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2017年11月30日 (木)

この頃詠みし歌

 

佳き人に早く逢ひたいと思ひつつ恋歌を讀む我にしありけり

 

一つの仕事なし終ヘし後のくつろぎにチョコレートを一つ口に入れたり

 

父と母の遺影拝みて床に入るが日々の習ひとなりにけるかも

 

年賀状の整理をしつつこの一年逢へざりし友のことを思へり

 

維新以来百五十年の講演を聞きてをり彦根藩邸の跡所にて(憲政記念館『呉竹会』講演会)

 

万延元年江戸幕府崩壊の序章なり大老井伊は桜田門外に斃る

 

議事堂の前を歩めば警官がいぶかしげに我を見つめゐるなり

 

国会正門前に立ちゐる警官が我に今晩はと声かけにけり

 

大いなる人が描きし大いなる霊峰富士の絵を眺めゐる(横山大観画『日出処日本』)

 

二人の友と鍋つつきつつ語らへる晩秋の夜の楽しくもあるか

 

鍋奉行の指示に従ひ食しつつ語らひてをり晩秋の一夜

 

笑顔にて我に真向ふをみなごを人妻ゆゑに我戀ひめやも

 

焦土と化せし七十二年前を思ひつつ今この国の平和を祈る

 

幼児が列なし登校する姿見つつ祈れりこの国の平和

 

今日初めて電車の中で若者に席を譲られ苦笑ひせり

 

有難うとお礼を言へば若者は爽やかな笑みを我に向けたり

 

人と自然への慈しみの心に満ち溢れし玉堂の絵は見事なるかな(『没後六十年記念 川合玉堂ー四季・人々・自然』展)

 

大き自然の景色の中に描かれし人の姿のいとほしきかな()

 

日の本の国の榮を祈りたり新嘗を祝ふみまつりの庭(『新嘗を祝ふ会』)

 

大祓の詞を友らと唱へつつわが日の本の榮を祈る()

 

國汚す者共なべて祓ひ清め大日の本を蘇へらせたまへ()

 

静かなる初冬の午後に枯れ落ち葉踏みつつ歩み御佛を拝がむ

 

父母が護り来たりし観音堂われも日日参り来るなり

 

諏訪の神祀れる宮に七五三の幼児の姿愛らしきかな(日暮里諏方神社)

 

道灌殿の物見の丘に今日立ちて林立するビルを眺めゐるかな

 

仰ぎ見る巨木に命漲りて冬空の下に雄々しくぞ立つ

 

ニャオニャオと鳴き声立ててついて来る猫のいとしも下町の路地

 

人懐こい猫多くゐるを喜びつつ今日も歩めり千駄木谷中

 

大陸に戦ひ戦後を生き抜きて我を育てし父を偲ぶも

 

父母の恩といふ言の葉が幾度もよみがへり来て今日もよみがへりる

 

最早逢ふこと叶はざる人が多くなることのさみしさをかみしめてをり

 

若き友と語らふ夕べ我もまだ老いずに生きんと秘かに思ふ

 

それぞれの表情を持つ人々とすれ違ひつつ街歩み行く

 

当たり前のことを歌に詠むこともわが魂のなぐさめとする

 

亡き父ともっと語らひてゐれば良かりしと今さら悔いても詮方もなし

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千駄木庵日乗十一月二十九日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、原稿執筆。

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2017年11月29日 (水)

政治文化情報』平成二十九年十二月号のお知らせ

四宮政治文化研究所発行・『政治文化情報』平成二十九年十二月号のお知らせ

 

『政治文化情報』は、昭和五十九年創刊以来、小生の論考、時局問題などに関する主張、活動状況の報告、各方面から得た様々な情報などを掲載し、それなりの評価を得て来たと自負致しております。
多くの心有る皆様方のご購読をお願い申し上げます。
見本誌御希望の方はご遠慮なくメールでお申し込み下さい。

メールアドレス m-shinomiya@max.hi-ho.ne.jp

購読料
年間 12000
半年 6000

平成二十九年十二月号(平成二十九年十月二十五日発行)の内容

 

〈皇都の一隅より〉

明治維新と國學

 

國學は明治維新の思想的基盤であった

國學者の悲憤慷慨の思ひは「やまと歌」によって表白された

 

荷田春滿の歌

鹿持雅澄の歌

橘曙覽の歌

佐久良東雄の歌

伴林光平の歌

眞木保臣の歌

村田清風の歌

千駄木庵日乗

 

加瀬英明氏「日本は謙虚だから明治維新が成功した。日本にとって一番大切なのは天皇。國民は天皇のことを真剣に考えるようになった」

 

山田宏参院議員「天皇を中心にまとまっている國。神話が生きている國。これが一番の強み。皇室・神社・日本語が日本を支えている」

 

田母神俊雄氏「北は儲からない暴発はしない。アメリカも北を攻撃しても儲からない。日本にとって一番怖いのは中國。尖閣に侵攻する」

 

丹羽文生拓殖大學海外事情研究所准教授「い切れない。しかし個人としては台湾にシンパシーを抱いていると思う。民主党の親台派は小沢一郎幹事長によって潰された」

 

この頃詠みし歌

 

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2017年11月28日 (火)

日本の宗教精神の寛容性

 

 中東やヨーロッパの歴史を見ると宗教はもっとも非寛容であり、度々宗教戦争が繰り返されている。

 

 日本においてはその宗教ですら実に寛容であって、天皇を祭主と仰ぐ日本固有の信仰(神道)は外来仏教を受け容れて融合している。しかも皇室の祭祀を拝しても明らかなように、日本固有の信仰は形を変えずほぼ古代のままに継承され生き続けている。これは世界宗教史上においても希有な現象である。

 

 日本人の人生観・世界観の基本に、天と地への崇敬の心言い換えれば天神(天の神)と地祇(地の霊)に対する崇敬の心がある。そしてその祭り主が天皇である。

 

 日本民族は古代において儒教・仏教を受容し、近代において欧米文化を取り入れた。しかし神道と名付けられた日本伝統信仰を保持してきた。そして今日においても伊勢の皇大神宮をはじめとした全国の神社への国民の崇敬心は堅固なものがある。日本民族は、伝統信仰を中核に置いて外来文化を自家薬籠中のものとした。むしろ日本民族は仏教や儒教を借りて日本独自の精神を表現したと言っていい。

 

 このことについて柳田國男氏は「我々の固有信仰は、国の団結の大いなる必要に応じて、次第にその寛容の度を加へ、内外多くの神の並立両存を可能ならしめるほど至って協調しやすい素質をはじめから具へて居たものと、推測し得られる。…此点は、独り国内各地の神々の御間だけでなく、海を渡って遥々と送られて来た、新古の宗教に就いても同じ事が考へられる。…国民の中に人の祭り拝む神を、承認しようといふ態度は古くからあったのである。」(『参詣と参拝』)と論じておられる。

 

 日本民族の宗教的特質は、諸々の神々を崇拝の対象としたところにある。日本神話を読むと、日本人は人間が不可思議と思ったり偉大なる存在だと思ったものは全て神として拝み崇敬した。こうした神々を八百万の神という。

 

 日本が信仰共同体を形成するに際して、異なる土地の人々が崇め敬い祭っていた神を、迎え入れ、同じように祭るようになった。他人の拝む対象(神)を否定する事なく、八百万の神として受け入れた。狂暴にして他者に害を及ぼすと見られるような神をもこれを崇敬し祭ることによって人間に恩恵を施す神に転換させてしまう。こうした日本民族の宗教的柔軟性・無限包容力が、外来の宗教をも素直に受け入れた素地なのである。

 

 和辻哲郎氏は、日本の伝統信仰の包容性について、次のように論じておられる。「祭祀も祭祀を司どる者も、無限に深い神秘の発現しきたる通路として、神聖性を帯びてくる。そうしてその神聖性のゆえに神々として崇められたのである。しかし無限に深い神秘そのものは、決して限定せられることのない背後の力として、神々を神々たらしめつつもそれ自身ついに神とせられることがなかった。…究極者は一切の有るところの神々の根源でありつつ、それ自身いかなる神でもない。言いかえれば神々の根源は決して神として有るものにはならないところのもの、すなわち神聖なる『無』である。それは根源的な一者を対象的に把握しなかったということを意味する。…絶対者を一定の神として対象化することは、実は絶対者を限定することにほかならない。それに反して絶対者を無限に流動する神聖性の母体としてあくまでも無限定にとどめたところに、原始人の素直な、私のない、天真の大きさがある。それはやがて、より進んだ宗教的段階に到達するとともに、あらゆる世界宗教に対する自由寛容な受容性として、われわれの宗教史の特殊な性格を形成するに至るのである」(『日本倫理思想史』)。

 

 日本の伝統信仰の中心行事である祭祀は神聖なる行事として尊ばれて、祭り主(祭祀の執行者)も神聖なる存在として崇められた。その祭祀の対象は無限定の存在であり、無限包容力を有する存在である。つまり日本民族は人間が不可思議と思ったり偉大なる存在だと思ったものは全て神として拝み崇敬した。言い換えると祭祀のおいては、その対象を有る一定の神として限定的に把握しなかったのである。古代日本人のこうした信仰的態度が、後世日本民族が外来宗教を自由寛容に包摂した原因である。

 

 本居宣長は「何事もみな神の仕業にて、世中にわろき事共あるも、みな悪神のしわざに候へば、儒・仏・老(注・老子のこと)などと申す道の出来たるも神のしわざ、…儒も仏も老も、みなひろくいへば其時々の神也。」(『鈴屋答問録』)と述べている。日本伝統信仰のこのような驚くべき大らかな神観念が外来宗教受容の原点であろう。

 

 日本民族の神を祭る心は、宗教的ドグマや教条によるのではない。ただただ霊妙なる存在に驚き崇敬する心から発している。驚くべき存在・霊妙なる存在に対する崇敬の念が神を祭る心なのである。

 

 正月には数千万の人々が神社に参拝する。驚くべき存在・霊妙なる存在・畏敬すべき存在たる神を拝みに行くのである。だからある種の偶像を作ったり絵を描いたりしてそれを礼拝の対象とすることはなかった。太陽を崇敬する心が太陽を反射する鏡を拝んだのである。日本人の多くは、お彼岸にはお寺に行く。これもお寺にある先祖のお墓にお参りに行くのである。

 

 天皇への崇敬の心もそういう自然な心であった。日本民族の本然の心はあくまでも「大君は神にしませば…」という素朴な信仰であった。こういう心が日本人の尊皇心の原点であって、儒教の大義名分論や仏教の金輪大王の思想は、純粋なる天皇崇敬の心を外来の思想によって理論的に体系化したと言えるのである。

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千駄木庵日乗十一月二十八日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、資料の整理、原稿執筆など。

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天皇・皇室は日本文化の包摂性の核心

 

 日本民族が異文化との交流を持つ以前の時代の精神、即ち純日本精神ともいうべき精神は、異文化との交流が活発になり日本民族が異文化の影響を強く受けるようになっても決して消滅することはなかった。消滅するどころかますます強靱になっていった。

 

 日本は多くの外来思想を摂取したが、決して無批判取り入れたのではない。むしろ日本の主体性・独自性を高めるために外来思想を借用したといってもいいくらいである。

 

 日本の農耕文化を基底にした信仰共同体の祭り主・日本天皇が、日本の文化的・宗教的中心に存在したという尊い事実が、日本が実に積極的に次々と大陸から外来文化を受け入れても、日本の独自性を喪失しなかった最も大きな原因である。天皇及び皇室が日本文化の独自性の核として不動に存在していたがゆえに、外来文化を積極的に受入れ融合しても日本の独自性を喪失することはなかったのである。

 

 山口悌治氏は「主体性と開放性を両面に持った日本民族の精神構造。…その構造の『核』となってゐるものが、日本民族の神話なのである。…特殊性と普遍性といってもいいし、…ナショナルなものとインターナショナルなものとの関係ともいへる。…これらは次元を異にして互ひに矛盾してゐるものではない。本来一つのものが二つに分れて機能し、二つの機能が一つに作用し合って生々発展の無限の契機を生み出すのである」「(日本人が注)仏教を生きるとは、インドをおのれの祖先と感ずることではなくて、仏法をこの国に実現して仏国土となすことだったのである。儒学を骨肉とするとはシナをおのれの祖先と感ずることではなくて、王道国家をこの国に現成するといふことだったのである。」(『萬葉の世界と精神』)と論じておられる。

 

 この主体性と開放性を両面に持った日本民族の精神構造の『核』となってゐる日本民族の<神話>とは、『古事記』『日本書紀』という文献にのこされている神話のみではなく、今日に生きている神話である<祭祀>とりわけ<天皇の祭祀>でもある。信仰共同体日本の祭り主・日本天皇の御存在が、特殊性と普遍性、ナショナルなものとインターナショナルなものを統一し包み込む中心であり、日本文化の包摂性の原点である。

 

 倉前盛通氏は日本文化の独自性の保持能力のことを『情報制御装置』と表現して次のように論じておられる。「国家も生物と同じように、自動制御装置なしには生き残れない。日本において、このような自動制御装置の源泉になったものは、…日本民族固有の高度化された“自然祭祀”であった…何でも新しいものに飛びつく新しがり屋であり、何でも外国のものを崇拝する外国かぶれの癖があり、…外国の単語を会話の端にはさんで喜んでいるような、まるで自主性のない民族に見えながら、日本人ほど古代からの共同体祭祀を守り続けてきた民族はない」(『艶の発想』)

 この信仰共同体の祭り主が天皇であらせられる。外来の文化も思想も、日本の独自性・日本の伝統信仰が厳然としてあるがゆえに寛容に包容したのである。日本の独自性を保守し伝統を大切にすることが、外国から新しいものを取り入れる素地だったのである。日本伝統精神はあくまでも護り抜くという自主精神が、如何なる外来文化をも受入れそれを包摂・融合する拠り所となっていたのである。その自主精神の体現者が天皇であらせられる。

 

 日本の独自性を保守し伝統を大切にすることの中心点に千古一貫して皇室の存在があった。日本の最も古き伝統の保持者たる皇室が新しき外来文化文明を消化したのである。

 

 三世紀に大陸から多くの文明が渡来した。それはまず皇室にもたらされ、やがて全国に普及した仏教がその最もよい例である。壬申の乱は唐文化の輸入に熱心であった近江朝廷と日本古代信仰を重視した天武天皇のとの戦いであったといわれる。しかし、天武天皇は、乱の後の天武天皇二年(六七三)に、壬申の乱の戦没者慰霊のため、飛鳥の川原寺において一切経の写経をなさしめた。天武天皇は、『古事記』の編纂を命じられ、神道精神を基本にした政治を行われた。しかし一方でこうして外来宗教たる仏教も重んじられた。以後、朝廷においては儒教・仏教という外来宗教・思想そしてそれに基づく様々な制度を用いるようになった。

 

 とりわけ仏教は、皇室によって全国に普及した。持統天皇の御代(西暦六八六~六九六)に全国に六四八の寺院がつくられた。天平十三年(七四一)には、聖武天皇により全国に国分寺・国分尼寺建立の勅命が下された。また東大寺大仏の造立も行われた。このように仏教は日本伝統信仰の祭祀主である天皇によって公認され全国に広められた。

 

 天皇及び皇室は、日本の保守の中心であるとともに革新の中心でもあったのである。明治以後の近代化も、『五箇条の御誓文』を拝しても明らかなように日本文化の保守の中心である天皇の大号令によって行われた。日本的変革即ち維新の原理が<復古即革新>とされるのは実にこういうことなのである。そして大化の改新・明治維新を見れば明らかな通り、日本の変革のすなわち維新の原点には常に天皇がいましたのである。

 

 日本の文化伝統は決して偏狭なものではなく、大らかにして開放的、そして革新の気に満ちたものである。そして日本天皇は民族の独自性・求心力の核であったが、それと同時に世界性・開放性・変革性の中心でもあったのである。

  

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2017年11月27日 (月)

千駄木庵日乗十一月二十七日

午前は、諸事。

午後は、『伝統と革新』編集仕事。

夕刻、団子坂にて、若き友人の懇談、意見交換。

帰宅後も、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆。

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日本共産党はリベラルでは絶対にない

 今回の衆院選では、自民、公明、希望、維新4党を「保守」、共産、立民、社民三党を「リベラル」という色分けが偏向メディアよって行われた。この色分けは、対決の構図を作るための色分けにすぎなかった。

 

「寛容」「自由」とは無原則ではない。「寛容」「自由」を否定する思想を厳しく否定する思想である。「リベラル」などと言われている勢力が「自由」を否定する勢力であることを正しく認識すべきである。思想抹殺的態度への徹底的不寛容が「自由」であり真の「リベラル」である。

 

三島由紀夫氏は、「一党独裁というもの(注・共産党のこと)は終極的に天皇を否定するだろう、天皇を否定するれば、我々の文化の全体性を映す鏡がなくなるだろう、天皇は最終的に破壊されれば、我々の文化のアイデンティティはなくなるだろう、そういう危機感を持った時に、天皇に排除する力がないのだから我々が立ち上がって排除する。それが私は天皇に対する忠義だと思っております」(『文化防衛論』)と論じた。

 

天皇のいまさない國に文化は生まれない。日本伝統文化は破壊される。日本文化そして国民の自由を破壊する勢力には不寛容でなければならない。日本文化の中核である天皇・國體を否定する思想は徹底的に否定すべきである。

 

また、自由のない國に文化は生まれない。ロマノフ王朝時代のロシアには文化はあった。プーシキン、ゴーゴリ、ツルゲーネフ、ドストエフスキー、トルストイという巨匠・文豪が生まれた。チャイコフスキー、ムソルグスキー、ボロディン、コルサコフ等の音楽家が活躍した。ソ連の七十年間の独裁専制体制下においては、そうした文豪・大作曲家は生まれなかった。そしてロシアの文化は疲弊した。

 

ただし、音楽の世界でただ一人と言っていい世界的作曲家がいた。ショスタコビッチである。そのショスタコビッチも共産党権力によって迫害され弾圧された。私はかつて次の歌を詠んだ。

 

「重き曲 ショスタコビッチ 第五番 自由圧殺の 響きとし聞く」

 

共産主義政党及び国家の権力が、国民の権利・自由を圧迫し制限し奪うのは、階級闘争による権力奪取によって平等な社会を作るという幻想に基く。そして「権力は必ず腐敗する。絶対的権力は絶対的の腐敗する」という原則通りの事態を生む。それはソ連・共産支那・北朝鮮の歴史と現実が証明している。

 

「ブルジョワ民主主義(ブルジョワ【中産階級・市民階級】による民主主義を指す用語。主に社会主義や共産主義などの立場から、自由主義【資本主義】社会の議会制民主主義に対して批判的な意味を持って使用されている)はプロレタリア民主主義によって乗り越えられるべきであり、ソ連は地球上において唯一のプロレタリア民主主義を旗印とする国であるから、この国こそは、民主主義共同戦線の尊き星である」という幻想は、スターリン独裁体制下のソ連、毛沢東独裁体制下の共産支那の暴虐と侵略、北朝鮮の金日成・金正日・金正恩三代の暴虐よって完全に打ち砕かれた。

 

ところがわが日本にはいまだに共産主義に幻想を抱いている人たちが存在する。特にメディアの中に存在する。そういう者共が日本をおかしくしているのだ。

 

共産主義の言う「生産手段の公有化」とは、経済の国家権力による統制である。それは、政治・文化・宗教・思想などあらゆるものに対する国家権力による統制となる。そして国民の自由は失われる。

 

マルクスやレーニンは、国家は廃絶すると説いたが、共産主義革命の成功した國は、全く逆の結果を招いた。レーニンは、「われわれは、目標としての国家の廃止の問題については、けっして無政府主義者とくいちがっていない。われわれは、この目標を達成するために、搾取者に反対して国家権力という道具、手段、方法を一時的に使用する必要があると主張する。それはちょうど、階級を揚棄するためには被抑圧階級の一時的独裁が必要なのと同様である」(『国家と革命』)と論じた。

 

しかし権力を奪取した共産党は、ロシアにおいても支那においても北朝鮮においても、「一時的」では全くなく、長い間独裁権力を振い続けてきている。「国家は死滅し廃絶する」と言いながら、国家権力を強大化専制化してきた。

マルクスレーニン主義は科学的社会主義などでは微塵もなく、まさに空想的非科学的思想である。そしてそれが二十世紀おいて人類に塗炭の苦しみをもたらした。

 

自由を圧殺してきた思想が共産主義であり、自由を圧殺してきた政党が共産党であり、自由を圧殺してきた国家が共産国家である。それは歴史が証明している。

 

日本共産党が「リベラル政党」などというのは全く嘘である。日本共産党こそ、日本国民から自由を奪う専制独裁主義政党である。そして日本の文化を破壊する政党である。こういう政党に対して、我々国民は徹底して不寛容でなければならない。

 

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千駄木庵日乗十一月二十六日

午前は、諸事。

午後は、本日行う講演の準備。

午後六時より、春日の文京区民センターにて、『日本の心を学ぶ会』開催。林大悟氏が司会。渡邊昇氏が主催者挨拶。小生が「『保守』『リベラル』とは何か」と題して講演。質疑応答・全員で討論。

帰宅後は、原稿執筆。

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2017年11月26日 (日)

本日散策した日暮里・谷中の風景写真

本日散策した日暮里・谷中の風景写真を掲載します。

               ○

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日暮里の高層マンション

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諏方神社の黄葉

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諏方神社の黄葉

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日暮里養福寺の弘法大師像

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谷中大仏(天王寺釈迦牟尼仏像)

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谷中霊園の巨木

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谷中霊園の黄葉

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谷中霊園の来島恒喜氏墓所

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谷中霊園の渋沢栄一氏墓所

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谷中霊園の巨木

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東京藝術大学の紅葉

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千駄木庵日乗十一月二十五日

午前は、諸事。

午後は、日暮里・谷中散策。

帰宅後は、明日の講演の準備など。

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2017年11月25日 (土)

萬葉古代史研究會 のお知らせ

萬葉古代史研究會

 

四宮正貴が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

 

日時 十二月十三日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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明治維新の基本精神は「復古即革新」「保守即変革」であった

 

わが国史上最大の変革であった明治維新はまさに国民の心の底に潜む伝統精神を呼び覚ましこれを核として変革を断行した変革であった。明治維新の基本精神は、「尊皇攘夷」即ち肇國以来の天皇を君主氏仰ぐ國體の本姿および日本民族の傳統信仰を回復して國家體制を革新し外國からの侵略を防ぐという精神である。それは復古即ち神代への回帰は現實の革新と一體であるという「復古即革新」の理念である。維新は革命ではないといわれる所以である。

 

こうした明治維新の根本精神は、『王政復古の大号令』と『五箇条の御誓文』に示されている。

 

明治天皇が慶応三年(一八六七)十二月九日に発せられた『王政復古の大号令』には、「諸事神武創業ノ始ニ原(もとづ)キ、縉紳(しんしん:公家)、武弁、堂上、地下(ぢげ)ノ別ナク、至当ノ公議ヲ竭(つく)シ、天下ト休戚(きゅうせき)ヲ同シク遊(あそば)サルヘキ叡慮ニ付キ、各(おのおの)勉勵、舊来ノ驕惰ノ汚習ヲ洗ヒ、盡忠報國ノ誠ヲ以テ奉公致スヘク候事。」と示されている。

 

明治天皇が慶応四年(一八六八)三月十四日、天神地祇に新しい國家の方針を誓はれた『五箇条の御誓文』には、「我國未曽有ノ変革ヲ為サントシ,朕躬(ちんみずから)ヲ以テ衆ニ先ンジ,天地神明ニ誓ヒ,大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立ントス。衆亦此旨趣ニ基キ協力努力セヨ」と示されている。

 

さらに、『五箇条の御誓文』の制定にあたって、明治天皇が神祇に捧げられた祭文中には、「今ヨリ天津神ノ御言寄(コトヨサシ)ノ随(ママ)に、天下ノ政ヲ執行(トリオコナ)ハムトシテ…」と示されてゐる。

 

天皇國日本の原初即ち神武創業に回帰することが明治維新の基本精神であった。明治維新は、神武創業への回帰、道統の継承、「祭政一致」の回復が第一義であった。そしてこうした伝統回帰の精神を基盤として、外国の文化・文明を大胆に取り入れた変革が行われた。

 

葦津珍彦氏は、「明治維新は日本の近代的統一国家を生み出した精神を、近代的ナショナリズムをよぶとすれば、その精神の基礎となったのは、日本民族の天皇意識(國體意識)であった」と論じている。

 

明治維新が力強く生き生きとして創造性に富む変革となった原因は「諸事神武創業ノ始ニ原カム」とする御精神と「我國未曽有ノ変革」といふ御自覚である。しかもこの二つの精神は、明治天皇の大御心として全國民に示された。復古の精神を基本に置きつつ自由大胆なる変革が断行できた。

 

神武建国の昔に回帰せんとした明治維新は単なる政治変革ではなかった。日本の伝統への回帰を目指したのである。そして日本の道統への回帰がそのまま現状の変革になった。「維新とは復古即革新である」とはそういう意味である。

 

日本が、大胆に外来文化・文明を受容しながらも、傳統文化を喪失することなく日本の独自性を護ることが出来た強靭性を持っていたのは、天皇・皇室のご存在があったからである。近代化・文明開化においても、天皇・皇室が、積極的に外来文化・文明の受容を推進するご意志を示された。

 

明治天皇は明治維新の基本理念が示された『五箇条の御誓文』(明治元年三月十四日)において、

「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」

智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」

と示された。

 

さらに、御製において

「よきをとりあしきをすてゝ外國におとらぬ國となすよしもがな」

「世の中の人におくれをとりぬべしすゝまむときに進まざりせば」

と詠まれた。

 

明治天皇は「皇基ヲ振起スヘシ」「あしきをすてて」と示されている。日本近代化にあたって、大いに欧米をはじめとして外國文化・文明を取り入れ學ぶとしても、それは無原則に取り入れるのでない。あくまでも、わが國の傳統に合致せずわが國の國柄を破壊する要素のある悪しき事はこれを排除するのである。

つまり、日本文化の独自性・傳統を維持しつつ外来文化文明を包摂して来たのである。「和魂漢才」「和魂洋才」はわが國の古代からの文化道統である。

 

日本傳統精神に回帰しつつ、徹底した大変革を行ったのが、明治維新の基本精神であった。まさに「復古即革新」「保守即変革」である。未曽有の危機にある現代においてこそ、この理念が継承されるべきである。

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千駄木庵日乗十一月二十四日

午前は、諸事。

午後は、丸の内の出光美術館にて開催中の『書の流儀Ⅱ美の継承と創意』鑑賞。

帰宅後は、書状執筆、明後日開かれる『日本の心を学ぶ会』らおける講演の準備など。

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2017年11月24日 (金)

「國家神道」が國家國民を戦争に駆り立てた」とするのは荒唐無稽の妄説

『神道指令』に登場した「國家神道」とはどういう定義なのか

大東亜戦争終結後、アメリカ占領軍は、わが國が二度と再びアメリカに刃向かうことのないようにするために日本を弱体化せんとして、様々な占領政策を行なった。その一つが、『神道指令』である。「日本が侵略戦争をした根源は『國家神道』にある」という考え方が蔓延しているのは『神道指令』が原因である。

『神道指令』に登場した「國家神道」という言葉は、一体どういう定義なのであろうか。「國家」と「神道」が結合している言葉であるが、小生には何となくいかめしく感じられる。小生は日本各地の神社に参拝させて頂いているが、各地の神社にお参りすればするほど、日本の神々は明るく大らかで平和な神々であると実感する。この精神を世界に広めることが大切だと思う。

「神ながらの道」という言葉の響きと「國家神道」という言葉の響きとは、随分違うように思われる。

村上重良氏は「國家神道」について、「明治維新から大東亜戦争終結までの約八十年間日本國民を支配していた國家宗教であり、宗教的政治制度であった。日本の宗教はもとより國民の生活意識の隅々に至るまで広く深い影響を及ぼした。日本近代は思想・宗教に関する限り國家神道によって基本的に方向付けられてきた」「それは近代天皇制の宗教的表現であり、神仏儒の公認宗教の上に君臨する、内容を欠いた宗教であった」「國家神道の原理を克服し、残影を消し去ることが民主主義に立つ政教関係を確立して、信教の自由を擁護するための不可欠の課題である」「國家神道は、まぎれもない國教であった」「教育勅語が國家神道の教典である」と論じている。(『國家神道』)

こうした考え方は、左翼だけでなく、今日、与党の一角を占めている公明党・創価學會の「反靖國神社」「反神社神道」の理論的根拠の一つになっている。

「國家神道」は決して戦前の問題ではない。皇室祭祀が「天皇の私的行為」などとされているのは、「皇室祭祀を『公的行事』とするのは『國家神道』の復活だ」という批判があるからである。また、靖國神社國家護持・総理大臣公式参拝に反対している勢力は、「國家神道の復活を恐れる」ということをその根拠の一つにしている。このように「國家神道」の問題はまさに今日的問題なのである。

村上重良氏は、「國家神道は内容を欠いた國家宗教に落ち着くほかはなく、國民の生活意識から遊離した制度上の宗教にならざるを得なかった」(國家神道)と断定している。神社神道が内容を欠き國民の生活意識から遊離していたのなら、國民の意識を支配することができない。それどころか影響を及ぼす事すらできず、國教には到底なり得ない。これは國家神道國教論と矛盾した論議である。

村上氏がいかに日本史に対して大きな誤解というか偏見を持った上で神道を論じているかは、次の記述に明らかである。「日中戦争下の一九三九年(昭和一四)に創建され、未鎮座のままに終わった官幣大社扶余神宮は…扶余の地に『内鮮一体』をあらわす神社としてつくられたが、その祭神は、応仁、斉明、天智の三天皇と神功皇后で、古代における朝鮮侵略の担い手たちが、神として植民地朝鮮に降臨したのである」(國家神道)

愚かな事を書くものである。斉明天皇・天智天皇が出陣せられた白村江の戦いは、わが國と友好関係にあった百済を、唐・新羅連合軍からの侵略から救うための戦いであったのだ。決してわが國による朝鮮侵略ではない。また、神話時代の伝承をそのまま歴史的事実として論じ、「日本は古代から朝鮮を侵略した」などと断じるのは全く誤りであり、村上氏の好きな言葉でいえば「時代錯誤」である。

一事が万事である。村上氏は「天皇を中心とした歴史と伝統の國日本」を破壊しようとして、過去の日本の歴史を罵り否定しているのである。そういう基本的立場から、「戦前の日本は、権力と一体となった神社神道(國家神道)を國教とした時代錯誤の帝國主義・軍國主義國家だ」と言い張っているのである。

日本人のナショナリズムは、尊皇精神・神國思想の勃興・甦りと一体である。

「國家神道」という言葉は、前述したように、「國家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並に弘布の廃止に関する件(神道指令)」(昭和二十年十二月十五日 連合國最高司令部日本國政府宛覚書)に登場した言葉である。戦前において一般的に用いられていた言葉ではない。

この「神道指令」には「本指令の目的は宗教を國家より分離するにある、また宗教を政治的目的に誤用することを防止し正確に同じ機會と保護を与へられる権利を有するあらゆる宗教、信仰、信条を正確に同じ法的根拠の上に立たしめるにある、本指令は啻に神道に対してのみならずあらゆる宗教、信仰、宗派、信条乃至哲學の信奉者に対しても政府と特殊の関係を持つことを禁じまた軍國主義的乃至過激なる國家主義的『イデオロギー』の宣伝、弘布を禁ずるものである。本指令の中にて意味する國家神道なる用語は日本政府の法令に依つて宗派神道或は教派神道と区別せられたる神道の一派(國家神道或は神社神道)を指すものである」と書かれている。

当然のことながら「國家神道」という言葉は、英語を我が國語に翻訳した言葉である。「State Shinto」という言葉が、「國家神道」と翻訳された。state とは権力機構としての國家を言う。自主独立した主権のもとの共同体としての國家(nation)や、同一國民が帰属する共同体としての國家(country)とは異なる。あくまでも國家権力を意味する。

國家権力が宗教と一体となることは、他の宗教を認めないどころか権力によってこれを弾圧し消滅させることがある。一神教や共産主義というイデオロギー宗教と一体であった國家権力はこうした事を行なったし、現に行なっている。『神道指令』の言う「國家神道」とは、「國家権力と一体となって排他独善の一神教的神道イデオロギーを宣伝し弘布する神社神道」のことらしい。

そして、村上重良氏は,この國家神道体制が、明治維新から終戦までの八十年間の長きにわたってわが國において確立されて、神社神道が國家権力と一体となり他の宗教をすべて否定し弾圧し圧迫してきたと主張している。そしてそれが「侵略戦争」を推進し日本國を破滅させたというのである。

しかし、戦時下にあっては何処の國でも思想統制を行なう。わが國においても昭和十年代にそうした事が行なわれた。しかしそれは、神社神道と國家権力が一体となって行なったのではない。戦前の神社神道が國家権力と一体となって教団宗教を弾圧したなどということはない。

神社神道すなわち全國の神社は、戦時体制となった昭和十年代(満州事変以降)においても、古来からの祭祀を続けていただけである。一体、日本國中の神主が、声を嗄らして戦意高揚の演説を行ない戦争を煽ったなどということは、ごく一部の例外を除いてなかった。

神社神道は、明治十年代ごろから「宗教ではない」とされて、神社及び神官が神道思想普及する事が憚られる状況にあった。神道思想さえ宣伝出来ないのに、政治問題・外交問題などについての意見を神官が氏子などに説く事は、余計憚られた。

葦津珍彦氏は、「大東亜戦争で人心が極度に緊張するとともに、在野の熱烈な神國思想が猛然として國民の間に広まった。しかし『帝國政府の法令に基づく國家神道』の世俗合理主義的言論からは、國民の内心に感動を与へ、確信を与へるものは出て来なかった。」(國家神道とは何だったのか)と論じておられる。

大東亜戦争という國家存亡の危機に際して、日本人のナショナリズムが高揚した。大東亜戦争中、全國津々浦々の神社で戦勝祈願が行なわれたことは事実である。日本人のナショナリズムは、尊皇精神・神國思想の勃興・甦りと一体である。白村江の戦い前後の唐・新羅連合軍侵攻の危機、元寇、明治維新、大東亜戦争がそういう時であった。そのような時に、神社への参拝が盛んになり、神社神道の基本行事である祭祀によって戦勝祈願が行なわれるのは当然の事である。戦勝祈願は全国の神社仏閣で行はれたのである。「國家神道(=國家権力と一体となった神社神道)が戦争を煽った」とするのは荒唐無稽の妄説である。

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2017年11月23日 (木)

神社神道によって仏教が圧迫され信教の自由が脅かされたなどということはなかった

日本民族の精神的強靭さの根底に神道思想があるのは事実である。しかし、昭和十年代に興起した愛國心が、神國思想(神社への崇敬心)・尊皇心と一体だったからといって、神社神道が國家権力と一体となって國民を洗脳し信教の自由を奪い、國家國民を戦争へ駆り立てたなどというのは全く誤りである。

 

しかもその「國家神道」なるものが、明治維新以来八十年の長きにわたってわが國の思想界・宗教界に君臨し支配したなどという主張は幻想どころか妄想である。

 

村上重良氏は、『教育勅語』が『國家神道』の「教典」だったと言う。教典とは、絶対無条件で信じるべき教義(独善的観念大系)が書かれている書物である。ところが『教育勅語』はそれを拝すれば火を見るよりも明らかな如く、國民道徳の基準として學校教育を根本から支えた明治天皇の「おさとし」である。『教育勅語』にはいわゆる『國家神道』なるものの教義などは一切書かれていない。申すも恐れ多い事ながら、『教育勅語』には、「神」の字は一字もない。『國家神道』なるものの「教義」が書かれていないのにどうして『教典』なのか。もっとも「國家神道」などいうものは村上重良氏の幻想であり妄想なのだから、教義などはあり得ない。村上氏自身、「國家神道は内容を欠いた國家宗教」と書いているではないか。

 

新田均氏著「『現人神』『國家神道「『現人神』という幻想」によると、井上毅が『教育勅語』起草に際して首相の山県有朋に提出した意見書(明治二十三年六月)には、「勅語ニハ敬天尊神ノ語ヲ避ケザルベカラズ何トナレバ此等ノ忽チ宗旨上ノ争端ヲ引起ス種子トナルベシ」「世ニアラユル宗旨ノ一ヲ喜バシテ他ヲ怒ラシムルノ語気アルベカラズ」と書かれているという。

 

この意見書を見ても分かるとおり、明治の御代の政治家たちは神道を重んじたが、他の宗教、特に仏教に大変気を使ったのである。明治政府の要路に「仏教を叩き潰して神道を國教にしよう」などと考えている人はいなかった。「國家神道」なるものが明治初期からあって全宗教の上に君臨していた、などということは絶対になかったのだ。

 

慶応三年十二月九日の『王政復古の大号令』に「諸事神武創業の始に原(もと)つき」と示されているとおり、明治維新当初は、祭政一致の古代國家再生が実行されようとした。しかし、「祭政一致」は文明開化路線とは相容れずかつまた仏教教団の反対にあって頓挫してしまった。そして、「神道は宗教にあらず」という仏教教団の主張が取り入れられたという。

 

明治初期に「神仏分離令」が出され、廃仏毀釈が行なわれたことを以て神道が國教化し仏教が圧迫されたとする説がある。しかし、神仏分離は排仏ではなかったし、廃仏毀釈の動きにーは一時的に流行であったし、それには理由があった。

 

廃仏毀釈は、徳川幕藩体制下で、神道・神社が仏教から圧迫され制約を受けていた反動である。また、徳川幕府が仏教を尊崇し仏教教団を支配の道具として利用したので、徳川幕府打倒の戦いであった維新が成就した後に、仏教が圧迫されたのである。しかし廃仏毀釈は長くは続かなかったことは歴史に明らかである。

 

近代日本八十年の歴史において、神社神道によって仏教などが圧迫され布教の自由・信教の自由を脅かされたなどということはなかった。むしろ神社神道がその宗教性を除去されたと言って良い。村上氏の「國家神道が神・仏・基の上に君臨し支配した」などという説は誤りである。神社神道はむしろ仏教教団の政府に対する工作活動によって形骸化されたというべきである。

造化の三神への信なくして神道はあり得ない

 

この神社神道からの宗教性の除去とは、具体的にいえば、造化の三神を無視するということであろう。

 

明治八年三月、島地黙雷という浄土真宗の僧侶(この人は長州の勤皇僧で、明治維新の戦いの時に僧兵団を組織した戦ったという)が起草し、大谷光尊が太政大臣三条実美に提出した『宗門上相戻候大意』には「(天照皇太神は来世救済などの宗教上の談ではないからこれを崇敬するが)…造化三神ノ儀ハ近来一種ノ神道者流古事記ニ依テ…尊奉致シ…國体ノ談ニハ管係無之自ラ宗教ノ位地ニ相当リ候」と書かれている。(葦津珍彦先生著『國家神道とは何だったのか』参照)

 

これは、実に重要な文章である。浄土真宗を始めとした仏教教団の政府への影響力は強かった。特に浄土真宗は明治維新に貢献したので影響力が大きかった。維新の志士・明治政府の要路(特に長州出身者)にも真宗門徒がいた。

 

「神社神道非宗教説」とは、「造化三神への信仰を除外した神社神道」と言うことができるのではないか。近代日本におけるいわゆる「國家神道」の形骸化とはこのことである。

 

小生は、造化の三神(天之御中主神・高皇産霊神・神産巣日神)への信なくして、神道はあり得ないと思う。造化の三神は『古事記』冒頭に登場される神であり、わが國神話の根本である「天地生成の神」であられる。この神を否定することは日本神話否定・國體否定と同じである。

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千駄木庵日乗十一月二十三日

午前は、諸事。

午後は、『政治文化情報』発送完了。

午後四時半より、外神田の万世橋区民会館にて、『第三十四回新嘗を祝ふ集ひ』開催。祭典(祝詞奏上・「古事記」天孫降臨の段奉読・三大神勅奉読・御製奉読・玉串奉奠・大祓詞奏上など)の後、稲貴夫氏が「御代替はり大嘗祭」と題して講演。この後、直会。

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帰宅後は、原稿執筆など。

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半藤一利氏の歴史家としての見識は低劣である

今週号(十一月三十日号)の『週刊新潮』所載の「変見自在」というコラムて、高山正之氏は半藤一利氏に対して、「半藤の書くものはとても近視眼的」「(半藤氏は・注)渉猟した資料はまさに汗牛充棟だろう。でも気に入らないものは見ないふりをする癖があるやに見える」と批判している。同感である。

 

半藤一利氏は、平成二十七年六月九日の『朝日新聞』で、「朝日新聞記者の質問に答へて次のやうに語った。「(安倍晋三総理は・注)吉田松陰の好んだ『千萬人といえども我ゆかん』という孟子の言葉も使うが、安倍さんからすれば、自分が正しいと思ったことは實行する、自分の善意が通じなければ相手を攻撃していい、と思っているのだろう」。

 

「千萬人といえども我ゆかん」といふ言葉は、『孟子公孫丑章句 上』にある言葉で、「自ら反(かへり)みて縮(なお)からずんば、褐寛博と雖も吾惴(おそ)れざらんや。自ら反みて縮ければ、千萬人と雖も吾往かん」と書かれてゐる。

 

「自ら反省して自分が真っ直ぐでないと分かったら、相手が毛織のだらだらした衣服を着てゐるいやしい人でも恐れないわけにはいかない。自ら反省して自分が真っ直ぐだと分かったら相手が千萬人であっても、恐れることはない」といふ意である。

 

自分が正義でなければどのやうな相手でも恐れるが、自己が正義と信じた道はいかなる困難があらうとまたいかなる反対があらうと貫き通す、といふ決意と信念を表明した言葉である。

 

半藤一利氏は、孟子の言葉は「自分が正義であるか正義でないか」といふ反省を前提としてゐるのに、それは一切無視し、「千萬人と雖も吾往かん」といふ言葉だけを取り出し、「自分の善意が通じなければ」などと勝手な解釈をして、安倍晋三氏は「自分の善意が通じなければ相手を攻撃していいと思っている」などと推測してゐる。これは悪意ある邪推である。

 

さらに半藤氏は同じ『朝日』の記事で「満州事変にしろ、上海事変にしろ、日本のやったことは、不戦条約違反であり、明らかな國際法違反だった」「日本國内だけの理屈ならば、『自存自衛』かも知れないが、國際社會の一員としては通用しない。日本はやはり戦争責任國なのです」と論じた。

 

「満州事変」「上海事変」が当時の國際法に違反してゐたと言ふが、当時の國際社會において國際法に違反せずに対外戦略を實行した國はない。祖國日本のみを「違反した」と責め立てるのは偏った論議である。

 

半藤一利氏は永井荷風氏を「反戦」「反軍」の作家として尊敬してゐるやうである。半藤氏はその著『昭和史1926-1945』において度々永井荷風『断腸亭日記』を引用して、当時の世相、軍および政府、ナチスドイツを批判してゐる。

 

しかし、三月一日に満州國建國が行はれた昭和七年八月二十日の『断腸亭日記』には、「満州外交問題の記事誌面をうづむ。余窃に思ふに英國は世界到る處に領地を有す。然るに今日吾國が満洲占領の野心あるを喜ばざるは奇怪の至極といふべきなり。…畢竟強者の食たるに過ぎず。國家は國家として惡をなさざれば立つこと難く一個人は一個人として罪惡をなさざれば生存する事能はざるなり。之を思へば人生は悲しむべきものなり。天地間の生物は各其處を得て始めて安泰なり」と書いた。永井荷風ですら当時の弱肉強食の世界情勢の中にあって、日本の自存自衛のための海外進出を止むを得ざることとしてゐたと思はれる。

 

半藤氏はまた、「自存自衛」は「日本國内だけの理屈」と言ふが、日本にとって、「自存自衛」は、國が滅亡するか否か、國家民族の存亡をかけた大問題である。「國内だけ」などと言ふ言葉で片付けられる問題ではない。日本も「國際社會」の一員だったが、東亜侵略・植民地支配を行った欧米列強も言ふまでもなく「國際社會の一員」であった。日本のみが「國際社會の一員」として何処の國も守っていない「國際法」を遵守し國が滅びても良かったといふ理屈は全く成り立たない。

 

半藤氏はさらに、「戦後の婦人参政権などが加わった新選挙法による國民の選良が、徹底的に討議して、GHQ案に日本人の意思と気持ちをこめてどんどん筆を加えたものが憲法(『現行占領憲法』・注)です」と論じた。

 

大東亜戦争終了直後、國民の大多数が食ふや食はずの状態にあり、さらに海外にも未帰還同胞が多数ゐた。とても日本國民全体が憲法について真剣にそして徹底的に考へ論議する状況ではなかった。さうした時期に行はれた選挙、そしてその選挙で選ばれた議員が行った「討議」とそれに基づく「意思」が真の意味の「日本國民の自由に表明せられた意思」(『ポツダム宣言』)とすることはできない。半藤一利氏の好きな永井荷風は『断腸亭日乗』昭和二十二年五月三日の記述において「五月初三。雨。米人の作りし日本新憲法今日より實施の由、笑ふべし」と記されてゐる。荷風は、『現行占領憲法』は「日本人の意思と気持ちをこめてどんどん筆を加えた憲法」即ち日本國民が自主的に作った憲法などとは思ってゐなかったのである。「占領憲法」實施を冷笑してゐたのだ。

 

 

以上述べてきたやうに、高山正之氏による半藤一利氏に対する「半藤の書くものはとても近視眼的」「半藤氏は気に入らない資料は見ないふりをする癖があるやに見える」という批判は正鵠を得てをり、全く正しいのである。半藤氏は、今日、歴史家として高く評価されてゐるやうであるが、その見識は相当に低劣と言はざるを得ない。

 

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千駄木庵日乗十一月二十二日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理。原稿執筆。

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2017年11月22日 (水)

『没後六十年記念 川合玉堂ー四季・人々・自然』展参観記

本日参観した『没後六十年記念 川合玉堂ー四季・人々・自然』展は、「日本の山河をこよなく愛し、豊かな自然とそこに暮らす人々の姿を叙情豊かに描き出した川合玉堂(かわいぎょくどう) (18731957)。山種美術館では、没後60年を記念し、玉堂の画家としての足跡をたどり、その芸術を紹介する回顧展を開催いたします。愛知に生まれ、岐阜で育った玉堂は、14歳で京都の画家・望月玉泉(もちづきぎょくせん)に入門。画壇デビューを果たした17歳から同じ京都の幸野楳嶺(こうのばいれい)に師事しました。1896(明治29)年には23歳で京都から東京へ移り、橋本雅邦(はしもとがほう)のもとでさらなる研鑽を積んでいきます。若い頃から好んで風景を描いた玉堂は、円山四条(まるやましじょう)派の基礎の上に、雅邦が実践した狩野(かのう)派の様式を取り入れ、さらに各地を訪ねて実際の景色に触れることで、伝統的な山水画から近代的な風景画へと新たな境地を拓いていきました。また、官展で審査員をつとめ、帝国美術院会員となる一方、東京美術学校教授、帝室技芸員に任ぜられるなど、東京画壇における中心的な役割を果たし、1940(昭和15)年には文化勲章を受章しています。戦後は、疎開先の奥多摩にとどまって晩年を過ごし、大らかで温かみのある画風を展開させました。…代表作を中心とする名作の数々とともに、玉堂の70年にわたる画業をご紹介します。また、少年時代から俳句を嗜み、晩年には俳歌集『多摩の草屋(たまのくさや)』を刊行するなど、句作や詠歌は玉堂の生活の一部となっていました。玉堂の詠んだ詩歌が書かれた作品をとおして、家族や親しい芸術家との交流にもスポットをあて、素顔の玉堂の魅力をお楽しみいただきます」との趣旨(案内書)で開催された。

 

 《鵜飼》 《雨江帰漁図》《夏雨五位鷺図》 《紅白梅》《渓山四時図》 《早乙女》《竹生嶋山》《雪亭買魚》《春風春水》《山雨一過》《遠雷麦秋》《荒海》《熊》《早乙女》《悠紀地方風俗屏風》《雨後山月》《湖畔暮雪》等多数の美しい風景画を参観。

どの作品も日本の美しい自然を描いている。《雨江帰漁図》は初期の作品であるが、雨と樹木と船が描かれている幽遠な墨絵でひきつけられた。《渓山四時図》は山と人間と馬と樹木が描かれた大作であり、玉堂の絵の特色が凝縮されている。《紅白梅》琳派の影響を受けた色彩豊かな六曲一双の大作であった。《悠紀地方風俗屏風》は昭和三年一月、昭和天皇御大典の時に命により揮毫されたもので、極彩色の大和絵風の様式が描かれた六曲一双の文字通り見事なる絵である。画賛形式の絵を見て、玉堂の書が大変美しいということ今回初めて知った。

私は川合玉堂の作品が昔から好きだったので今日は本当にいい機会が与えられたと思った。自然そのものの美しさを描いていると共に、その中に小さな人物・人影が描かれているので、一層心が癒される思いがする。「人間と自然の共生」というのは最近はやりの言葉であるが玉堂の絵はまさにそういう世界を描いている。

川合玉堂の絵は、単なる山水画ではなく、 江の中に人が生きている。生活があ。人と自然のやさしい交流・一体化がある。日本的美の伝統を継承し表現している。  

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2017年11月21日 (火)

千駄木庵日乗十一月二十一日

午前は、諸事。

午後、広尾の山種美術館にて開催中の『没後六十年記念 川合玉堂ー四季・人々・自然』展参観。

午後六時より、赤坂のANAインターコンチネンタルホテル東京にて開催された『平沢勝栄政経文化セミナー』に出席。伊吹文明・二階俊博・中曾根弘文・亀井静香の各氏などが祝辞。平沢勝栄氏がスピーチ。金田正一氏の音頭で乾杯、盛宴に移った。出席していた友人・知人と懇談。

帰宅後は、原稿執筆など。

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建武中興は覇道を排し皇道を根幹とした理想国家建設をめざした変革

 

建武の中興について時代錯誤だアナクロニズムだといふ批判があるが、決してさうではない。武家の軍事力・権力=覇道を排し、天皇・皇室の神聖権威=皇道を根幹とした理想国家建設をめざした一大変革が建武中興である。

 

また、「後醍醐天皇は宋学の影響を受け、支那の専制君主に倣って自らも日本国の専制君主にならうとした」「後醍醐天皇やその近臣らは支那への関心や朱子学(宋学)的な君臣名分論の影響を受けていたとされ、宋代の官制との比較などから、君主独裁政治を目指していた」といふ説がある。

 

しかし、後醍醐天皇が目指されたのは、単なる天皇権力の回復ではないし、天皇専制独裁政治の実現を目指されたのではない。摂関政治・院政・武家の専横を排され、上御一人日本天皇を唯一の君主と仰ぐ肇国以来の「一君萬民の國體の真姿回復」を目指されたのである。これが建武の中興において後醍醐天皇が目指された理想である。

 

後醍醐天皇は、臣下たる武家幕府が、皇位継承にまで介入して来るといふ異常事態を是正し、皇位継承は天皇のご意志によってのみ決せられるべきであるといふ國體の真姿回復につとめられた。それは朱子学の「大義名分論」と共通する思想精神であった。

 

和辻哲郎氏は、「建武中興の事業は短期間で終わったが、その与えた影響は非常に大きかった。…建武中興が表現しているのは、武士勃興以前の時代の復活である。神話伝説の時代には、天皇尊崇や清明心の道徳が著しかった。…しかし鎌倉時代の倫理思想の主導音は、…武者の習いであり、…慈悲の道徳であった。建武中興は、この主導音を押えて、それ以前の伝統的なものを強く響かせはじめたのである。だからこのあと、武家の執権が再びはじまってからも、幕府の所在地が鎌倉から京都に移ったのみではない。文化の中心が武家的なものから公家的なものに移ったのである。…室町時代は日本のルネッサンスの時代であるということができる。…そのルネッサンスを開始したのは、建武中興の事業であった。」(『日本倫理思想史』)と論じておられる。

 

これはもっとも正統なる建武中興への評価であると思ふ。後醍醐天皇は「朕の新儀は未来の先例たるべし」と仰せになり、大胆な改革を実施せんとせられた。この言葉は単に、後醍醐天皇の定められた「新儀」を以て全ての「旧儀」に代へるといふものではない。旧儀についても、用いられるべきものとさうでないものとを弁別し、且つ、将来にわたって用いられるべき「先例」を、後醍醐天皇の大御心によって決定せられるといふことである。

 

そして後醍醐天皇の断行された建武中興は、公家のみならず武家や一般民衆からも大きな支持を得た変革であった。故に、各地に反幕府勢力が挙兵し、足利・千葉などの有力御家人から土豪・水軍・野伏などが変革の戦ひに参加したのである。「建武中興はいはゆる大覚寺統の政治権力専断を目指したアナクロニズムだ」などといふ批判は全く当らない。

 

ただし、後醍醐天皇は、武家による政治権力の壟断は否定せられたが、「武」を否定されたわけではない。久保田収氏は次のごとくに論じてゐる。「文武二道が別々となって、そのために武家政治が実現したことにかんがみ、文武の道をつねに一つにしようとするのが、中興時の方針であった。武の精神を重視されたことは、元弘四年正月二十九日に『建武』と改元されたことからも明らかである。…文と併せて武を重んぜられたのであり、征夷大将軍任命についても、このことを顧慮せられたのであった。この方針は地方の要地に対する御子覇権という点にもみられる。」(『建武中興』)

 

後醍醐天皇が護良親王を征夷大将軍・兵部卿に任じられたり、皇子を要地に派遣されたのは、天皇・朝廷が兵馬の大権を把握する正しいあり方を回復されたのである。

 

天皇を神聖君主と仰ぐ國體を回復し、古代日本の理想の世を回復することによって、蒙古の侵攻といふ対外的危機と荘園制秩序の崩壊といふ対内的危機=内憂外患を打開せんとした建武中興の意義は非常に大きい。

 

後醍醐天皇御製

 

さしてゆく笠置の山をいでしより天が下にはかくれがもなし

 

都だにさびしかりしを雲晴れぬよしのの奥のさみだれのころ

 

ふしわびぬ霜さむき夜の床はあれて袖にはげしき山嵐のかぜ

 

霜の身を草の枕におきながら風にはよもとたのむはかなさ

 

あだにちる花を思ひの種としてこの世にとめぬ心なりけり

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千駄木庵日乗十一月二十日

午前は、諸事。

昼、友人と懇談。

午後からは、資料の整理、原稿執筆など。

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2017年11月19日 (日)

日本人と支那人とは文化も習慣も民族性も根本的に異なる

 

支那人は全てではないとは思うが、嘘をつくことを悪とは思わないのではないか。特に権力国家としての支那は、政治目的・外交目的を達成するためには、どんな見え透いた嘘でも平気な国であることは確かである。毛沢東の葬儀の写真に、四人組が並んでいたのを平気の消してしまった國が支那である。毒入り餃子事件でも嘘のつきっぱなしだ。歴史問題で支那の言っていることは外交戦略上の嘘と断定して良い。「南京大虐殺」や「七三一部隊」の残虐行為などという事も、『愛国虚言』である。「白髪三千丈」という諺は嘘では無いのである。

 

共産支那では文化大革命の狂乱のさなかに恐ろしい「人肉宴席」の犠牲となった人々がいたという。支那南部・広西チワン族自治区の武宣県で起きた粛清の犠牲者の心臓や肝臓、性器が食べられた事件があった。10年間の惨劇の中、広西チワン族自治区では無数の人々が命を落としたのみならず、ぞっとするような残酷行為と悪意が吹き荒れたという。「首切りや殴打、生き埋め、石打ち、水責め、釜ゆで、集団虐殺、内臓の抜き出し、心臓や肝臓、性器の切り取り、肉のそぎ落とし、ダイナマイトでの爆破など、あらゆる方法が使われた」とあった。1968年には、中学校の生徒たちが地理の講師を殴り殺した後、遺体を川辺に運び、別の教師に強要して心臓と肝臓を取り出させる事件があった。学校に戻った生徒たちは臓器を焼いて食べたという。身の毛もよだつような情報である。

 

「祭祀・禮」に関して、日本と支那との大きな違ひは、その供物・捧げ物にある。『論語』の「八佾篇」には「子貢、告朔の餼羊を去らんと欲す。子曰はく、賜(し・子貢の名前)よ、汝はその羊を愛しむも、吾はその禮を愛しむ。」(春秋時代衛の儒者で財政に明るい政治家だった子貢が、生きた羊を生贄にして毎月一日を魯(孔子の生国で、儒家の中心地)の宗廟に告げる儀式を廃止しやうとしたことがある。孔子先生はいはれた。子貢よ、お前は生贄に使ふ羊が惜しいのであらう。私は羊を節約するためになくなる禮の方が惜しいと思ふのだ。)とある。

「郷党篇」には「公に祭れば肉を宿せず。」(君主の宗廟の祭りに供へた肉のお下がりはその日のうちに食べて翌日まで持ち越されなかった。)とある。

また、「為政篇」にある有名な「子曰はく、故きを温めて新しきを知れば、以て師爲る可し」(煮物の冷えたのをもう一回温めて飲むやうに、古くからの伝統を反復思索し習熟することによって新しい意味を知る。さういふことができる人が人の師になれるのだ。)とある。「温める」とは、とろ火で肉を煮詰めるやうに時間をかけて繰り返し習熟する意であるといふ。

このやうに支那においては、日常的に獣肉を食し、且つ生きた獣を祭祀における供物とした。わが國の祭祀では、血が流れ出るやうな生きた獣は祭祀に捧げない。日本民族の信仰生活と、支那人のそれとは大きな違ひがある。

日本人と支那人の根本的違ひは、食生活であらう。加藤常賢先生は、「わが国のごとく四面環海で、魚類の植物が豊富な所では、魚類で栄養を摂ったのであるが、中国のごとき広大な平野のある所では、牧畜が盛んに行なわれ、動物食で栄養を摂るに至るのは自然である。支那古代では牛と羊と豚は盛んに食った。ことに豚は食った。だから中国人は肉食人種である。明治以来始めて獣肉を食い出したわが國人とは元来異なっている。むしろ食肉の点では西欧人に近い」(『漢字の発掘』)と論じておられる。

儒教には「釈奠」といふ行事がある。支那古代化に伝わる、先聖先師の霊

をまつる行事のことである。後漢以後は孔子およびその門人をまつること

を「釈奠」と専称するやうになったといふ。「釈」も「奠」も置くといふ

意で、供物を神前に捧げて祭ることである。この「釈奠」では牛豚羊など

獣の生贄を供へる。

わが国では律令時代に始まり、二月および八月の上の丁(ひのと)に大学寮(律令制による官吏養成のための最高の教育機関)で孔子並びに十哲の像を掛けて祭った。応仁の頃に廃絶したが、寛永十年に林羅山が再興し、その後昌平黌や藩校でさかんに行はれたといふ。

金谷治氏は、わが国における「釈奠」について次のごとく論じてゐる。「鎌倉時代のころには、大学寮で行なわれる釈奠で獣の肉は供えなくなっていたらしい。中国では豚を供えるのが例であるが、日本では初め猪や鹿を用いた。しかしそれも国情にあわないことで、いつのころにか廃止されたのである。それについて『古今著文集』(鎌倉中期の説話集)では孔子が夢枕にあらわれたことを伝えている。『此の朝に来たりて後は、大神宮来臨、禮を同じうす。穢食供すべからず』というのがそのご託宣で、それ以来、獣肉を供えなくなったという。事実のほどはともかく、釈奠の禮も次第に日本化してきたということであろう」(『人類の知的遺産・孔子』)

 

ユダヤ教やキリスト教も神に血を捧げる。朝鮮も祭祀で豚の頭を捧げるやうである。日本では祭祀において米や野菜そして魚介類を神に捧げるが、支那では血の出る獣肉を祭祀の供へ物とするのは、食生活の違ひによる。

温和な日本列島の気候風土の中に生活し農耕民である日本人は、狩猟民の有する肉食と凶暴と好戦性、牧畜民の有する漂泊性と遠征的行動は姿を消している。

朴泰赫氏は「儒教は、何よりも偽善的だ。儒教は中国生まれであるが、中国人は食人種である。…孔子も、日常、人肉を食べていた。…孔子が最も愛していた弟子の子路は論争に負けて、相手に食われている。『三国志』の劉備玄徳が地方の家に招かれて、人肉を食べる生々しい場面が出て来る。」(『醜い韓国人』)と書いてゐる。

支那においては、最近まで食人の習慣があったのである。日本人と支那人は、同文同種だなどということは絶対にない。文化も習慣も民族性も根本的に異なることを我々はしっかりと認識しなければならない。

 

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千駄木庵日乗十一月十九日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、書状執筆執筆、『萬葉集』講義原稿執筆、脱稿、送付など。

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第七十九回日本の心を學ぶ會のお知らせ

第七十九回日本の心を學ぶ

 

平成二十九年を振り返って―保守とリベラルを考える― 

平成二十九年も年末を迎えました。
今年を振り返えると内外情勢は決して安穏ではありせんでした。國内的には、総選挙で自公政権が勝利しましたが、政治家の資質にまつわる様々な事象が起りました。

北朝鮮危機の中で行われた衆院選は、民主党が三つに分裂するなど混迷の中で行われました。この選挙では、「保守」「リベラル」という言葉に注目が集まりました。混迷する情勢を「保守」や「リベラル」というキーワードを使って読み解こうしていたように見えます。

マスメディアは新党の位置づけを保守やリベラルという言葉で説明しました。また政党や政治家も自らの立ち位置・政治姿勢を「保守」あるいは「リベラル」と位置付けているようです。 希望の党は「寛容な保守」を掲げており、一方の立憲民主党はリベラル政党として躍進しました。

しかしこれまでの「保守」と「リベラル」という認識にも変化が出てきたようです、読売新聞の調査によると四十代以下は自民党や維新の會をリベラル、共産党や公明党を保守として捉えており従来の認識との間に断層があることがわかりました。従来の「保守」や「リベラル」といった言葉では現實の政治をただしく捉えられなくなっているようです。
そこで今年最後の勉強會では、今年を振り返り「保守」と「リベラル」について考えてみたいと思います。

(今回の勉強會は文京シビックセンターではありません。ご注意ください)

【會場】文京区民センター 3-D會議室

【日時】平成二十九年十一月二十六日 午後六時から
http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumin/shukai/kumincenter.html
住所:文京区本郷四-一五-一四◎都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩二分、東京メトロ丸の内線【後楽園駅4B出口徒歩5分◎東京メトロ南北線「後楽園駅6番出口」徒歩五分、JR水道橋駅東口徒歩一五分◎都バス(02・都02乙・上69・上60)春日駅徒歩二分

【講演】「立憲主義」「リベラル」とは何か?
【講師】 四宮政治文化研究所代表 四宮正貴氏
【司會者】林大悟
【参加費】資料代五〇〇円。終了後、近隣で懇親會(2千円くらいの予定です)
【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

              〇

この告知文は主催者が作成しました。

 

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猪子恒大本東京宣教センター次長による「出口王仁三郎と大本-藝術は宗教の母」と題する講演内容

七月二十三日に開催された『出口王仁三郎と大本-藝術は宗教の母』における猪子恒大本東京宣教センター次長による「出口王仁三郎と大本-藝術は宗教の母」と題する講演内容は次の通り。

 

「多くの人々には、イケメン、美人の方が良いという気持ちがある。美と芸術はリンクしている。シンクロもきれい。相撲は女性ファンが多い。お相撲さんはきれいな人が多い。藝術は好き嫌いが出て来る。

 

 

音楽は人の気持ちを変えてくれる。音楽にはそういう力がある。田端義夫がテレビで『カチューシャ』の歌を歌うのを見ていた。一緒に出ていた三人の女性アナウンサーが泣き出した。音楽の凄さを思った。人の心に訴えかける。月に『様』を付けるのは日本人のみ。星空もきれい。全てが美しい。『最も美しい嘘』という芸術論もある。

 

呉服屋に丁稚奉公に行くと、一番最初は蔵の中で一番良い反物に触らせる。どういう反物が良いか悪いかをだんだん分からせる。美に対しての感性を磨かせる。

 

出口王仁三郎師は『藝術と宗教とは、兄弟姉妹の如く、夫婦の如きもので二つながら人心の至情を根底を固め、共に霊最深の要求を充たしつつ、人をして神の温懐に立ち遷らしむる、人生の大導師である』『瑞月(注・出口王仁三郎)はかつて藝術は宗教の母なりと謂ったことがある。しかしその芸術とは、今日の社会に行わるる如きものを謂ったのではない。造化の偉大なる力によりて造られたる、天地間の森羅万象は、何れも皆神の芸術的産物である。この大藝術者、即ち造物主の内面的真態に触れ、神と共に悦楽し、神と共に生き、神と共に動かむとするのが、真の宗教でなければならない』(『霊界物語』)。「神様がわからないという人に、一本の花を見せてやれ。これでも神様が分からないのですかと…。たれがこの美しく、妙なる色香をもった花を造るのであるか、同じ土地に播いても種が違えば、千紫万紅色さまざまに咲き出でて得もいわれぬ美しさを競うではないか。いったい誰が草するのか」(『水鏡』)『洪大無辺の大宇宙を創造したる神は、大藝術者でなければならなぬ。天地創造の原動力、これ藝術の萌芽である』と説かれた。

 

藝術即宗教即生活。全てに美が含まれる。天地間にリズムがある。それが今乱れている。茶道は日本のオリジナル」。

 

 

 

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千駄木庵日乗十一月十八日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』発送準備、原稿執筆など。

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2017年11月17日 (金)

この頃詠みし歌

 

行く秋を惜しむ心で見上げれば老木は小さき青葉付けゐる

 

逝きにし人の名を読みあげる僧の声聴きつつ一人一人の面影偲ぶ(『憂國烈士之碑追善供養之儀』)

 

街角に立ち待ちをれば手を振りて懐かしき人が我に近づく

 

天地の恵みに生かされる喜びを大空仰ぎ身に沁みて思ふ

 

銀座四丁目に照りゐし半月今はまた上野広小路の上に照りゐる

 

街の中に鎮まりませる神やしろ夕闇の中に参るかしこさ(東京大神宮)

 

富士見町の道を歩めば懐かしき毛呂清輝氏の面影浮かぶ

 

富士見町の古きビルにて教へを受けし毛呂先生を偲ぶ夕暮

 

久しぶりに来たりし街に酔ひにける若者たちの声朗らなり

 

過ぎ去りし時を思へり今宵また月は夜空に煌々として

 

明るき乙女國憂ひて立つ時に友ら集ひて拍手を贈る(『赤尾由美さんを励ます會』)

 

区役所の最上階に愛國の士ら集ひ来し秋の夜楽し()

 

小學校中學校で『君が代』を歌ひし記憶なきが口惜しき

 

日教組の偏向教育受けし我 尊皇愛國の論を唱ふる

 

美しき人の面影目に浮かぶわが恋心未だ衰へず

 

夕暮の寺町歩めば知り人とすれ違ひたり挨拶もなく

 

床屋にて耳を切りますかと言はるれど耳なし芳一になりたくはなし

 

耳の中の毛を切りますかといふ意味と言はれて安堵す行きつけの床屋

 

上野山の美術館にて仰ぎ見し『日出処日本』に胸迫りくる(『東京藝術大學創立百三十周年記念特別展 皇室の彩』にて)

 

大観と光雲こそは日の本の近代美術の大いなる二人()

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千駄木庵日乗十一月十七日

午前は、諸事。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

午後六時より、日本橋にて、台湾問題の専門家の方と懇談。

帰宅後、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆。

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今日アジアで覇道精神を實践し、軍事的・政治的拡張と侵略を行ってゐるのは共産支那である

孫文は、大正十三年(一九二四)十一月二十八日、神戸高等女學校において神戸商業會議所外五団体に対して「大亜細亜問題」と題して行った講演で、「貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるか、それは日本國民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります」と語った。

 

しかし、今日アジアで覇道精神を實践し、軍事的・政治的・経済的拡張と侵略を行ってゐるのは共産支那である。さらに、五族共和どころか各民族を抑圧してゐるのは漢民族である。今日の共産支那には東洋王道精神もないし、仁義も道徳もない。

 

今日、東アジアにおける最大の覇道國家・侵略國家は支那である。清帝國は、東トルキスタン(新疆ウイグル)、チベットなど周辺諸民族を侵略、征服、蹂躙した。「中華人民共和國」=共産支那は、清帝國が侵略によって獲得した領土をそのまま継承するのみならず、さらに領土拡大とアジア支配を目論んでいる。共産支那建國以来、「朝鮮戦争」・「ベトナム戦争」・「中印戦争」・「チベット侵略」・「中ソ國境紛争」・「中越戦争」など十七回も対外戦争あるいは武力行使を行った。チベット・ウイグル・内モンゴルを植民地支配してゐる。

 

今日、支那を武力攻撃しようとしてゐる國などは存在しないのに、共産支那は軍拡を続けてゐる。何故軍拡を行ふ必要があるのか。日本及び台湾そしてアジア全域への侵略・覇権確立を目論んでゐるからである。「反國家分裂法」「領海法」の制定そして反日破壊活動を見れば、それは明らかである。共産支那帝國は一九九二年、「中華人民共和國領海法及び接続水域法」を制定し、東シナ海の尖閣諸島から南シナ海の島々まですべて支那の領海だと勝手に決めてしまった。日本、韓國、台湾、アセアン諸國と係争中の東シナ海、南シナ海の大陸棚、西沙諸島、南沙諸島の領有を、一方的に宣言した。とりわけ許し難いのは、わが國固有の領土たる尖閣諸島の領有をも一方的に宣言したことだ。

 

かつて共産支那は理不尽にも、「ベトナムは小覇権主義國家だから懲罰する」とか言って、武力侵攻を行った。それと同じやうに、状況が整へば、「台湾を取り戻す」「解放する」と言って台湾に、「尖閣及び琉球を解放する」と言ってわが國に、軍事侵攻を行ふ危険性がある。

 

江戸前期の儒學者・神道家である山崎闇斎は、「孔子が大将となり、孟子が副将となって兵を率いて日本に攻めて来たら、彼らを擒(とりこ)にして、馘(くびき)ることが即ち孔孟の道を行ふ所以である」(『先哲叢談』)と言った。また、山崎闇斎の弟子・浅見絅斎(あさみ けいさい)は闇斎の言葉として次のやうに記してゐる。「山崎先生嘗て曰く…吾國の大義より云へば、堯、舜、文王にても、吾邦を下につけんとて取りに来たらば、西海の浦にて、石火矢にても撃ち殺すが大義なりと云」(『浅見先生聞問書』)。

 

孔子や孟子そして古代支那の聖王である堯、舜、文王といへども日本を支那の属國にするために攻めて来たら、これを撃滅することが「孔孟の道」であり、「大義」であるといふのである。江戸時代の儒學者・漢學者はこのやうな愛國精神を保持してゐたのである。これが日本儒教の真面目である。

 

わが國は今日、中華帝國主義による侵略の危機、ロシアによる北方領土=南樺太全千島不当占拠、北朝鮮によるミサイル攻撃の危機とわが國民の拉致、韓國による竹島不当占拠、といふ外圧に見舞はれてゐる。わが日本は「元寇」「白村江の戦」以来の未曽有の國難にある。今こそわが國民全体が、先人たちの愛國精神を正しく継承し、大和魂を発揮して國難に当たるべき時である。わが日本は常に、朝鮮半島と支那大陸に対して警戒を怠ってはならない。わが國は国防体制をもっと強化すべきである。それが日本と東アジアの平和を築く唯一の道である。  

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千駄木庵日乗十一月十六日

午前は、諸事。

午後は、『伝統と革新編集の仕事。

午後六時より、神田三崎町にて、永年の同志二氏と懇談。

帰宅後は、書状執筆、原稿執筆。

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2017年11月16日 (木)

品格・人格・識見について

日馬富士の件で「横綱の品格」問題がまた出て来た。「品格」とは「その人やその物に感じられる気高さや上品さ。品位」という意味だそうだ。格闘技に強い体格の良い人も、その道で「最高位」となると「品格」が求められるのであろう。しかし私には格闘技に強く体格のいい人三十代以下の人に「気高さ」「上品さ」を求めるのは少し無理なような気がする。「心技体」を鍛えるというくらいで良いのではないだろうか。七十歳のなった私も、「品格」=気高・上品さというものに欠けていると思っているから尚更そう思う。

 

相撲界だけでなく、人の手本となるべき立場・職業にある人が不祥事を起こすこと最近とみに増えてきた。警察官の不祥事は日常茶飯事。東大法学部出身・司法試験合格・元検事・衆議院議員・弁護士の女性の不倫疑惑。高級官僚(元文部科学事務次官)が援助交際の交渉現場となっている出会い系バーに、「女性の貧困問題を調査するため」とか言って足繁く出入りしていたこと。東大出の女性代議士の秘書への暴言、暴行である。

 

知識人・学者文化人と言われる人々に中にも、非常識な言動を行う人がいる。「違うだろー」と言いたくなる。

 

誉め言葉に「人格識見共に立派である」というのがある。私もこれまでの人生で、人格識見共に立派な方に、何人かお目にかかった。しかし、識見がいかに正しく立派であっても、人格面で尊敬できない人がいる。またその逆に、人格的に尊敬出来ても、識見がおかしいという人もいる。あんな立派なことを書いたり話したりする人がどうしてこんなに非常識なことをしたり話したりのだろうと思うことがある。

 

「学者馬鹿」という言葉もある通り、専門的知識を有し、学問に専心している人は、少し変わったところがあるのは致し方ないと思っていた。また、私自身、人格面でも、識見の面でも他人様を批判できるような人間ではないことは重々承知している。しかし、最近、人の手本となるべき人なのにあまりにもひどい言動を行う人が多くなっていることは事実なので、以上のことは書かしていただいた。

 

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千駄木庵日乗十一月十五日

午前は、諸事。

午後二時半より、芝の駐健保会館にて、、『大行社幹部会』開催。顧問の一人としてスピーチ。

帰宅後は、書状、原稿執筆。

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2017年11月15日 (水)

愛国心・ナショナリズムと尊皇精神・國體観念

 

維新運動・愛国運動・民族運動・真正保守運動と言われてゐる運動の基本は何か。何を目的としてゐるのか。排外主義と愛国心・国粋主義とは同じなのか。ナショナリズムと日本伝統精神の関係はどうか。日本主義とは何か。具体的にどういふことを為すべきか。これは重大な問題である。

 

日本精神・日本主義・民族主義・国粋主義・愛国主義・民族精神・日本伝統精神といふやうに維新運動の基本に置く思想の名称も色々ある。それぞれ微妙な違ひがあるやうに思へる。私は、基本にあるべき思想精神は「尊皇愛国」「敬神崇祖」といふ日本伝統精神であると思ふ。

 

「愛国心」とは個人が運命共同体として結集し拡大された鞏固なる歴史的存在意識であるといはれてゐる。「愛国心」といふ言葉が使はれ出したのはおそらく明治以降であらう。「愛国心」「ナショナリズム」といふ言葉は、明治以後外国との交渉や競争が激しくなってきてから顕在化したと言へる。

 

日本民族の国を愛する心の特質は、「尊皇愛国」といふ言葉もあるやうに、萬邦無比といはれる日本國體精神即ち天皇尊崇の心と一体であるところにある。日本人における愛国心は、日本人一人一人が静かに抱き継承してきた天皇を尊崇しさらに麗しい日本の自然を愛するごく自然な心である。

 

日本人にとって愛する祖国とは本来的に「天皇の御代」即ち「君が代」なのである。これが日本の愛国心の特質である。ゆえに『国歌・君が代』こそ、最大の愛国歌と言ふことができる。日本における愛国心とは「恋闕心」(「みかどべ」を恋ふる心であり「麗しき山河即ち自然を慈しむ心」である。どちらも「愛」の極致である。

 

そして、「防人」が「大君の命かしこみ」と歌って以来、蒙古襲来の時は日本神国思想が勃興し、幕末において欧米諸国のアジア侵略を脅威と感じた時も『尊皇攘夷』が叫ばれ、明治以来大東亜戦争に至るまでの内外の危機に際して勃興したのも國體精神である。日本における愛国心・ナショナリズムは尊皇精神・國體観念と一体である。

 

大化改新・明治維新・大東亜戦争を見ても明らかなやうに、日本における変革や国難の打開は、必ず愛国心・尊皇心の興起と一体であった。最近の日本も、愛国心・ナショナリズムが勃興しつつある。そしてそれは尊皇精神。日本伝統精神と一体のものでなければならない。

 

国粋主義・愛国主義と排他主義・排外主義・民族差別とは全く異なるといふことを確認したい。我々は、中華帝国主義や北朝鮮独裁政権の我が国に対する恫喝や攻撃、韓国の反日行為・竹島選挙に対しては厳しく対峙しなければならない。しかしそれは、全ての支那人や韓国朝鮮人を敵視し差別し排除することではない。無論不良外国人・反日外国人・不法外国人は排除しなければならないが、支那人・朝鮮人だから排除し差別することではない。

 

わが民族は本来大らかにして明るい民族である。八紘一宇・四海同胞の精神は大切にしなければならない。自分の主張と異なる主張をする人に対して、「あいつは朝鮮人だ」とか「ユダヤの手先だ」とか言って攻撃する人がいるようだが、これは日本精神ではない。

 

日本民族は、古来極めて柔軟な精神・文化感覚を持ってきた。大らかに外来文化・文明を包容摂取してきた。しかしその根底には、強靭なる国粋精神・民族精神・伝統精神があった。だからこそ、柔軟に外来文化を摂取しそれ日本化し洗練し高度なものにしてきたのである。

 

しかし、天皇を君主・祭り主と仰ぐ日本國體を破壊せんとする者共は、決してこれを許してはならない。また、我が国の主権・領土を侵し、日本国民に害を及ぼす勢力に対しては、厳しく対峙しなければならない。これは当然のことである。笹川良一氏は、「世界は一家、人類は兄弟」と言はれたが、その一方で、「戸締り用心、火の用心」とも言はれた。理想と現実というものはよくよくわきまえなければならないといふことである。

 

有志による韓国・支那糾弾活動における行き過ぎだ言動ばかりが批判されてゐるやうだ。しかしこれはあまりにも一方的である。ソウルや北京・上海などで行はれる反日デモにおいて、天皇陛下の御真影、日本の政府要人の写真、そしてわが国の国旗を焼いたり踏みつけたりする行為をしてゐる。品格の無い行動をしてゐるのは心無い韓国民・支那国民であることを忘却してはならない。

 

また、現実に我が国にミサイル向け、我が国を侵略せんとし、我が国の主権を侵害し、固有の領土を不法占拠し、我が国民を拉致してゐるのは支那・韓国・北朝鮮であることを忘却してはならない。「暴虐支那・韓国・北朝鮮」に対して厳しく対峙しなければならない。

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千駄木庵日乗十一月十四日

午前は、諸事。

午後は、書状執筆。

午後六時より、永田町の憲政記念館にて、『呉竹会アジアフォーラム』開催。藤井厳喜氏が司会。中谷元・元防衛大臣、井上宝護氏が講演。頭山興助氏が挨拶。

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講演する中谷氏

帰宅後は、原稿執筆、明日のスピーチの準備など。

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2017年11月14日 (火)

天皇國體と成文憲法

西洋成文憲法は「権力に対する制限規範」であるという。イングランド最悪の王と言われるジョン王と諸侯との間で結ばれた『マグナ・カルタ』(大憲章)が西洋成文憲法の起源であり、『国王も法の下にある』といふ原則=『法は王権に優越する』といふ法治主義を確立した、とされる。「権力は放っておくと濫用されるので、為政者の手を縛る必要がある。その為に成文憲法が必要とする」という考え方である。これが西洋成文憲法の根底にある思想である。

 

しかし、日本天皇の国家統治の本質は、権力・武力による国家・国民支配ではない。天皇の祭祀主としての神聖なる権威による統治(すべおさめる。しろしめす。きこしめす)である。むしろ、天皇の神聖なる権威が権力者・為政者の権力濫用を抑制するのである。それがわが国の建国以来の國體であり歴史である。また、天皇の「仰せごと・みことのりが」わが國における最高の法である。天皇が成文法の下にあるなどといふ事は絶対にあり得ない。また、わが國の最高の成文憲法は、「天壌無窮の御神勅」である。

 

日本国は信仰共同体であり国民が契約を結んで人工的に作った国ではない。そして祭祀主である天皇は国民と対立してこれを力によって支配する御存在ではない。これが日本肇国以来の国柄であり國體である。

 

西洋憲法思想では、前述したように、「憲法は権力に対する制限規範である」され、権力は放っておくと濫用されるので為政者の手を縛る必要から成文憲法が必要であるとされる。このような性格を持つ成文憲法によって、神話時代より悠久の歴史を有する祭祀国家・日本を規定すること自体不自然なことなのである。

 

つまり、日本の歴史と傳統そして日本國體は、西洋の契約思想や人間不信を基盤とした西洋近代の成文法とは基本的に相容れないのである。また西洋の国家観である「国家法人説」とは相容れないのである。

 

わが日本は国家の本質と君主たる天皇の御本質が建国以来、信仰的に厳然と確立している。これを法律論的に言えば、不文法によって定まっているということである。故に成文憲法でそれを変革することはできないし、成文憲法は不文憲法(立国の基本)に反する規定をしてはならない。西洋から輸入した近代法思想に基づく国家観や成文憲法によって立国の基本即ち日本國體を隠蔽したり破壊してはならない。

 

換言すると、天皇及び皇室そしてそれを中心とする日本國體は、成文憲法などの世俗的な法律を超越しており、成文憲法などの権力機関で制定された法律は、國體及び皇室にかかわることに干渉することはできないのである。

 

「現行占領憲法」は、その法思想・理念もアメリカの押し付けであるから、「マグナ・カルタ」を起源とする西洋成文憲法思想に貫かれている。日本天皇は、権力を濫用して国民を苦しめるジョン王などの西洋専制君主とは全くその本質を異にする。「現行憲法」は、わが國體とは相容れない。

 

また、「祭祀國家日本の祭祀主・天皇」に関する神聖なる事柄は、世俗の法律問題・政治問題ではない。即ち決して『現行憲法』が規定する「政治権力作用としての國政」ではない。政治権力や成文法によって、「祭祀國家日本の祭祀主・天皇」を規制し拘束し奉るようなことがあってはならない。

 

わが國においては、成文法が基となって國體が成立するのではない。國體が基となって成文法が成立するのである。

 

天皇は、権力や成文法を超越された神聖なるご存在である。従って、天皇陛下の「詔」は、臣下國民が従ひ奉るべき絶対の「法」である。今上陛下の昨年八月二十二日の「玉音」はまさに「詔」である。安倍晋三内閣総理大臣をはじめわが國の政府・政治家はこの事を正しく認識し、陛下の大御心にこたへ奉るべきである。

 

繰り返し言ふ。成文憲法及び成文法そしてそれに基づく政治権力機関は、天皇國日本の道統を破壊したり否定した制約したり隠蔽する権限は全くないのである。むしろ天皇國日本の道統に即した憲法及び法律そして権力機関であらねばならないのである。

 

戦勝國によって押し付けられた『占領憲法』の制約下に、上御一人日本天皇を置き奉る事があっては絶対にならない。天皇の「詔」「大御心」が最高最尊の「法」である。「成文憲法」は「権力の制限規範である」と言はれる。であるならば、「國政に関する権能を有しない」とされる天皇が、『現行占領憲法』の制約を受けることはあり得ない。

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千駄木庵日乗十一月十三日

午前は、諸事。

午後は、『政治文化情報』原稿脱稿、送付。

午後五時、お茶の水にて、『伝統と革新』編集実務担当者と打ち合わせ。

帰宅後は、原稿執筆。

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2017年11月13日 (月)

この頃詠みし歌

佳き人の便りの言葉有難くわが胸の内に深く刻まむ

 

神の前に座して祈ればおのづから新しき力湧きて来るなり

 

提灯は並びてをれど雨の降る祭りの夜は静かなりけり

 

担ぎ手は雨に濡れつつ歩みをり嵐近づく根津の祭礼

 

佳き人の便りの言葉有難くわが胸の内に深く刻まむ

 

神の前に座して祈ればおのづから新しき力湧きて来るなり

 

やまと歌のことを語れるわが声は初秋の夜の部屋に響けり

 

友ら集ふ熱海の夜に熱唱す「元禄名槍譜俵星玄蕃」

 

七十歳になりても高らかに熱唱す高校時代に憶へたる歌

 

重き身を支へる我の足二本恙なくあれと歩む日日(にちにち)

 

賑はへる街を一人歩みなばチャイナの言葉の喧しきかな

 

わが家の墓清めつつ安らかに眠りたまへとただに祈れり

 

古来稀なる年齢となれど我はしも日の本の國に生きてゆくなり

 

秋の日の青山霊園の墓前祭自決せし人の御霊を慎み拝す(清水澄博士墓前祭)

 

志篤き人々集ひ来て清水澄博士の御霊拝ろがむ()

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千駄木庵日乗十一月十二日

午前は、諸事。

午後二時より開かれた地元の会合に出席。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2017年11月12日 (日)

日本の神について

 

本居宣長の『古事記伝』には次のように書かれている。 「凡て迦微とは、古御典等(イニシヘノフミドモ) に見えたる天地の諸(モロモロ)の神たちを始めて、其(ソ) を祀(マツ)れる社に坐御靈(イマスミタマ)をも申し、又人はさらにも云鳥獣(トリケモノ) 木草のたぐひ海山など、其余何(ソノホカナニニ) にまれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて、可畏(カシコ) き物を迦微とは云なり」と。

 

宣長は「尋常ならずすぐれたる徳のありて可畏(かしこ)きものが神である」と定義している。「可畏し」という言葉の意味は、おそれおおい、もったいない、貴い、はなはだしい等々であろうが、それらを総合したような感情において神を考えるということであろう。日本民族は、天地自然に素直なる感動と畏敬の念を持ち、天地自然を神として拝んだのである。また、死者の靈も神として拝んだ。一神教の神観念とは大きく異なる。

 

それでは、日本民族の神観念と一神教の神観念とは全く相容れないかというとそうではない。日本人の神観念には、「神はこんな形だ」という一定の相形(すがたかたち)はない。神は無限である。だから、神はありとあらゆる姿に現れる。神は無相であると共に無限の相たり得るのである。日も月も山も海も大木も風も水も神として拝まれる。神は本来が無相であり無限であり、どんな姿にでも現れ、我々を護りたまうのである。

 

『古事記』冒頭の「天之御中主神」をいかに把握するかは古来日本神道上非常に重大な問題である。『古事記』冒頭には、「天地初發の時、高天原になりませる神の名は、天之御中主神。次に高御産巣日神、次に神産巣日神。この三柱の神は、みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示されている。

 

日本神話においては神の御名が大きな意義を持つ。古代日本人は、神秘的信仰的な感動をもって神の名を付つけたのである。「天之御中主神」という御名は、日本人の壮大な神観・宇宙観を表している。「天」の「御中」の「主」の神である。大國主・大物主という神がいますごとく、日本人は「主(ぬし)」に対する尊敬心が深かった。天之御中主神は、「大宇宙の中心にいます主宰神」と申し上げて良いと思う。

 

しかもこの神は、「天地初發の時」に「高天原になりませる神」である。天と地が初めては開かれた時に高天原に成りました神である。天地を創造したのではなく、天地と共に「なりませる(遍在する)」神である。「創造」は創造する神と創造された物が隔絶した関係となるが、「生成」(なりませる)は神と天地萬物萬生は根源的に一体関係であるとして把握される。つまり、天之御中主神は「天地の生成の本源神」として把握されている。したがって単に日本民族特有の神あるいは単なる祖先神・自然神として把握されるべきではない。仏教の久遠の仏、キリスト教などの絶対神(怒りの神・妬みの神ではなく愛の神としての絶対神)と本質的には同じ存在であると把握すべきである。

 

さらに『古事記』には、天之御中主神の次に高御産巣日神、神産巣日神の名が示されている。そして「この三柱の神は、みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示されている。天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三神は、独り神すなわち“唯一絶対神”であり、宇宙の根源神としてと書かれている。この三柱の神は「造化の三神」といわれるが、宇宙根源神・絶対神の「中心帰一」「多即一・一即多」「むすび」の原理を神の名として表現したのである。

 

この三柱の神は、天地宇宙の萬物萬生の普遍的根源神であるから、特定の個別化されたお姿を現されることはなく御身を隠されるのであるのである。だから、「みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示されているのである。日本國の神社には、太陽神・皇室の祖先神であられる天照大御神や、その弟神で豊饒神であられるの須佐之男命などをお祭りした神社は多いが、天之御中主神を個別神として祭った神社は非常に少ない。

 

換言すると、天之御中主神は、唯一絶対神という概念に凝り固まって祭祀や・りの対象になりたもうことはないのである。唯一絶対神であると共に八百萬の神々の「御親神」であられる。<一即多・多即一>の神であり、最高唯一神であるとともに萬物・萬生包容の神である。無限の可能性を有する大いなる宇宙主宰神・宇宙本源神が天之御中主神である。八百萬の神々は天之御中主神が無限の姿に現れ出られた神々である。

 

天之御中主神と一体の関係にある高御産巣日神、神産巣日神は、ムスビの神であり結合の原理であって、結びということが可能なのは“本来一つ”であるからなのである。この“結びの原理”(それは愛・和合・調和・合一と言い換えても良いと思う)というものが絶対神の中に、既に内包されているのである。天之御中主神は単なる理念の神ではなく、愛・和合の神と一体のである。

 

また、日本神話においては、神が天地を創造するのではなく、天地は神と共に「なりませる」存在なのである。天地・國の生成は、絶対神のうちに内在する“結びの原理”の展開としてあらわれてくるのであって、日本的思惟においてはすべて“一”をもって“創造の本源”とし、そこから無限の生きとし生けるもの・ありとしあらゆるものが生成するのである。そこに、多即一・一即多・中心帰一という大らかにして無限の包容性を持つ文字通り「大和(やまと)の精神」たる日本的思惟の根元が見出されるのである。

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千駄木庵日乗十一月十一日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆。

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2017年11月11日 (土)

近世國學について

 

近世國學とはいかなる思想運動であったのであらうか。十九世紀後半当時の世界情勢を見ると、東アジアは、西洋列強・白色人種による侵略支配の危機に瀕してゐた。日本も勿論その例外ではなく、日本の国の歴史を探求し、日本独自の思想・信仰を深化させんとする運動が起こった。それが近世国学運動の思想である。

 

國學運動は世界情勢に対してかなり積極的に目を開き、それに呼応した運動であった。キリスト教や、欧米の歴史や現状についても研究し、海外の政治情勢についても情報収集につとめたうえでの学問であり思想運動であった。

 

國學運動の底流にあったのは、日本伝統精神への回帰であり、日本國體の開顕である。さういふ思ひは、次に挙げる国学者たちの歌に表れてゐる。

 

最も早い時期の国学者であり、國學の始祖といはれる荷田春滿(京都の人。古典・故実・国史・歌道の研究者)は、

 

「ふみわけよ 大和にはあらぬ 唐鳥の 跡を見るのみ 人の道かは」 

(よく道を踏みわきまへて間違はないやうにせよ。日本ではない唐(支那)の鳥の足跡のみを見つめて歩くのが、日本人たるものの道ではないぞ)と詠んだ。「唐鳥の跡」は漢籍・漢字のこと。

 

八代将軍・徳川吉宗は、各国の古書を集めたが、その真偽玉石の鑑定を荷田春滿に依頼した。その徳川将軍家の学問は儒教であった。林羅山・中江藤樹・荻生徂徠・新井白石・伊藤仁齋等々江戸時代の中期までの学者の殆どは儒教・漢学の系統であった。さうしたことを悲憤慷慨して詠んだ歌がこの春滿の歌である。

 

鹿持雅澄(幕末土佐の国学者・萬葉集を中心として古典を研究。『萬葉集古義』の著者)は、

 

「神國の 道ふみそけて 横さらふ いづくにいたる汝が名のらさね」(わが神国の正しき道を踏みそらして、蟹のやうに横這ひの道を歩む者共よ、お前の名は何と言ふのか、名乗ってみろ)と詠んでゐる。

 

雅澄は日本の伝統思想に目もくれず外来の外来の学問に現を抜かしゐる者たちに対して憤慨してゐるのである。日本伝統精神に対する雅澄の態度精神を昂然と歌ひあげてゐる。この歌が歌われた時期は蘭学が盛んになり、日本に英船米艦露艦がしばしば渡来した。荷田春滿は儒教と仏教、鹿持雅澄は蘭学に対して批判的態度を示してゐる。

 

さらに鹿持雅澄は、ペリー来航を憂ひて、安政元年(一八五四)正月、六十四歳の時に、

 

「神風に 息吹きやらはれしづきつつ 後悔いむかも おぞの亞米利加」(神風に吹きやられ、海底に沈められた後に、後悔するのであらう。愚かなアメリカは)と詠んでゐる。かうした憂国の至情と気概が学問の奥底にあったのである。

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千駄木庵日乗十一月十日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆、『伝統と革新』編集の仕事など。

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2017年11月10日 (金)

今朝思ったこと

トランプは、北朝鮮問題をわが國及び共産支那との商売に利用しているように思えますが、小生の邪推でしょうか?。

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『東京藝術大学創立130周年記念特別展 皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト』を参観して

本日参観した『東京藝術大学創立130周年記念特別展 皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト』は、「およそ 100 年前。大正から昭和最初期の頃に、皇室の方々の御成婚や御即位などの御祝いのために、当代選りすぐりの美術工芸家たちが技術の粋を尽くして献上品を制作しました。中には、大勢の作家たちが関わった国家規模の文化プロジェクトがありましたが、今日ではそれを知る者がほとんどいなくなっています。いったん献上されたそれら美術工芸品は、宮殿などに飾り置かれていたために、一般の人々の目に触れる機会が極めて限られてきたからです。

 古くから皇室は、日本の文化を育み、伝えてきましたが、近代になってからは、さまざまな展覧会への行幸啓や作品の御買上げ、宮殿の室内装飾作品の依頼などによって文化振興に寄与してきました。皇室の御慶事に際しての献上品の制作は、制作者にとって最高の栄誉となり、伝統技術の継承と発展につながる文化政策の一面を担っていました。大正期には、東京美術学校(現、東京藝術大学。以下美術学校)5代校長・正木直彦(1862 1940)の指揮下で全国の各分野を代表する作家も含めて展開された作品がこの時代の美の最高峰として制作されました。本展では、宮内庁に現存する作品とともに、その制作にまつわる作品や資料を紹介いたします。

また本展は、東京美術学校を継承する東京藝術大学の創立130周年を記念して、東京美術学校にゆかりある皇室に関わる名作の数々も合わせて展示いたします。皇室献上後、皇居外で初めて公開される作品を中心に、100年前の皇室が支えた文化プロジェクトの精華をお楽しみください」との趣旨で開催された。(案内書)

 

「軍鶏置物」石川光明 「萬歳樂置物」「木彫置物養蚕天女」高村光雲/山崎朝雲 「久米舞」竹内久一 「鹿置物」高村光雲 「丹鳳朝陽図花瓶」海野勝珉 「東京名勝図・萬歳樂図衝立」島田佳矣 「鱚」前田青邨 「秩父霊峰春暁」「日出処日本」横山大観 「住吉詣」松岡映丘 「御飾棚 鳳凰菊文様蒔絵」島田佳矣 「彫金洋式文房具」千頭庸哉 「玳瑁装身具鴛鴦菊文様」森田佳鳳 「牙彫置物唐子遊」和田光石などを参観。

 

大正天皇御即位、皇太子殿下(昭和天皇)御成婚、昭和天皇御即位という大正・昭和の御代に皇室の御慶事に献上された美術品、明治宮殿に置かれた美術品が多く展示されていた。日本の近代美術は、皇室を中心に継承され高められていったこと、日本美術発展の基礎は皇室にあったことを実感した。展示され作品は、正しくは御物と申し上げると思うが、豪華絢爛と言うよりも、美しさ清らかさ気品の高さを極めた作品であった。太田彩氏(宮内庁三の丸尚蔵館学芸室主任研究官)は、本展覧会の図録解説で「明治宮殿は近代における正倉院宝庫のような存在で、その内部を装飾する品々は宝物的な存在であるという見方ができる。…明治宮殿という近代日本美術のひとつの牙城的存在は、天皇という崇高な存在とともに、日本美の象徴的存在であったとも言えよ」と述べているが、全くその通りである。

 

私が最も感動した作品は、横山大観の「日出処日本」であった。昭和十五年大観自ら、昭和天皇に検証した作品で、霊峰富士と旭日のみが描かれている。解説には「七十歳を過ぎた大観が勤皇の画家として生きた己の人生の集大成として、尊崇の念のすべてを具現化しようとしたかのような気迫が感じられる」と書かれてあった。まことに以て見事な絵であった。この作品を見つめていると、自然に涙がこぼれてきた。

 

彫刻では、高村光雲の作品に感動した。仏師として修業し、実物写生を基とした高い藝術性のある彫刻を数多く制作した。光雲の作品を見ていると今にも動き出しそうな感じがする。高村光雲の子息は、詩人にして彫刻家の高村光太郎、彫金家の高村豊周である。お二方とも、小生の家の近くの駒込林町に住んでいた。豊周氏は何回かお見かけしたことがある。高村邸の隣が宮本百合子・顕治夫妻の家であり。すぐ近くが安田財閥の一族の人の家であった。小生の家は林町の屋敷町から大給坂という坂を下った駒込坂下町という庶民の町であった。わが家は煙草屋を営んでいたので、宮本百合子が煙草を買いに来たと母は話していたのを思い出す。

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千駄木庵日乗十一月九日

午前は、諸事。

午後は、上野公園の東京藝術大学美術館にて開催中の『東京藝術大学創立一三〇周年記念特別展 皇室の彩(いろどり)百年前のプロジェクト』展参観。

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会場前の看板

夕刻、谷中にて地元の友人と懇談。

帰宅後は、原稿執筆など。

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2017年11月 9日 (木)

今朝思ったこと

テレ朝・朝日新聞などの偏向メディアは、稲田朋美さんのことはさんざん攻撃したが、山尾志桜里の不倫疑惑そして不倫相手とされる男を顧問にしたことは全くと言っていいほど攻撃しない。おかしな話だ。山尾志桜里という人もなんとも図々しい女性である。彼女の顔がテレビ画面に出て来ると虫唾が走る。

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北朝鮮との関係について共産支那の学者が次のようなことを言っていました

先日行われたシンポジウムで、共産支那の学者が次のようなことを言っていた。

              〇

中国と北朝鮮はすでに同盟関係ではない。潜在的敵対関係である。中国の改革開放で、中朝関係は大きな変化が起こった。金正日が二〇〇〇年に中国東北地方(満州)に来た時に「視察に来た」と言った。「訪問」と言うべきだった。金正日は江沢民に「うちのお父さん(金日成)は、東北は私たちのものだと言っていた。毛沢東もそう言っていたとお父さんは言っていた」と言った。周恩来は北朝鮮に「私たちの祖先はあなたたちをいじめた。謝罪する」と言った。金日成は東北(満州)で訓練を受けた。毛周死去の後、中国の指導者の北朝鮮への考えは変わった」。

 

「北朝鮮は中ソ対立を巧みに利用して国益を確保した。今は、米中対立を巧みに利用して外交空間を確保している。北朝鮮は、中韓国交正常化で中国に裏切られたと思った。北朝鮮は中国の核の傘に入っていないと思うようになり、それが核保有の理由になった」。

 

「北朝鮮の外相が『核兵器はアメリカではなく中国を攻撃するためのもの』と言ったことがある」。

             〇

額面通りには受け取れないにしてもとても興味深い話であった。支那と北朝鮮がかつてのような友好関係にあるわけではないことは確かである。共産支那は、鴨緑江まで米韓両軍が来るのが嫌なのと、北朝鮮崩壊で数多くの難民が満州に押し寄せるのが嫌なだけであろう。

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2017年11月 8日 (水)

千駄木庵日乗十一月八日

午前は、諸事。

午後は、今夜行う『萬葉集』の準備。書状執筆。

午後六時半より、駒込地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。小生が、山部赤人の歌を講義。終了後、出席者と懇談。

帰宅後は、書状執筆、原稿執筆。

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今朝思ったこと

元売春婦を国賓に会わせる國はそれほど多くはあるまい。

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私が「赤尾由美さんを励ます会」で話したこと

小生は「赤尾由美さんを励ます会」で次のようなことを話しました。

 

「戦後、『愛国』という言葉はタブー視されて来ました。そうした中で赤尾由美さんの叔父であられる赤尾敏先生は、『大日本愛国党』の総裁として果敢に戦われました。『愛国』という言葉はまさに赤尾敏先生によって戦後日本に於いて生き続けてきたと言っても過言ではありません。

 

私は団塊の世代として日教組の偏向教育を受けましたか、家庭では自衛官であった父そして母の教育で、皇室を敬う心、国を愛する心を培う事が出来ました。そして十代では、町中に愛国党のビラが貼られており、政治思想は赤尾敏先生の影響を受けました。また受験勉強では旺文社の赤尾好夫氏の影響も受けました。このお二人の『赤尾氏』は小生の青春時代において大きな影響を受けた方であります。

 

赤尾敏先生の血筋血統を継いでおられる赤尾由美さんがこうして活躍なさっていることは大変素晴らしいことです。今日、女性の政治家が増えています。昔『愛国婦人会』というのはありましたが、辻元清美・土井たか子、何とかシオリとか言う人たちはまさに『亡国婦人会』であります。

 

リベラルだ、民主主義だ、平和だと叫ぶ連中がいますが、真の『自由』『民主政治』『平和』は『国を愛する心』即ち『愛国心』が基本となって成立するのです。赤尾由美さまは、真の『愛国婦人』として今後一層のご奮闘をされることを心より念願します」。

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千駄木庵日乗十一月七日

午前は、諸事。

 

午後二時半より、虎ノ門の笹川平和財団ビルにて、『笹川日中友好基金主催 講演会 日中有識者対話・北朝鮮の核危機と北東アジア情勢の行方』開催。沈志華氏(華東師範大学歴史学部教授、冷戦国際史研究センター主任、周辺国家研究院院長)、周永生氏(外交学院国際関係研究所教授)、牛軍氏(北京大学国際関係学院教授)、李丹慧氏(華東師範大学冷戦国際史研究センター研究員)、周志興氏(米中新視角基金会長)、平岩俊司氏(南山大学総合政策学部教授)、高原明生氏(東京大学大学院法学政治学研究科教授、公共政策大学院副院長、東京財団上級研究員)、渡部恒雄氏(公益財団法人笹川平和財団上席研究員)、小泉悠氏(公益財団法人未来工学研究所特別研究員)が講演。

 

午後六時半より、春日の文京シビックセンタースカイホールにて、『赤尾由美さんを励ます会』開催。佐藤和夫氏が司会および主催者挨拶。杉田水脈衆議院議員、藤岡信勝氏、中野正志参議院議員、阿羅健一氏、土屋敬之氏、藤井厳喜氏、そして小生などがスピーチ。最後に赤尾由美さんが挨拶して終了した。多くの同志友人にお会いした。

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赤尾由美さんと司会を務める佐藤和夫氏

帰宅後は、原稿執筆。

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2017年11月 7日 (火)

今日思ったこと

トランプ米大統領は、わが国に米国製防衛装備品の「大量購入」を要求した。であるならば、わが国は米国に対し「米国製核兵器を大量に格安で購入したい」と言ったらいい。米国は拒否するだろう。

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近世國學思想について

 

十九世紀後半当時の世界情勢を見ると、東アジアは、西洋列強・白色人種による侵略支配下にあった。そしてそれに抗して、アジア各地において民族独立運動・植民地化への抵抗運動が起こっていた。そうした状況下にあって、アジア諸地域において、民族の覚醒を促す思想運動が起こっていた。

 

 日本も勿論その例外ではなく、日本の国の歴史を探求し、日本独自の思想・信仰を進化させんとする運動が起こった。それが近世国学運動の思想である。

 

 国学運動は決して偏狭な排外主義や、単なる時間的過去への郷愁の思想ではなく、世界情勢に対してかなり積極的に目を開き、それに呼応した運動であった。

 

 キリスト教や、欧米の歴史や現状についてもかなり詳しく研究し、海外の政治情勢についても情報収集につとめたうえでの学問であり思想運動であった。

 

 国学運動の底流にあったのは、日本をこのままにしておいたら、先人たちや祖先に対して申しわけない、相済まないといふ悲憤慷慨の思いであった。危機的状況を迎えんとしてゐた日本に対して、このままではいけない、何とかしなければならないといふ精神が国学運動を起こしたのである。国学は幕末期の日本に対する悲憤慷慨の学問と言ってもいい。

 

 そしてさういふ思ひは、次に挙げる国学者たちの歌に表れてゐる。

 

 最も早い時期の国学者であり、国学の始祖といわれる荷田春滿(京都の人。古典・故実・国史・歌道の研究者)は、

 

ふみわけよ 大和にはあらぬ 唐鳥の 跡を見るのみ 人の道かは 

 

 「よく道を踏みわきまえて間違わないようにせよ。日本ではない唐(支那)の鳥の足跡のみを見つめて歩くのが、日本人たるものの道ではないぞ」というほどの意。唐鳥の跡とは、漢籍・漢字のこと。

 

 八代将軍・徳川吉宗は、各国の古書を集めたが、その真偽玉石の鑑定を春滿依頼した。その徳川将軍家の学問は儒教であった。林羅山・中江藤樹・荻生徂徠・新井白石・伊藤仁齋等々江戸時代の中期までの学者の殆どは儒教・漢学の系統であった。そうしたことを悲憤慷慨して詠んだ歌がこの春滿の歌である。

 

 また、鹿持雅澄(幕末土佐の国学者・萬葉集を中心として古典を研究。『萬葉集古義』の著者)は、

 

神國の 道ふみそけて 横さらふ いづくにいたる 汝が名のらさね

 

 と詠んでいる。「わが神国の正しき道を踏みそらして、蟹のように横這いの道を歩む者共よ、お前の名は何と言うのか、名乗ってみろ」というほどの意。雅澄は日本の伝統思想に目もくれず外来の蘭学に現を抜かしいる者たちに対して憤慨しているのである。日本伝統精神に対する雅澄の態度精神を昂然と歌い上げている。

 

 この歌が歌われた時期は蘭学が盛んになり、日本に英船米艦露艦がしばしば渡来した。春滿は儒教と仏教、雅澄は蘭学に対して批判的態度を示しているのである。

 

 さらに雅澄は、ペリー来航を憂いて、安政元年(一八五四)正月、六十四歳の時に、

 

神風に 息吹きやらはれ しづきつつ 後悔いむかも おぞの亞米利加

 

 と詠んでいる。「神風に吹きやられ、海底に沈められた後に、後悔するのであろう。愚かなアメリカは」というほどの意。この憂国の至情と気概が、彼の学問の奥底にあったのだ。

 

 さらに、橘曙覽(福井の人。国学者にして萬葉調の歌人)は、

 

湊川 御墓の文字は 知らぬ子も 膝をりふせて 嗚呼といふめり

 

 と詠んだ。「湊川の『嗚呼忠臣楠子之墓』の文字は、文字を知らない子も墓前に屈んで『ああ』と口に出して言うごとく見える」というほどの意。児童子供といえども、楠公の忠義と墓碑の意義を知らぬ者無しということを歌っているのである。

 

幕末の尊皇愛国の精神そして明治維新の精神は、楠公の忠義・七世報国の精神を継承したものであることがこの歌によってわかるのである。

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千駄木庵日乗十一月六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、明後日開かれる『萬葉古代史研究会』における講義の準備など。

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2017年11月 6日 (月)

「大和心」を興起しなければならない

偏狭なナショナリズムは良くないとか、健全なナショナリズムは良いとかいう議論があります。一体、偏狭とはどういう事なのか、健全とはどういう事なのかはっきりしません。ナショナリズムとは、「ある民族ある国家が他国他民族から圧迫を受けた時にそれに抵抗する精神及び行動」と定義されると思います。

 

わが日本は今日まさに支那および朝鮮半島から外交的・軍事的圧迫を受けています。これを跳ね除けるために国民が一致団結して事にあたるのは、偏狭では決してありません。当然のことであります。独立国家として健全なあり方であります。

 

ナショナリズムとは、国語で言えば愛国主義・民族主義という事になるのでしょうが、戦後日本は余りにも愛国主義・民族主義を忘れ果ててきたのではないでしょうか。やまとごころ・やまとだましいの復興こそが今最も大切であると思います。やまとごころは決して偏狭にして独善的な精神ではありません。

 

日本は今日、文字通り有史以来未曾有の危機にあると思います。今こそ日本國民全体がナショナリズム・愛國心を発揮して國難に当たるべき時であります。

 

「しきしまの 大和心を 人問はば 蒙古のつかひ 斬りし時宗」

 

これは村田清風の歌です。村田清風は長州の人。文化五年(一八〇八)二十六歳にして藩主・毛利齋房の近習になる。藩の制度改革・財政確立・士風作興に功績があり、國學明倫館を建て、江戸藩邸に有備館を建て、學問を振興させました。安政二年(一八五五)に七十三歳で病没しました。

 

本居宣長の

 

「しきしまの 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山ざくら花」

 

を本歌取りした歌であります。北條時宗が弘安二年わが國に朝貢(日本が貢ぎ物を差し出して元の属國になること)を求めて来た元の使者を博多で斬りました。この時宗の行為を大和心の典型であるとして讃えた歌です。

 

今こそ、われわれ日本民族は、こうした戦闘的「大和心」を興起せしめねばならないと思います。これは偏狭でもなんでもない。国民として当たり前の姿勢です。

 

外患の危機を乗り越えるには、唐新羅侵攻の危機・元寇・明治維新の危機を乗り切った我が國の歴史に学ぶことが大切であると考えます。

 

 

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千駄木庵日乗十一月五日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、原稿執筆。

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2017年11月 5日 (日)

今日における『脱亜論』及び『大アジア主義』

 

近代日本の歴史は「脱亜論」と「アジア主義」が交錯した歴史だったという説がある。

 

「脱亜論」とは、新聞『時事新報』に明治十八年三月十六日に福沢諭吉が書いた掲載された無署名の社説である。この論文は、「東アジアの悪友である清国と朝鮮国とは、隣国という理由で特別な関係を持つのではなく欧米諸国と同じような付き合いかたにして、日本は独自に近代化を進めて行くことが望ましいと結論し、「我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と書かれている。明治日本は、変革の意志なく、「旧来の陋習」に固執する支那や韓国との関係は「謝絶」して、欧米との結びつきを強めるべきだという思想である。

 

「アジア主義」とは、欧米列強のアジア侵略植民地支配を打破するために、アジア諸国・諸民族が連帯し、アジアを解放しようという思想である。一口で言へば、『大西郷遺訓』に「文明とは道の普(あまね)く行はるるを言へるものにして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず。世人の西洋を評する所を聞くに、何を文明と言ひ、何を野蛮と言ふや、少しも了解するを得ず。真に文明ならば、未開の国に対しは、慈愛を本とし、懇懇説諭して開明に導く可きに、然らずして残忍酷薄を事とし、己れを利するは野蛮なりと言ふべし」といふ思想である。

 

今日において、この二つの思想と言うか考え方をどう学ぶべきか。わが国は、日清・日露戦争は勝利し、第一次大戦では戦勝国になった。その後、アジアでの影響力を強め、貢献もしたが、大東亜戦争で敗北した。今日及び今後の日本を考えるうえで、この近代日本の対外関係史から学ぶべきことは何であろうか。

 

今日唯今においては、結論して言えば、この二つの思想を融合させるべきなのである。即ち、今日アジアを侵略し支配せんとしている國は共産支那である。そして韓国はその属国に成り果てようとしている。かかる「亜細亜東方の悪友を謝絶する」べきである。そして、他のアジア諸国およびアメリカと同盟関係を深めて、「中華帝国主義」のアジア侵略の野望を打ち砕くべきである。これが今日における「脱亜論」と言うよりも「脱支那論」である。

 

今日のおける「大アジア主義」は、「残忍酷薄を事とし、己れを利する」のみの共産支那のアジア侵略植民地支配を打破するために、アジア諸国・諸民族が連帯し、アジアを「中華帝国主義」の桎梏下から解放せんしする思想である。アジア情勢は危機に瀕している。わが国は、自国の力を強めると共に、アメリカやアジア諸国・太平洋諸国との連帯を深めて、「中華帝国主義」に対処すべきである。「集団的自衛権行使容認」「日米安保体制強化」はその第一歩である。そして「自主防衛体制」確立に進むべきである。

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千駄木庵日乗十一月四日

午前は、諸事。

午後は、資料の整理。

午後四時より、池之端の東天紅にて、『青年思想研究会・亡き先憂を偲ぶ会』開催。国民儀礼の後、緒方孝名議長が挨拶。阿形充規・犬塚博英そして小生らが挨拶。蜷川正大氏の音頭で乾杯。盛宴に移った。

帰宅後は、資料の整理・原稿執筆など。

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2017年11月 4日 (土)

今こそ尊皇攘夷の精神を興起せしめるべし

戦後、わが國は、「ナショナリズム・愛國心」といふ言葉は「対外侵略戦争に結びつく」として封印されて来た。しかし、表面的には封印されてゐたとしても、日本民族のナショナリズム・愛國心は戦後六十年間、枯渇することなく脈脈と傳へられてきた。自國を愛する心が絶えてなくなってしまふなどといふことはあり得ない。

 

ナショナリズムとは、外國からの圧力・干渉を排して國家の独立を維持する思想および運動である。それは、運命共同體意識と言ひ換へても良い。これは、國家民族の危機の時に澎湃として沸き起こってくる自然な感情である。

 

ナショナリズムは、歴史意識・傳統信仰と深く結びついてゐる。國家的危機に際會した時、それを撥ね退けんとしてその國民がその國の歴史意識・傳統精神を根底に置いて運命共同體意識を結集し、勃興する精神と行動がナショナリズムである。

 

幕末期に起ったナショナリズムは、古代・中古・中世・近世を通じて継承されてきた日本傳統精神を継承し根底に置いたものであった。

 

「尊皇攘夷」といふ言葉は、幕末期に起った日本ナショナリズムを端的に且つ正しく言ひ表してゐる。「尊皇攘夷」といふ言葉の起源は、北狄や南蛮の侵略にあった古代支那(周の末期)の都市國家群・支那民族が、危機を乗り越えやうとした時の旗幟である。

 

わが國の幕末期における「攘夷精神」とは、西欧列強といふ侵略者、異質の文化に直面した日本國民の國民的自覚と祖國防衛・独立維持の情念の噴出であり結集である。そしてそれは「日本は天皇を中心とした神の國である」といふ國體観に立脚してゐた。だから「尊皇攘夷」と言った。

 

日本國の長い歴史の中で、「神國思想」「尊皇攘夷」の精神は静かに脈々と継承され生き続けて来た。それが國難・外圧・内憂などの國家的危機に際會すると激しく表面に噴出した。

 

わが國における「尊皇攘夷」の精神は幕末期において初めて勃興したのではない。白村江の戦ひ、元寇、そして幕末といふ三度にわたる外患の時期において勃興した。

 

わが國における攘夷とは、時代を無視した頑なな排外思想ではない。また日本のナショナリズムとは決して回顧的なものではない。将来へ向けて日本民族が独立を維持するための精神である。

 

吉田松陰をはじめ多くの維新の先人たちは、世界の状況・時代の趨勢を正しく把握しやうとした。松陰は敵たるアメリカを認識せんとしてアメリカ渡航を実行しやうとした。吉田松陰が安政三年三月二十七日夜、金子重輔と一緒に下田来泊のペリーの米艦にて米國に渡航せんとしたのは、攘夷とは排外・鎖國を専らとするのではなく、日本が外國の支配下に入ることを拒み、独立を維持するために、外國の進歩した文物を學ぶことを要するといふ開明的な考へ方に基づくものであった。維新後の開國政策の下地はこの頃からあった。

 

わが國が、西欧列強の侵略・植民地支配を受けることなく近代化を遂げ発展し得たのは、「尊皇攘夷」を基本思想とした明治維新といふまさに「有史以来未曾有の大変革」を行ったからである。

 

そしてそれが成功した根本的原因は、わが國は肇國以来、天皇を神聖君主と仰ぐ國體観・國家観が確立されてゐたからである。古来、わが國が外國文化・文明を柔軟に包摂して来たのは、日本民族の根底に強靭なる傳統信仰があったからである。

 

今日わが國は、國難に際会している。それは明治維新前夜よりも深刻な状況である。これを克服するためには、日本民族としての主體性・帰属意識を回復する以外に無い。今こそナショナリズムが勃興すべき時である。日本民族の歴史意識・傳統精神を國民一人一人の精神の中で甦らせるべきである。

 

わが國の歴史を回顧すると、國家的危機の時こそ、尊皇精神・愛國心が勃興し、その危機を乗り切ってきた。白村江の戦ひに敗れ、唐新羅連合軍のわが國への侵攻の危機に見舞はれた前後に、天皇中心の國家體制を明徴する変革が行われた。壬申の乱の後に、皇室祭祀および伊勢の神宮祭祀の制度が確立し『記紀』及び『萬葉集』が編纂され天皇中心の國家思想が正しく確立された。元寇の時には、それこそ全國民的に神國思想が勃興し國難を乗り切った。幕末の外患の危機に際しては、「尊皇攘夷」をスローガンとする明治維新が断行され、日本の独立を維持し近代國家として出発した。

 

日本ナショナリズムの基礎となるものは、天皇中心の國體を護持する精神である。今こそ天皇を中心とした國家の回復を目指す維新運動を繰り広げねばならない。今日の日本の危機的状況も、ナショナリズムの興起・日本傳統精神の復興により必ず打開し乗り切ることができると確信する。尊皇精神無き攘夷はあり得ないしあってはならない。

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千駄木庵日乗十一月三日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、郵便物・資料の整理、原稿執筆など。

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2017年11月 2日 (木)

本日聞いたとても印象に残った話

 

本日聞いた大変印象に残った話を記します。

 

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地域における神社の大切を認識しなければならない。日本らしさ・地域らしさを支えているのは神社。

 

 

 

日本人のライフスタイル・文化が神道。天照大神が女性であるのは素晴らしい。私たちはみんな女性のお蔭で生まれている。女性がいなければ私たちは生まれない。

 

 

 

古いものと新しいものとが同居しているところに日本の良さがある。神社は歴史を再発見し、未来につなげる働きをする。

 

 

 

二十年後には、現在ある神社の四〇パーセントは消える。少子高齢化。過疎化で氏子がいなくなる。全国に神職は二萬二千人いる。僧侶は三十萬人いる。神職の七割が兼業。農業・教員・役人をしている。神社は滅びゆかんとしている。

 

 

 

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神社が二十年後には四〇%無くなるという話には驚いた。東京にいて、大きな神社ばかりを参拝していると、とてもそんな実感は湧かないが、たしかに地方の神社は存亡の危機にあるのかもしれない。二十年ほど昔、父の故郷徳島の阿波神社に父と共に参拝した時、神職はいなかった。土御門上皇が御祭神であられるので、とてもさみしい気がした。第八十三代・土御門天皇は、後鳥羽天皇の第一皇子。承久の変の後、御自らの御意思で土佐の国にお遷りになり、その後、阿波の国にお遷りになり、阿波の國で崩御された。

 

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千駄木庵日乗十一月二日

朝は、諸事。

 

午前十一時より、永田町にて、上杉隆氏にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

 

午後は、神田にて、若き同志(ある市の市議会議員。父上が小生より年下であるので、若き同志と書きました)と懇談。意見交換。

 

午後七時より、久しぶりに、千代田区富士見の東京大神宮に参拝。東京大神宮松屋サロンにて、『一般社団法人 日本人らしさ・地域らしさ研究所設立記念祝賀会』開催。来賓祝辞、山村明義代表理事の挨拶の後、加瀬英明氏の音頭で乾杯。盛宴に移った。

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乾杯の音頭をとる加瀬英明氏

帰宅後は、原稿執筆。

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今日思ったこと

「セクハラ民主党」という名前に変えた方が良い政党ができたと思っていたら、「猥褻行為・セクハラ」の「二党物語」が始まっています。

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國體破壊を目指す日本共産党

 

日本共産党の「綱領」には、「(「天皇制」は)憲法上の制度であり、存廃は将来、情勢が熟した時に国民の総意によって解決される」と書かれている。つまり、「天皇制は窮極的には廃止したいのだが、今は情勢が熟していないので、共産党が権力を握るまでは廃止しない」「天皇制廃止論が多数になれば憲法を改正して天皇制を廃止する」という事である。日本共産党が権力を掌握したら、日本國體は破壊されるのである。それは「綱領」の『前文』に「党は、一人の個人あるいは一つの家族が『国民統合』の象徴になるという現制度は、民主主義及び人間平等の原則と両立するものではなく…民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ」と明記されていることによっても明らかである。

 

「天皇制廃止」を目指す日本共産党は、日本國體破壊せんとする政党であり、国民の自由と繁栄を奪う政党である。共産党は「国民が主人公の政治を実現する」などと宣伝している。しかし、共産主義革命によって君主制が打倒された国々は、民主主義も人間平等もまったく実現していない。それどころか、独裁専制政治による差別虐待の体制になっている。共産支那や北朝鮮の実態を見ればそれはあまりにも明らかである。この事実を見れば、共産党の主張は全く誤りであることは明白である。共産主義国家とは、共産党の独裁者が主人公になり、国民は永遠に虐げられる社会であることは、歴史と現実が証明している。

 

日本共産党のみならず、これまで世界中の共産党および共産主義政治組織は、「君主制は資本主義体制の背骨である」としてこれを打倒することを目標としてきた。それは、ロシア革命においてロマノフ王朝を打倒し、皇帝一族を惨殺して以来の恐ろしき体質である。

 

しかし、共産主義革命が行なわれ、君主制が廃止された国では、君主制以上の独裁専制政治が行なわれた。ロシアでは共産革命の後、レーニン、スターリン、フルシチョフ、ブレジネフという党最高指導者による独裁専制政治が行なわれた。

 

支那も、辛亥革命で清朝は打倒されたが、共産革命の後、毛沢東・鄧小平・江沢民・習近平による独裁専制政治が行なわれてきている。

 

ロシアや支那の君主制と、わが国の「天皇中心の國體」とは、全くその本質を異にしており、同列に論じることは出来ない。しかし、ロシアと支那は君主制打倒の後、党独裁の専制政治が行なわれたことは歴史的事実である。

 

北朝鮮は文字通り、「金日成王朝」と言われているように、金日成・金正日・金正恩の三代にわたる残酷・凶暴なる専制政治が行なわれている。北朝鮮は「朝鮮民主主義人民共和国」などという長ったらしい国名を付けているが、決して「人民が主人公の民主主義国家」ではなく、金正恩一族のみが専横を極め金一族を批判する国民は迫害され粛清される国である。また、金一族を批判しなくとも国民が栄養失調で死んで行く国なのだ。

 

共産主義体制とは、プロレタリア独裁=共産党独裁=党最高指導者専制という政治である。『君主制度の国は民主的でなく国民の自由は奪われ、国民が差別されるが、共産主義国家は民主的であり国民平等の社会が実現する』というのはまったく大ウソである。共産主義体制の国こそ、国民の自由と繁栄は奪われ、共産党幹部以外の国民は差別され虐げられる反民主的な専制国家なのだ。

 

もしわが国において戦争直後、共産革命が成功していたらどうなっていたか。徳田球一が独裁者となり、共産党による専制政治が行なわれ、悲惨な国となっていたであろう。そしてその後、徳田と野坂参三と宮本顕治による凄惨な権力闘争が繰り広げられ、数多くの人々が粛清され、殺され、収容所に送られたであろう。そればかりではなく、そうした権力闘争に旧ソ連や共産支那や北朝鮮が介入し、内乱となり、日本国の独立すら失われた可能性もある。ともかく、今日の日本のような自由民主体制と繁栄は実現しなかったことは火を見るよりも明らかである。

 

『気を付けよう、甘い言葉と暗い道』という標語があるが、共産主義者の「平和」「戦争反対」「民主主義」などという甘い言葉に騙されると、文字通り「暗い道」「悲惨な道」を歩むことになるのである。

 

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千駄木庵日乗十月一日

午前は、諸事。

 

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

 

午後五時より、虎ノ門の笹川平和財団ビルにて、笹川平和財団主催セミナー『独裁主義体制の挑戦:中国、ロシアとリベラルな国際秩序への脅威』開催。アーロン・フリードバーグ氏(プリンストン大学ウッドロー・ウィルソン・スクール教授)が講演。質疑応答。

 

帰宅後は、原稿執筆など。

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