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2017年12月30日 (土)

西洋の絶対君主制と日本国体との違いは、京都御所の清々しさ・麗しさと、ヴェルサイユ宮殿の豪華絢爛さとを比較して判然とする

 フランスのヴェルサイユ宮殿は、ルイ十三世の別荘を十七世紀にルイ十四世が拡張し造営した宮殿。宮殿の後ろ側にある広大にして幾何学的構図の美しいフランス風庭園がある。この庭園は、一六六三年にル・ノートルという人が図面を引いて設計し、ヴェルサイユ宮殿を取り巻いていた自然を切り開いて造成された。キリスト教の浸透によって、神が棲む森は神聖であるとか、木に霊が宿っているというような信仰が消え失せてしまったので、森を切り開き、自然を造り替えることに何の恐れも感じなかったのである。

 

 ヴェルサイユ宮殿の庭は、日本の寺院や城郭の庭とは趣を全く異にする。自然と対立し、自然を作り替え、自然に整形美容を施して、庭園にしている。一方、京都の龍安寺・石清水八幡宮・修学院離宮・桂離宮など日本の神社仏閣の庭園は、自然と対立せず、自然を改造せず、自然に即し、自然の美しさを生かした庭園となっている。

 

 穏やかな風土の緑豊かな地に生まれた多神教の神は、自然と一体であり自然の中に宿る。不毛な風土の砂漠地帯に生まれた一神教の神は、自然と対立しこれを支配し征服する神である。日本伝統信仰は、自然の「神のいのち」として拝ろがむ精神を持っているが、キリスト教の自然観は人間は神の命令により自然を征服し支配し改造する権利を与えられているという信仰があるので、庭造りにしても、自然を改造して美しさを作り出すのである。こうした自然観の違いが庭造りにもはっきりとあられている。

 

 『創世記』には、「神いひ給ひけるは、『我等に象(かたど)りて、我等の像(かたち)のごとくに我等人を造り、之に海の魚と、空の鳥と、家畜と全地と地に匍ふ處の諸(すべ)ての昆蟲(はふむし)を治めしめんと』…『生めよ殖えよ、地に滿てよ、地を從がはせよ。又海の魚と空の鳥と地に動く所の諸(すべ)ての生き物を治めよ、…』」と記されている。

 

 この神の命令により、神の形の如く造られた人間は、自然を征服し支配し改造し操作し利用する権利があるとされる。これが西洋における自然改造の手段としての科学技術や機械の発展の精神的基礎であると言える。近代科学技術はこのような自然観を基礎として発達し、それによって人間は便利な生活を享受したが、反面、そのために自然を破壊しつつあることも事実である。

 

 しかし、神への信仰があるうちはまだ、神が創造した自然を、人間の利己的な目的のみのために利用し改造し害することは、神に対する「罪」であるという慎みの心があった。しかし、その天地創造神をすら否定する人が多くなった近代社会においては、そうした心も消え失せ、人間の「幸福」のために自然を改造し破壊してきたのである。それが現代における自然破壊・公害問題の根本原因であると考える。

 

 一方、日本の精神伝統(芸術にも宗教にも文芸にも)は、自然崇拝、自然を神として拝む心がその基本にある。これが日本の精神史の不滅の基礎である。したがって、この自然崇拝の心(人と自然との一体観)という日本の精神伝統に反する外来宗教であるキリスト教は日本に深く根付くことはなかった。  

 

しかし、ヴェルサイユ宮殿を作り権勢と栄華を誇ったルイ十四世は、他人からは「太陽王」と呼ばれ、自ら「朕は国家なり」と言った。これは国土と国民を自分の私有物として支配するということである。己の「私」によって国家を支配し、「私」によって人民を罰する。自分に服従する人民のみを保護し、服従しない人民は迫害する。これを「専制君主」という。ユダヤ教やキリスト教の神が「選ばれたる民」「己を信ずるもの」のみを保護するのと相似である。

 

 これは、「あめがしたしらしめす」(『知る』という動詞に、尊敬の意を表す『す』の付いた語に、さらに敬意を添える『めす』の付いた語。お知りになるという意)「きこしめす」(同じくお聞きになるという意)という<やまとことば>で表現される日本天皇の国家統治の御精神とは全く異質である。つまり、天下の事情そして民の意志をお知りになり、お聞きになるというのが、日本天皇の統治精神なのである。こうした精神は、西洋や支那の絶対専制君主の国家支配とは全く異なる。

 

 ルイ十四世は国家を私物化したが、日本天皇は国家を私物化することを厳しく戒められた。明治天皇の外祖父・中山忠能前権大納言は、明治天皇の御即位にあたって、「そもそも皇国は天照皇大神の御国で、天子をして之をあずからしめてあるので、至尊といえども吾物と思召(おぼしめし)ては、自然御随意の御処置に押移るべく、御在位中は、光格、仁孝の両帝のお定めになったものを、よくよく御守りになるように」と言上したという。このように、日本天皇の国家統治は西洋絶対君主の国家支配とは正反対に「無私の精神」が基本となっていたのである。

 

 皇位の御印として伝えられている『三種の神器』の一つが自己を主張せず一切を映し出す「鏡」であることは、天皇統治が「無私」の精神であることを象徴している。

 

 そもそもフランスのブルボン王朝の国王だけでなく、ヨーロッパ諸国の国王は、封建君主の大なるものにすぎない。日本で言えば徳川将軍である。日本天皇は政治権力も軍事力も有せずして、封建君主たる将軍を任命する御存在であった。

 

 ゆえに、ルイ十四世などの西欧の絶対君主は、日本天皇とは全くその性格を異にする。西洋の絶対君主制と日本国体との違いは、京都御所の清々しさ・麗しさと、ヴェルサイユ宮殿の狂気の如き豪華絢爛さとを比較しても判然とする。

 

 さしものブルボン王朝も一七八九年に起こったフランス革命によって滅亡する。本当か嘘かは分からないが、王妃マリアントワネットは、大臣が「農民に食べるパンがありません」と言ったら「ではケーキを食べればいいではありませんか」と答えたという。革命の時ヴェルサイユ宮殿に押しかけた民衆は殺した衛兵の首を槍の上に刺して王妃の部屋に乱入したという。国王と王妃は六年間の獄中生活の末に断頭台に送られた。その時三十八歳の王妃の髪の毛は真っ白だったという。

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千駄木庵日乗十二月三十日

午前は、諸事。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

夕刻、団子坂下にて、若き友人と懇談。

帰宅後は、明日からの出張の準備など。

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日本伝統信仰と一神教

 カトリック教会には必ずキリストの磔像がある。磔像は、芸術的美しさあるいは宗教的荘厳さはあるといえども、有り体に言えば他人に殺された人の死体である。これを礼拝の対象にするというのは日本人の感覚ではとても考えられない。日本伝統信仰が鏡を御神体として拝む清々しさとは全く異なる信仰精神である。仏教も涅槃像と言って釈尊の死体を拝む。しかしこの場合は老衰で亡くなった時の姿であって、磔という残虐な処刑方法で殺された姿ではない。キリスト教というか一神教の異質さを実感した。この像を拝む人々は、人類の罪を背負って殺されたというイエスへの崇敬の念を抱くと共に、殺した人々への怒り・恨み・報復の念を持つのではあるまいか。

 

 事実、イエスを死地に老いやったとされるユダに対するキリスト教徒の呪咀はすさまじい。キリスト教徒ではなくとも、「ユダ」という名前は裏切り者の代名詞として使っている。言語学的に見て、ユダ(Judaios)の名はユダヤ人全体を意味する。ユダは憎むべきユダヤ人の典型であると見られたのである。

 

 そして、キリスト教国で反ユダヤ感情の無いところは無いと言われている。特に社会的不満が鬱積すると反ユダヤ感情が激化する。新約聖書の『ヨハネ伝』では、イエス・キリストはユダヤ人に、「汝ら(ユダヤ人)は己(おの)が父悪魔より出(い)でて、己が父の慾を行はんことを望む。彼は最初(はじめ)より人殺しなり、また眞(まこと)その中になき故に眞立たず、彼は虚偽(いつはり)を語る毎(ごと)に己より語る、彼は虚偽者(いつはりもの)にして虚偽の父なればなり」(第八章)と述べ、ユダヤ人は「悪魔の子」「人殺し」「嘘つき」であるとしている。新約聖書はユダヤ人を敵視しており、新約聖書は反ユダヤ思想の最も基礎的にして最も影響力の強い文献であったといわれている。ただし、一九六三年六月三日、ローマ法王・ヨハネ二十三世はキリスト教徒のユダヤ迫害の許しを乞う祈りをした。

 

 旧約聖書『創世記』によると、キリスト教の母体であるユダヤ教の神・エホバと、イスラエルの民の祖でありユダヤ教、キリスト教、イスラム教で模範的篤信者として崇められているアブラハムとが契約を結ぶ。これが「旧約聖書」の「旧約」である。

 

その契約の儀式では、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、家鳩のひなを神の前に連れて来て、鳥以外の獣を二つに裂き、裂いたものを互いに向かい合わせて置いた。これは契約を破ると身を二つに切り裂くぞという意味が込められているという。そして、その後も長い間エルサレムのユダヤ教の神殿において祭司たちが年々動物を裂き、その血を流して民の罪を贖なった。

 

 キリスト教もイエス・キリストが生けにえとなりその血によって人類の罪を赦してもらうというのである。新約聖書『マタイ伝』によると、イエスは最後の晩餐の時、「…あなた方のために流す私の血で立てられる新しい契約である」と語った。

 

『最後の晩餐』においてキリストが弟子たちにパンと葡萄酒を分け与えるというのは、アブラハムが動物の肉と血を神に捧げたことの再現であるという。聖書に『旧約』と『新約』とがあるのはここから来ている。

 

 だから、イエス・キリストは、「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ伝一章二九節)といわれるのである。また人類の始祖とされるアダムとイブの子であるカインはエホバに農作物を捧げたが、エホバは血のない捧げものであったので拒否した。砂漠で生まれた宗教たるユダヤ教・キリスト教の神は「血を流すことなしには罪の許しはありえない」(ヘブル人への手紙)とするのである。ともかくユダヤ教・キリスト教の罪の赦しでは、人間や動物の血が流されなければならないという信仰精神なのである。

 

 神と人間が契約を結ばなければならないというのは、神と人間とが絶対的他者であるということである。日本伝統信仰は、日本の神と人と自然とは相対立し隔絶した関係ではなく、一体の存在である。まして神の怒りを解き、罪を許してもらい、神の報復を防ぐために、人間や動物を生けにえとして捧げるなどということもない。今年の豊作を感謝し来年の豊饒を祈念して農作物などを神に捧げ、お祭りをし、直会においてそれを神と共に食し、神と人とが合一するというのが、日本の伝統信仰である。

 

 神の怒りを解き罪を許してもらうために人や動物の肉や血を捧げるという残虐な信仰精神は日本伝統信仰にはないのである。これが、キリスト教と日本伝統信仰の決定的な違いである。『祭り』と『契約』の違いが日本神道と一神教違いと言っていいだろう。

 

 だから、日本民族は異質な信仰としてユダヤ教・キリスト教・回教という一神教を受け容れることはなかったのである。日本人のクリスチャンは人口一億二千万に中にわずか十五万人である。

 キリスト教会にはイエスキリストの磔像と共に必ずマリア像や数多くの聖人像がある。これはキリスト教の伝道者が、中央および西ヨーロッパに生きていた民族宗教に直面した。絶滅に抵抗した民族宗教を「キリスト教化」するために民族信仰の多数の神々を同化した。マリア像は、多くの民族宗教の豊饒の女神がキリスト教化された姿であるといわれている。

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千駄木庵日乗十二月二十九日

午前は、神棚。仏壇、室内清掃。諸事。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

夕刻、鎮守の神である根津神社に参拝。お札納め。

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根津神社

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根津神社

帰宅後も、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆。書状執筆。

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2017年12月28日 (木)

日本天皇の祭祀を頂点とする日本伝統信仰こそが現代の混迷を打開する精神的基礎である

 

日本天皇が日本國の君主であらせられ、日本の文化と歴史継承の中心者であらせられるということは、天皇が行われる「祭祀」と不可分の関係にある。

 

 ところが、「現行占領憲法」下において、皇室祭祀は天皇の私的行為とされている。このため政教分離規定との関係で、國との関わり合いの問題が常に憲法論争になってきた。しかしながら天皇の祭祀は個人の幸福を祈る私的なものでは微塵もなく、あくまで國家國民の平和と安定を祈念されるのであり、天皇の國家統治の精神そのものである。ゆえに、成文憲法に規定されていようといまいと、天皇の祭祀は天皇のもっとも大切な「ご使命」である。

 

 天皇の國家的、文化的統合者としてのご使命の基礎には、祭祀や歌会始などの伝統的行事・儀式にある。天皇と世俗的権力との関わりは時代によって異なり、積極的に関わった時もあれば、そうでない時もあって様々である。しかし歴史的に見て、一貫して変わらなかったのは祭祀と大御歌である

 

 また、天皇は日本の「君主」「元首」「統治者」即ち國家的に最高の地位にある以上、國民の尊崇の対象となることは当然である。また、天皇は日本國の永続性および日本國民の統合の中心であり、國家の中心は國家の尊厳の対象である。したがって、天皇の尊厳性を侵してはならない。

 

 大東亜戦争の敗北後、占領軍によって行われたいわゆる「民主化」そしてその後続けられた共産主義革命勢力による國家破壊策謀は、今日の日本に大きな禍根となっている。その最大のものが、「天皇の尊厳性の隠蔽」である。

 

 日本國存立の基礎は、神聖君主・天皇の御存在である。日本民族が天皇及び皇室を尊崇する精神を喪失し、天皇の神聖性・尊厳性が冒される時、日本國は崩壊の危機に瀕する。皇室の危機はとりもなおさず真の國家の危機である。

 

 信仰共同體・祭祀國家日本の祭祀主であられる天皇は、その本質が神秘的御存在なのである。日本國民は天皇を神聖なる御存在と仰いできた。これを<現御神信仰>という。そしてこの信仰は、日本伝統信仰の中核である。

 

 何故、天皇は神聖なる御存在であるのか、それは天皇が、天照大神の地上に於ける御代理であらせられるという「神話の精神」によるのである。また、何故天皇が日本國の統治者であらせられるのか、それは天皇が、天照大神より日本國を統治せよと御命令を受けておられるという「神話の精神」によるのである。それ以外に理由はないのである。このことをまず以て確認しなければならない。古代から今日に至るまで様々な時代の変遷があったが、このことは決して変わることはないのである。

 

 「神話の精神」と言うと非科學的だとか歴史的事実ではないと主張してこれを否定する人がいる。しかし、神話は荒唐無稽な伝承ではない。神話において語られているのは、一切のものごとの生成の根源であり古代人の英知の結晶であり、神話的真実なのである。神話には日本民族の中核的思想精神・根本的性格(國家観・人間観・宇宙観・神観・道義観・生活観など)が語られているのである。そして「日本神話の精神」は、は西洋科学技術文明及び排他独善の一神教を淵源とする闘争的な西洋政治思想の行きづまりが原因となった全世界的危機を打開する力を持っている。

 

 しかも日本民族の「神話の精神」はただ単に『古事記』『日本書紀』といった文献だけでなく、「天皇の祭祀」という「生きた行事」によって今日まで継承され語られているのである。 

 

 神話には時間を超えた永遠の価値がある。日本民族の伝統的思想精神の結晶である神話への回帰、日本天皇の祭祀を頂点とする日本伝統信仰こそが現代の混迷を打開する精神的基礎であると信ずる。

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千駄木庵日乗十二月二十八日

午前は、諸事。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

午後六時より、四谷にて、同志三氏と懇談。

帰宅後は、原稿執筆、書状執筆。

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2017年12月27日 (水)

三輪山信仰について

 わが國は三輪山信仰などの太古からの信仰が今日唯今も生きてゐる。それも現代生活と隔絶した地域で生きてゐるのではなく、今日唯今の生活の中に生きてゐる。これが日本伝統信仰のすばらしさである。世界でも類ひ稀なことである。

 

 三輪山が大和地方の神奈備であるといふことは、三輪山はその地に都を置いてゐた大和朝廷の信仰的権威の象徴でもあったと思はれる。だから、敏達天皇の御代に、蝦夷の反乱を討伐して蝦夷の酋長を大和に連れて来た時、泊瀬川(はつせがわ)で体を清めさせて、三輪山の神の御前で大和朝廷への服従を誓はせたのである。

 

 なぜ三輪山が大和の神奈備になったのかといふと、山の姿そのものが美しかったことにもよるが、それと共に大和盆地の東南に位置する三輪山の方角から太陽が昇って来たからであらう。そして大和盆地の上を太陽が渡って二上山の方角に沈んだ。故に太陽信仰・日の神信仰の象徴として三輪山が仰がれた。三輪山信仰は、山そのものを御神体として拝むと共に、三輪山の背後から昇って来る日の神への信仰・太陽信仰でもあったのである。

 

 三輪山の麓には檜原神社が鎮座する。檜原の地は大和笠縫邑(ヤマトカサヌイノムラ)といはれ天照大神が伊勢の神宮に祭られる前に祭られた地である。だから檜原神社を元伊勢と申し上げる。天照大神は最初に三輪山の麓に祭られた後、各地を経巡られて、最後に大和盆地の直線上東方に位置する伊勢の地に鎮まられたのである。

 

 また、三輪山の麓から真直ぐ西に行ったところに大きな箸墓といふ古墳がある。倭迹々日百襲姫命の御墓といはれてゐる。『書紀』には、この倭迹々日百襲姫命に大物主神が神懸りしたと伝へられてゐる。つまりこの墓は三輪山の神を祭った巫女の墓といふことである。

 

 邪馬台國畿内説をとる人は、この古墳を、太陽神を祭った祭祀王である卑弥呼(ヒミコ)の墓であるとしててゐる。卑弥呼(ヒミコ)とは支那人が日本を蔑視してこのやうな漢字をあてたのであって、正しくは「日の御子」である。邪馬台國(ヤマタイコク)はいふまでもなく「大和の國」である。

                     

 何故、日本最尊・最貴の神であられ、皇室の御祖先神であり太陽神であられる天照大神が女性神であられるかといふと、太陽神を祭る祭り主が女性であったから、祭る神が祭られる神になったからであると言はれてゐる。太陽神が祭り主と合体合一したのである。

 

 大和盆地をはさんで三輪山の向かひ側(即ち大和盆地の西方)にある二上山には、刑死された大津皇子(天武天皇の第三皇子)の御陵がある。二上山の麓には當麻寺といふ寺がある。この寺はわが國最初の浄土信仰の寺であり、浄土を描いた有名な『當麻曼荼羅』がある。つまり二上山は夕陽が入る山であるので他界(西方極楽浄土)の入り口と考へられたのである。

 

 そして二上山の向かふ側には天皇御陵がたくさんあり、さらに西へ真っ直ぐに直線を伸ばすと、國生みの神であられる伊耶那岐命・伊耶那美命を祭った神社がある淡路島に至る。

 

 伊勢の神宮起源の地といはれる伊勢の齋宮から、大和盆地の三輪山・檜原神社(元伊勢)・倭迹々日百襲姫命墓・二上山を経て、仁徳天皇御陵などの天皇御陵の鎮まる大阪府堺市百舌鳥、そして國生みの神を祭る淡路島に至るまで、東西に走る直線で結ばれる、まことに不思議な事実がある。これは太陽の移動する線と共に神々を祭る地があるといふことである。この線は北緯三四度三二分である。

 

 三輪山の麓には、崇神天皇・景行天皇の御陵がある。三輪山とその周辺が大和朝廷の祭祀の場所であったことは明らかである。

 

 『日本書紀』は神武天皇と崇神天皇を「ハツクニシラススメラミコト」(國を初めて統治された天皇といふほどの意)と称へてゐる。崇神天皇の御代に、それまで天照大神を宮中の大殿に祭ってゐたのを、大和笠縫邑(今日の檜原神社が鎮座するところ)にお祭りするやうになった。

 

 大和盆地に大和朝廷の都を置くといふのは、神武天皇以来の伝統であった。『日本書紀』に、神武天皇が塩土老翁(しほづちのをぢ)といふ航海・海路の神の御託宣により、大和橿原の地に都を開かれることを御決意あそばされた時の御言葉が記されてゐる。それには、「東(ひんがし)に美(うま)し地(くに)有り。青山四周(あおきやまよもにめぐ)れり。…彼の地は、必ず以て大業を恢弘(の)べて、天下(あめのした)に光宅(みちを)るに足りぬべし。蓋し六合(くに)の中心(もなか)か。…就(ゆ)きて都つくるべし」と示されてゐる。

 大和の國は四周を山に囲まれ当時の日本のほぼ中央に位置する美しい國であった。神武天皇は神の御託宣によって大和の地を都のあるべき地と定められたのである。

 

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千駄木庵日乗十二月二十七日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、原稿執筆の準備など。。

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『政治文化情報』平成三十年一月号のお知らせ

四宮政治文化研究所発行・『政治文化情報』平成三十年一月号のお知らせ

 

『政治文化情報』は、昭和五十九年創刊以来、小生の論考、時局問題などに関する主張、活動状況の報告、各方面から得た様々な情報などを掲載し、それなりの評価を得て来たと自負致しております。
多くの心有る皆様方のご購読をお願い申し上げます。
見本誌御希望の方はご遠慮なくメールでお申し込み下さい。

メールアドレス m-shinomiya@max.hi-ho.ne.jp

購読料
年間 12000
半年 6000

平成二十九年十二月号(平成二十九年十月二十五日発行)の内容

 

〈皇都の一隅より〉

日本共産党は自由を圧殺する政党である

 

共産党を「リベラル政党」とするのは全く間違ってゐる

 

立憲民主党が本当にリベラルなら共産・社民を厳しく批判すべきである

 

共産主義と自由は理念的に無縁である

共産主義体制とは、プロレタリア独裁=共産党独裁=党最高指導者専制といふ政治である

 

自由を奪ひ日本の文化を破壊する独裁専制主義政党に対しては徹底して不寛容でなければならない

千駄木庵日乗

 

橋下富太郎麗澤大学助教「日本人としてのあり方・道徳の指標は天皇・皇室である。新渡戸稲造の意思を継いでゆくべし。武士道を素養として身につけさせるには新渡戸の『武士道』を学ばせることが大事」

 

武貞英士拓殖大学大学院教授「脱北者が亡命政府の主席に金正男を据えようとした。見せしめにカメラの前で殺された」

 

猪子恒大本東京宣教センター次長「天地間の森羅万象は、何れも皆神の藝術的産物である。この大藝術者、即ち造物主の内面的真態に触れ、神と共に悦楽し、神と共に生き、神と共に動かむとするのが、真の宗教でなければならない」

 

久保文明東京財団上席研究員・東京大学法学部教授「アメリカ大統領は行政部の中では強い権限を持っているが、議會に対してはそうではない」

 

梅川健首都大学東京都市教養学部法学系教授「メキシコとの國境の壁の建設には金がかかる。金の措置をするのは議會」

 

千駄木庵主人「いまの支那人は孔子の教えに反することばかりやっている。『論語読みの論知らず』という言葉あるが、『論語』を全く読んでいないのである。讀んでいても書いてあることと逆のことをしているのだ。こういうことを書くのも『ヘイトスピーチ』になるのだろうか?」

 

この頃詠みし歌

 

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三輪山信仰の歌

 

 三輪山は奈良県桜井市にある。大和盆地の東南にある山。麓に古道・山辺の道が通ってゐる。海抜四六七m。周囲十六㎞。紡錘形の美しい山。麓に大物主神を祭る日本最古といはれる大神(おほみわ)神社が鎮座する。この神社の御神体が三輪山である。したがって大神神社には神殿は無い。大物主神は三輪山の御神霊である。大物主命は出雲に祭られてゐる大國主命の和魂であり別名とされてゐる。大國主命は、御自らの和魂を大物主と名前を変えて大和の神奈備(注・地域社会・共同体ごとに信仰の対象になる神の山)である三輪山に鎮まられたとされる。 

 

 三輪山にはつぎのやうな古来からの伝承がある。崇神天皇の御代に悪疫が流行した時、大物主神が、倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト・孝霊天皇皇女)に神憑りし、また、崇神天皇の夢枕にあらはれ、「意富多多泥古命(大田田根子命とも書く・オホタタネコノミコト)に私を祭らせなさい」といはれたので、天皇がそれを実行されると悪疫はなくなったといふ神話である。

 

 また、意富多多泥古命の三代の祖の活玉依姫(イクタマヨリヒメ)が、男性が通って来た様子もないのに妊娠した。両親が「どうして子供を身ごもったのか」と聞いたところ、夜、夢の中に眉目秀麗な若者が訪ねて来ると答へた。そこで両親はその男の身許を知るために男の衣服の裾に麻糸を通した針を付けさせた。朝になってその親子が、男が帰って行った跡を、糸でたどって追って行くと三輪山に着いた。そこでその男は三輪山の神であることが分かったといふ神話がある。

                

 御神体になってゐる山には必ず磐座(イハクラ)がある。京都の岩倉にも磐座があり神社がある。巨石信仰である。巨石信仰を英語ではストーンサークルと言ひ、大きな石を幾つか置いてそこに神が降って来るといふ信仰である。

 

 三輪山には頂上・中腹・三号目の三ヵ所に石群が山を取り巻く輪になってるゐる磐座があるといふ。だから三輪山と名付けられたといふ説もある。

 

 三輪山はわが國の原始信仰が今日において生きてゐる山である。わが國には地域社會・共同体ごとに信仰の対象になる神の山があった。これを神奈備(かむなび)信仰といふ。そして神奈備山には磐座といはれる巨石がある。特に大和盆地の東南に美しい形で横たはってゐる三輪山を大和地方の人々はの姿を毎日仰ぎながら生活して来た、そして、神奈備とし古くから崇めて来た。

 

 大和地方の人たちにとって三輪山は信仰の対象なのである。だから近江に都を遷すことによって三輪山と別れることを大和の人々は非常に悲しんだ。或いは神威を恐れた。神の祟りがあるのではないかと恐怖したのかもしれない。大和人にとって大和の國から去るといふ事は三輪山から去ることと同意義だったのであらう。

 

 神武天皇が橿原の地に都を開いて以来、ごく一部の例外を除いて、大和の地から他の地に都が遷ったことはなかった。大和に根付いた豪族もゐたし、太古から大和の地に祭られてきた神々もゐた。萬葉時代の神への信仰・畏怖の念の深さは今日的感覚では想像もつかないくらい深く切なるものがあった。大和を捨てて近江へ都を遷すことへの反発も想像以上であったらう。

 

 『日本書紀』には、「この時に、天下の百姓(おほみたから)都遷すことを願はずして、諷(そ)へ諫(あざむ)く者多し。童謡(わざうた)また衆(おほ)し。日日夜夜、失火の処多し」と記されてゐる。

 

 額田王は、さうしたことへの慰撫鎮魂歌を詠んだ。それが、

 

 

額田王、近江國に下りし時、作れる歌。

 

味酒(うまざけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隱(かく)るまで 道の隈(くま) い積(つも)るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見さけむ山を 情(こころ)なく 雲の 隱さふべしや                           (一七)

 

 通釈は「三輪山が奈良山の端に隠れるまで、道の曲がり角が幾重にも重なるまでに、思ひ残すことのないまでに、見続けて行きたいのに、幾たびも見遥かして眺めたい山なのに、心なくも雲が三輪山を隠して良いものだらうか、良くはない」

 

 切迫感のある力強い歌。特に「情なく 雲の 隱さふべしや」といふ結句が強い調べになってゐる。「幾度も振り返り振り返り心をひかれてゐるのに、雲が三輪山を隠してしまふ、そんなことをしないでおくれ」といふ三輪山恋慕の歌である。

 

  反歌

 

三輪山をしかも隱すか雲だにも情(こころ)あらなむ隱さふべしや  (一八)

 

 通釈は「三輪山をどうしてあのやうに隠すのだらう。せめて雲なりとも情けがあったならば、隠してよいものか」。

 

 本来心なき雲に心あれかしと願ふ心の背後にあるものは、どうしても三輪山そしてそれが象徴する大和の國から離れたくないといふ悲しみの情念が込められてゐる。近江遷都が行はれたのは、天智天皇六年三月十九日、陽暦でいふと四月二十日のことであった。

 

 三輪山を雲が隠してしまへば、恰かも三輪山の神が怒っておられるやうに思はれたのかもしれない。そこで三輪山を見たいといふ切なる願ひを歌によって三輪山の神霊に手向けることにより、神の御心を鎮め、遷都がつつがなく行はれることを祈ったのである。長歌の結句「情なく 雲の 隱さふべしや」と、反歌の結句「情あらなむ隱さふべしや」は、山への霊的な呼びかけであり自然の精霊との交感である。

 

 またこのやうに宗教的解釈は別にしても、この歌は大和を離れ行く人々の大和と三輪山への愛着の思ひを切々と歌った歌である。ともかく、三輪山に名残りを惜しむ深い宗教的感情或いは激しい恋情の心が歌はれてゐる。額田王にとって三輪山は単なる自然物ではなかったのである。神への信仰と恋人への恋慕の情はよく似たものなのかもしれない。

 

 なほ、「萬葉集」に「山上憶良大夫の類聚歌林に曰く、都を近江國に還しし時、三輪山を御覧(みそなは)せし御歌なりといへり」と書かれてゐる通り、この長歌と反歌は、天智天皇の御歌との伝承があるが、熟田津の船出の時のやうに、額田王が天智天皇の命令で代作したか、天皇のお立場に立って詠んだ歌であらう。

 

 とすると、この歌は個人的な感傷を歌った歌ではなく、遷都の際に、天皇につき従って行く時、奈良山を越える峠の國境での三輪山の神に代表される大和の國魂への畏敬と鎮魂の祭事の歌として歌はれたのであるといふことになる。

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2017年12月26日 (火)

千駄木庵日乗十二月二十六日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、資料の整理、原稿執筆、書状執筆。

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萬葉古代史研究會

萬葉古代史研究會

 

四宮正貴が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。

 

日時 一月十日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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国難と八幡大神信仰

 清和天皇から源姓を賜った皇孫の経基(六孫王)から始まった清和源氏は、清和源氏は八幡大神を氏神(一族の守護神)として崇敬し、勢力の拡大とともに全国に数多くの八幡宮を祀った。

 

源経基は、平安中期に、平将門が反乱を起こす危険を朝廷に奏請し、藤原純友が起こした承平天慶の乱平定に功があったため、武人として高く評価された。他にも天皇の名を冠した源氏が多くあるが、中でも最も栄えたのがこの清和源氏系といわれ、鎌倉幕府の源頼朝、新田氏、室町幕府の足利尊氏などがこの系統といわれる。

 

江戸幕府を開いた徳川氏も、この系(新田氏)と称した。河内源氏の一族・源義家が石清水八幡宮で元服して八幡太郎義家と名乗った。源氏のみならず全国の武士は八幡三所大神を武の神、弓矢の神として尊崇した。

 

八幡神は全国の武士から武の神、弓矢の神として尊崇されただけでなく、「護国霊験威力神通大自在菩薩」とも称されたやうに、朝廷をはじめ全日本国民から国難打開の神として尊崇されて来た。

 

第九十代・亀山天皇が、後宇多天皇の御位を譲られ院政を始められた文永十一年(一二七四)元寇(蒙古軍侵攻)があった。朝廷は各神社に異国降伏の祈願を行はせられた。後宇多天皇は石清水八幡宮に奉幣され蒙古軍退去の御祈祷をされた。

 

弘安四年(一二八一)には蒙古の大軍が再びわが国に迫った。亀山上皇は、伊勢皇大神宮へ敵国降伏を祈願するための勅使を派遣された。『増鏡』(後鳥羽天皇即位から後醍醐天皇の隠岐からの還幸まで、一五代約百五十年間の歴史を編年体で記した歴史書)には「わが御代にしもかゝる乱出できて、誠にこの日本のそこなはるべくは、御命めすべき」との宸筆の願文を、伊勢皇大神宮に捧げられたと記されてゐる。

 

同年六月には、亀山上皇は石清水八幡宮に御幸され、神楽を奏せしめられ、西大寺長老・叡尊(えいぞん)をして真読(しんどく・経典を省略しないで全部読むこと)の大般若経(だいはんにゃきょう)を供養せしめ、終夜、敵国降伏・元寇撃滅を祈願あそばされた。このときにも、いはゆる「神風」が吹き、「國に仇をなす十余万の蒙古勢は、底の藻屑と消え」てしまった。このことにより日本国民の八幡大神をはじめとした日本の神々への信が深まり、日本神国思想がますます強固になった。

 

亀山上皇は、石清水神宮に御幸された時、次の御歌を詠ませられてゐる。

 

「石清水 たえぬながれは 身にうけて 我が世の末を 神にまかせむ」

 

頻繁に外國船が来航するやうになった幕末期の外患の危機の際し、孝明天皇は、弘化四年(一八四七)四月二十五日、石清水八幡臨時祭を挙行された。野宮定祥(ののみやさだなが)を勅使として派遣され、神前に宣命を捧げられた。

 

その宣命には「近時相模國御浦郡浦賀の沖に夷の船の著(つき)ぬれば、その来由を尋るに、交易を乞ふとなむ申す。それ交易は、昔より信を通ぜざる國に濫りに許したまふことは、國體にも関はりれば、たやすく許すべきことにもあらず。…肥前國にも来着なとなむ聞し食(め)す、利を貪る商旅が隙を伺ふの姦賊が情實の知り難きをイかには為(せ)むと、寤(さめ)ても寐(ね)ても忘れたまふ時なし、掛けまくも畏こき大菩薩、この状を平く安く聞こし食して、再び来るとも飛廉(ひれん・風の神の名)風を起こし、陽侯浪を揚げて速やかに吹き放ち、追い退け攘ひ除け給ひ、四海異なく、天下静謐に、宝祚長く久しく、黎民快楽に護り幸い給ひ、恤(あは)れみ給ふべし、恐れみ恐れみ申し給はくと申す」と示されている。

 

孝明天皇は、「寝ても覚めても外患を忘れる事は出来ない、外國船が来たら風波を起こして撃退し、四海に異変なく、天下は平穏で、國體は安穏に、國民の幸福を護り給へ」との切なる祈りを八幡大神に捧げられた。

 

さらに、孝明天皇は、嘉永三年(一八五〇)には、「萬民安楽・宝祚長久」の御祷りを伊勢皇大神宮・石清水八幡宮など七社七寺に捧げられた。また、神佛に祈りをささげられると共に、幕府に対してしっかりとした対策を講じるやうにとの勅書も下された。

 

孝明天皇が、外患に際して日本國の祭祀主としてとご使命を果たされたことが、その後の明治維新の断行・日本國の独立の維持の基盤となったのである。

 

孝明天皇は文久三年(一八六三)三月十一日、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と賀茂御祖(かもみおや)神社行幸攘夷祈願を行はせられた。これには、征夷大将軍・徳川家茂および在京中の諸大名が供奉した。

 

國難にあたり、神祭り・神事を盛んに行はせられるのは、天皇の國家御統治の根幹である。孝明天皇の國家・國民を思ひ給ふ大御心、御祈りが、草莽の志士達を決起せしめ、明治維新の原動力となったのである。

 

天皇が御所の外に行幸あそばされるのは、江戸初期の寛永三年(一六二六)年に、第一〇八代・後水尾天皇が、徳川秀忠・家光に謁見されるために二条城に行幸あそばされて以来のことであった。まことに畏れ多い申し上げやうであるが、あへて申せば、徳川武家政権は、上御一人日本天皇を京都御所に幽閉状態に置き奉ったのである。

 

孝明天皇は、同年四月十一日、石清水八幡宮に行幸になり、神前において徳川家茂に攘夷の節刀(天皇が出征の将軍に下賜する刀)を賜らんとされた。これは神前で幕府に攘夷の戦争を決断させる目的であったと傳へられる。

 

これを長州の策謀と断じた将軍後見職・徳川慶喜は、将軍・徳川家茂には病と称させて供奉させず、自身が名代として行列に供奉する。しかも、慶喜も石清水八幡宮まで来ると、腹痛と称して山下の寺院に籠もってしまう。慶喜は、天皇に社前まで来るよう召されたが、腹痛を理由にとうとう神前へは行かずに済ませてしまったという。病気(おそらく仮病であらう)を駆け引きに使って、神前での攘夷決行の誓いを回避したのは慶喜の奸智であり政略であったと言はざるを得ない。

 

この石清水行幸には多くの民衆が集まった。中でも大阪から京都に民衆が夥しく登り、宿屋は一杯になり、祇園の茶屋が客を部屋に詰め混む有様であったといふ。民衆は天皇に強い仰慕の思いを持って集まり、神聖なる祭祀主日本天皇こそが日本國の唯一の君主であることを自覚したのであった。

 

賀茂行幸・石清水行幸において、二百三十七年ぶりに民衆の前にお姿を現せられた天皇は、征夷大将軍・各藩主の上に立たれる日本國の統治者であらせられるという天皇のご本質を顕現せられのたのであった。賀茂行幸・石清水行幸は、天皇を中心とする日本國體が正しく開顕する第一歩となったのである。

 

孝明天皇は、安政五年(一八五八)五月十五日「石清水社法楽(神佛習合の祭典))に、「寄山神祇」と題されて次のやうに詠ませられた。

 

「八幡山 かみもここにぞ あとたれて わが國民を まもるかしこさ」

 

文久二年(一八六二)十月十六日の「石清水御法楽」には、「薄風」と題されて次のやうに詠ませられた。

 

「夕嵐 吹くにつけても 花薄 あだなるかたに なびくまじきぞ」。

 

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2017年12月25日 (月)

千駄木庵日乗十二月二十五日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆・脱稿・送付。資料の整理など。

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八幡大神信仰について

八幡大神は、応神天皇(誉田別命)の御神霊で、欽明天皇三十二年(五七一年)に初めて宇佐の地に示顕したと伝えられている。

 

八幡神を祭る神社には、応神天皇(誉田別命)を主神として、比売大神、応神天皇の母である神功皇后を合わせて八幡三神として祀っていると承る。また、八幡三神のうち、比売神や、神功皇后に代えて仲哀天皇や、武内宿禰、玉依姫命を祀っている神社も多くあるという。

 

京都の石清水八幡宮の御祭神は、御本殿中央に八幡大神(誉田別尊・ほんだわけのみこと・第十五代応神天皇)、西に比咩大神(ひめおおかみさま)、 東に神功皇后(息長帯比賣命・おきながたらしひめのみこと)を祀られてゐる。本殿に鎮まる三座の神々を総称して八幡三所大神と申し上げる。

 

応神天皇は、仲哀天皇の第四皇子であらせれる。御母君は神功皇后。母君の胎内にあられて新羅へと往還されたが、ご帰国直後の仲哀天皇九年(三二〇)に筑紫において生誕された。

 

応神天皇は、水田開発など農業生産拡大を行われつつ、文化発展、殖産興業も図られた。応神天皇の御代は、鉄の文化が普及し、日本国が大いに発展した時代で、大陸・朝鮮半島との交流を深められた。同時に軍事力も強化された。こうした御事績がが、応神天皇が、国難打開・武の神たる八幡神として崇められた大きな理由であろう。

 

比咩大神は、多紀理毘賣命(たぎりつびめのみこと)、市寸島姫命(いちきしまひめのみこと)、多岐津毘賣命(たきつひめのみこと)の三柱を申し上げ、天照大御神の神勅を受け宇佐島に降られ皇土守護と国威発揚の神と承る。

 

神功皇后は、仲哀天皇の皇后であらせられ、天皇崩御後、武内宿禰とはかり懐妊の御身を以て男装して海を渡られて新羅を征してこれを下し給うた。凱旋後、応神天皇のをお産みになった。皇后であられながら、武の神として崇められている。

 

八幡神が信仰されるやーようになったのは奈良時代からであり、神代には登場されない神である。八幡信仰が盛んになったのは、武門とりわけ源氏の隆盛と深く関わりがあると思われる。また、怨霊の魂鎮めとも関連があると言われている。中世以来、討死した武将、攻められて自裁した武将及びその一族を、八幡神として祀った例が多くあるといわれる。

 

神代以来の神々いわゆる天神地祇とはそのご性格を少しく異にしているといえる。

 

「かみ」「かむ」(神)のカは接頭語である。ミとかムに意味がある。ミ・ムは霊的な力をいふといはれてゐる。また、ミは身であり実である。即ち存在の実質・中身のことである。即ち強い霊力・霊威を持った存在のことをカミといふ。

 

八幡神がわが国最初の神仏習合神として早くから信仰された。聖武天皇は、東大寺大仏(盧舎那大仏)造立に際して、豊前国の宇佐宮に勅使として橘諸兄(従三位左大臣)を遣はわし、「国家鎮護」と「大仏造立」の祈願を行わせられた。天平十九年(七四七)に八幡神の「天神地祇を率いて大仏建立に協力しよう」という意の神託が下された。

 

天平二一年(七四九)陸奥の国から大仏像に使う黄金が献上され大仏造立が完成した。聖武天皇は大変お喜びになり、この年の七月二日天平勝宝と元号を改められた。黄金の発見といふ瑞祥は八幡神の神徳のよるものとされたのであろう。

 

天平勝宝元年(七四九)十二月に、宇佐八幡の神霊が、紫錦の輦輿(れんよ・鳳輦のこと)に乗って入京し、東大寺の地主神として迎えられたという。紫錦の輦輿は、天皇のお乗り物であり、八幡神がすでにこの頃、応神天皇の御神霊であると信仰されていたと思われる。

 

 天応元年(七八一)に、八幡神に「八幡大菩薩」の神号が与へられた。延暦二年(七八三)には、「護国霊験威力神通大自在菩薩」という号も加へられている。

 

神仏習合の初期現象たる「八幡神上京」は、教義・教条の理論的裏付けがあって行われたのではない。現実が先行し、それに後から理屈がつけられたのである。まず神と仏が習合することが先だったのである。ここが日本民族の信仰生活の面白いところであり、幅が広く奥行きが深いといわれる所以である。

 

神と仏とがごく自然に同居し、同じく人々によって信仰せられて来たのが日本の信仰の特色であり傳統であろう。神と仏とを理論的教学的に識別する以前に、日本民族の信仰においては、感性において神と仏とを同一のものの変身した存在として信仰したのである。一つの家に神棚と仏壇が祀られ安置されている姿は、一神教の世界ではあり得ない。

 

日本人が太古から継承してきた自然信仰と祖霊信仰といふ日本民族の中核信仰に外来宗教が融合されていった。

 

石田一良氏は「神道の原質と時代時代の宗教・思想の影響との関係は『着せ替え人形』における人形と衣裳との関係のようなものと喩えられるかもしれない。…神道の神道たる所以は原初的な原質が時代時代に異なる『衣装』をつけ、または『姿』をとって、その時代時代に歴史的な働きをする所にある」(『カミと日本文化』)と論じてゐる。

 

いくら外来宗教を受容したからとて、わが国の風土と日本民族の気質から生まれたすべてを神として拝ろがむ伝統信仰の中核は失われることはなかったのである。

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千駄木庵日乗十二月二十四日

午前は、諸事。

『政治文化情報』発送完了。購読者の皆様には、明日と届くと思います。

午後からは、資料の整理、原稿執筆。

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2017年12月24日 (日)

わが國の傳統的な美感覚「もののあはれ」とは

「あはれ」という言葉は、「もののあはれ」という日本人特有の美感覚の基である。「もののあはれ」の「もの」は、外界の事物。「あはれ」は、自分の感情。日本の文學精神の主流になった感性であり、自然・芸術・恋愛など人生の出来事に触発されて生ずるしみじみとした趣き・情感のことと定義される。「もののあはれ」という言葉が最初に登場したのは『土佐日記』の船出の悲しさを語ったところである。

 

藤原俊成(『新古今和歌集』の代表的歌人)は、

 

「恋せずば人は心もなかるべしもののあはれもこれよりぞ知る」(恋をしないのは人の心がないのと同じだ。もののあはれも恋をすることによって知る、という意)

 

と詠んだ。近世の國學者・本居宣長はこの俊成の歌を解説して、「大方歌の道はあはれの一言に帰す。さればこの道の極意を尋ぬるにまたあはれの一言よりほかになし。伊勢物語も源氏物語もあらゆる物語もその本意を尋ぬればあはれの一言にてこれをおほふべし」と論じてゐる。

 

宣長は「もののあはれ」は日本文芸の一番大事な基本精神であると説いた。宣長は、「よきことにまれ、あしきことにまれ、心の動きてああはれと思はるることがもののあはれ」と説いた。そして宣長自身

 

「ことしあればうれしたのしと時々に動くこころぞ人のまごころ」(『玉鉾百首』)

 

と詠んだ。

 

紀貫之が執筆した『古今和歌集』の序は、「鬼神をもあはれと思はせるものが和歌である」と説いている。「もののあはれを知る心」とは、外界の事物に対する自分の心の態度のことであり、自然な心の動である。それが日本文芸の原点である。

 

しかし「もののあはれ」をやや客観的に見て美しい調べにして表現しなければ芸術としての歌にはならない。自分の情念を客観視して調べに乗せて表現し他者に美しく傳へ他者をも感動させる文藝、それが和歌である。

文藝とは哲理や理論・教条を説くものではない。「もののあはれ」を訴えるものである。人間が物事に感動した思ひといふものを、和歌や物語の形式で美しく表現する、それが文芸である。

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千駄木庵日乗十二月二十三日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、原稿執筆。

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2017年12月23日 (土)

西南戦争について

 

 明治十年(一八七七)九月二四日午前三時五五分、政府軍によって西郷軍が立て籠もる城山総攻撃が開始された。城山に籠った西郷軍はわずか三七0人、包囲する政府軍は五万人を超えていた。西郷軍は奮戦したが敗れ、西郷隆盛は午前七時過ぎ別府晋介の介錯によって満四九歳八ヵ月の生涯を閉じた。

 

 錦江湾・桜島を望むことができる地にある南洲墓地には城山における最後の戦いおよび各地の戦いにおける西郷軍の戦死者二千二三人(西郷軍全戦死者六千二百三九人の約三分の一)が埋葬されている。墓の殆どは錦江湾に向いている。戦死者には若者が多く、十歳代の若者が数百人数えられる。これらの若者は郷中教育・私學校などにおいて教育を受けた優秀な人が多かったであろうから、天寿を全うしたとしたら國家のために大きな働きをしていたであろう。鹿児島県のみならず國家にとって大きな損失であった。

 

 城山を攻めた政府軍首脳には、川村純義・大山巌(西郷の従兄弟)など薩摩出身の人も数多くいた。また参軍の山県有朋も西郷の恩顧を受けた人物である。政府軍は西郷たちの遺体に無礼を働くことはなかった。また政府の派遣した岩村通俊県令は、西郷隆盛をはじめとした二千二三名の西郷軍戦死者たちを南洲墓地にあるところに手厚く葬った。

 

 佐賀の乱鎮圧の時、その首謀者とされた江藤新平を梟首(晒し首)の刑に処したのとは大きな違いである。西郷隆盛が死してもなお政府は西郷の影響力を恐れたからともいわれている。ただし末端の政府軍兵士には西郷軍の遺体に無礼を働くものもいたという。

 

 南洲墓地は埋葬直後から鹿児島市民の参拝が絶えず献花は墓標を埋めて盛り上がったという。

 

 墓所には西郷隆盛を中心に桐野利秋(西郷軍総指揮官)・辺見十郎太・池上貞固などの墓が数多く並んでいる。

 

 南洲墓地境内には南洲神社に鎮座している。御祭神は西郷隆盛。そして西郷軍戦没者六千八百柱の御靈が配祀されている。明治十三年に参拝所が建立され、大正十一年に神社として創建された。

 

 また、墓地の正面の下の方には、勝海舟の

「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな」

 

とい刻まれた歌碑が建てられている。説明書きには「私學校の生徒が、西郷の意思に反して暴走。…西南戦争を引き起こした…幕末以来西郷と親交の深かった勝海舟が、愛する私學校生徒に身を委ね生涯を閉じた亡友のために詠んだものです」と書かれている。

 

 果たしてこの見方は正しいであろうか。西郷はただ私學校の生徒にかつがれただけなのか。勝海舟のこういう見方は西郷を政府への反逆者・賊徒にしたくないという意思に基づくものである。

 

しかし、西郷は相当の決意を持って軍を率いて上京しようとしたと私は思う。大久保・山県・伊藤等が主導する政府の非を問責するため兵を率いて上京しようとしたのは西郷自身の強い意志であると信じる。

 

 警視庁から西郷暗殺団が送り込まれたという事実を勘案すれば、陸軍大将の地位にある者として兵を率いて上京するのは当然である。それはまた島津斎彬・久光のが維新前に徳川幕府を非を糺し幕政を改革するために行った『率兵上京』を見習ったことなのかもしれない。

 

 ただし、西郷軍は最初から武力戦を想定していたのではなく、政府軍は西郷軍到着前に熊本城下を焼き払い、熊本城に籠った政府軍の方が先に発砲した来たといわれている。

 

 南洲墓地には、常夜燈が建てられている。西郷隆盛と勝海舟との會談により江戸城が無血開城され江戸が兵火から免れたことへの感謝のため、昭和十四年東京市によって建立されたという。

 

「江戸ノ開城セラルルヤ西郷南洲勝海舟両翁ノ折衝ニ依テ兵火ノ厄ヲ免レ以テ大東京殷盛ノ基ヲ成セリ茲ニ奠都七十年記念トシテ感謝祭ヲ行ヒ常夜燈ヲ建ツ 昭和十四年五月 東京市」と刻まれている。

 

 さらに『岩村縣令紀念碑』と刻まれた石碑がある。岩村通俊は、土佐藩士として維新の戦いに加わり、維新後は北海道開拓、佐賀の乱・萩の乱鎮定に功を立てた。西南戦争後、鹿児島県令として戦後処理に当たり西郷を手厚く葬り、南洲神社の前身である参拝所を建てた。このことに対する鹿児島県人の感謝の意をとどめた碑である。通俊はその後、農商務大臣・宮中顧問官などを歴任した。

 

 通俊の弟は岩村高俊であるが、高俊も維新戦争に挺身し、東山道総督として信越に出征、小千谷において長岡藩家老河合継之助と會談し、高圧的態度で挑み談判を決裂させ、長岡藩を抗戦させた。また、佐賀の乱では佐賀県令としてこれまた高圧的な態度で挑発し、佐賀県氏族を決起させたといわれている。弟は兄と違って多くの悪評を持つ人物である。この兄弟の墓は東京谷中墓地にある。

 

 城山は西南戦争最後の西郷軍司令部のあったところである。城山に立て籠もった西郷軍兵士はわずか三百七十余名。西郷隆盛が自決するまでの最後の五日間を過ごした岩崎谷の洞窟(間口三m、奥行五m)がある。政府軍の総攻撃が開始されるや、西郷がこの洞窟を出て百㍍ほど歩いたところで、政府軍の弾丸が西郷の太股を貫いた。そこで西郷は従っていた別府晋助に「晋どん、もうこの辺でよかろ」と言って切腹し、別府晋助に介錯を命じたという。

 

 こうして西南戦争は政府軍の勝利で幕を閉じた。西郷軍の戦死者は士族四九一九名、平民二九八名。政府軍の戦死者は四六五三名であったという。

 

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千駄木庵日乗十二月二十二日

午前は、諸事。

午後四時より、西荻窪にて、『伝統と革新』編集会議。終了後、出席者と懇談。

帰宅後は、書状執筆・原稿執筆。

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2017年12月21日 (木)

西郷隆盛と大久保利通

 

 西郷隆盛は文政十年(一八二七)十二月七日、武士階級の家が立ち並んでいた下加治屋町で城下士の下から二番目の地位である小姓組の家に生まれた。西郷は下加治屋町で『郷中教育』を受けた。

 

 「郷中」とは城下の道路で囲まれた一区角に住む数十戸の武士の子供たちの學区のこと。その中で行われていた組織的な教育(儒學・武道・歴史など)を『郷中教育』という。肉体的にも精神的にも徹底的な鍛練教育であったという。

 

 各郷の學舎にはそれぞれ名前がつけられ、西郷と大久保利通は加治屋町の「二松學舎」という名の學舎に學んだ。小生の母校は東京九段にある二松學舎である。これは明治初年に、大審院判事・三島毅(元岡山藩藩儒)によって創立された漢學塾である。同じ名称なので親近感を覚える。

 

 各學舎では薩摩藩中興の祖といわれる島津忠義(日新公)の作った「いろは歌」(座右の銘をいろは順に詠み込んだもの)が教えられた。それは「い いにしへの道を聞きても唱へてもわが行ひにせずばかひなし」「ろ 楼の上もはにふ(注みすぼらしい)の小屋も住む人の心にこそはたかさ賤しさ」などという歌である。

 

 この郷中制度出身者には、西郷大久保のほかに樺山資紀・大山綱良・黒田清輝・有馬新七・重野安繹・吉井友実・大山巌・牧野伸顕・東郷平八郎などがいる。

 

 大久保利通は天保元年(一八三〇)八月十日、鹿児島城下高麗町で、西郷と同じく小姓組の家に生まれた。そして加治屋町に移転して来た。大久保もまた『郷中教育』の中で育った。大久保利通が「甲東」と号したのは甲突川の東側で育ったからである。

 

 この加治屋町からは桜島が眺められる。平野國臣が「わが胸のもゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」と詠んだように、西郷隆盛や大久保利通など鹿児島に生まれ育った人々は、この活火山を眺めては壮大な気宇を養ったのであろう。

 

 西郷と大久保は文字通り「竹馬の友」である。そして相協力して命懸けで明治維新の戦いに挺身した。しかし、後に仇敵同士となり、相戦い、西郷は城山に露と消える。一方、大久保は明治政府の最高権力者として近代日本建設に邁進したが、西郷死後一年も経たないうちに、石川県氏族島田一郎等によって斬殺される。この二人の関係は、盟友関係が敵対関係になるという変革の歴史の苛酷な一面を物語っている。

 

 大西郷と大久保利通の二人こそ、わが日の本の近代の二つの道を示したる人である。この二つの道は「王道」「覇道」といわれるが、西郷も大久保も日本の自主独立と発展と繁栄自由の礎を築いた人であったことは間違いない。

 

 

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千駄木庵日乗十二月二十一日

午前は、諸事。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

午後六時半より、団子坂下にて、同志三氏と懇談。意見交換。

帰宅後は、原稿執筆など。

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2017年12月20日 (水)

熊野信仰について・承前

 熊野本宮大社の鳥居には「熊野大権現」と書かれている。太古からの社殿は明治二十四年(一九八一)の大洪水で災害を蒙り、現在の地に移転したと承る。

 

総門には菊の御紋の染められた幕が下がっている。社殿は四つあり第一殿第二殿には伊耶那美命(熊野牟須美大)神など、第三殿には家津美御子大神(須佐之男命)など、第四殿は天照皇大御神が祀られでいる。謹みて参拝。さらに祓戸大神を祀る小社もある。

 

境内には、境内には、白河上皇御製碑が建てられている。

 

「咲きにほふ 花のけしきを 見るからに 神のこゝろぞ そらにしらるゝ 雍仁親王妃勢津子謹書」

 

と刻まれている。第七二代・白河天皇は、院政を創始した方であらせられ、「治天の君」と讃えられ、『源平盛衰記』には「賀茂の水、双六の賽、山法師」の三つのほかは何事も上皇の意のままであるという「天下三不如意」という話も伝えられている。この御製は行幸の折熊野本宮社前にて詠まれたと承る。

 

後鳥羽上皇御製碑も建てられている。

 

「はるばると さかしきみねを わけすぎて おとなし川を けふみつるかな」

 

と刻まれている。「おとなし川」とは本宮の旧社地近くを流れている川。後鳥羽上皇の行幸は、建久九年(一一九八)八月の以降、二十八度に及ぶ。

 

 『平家物語』には、大要次のように記されている。平重盛が治承三年(一一七九)熊野に参詣した時、本宮御前にて、「『親父入道相國(清盛のこと)の體を見るに、悪逆無道にして、…君を悩まし奉る。重盛長子として、頻りに諫めを致すと雖も、…彼以て服膺せず、…南無権現…願はくは子孫繁栄絶えずして、仕へて朝廷に交はるべくんば、入道の悪心を和らげて、天下の安全を得しめ給へ。栄耀また一期を限って、後昆(後継ぎのこと)恥に及ぶべくんば、重盛が運命を縮めて、来世の苦輪を助け給へ…』と肝膽を摧きて祈念せられければ、燈籠の火の様なる物の大臣の御身より出でてばつと消ゆるが如くして失せけり。」この祈りは聞き届けられたのか、重盛はこの後すぐに逝去し、栄華を誇り皇室を悩まし奉った平家も滅びてしまう。

 熊野速玉大社の御祭神は、主神は熊野速玉大神(伊耶那岐命の別名)と熊野結大神(伊耶那岐命の別名)。そして家津美御子大神(須佐之男命の別名)及び天照大神など多くの神々が十二社殿に祀られている。

 

熊野三山には、伊耶那岐・伊耶那美二神、須佐之男命、そして天照大神という日本伝統信仰の中心的な神々が祀られている。なぜ「速玉」という名が付けられたのかは不明であると承る。目に眩い朱塗りの現在の社殿は昭和二十七年に造営された。

 

 この神社の御祭神は、奈良町末期から、本地垂迹説により、熊野速玉大神の本地は薬師如来、熊野結大神の本地は千手観音、家津美御子大神の本地は阿弥陀如来とされている。そして祭祀を行う神官と共に社僧と呼ばれる僧侶がいて、神前で読経をするという風習が明治元年(一八六八)の神仏分離令まで続いた。その故か、神前で般若心経を読んだ後、祝詞を奏上している参拝者がいる。

 

 神代に熊野速玉大神・熊野結大神・家津美御子大神の三神が現在の社殿の南方にある神倉山に降臨され、景行天皇五八年に、現在の地に社殿を創建したという。旧社地に対して新しく神殿を作ったので新宮というのであって、本宮に対して新宮というのではないという。神倉山には六0㍍の高さに岩壁がそそり立ち、そこに神が降臨したと信じられている。ゆえに、神倉山が熊野信仰の原点という説もある。

 

 境内には、後鳥羽上皇御製碑がある。

 

「岩にむす こけふみならす みくまのゝ 山のかひある 行末もかな 雍仁親王妃勢津子書」

 

と刻まれている。

 

 また後白河法皇御撰の『梁塵秘抄』(治承三年・一一七九年成立の歌謡集)の一節「熊野へ参るは 紀路と伊勢路のどれ近し 廣大慈悲の道なれば 紀路も伊勢路も遠からず」と刻まれた碑もある。

 

 『古事記』には、「神倭伊波古命、…廻り幸でまして熊野の村にいたりまし」とあり、『日本書紀』には、「…狭野(現在の新宮市佐野注)を越えて熊野の神邑(かみのみら・現在の新宮市新宮。速玉神社が鎮座する辺りという)に到り、旦(すなわち)ち天磐盾(あまのいはたて・熊野速玉大神が最初に降臨された神倉山のことという)に登る。」と記されている。このように神武天皇御東征神話と熊野信仰は深い結びつきがあるのである。

 

 熊野那智大社別宮・飛瀧神社は、那智の瀧が御神体である。神武天皇が御上陸の際、この大瀧は神と祀られ大穴牟遅神(おおなむちのみこと・大國主命の別名。大己貴命とも書く)の御神体と仰がれ、修験道の道場となっている。

 

 原生林の間から流れ落ちる高さ一三三㍍の瀧は人を圧倒する迫力を持っている。一番てっぺんにしめ縄が張られている。雄大にして神秘的であり、神と仰がれるのも頷ける。拝所が設けられている。まさに自然信仰の典型である。 

 

本地垂迹説・神仏習合思想により、この瀧の神の本地は千手観音とされ、飛瀧権現(ひろうごんげん)と崇められた。この瀧のあるところはまさに「奥まった隅のところ」「神秘的なところ」「神のいますところ」つまり「熊野」の語源通りの地である。

 

 参道に「和歌山県指定文化財 史跡 亀山上皇御卒搭婆建立跡」がある。亀山上皇は、元による我が國侵略の危機を迎えていた弘安四年(一二八一)二月に熊野に行幸され、搭婆を奉られた。文永一一年(一二七四)に元が来襲したが、その後、弘安二年(一二七九)に元の使者が我が國に来て降伏を迫ったが北条時宗はこれを斬り捨てた。こうして元の再度の来襲の危機が迫る中、朝廷は、弘安三年(一二八0)に諸國の社寺に異國降伏の祈祷を命じた。

 

『増鏡』によると、亀山上皇は伊勢の神宮に「わが御代にしもかかる乱出できて、まことに日本のそこなはるべくは、御命を召すべき」との願文を奉られた。こうした朝廷の祈願に神々がこたえたまい、神風(大暴風雨)が起こり、元軍は玄海灘の藻屑と消えた。日本國は一天萬乗の大君の<神祭り>によって護られているのである。

 

 先帝・昭和天皇御製碑が建立されている。

 

「御製 そのかみに熊野灘よりあふぎみし那智の大瀧けふ近く見つ 侍従入江相政謹書」

 

と刻まれている。昭和三十七年に和歌山県を行幸あそばされた時の御歌である。 

 近代俳人・高浜虚子の「神にませば まことうるわし 那智の瀧」、同じく水原秋桜子の「瀧落ちて 群青世界 とどろけり」という句碑もある。

 

熊野那智大社は、那智の瀧を神と崇めた信仰がこの神社の淵源である。仁徳天皇五年(三一七)にこの地に社殿建立したという。御祭神は、主神が、熊野夫須美大神(くまのふすみおおかみ・伊耶那岐命の別名)。そして那智の瀧の御神霊である大己貴命などをお祀りしている。明治維新までは神仏習合思想により、本地を千手観音として、熊野那智権現と称された。

 

日本の太古からの自然信仰そして外来宗教を包容する日本民族の宗教伝統が熊野三山に息づいている。日本伝統精神は、奥行きが深く幅が広いのである。朱色の権現造りの社殿である。

 

 神域に八咫烏の像がある。神武天皇熊野御上陸二千六百五十年を記念して昭和六十三年に作られたもの。八咫烏は神武天皇が熊野から大和に入られる際に道案内をしたと伝えられる。

 

すぐ隣というよりも同じ境内と言った方がいいところに、青岸渡寺がある。明治までは熊野那智権現に属する観音堂であったという。仁徳天皇の御代にインドから来た裸形上人による創建という。本尊は如意輪観世音。如意輪観世音はわが家が長く御守りする観音堂に安置されている本尊である。青岸渡寺本堂は天正十五年(一五八七)の建築。このお寺から見渡せる那智の瀧の姿は絶景である。

 

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千駄木庵日乗十二月二十日

午前は、諸事。

午後一時半より、芝の駐健保会館にて、『大行社幹部会』開催。顧問の一人としてスピーチ。この後、六本木にて、納め会。

帰宅後は、原稿執筆、書状執筆など。

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熊野信仰について

 

 熊野本宮大社の御祭神は熊野坐大神(くまのにますおおかみ)と申し上げ、熊野に鎮まりまします大神という意である。本社には十四柱の神が鎮まっているが、その総称を熊野坐大神と申し上げる。十四柱の神々の主祭神は家津美御子大神(けつみみこのおおかみ・須佐之男命の別名)。「ケ」は食物を意味する言葉であるから穀霊神と見てよいという。この神は熊野奇霊御木野命(くまのくしみけぬのみこと)とも申し上げ、木の御神霊である。紀伊の國は木の國であり、山に覆われ木が生い茂る國である。また熊野の「クマ」とは「神」の意であるという。つまりこの神社に祭られている神は太古より信仰された紀伊の國の樹木の神霊と申し上げてよいと思う。その信仰が大和朝廷の神話の神であられる須佐之男命と融合したのであろう。

 

 さらに熊野の「クマ」は、奥まった隅のところという意でもある。地理的に熊野は大和から見るとまさに「奥まった隅のところ」である。「奥まった隅のところ」は神秘的なところであり神のいますところと信じられたのである。

 

 そして『日本書紀』では、伊耶那美命が亡くなってから葬られた地が熊野であるとされており、熊野は夜見の國(あの世)・常世(永遠の理想郷)に近いところと信じられた。なお、『古事記』では出雲の國に葬られたとある。出雲にも熊野神社がある。紀伊國と出雲とは日本伝統信仰において深いつながりというか共通性がある。伊耶那美命はこの神社では熊野牟須美大神(くまのむすみのおおかみ)という御名で祀られている。

 

 また、『古事記』によると神武天皇が熊野に上陸されると、「大きなる熊、髪(くさ・草のこと)より出で入りしてすなわち失せぬ」とある。

 

 本地垂迹説(日本の神は仏が人々を救済するために仮の姿を現したという説)では、日本伝統信仰の常世への憧れと仏教の浄土思想が融合しため、熊野三山が阿弥陀如来、新宮が薬師如来、那智が観世音菩薩を本地とする。本宮の主祭神・家津美御子大神の本地は阿弥陀仏であるとされる。ゆえに熊野の神は熊野大権現とも言われる。権現とは仏の仮の姿という意。 

 

 熊野本宮大社の御鎮座は神武天皇御東征以前と伝えられ、第十代崇神天皇六五年に社殿が創建されたという。また奈良時代より修験道(神仏混淆の山岳修行道)の行場であった。そして、平安時代には仏化(神社というよりも寺になったということ)した。熊野水軍を統率し源平の戦いに参加したくらいであり、その権勢は國守や領主を凌いだという。南北朝時代は吉野朝(南朝)に忠誠を尽くした。  

 

 熊野三山は御歴代の天皇の御崇敬篤く、第五九代宇多法皇(延喜七年・九0七年に行幸)より第九十代亀山上皇まで、上皇、女院の熊野行幸は百余度の多きに達した。鳥羽上皇二十八度、後白河上皇三十四度、後鳥羽上皇二十八度に達している。熊野への行幸は往復二十数日を要する難行苦行の旅であった。こうした皇室の崇敬が熊野水軍という勤皇の軍団が生まれた原因であろう。

 

 何故このように皇室の御信仰が篤かったのか。それは太古の昔から熊野が聖地として仰がれたと共に、神武天皇が橿原に都を開かれる前に熊野の地を通られたこともその理由の一つであると思われる。また中世期に入ってから末法思想が盛んになり、浄土への憧れが強くなったことが、常世・浄土の入口と信じられた熊野への信仰が平安から鎌倉時代にかけて最高潮に達した原因であろう。

 

 要するに熊野信仰には、山・森林への自然信仰と、他界信仰(常世への憧れの思想)という日本の伝統信仰が凝集しているのである。

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千駄木庵日乗十二月十九日

午前は諸事。

昼は、若き友人と懇談。意見交換。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』発送準備。資料の整理。原稿執筆。明日のスピーチの準備。

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2017年12月19日 (火)

山本秀也氏(フジサンケイビジネスアイ編集長兼産経新聞論説委員)による「頼行政院長の誕生と日中台関係」と題する講演内容

十月七日に開催された『アジア問題懇話会』における山本秀也氏(フジサンケイビジネスアイ編集長兼産経新聞論説委員)による「頼行政院長の誕生と日中台関係」と題する講演内容は次の通り。

 

「『産経』は毎年双十節特集を行う。この特集をしていると、台湾はどのような台湾像を発信したいかが分かる。戒厳令解除前は、『中華民国』という名稱と『青天白日旗』を入れてくれと言って来たが、今は台湾の現状を伝える紙面になっている。

 

蔡英文総統は聡明で頭が良い。政治の二つの柱は台湾ナショナリズムの追求とリベラル政治。日米重視。両岸関係の現状維持。反原発・社会福祉重視・同性婚の法制化推進。ベクトル(注・方向性、矛先)は二つある。国内的には脱国民党の推進。二・ニ八事件の責任追及。中正記念堂の運営の見直し・中立化。対外的には新南向政策。貿易投資の相手先を中国から東南アジアに振り向ける。台湾自立の経済基盤を作る。対日政策の重視。儒教社会では同棲婚はタブー視されているがそこから脱却したい。

 

中国発の外交が露骨。国際機関からの台湾締め出しを露骨にやっている。中国は度量が狭くなっている。軍事圧力も露骨になっている。

 

八月の大規模停電で台湾の全世帯の約半数にあたる七百万戸近くに影響が出た。冷房が使えなくなった。原発政策が悪いと財界が批判。支持率に影響が出た。支持率は大体右肩下がり。停電の後、三割を切った。

 

内閣をチェンジし効果があった。民進党のホープ・頼清徳氏を行政院長に起用。支持率がV字回復。頼清徳氏は情熱的政治家。リハビリの専門医。ハーバード大学留学。台南市長。天狗熱で手腕を発揮。台湾独立をハッキリ言う人。『親中愛台』を言う。バランス感覚がある。台湾は主権国家であり両岸は相互隷属関係せずと言う。

 

習近平は二〇一二年に総書記に就任以来、『中国の夢』という言葉をよく使う。『中華民族の偉大な復興』を強調。すでに主権下にある地域では統制を強化。香港では二〇一四年『雨傘運動』が起り若年層の中央離れが鮮明化。二〇一七年、行政長官選挙で普通選挙導入見送り。銅鑼湾書店関係者五人を本土に拉致。『一国二制度』の形骸化。内地の法律をいきなり香港に適用。特務政治。若い人ほど中国から離れようとしている。

 

台湾にも強圧姿勢で臨む。対話の停止。訪台観光客の規制。外交圧迫・軍事武力威嚇。

 

習近平は鄧小平のやってきたことを度外視。習近平の理想としているのは鄧小平にあらず毛沢東。『大一統』とは、紀元前に成立した儒教の経典『春秋公羊伝』の言葉であり『一統を大(たっと)ぶあるいは大にす』という意味。天子を頂点とする儒教ヒエラルキー(注・階層制や階級制)社会の構築、周囲の辺疆への支配。近隣国との朝貢関係の構築、現代における華夷秩序の構築が行われるのではないかと危惧する。自己中心的な天下觀が『法の支配』『普遍的価値』と矛盾する危険あり。南シナ海への支配拡大と国際法との摩擦。強権政策の実現。国際秩序への挑戦。アセアンは中国に文句を言えなくなっている。東南アジア諸国に『中国に文句を言ってくれ』と要求するのは無理。

 

二〇二一年の中共結党百年の動向に注意すべし。中国は今やアメリカを怖れていない。空軍・海軍が台湾に上陸することは可能。米軍の動きを止める能力もある。台湾ナショナリズムがもっと出て来るのではないか。台湾内部で脱中国化が加速する。他方で中国指導部の認識が硬直化。

 

日本と台湾の合同軍事演習ができない。先島諸島防衛を固めるのが第一歩。日台間の紛争を防ぐという名目で日本の海上保安庁と台湾の海上警察の協力ができないか。日本の海上保安庁はベトナム・フィリッピンと協力している。

 

中国は西太平洋においてアメリカが身動きできないようにしている。中国の戦力強化は物凄い。台湾単独では守れない。近隣諸国が知恵を絞る必要あり。経済と安保の重要性。台湾経済の中国依存度をどう引き下げるか。総合的安保政策。日本は台湾の経済政策を後押しすべし。また台湾の国際社会での孤立回避に協力すべし。日本は中国に対して台湾海峡の緊張回避を求め『法の支配』に逆行する覇権追求は高い代償を払わねばならないと主張すべし」。

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千駄木庵日乗十二月十八日

午前は、諸事。

午後三時、有楽町にて、知人と懇談。

帰宅後は、原稿執筆。

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2017年12月18日 (月)

『天壤無窮の御神勅』について

 

 「天壤無窮」とは、「天地と共に窮(きわ)まりが無く永遠である」という意味である。太陽神であり皇室の祖先神である天照大神の御孫であられる邇邇藝命が地上に天降られる時に、天照大神が邇邇藝命に与えられた<神勅>のひとつである『天壤無窮の神勅』にある聖句である。「壤」とは「土」のことである。

 

 『天壤無窮の神勅』には次のように示されている。

 「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の國は、これ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當(まさ)に天壤と窮まりなかるべし」。

 

 これを現代國語に訳すと、「豊かな葦原で秋になると稲穂がたくさん稔る國は私の生みの子が統治すべき地である。なんじ皇孫よ、これから行って統治しなさい。元気で行きなさい。天の日の神の靈統を継ぐ者が栄えるであろうことは、天地と共に永遠で窮まりないであろう」。  

 

 この『天壤無窮の神勅』には、「日本國は天皇が永遠に統治する國である」という日本國體が端的に表現されている。

 

 「これ吾が子孫(うみのこ)」とは、邇邇藝命をはじめ神武天皇そして今上天皇に至るまでの御歴代の天皇は、天照大神の「生みの子」であり、御歴代の天皇は天照大神の御神霊と一體であり、同一神格であり、邇邇藝命も神武天皇も御歴代の天皇も今上天皇も、天照大神と同じ関係であるということである。ゆえに天皇を皇御孫尊(すめみまのみこと)と申し上げるのである。今上天皇は、邇邇藝命・神武天皇と不二一體なのである。天皇が現御神・現人神であらせられるとはこういう意味である。 

 

 「爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。行矣(さきくませ)」は、天照大神の生みの子よ、日本國を統べ治めよ、つつがなくあれ、という御命令である。

 

 「治(し)らす」とは、「知る」の尊敬語の「知らす」と同じで、「知る」という動詞に尊敬の意を表す「す」のついた語である。天の下を御統治されるという意味である。

 

 なぜ「知る」という言葉が「統治」を意味するようになったのか。「しろしめす」は「知る」の尊敬語である「知らす」にさらに「めす」という敬意を添える語を付けた言葉である。『續日本紀』に収められている文武天皇の「宣命」には「現御神と大八島國知ろしめす天皇」とある。また『萬葉集』では「御宇天皇代』と書いて「あめのしたしらしめししすめらみことのみよ」と読んでいる。

 

この場合の「知る」とは単に知識を持っているという意ではない。もっと深い精神的意義を持つ。天下の一切のことを認識し把握するというほどの意であろう。

 

文武天皇の『宣命』に「天津神の御子ながらも、天に坐す神の依さし奉りし随(まにま)に、聞こし看し(め)し来る此の天津日嗣高御座の業と現御神と大八島國知ろしめす倭根子天皇命の授け賜ひ負せ賜ふ…」と示されている。

 

「しらしめす」即ち<天皇の統治>とは、天津神の御命令で日本に天降って来られて、天津神の御委任で天津神の日の神の霊統を継承される現御神として、天津神の命令のままに天の下をお知りになる(お治めになる)という、きわめて宗教的というか信仰的な意義があるのである。天皇の統治は決して権力行為ではない。

 

天下の一切の物事を「お知りになる」ということは、<無私>の境地であられるということであり、天下の一切の物事に対して深い<慈愛の心>を持たれているということである。<無私>と<慈愛>の心が無くては対象を深く認識し把握する事はできない。

 

『大日本帝国憲法』において「しらしめす」の漢語表現として「統治」という言葉を用いたのである。そしてこの「統」という言葉は統べる(統一する)という意であり、「治」は治める(本来の位置に置く)という意である。

 

明治天皇が明治元年三月十四日に発せられた『明治維新の宸翰』に「天下億兆一人も其處を得ざる時は、皆朕が罪なれば…」と仰せになっている。このお言葉こそまさしく「治める」の本質なのである。無私と慈愛というまさに神の如き御心で日本を統治されるお方が日本天皇であらせられるのである。

 

さらに、祭り主たる天皇は、神の意志を知ることを根本にして國家を統治されるからである。神の意志を君主がよくお知りになることが國家國民を統治することの基本なのである。

 

 天皇が神をお祭りになられて、神の御心をお知りになり、臣下は天皇がお知りになった神の御心に基づきそれを実現するために実際の政治を行うというのがわが國の古来からの「まつりごと」のあり方である。これを「祭政一致」という。

 

 歴代天皇は神のご意志をよくお知りになって神の意志を実現させることを使命とされる。天皇は宗教的統治者であらせられる。

 

 「寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむ」とは、「皇位が栄える」(寶祚とは天皇の御位のことである)ということである。「あまつひつぎ」とは、政治権力者の地位ということでは全くない。

 

 「紀元節」の歌に、「天津日繼ぎの高御座 千代よろづ世に動きなき 基い定めしそのかみを 仰ぐけふこそ楽しけれ」(高崎正風作詞)とある通り、寶祚とは「天津日繼ぎ」あるいは「天津日嗣」と書く。

 

 「天津日繼ぎ」とは、「高天原の天つ神から伝達された日(靈)を繼承される」という意味である。日本天皇は天の神(天照大神・日の大神)の靈統を繼承され、神の御心のままに(神ながらに)日本國を治められるので、皇位のことを「天津日繼ぎの高御座」というのである。「高御座」とは、天の神の御子即ち日の御子のお座りになる高い御座所という意味である。

 

 皇位の繼承は肉體的な血統のみによるとともに、日の神の神靈を繼承するという神代以来の信仰に基づくのである。

 

 天地が永遠であるように天皇の日本國御統治も永遠であると、天照大神は宣言されているのである。これが「寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當(まさ)に天壤と窮まりなかるべし」の意味である。

 

 このように『天壤無窮の御神勅』は、天照大神の神靈をそのまま受け継がれた「生みの子」たる邇邇藝命及びその御子孫が永遠に統治される國が日本であるといふことを端的に表現しているのである。

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千駄木庵日乗十二月十七日

午前は、諸事。

午後は、資料の整理。

夕刻、千駄木にて、若き友人と懇談。

帰宅後も、資料の整理。

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2017年12月17日 (日)

天神地祇そして祖霊へのお祭りをしっかりとさせていただきましょう

現代日本は、文字通り内憂外患交々来り、未曽有の危機にある。こうした状況を打開するには、日本人が古来抱いて来た自然の中に神の命を観るという信仰精神を回復しなければならない。 

 

戦後長い間、物質至上主義・営利至上主義に汚染され続けてきた日本國の危機を救うには、日本の傳統精神・國家観・人間観を回復する以外に道はない。

 

日本国土の自然も實に美しい。山・川・海の景色は實にすばらしい。四季の変化も規則正しく、気候も比較的穏やかである。しかし自然は、時に、今回の大地震のように、ものすごい猛威をふるい、人間に襲いかかって来る。そして人間の命を奪い、生活を破壊する。

 

日本における科学技術の進歩とその利用は目を見張るものがある。現代社会の便利な生活は、その科学技術によるものである。しかし大自然は、時としてその科学技術によって成り立つ人間の生活をも一瞬にして破壊する。そして人間は、悲惨に状況に追い込まれる。

 

これだけ文明が発達し、科学技術が進歩した、その恩恵によって成り立っている現代人の生活は、自然の猛威によってもろくも破壊され、多くの人々が惨禍に喘ぐこととなる。科学技術が進歩しているが故になおさら惨禍がひどくなる。

 

われわれは、自然および科学技術文明との付き合い方を今一度深く考えなおすべきではある。麗しき自然に恵まれつつも自然の脅威にさらされる日本民族、科学技術を巧みに使いこなして来た日本民族は、そういう使命を帯びていると思う。

 

我々國民が愛するべき國、尽くすべき國とは、信仰と信頼と正義と愛と真心によって結ばれた精神的道義的共同體なのである。我々は正しき國家観に回帰し、日本國を道義國家として新生せしめねばならない。

 

そのためには、「現代に生きる神話」たる<祭祀>を根幹とした瑞穂の國日本の回復しかないのである。古来日本の変革思想は、祭政一致の理想國家への回帰がその根本にあったのである。具體的に言えば、政治権力を掌握した人のみならず我々國民一人一人が、天皇が神をお祭りになるみ心、そして、農を大切にされる御心を、道義的倫理的規範として習い奉るということである。それが理想的な國家實現の基礎である。

 

日本人は自然と共生し、自然を畏怖すべきものとして接してきた。そして自然を「神」として拝み、信仰の対象にした。われわれ日本人は、これからも自然と共に生きる姿勢を保っていかなければならない。人間の力が自然を征服するなどという傲慢な考え方を持たず、自然の命を尊び、自然に「神」を見なければならない。天神地祇そして祖霊へのお祭りをしっかりとさせていただきましょう。

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千駄木庵日乗十二月十六日

午前は、諸事。

 

午後は、資料の整理。

 

午後六時より神田学士会館にて、「憲法懇話会」開催。慶野義雄平成国際大学名誉教授が「帝国憲法軍事安全保障関係条項」と題して報告。高乗智之高岡法科大学准教授が「三潴信吾先生著『日本憲法論』を讀む」と題して報告。活発な質疑応答・討論が行われた。

 

帰宅後は、原稿執筆・書状執筆。

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2017年12月16日 (土)

オピニオン雑誌『傳統と革新』 第二十八号

オピニオン雑誌『傳統と革新』 第二十八号

平成三十年一月 たちばな出版発行(四宮正貴責任編集)

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特集 「明治維新百五十年―國難打開と日本の近代

巻頭言

 半藤一利氏の吉田松陰批判について            四宮正貴

「インタビュー」

明治維新から百五十年の今だからこそ、日本國憲法の改正を ケント・ギルバート

 

明治維新と日本の近代化の中で、変わることのない「日本の核」を大切にしたい                                                   山田宏 

「佐藤優の視点」

明治維新百五十年―尊皇攘夷思想の現代的意義 ナショナリズムと明治維新                                 佐藤優

明治維新と現在の連続性で、維新百五十年を捉えることが必要である                                                              西村眞悟

わが幕末小史                                                                                    中村彰彦

二十一世紀における「尊皇攘夷」思想―島崎藤村『夜明け前』再読                                                            富岡幸一郎

明治維新の本質にある精神                                                                                 宮崎正弘

「聞き書き」

日本は、明治維新と近代化を経て後も、國家の組織原理は変わらず連続している

  猪瀬直樹

明治維新から百五十年。皇室の存在を踏まえて、今の日本が学ぶべきこと                                                             古賀俊昭

新しい日本の政治の幕開けを目指す『希望の党』それはまだスタート地点に立ったばかり

    上杉隆

「論文」

明治維新の輝かしい栄光と日本人の心                                                                            永江太郎

明治維新百五十年 尊王攘夷思想の現代的意義                                                                        小林興起

明治維新の現代的意義                                                                                   岡田幹彦

明治維新で大切な歴史観とは何か                                                                              山村明義

明治改元百五十年 明治維新とは果たして何であったか                                                                     岡村青

明治維新から百五十年~國の独立を守った日本人の気概~                                                                   木村三浩

「連載」

『やまと歌の心』                                                                                

                                                   千駄木庵主人

「石垣島便り」22  自然と共生する島人と受け継がれてゆく神事                                                          中尾秀一

我が体験的維新運動史 第27回 「維新」の夢を追い求めて                                                             犬塚博英

編集後記

 

定価 本体価格1000円+税。 168頁

 

168〒167―0053 東京都杉並区西荻南二-二〇-九 たちばな出版ビル

 

 たちばな出版  ☎代表03―5941―2341 FAX5941―2348

 

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藤井厳喜氏による「安倍政権とトランプ政権はどうなるのか」と題する講演内容

九月七日永田町の憲政記念館にて開催された『呉竹会アジアフォーラム』における藤井厳喜氏による「安倍政権とトランプ政権はどうなるのか」と題する講演内容は次の通り。

 

「九月三日、北朝鮮が核実験を行った。北朝鮮とアメリカとの交渉の扉は完全に閉まったかと言うとそうではない。北朝鮮の金正恩のチームは非常に頭が良い。非常に合理的。金王朝のサバイバルのためなら何でもやる。核兵器を持てばアメリカにもチャイナにもつぶされないと思っている。小さな国でもあらゆる犠牲を覚悟すれば核武装できる。ウクライナのマフィアは武器市場では有名。北朝鮮は合理的行動をとる。最終的には日米と国交を樹立し、金王朝をサバイバルする。私はそうなると思っている。

 

去年、反露親中のヒラリー・クリントンが勝っていたら、ロシアと戦争になっていた。トランプの目標はアメリカ経済の再建。アメリカ国民とくに中西部はワシントンに不信感が強い。グローバリズムがアメリカを壊してきたと思う人が多い。これ以上自由貿易をすべきではないという方向転換をした。もの作りがどんどん駄目になって行くのを何とかしなくてはならないということ。アメリカはグローバリズムとナショナリズムの内戦状態と言っていい。

 

マスコミが叩きに叩いているのに、トランプは三五%の支持率。凄い。鉄壁の三五%。CNNが一番悪い。あらゆる嘘をついてもトランプ政権を打倒しようとする。朝日新聞もどんなエ嘘をついても安倍政権を打倒しようとしている。BBCも反国家的傾向が強い。

 

北朝鮮の核兵器はアメリカにとって全然脅威ではない。日本にとっても怖くない。中国の核兵器は怖い。習近平がボタンを押せば日本は焦土となる。アメリカにとって核兵器が広がるのが怖い。クリントンの間違った判断が今日を招いている。

 

日本に独自の核抑止力無し。とりあえずアメリカからトマホークを千発買う。北朝鮮から核攻撃があっても日本は何もできない。私核武装論者。とりあえず抑止力を持つこと。報復力を持つこと。専守防衛とは野球で言えば守備はしても攻撃はしないということ。やられたらやり返す攻撃力を持つべし。とりあえずアメリカの核を導入する」。

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宗教に関わる様々に事件や紛争について

国際的にも、日本国内においても宗教に関わる様々に事件や紛争が起っています。

 

キリスト教やユダヤ教に関する本を読んでつくづく思いますのは、宗教というものの怖さということです。ユダヤ教・キリスト教・回教は同根であるにもかかわらず、二千年近くにわたって激しい宗教戦争を繰り返し、今日に至っております。

 

一神教のみならず、仏教系の教団でも、宗派争いや内部抗争は凄まじいものがあります。日蓮正宗と創価学会の争いがその典型です。「ポア」とか言って殺人を肯定したオウム真理教というのもありました。

 

一体、宗教戦争・宗教対立でこれまでどれ程の人が犠牲になってきたでしょうか。これに共産主義思想というのを加えますと、人類を幸せにすると広言する思想や宗教がかえって人類を闘争と殺戮に駆り立てといっても決して過言ではありません。そしてこのことは、今日唯今の現実なのであります。

 

私も、高校時代にある宗教団体に所属して、活動をしていましたので、自分の信ずる宗教教団そしてその教祖を絶対視する精神構造・心理状態というものを経験しました。反対者に対する憎悪というか、反発心というものが非常に強くなるのです。特に同じ教団に所属していたにもかかわらず違う生き方をするようになった人への憎悪はより激しいものとなります。近親憎悪であり、裏切り者・背教者への憎悪です。愛を説き、慈悲を説く宗教教団が、全くその逆の憎悪・排撃の心を駆り立てるのです。

 

私の所属していた教団は、教祖の孫で三代目を継いだ人が、教祖の教義を改竄し隠蔽し、そのことを批判する人々はたとえ兄弟と雖も教団から追放しました。今日の指導者は、実の孫であるにもかかわらず、自分の祖父である創始者を蔑にしているのであります。

 

ただ日本の場合、最初は相当排他的でも、歴史が経過し時間がたつとそれか希薄になるようです。日蓮は、念仏の坊さんの首を由比ヶ浜で刎ねよと幕府に建言しました。しかし、いまや、谷中などの寺町では、念仏宗の寺と日蓮宗の寺か仲良く並んでいます。日蓮宗の坊さんに念仏宗の坊さんの首が刎ねられたという事件は起こった事はありせん。

 

私は、信仰心・宗教心とは、敬神崇祖の心が基本であると思います。日本伝統信仰たる神道そして先祖伝来の宗教を信仰するという日本の本来的な信仰のあり方を大切したいと思います。また私たちは、神や仏を信じるのであって、僧侶や神主などの宗教家を崇めるのではないことも確認したいと思います。

 

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2017年12月15日 (金)

有村治子参議院議員による「御退位特例法に寄せる 真の日本人の心」と題する講演内容

九月七日永田町の憲政記念館にて開催された『呉竹会アジアフォーラム』における有村治子参議院議員による「御退位特例法に寄せる 真の日本人の心」と題する講演内容は次の通り。

 

「父親が日教組と戦っていたので、私も学校の先生からいじめられた。いじめられた涙の分だけ人格形成に昇華させた。今を生きる私たちは、私たちの生き方如何で、先人の生きてきた歴史に光を当てることも出来れば、影を与えることもできる。

 

『日本死ね』という言葉を安倍総理にぶつけて全国的に有名になった女性議員は、国家観も無かったが、倫理観も無かった。保育園を落ちたから『日本死ね』と言って、流行語大賞にこやかに貰った。どこの国の政治家か。彼女はミセス国賊だ。日本が死んだらその子は保育園に入れるのだろうか。『中国死ね』『北朝鮮死ね』という言葉を吐いたらヘイトスピーチになるのに、『日本死ね』と言ったら流行語大賞というのはおかしい。

 

國の安定があってこそ家々の安定がある。この当たり前のことを確認したい。個の幸せを願えばこそ、國の安定を図るべし。国柄・人柄・家柄・土地柄がある。国家とは遠くにあるのではなく、私たち一人一人が形成してゐる。国汚い言葉で罵ったら要望が実現するとなると、日本の國柄・公序良俗が滅びてしまう。社会の秩序・人々の良識はサイレントマジョリティによって支えられている。国民の価値、日本の底力を維持するためにも、口汚い言葉を使えば要望が実現するということは止めたい。

 

明治維新によって藩ではなく国家意識が目覚めた。近代化を果たさなければ国家が成り立たなかった。明治時代は教育・工業・農業を興し、生存の基盤となる国家を作った時代。

 

『この国』という言葉を連発したのは鳩山と蓮舫。国家と国民を切り離そうとしている人たち。指示代名詞として言ってゐる。『わが國』と言うべし。私たちの日本であるべし。言霊は大切。自分と距離を置きたい人が『この国』『この店』と言う。そういう人たちに政権を任せるわけにはいかない。

 

六月に、今上陛下御譲位の『特例法』が全会一致で可決。『政府は、安定的な皇位継承を確保するための諸課題、女性宮家の創設等について、皇族方のご年齢からしても先延ばしすることはできない重要な課題であることに鑑み、本法施行後速やかに、皇族方のご事情等を踏まえ、全体として整合性が取れるよう検討を行い、その結果を、速やかに国会に報告すること』という付帯決議がついた。私一人賛成しなかった。

 

皇位は男系継承・父系継承が原則。父親をたどれば神武天皇につながる。女性天皇も父方をたどれば神武天皇につながる。これを萬世一系と言う。女性宮家には正確な定義なし。七割の世論が女性宮家を作るべしという意見。一四%が反対。男性が結婚によって皇族になるという初めてのことを日本が経験することになる。その間に生まれられた方が皇位につかれと、男系ではない天皇になる。開闢以来のこと。男系継承が崩れる。二千六百年の歴史が塗り替えられる。今を生きる私たちが今の価値観だけで男系継承の皇統を断絶させていいのか。萬世一系は国民との信頼関係で成り立ってきた。国民の中に皇統に対する疑義が生まれる。皇室の尊厳性は守られるのか。

 

GHQによって十一宮家が廃止された。旧皇族を皇族にお戻しするということがあれば私は付帯決議に賛成した。私は党議拘束に反したので、制裁を受けたのは当然。今、私は党内で謹慎蟄居の身。しかしどちらが歴史の評価に耐えられるかと言うと私は決して負けてはいない」。

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千駄木庵日乗十二月十五日

午前は、諸事。

午後は、資料の整理。

午後六時より、神田三崎町にて、永年の同志と懇談、意見交換。

帰宅後は、原稿執筆。

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荒ぶる神は祭祀によって鎮めることができる

日本の神々は、人知では計り知れない靈妙なる存在である。日本人は古代より祭祀や祈りの対象とされるかしこき存在を「神(かみ)」と言った。

 

本居宣長は、日本に神々を「人はさらにも云はず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其餘(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云うなり(すぐれたるとは、尊きこと善きこと功(いさを)しきことなどの、優れるたるのみを云に非ず、悪(あし)きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり…)(『古事記傳』)と定義してゐる。

 

日本の神々は、近年はやりの言葉で言へば、想定の範囲以上の激しい力を発揮する畏怖すべき生命であり靈であるといふことである。無限の可能性を持つと言ひ換へてもいい。その無限の可能性は、人間に恩恵をもたらすばかりではなく、時に災ひをももらたすと古代日本人は信じた。

 

『古事記』の「身禊」の条には、「悪(あら)ぶる神の音なひ、狭蠅(ばへ)なす皆満ち、萬の物の妖(わざはひ)悉に発(おこ)りき」と記され、「天の岩戸」の条には、「高天の原皆暗く、葦原の中つ國悉に闇し。これに因りて、常夜往く。萬の神の声(おとなひ)は、さ蠅(ばへ)なす満ち、萬の妖(わざはひ)悉に発(おこ)りき」と記されてゐる。

 

自然の中に精靈が生きてゐるといふ信仰である。日本民族には、祖霊や自然を敬ひ、愛すると共に、祖霊や自然を畏れる素直な心があった。「萬の神の声(おとなひ)は、さ蠅(ばへ)なす満ち」は、文學的には擬人的表現と言はれるが、古代日本人は、嵐の音も、草木の音も、海の音も、素直に「神の声」と信じたのである。

 

近代以後、科學技術の進歩発展によって、人間生活が快適になると共に、自然や祖霊を神・仏・精靈として拝み、愛し、畏れる心が希薄になってしまった。自然を征服しようとか、自然を造り替えようなどといふ文字通り神をも恐れぬ考へ方を捨てて、自然を愛し、自然の中に神仏の命を見る心を回復しなければならない。つまり、神々を祭る心の回復が大切である。「草木がものをいふ」古代日本の信仰精神に回帰しなければならない。荒ぶる神も祭祀によって鎮めることができるのである。

 

折口信夫氏は、「我々の古文獻に殘った文學は、しゞまの時代の俤を傳へて居る。我々の國の文學藝術は、最初神と精靈との對立の間から出發した。…神の威力ある語が、精靈の力を壓服することを信じたからである。…神代の物語として,語部(かたりべ)の傳へた詞章には、威力ある大神隱れ給ふ時、木草・岩石に到るまで、恣に發言した。さうして到る處に其聲の群り充ちたこと、譬へば五月蠅(さばへ)の様であったと言ふ。而も亦威力ある大神の御子、此國に來臨あると、今まで喚きちらした聲がぴったりと封じられてしまったとある。神威を以て妖異(およづれ)の發言を封じたのである。」(「日本文學における一つの象徴」)と論じ、『六月(みなづき)の晦(つごもり)の大祓』の「荒ぶる神等をば神問(かむと)はしに問はしたまひ、神掃(はら)ひに掃ひたまひて、語問ひし磐ね樹立(こだち)、草の片葉(かきは)も語止(ことや)めて、天(あめ)の磐座(いはくら)放れ、天の八重雲をいつの千別(ちわ)きに千別きて、天降(あまくだ)し依さしまつりき」といふ一節を引用してゐる。

 

日本民族は、自然に刃向ひ対決し、自然を破壊すると、自然から災ひを受けること体験から學んだ。自然を畏敬し、自然に順応して生活することが大切であることを知った。自然を畏敬し、自然に順応するといふことは、自然の神、自然の精靈たちを畏れるだけではなく、祭祀によって神や精靈たちを祓ひ清め鎮めたのである。

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2017年12月14日 (木)

千駄木庵日乗十二月十四日

午前は、諸事。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

午後六時より、団子坂にて、親族と懇談。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆・脱稿・印刷所へ送付。

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即位の大礼と大嘗祭は、天孫降臨の繰り返しである

 

天皇が日の神の御子として國家を統治あそばされるといふ御自覚は、歴代の天皇に一貫してゐる。

 

第一一六代・桃園天皇(江戸中期)は、

 

もろおみの朕 (われ)をあふぐも 天てらす 皇御神(すめらみかみ)の 光とぞ思ふ

 

といふ御製を詠ませられてゐる。

 

 天皇が御即位の大礼において、高御座に上られ、天下万民の前にお姿を現されるお姿は、「冕冠・大袖」である。「冕冠」は、『古事談』によると、応神天皇以来のものとされ、中央に金烏を描いた放射状の日像(ひがた)を立てる。これはまさしく日の御子のお姿である。つまり即位式において、天皇が高御座に登られるのは、新しい太陽神の地上における御誕生なのである。

 

また、大嘗祭における鎮魂のみ祭りも、日の神の再生の祭りであると拝する。天皇が御即位された後初めて行はれる新嘗祭を大嘗祭といふ。大嘗祭は、全國各地から集めたお米を天照大神にお供へをして、五穀の豊饒を感謝すると共に、天皇がお供へしたお米を神と共に食される。そして天皇・神・穀物の霊が一體となる行事である。このみ祭りによって、天皇は、現御神(地上に現れた神」としての神聖性を継承され開顕される。

 

 大嘗祭は、天孫降臨の繰り返しの行事である。そもそも「まつり」とは元初(ものごとの一番始め)の行事の繰り返しである。天照大神は邇邇藝命に稲穂をお授けになって「このお米を地上にたくさん實らせ、豊葦原瑞穂の國を統治しなさい」と御命令になる。邇邇藝命は、その稲穂を奉持して、真床追衾(まとこおふふすま)に包(くる)まれて地上の高千穂の峰に天降られる。真床追衾とは、床を覆ふ夜具で、おくるみ(赤ん坊を抱く時、衣服の上からくるむもの)のやうなものである。

 

 日嗣の皇子の御魂と天照大神と神霊と稲穂の霊と一體となり、日嗣の皇子が日の御子(現御神)としての神聖性を開顕される祭祀である大嘗祭においても、天皇は真床追衾に包まれるといふ。大嘗祭によって新しい天皇が、先の天皇と同じやうに神と一體となられるのである。

 

歴代の天皇は、御肉體は変られても、「やすみししわが大君 高照らす日の御子」といふ神聖なる本質・神格は全く同じなのである。これを「歴聖一如」と申し上げる。

 

 大嘗祭は、天孫降臨といふ元初の事實の繰り返しであり、御歴代の天皇が天照大神の御神霊と一體になられるおまつりであり、天皇の神としての御資格の再生であり復活のみ祭りである。

 

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千駄木庵日乗十二月十三日

午前は、諸事。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

午後六時半より、駒込地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。小生が笠朝臣金村などの歌を講義。質疑応答。

帰途、参加者と懇談。

帰宅後も原稿執筆。

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2017年12月12日 (火)

この頃詠みし歌

 

日日(にちにち)をやまと歌をば詠み継ぎてわが心常に新たなるかも

 

母の使ひし湯上りタオルを懐かしみ大切にして我も使ひゐる

 

マッチといふ物が少なくなりにける禁煙時代は今盛りなり

 

煙草をば一日三本しか吸はぬこと決めて過ごせばやや太りたり

 

わが母と上野寛永寺に参りし日 昨日の如くに思ひ出さるゝ

 

生きてゐませし父母の面影 永久(とことは)にわが眼裏に浮かび来るかな

 

稻祭るわが日の本の道こそは世界平和の礎となれ

 

高天原より天降り来し稲の穂を命の糧とする畏さよ

 

品格だの忖度だのといふ言葉 飛び交ひてゐる混迷の国

 

若き日に語らひにける歌人(うたびと)がこの世を去りしと聞きて悲しき

 

主義主張我と異なれど人柄の良き人なりき岩田正氏

 

久しぶりに見に来たりける書道展わが国の文化は滅びずにあり

 

怒りの念沸々と湧く今宵なり深き祈りで魂(たま)を鎮めむ

 

力無き歌を詠むことを拒絶してわが魂の雄叫びをこそ

 

蕎麦食し楽しく語らひ帰り来し夜に恐ろしきニュースを見たリ

 

恐ろしき禍事起りし師走の夜テレビ報道を食ひ入るやうに見る

 

人を救ふが宗教といふに争ひの根源となることに悲しき

 

この国を護りたまへと祈りたり護国の英霊のみ前に立ちて

 

國のため命捧げしますらををまつる宮居に今日額づきぬ

 

神ながら魂ちはへませ英霊のみ前に額づきかく唱へたり

 

過ぎし日に共に酒酌み語らひし友の遺影に花献じたり(『早雪忌』)

 

今日もまた佳き人と逢ひ語らへばわが心静かに満たされてをり

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千駄木庵日乗十二月十二日

午前は、諸事。

午後は、原稿執筆。

午後五時より、虎ノ門の笹川平和財団ビルにて、笹川―平和財団海洋政策研究所主催『第一四七回海洋フォーラム』開催。奥山真司国際地政学研究所上級研究員が、「地政学から見た海洋安全保障―北朝鮮問題を事例として」と題して講演。質疑応答。

 

帰宅後も、原稿執筆。

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現代日本の汚れを祓い清め、正しき国の在り方・日本人としての正しき姿を取り戻すことが維新である

常に全てを祓い清めて新生を繰り返し永遠の生命を甦らしめるという精神が、日本伝統信仰の根本である。日本は長い歴史を有する国であるが、ただ古さを誇りとするのではなく、伝統を顧みつつ常に新生を繰り返してきたところに素晴らしさがあるのである。支那・朝鮮も長い歴史を有している。しかし、それらの国々の古代民族信仰は皆滅びるか、大きく変質している。

 

ところがわが日本おいては、これだけ科学技術が進歩し物質文明が豊かになっている今日においても、古代信仰・民族信仰が脈々と生きており、伊勢の神宮をはじめとした全国各地の神社で毎日のようにお祭りが行われている。のみならず日本伝統信仰の祭り主であらせられる天皇は多くのみ祭りを厳修され、国家の平安・国民の幸福・五穀の豊饒を神に祈り続けられている。そしてその祭り主たる日本天皇は日本国家の中心者として君臨あそばされている。このようにわが祖国日本は永遠の生命を保ちつつ革新を繰り返してきている国である。これが世界に誇るべき日本の素晴らしさである。

維新と言い、日本的変革と言うも、要は日本国そして日本国民一人一人を新生せしめ、清浄化し、天皇国日本の本来の姿そして「み民われ」としての日本国民本来の姿を回復することによって現状の革新を行うということである。大化改新も明治維新も建武の中興もそういう精神に基づいて断行された。

 

現代日本の汚れを祓い清め、正しき国の在り方・日本人としての正しき姿を取り戻すことが維新である。日本は伝統と変革が共存し同一なのである。だから維新を<復古即革新>というのである。この場合の「復古」とは単に時間的過去に逆戻りすることではない。古代の伝統精神の新たなる発見である。古代からの日本の伝統精神を復活せしめ硬直し腐敗した現代を一新する。これが維新である。

 

『古事記』の編纂もかかる維新の精神の基づいて行われたのである。太安萬侶(おおのやすまろ)は古事記序文において「古を稽(かむがへ)て風猷を既に頽れたるに繩(ただ)したまひ、今を照して典教を絶えなむとするに補ひたまはずといふこと無かりき」(いつの時代にあっても、古いことを調べて、現代を指導し、これによって衰えた道徳を正し、絶えようとする徳教を補強しないということはありませんでした、というほどの意)と述べている。これが復古即革新の精神である。

 

大化改新も明治維新も、神武建国への回帰・神武建国の精神の復興がその原基であった。

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千駄木庵日乗十二月十三日

午前は、諸事。

午後二時、平河町の先輩事務所訪問し懇談。意見交換。

帰宅後は、明後日行われる『萬葉古代史研究会』における講義の準備など。

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2017年12月11日 (月)

神祭りは、日本傳統精神の原点であり日本傳統文化の祖型である

 

神道の基本行事たる「祭り」とは神に奉仕(仕へ奉る)し、神の御前において自己を無にして神の御心に従ひ奉ることである。つまり神と自己との一體を確認し、神の御心のままに勤めることをお誓ひする行事である。祭祀は、〈神人合一〉の行事である。

 

「祭祀」とは、「始まりの時」に行はれた行事を繰り返し行ふことによって、「始まりの時」に回帰する行事である。日本神道の祭りは、お祓ひ、祝詞奏上、玉串奉奠などを行ふことによって、罪けがれを祓ひ清めて、人としての本来の姿に立ち帰るといふ行事である。言ひ換へると、禊祓ひによって生成の根源に回帰するといふことである。「無私」になって神に一切を「まつろふ」(従ひ奉る)から「まつり」といふのである。

 

神祭りは、日本傳統精神の原点であり日本傳統文化の祖型である。

 

「祭り」とは厳粛なる行事ではあるが、堅苦しい苦行ではない。明るく愉快な行事である。神人融和・神人合一の状態は明るく面白いのである。

 

「阿波礼、阿南於毛志呂、阿南多乃之、阿南佐屋気、於気於気(あはれ、あなおもしろ、 あなたのし、あなさやけ、おけおけ)」

 

これは、天照大神が天の岩戸からお戻りになり、世界が明るさを取り戻した際、天の岩戸の前で神々が歌ひ踊って喜ぶ場面の掛け声である。

 

日の神たる天照大御神の再臨は、笑ひによって實現した。日本民族にとって「笑ひ」とは、暗黒や邪気を除去し明るい日の神を迎へる歓びであった。つまり祭りの原義と一體である。

 

日本人が「祭り」が好きなのは、日本人が本来明るい性格の民族であるからである。「面白い」といふの言葉は、實に天の岩戸開き以来の言葉である。神人合一とは、明るい面白い境地なのである。

 

我が國民が祭りが好きなのは、日本人が本来明るい精神を持ってゐるといふことである。厭世的でもなければ逃避的でもないといふのが我が國民性である。いかなる困難も罪穢も神を祭ることによってこれを打開し祓ひ清めることができると信じ続けてきてゐるのである。

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千駄木庵日乗十二月十日

午前は、諸事。

午後は、資料の整理。

午後四時より、グランドヒル市ヶ谷にて、『三浦重周烈士十三回忌「早雪忌」の集い』開催。黙祷の後、玉川博己氏が挨拶。小生などがスピーチ。最後に「昭和維新青年日本の歌」「海ゆかば」斉唱して終了した。

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挨拶する玉川博己氏

帰宅後、資料の整理など。

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2017年12月10日 (日)

『政治文化情報』平成二十九年十二月号のお知らせ

四宮政治文化研究所発行・『政治文化情報』平成二十九年十二月号のお知らせ

 

『政治文化情報』は、昭和五十九年創刊以来、小生の論考、時局問題などに関する主張、活動状況の報告、各方面から得た様々な情報などを掲載し、それなりの評価を得て来たと自負致しております。
多くの心有る皆様方のご購読をお願い申し上げます。
見本誌御希望の方はご遠慮なくメールでお申し込み下さい。

メールアドレス m-shinomiya@max.hi-ho.ne.jp

購読料
年間 12000
半年 6000

平成二十九年十二月号(平成二十九年十月二十五日発行)の内容

 

〈皇都の一隅より〉

明治維新と國學

 

國學は明治維新の思想的基盤であった

國學者の悲憤慷慨の思ひは「やまと歌」によって表白された

 

荷田春滿の歌

鹿持雅澄の歌

橘曙覽の歌

佐久良東雄の歌

伴林光平の歌

眞木保臣の歌

村田清風の歌

千駄木庵日乗

 

加瀬英明氏「日本は謙虚だから明治維新が成功した。日本にとって一番大切なのは天皇。國民は天皇のことを真剣に考えるようになった」

 

山田宏参院議員「天皇を中心にまとまっている國。神話が生きている國。これが一番の強み。皇室・神社・日本語が日本を支えている」

 

田母神俊雄氏「北は儲からない暴発はしない。アメリカも北を攻撃しても儲からない。日本にとって一番怖いのは中國。尖閣に侵攻する」

 

丹羽文生拓殖大學海外事情研究所准教授「い切れない。しかし個人としては台湾にシンパシーを抱いていると思う。民主党の親台派は小沢一郎幹事長によって潰された」

 

この頃詠みし歌

 

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萬葉古代史研究會

萬葉古代史研究會

 

四宮正貴が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

 

日時 十二月十三日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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神社神道は共同体としての國家・國民の精神的基盤である

 

日本の伝統信仰である「神道」への理解が戦後大きく歪められてしまった。神道は、祭祀宗教であって、教団宗教ではないという事が忘却された。法律上、靖國神社が創価學會等の教団宗教と全く同じ「宗教法人」とされてしまった事が最大の問題である。

 

そして、「現行憲法」の「政教分離」の規定が、伊勢の皇大神宮・靖國神社などにまで及んでしまった。神社神道は、教団宗教とは全くその本質を異にしている。

 

しかし、それは『神社神道は宗教ではない』ということではない。神道は信仰共同体日本の生成と共にある祭祀宗教である。排他的な教条を持たず、独善的な布教を行わず、教祖がいない。神道は、共同体としての國家・國民の精神的基盤である。それは建國以来のわが國宗教史を見れば火をみるよりも明らかである。

 

日本の伝統信仰である神社神道は実におおらかにして明るい信仰である。明石に柿本神社という神社が鎮座している。別名を人丸神社と申し上げる。仁和三年(八八七年)、覚証という僧侶が、柿本人麻呂の霊がこの地に留まっているのを感得したとして、柿本人麻呂を祀る祠を建てたのが淵源で、元和六年(一六二〇)当時、明石城主であった小笠原忠政が神社を創建した。ご祭神は、申すまでもなく歌聖・柿本人麻呂である。

 

柿本人麻呂は、赴任地の石見から大和に帰る途中、明石海峡を通過する時、

 

「天離(ざか)る 夷の長通(ながち)ゆ 恋ひ来れば 明石の門(と)より 倭島(やまとしま)見ゆ」

 

という名歌を詠んだ。明石が人麻呂ゆかりの地であることは確かである。

 

ご神徳は、「学問・和歌・安産・火災除・夫婦和合」の神である。なにゆえ人麻呂が安産の神なのかと言うと、ヒトマロとは「人産()まる」という意味に通じるからだそうである。またなにゆえ「火災除け」すなわち防火の神であられるかというと、ヒトマロは「火止まる」に通じるからだそうである。またなにゆえ人麻呂が夫婦和合の神とされるのは、妻を思ふ歌を多く詠んだからだそうである。

 

こじつけ・語呂合わせ・駄洒落と思ってはならないと思う。きっと防火や安産とは直接的には関係のなかった人麻呂はあの世で驚いていると思うが、日本人はかくの如く、おおらかで明るい信仰心を持っているのである。そして天地万物万象を神として拝むのである。またすぐれた人を神として拝むのである。

 

信仰とは人を明るくさせるものでなければなりません。人を暗くし、闘争心をかきたてるような信仰は誤りだと思う。日本民族は本来明るくおおらかな民族なのである。宗教が闘争戦争の原因になるなどということは全くあってはならないことである。

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千駄木庵日乗十二月九日

午前は、諸事。

午後二時より、靖国神社境内の靖国会館にて、日本学協会主催『第七回日本学講座』開催。永江太郎氏が主催者挨拶。明治神宮武道場至誠館館長・荒谷卓氏が「生成思想と武士道-世界を創造する精神文化―」と題して講演。

 

昨年十二月九日午後二時より、靖国神社境内の靖国会館にて、十二月九日に開催された日本学協会主催『第七回日本学講座』における明治神宮武道場至誠館館長・荒谷卓氏による「生成思想と武士道-世界を創造する精神文化」と題する講演内容は次の通り。

 

 

 

「自衛隊に三十年近くいた。ブッシュ大統領が九・一一に際してテロとの戦いを宣言。アメリカの軍事に対する考え方が根本的に変わった。軍事に関する教科書が書きなおされた。富の不平等な配分、特に物を持つ者と持たない者との格差を生じる。グローバル化に取り残される国家が生まれる。国家が主役ではなく、法人企業と個人が主体。今は中間層がいない。富める者と貧しい者しかいない。

 

 

 

軍事作戦は、攻撃と防御の戦略的概念が根本。今は安定化作戦。同じ力ではなく圧倒的な力の差によって社会秩序の安定化する。ペリーが来日する時の『航海日誌』に『日本が価値のある産物を有しながら鎖国する権利はない。日本が譲歩しないなら武力によって開放すべきだ』と書いた。日本文化の価値觀はそういうところにはない。このような目的と価値観で軍事作戦に参加するのはノー。私の価値観と異なる。新自由主義の資本主義は、非合理的ろ情緒的生活の全てを解体する。経済外的規範から成る共同体の慣習は資本主義の規律とは相反する。私は経済成長=幸福とは考えていない。

 

 

 

個人の権利の法的規定は家族の中で政争が始まる。個人の権利の主張から万民の幸福は出て来ない。正しい文化伝統の価値観を守っていきたい。

 

 

 

戦争は極めて合理的考え方から成り立つ。合理性で武器の進歩がある。武道は世界的普遍性がある。神道の祭祀では籬(ひもろぎ)を立てる。常緑樹はその土地の神をお呼びする。ロシアで行われたセミナーの祭典の時、神職が『かけまくも畏きキリストの大神』という祝詞を相乗した。参加者は感動した。それぞれの参加者の信仰の取り持ちをするのが神道。自分自身を構築するのが武士道。フランスの柔道人は日本より多い。日本人に感謝の心を持っている。明治神宮の参拝者の半分は外国人。日本の神はきこしめす神、みそなわす神、見てくれる・知ってくれる神。日本の神は受容の神。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。マーシャルアーツ(注・martial arts。日本語の『武芸』を英訳した言葉。文字通り、『武の』【martial】『芸』【arts】のことを指す。これが転じて、レスリング、ボクシングといった西洋文化に根を持つ術技体系以外の拳法、格闘技全般を指す言葉として用いられる)は相手を殺す、傷つけることが目的。日本の武士道はそうではない。活人剣。合気道然り。全体として生命体意識に目覚める。他者に対する自己犠牲を日本武人は体現している。日本武道は従属ではなく主体性。殺傷ではなく創造。結果よりプロセス。戦い方自体に文化がある。道義があるから戦う。結果は問わない。道義を体現して戦う。武道は型・形態から入る。型の継承と維持は大変大事。古いものを継承すると新しいものが創造されていく。伊勢の神宮の式年遷宮、皇位継承と同じ。われわれは宇宙の一部、自然の一部。自分の中を探求すると宇宙と共通するものがある。自分の中に宇宙の原理が働いている。包容同化して、勝った者が負けたものをお祭りする。お互いの尊厳を認める。平らけく和するのが平和。お社に集まるから社会と言う。共同体の原理」。

 

 

 

帰宅後は、資料の整理など。

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2017年12月 8日 (金)

村井友秀東京国際大学国際戦略研究所教授による「中国の覇権野望に直面して―国際紛争の理論と現実」と題する講演内容

九月二日に開催された『アジア問題懇話会』における村井友秀東京国際大学国際戦略研究所教授による「中国の覇権野望に直面して国際紛争の理論と現実」と題する講演内容は次の通り。

 

「国際政治・国際関係論は戦争を起こさないようにするのが目的の学問。そのために戰爭のメカニズムを理解するのが一番大事。

 

来週沖縄で講演する。『戦争』という言葉を使うと、『沖縄タイムス』が批判する。安全保障は人間にとって空気のようなもの。自分が空気があって生活できるのが分かるのは、空気が無くなった時。平和だから日常生活ができる。

 

戦争をする國はどういう国か。①軍事政権②独裁政権③民族主義④構造的暴力⑤戰爭のコストが小さい國。①は軍人が政策を決める。②は何処の国も、政治は国民の同意によって支えられると同時に、国民を強制する。独裁国家は強制のみによって支えられている。強制力(軍と警察)は独裁政権が国民を叩く鞭。国民にとっては迷惑。政権を強化すると国民の同意が減ることを解決する方法は外敵を作ること。外から国を守らねばならない・外敵から攻撃ということを口実に、強制力を強化する。北朝鮮はその典型。

 

イスラム教は喜んで自爆する。だから戰爭をする下地ができる。百五十万人が死んだ北朝鮮の飢餓は、人命に対する意識を希薄化させた。戦争をしたくない最大の理由は人が沢山死ぬから。しかし、色々な理由で人が沢山死ぬ國は反戦意識は高くない。

 

戦争のコストが高い所は戦争ができない。都市化・対外依存度・少子化が三つのコスト。農村は物流が止っても自給自足で生きていける。都市はそれが出来ない。ベトナム空爆の責任者カーチス・ルメイは東京大空襲の指揮者。戦争に勝つとは損害許容限度を超える前に戦争目的を達成すること。ベトナム戦争では三四〇万人のベトナム人が死んだ。日本は三百万人が死んだ。三百万人は限度を超えた。日本は損害に耐えられるまで戦った。だから強かった。

 

北朝鮮の少子化は進んでいる。北朝鮮はチキンゲームをやっている。madmanは合理的判断はしない。トランプは何をやるかわからないと金正恩は知っている。

 

鄧小平は中央軍事委員長。胡耀邦よりも偉かった。党のトップよりも軍のトップの方が偉い。中国は兵営国家。軍と政治家が一体化している。中国はシーレーンを守れない。戦争になったら中国はGDPの三割を失う。ロシアは中国を助けない。ロシアは中国に攻め込む。中国も少子化が進んでいる。少子化は中共の政策であった。今の中国に人海戦術は無理。

 

中国は国連が一致して北朝鮮に制裁を加えることに反対。中国が北朝鮮を支援しているから国連の経済制裁は効かない。中国は北朝鮮を丸抱えしている。自分の領土と思っている。中国は朝鮮が統一して反中国国家になるのが怖い。中国の庇護の中に北朝鮮はある。北朝鮮は中国の利益の範囲内でやっている。

 

戦争にならないのはアメリカにとって大した問題ではないから。イラクに対してやったように北朝鮮に攻め込むことはない。だから数百人の部隊で実行できる斬首作戦を考えている。

 

何かあったら一番先に北朝鮮に入るのは中国軍。金正恩を排除し親中国政権を作る。傀儡政権の頭を変え、核開発を止めさせる。

 

日本が軍拡すると中国も軍拡する。軍拡競争をしている間は戦争にならない。中国は同盟を信じない。中国は尖閣を攻めてもアメリカは出て来ないと思っている。日米同盟だけでなく、日本の軍事力を強化すべし。

 

『日本には漢奸が多い』と中国の工作員は言った。そういう漢奸とされる人たちは『自分は日本のためにやっている』と信じて中国のためにやっている。

 

中国は自分の不利益にならないことはやらない。ロシアは中国に対してかなり危機感を持っている。ロシアの経済状態は悪いし、軍事力も中国の増強度に比べると弱い。ロシアの軍事力は世界第二位だがGDPは韓国並み。中国は党も軍もほとんど皆賄賂をもらっている。汚職で誰でも逮捕できる。スターリンは将軍を粛清した時、佐官級を昇進させたので、軍は反発しなかった」。

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千駄木庵日乗自由に月八日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆など。

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『王政復古の大号令』に示された「神武創業ノ始ニ原」くとは「祭政一致の國體」の開顕である

 

『王政復古の大号令』に示された「神武創業ノ始ニ原」くとは、「祭政一致」の再興である。「祭政一致」とは、神をまつり神の御心のままに政治を行ふといふことである。

 

明治天皇は、明治元年十月十七日渙発の『祭政一致の道を復し氷川神社を親祭し給ふの詔』において「神祇を崇(たふと)び祭祀を重ずるは、皇國の大典にして、政教の基本なり。…方今更始の秋(とき)、新に東京を置き、親しく臨みて政を視る。将に先づ祀典を興し、綱紀を張り、以て祭政一致の道を復せむとす」と示された。

 

さらに、明治天皇は、明治三年正月三日『神靈鎮蔡の詔』を発せられ、神武天皇が橿原建都の後、神武天皇四年二月二十三日に発せられた『天神を祀り大孝を述べ給ふ詔』の大御心を継承されて、「朕、恭しく惟みるに、大祖の業を創(はじ)めたまふや、神明を崇敬し、蒼生を愛撫したまひ、祭政一致、由来する所遠し。朕、寡弱を以て、夙に聖緒を承け、日夜怵惕(じゅつてき)して、天職の或は虧(か)けむことを懼る。乃ち祇(つつしみ)てい天神・地祇・八神曁(およ)び列皇の神靈を、神祇官に鎮祭し、以て孝敬を申(の)ぶ。庶幾(こひねがは)くは、億兆をして矜式(きょうしき)する所有らしめむ」と宣せられた。

 

影山正治氏は、「『諸事神武創業ノ始ニ原カム』ことを御眼目とされた明治御維新は、何よりも先づ祭政一致の大道大義を明らかにすることを以てその根本第一義とされた」(『古事記要講』)と論じてゐる。

 

復古の精神即ち祭政一致の精神は具体的には次のやうな形で現れた。明治四年十二月十二日付の左院(明治初期の立法諮問機関)の『建議』に「一、天照大神の神殿を禁域の中央に造立し、國家の大事は神前に於て議定すべきこと。…文武百官拝任の日は必ず神殿に拝して誓文を奉り、神教を重んじて皇室と共に國民を保安するの誠心を表せしむべ事。」とある。

 

「祭政一致」の制度を確立して、政治家・官僚はもちろん國民すべてが天神地祇へのかしこみの心を持って政治を行ひ、生活を営ませやうとした。神祇官の再興もその一環であった。

 

神祇官とは、律令制で、太政官と並ぶ中央最高官庁である。朝廷の祭祀をつかさどり、諸國の官社を総轄した。明治維新政府は、慶応四年(一八六八)閏四月、太政官七官の一として神祇官を再興し、神祇・祭祀をつかさどらしめた。明治四年(一八七一)八月八日にその規模を変じて神祇省と改称した。

 

「神武創業への回帰」といふ雄大にして宏遠なる精神は、近代日本の出発において、傳統を重んじつつ柔軟にして自由な変革を實現せしめる原基となった。

 

大原康男氏は、「(神武創業への回帰は・注)『歴史的拘束性』を否定して近代化への推進力となったが、同時にそれは急進的な欧化への歯止めともなっていた。従って復古即革新といふスローガンがいい意味でプラグマチックに活用されたことは否めないが、それも神武天皇の再臨としての明治新帝が担う傳統的な権威へのコンセンサスがあってのことだ。『古代的原理への回帰を下敷きにした近代國家の確立』というユニークなテーゼは非欧米諸國で近代化に成功した唯一の國日本の謎を解く鍵でもある」(『國體論と兵權思想』・「神道学」昭和五十五年五月号所収)と論じてゐる。

 

明治維新が力強く生き生きとして創造性に富む変革となった原因は「諸事神武創業ノ始ニ原カム」とする御精神と「我國未曽有ノ変革」といふ御自覚である。しかもこの二つの御精神・御自覚は全國民に示された。そして、復古の精神を基本に置きつつ自由大胆なる変革が断行できた。

 

『岩倉公實記』には次のやうに書かれてゐる。「具視王政復古ノ基礎ヲ玉松操ニ諮問スル事、…具視以謂ク建武中興ノ制度ハ以テ模範トスルニ足ラズト。之ヲ操ニ諮問ス。操曰ク、王政復古ハ務メテ度量ヲ宏クシ、規模ヲ大ニセンコトヲ要ス。故ニ官職制度ヲ建定センニハ当ニ神武帝ノ肇基ニ原キ寰宇ノ統一ヲ図リ、萬機ノ維新ニ従フヲ規準ト為スベシ」と。

 

「度量ヲ宏クシ、規模ヲ大ニ」した大変革が行はれる精神的素地は、實に「神武創業」への回帰といふ復古精神であった。

 

要するに、明治維新とは、「諸事神武創業の始に原く」=天皇の國家統治・祭政一致・一君萬民のわが國本来の姿=國體の開顕によって「未曽有の変革」を断行することだったのである。

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千駄木庵日乗十二月七日

午前は、諸事。

午後は、『政治文化情報』原稿執筆。

午後五時より、お茶の水にて、『伝統と革新』編集実務担当者と打ち合わせ。

帰宅後も、原稿執筆。

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2017年12月 7日 (木)

明治維新の基本精神は「尊皇攘夷」「復古即革新」

 

明治維新の基本精神は、「尊皇攘夷」即ち肇國以来の天皇を君主氏仰ぐ國體の本姿および日本民族の傳統信仰を回復して國家体制を革新し外國からの侵略を防ぐといふ精神である。それは復古即ち神代への回帰は現實の革新と一体であるといふ「復古即革新」の理念である。維新は革命ではないといはれる所以である。鎌倉幕府以来の武家政治・強いもの勝ちの覇道政治を否定し天皇統治の皇道政治の回復を目指した変革が明治維新である。

 

かうした明治維新の根本精神は、『王政復古の大号令』と『五箇条の御誓文』の「勅語」に示されてゐる。

 

明治天皇が慶応三年(一八六七)十二月九日に発せられた『王政復古の大号令』に、「諸事神武創業ノ始ニ原(もとづ)キ、縉紳(しんしん:公家)、武弁、堂上、地下(じげ)ノ別ナク、至当ノ公議ヲ竭(つく)シ、天下ト休戚(きゅうせき)ヲ同シク遊(あそば)サルヘキ叡慮ニ付キ、各(おのおの)勉勵、舊来ノ驕惰ノ汚習ヲ洗ヒ、盡忠報國ノ誠ヲ以テ奉公致スヘク候事。」と示されてゐる。

 

天皇國日本の原初即ち神武創業に回帰することが明治維新の基本精神であった。

 

また、明治天皇が慶応四年(一八六八)三月十四日、天神地祇に新しい國家の方針を誓はれた『五箇条の御誓文』の「勅語」には、「我國未曽有ノ変革ヲ為サントシ,朕躬(ちんみずから)ヲ以テ衆ニ先ンジ,天地神明ニ誓ヒ,大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立ントス。衆亦此旨趣ニ基キ協力努力セヨ」と示されてゐる。

 

さらに、『五箇条の御誓文』の制定にあたって、明治天皇が神祇に捧げられた祭文中には、「今ヨリ天津神ノ御言寄(コトヨサシ)ノ随(ママ)に、天下ノ政ヲ執行(トリオコナ)ハムトシテ…」と示されてゐる。

 

明治維新は、神武創業への回帰、道統の継承、「祭政一致」の回復が第一義であった。日本傳統信仰即ち天神地祇への祭祀を根本とし、神武創業の精神の回帰しつつ、徹底した大変革を行ふのが、明治維新の基本精神であった。まさに「復古即革新」である。

 

「復古即革新」といふ明治維新の精神は、公卿や武士や学者といふ当時の指導層のみが志向したのではない。全國民的な傳統回帰精神の勃興でありうねりであった。

 

山口悌治氏は、「伊勢参宮運動が、明和八年には、四月八日から八月九日までの間に、二百七萬七千四百五十名。文政十三年には三月から五月までの三ヶ月間に四百萬人を超えたといふのである。明治維新は勤皇の志士達を中心とする下級武士達と私は思ってゐたが、實はこのやうな一般庶民の圧倒的な伊勢参宮運動が、覇道政権への抵抗として全國にその土台をすでに充分成熟せしめてゐたのである」(『萬葉の世界のその精神』)と論じてゐる。

 

さらに、慶応三年(一八六七)七、八月頃、には「ええじゃないか」といふ民衆運動が起こった。これは、伊勢神宮の神符等が降下したことを発端として乱舞を伴ふ民衆信仰的な民衆運動である。名称は、民衆が踊りながら唱へた文句が「ええじゃないか」「よいじゃないか」「いいじゃないか」等があったことに由来するといふ。発生地は、畿内、東海道を中心とした全國約三十カ國である。囃し言葉には、「日本國の世直りはええじゃないか」「今年は世直りええじゃないか」といふやうな世直しを期待する文句であった。伊勢参宮運動=お蔭参りの傳統を継承した世直しを希求する民衆運動である。

 

このやうな民衆の復古的・信仰的な世直し運動が明治維新の原動力の一つだったのである。まさに明治維新は全國民的な「復古即革新」運動だったのである。

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千駄木庵日乗十二月六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆など。

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2017年12月 6日 (水)

今朝思ったこと

 市川市内を流れる江戸川放水路河川敷で、カキの殻が大量に捨てられ、問題になっている。地元住民らによると、数年前からカキを採りに来る支那人が増えて以降、河川敷が大量のカキ殻で埋め尽くされるようになった。河川敷は地元住民が水辺に親しむ場にもなっており、子どもが転んでカキ殻でけがをする事例も相次いでいることから、安全確保のため国や市、地元の環境保全団体などがカキ殻を回収する対策に乗り出した。支那人は、公衆道徳を守る観念が希薄である。

 

以前にも書いたが、共産支那の王毅駐日大使(当時・現在外交部長)が何処かで講演して、小泉純一郎総理(当時)の靖国神社参拝について「隣人の嫌がることをしないのが東洋人の伝統だ」と言った。

 

冗談も休み休み言ってもらいたい。「隣人の嫌がること」を建国以来やり続けているのが共産支那である。ベトナム・チベット・東トルキスタン・韓国への軍事侵略、台湾への軍事恫喝を行ない、わが国に対しては内政干渉・資源と領土の侵害・反日暴乱・上海領事館員へのスパイ強要等々、数え上げればきりがないほど「隣人の嫌がること」をし続けて来ているのが共産支那なのだ。

 

「東洋人」などと言うが、東洋は一つの人種概念でひとくくりにできない。地域は広いし、人口は多く、多くの民族に分かれ、言語・宗教・文化は多種多様である。はっきり言って「神州清潔の民」=日本民族を共産支那政府治世下の道義を忘却した支那人と一緒にしてほしくない。

 

そもそも孔子様の説いた道徳もわが國においてより高度となり、洗練され、そして実行されている。いまの支那人は孔子の教えに反することばかりやっている。「論語読みの論知らず」という言葉あるが、『論語』を全く読んでいないのである。讀んでいても書いてあることと逆のことをしているのだ。こういうことを書くのも「ヘイトスピーチ」になるのだろうか?。

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「保守」とはなにか、「革新」とは何か

 

「保守」「革新」という区別があるが、定義がまことに曖昧だ。「保守」と言っても「現状維持」戦後体制擁護」という「保守」と、「國體護持」「戦後体制打倒」という「保守」がある。

 

近年は「真正保守」という言葉が出てきた。「天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体日本の國體」を守るのが真の保守である。それを「真正保守」と言うと思う。また、歴史問題で自虐的な思想を抱いていないことも大切である。

 

国防問題や外交問題でまともなことを言っている政治家でも、肝心要の國體や歴史問題で、全く期待を裏切るようなことを言う人がいる。実に困ったことである。そうした中にあって、平沼赳夫氏はまともであったが、ついに引退されてしまった。

 

尊皇精神を保持し、日本の傳統精神を重んじる政治家は、国防・安保・教育・憲法などのことでも正統な主張をする。ところが、尊皇精神が希薄で、日本の傳統精神について正しい理解がなく、歴史観もおかしい人は、他の事でもおかしな主張をする。また権力型政治家が多い。

 

所謂保守政治家と思われている人が実はそうではなかったという人が随分沢山いる。小沢一郎氏、加藤紘一氏そういう政治家だったと思う。この人たちはみな二世政治家である。即ち、父親が政治家だったから家業としての政治家を受け継いだだけで真の保守思想の持ち主ではなかったのである。小沢氏は、共産党・社民党などとも手を組んで反自民の急先鋒になった。

 

安倍氏の祖父岸信介氏が安保改定を推し進めた時、衆議院の安保特別委員長としてこれに協力したのが、小沢氏の父小沢佐重喜氏である。この時、小沢佐重喜氏は左翼革命勢力の攻撃にさらされ、湯島にあった自宅にもデモ隊が押し掛けるような事態になった。

 

小沢一郎氏は、そうした経験から、岸氏に対して特別の思いがあると思われる。だから、小沢氏はその著書で「戦時中の指導者が戦後政治の中枢に戻ったことは納得がいかない。無責任である」という意味のことを書いた。しかし、戦後日本の復興は戦前の世代の人々の努力によるのである。また、小沢氏の主張を突き詰めれば、「昭和天皇退位論」にもつながるし、大東亜戦争否定論にもつながる。

 

また、今日のエリート官僚に多くは「中道左派」と言われている。戦後の偏向教育を受けて優秀な成績を収めたのであるからそれは当然のことかもしれない。

 

「保守」とは何かの定義が問題である。現状維持という意味では真の保守ではない。小生は真の保守とは「國體護持」であると考える。尊皇愛国・國體護持の姿勢こそが「保守」であると信ずる。であれば、今日の自民党議員の中にも、そして元自民党の議員の中にも「真の保守」とは言えないような人がいる。「天皇に人権はない。譲位などさせるな」「昭和天皇は『A級戦犯』をアメリカに差し出した」などと声高に主張する亀井静香氏はその典型である。

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千駄木庵日乗十二月五日

午前は、諸事。

午後は、上野公園の東京都美術館で開催中の『ゴッホ展 巡りゆく日本の夢』参観。

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上野公園の黄葉

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上野公園の紅葉

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上野公園の黄葉

帰宅後は、原稿執筆。

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2017年12月 5日 (火)

「もっとも害を与える人は、もっとも善いことをしようと努めている人だ」

オスカー・ワイルド(一八五四~一九〇〇。イギリスの劇作家・小説家。世紀末文学の代表的作家で、芸術至上主義者。代表作に戯曲『サロメ』がある)に、「もっとも害を与える人は、もっとも善いことをしようと努めている人だ」という言葉がある。「自分の行っていることが正義だ」と信じ込み実行する勢力や個人、とりわけ権力者が、殺戮を行い、世の中を暗黒にし、独裁政治を生み、國民から自由と繁栄を奪うという意味であろう。

 

自由で幸福な世の中とは、公正(フェア)な世の中ではあっても、ある人の唱える「正義」を絶対のものとして民衆に押しつける世の中ではない。独裁者は必ず「正義」を旗印として独裁政権を手に入れる。レーニン、スターリン、ヒトラー、毛沢東、カストロ、金日成などは皆そうだった。習近平・金正恩のも然りだ。

 

真に正義を尊重し正義の実現を目指す人は、そしてそれが権力を持つ人であればなおさら、自由で柔軟で大らかな精神を持っていなければならない。正義や人間の幸福は法律や権力のみによって実現されるものではない。法律や権力のみによって実現された正義の世の中とはロボットが動く世の中と同じである。

 

「正義」の呪文を唱えながら自由を否定する狂気は、暗黒と専制と殺戮の世の中をもたらす。それが一七八九年革命直後のロベスピエール独裁下のフランスであり、革命後の旧ソ連であり、共産支那であり、南北分断後の北朝鮮である。行き過ぎた教条に支配されることなく、自然に國民を正しき道を歩ましめることが必要である。

 

「モリカケ問題」とやらで、正義の味方面をして安倍総理を非難攻撃している日本共産党・立憲民主党は、「もっとも害を与える人は、もっとも善いことをしようと努めている人だ」の典型であろう。

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千駄木庵日乗十二月四日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆の準備、資料検索、書状執筆、原稿執筆。

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2017年12月 4日 (月)

立憲民主党の動きとエーリッヒ・フロムの主張

ドイツの社会心理学、精神分析、哲学の研究者エーリッヒ・フロム(1900323 - 1980318)は、その著『自由からの闘争』(1941年刊行)で「近代ヨーロッパおよびアメリカの歴史は、ひとびとをしばりつけていた政治的・経済的・精神的な枷から、自由を獲得しようとする努力に集中されている。自由を求める戦いは、抑圧されたひとびとによって戦われた。かれらは守るべき特権をもっているものたちに対抗して、新しい自由を求めた。そしてある階級が支配からの自由を求めて自分自身のために戦ったとき、かれらは人間の自由そのもののために戦っているかのように信じこんでいた。…しかし長いあいだ現実につづいた自由を求める戦いのなかで、ある段階では抑圧に抗して戦った階級も、勝利を獲得し新しい特権をまもらなければならないときがくると、自由の敵に味方した」「私は社会主義が欺瞞的な言葉となったロシアを忘れる事ができない。というのは、生産手段の社会化はすでに実施されているけれども、実際に強力な官僚制が巨大な人民大衆を操っているからである。これは必然的に、たとえ政府の支配が大多数の民衆の経済的利益に有効であろうとも、自由や個人主義の発達を妨害する。こんにちほど、言葉が真理をかくすために悪用されることはかつてなかった。協調の裏切りは宥和とよばれ、軍事的侵略は攻撃にたいする防御としてカムフラージュされ、弱小国家の征服は友好条約の名でおこなわれ、全人民の残虐な抑圧は社会主義の名のもとにおこなわれる。デモクラシー、自由、個人主義という言葉もまた、この悪用の対象になる」と論じている。

 

わが国の最近の「リベラル」を標榜する政治勢力は、フロムのこの主張をよくかみしめるべきである。リベラルを標榜しつつ共産党と共闘して自民党政権と戦うことはフロムの言う「自由の敵に味方する」ことになるのである。

 

フロムの「軍事的侵略は攻撃にたいする防御としてカムフラージュされ、弱小国家の征服は友好条約の名でおこなわれ、全人民の残虐な抑圧は社会主義の名のもとにおこなわれる」という主張は、まさにロシア(旧ソ連)、共産支那のやったことを予見している。

 

あってはならないことだが、リベラルを標榜する勢力が、自民党を打倒した後、共産党主導の専制国家が現出する危険があるのである。枝野幸男は、「われわれは保守だ」とか「右でも左でもない、前へ」などと言っているそうだか、國體破壊の革命政党とたとえ院内であろうと共闘することのどこが「保守」なのか、何処が「左でもない」のか、冗談も休み休み言ってもらいたい。

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千駄木庵日乗十二月三日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆の準備、書状執筆、原稿執筆。

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2017年12月 3日 (日)

國體破壊を目的とする日本共産党

日本共産党は、大正十一年(一九二二)七月十五日、ソ連の世界侵略共産化のための謀略組織であるコミンテルン日本支部として結成された組織であり、本来ソ連の手先なのである。「自主独立」などということは口が裂けても言えないのだ。

 

結党以来、「天皇制打倒」を叫んできた日共が、何故今ごろになって、「天皇制は憲法上の制度であり、存廃は将来、情勢が熟した時に国民の総意によって解決される」などということを言い出したのか。それは言うまでもなく、天皇・皇室を敬愛している圧倒的多数の国民を騙すための方便である。

 

日本共産党という共産主義革命を目指す政党が「君主制」を肯定することは絶対にありえない。われわれは決して騙されてはならない。

 

日共の「綱領」をよく読めばそれは明らかである。「綱領」には、「憲法上の制度であり、存廃は将来、情勢が熟した時に国民の総意によって解決される」と書かれている。つまり、「天皇制は窮極的には廃止したいのだが、今は情勢が熟していないので、共産党が権力を握るまでは廃止しない」と当たり前のことを言ったまでのことである。共産党は権力を掌握したら、いわゆる「天皇制」を否定した「共産主義憲法」を制定するのである。共産党が「天皇中心の日本國體」を容認したわけでは絶対にない。

 

それは、「綱領」の『前文』に「党は、一人の個人あるいは一つの家族が『国民統合』の象徴になるという現制度は、民主主義及び人間平等の原則と両立するものではなく…民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ」と明確に書かれていることによっても明らかである。

 

共産主義革命によって君主制が打倒された国々は、民主主義も人間平等もまったく実現していない。それどころか、独裁専制政治による差別虐待の体制になっている。この事実を見れば、共産党が目指す國體破壊がいかに誤っているかを証明している。

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千駄木庵日乗十二月二日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆の準備、書状執筆など。

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2017年12月 2日 (土)

『笹川平和財団主催・イランイスラム共和国外務省事務次官来日記念講演会「中東情勢とイランの新たな役割」』におけるセイエッド・アッバス・アラグチ外務省事務次官(法務・国際問題担当)による講演内容

八月八日に開催された『笹川平和財団主催・イランイスラム共和国外務省事務次官来日記念講演会「中東情勢とイランの新たな役割」』におけるセイエッド・アッバス・アラグチ外務省事務次官(法務・国際問題担当)による講演内容は次の通り。

 

「二〇一一年に日本に来て、四年間滞在した。多くの友人を得た。日本風の名前のアラグチです。中東は三つの大陸が接する所。三つの宗教が生まれた所。多くの始源が眠っている地。過去四十年間戰爭とテロが続いた。革命もあった。アラブの春は冬に変ってしまった。アラブは世界全体に影響を与えている。深刻な課題に直面。国内紛争が存在する。民主的でない政権がある一方、人々に政治的意識が高まっている。経済的課題・貧困・格差問題がある。外国の介入もある。

 

テロリズムは古くて新しい問題。パレスチナ問題も継続している。イランとトルコが勢力を増している。ハマスとヒズボラは正義のために戦っている。市民社会が新しい主体として形成されつつある。中東は深遠なる変化を経験し、進化している。正しい方向に向かっているかどうかは分からない。混乱と不確定性を伴う移行期である。

 

その中東の大国としてイランは抬頭しつつある。大統領選挙が行われ、現職のロウハーニー氏が再選された。この選挙では有権者の七三%が投票した。民主主義が力の源泉。イランの国民が力の源泉。イランは安全保障を自分で生み出している。民主主義体制を自ら作り出した。

 

イランは地域のテロと戦っている。現在のテロの形は世界の全ての人にとって脅威。何の罪もない人を殺している。グローバルにテロが行われている。我々はテロに対して戦わねばならない。

 

イラン経済は良い方向に向かっている。石油の輸出も増えた。インフレ率は一ケタに戻った。アメリカは建設的雰囲気を壊しつつある。イランの核問題に関する包括的共同作業計画(JCPOAJoint Comprehensive Plan of Action)全体としては力強い状況にある。ヨーロッパの国々はアメリカの新しい政策がどうあれイランと関係を持ち続けると言っている。イランは国際社会で大きな位置を占めている。

 

JCPOAで学んだことは、あきらめることがソリューション(解決)ではないということ。わが国のミサイルは防衛のためのみに使われる。われわれの安保はフセインのような誤算をしないためにミサイルに依存している。八年間のサダムフセインとの戦争のようなことを繰り返さないようにするために核を持っている。正当な防衛システム。地域の安定に確実に貢献している。

 

シーアとスンニの対立は危険。イランはシーア派のムスリム国として理解を求めていきたい。スンニ派の国とも連携している。宗派による対立に反対している。サウジとも対話を持っている。

 

テロリズムとは対決する以外にない。これが国際社会全体の結論。イランはパレスチナを正義のために支持している。イスラエルはパレスチナを抑圧し、領土を占領している。パレスチナ人は難民キャンプに生活している。イスラエルの国家によるテロを我々は批判する。われわれはパレスチナ人の正当な権利を支持する。軍事的抑圧に抵抗することは必要。しかし軍事的にイスラエル人を海に突き落とそうというのではない。政治的解決が必要。

 

イランと日本の関係は良好であり続けた。第三国が関わった時に問題が起こる。日本がアメリカと同盟関係にあることは理解する。安倍さんのイラン訪問を実現したい。日本の経済界はゆっくりしている。リスクのない経済関係は無い。ビジネスチャンスが無くなってしまう。ヨーロッパはアメリカと関係なくイランと関わりたい。日本も同じ結論を出してもらいたい。日本とサウジの関係に異論をはさまない。サウジの繁栄は我々の繁栄。

 

人権を守らない民主主義は民主主義ではない。報道の自由・言論の自由はイランの憲法に明確に書かれている。イスラム共和国では人権をどう見るかは他国とは違うところがある。同性愛者の権利は認めない。同性愛は人間のすることではない。宗教・文化・価値の違いは尊重し合うべきだ」。

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八月四日に開催された『第109回東京財団フォーラム トランプはどこまで変えられるのか-アメリカ大統領権限に見る可能性と限界』における登壇者の発言

八月四日に開催された『第109回東京財団フォーラム トランプはどこまで変えられるのか-アメリカ大統領権限に見る可能性と限界』における登壇者の発言は次の通り、

 

久保文明東京財団上席研究員、東京大学法学部教授(モデレーター)「トランプ登場前、オバマ大統領も大統領権限を使って法律上問題かもしれないことをしていた。トランプが登場して、こういうことを考える必要がもっと出て来た。アメリカ大統領は行政部の中では強い権限を持っているが、議会に対してはそうではない。アメリカ大統領は、局長級以上の人事権あり。役所に対する掌握権は強い。軍も掌握している。アメリカには内閣という言葉はない。行政権は大統領一人にある。大統領の議会への影響力は限定されている。ねじれ国会の方が多い。与党が多数でもなかなか法案は通らない。アメリカの政党には党首がいない。大統領は選挙の公認権は全く持っていない。公認候補は予備選で決める。日本は総理大臣が与党の党首であり、小泉郵政選挙を見ても分かる通り、公認にも強い権限がある。ロシア制裁決議をトランプは望んでいなかった。トランプのツイッターは公文書扱いで保存される。閣議決定が日本の最高意思決定。アメリカは大統領一人で決定。保守とリベラルの分極化が進んでいる。共和党は、ニューヨ―クタイムズ、CNNなどのメディアに対する不信が強い」。

 

阿川尚之同志社大学法学部特別客員教授「アメリカ憲法は一七八八年発効。第一条で議会権限、第二条で大統領権限、第三条で最高裁判所権限が書かれている。議会は憲法によって与えられた立法権しか持っていない。議会の横暴が恐れられていた。各州の司法権・立法権には触れない。限界が何処かは書いていない。憲法には大統領は法律の執行に責任を持つこと、全軍の指揮者であることが書かれている。強い執行府を作ろうとしたが、暴政を防ぐために矛盾した条文も入れた」。

 

梅川健首都大学東京都市教養学部法学系教授「大統領権限が定まっていない。大統領は難しい立場。大統領が単独で出来ることは殆ど無い。大統領は議会の協力を必要とする。メキシコとの国境の壁の建設には金がかかる。金の措置をするのは議会。民主党はマイノリティ、エスニックが票田。共和党支持者の企業経営者は安い賃金で人を雇いたい。だから予算措置はできない」。

 

浅野貴昭東京財団研究員・政策プロデューサー「通商協定は条約ではなく行政協定。一月二十日にトランプ就任、一月二十二日にTPP離脱を表明。TTP協定は批准してはいなかった。パリ協定も離脱。合衆国大統領は単独の政策変更はどこまでできるか。執政部都議会が権限を分かち合っている。大統領は条約を締結する権限がある。議会と大統領の権限の調整の仕組みがある。議会には予算を減らす対抗措置がある」。

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千駄木庵日乗十二月一日

午前は、諸事。

午後は、南青山の根津美術館にて開催中の『特別展・鏨の華』展参観。

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根津美術館庭園

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根津美術館の庭園


帰宅後は、原稿執筆。

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2017年12月 1日 (金)

共産主義は自由を圧殺する

レーニンは、「プロレタリア独裁とは、直接に暴力に依拠し、どんな法律にも束縛されない権力のことである。プロれタリアートの革命的独裁とは、ブルジョアジーに対するプロレタリアートの暴力によって戦いとられ支持されるところのどんな法律にも束縛されない権力でもある」と論じた。

 

これが共産主義革命思想の根幹なのである。共産党は、「リベラル」どころか「自由」とは圧殺する政党であることは明白である。人間が本来的に享受すべき「自由」を圧殺する思想・システムが共産主義なのである。法の支配も三権分立も立憲政治も根底から否定されるのだ。

 

共産主義集団の指導者、共産主義国家の独裁者が、反対者に対して苛酷にして残虐なる弾圧・粛清を行ってきているのは、かかる理論に基づくのである。習近平も金正恩もその典型である。

 

共産主義は「平等」を求めるという。平等の社會を実現するためには、暴力を厭わないし、人間の自由も圧殺する。従って、「自由」と「平等」は相矛盾する。ゲーテは、「平等と自由を共に約束する立法者は、夢みる空想家であるか、それともペテン師である」と言った。共産主義と自由は最初から理念的に無縁なのである。

 

向坂逸郎氏は、「社会主義社会は、むろん計画社会である。しかし、封建社会と違っているのは国民が生産手段を社会の所有にして、意識して計画的に運営するという点である。国民によって選ばれた中央機関によって計画される、組織された社会である」(『資本論入門』)と論じている。

 

旧ソ連も共産支那も北朝鮮も「国民によって選ばれた中央機関」によって計画され組織された社会ではない。第一まともな選挙制度が無い。共産党幹部が組織し統制する権力機関・官僚によって動かされる社会が社会主義社会である。

 

それは、強力なる官僚国家であり、一党独裁の統制社会である。そして権力の移動は選挙ではなく、暴力・テロ・粛清によって行われる。国民の自由は圧殺される。しかも共産主義が目指すところの「平等」もまったく実現しない。一部の党幹部が肥え太り、富裕階層を形成している。これが共産国家の実態である。

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千駄木庵日乗十一月三十日

午前は、諸事。

午後は、原稿執筆・脱稿・送付。

午後五時半より、赤坂にて、永年の友人二氏と懇談。

帰宅ごも、原稿執筆・脱稿送付。

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