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2017年12月20日 (水)

熊野信仰について・承前

 熊野本宮大社の鳥居には「熊野大権現」と書かれている。太古からの社殿は明治二十四年(一九八一)の大洪水で災害を蒙り、現在の地に移転したと承る。

 

総門には菊の御紋の染められた幕が下がっている。社殿は四つあり第一殿第二殿には伊耶那美命(熊野牟須美大)神など、第三殿には家津美御子大神(須佐之男命)など、第四殿は天照皇大御神が祀られでいる。謹みて参拝。さらに祓戸大神を祀る小社もある。

 

境内には、境内には、白河上皇御製碑が建てられている。

 

「咲きにほふ 花のけしきを 見るからに 神のこゝろぞ そらにしらるゝ 雍仁親王妃勢津子謹書」

 

と刻まれている。第七二代・白河天皇は、院政を創始した方であらせられ、「治天の君」と讃えられ、『源平盛衰記』には「賀茂の水、双六の賽、山法師」の三つのほかは何事も上皇の意のままであるという「天下三不如意」という話も伝えられている。この御製は行幸の折熊野本宮社前にて詠まれたと承る。

 

後鳥羽上皇御製碑も建てられている。

 

「はるばると さかしきみねを わけすぎて おとなし川を けふみつるかな」

 

と刻まれている。「おとなし川」とは本宮の旧社地近くを流れている川。後鳥羽上皇の行幸は、建久九年(一一九八)八月の以降、二十八度に及ぶ。

 

 『平家物語』には、大要次のように記されている。平重盛が治承三年(一一七九)熊野に参詣した時、本宮御前にて、「『親父入道相國(清盛のこと)の體を見るに、悪逆無道にして、…君を悩まし奉る。重盛長子として、頻りに諫めを致すと雖も、…彼以て服膺せず、…南無権現…願はくは子孫繁栄絶えずして、仕へて朝廷に交はるべくんば、入道の悪心を和らげて、天下の安全を得しめ給へ。栄耀また一期を限って、後昆(後継ぎのこと)恥に及ぶべくんば、重盛が運命を縮めて、来世の苦輪を助け給へ…』と肝膽を摧きて祈念せられければ、燈籠の火の様なる物の大臣の御身より出でてばつと消ゆるが如くして失せけり。」この祈りは聞き届けられたのか、重盛はこの後すぐに逝去し、栄華を誇り皇室を悩まし奉った平家も滅びてしまう。

 熊野速玉大社の御祭神は、主神は熊野速玉大神(伊耶那岐命の別名)と熊野結大神(伊耶那岐命の別名)。そして家津美御子大神(須佐之男命の別名)及び天照大神など多くの神々が十二社殿に祀られている。

 

熊野三山には、伊耶那岐・伊耶那美二神、須佐之男命、そして天照大神という日本伝統信仰の中心的な神々が祀られている。なぜ「速玉」という名が付けられたのかは不明であると承る。目に眩い朱塗りの現在の社殿は昭和二十七年に造営された。

 

 この神社の御祭神は、奈良町末期から、本地垂迹説により、熊野速玉大神の本地は薬師如来、熊野結大神の本地は千手観音、家津美御子大神の本地は阿弥陀如来とされている。そして祭祀を行う神官と共に社僧と呼ばれる僧侶がいて、神前で読経をするという風習が明治元年(一八六八)の神仏分離令まで続いた。その故か、神前で般若心経を読んだ後、祝詞を奏上している参拝者がいる。

 

 神代に熊野速玉大神・熊野結大神・家津美御子大神の三神が現在の社殿の南方にある神倉山に降臨され、景行天皇五八年に、現在の地に社殿を創建したという。旧社地に対して新しく神殿を作ったので新宮というのであって、本宮に対して新宮というのではないという。神倉山には六0㍍の高さに岩壁がそそり立ち、そこに神が降臨したと信じられている。ゆえに、神倉山が熊野信仰の原点という説もある。

 

 境内には、後鳥羽上皇御製碑がある。

 

「岩にむす こけふみならす みくまのゝ 山のかひある 行末もかな 雍仁親王妃勢津子書」

 

と刻まれている。

 

 また後白河法皇御撰の『梁塵秘抄』(治承三年・一一七九年成立の歌謡集)の一節「熊野へ参るは 紀路と伊勢路のどれ近し 廣大慈悲の道なれば 紀路も伊勢路も遠からず」と刻まれた碑もある。

 

 『古事記』には、「神倭伊波古命、…廻り幸でまして熊野の村にいたりまし」とあり、『日本書紀』には、「…狭野(現在の新宮市佐野注)を越えて熊野の神邑(かみのみら・現在の新宮市新宮。速玉神社が鎮座する辺りという)に到り、旦(すなわち)ち天磐盾(あまのいはたて・熊野速玉大神が最初に降臨された神倉山のことという)に登る。」と記されている。このように神武天皇御東征神話と熊野信仰は深い結びつきがあるのである。

 

 熊野那智大社別宮・飛瀧神社は、那智の瀧が御神体である。神武天皇が御上陸の際、この大瀧は神と祀られ大穴牟遅神(おおなむちのみこと・大國主命の別名。大己貴命とも書く)の御神体と仰がれ、修験道の道場となっている。

 

 原生林の間から流れ落ちる高さ一三三㍍の瀧は人を圧倒する迫力を持っている。一番てっぺんにしめ縄が張られている。雄大にして神秘的であり、神と仰がれるのも頷ける。拝所が設けられている。まさに自然信仰の典型である。 

 

本地垂迹説・神仏習合思想により、この瀧の神の本地は千手観音とされ、飛瀧権現(ひろうごんげん)と崇められた。この瀧のあるところはまさに「奥まった隅のところ」「神秘的なところ」「神のいますところ」つまり「熊野」の語源通りの地である。

 

 参道に「和歌山県指定文化財 史跡 亀山上皇御卒搭婆建立跡」がある。亀山上皇は、元による我が國侵略の危機を迎えていた弘安四年(一二八一)二月に熊野に行幸され、搭婆を奉られた。文永一一年(一二七四)に元が来襲したが、その後、弘安二年(一二七九)に元の使者が我が國に来て降伏を迫ったが北条時宗はこれを斬り捨てた。こうして元の再度の来襲の危機が迫る中、朝廷は、弘安三年(一二八0)に諸國の社寺に異國降伏の祈祷を命じた。

 

『増鏡』によると、亀山上皇は伊勢の神宮に「わが御代にしもかかる乱出できて、まことに日本のそこなはるべくは、御命を召すべき」との願文を奉られた。こうした朝廷の祈願に神々がこたえたまい、神風(大暴風雨)が起こり、元軍は玄海灘の藻屑と消えた。日本國は一天萬乗の大君の<神祭り>によって護られているのである。

 

 先帝・昭和天皇御製碑が建立されている。

 

「御製 そのかみに熊野灘よりあふぎみし那智の大瀧けふ近く見つ 侍従入江相政謹書」

 

と刻まれている。昭和三十七年に和歌山県を行幸あそばされた時の御歌である。 

 近代俳人・高浜虚子の「神にませば まことうるわし 那智の瀧」、同じく水原秋桜子の「瀧落ちて 群青世界 とどろけり」という句碑もある。

 

熊野那智大社は、那智の瀧を神と崇めた信仰がこの神社の淵源である。仁徳天皇五年(三一七)にこの地に社殿建立したという。御祭神は、主神が、熊野夫須美大神(くまのふすみおおかみ・伊耶那岐命の別名)。そして那智の瀧の御神霊である大己貴命などをお祀りしている。明治維新までは神仏習合思想により、本地を千手観音として、熊野那智権現と称された。

 

日本の太古からの自然信仰そして外来宗教を包容する日本民族の宗教伝統が熊野三山に息づいている。日本伝統精神は、奥行きが深く幅が広いのである。朱色の権現造りの社殿である。

 

 神域に八咫烏の像がある。神武天皇熊野御上陸二千六百五十年を記念して昭和六十三年に作られたもの。八咫烏は神武天皇が熊野から大和に入られる際に道案内をしたと伝えられる。

 

すぐ隣というよりも同じ境内と言った方がいいところに、青岸渡寺がある。明治までは熊野那智権現に属する観音堂であったという。仁徳天皇の御代にインドから来た裸形上人による創建という。本尊は如意輪観世音。如意輪観世音はわが家が長く御守りする観音堂に安置されている本尊である。青岸渡寺本堂は天正十五年(一五八七)の建築。このお寺から見渡せる那智の瀧の姿は絶景である。

 

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