君への残りなき献身、それが武士たちにとっての三昧境であり、従ってそれ自身に絶対的価値を持つものであった。…『武者の習い』の確信が無我の実現にある。」(『日本倫理思想史』)と論じている。

 

 無我の心とは大和魂・そのままの心・もののあはれを感じる心と通じる。合理的な思考や判断以前の素直なる心=大和魂が武士道の奥底にある。武士道とは本来すめらみことに対する無我の献身であった。しかし、中世に至って力の強い者が弱い者を倒して獲得する地位である武士団の棟梁に対する忠誠という「私的」なものになってしまった。そこから覇道が生まれる。

 

 武士道は中世に起こったものではない。また、儒教や仏教から発したものでもない。記紀・萬葉の歌を見ても明らかな如く、日本傳統的な中核精神(神道)から発した國及びすめらみことに対する忠誠と名誉を重んじ恥を知る心が根幹である。

 

 倉前盛通氏は、「肝心の生死の際の覚悟のほどは、合理的な儒教論とは全く縁のないエモーショナルなものによっていた。“もののあはれ”というか“日本的死生観”というか、混沌の中からもえいでて結ばれいのちを得たものが、解(ほど)けてふたたび混沌の中に隠れていくという生死の見定めは、儒教でも仏教でもなかった。」「武士の生死の覚悟は禅によって定まるものではない。もちろん、論理の虚構を排する禅の哲學は、『さかしらに言挙げせず』の傳統的自然観に結びつきやすかったこともあろう。しかし『今はこれまで』の意志決定は、涅槃や達磨という形而上學的で普遍的な法概念によって把えられるものではなかったであろう。原始の混沌がいまに生きている日本の精神風土、古代の神々の息吹きが残っている風土であるからこそ、論理の枠組みから外れた情動の激しい発露として、武士の死に方が生じてきたのである。…武士道が仏教から生じたものものならば、なぜ禅の盛んであった宋に武士道が生じなかったのであろうか。」(『艶の発想』)と論じている。

 

 大和魂・もののあはれ・日本的死生観が日本武士道の根底にあったのである。ゆえに、日本の武士の祖は、須佐之男命であり倭建命であり神武天皇であらせられる。

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千駄木庵日乗一月十一日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2018年1月11日 (木)

維新=日本的変革の根本精神

 

「天の下 清くはらひて 上古(いにしへ)の 御まつりごとに 復(かへ)るよろこべ」

 

橘曙覧(江戸末期の歌人・国学者。越前の人)の歌である。

 

清明心(きよらけくあきらけき心)が日本民族の伝統的道義精神である。現状の穢れを祓ひ清め、神代のままの清く麗しい日本を回復することを喜び希求した歌である。

 

維新すなはち復古即革新の精神をうたひあげてゐる。この歌の心が維新=日本的変革の根本精神であると思ふ。

 

維新とは、「今即神代」「高天原を地上へ」の實現である。それは、「常世」への憧れの心と一体である。混迷せる現実の世界から祓ひ清め、清浄なる国を建設せんとする変革運動もまた、日本人が伝統的に抱いてきた他界即ち理想国への憧憬の精神にほかならない。

 

大化改新・明治維新・明治維新は、全て「今を神代へ」「神武建国への回帰」といふ理想のもとに断行された。今日我々の目ざす維新変革もまたさうであらねばならない。

 

 現代日本の汚れを祓ひ清め、正しき國の在り方・日本人としての正しき姿を取り戻すことが維新である。

 

「神話」には時間を超えた永遠の価値がある。日本民族の傳統的思想精神の結晶である「神話」への回帰こそが、現代の混迷を打開する方途である。

 

天皇中心の祭祀國家の理想に近づく努力をし続けることが、闘争戦争絶え間無き現實社會を改善する方途である。道義國家・人倫國家・祭祀國家としての日本への回帰こそが、道義的に生きる共同體を建設する方途である。

 

 日本は傳統と変革が共存し同一なのである。だから維新を<復古即革新>と言ふ。復古とは、時間的過去、過ぎ去った昔に帰ることではない。久遠の今、天地生成、天孫降臨、神武肇國に回帰することである。

 

今日においてこそ、尊皇攘夷の維新が断行されなければならない。復古(尊皇)即革新(攘夷)を實現しなければならない。

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千駄木庵日乗一月十日

午前は、諸事。

午後は、原稿執筆。

五戸六時半より、駒込地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。小生が、大伴坂上郎女なとの歌を講義。

終了後、出席者の方々と懇談。

帰宅後も原稿執筆。

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2018年1月10日 (水)

「剣魂歌心」がわが國の武人の伝統

劒太刀(つるぎたち) いよよ研()ぐべし 古(いにしへ)ゆ 清(さや)けく負ひて 來にしその名ぞ   

                          

 『萬葉集』に収められた大伴家持の歌である。「劒太刀をいよいよ研ぐべきだ。昔から清らかに背負って来た(大伴氏といふ)その名なのだぞ」といふほどの意。

 

「いよよ研ぐべし」は、大伴氏は武門の家柄であるから剣を研ぐのと同じやうに大伴氏の名も常に磨いて朽ちさせないやうにすべきだといふ意がある。「族に喩す歌」の結論のやうにことが歌はれてゐる。

 

「研ぐべし」「負ひて來にしその名ぞ」といふやうに極めて断定的な強い表現になってゐるところに家持の毅然たる態度と意志がある。

 

 須佐之男命・日本武尊以来、日本のもののふ・ますらをは、常に剣・太刀を持ち「やまとうた」を詠む伝統がある。武門の名門の棟梁たる大伴家持もその典型である。

 

 「剣魂歌心」とは日本のもののふのあるべき姿を言った言葉であって、剣を持つ者の魂と歌を詠む者の心は一つであるといふほどの意である。剣を持つ者は歌を詠まねばならないし、歌を詠む者は剣を持たねばならないと言ってもよいであらう。

 

 この「剣魂歌心」の元祖的御存在が、須佐之男命であらせられる。そしてその次が景行天皇の皇子・日本武尊であらせられる。

 

 天照大神の御弟君であらせられる須佐之男命は、出雲の國で八俣の大蛇を退治されて、稲田姫をお助けになり、お二人が結ばれて共にお住まひになる宮を造られた時、

 

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を

 

 といふ歌を詠まれた。「おびただしい雲が湧く。出で立つ雲の幾重もの垣。妻ぐるみ中に籠めるやうに幾重もの垣を造る。ああその八重垣よ」といふほどの意であるが、この歌は和歌の発祥といはれてゐる。

 

須佐之男命は猛々しい武人であらせられると共に、わが國の伝統文芸である和歌の元祖的御存在でもあらせられるのである。

 

日本武尊は、御父君・景行天皇の御命令で東夷の反乱を水火の難を冒して平定し給ひ、その御東征の帰途、尾張で結ばれた美夜受姫(みやずひめ)のもとに、草薙の剣を置いて来る。そして、伊服岐山(いぶきやま)の神を平定されようとするのだが、剣を置いてきたことが命の運命を悲劇にする。そして、能煩野(のぼの・今日の三重県鈴鹿郡)で病となられ薨じられる時、

                      

 孃子(をとめ)の 床の辺()に 吾が置きし つるぎの大刀 その大刀はや

   

 といふ歌を詠まれた。「乙女の床のそばに私の置いてきた太刀、あの太刀よ」といふほどの意。その草薙の剣を美夜受姫は永く祭られる。その神社が熱田神宮である。

 

 日本武尊のこの御歌について、萩原朔太郎氏は、「ホーマー的ヒロイックな叙事詩(英雄詩)の情操と、ハイネ的スヰートな叙情詩(恋愛詩)の詩操と、二つの對蹠的な詩情が、一つに結合融和して現はれてゐる。そしてこの一つの精神こそ、所謂『戰にも強く戀に持つ良い』天孫大和民族の原質的な民族性で、奈良朝以後に於ける日本武士道の本源となってゐる。」(朔太郎遺稿)と論じている。

 

保田與重郎氏は、「武人としてのその名顕な日本武尊の辞世にむしろ耐へがたい至情を味ふのである。わが神典期の最後の第一人者、この薄命の武人、光栄の詩人に於ては、完全に神典の自然な神人同一意識と、古典の血統意識とが混沌してゐた。」(戴冠詩人の御一人者)と論じてゐる。   

                   

 須佐之男命も日本武尊もわが國の武人の典型であられると共に、わが國の詩人の典型であらせられた。まさしく「剣魂歌心」がわが國の伝統なのである。そしてその心は皇室によって継承されてきたのである。大伴家持もこのやうなわが國の武人・詩人の伝統を継承してこの長歌と短歌を詠んだのである。

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千駄木庵日乗一月九日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、資料検索整理、明日行われる『萬葉古代史研究会』における講義の準備。

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2018年1月 9日 (火)

世界に誇るべき日本伝統信仰の素晴らしさ

 

 

「神」は、本居宣長が説いている通り、人知では計り知れない靈妙なる存在である。日本人は古代より祭祀や祈りの対象とされるかしこき存在を「神(かみ)」と言った。

 

本居宣長は、日本に神々を「人はさらにも云はず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其餘(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云うなり(すぐれたるとは、尊きこと善きこと功(いさを)しきことなどの、優れるたるのみを云に非ず、悪(あし)きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり…)(『古事記傳』)と定義してゐる。

 

 日本の自然の神々は、近年はやりの言葉で言へば、想定の範囲以上の激しい力を発揮する畏怖すべき生命であり靈であるといふことである。無限の可能性を持つと言ひ換へてもいい。その無限の可能性は、人間に恩恵をもたらすばかりではなく、時に災ひをももらたすと古代日本人は信じた。

 

『古事記』の「身禊」の条には、「悪(あら)ぶる神の音なひ、狭蠅(ばへ)なす皆満ち、萬の物の妖(わざはひ)悉に発(おこ)りき」と記され、「天の岩戸」の条には、「高天の原皆暗く、葦原の中つ國悉に闇し。これに因りて、常夜往く。萬の神の声(おとなひ)は、さ蠅(ばへ)なす満ち、萬の妖(わざはひ)悉に発(おこ)りき」と記されてゐる。

 

自然の中に精靈が生きてゐるといふ信仰である。日本民族には、自然を敬ひ、愛すると共に、自然を畏れる素直な心があった。「萬の神の声(おとなひ)は、さ蠅(ばへ)なす満ち」は、文學的には擬人的表現と言はれるが、古代日本人は、嵐の音も、草木の音も、海の音も、素直に「神の声」と信じたのである。

 

近代以後、科學技術の進歩発展によって、人間生活が快適になると共に、自然を神・仏・精靈として拝み、愛し、畏れる心が希薄になってしまった。自然を征服しようとか、自然を造り替えようなどといふ文字通り神をも恐れぬ考へ方を捨てて、自然を愛し、自然の中に神仏の命を見る心を回復しなければならない。つまり、神々を祭る心の回復が大切である。「草木がものをいふ」古代日本の信仰精神に回帰しなければならない。荒ぶる神も祭祀によって鎮めることができるのである。

 

折口信夫氏は、「我々の古文獻に殘った文學は、しゞまの時代の俤を傳へて居る。我々の國の文學藝術は、最初神と精靈との對立の間から出發した。…神の威力ある語が、精靈の力を壓服することを信じたからである。…神代の物語として,語部(かたりべ)の傳へた詞章には、威力ある大神隱れ給ふ時、木草・岩石に到るまで、恣に發言した。さうして到る處に其聲の群り充ちたこと、譬へば五月蠅(さばへ)の様であったと言ふ。而も亦威力ある大神の御子、此國に來臨あると、今まで喚きちらした聲がぴったりと封じられてしまったとある。神威を以て妖異(およづれ)の發言を封じたのである。」(「日本文學における一つの象徴」)と論じ、『六月(みなづき)の晦(つごもり)の大祓』の「荒ぶる神等をば神問(かむと)はしに問はしたまひ、神掃(はら)ひに掃ひたまひて、語問ひし磐ね樹立(こだち)、草の片葉(かきは)も語止(ことや)めて、天(あめ)の磐座(いはくら)放れ、天の八重雲をいつの千別(ちわ)きに千別きて、天降(あまくだ)し依さしまつりき」といふ一節を引用してゐる。

 

日本民族は、自然に刃向ひ対決し、自然を破壊すると、自然から災ひを受けること体験から學んだ。自然を畏敬し、自然に順応して生活することが大切であることを知った。自然を畏敬し、自然に順応するといふことは、自然の神、自然の精靈たちを畏れるだけではなく、祭祀によって神や精靈たちを祓ひ清め鎮めたのである。

 

日本傳統信仰は、天皇の祭祀と神社の祭祀を通して、今もなほ継承されてゐる。のみならず、現實に天皇及び御皇室の自然の命を慈しみたまふ御精神と御行動そして神社の鎮守の森が、自然破壊と人心の荒廃を食ひ止める大きな力となってゐる。

 

科學技術が進歩し物質文明が豊かになってゐる今日においても、日本には古代信仰・民族信仰が脈々と生きてゐる。伊勢の皇大神宮をはじめとした全國各地の神社で毎日のようにお祭りが行はれてゐる。のみならず日本傳統信仰の祭り主であらせられる天皇は多くのみ祭りを厳修され、國家の平安・國民の幸福・五穀の豊饒を神に祈り続けられてゐる。そしてその祭り主たる日本天皇は日本國家の君主であらせられる。これが世界に誇るべき日本國體の素晴らしさである。

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千駄木庵日乗一月八日

午前は諸事。

午後からは在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2018年1月 8日 (月)

日本伝統精神の英知を取り戻さねばならない

萬葉歌人の柿本人麿にしても近世の俳人松尾芭蕉にしても、彼らの偉大なる思想精神は、詩歌によって表現されている。このことについて保田與重郎氏は、「芭蕉は…自ら感得した詩人の思想を、思想の言葉で語ることはしていない。これは芭蕉のみでなく、わが國の思想の深さを描いた文章の常である。…最も深いものを、日本の思想として語った人々が、我國では詩人であった。…日本の道は、思想としてかういふ形に現れるものだからである。」(野ざらしの旅)と論じておられる。

 

 古代日本精神を今日まで文献的に伝えているものは『古事記』『日本書紀』『萬葉集』である。これらの文献は、『聖書』『コーラン』『仏典』『論語』のような教義・教条が書き記されている文献ではない。日本の神々と日本国の歴史が叙述され魂の表白たる歌が収められているのみである。日本人があくまでも真実を尊び人間の感性を重んじ抽象的な論議や理論を重んじなかった証拠である。

 

 近世の国学者・平田篤胤はその著『古道大意』において、「古ヘ儒佛ノ道、イマダ御国へ渡リ来ラザル以前ノ純粋ナル古ノ意(ココロ)古ノ言(コトバ)トヲ以テ、天地ノ初ヨリノ事実ヲ素直ニ説広ヘ、ソノ事実ノ上ニ真ノ道ノ具ツテイル事ヲ明アムル学問デアル故ニ、古道学ト申スデゴザル」「真ノ道ト云フモノハ教訓デハ其旨味ガ知レヌ、仍テ其古ノ真ノ道ヲ知ベキ事実ヲ記シテアル其ノ書物ハ何ジヤト云フニ、古事記ガ第一デゴザル」と述べている。

 

篤胤は、儒教や仏教という外来思想が日本に入り来る前の純粋なる古代日本の言葉を以て天地生成の起源からの事実を素直に記述し、その事実の上に立って日本民族固有の『道』を明らかにするのが古道(日本伝統精神を学ぶ学問)であり、日本伝統精神は教義・教条ではその真の意義を体得することはできず、古代以来の日本伝統精神を記してある書物の第一は『古事記』であると論じているのである。

 

さらに近世の国学者であり萬葉学者であった契冲はその著『萬葉代匠記怱釈』において「神道とて儒典佛書などの如く、説おかれたる事なし。舊事記、古事記、日本紀等あれども、是は神代より有りつる事どもを記せるのみなり。」と論じている。

 

つまり日本の伝統精神すなわち日本民族固有の『道』は事実の上に備わっており、一人の人物が書き表した教義書・経典に依拠しないというのである。抽象的・概念的な考え方に陥った教義万能・経典万能の思想から脱却し、日本人としての真心を以て祖先の歴史の真実を見てそれを戒めとしつつ自己の道徳意識を養成し、人間の真心をうたいあげた言の葉(即ち和歌)を学ぶことが、日本人一般の思想傾向である。

 

こういう教義・教条を絶対視しないという日本民族の柔軟な態度が、日本文化の発展の基礎であり、日本が古代以来仏教や儒教などの外国思想を幅広く受け入れて自己のものとし、さらにそれをより高度なものにし、さらに近代においては西洋科学技術文明を取り入れた原点である。

 

現代社会は、思想とか信仰というものが、人間の心性の中に深く根ざしたものとして把握されるのではなく、洗脳という形で個人の中に注入される<イデオロギー>と化している。それは人格破壊を招く機械的な洗脳と言う恐ろしさを持っている。<狐憑き>ならぬ<イデオロギー憑き>である。

 

教義・教条とかイデオロギーが人格から分断され洗脳という形で多くの人々を支配した時の恐ろしさは、共産支那や旧ソ連そして北朝鮮などという社会主義国家のこれまでの歴史を見れば明白である。

 

日本民族の生活態度の基本的特質、言い換えれば日本人の文化感覚を回復することが、こうした危険な状態を是正する方途である。日本伝統精神が今後の世界においても実に大きな価値を持つのである。

    

近代科学技術文明は、自然を恐れず、自然を征服し作り替え破壊することによって、人類の進歩と発展を図ってきた。しかしその結果、公害問題が深刻化するとともに核戦争の危機にさらされ、今日人間生活そのものが荒廃し、人類は破滅に向かって歩み始めている。

 

これを打開するためには、自然に調和し大らかにして柔軟な日本伝統精神に回帰する以外にないのである。

 

樋口清之氏は「日本人は、一般的傾向として、経験的な知恵や合理的知識をを分析や説明をこえた先験的・信仰的なとらえ方で身につける。このため近代分析科学的な理解方法しか身につけていない人からは、前近代的な迷信だと誤解されることもある。しかし分析に対する総合、対立に対する調和という伝統的な思考の中に、先人の生きざまの英知を各所で発見するのである。」(自然と日本人)と論じている。

 

今日の世界は、これまでの組織された体系を持つイデオロギーや教義では救い得ない末期的状況にあると言っていい。古い体系は次々に崩壊しつつある。我々の目標は、まともな日本を回復するために、日本の伝統精神の英知を取り戻さねばならないのである。日本の伝統精神とは、日本の自然と風土と生活の中から生まれた日本民族の自ずからなる歴史精神である。

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千駄木庵日乗一月七日

午前は諸事。

午後からは在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。資料の整理。原稿執筆。

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2018年1月 7日 (日)

「萬葉古代史研究會 」のお知らせ

萬葉古代史研究會

 

四宮正貴が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。

 

日時 一月十日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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「第八十回日本の心を学ぶ会」のお知らせ

第八十回日本の心を学ぶ会

 

明治維新の意義を考える

 

今年、平成30年は明治維新から150年という節目の年にあたります。

 

150年前の、慶応4314日(186846日)、京都御所・紫振殿において明治天皇と公家、諸侯が列席し新政府の基本方針を天神地祇の前で誓約いたしました。

 

この基本方針はのちに「五箇条の御誓文」と呼ばれ、明治維新の指導的精神として近代国家建設に受け継がれました。これまで明治維新とは欧米列強の圧倒的な脅威のなかで近代化を達成し国家の独立を守った国民的な物語として語られてきました。

 

しかしながら最近、従来の明治維新の評価に異議を唱える動きがあります。明治維新は単なる「薩長クーデター」であり維新の志士と呼ばれるものの実態はテロリストにすぎないとする歴史観が流布されています。

 

さらに、安倍首相が長州・山口県出身であることから政権批判の一環として明治維新をおとしめるかのような言説も少なくありません。

 

明治維新から150年の今年はさまざまな場所で明治維新について考えることが多くなると思われます。

 

天皇陛下の御譲位や憲法改正など今日の問題を考える上でも明治維新は重要な意味を持つと思われます。今年最初の勉強会では明治維新の意義について考えてみようと思います。

 

【日時】平成三十年一月二十八日 午後六時から
【場 所】文京区民センター 2-B会議室 http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumin/shukai/kumincenter.html
住所:文京区本郷4-15-14都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、東京メトロ丸の内線【後楽園駅4B出口徒歩5分東京メトロ南北線「後楽園駅6番出口」徒歩5分、JR水道橋駅東口徒歩15分都バス(02・都02乙・上69・上60)春日駅徒歩2分

【講 演】国難打開と明治維新百五十年
【講師】 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表
【司会者】林大悟
【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)
【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

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この告知文は主催者が作成しました。

 

 

 

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徳川慶喜と鳥羽・伏見の戦ひ

徳川慶喜が松平容保などを従へて、大阪城を離れ、船で江戸に帰ったことについて、最近のテレビドラマや歴史番組で虚実取り混ぜて面白おかしく描かれ論じられている。

 

『トンヤレ節』が、「音に聞えし關東武士 どつちへ逃げたと問ふたれば トコトンヤレ、トンヤレナ 城も氣慨も 捨てて吾妻へ逃げたげな トコトンヤレ、トンヤレナ」と歌はれてゐるのは、徳川慶喜にとっていささか酷ではないかと私は思ふ。

 

徳富蘇峰はその著『明治三傑』において次のやうに論じてゐる。「彼(注・慶喜)が維新の際に戦い得べき陸海の兵を有しながらあたかも平家軍が富士川の羽音に潰送し去ったごとく、目覚ましき戦闘を交ず、ほとんど無血開城をなし、自ら恭順して官軍に無条件降伏をなしたるは、いかにも幕府軍からいえば歯痒き極みであるが、しかも後年慶喜はその心事を語って曰く、『予は幼き時より、わが父から水戸家代々の遺訓を聴いた。『万一天朝と幕府との間に事ある際には、わが水戸藩は宗藩たる幕府を顧みず、進んで天朝のために忠勤に抽んでねばならぬ。』と。予は常にこの遺訓を服膺したが、いったん誤まって朝敵の汚名を受け、悔恨おのずから禁ぜず、ここにおいて自ら恭順、その罪に服したのである』と。…薩長が容易にその目的を達したるについては、けいきのこの無抵抗主義が、与って大にいるとはいわざるも、また力ありということを認めねばならぬ。」と。

 

また『徳川慶喜公伝』(渋沢栄一著)は、鳥羽伏見の戦ひにおける徳川慶喜の心情を次のやうに記してゐる。「…やがて錦旗の出でたるにを聞くに及びては、益々驚かせ給ひ、『あはれ朝廷に対して刃向ふべき意思は露ばかり持たざりしに、誤りて賊名を負ふに到りしこそ悲しけれ。最初たとい家臣の刃に斃るるとも、命の限り會桑を諭して帰国せしめば、事此に至るまじきを、吾が命令を用ゐざるが腹立たしさに、如何やうとも勝手にせよと言ひ放ちしこそ一期の不覚なれ』と悔恨の念に堪へず、いたく憂鬱し給ふ」。

 

そして慶喜はフランス大使レオン・ロッシュに対して「我邦の風として、朝廷の命と称して兵を指揮する時は、百令悉く行はる。たとい今日は公卿大名の輩より申し出たる事なりとも、勅命といはんには違背し難き國風なり。されば今兵を交へて此方勝利を得たりとも、萬々一天朝を過たば、末代まで朝敵の悪名免れ難し。…当家中興の祖より今に二百六十余年、尚も天朝の代官として士民の父母となり国を治めたる功績を何ぞ一朝の怒に空しくすべけんや。尚も余が本意に背き、私の意地を張りて兵を動かさんとせば、当家代々の零位に対して既に忠臣にあらず、まして皇国に対しては逆賊たるべし」と言明したといふ。

 

徳川慶喜の尊皇精神が、明治維新を成就せしめた大きな原因の一つである。これは決して慶喜の戦闘精神の欠如などと批難されるべきことではない。わが国に「天皇の代官」なるものは必要ではない。天皇御自らが日本国を統治されるのが本来の姿である。一君万民の日本國體が明らかになることによって、内憂外患を取り除くことが出来るのである。

 

内憂外患の除去のためには天に二日なき天皇中心帰一国家建設が絶対に必要であった。鳥羽・伏見の戦ひで錦旗を畏んだのは幕府軍だけではない。一般國民も、現御神日本天皇の御稜威を畏んだ。

 

孝明天皇様の賀茂行幸・石清水行幸によって、一般民衆の尊皇精神が興起し、御一人日本天皇を日本国の君主と仰ぐ、一君萬民の國體が明らかに回復された。

 

鳥羽・伏見の戦ひで錦旗が翻った時の状況を、大久保利通のその日記には次のやうに記してゐる。

 

「(注・慶應四年)八日巳の刻(午前十時)比(ころ)より八幡辺戦地御巡覧の為、宮(仁和寺宮)御出でにて、錦の御旗を飄(ひるがへ)され、威風凜烈、誠に言語に尽し難き心地にて、老若男女王帥(天皇の軍)を迎えて、有難々々といえる声、感涙に及び候」。大久保利通の尊皇心が吐露されている文章である。

 

内憂外患の除去、国際関係の危機打開のためには天に二日なき天皇中心帰一の統一国家建設が絶対に必要であった。東洋制覇の野望に燃える欧米列強に対抗するには、鎖国や世襲的階級制度を墨守してゐては、とても国難を打開することは不可能であった。徳川幕府は、攘夷を断行するにせよ、開国を断行するにせよ、これを断行する主體的能力のある政権ではなくなったといふことである。

変革は武力なくしては達成できない。しかし、わが国伝統精神に基づく変革即ち日本的変革=維新は、神代以来の天皇の神聖権威とそれに畏こむ臣下国民の尊皇精神がその原基なのである。

 

國家の独立と安定と統一を保持するには、神代以来の國體を体現者・継承者としての権威を保持する御存在=神聖君主日本天皇を中心とした國家體制を確立しなければならなくなった。欧米列強の侵略から祖國日本を守るための國家體制は、神話時代からの伝統的君主である天皇を中心とする國家でなければならないということが全國民的に自覚されるやうになったのである。開国も攘夷も、天皇中心の統一国家の建設によってこそ実現するのである。明治維新によってそれは現実のものとなった。

 

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千駄木庵日乗一月六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、資料検索、『政治文化情報』の原稿執筆など。大忙し。

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2018年1月 6日 (土)

日本の伝統的死生観

日本の伝統的死生観においては、肉体の死は、人間そのものの消滅ではなく、現世から身を隠すことに過ぎないと信じられてきた。だから、死後の世界を幽世(かくりよ)と言ひ、死後の人間を隱身(かくりみ)と言ふのである。

 

『萬葉集』に収められてゐる大津皇子(ほおつのみこ)の御歌では、

 

「ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隱(がく)りなむ
                     (

と歌はれてゐる。死に対して否定的懐疑的要素は全くなく、積極的・肯定的な精神が歌ひあげられてゐる。。

 

「今日のみ見てや雲隱りなむ」は、日本武尊が薨去の直前に歌った「はしけやし 吾家(わぎへ)の方よ 雲居起ち來も」と同じ信仰である。雲は霊であった。日本武尊にとって雲はご自分と故郷大和との間をつなぐ霊であった。雲は霊魂の運搬車であった。萬葉集の225,799の歌は、雲の中に霊・生命を見た歌である。

 

柳田國男氏は、「日本人の死後の観念、即ち霊は永久にこの国土のうちに留まってさう遠くへは行ってしまはないといふ信仰が、恐らくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられて居るといふことである」(『先祖の話』)と論じてゐる。

 

死者の霊魂は、はるか彼方の他界に行ってしまふのではなく、この国土に留まって子孫を見守ってゐるは、わが国において永く継承されてきている。それは、「先祖様が草葉の蔭から見守ってゐる」といふ言葉がある通りである。

 

この世を去った人の霊魂を身近に感じて来たのが日本人の伝統的祖霊観、生死観である。日本人が比較的死を恐れない強靭な精神を持っているのは、かうした信仰が根底にあるからであらう。

 

魂が身体から遊離することが死である。それがために肉体人間は力を失ふ。死とは無に帰するのではない。勢ひがなくなることを意味する「しほれる」が「しぬ」といふ言葉の語源である。「心もしのにいにしへおもほゆ」の「しの」である。くたくたになってしまって疲れるといふ意味である。気力がなくなってしまったといふ意味である。

 

枯れるといふ言葉と同根の「から」が「亡骸」の「から」である。死とは命が枯れることであり、肉体から魂・生命が去ることである。

 

人間の死を「神去る」「逝く」「身まかる」と言ふ。葬るを「はふる」といふ。「はふる」とは羽振るである。魂が空を羽ばたいて飛んでいくといふことである。羽振りが良いとは勢ひがあるといふ意である。

 

死は消滅ではなく、生き返るのであり、甦るのである。日本伝統信仰には死はない。

 

「よみがへり」とは、黄泉の国から帰ることである。『萬葉集』では「よみがへり」といふ言葉に対して「死還生」(三二七)といふ字をあててゐる。「黄泉の国」とは死後の世界である。

 

「このよみがへり」の思想が、仏教の輪廻転生思想を受け入れた信仰的素地とされる。あの世もこの世もそれほどお互いに遠いところではないのである。

 

死後の世界は近く親しく、いつでも連絡が取れるところである。だから草葉の陰から見守ってゐてくれるといふ言葉があるのである。お盆には先祖の御霊が帰って来るといふ信仰もある。生と死の区別は明白ではなく、人はこの世を去ってもまた帰って来るといふ信仰がある。日本伝統信仰における「死」とは誕生・元服・結婚と同様の「生まれ変はりの儀式の一環」である。

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千駄木庵日乗一月五日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、資料の整理、原稿執筆など。

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2018年1月 5日 (金)

「やまとうた」の本質

 

歌人の北久保麻里子さんは、『日本経済新聞』平成二十九年(昨年)十月二日号に掲載された「三十一文字世界の響け」という文章で、「三十一文字(みそひともじ)の韻律は、言語の意味を超えて人の心を揺さぶる。朗読を始めた瞬間、私という存在は消えて、ただ言葉の響きだけになるのが究極の形だろう。そのとき初めて、歌心が聴き手の魂に届くのだと思う。一生かかっても至り得ない境地かもしれないが、努力を続けて行きたい」と書いておられる。

 

和歌(やまとうた)は、日本の最も純粋な最も固有な文藝である。『うた』の語源は、神様に何事かを「訴へる」といふところから来てゐる。

 

『古今和歌集』の「仮名序」には、

 

「力も入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女(をとこをんな)の中をも和(やは)らげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。」(力を入れないで天地を動かし、目に見えない鬼神をも感動させ、男女の間をも和ませ、猛々しい武士の心をも慰めるのが歌である)とある。

 

『古今和歌集』の「仮名序」は、紀貫之が執筆し、和歌とはいかなるものであるかが説かれた基本的な文献である。紀貫之は、平安前期の歌人、歌學者、三十六歌仙の一人。仮名文日記文學の先駆とされる『土佐日記』の作者。醍醐天皇の勅命による『古今和歌集』撰進の中心となった。

 

和歌は人のまごころを表白した歌が抒情詩である。和歌は日本民族のまごころのしらべである。人知のさかしらを超えて自然に生まれてくる『素直な心』(まごころ・もののあはれ)の表白であり、それが自然にある声調を生み、五七五七七の定型詩=和歌を生み出した。

 

歌を詠むのは、魂鎮め・鎮魂の行事である。和歌は、ふつふつと湧きあがってくる素直なる心・色々な思ひ・魂の叫びを三十一文字にして固め成して鎮める働きをする。

 

明治天皇御製

「鬼神も泣かするものは世の中の人のこころのまことなりけり」

「まごころを歌ひあげたる言の葉はひとたび聞けば忘れざりけり」

 

「鬼神の」の御製は、歌の力の偉大さを論じた『古今和歌集』の「仮名序」を踏まへられてゐると拝する。この御製で大事なのは、「人の心のまことなりけり」と示されてゐることである。単なる文藝作品なら虚構が許されるのかもしれないが、歌はそうではない。「人のこころのまこと」を歌はねばならない。自分の本当の心・素直な心・そのままのこころ・まごころを歌はねばならない。

 

「自分の本当の心・素直な心・そのままのこころ・まごころ」は、わが國文學の基本的情緒とされる「もののあはれを知る心」と同意義と思ふ。見るものにつけて聞くものにつけて自分の心が感動することを「もののあはれ」といふ。それが「五・七・五・七・七」といふ形式で表白され、人の魂を動かすといふのが「やまとうた」である。

 

和歌には、五・七・五・七・七といふ音数律(音節の数によってつくられる詩歌のしらべ。五七調・七五調など五音と七音の組み合せによる場合が多い)以外には、決まりごとは無い。音数にしても許容範囲は広く、字余りはごく普通に見られる。連歌俳諧のやうな季語の制約もない。音数律といふ型をおおよそ踏まへてさへいれば、自由に詠んで良い。

 

 

「五・七・五・七・七」といふ定型は、まつりごと=祭祀に於いて自然に神ながらに整へられた。「五・七調」に日本人の魂をゆさぶる何ものかがあるのである。したがって、やまと歌は朗々と歌ひあげることが大切である。

 

 

 

 

 

 

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千駄木庵日乗一月四日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆の準備、資料の整理など。

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2018年1月 4日 (木)

日本文化と現代の混迷

 

暇を見つけてはいろいろな展覧会に行くようにしています。心が洗われ、安らぎを得ることがあるからです。また歴史などの勉強にもなります。つくづく思うのは、書道・絵画・彫刻・工芸などいずれの分野においても日本人は優秀であり、日本人の創造した文化は素晴らしいということであります。外国から文化・文明を輸入し、それを洗練させ、より高度なものにするというのが日本の特質であります。日本民族は包容力・摂取力があるということであります。その包容力の中核に、日本独自の文化感覚があるのであります。

 

また、日本の芸術・文芸は、皇室・宮廷を中心に継承されてきています。日本皇室は三島由紀夫氏の言われたとおり、「文化の中核」なのであります。天皇・皇室がなくなれば、日本は日本でなくなるのであります。

 

混迷の時期にある現代世界において、東西両文明の融合、物質文明と精神文化の調和、各民族宗教の融和による現代の救済を実現するために、強靱ではあるが柔軟性と寛容性に富む日本文化伝統が大きな役目を果たすと考えられます。さらに、日本の宗教的柔軟性・無限包容力は、地球上の様々な民族や国々や宗教や文化が互いにその独自性を保持しつつ融和し調和していくために大きな働きをするのではないでしょうか。

 

日本民族は、アジアの中にあり、アジアの各地の文化を吸収して来ました。そして日本へ輸出した国においてすでに衰退してしまった文化を今日においても温存させ発展させ洗練させてきました。今後もそうでありましょう。

 

これまでの日本は外国から文化を輸入することが多く、外国へ輸出することは少なかった。今日の世界は、文化・文明そして思想・宗教が行き詰まりを見せ、混迷の時期を迎えています。こうした時期において日本は、これからは日本の文化的特質をによって世界的混迷打開のために貢献するべきでありましょう。

今こそ、神話時代から今日に至るまで続いている日本文化の融合性・包摂性を、政治・思想・教育・外交というあらゆる面において積極的に開顕していくべき時であると思います。今日世界は新しい時代を迎えようとしています。それは日本の時代であります。

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この頃詠みし歌

 

七十二年の歳月経て今もなほ戦(いくさ)に敗れし傷は癒えざり

 

劣化といふ言葉身に沁むわが祖国敗戦の痛手今に続きて

 

幾度も参り行きたる神やしろで禍事起りしことの悲しき

 

中華帝国暴虐朝鮮に対峙するわが日の本は強く雄々しく

 

若き友の明るき笑顔を見て嬉し禍事続く日々なればなほ

 

天津日を仰ぎ見る時ふつふつとわが心身の力湧き来る

 

起き出でて朝日を仰ぐ時にしも命の力甦り来る

 

久しぶりの友の電話で佳き人の訃報告げられ悲しみ深し(小田村四郎先生御逝去)

 

靖國の宮居を共に歩みつつ語らひし日の懐かしきかな()

 

風に舞ふ銀杏の黄葉は道に落ち人に踏まれて冬深みゆく

 

散り行ける銀杏の黄葉をさみしみつつまた来年の春を待たなん

 

今日一日(ひとひ)家にこもりて仕事するこの営みを積み重ねゆく

 

若き女性の靴磨き屋に磨かれ靴で歩めば足取り軽し

 

朝な朝な天津祝詞を唱へまつる清(すが)しきつとめに命さきはふ

 

光満つる日の本の国の民と生き天地の神々を拝ろがみまつる

 

暗き坂道下り来たれば酒房並ぶ根津の谷へと行き着きにけり

 

戦争にもならず徴兵制にもならぬなり平和安全法制成立して二年

 

亡国野党偏向メディアの悪宣伝この国を覆ひゐること厭はしき

 

昔の乙女が腰が痛いと嘆きつつ若き日のことを語りゐるなり

 

邪魔者は親族と言へども皆殺す若き独裁者未だ滅びず

 

遠き世の帝のみ歌讀みにつつわが日の本の歴史を偲ぶ(崇徳上皇御製集)

 

讃岐の地で神あがりまししすめろぎの悲しき御歌を畏みて読む()

 

友どちと酒酌み交はし過ごす冬の夜は心に沁みて楽しかりけり

 

忙しなき歳末の夕べに参り来し根津の宮居は静かなりけり

 

お札納めに参り来りし根津の宮灯りに照らされ赤く浮かべり

 

朱色なる社殿は灯りに照らされてほのかに浮かぶ美しさかな

 

若き友と語らへる時四十年前の若き我がよみがへり来る

 

老婦人が二度と見ることなしとつぶやきて天橋立を眺めゐるなり

 

多くの人が参り来にける籠神社我もはるばると参り来にけり

 

煌々と照る満月を車窓より眺めつつ行く旅は楽しき

 

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千駄木庵日乗一月三日

午前は諸事。

午後は、東都北鎮・根津神社に初詣。

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根津神社

夕刻、地元の友人夫妻と懇談。

帰宅後は、原稿執筆。

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2018年1月 2日 (火)

丹後地方に旅しました

大晦日から本日まで丹後地方を旅しました。

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元伊勢 丹後籠神社

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丹後浦島神社

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丹後の海岸

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天橋立

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天橋立

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