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2017年12月30日 (土)

西洋の絶対君主制と日本国体との違いは、京都御所の清々しさ・麗しさと、ヴェルサイユ宮殿の豪華絢爛さとを比較して判然とする

 フランスのヴェルサイユ宮殿は、ルイ十三世の別荘を十七世紀にルイ十四世が拡張し造営した宮殿。宮殿の後ろ側にある広大にして幾何学的構図の美しいフランス風庭園がある。この庭園は、一六六三年にル・ノートルという人が図面を引いて設計し、ヴェルサイユ宮殿を取り巻いていた自然を切り開いて造成された。キリスト教の浸透によって、神が棲む森は神聖であるとか、木に霊が宿っているというような信仰が消え失せてしまったので、森を切り開き、自然を造り替えることに何の恐れも感じなかったのである。

 

 ヴェルサイユ宮殿の庭は、日本の寺院や城郭の庭とは趣を全く異にする。自然と対立し、自然を作り替え、自然に整形美容を施して、庭園にしている。一方、京都の龍安寺・石清水八幡宮・修学院離宮・桂離宮など日本の神社仏閣の庭園は、自然と対立せず、自然を改造せず、自然に即し、自然の美しさを生かした庭園となっている。

 

 穏やかな風土の緑豊かな地に生まれた多神教の神は、自然と一体であり自然の中に宿る。不毛な風土の砂漠地帯に生まれた一神教の神は、自然と対立しこれを支配し征服する神である。日本伝統信仰は、自然の「神のいのち」として拝ろがむ精神を持っているが、キリスト教の自然観は人間は神の命令により自然を征服し支配し改造する権利を与えられているという信仰があるので、庭造りにしても、自然を改造して美しさを作り出すのである。こうした自然観の違いが庭造りにもはっきりとあられている。

 

 『創世記』には、「神いひ給ひけるは、『我等に象(かたど)りて、我等の像(かたち)のごとくに我等人を造り、之に海の魚と、空の鳥と、家畜と全地と地に匍ふ處の諸(すべ)ての昆蟲(はふむし)を治めしめんと』…『生めよ殖えよ、地に滿てよ、地を從がはせよ。又海の魚と空の鳥と地に動く所の諸(すべ)ての生き物を治めよ、…』」と記されている。

 

 この神の命令により、神の形の如く造られた人間は、自然を征服し支配し改造し操作し利用する権利があるとされる。これが西洋における自然改造の手段としての科学技術や機械の発展の精神的基礎であると言える。近代科学技術はこのような自然観を基礎として発達し、それによって人間は便利な生活を享受したが、反面、そのために自然を破壊しつつあることも事実である。

 

 しかし、神への信仰があるうちはまだ、神が創造した自然を、人間の利己的な目的のみのために利用し改造し害することは、神に対する「罪」であるという慎みの心があった。しかし、その天地創造神をすら否定する人が多くなった近代社会においては、そうした心も消え失せ、人間の「幸福」のために自然を改造し破壊してきたのである。それが現代における自然破壊・公害問題の根本原因であると考える。

 

 一方、日本の精神伝統(芸術にも宗教にも文芸にも)は、自然崇拝、自然を神として拝む心がその基本にある。これが日本の精神史の不滅の基礎である。したがって、この自然崇拝の心(人と自然との一体観)という日本の精神伝統に反する外来宗教であるキリスト教は日本に深く根付くことはなかった。  

 

しかし、ヴェルサイユ宮殿を作り権勢と栄華を誇ったルイ十四世は、他人からは「太陽王」と呼ばれ、自ら「朕は国家なり」と言った。これは国土と国民を自分の私有物として支配するということである。己の「私」によって国家を支配し、「私」によって人民を罰する。自分に服従する人民のみを保護し、服従しない人民は迫害する。これを「専制君主」という。ユダヤ教やキリスト教の神が「選ばれたる民」「己を信ずるもの」のみを保護するのと相似である。

 

 これは、「あめがしたしらしめす」(『知る』という動詞に、尊敬の意を表す『す』の付いた語に、さらに敬意を添える『めす』の付いた語。お知りになるという意)「きこしめす」(同じくお聞きになるという意)という<やまとことば>で表現される日本天皇の国家統治の御精神とは全く異質である。つまり、天下の事情そして民の意志をお知りになり、お聞きになるというのが、日本天皇の統治精神なのである。こうした精神は、西洋や支那の絶対専制君主の国家支配とは全く異なる。

 

 ルイ十四世は国家を私物化したが、日本天皇は国家を私物化することを厳しく戒められた。明治天皇の外祖父・中山忠能前権大納言は、明治天皇の御即位にあたって、「そもそも皇国は天照皇大神の御国で、天子をして之をあずからしめてあるので、至尊といえども吾物と思召(おぼしめし)ては、自然御随意の御処置に押移るべく、御在位中は、光格、仁孝の両帝のお定めになったものを、よくよく御守りになるように」と言上したという。このように、日本天皇の国家統治は西洋絶対君主の国家支配とは正反対に「無私の精神」が基本となっていたのである。

 

 皇位の御印として伝えられている『三種の神器』の一つが自己を主張せず一切を映し出す「鏡」であることは、天皇統治が「無私」の精神であることを象徴している。

 

 そもそもフランスのブルボン王朝の国王だけでなく、ヨーロッパ諸国の国王は、封建君主の大なるものにすぎない。日本で言えば徳川将軍である。日本天皇は政治権力も軍事力も有せずして、封建君主たる将軍を任命する御存在であった。

 

 ゆえに、ルイ十四世などの西欧の絶対君主は、日本天皇とは全くその性格を異にする。西洋の絶対君主制と日本国体との違いは、京都御所の清々しさ・麗しさと、ヴェルサイユ宮殿の狂気の如き豪華絢爛さとを比較しても判然とする。

 

 さしものブルボン王朝も一七八九年に起こったフランス革命によって滅亡する。本当か嘘かは分からないが、王妃マリアントワネットは、大臣が「農民に食べるパンがありません」と言ったら「ではケーキを食べればいいではありませんか」と答えたという。革命の時ヴェルサイユ宮殿に押しかけた民衆は殺した衛兵の首を槍の上に刺して王妃の部屋に乱入したという。国王と王妃は六年間の獄中生活の末に断頭台に送られた。その時三十八歳の王妃の髪の毛は真っ白だったという。

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