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2017年12月27日 (水)

三輪山信仰の歌

 

 三輪山は奈良県桜井市にある。大和盆地の東南にある山。麓に古道・山辺の道が通ってゐる。海抜四六七m。周囲十六㎞。紡錘形の美しい山。麓に大物主神を祭る日本最古といはれる大神(おほみわ)神社が鎮座する。この神社の御神体が三輪山である。したがって大神神社には神殿は無い。大物主神は三輪山の御神霊である。大物主命は出雲に祭られてゐる大國主命の和魂であり別名とされてゐる。大國主命は、御自らの和魂を大物主と名前を変えて大和の神奈備(注・地域社会・共同体ごとに信仰の対象になる神の山)である三輪山に鎮まられたとされる。 

 

 三輪山にはつぎのやうな古来からの伝承がある。崇神天皇の御代に悪疫が流行した時、大物主神が、倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト・孝霊天皇皇女)に神憑りし、また、崇神天皇の夢枕にあらはれ、「意富多多泥古命(大田田根子命とも書く・オホタタネコノミコト)に私を祭らせなさい」といはれたので、天皇がそれを実行されると悪疫はなくなったといふ神話である。

 

 また、意富多多泥古命の三代の祖の活玉依姫(イクタマヨリヒメ)が、男性が通って来た様子もないのに妊娠した。両親が「どうして子供を身ごもったのか」と聞いたところ、夜、夢の中に眉目秀麗な若者が訪ねて来ると答へた。そこで両親はその男の身許を知るために男の衣服の裾に麻糸を通した針を付けさせた。朝になってその親子が、男が帰って行った跡を、糸でたどって追って行くと三輪山に着いた。そこでその男は三輪山の神であることが分かったといふ神話がある。

                

 御神体になってゐる山には必ず磐座(イハクラ)がある。京都の岩倉にも磐座があり神社がある。巨石信仰である。巨石信仰を英語ではストーンサークルと言ひ、大きな石を幾つか置いてそこに神が降って来るといふ信仰である。

 

 三輪山には頂上・中腹・三号目の三ヵ所に石群が山を取り巻く輪になってるゐる磐座があるといふ。だから三輪山と名付けられたといふ説もある。

 

 三輪山はわが國の原始信仰が今日において生きてゐる山である。わが國には地域社會・共同体ごとに信仰の対象になる神の山があった。これを神奈備(かむなび)信仰といふ。そして神奈備山には磐座といはれる巨石がある。特に大和盆地の東南に美しい形で横たはってゐる三輪山を大和地方の人々はの姿を毎日仰ぎながら生活して来た、そして、神奈備とし古くから崇めて来た。

 

 大和地方の人たちにとって三輪山は信仰の対象なのである。だから近江に都を遷すことによって三輪山と別れることを大和の人々は非常に悲しんだ。或いは神威を恐れた。神の祟りがあるのではないかと恐怖したのかもしれない。大和人にとって大和の國から去るといふ事は三輪山から去ることと同意義だったのであらう。

 

 神武天皇が橿原の地に都を開いて以来、ごく一部の例外を除いて、大和の地から他の地に都が遷ったことはなかった。大和に根付いた豪族もゐたし、太古から大和の地に祭られてきた神々もゐた。萬葉時代の神への信仰・畏怖の念の深さは今日的感覚では想像もつかないくらい深く切なるものがあった。大和を捨てて近江へ都を遷すことへの反発も想像以上であったらう。

 

 『日本書紀』には、「この時に、天下の百姓(おほみたから)都遷すことを願はずして、諷(そ)へ諫(あざむ)く者多し。童謡(わざうた)また衆(おほ)し。日日夜夜、失火の処多し」と記されてゐる。

 

 額田王は、さうしたことへの慰撫鎮魂歌を詠んだ。それが、

 

 

額田王、近江國に下りし時、作れる歌。

 

味酒(うまざけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隱(かく)るまで 道の隈(くま) い積(つも)るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見さけむ山を 情(こころ)なく 雲の 隱さふべしや                           (一七)

 

 通釈は「三輪山が奈良山の端に隠れるまで、道の曲がり角が幾重にも重なるまでに、思ひ残すことのないまでに、見続けて行きたいのに、幾たびも見遥かして眺めたい山なのに、心なくも雲が三輪山を隠して良いものだらうか、良くはない」

 

 切迫感のある力強い歌。特に「情なく 雲の 隱さふべしや」といふ結句が強い調べになってゐる。「幾度も振り返り振り返り心をひかれてゐるのに、雲が三輪山を隠してしまふ、そんなことをしないでおくれ」といふ三輪山恋慕の歌である。

 

  反歌

 

三輪山をしかも隱すか雲だにも情(こころ)あらなむ隱さふべしや  (一八)

 

 通釈は「三輪山をどうしてあのやうに隠すのだらう。せめて雲なりとも情けがあったならば、隠してよいものか」。

 

 本来心なき雲に心あれかしと願ふ心の背後にあるものは、どうしても三輪山そしてそれが象徴する大和の國から離れたくないといふ悲しみの情念が込められてゐる。近江遷都が行はれたのは、天智天皇六年三月十九日、陽暦でいふと四月二十日のことであった。

 

 三輪山を雲が隠してしまへば、恰かも三輪山の神が怒っておられるやうに思はれたのかもしれない。そこで三輪山を見たいといふ切なる願ひを歌によって三輪山の神霊に手向けることにより、神の御心を鎮め、遷都がつつがなく行はれることを祈ったのである。長歌の結句「情なく 雲の 隱さふべしや」と、反歌の結句「情あらなむ隱さふべしや」は、山への霊的な呼びかけであり自然の精霊との交感である。

 

 またこのやうに宗教的解釈は別にしても、この歌は大和を離れ行く人々の大和と三輪山への愛着の思ひを切々と歌った歌である。ともかく、三輪山に名残りを惜しむ深い宗教的感情或いは激しい恋情の心が歌はれてゐる。額田王にとって三輪山は単なる自然物ではなかったのである。神への信仰と恋人への恋慕の情はよく似たものなのかもしれない。

 

 なほ、「萬葉集」に「山上憶良大夫の類聚歌林に曰く、都を近江國に還しし時、三輪山を御覧(みそなは)せし御歌なりといへり」と書かれてゐる通り、この長歌と反歌は、天智天皇の御歌との伝承があるが、熟田津の船出の時のやうに、額田王が天智天皇の命令で代作したか、天皇のお立場に立って詠んだ歌であらう。

 

 とすると、この歌は個人的な感傷を歌った歌ではなく、遷都の際に、天皇につき従って行く時、奈良山を越える峠の國境での三輪山の神に代表される大和の國魂への畏敬と鎮魂の祭事の歌として歌はれたのであるといふことになる。

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