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2017年11月23日 (木)

神社神道によって仏教が圧迫され信教の自由が脅かされたなどということはなかった

日本民族の精神的強靭さの根底に神道思想があるのは事実である。しかし、昭和十年代に興起した愛國心が、神國思想(神社への崇敬心)・尊皇心と一体だったからといって、神社神道が國家権力と一体となって國民を洗脳し信教の自由を奪い、國家國民を戦争へ駆り立てたなどというのは全く誤りである。

 

しかもその「國家神道」なるものが、明治維新以来八十年の長きにわたってわが國の思想界・宗教界に君臨し支配したなどという主張は幻想どころか妄想である。

 

村上重良氏は、『教育勅語』が『國家神道』の「教典」だったと言う。教典とは、絶対無条件で信じるべき教義(独善的観念大系)が書かれている書物である。ところが『教育勅語』はそれを拝すれば火を見るよりも明らかな如く、國民道徳の基準として學校教育を根本から支えた明治天皇の「おさとし」である。『教育勅語』にはいわゆる『國家神道』なるものの教義などは一切書かれていない。申すも恐れ多い事ながら、『教育勅語』には、「神」の字は一字もない。『國家神道』なるものの「教義」が書かれていないのにどうして『教典』なのか。もっとも「國家神道」などいうものは村上重良氏の幻想であり妄想なのだから、教義などはあり得ない。村上氏自身、「國家神道は内容を欠いた國家宗教」と書いているではないか。

 

新田均氏著「『現人神』『國家神道「『現人神』という幻想」によると、井上毅が『教育勅語』起草に際して首相の山県有朋に提出した意見書(明治二十三年六月)には、「勅語ニハ敬天尊神ノ語ヲ避ケザルベカラズ何トナレバ此等ノ忽チ宗旨上ノ争端ヲ引起ス種子トナルベシ」「世ニアラユル宗旨ノ一ヲ喜バシテ他ヲ怒ラシムルノ語気アルベカラズ」と書かれているという。

 

この意見書を見ても分かるとおり、明治の御代の政治家たちは神道を重んじたが、他の宗教、特に仏教に大変気を使ったのである。明治政府の要路に「仏教を叩き潰して神道を國教にしよう」などと考えている人はいなかった。「國家神道」なるものが明治初期からあって全宗教の上に君臨していた、などということは絶対になかったのだ。

 

慶応三年十二月九日の『王政復古の大号令』に「諸事神武創業の始に原(もと)つき」と示されているとおり、明治維新当初は、祭政一致の古代國家再生が実行されようとした。しかし、「祭政一致」は文明開化路線とは相容れずかつまた仏教教団の反対にあって頓挫してしまった。そして、「神道は宗教にあらず」という仏教教団の主張が取り入れられたという。

 

明治初期に「神仏分離令」が出され、廃仏毀釈が行なわれたことを以て神道が國教化し仏教が圧迫されたとする説がある。しかし、神仏分離は排仏ではなかったし、廃仏毀釈の動きにーは一時的に流行であったし、それには理由があった。

 

廃仏毀釈は、徳川幕藩体制下で、神道・神社が仏教から圧迫され制約を受けていた反動である。また、徳川幕府が仏教を尊崇し仏教教団を支配の道具として利用したので、徳川幕府打倒の戦いであった維新が成就した後に、仏教が圧迫されたのである。しかし廃仏毀釈は長くは続かなかったことは歴史に明らかである。

 

近代日本八十年の歴史において、神社神道によって仏教などが圧迫され布教の自由・信教の自由を脅かされたなどということはなかった。むしろ神社神道がその宗教性を除去されたと言って良い。村上氏の「國家神道が神・仏・基の上に君臨し支配した」などという説は誤りである。神社神道はむしろ仏教教団の政府に対する工作活動によって形骸化されたというべきである。

造化の三神への信なくして神道はあり得ない

 

この神社神道からの宗教性の除去とは、具体的にいえば、造化の三神を無視するということであろう。

 

明治八年三月、島地黙雷という浄土真宗の僧侶(この人は長州の勤皇僧で、明治維新の戦いの時に僧兵団を組織した戦ったという)が起草し、大谷光尊が太政大臣三条実美に提出した『宗門上相戻候大意』には「(天照皇太神は来世救済などの宗教上の談ではないからこれを崇敬するが)…造化三神ノ儀ハ近来一種ノ神道者流古事記ニ依テ…尊奉致シ…國体ノ談ニハ管係無之自ラ宗教ノ位地ニ相当リ候」と書かれている。(葦津珍彦先生著『國家神道とは何だったのか』参照)

 

これは、実に重要な文章である。浄土真宗を始めとした仏教教団の政府への影響力は強かった。特に浄土真宗は明治維新に貢献したので影響力が大きかった。維新の志士・明治政府の要路(特に長州出身者)にも真宗門徒がいた。

 

「神社神道非宗教説」とは、「造化三神への信仰を除外した神社神道」と言うことができるのではないか。近代日本におけるいわゆる「國家神道」の形骸化とはこのことである。

 

小生は、造化の三神(天之御中主神・高皇産霊神・神産巣日神)への信なくして、神道はあり得ないと思う。造化の三神は『古事記』冒頭に登場される神であり、わが國神話の根本である「天地生成の神」であられる。この神を否定することは日本神話否定・國體否定と同じである。

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