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2017年12月21日 (木)

西郷隆盛と大久保利通

 

 西郷隆盛は文政十年(一八二七)十二月七日、武士階級の家が立ち並んでいた下加治屋町で城下士の下から二番目の地位である小姓組の家に生まれた。西郷は下加治屋町で『郷中教育』を受けた。

 

 「郷中」とは城下の道路で囲まれた一区角に住む数十戸の武士の子供たちの學区のこと。その中で行われていた組織的な教育(儒學・武道・歴史など)を『郷中教育』という。肉体的にも精神的にも徹底的な鍛練教育であったという。

 

 各郷の學舎にはそれぞれ名前がつけられ、西郷と大久保利通は加治屋町の「二松學舎」という名の學舎に學んだ。小生の母校は東京九段にある二松學舎である。これは明治初年に、大審院判事・三島毅(元岡山藩藩儒)によって創立された漢學塾である。同じ名称なので親近感を覚える。

 

 各學舎では薩摩藩中興の祖といわれる島津忠義(日新公)の作った「いろは歌」(座右の銘をいろは順に詠み込んだもの)が教えられた。それは「い いにしへの道を聞きても唱へてもわが行ひにせずばかひなし」「ろ 楼の上もはにふ(注みすぼらしい)の小屋も住む人の心にこそはたかさ賤しさ」などという歌である。

 

 この郷中制度出身者には、西郷大久保のほかに樺山資紀・大山綱良・黒田清輝・有馬新七・重野安繹・吉井友実・大山巌・牧野伸顕・東郷平八郎などがいる。

 

 大久保利通は天保元年(一八三〇)八月十日、鹿児島城下高麗町で、西郷と同じく小姓組の家に生まれた。そして加治屋町に移転して来た。大久保もまた『郷中教育』の中で育った。大久保利通が「甲東」と号したのは甲突川の東側で育ったからである。

 

 この加治屋町からは桜島が眺められる。平野國臣が「わが胸のもゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」と詠んだように、西郷隆盛や大久保利通など鹿児島に生まれ育った人々は、この活火山を眺めては壮大な気宇を養ったのであろう。

 

 西郷と大久保は文字通り「竹馬の友」である。そして相協力して命懸けで明治維新の戦いに挺身した。しかし、後に仇敵同士となり、相戦い、西郷は城山に露と消える。一方、大久保は明治政府の最高権力者として近代日本建設に邁進したが、西郷死後一年も経たないうちに、石川県氏族島田一郎等によって斬殺される。この二人の関係は、盟友関係が敵対関係になるという変革の歴史の苛酷な一面を物語っている。

 

 大西郷と大久保利通の二人こそ、わが日の本の近代の二つの道を示したる人である。この二つの道は「王道」「覇道」といわれるが、西郷も大久保も日本の自主独立と発展と繁栄自由の礎を築いた人であったことは間違いない。

 

 

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