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2017年12月26日 (火)

国難と八幡大神信仰

 清和天皇から源姓を賜った皇孫の経基(六孫王)から始まった清和源氏は、清和源氏は八幡大神を氏神(一族の守護神)として崇敬し、勢力の拡大とともに全国に数多くの八幡宮を祀った。

 

源経基は、平安中期に、平将門が反乱を起こす危険を朝廷に奏請し、藤原純友が起こした承平天慶の乱平定に功があったため、武人として高く評価された。他にも天皇の名を冠した源氏が多くあるが、中でも最も栄えたのがこの清和源氏系といわれ、鎌倉幕府の源頼朝、新田氏、室町幕府の足利尊氏などがこの系統といわれる。

 

江戸幕府を開いた徳川氏も、この系(新田氏)と称した。河内源氏の一族・源義家が石清水八幡宮で元服して八幡太郎義家と名乗った。源氏のみならず全国の武士は八幡三所大神を武の神、弓矢の神として尊崇した。

 

八幡神は全国の武士から武の神、弓矢の神として尊崇されただけでなく、「護国霊験威力神通大自在菩薩」とも称されたやうに、朝廷をはじめ全日本国民から国難打開の神として尊崇されて来た。

 

第九十代・亀山天皇が、後宇多天皇の御位を譲られ院政を始められた文永十一年(一二七四)元寇(蒙古軍侵攻)があった。朝廷は各神社に異国降伏の祈願を行はせられた。後宇多天皇は石清水八幡宮に奉幣され蒙古軍退去の御祈祷をされた。

 

弘安四年(一二八一)には蒙古の大軍が再びわが国に迫った。亀山上皇は、伊勢皇大神宮へ敵国降伏を祈願するための勅使を派遣された。『増鏡』(後鳥羽天皇即位から後醍醐天皇の隠岐からの還幸まで、一五代約百五十年間の歴史を編年体で記した歴史書)には「わが御代にしもかゝる乱出できて、誠にこの日本のそこなはるべくは、御命めすべき」との宸筆の願文を、伊勢皇大神宮に捧げられたと記されてゐる。

 

同年六月には、亀山上皇は石清水八幡宮に御幸され、神楽を奏せしめられ、西大寺長老・叡尊(えいぞん)をして真読(しんどく・経典を省略しないで全部読むこと)の大般若経(だいはんにゃきょう)を供養せしめ、終夜、敵国降伏・元寇撃滅を祈願あそばされた。このときにも、いはゆる「神風」が吹き、「國に仇をなす十余万の蒙古勢は、底の藻屑と消え」てしまった。このことにより日本国民の八幡大神をはじめとした日本の神々への信が深まり、日本神国思想がますます強固になった。

 

亀山上皇は、石清水神宮に御幸された時、次の御歌を詠ませられてゐる。

 

「石清水 たえぬながれは 身にうけて 我が世の末を 神にまかせむ」

 

頻繁に外國船が来航するやうになった幕末期の外患の危機の際し、孝明天皇は、弘化四年(一八四七)四月二十五日、石清水八幡臨時祭を挙行された。野宮定祥(ののみやさだなが)を勅使として派遣され、神前に宣命を捧げられた。

 

その宣命には「近時相模國御浦郡浦賀の沖に夷の船の著(つき)ぬれば、その来由を尋るに、交易を乞ふとなむ申す。それ交易は、昔より信を通ぜざる國に濫りに許したまふことは、國體にも関はりれば、たやすく許すべきことにもあらず。…肥前國にも来着なとなむ聞し食(め)す、利を貪る商旅が隙を伺ふの姦賊が情實の知り難きをイかには為(せ)むと、寤(さめ)ても寐(ね)ても忘れたまふ時なし、掛けまくも畏こき大菩薩、この状を平く安く聞こし食して、再び来るとも飛廉(ひれん・風の神の名)風を起こし、陽侯浪を揚げて速やかに吹き放ち、追い退け攘ひ除け給ひ、四海異なく、天下静謐に、宝祚長く久しく、黎民快楽に護り幸い給ひ、恤(あは)れみ給ふべし、恐れみ恐れみ申し給はくと申す」と示されている。

 

孝明天皇は、「寝ても覚めても外患を忘れる事は出来ない、外國船が来たら風波を起こして撃退し、四海に異変なく、天下は平穏で、國體は安穏に、國民の幸福を護り給へ」との切なる祈りを八幡大神に捧げられた。

 

さらに、孝明天皇は、嘉永三年(一八五〇)には、「萬民安楽・宝祚長久」の御祷りを伊勢皇大神宮・石清水八幡宮など七社七寺に捧げられた。また、神佛に祈りをささげられると共に、幕府に対してしっかりとした対策を講じるやうにとの勅書も下された。

 

孝明天皇が、外患に際して日本國の祭祀主としてとご使命を果たされたことが、その後の明治維新の断行・日本國の独立の維持の基盤となったのである。

 

孝明天皇は文久三年(一八六三)三月十一日、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と賀茂御祖(かもみおや)神社行幸攘夷祈願を行はせられた。これには、征夷大将軍・徳川家茂および在京中の諸大名が供奉した。

 

國難にあたり、神祭り・神事を盛んに行はせられるのは、天皇の國家御統治の根幹である。孝明天皇の國家・國民を思ひ給ふ大御心、御祈りが、草莽の志士達を決起せしめ、明治維新の原動力となったのである。

 

天皇が御所の外に行幸あそばされるのは、江戸初期の寛永三年(一六二六)年に、第一〇八代・後水尾天皇が、徳川秀忠・家光に謁見されるために二条城に行幸あそばされて以来のことであった。まことに畏れ多い申し上げやうであるが、あへて申せば、徳川武家政権は、上御一人日本天皇を京都御所に幽閉状態に置き奉ったのである。

 

孝明天皇は、同年四月十一日、石清水八幡宮に行幸になり、神前において徳川家茂に攘夷の節刀(天皇が出征の将軍に下賜する刀)を賜らんとされた。これは神前で幕府に攘夷の戦争を決断させる目的であったと傳へられる。

 

これを長州の策謀と断じた将軍後見職・徳川慶喜は、将軍・徳川家茂には病と称させて供奉させず、自身が名代として行列に供奉する。しかも、慶喜も石清水八幡宮まで来ると、腹痛と称して山下の寺院に籠もってしまう。慶喜は、天皇に社前まで来るよう召されたが、腹痛を理由にとうとう神前へは行かずに済ませてしまったという。病気(おそらく仮病であらう)を駆け引きに使って、神前での攘夷決行の誓いを回避したのは慶喜の奸智であり政略であったと言はざるを得ない。

 

この石清水行幸には多くの民衆が集まった。中でも大阪から京都に民衆が夥しく登り、宿屋は一杯になり、祇園の茶屋が客を部屋に詰め混む有様であったといふ。民衆は天皇に強い仰慕の思いを持って集まり、神聖なる祭祀主日本天皇こそが日本國の唯一の君主であることを自覚したのであった。

 

賀茂行幸・石清水行幸において、二百三十七年ぶりに民衆の前にお姿を現せられた天皇は、征夷大将軍・各藩主の上に立たれる日本國の統治者であらせられるという天皇のご本質を顕現せられのたのであった。賀茂行幸・石清水行幸は、天皇を中心とする日本國體が正しく開顕する第一歩となったのである。

 

孝明天皇は、安政五年(一八五八)五月十五日「石清水社法楽(神佛習合の祭典))に、「寄山神祇」と題されて次のやうに詠ませられた。

 

「八幡山 かみもここにぞ あとたれて わが國民を まもるかしこさ」

 

文久二年(一八六二)十月十六日の「石清水御法楽」には、「薄風」と題されて次のやうに詠ませられた。

 

「夕嵐 吹くにつけても 花薄 あだなるかたに なびくまじきぞ」。

 

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