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2017年10月30日 (月)

舎人皇子の「ますらをふり」の戀歌

 

舎人皇子の御歌

                            

ますらをや 片戀せむと 嘆けども 醜(しこ)のますらを なほ戀にけり

 

舎人皇子が舎人娘子に贈った「ますらをぶり」の戀歌。舎人皇子は、天武天皇第三皇子。天武天皇四年(六七六)~天平七年(七三五)。第四七代・淳仁天皇の父君。勅を奉じて『日本書紀』を選進した責任者であられる。薨去後、太政大臣を贈られた。舎人娘子は、伝未詳。

 

【ますらをや片戀せむ】ヤは反語(本来の意味とは反対の意味を含ませる表現法。多くは疑問の形で、例へば「これが嘆かずにいられるか」のやうに表す)。「堂々たる日本男児たるもの片思ひなどするものか」といふ意。自嘲的響きもある。「醜のますらを」は自己嫌悪感を表現してゐる。自分の不甲斐なさを嘆くと共に、戀心を表白してゐる。

 

 通釈は、「堂々たる日本男児たる者片戀などするものかと嘆いても、みっともない男児である私はやはり戀してしまふ」といふほどの意。

 

 日本男児たる者、常に國家を心に置き、大君に仕へ奉るべきだとするのが、この時代の男性の心意気であった。それなのに一人の女性に戀々とする自分自身を恥じて「醜の」と詠んだ。

 

 また、日本男児の戀は、女性から愛されて結ばれるのがあるべきなのだが、戀の相手がなかなか私のことを思ってくれないみっともない私はさうはいかない、といふ自嘲的な気持も込められてゐる。

 

 ただし、この歌は相手の女性に贈った歌であるから、本心から自分のことを「不甲斐ない奴」と思ってゐたわけではないし、自分の戀を嘆いてゐるわけでもない。また「醜」とは現代語の醜いとはやや違った意味であって、「かたくなに」「強い」といふ意味もある。防人の歌に「今日よりはかへりみなくて大君の醜(しこ)の御楯と出で立つ吾は」(今日以後他の一切を顧慮することなく、卑しき身ながら大君の御楯となって出発します。私は)といふ歌がある。

 

 この歌はもちろん相手の女性(舎人娘子)に訴へかけた戀歌であるが、「片戀」といふ言葉以外に直接的に相手に訴へかける言葉はない。しかし、それだけにこの歌を受け取る女性にとっては、「これほどまでに私のことを戀ひ慕って下さるのか」といふ心を起こさせる歌である。またそれを期待して詠んだ歌であるとも言へる。

 

 『萬葉集』とは「ますらをぶり」の歌集であると、近世(江戸中期)國學者の賀茂真淵が主張した。「ますらをぶり」とは、「男らしく」「日本男児らしく」といふほどの意で、「男性的で大らかな歌風」のことをいふ。さらに、『古今和歌集』は以後の歌風を「たをやめぶり」(女性的で優雅な歌風)と言った。『萬葉集』の「ますらをぶり」の歌とは、この舎人皇子の御歌や防人の歌などがその典型である。

 

 そして、真淵は「ますらをぶり」とは大和の國を都とした時代(白鳳・天平時代)即ち萬葉時代の歌風であり、「たをやめぶり」は京都の文化であるとした。しかし、『萬葉集』を「ますらをぶり」だけの歌集だとすることはできない。大伴家持の歌などにはむしろ平安朝の歌風に近い歌も数多くある。

 

 それはともかく、賀茂真淵は、和歌は「すめらみくにの上つ世の姿」、つまり萬葉時代に帰らなければならないと主張した。「ますらをぶり」の精神風土を尊重しなければいけないとした。それは平安時代以来続いた「たをやめぶり」への反発であった。

 

 真淵は現在の静岡県出身であり、東國の人であった。そして、徳川吉宗の子の田安宗武の和歌の師であったので、武家の美學を昂揚させようとして、「ますらをぶり」「萬葉ぶり」の復活を唱へたと思はれる。

 

 しかし、賀茂真淵の弟子の本居宣長は、『源氏物語』を高く評価し、「たをやめぶり」も日本の文化の大切な流れであるとした。

 

 武士が政権を壟断するやうになると、儒教の影響からか、武士たるもの、戀愛を文學にしてはならないといふやうな風潮が生まれた。語ってもいけないといはれた。「男女の愛」を文や歌に表現することは武士のやることではないとされるやうになった。

 

 しかし、神話時代や古代日本においては、武士の元祖のやうな方であられる須佐之男命や日本武尊は、戦ひの歌・「ますらをぶり」の歌と共に、戀愛の歌を大いに歌はれた。天智天皇・天武天皇そして藤原鎌足も戀歌を歌った。

 

 わが國のますらをは大いに戀愛をし、戀を歌った。須佐之男命が妻を娶られた時の喜びの歌である「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」(多くの雲が湧く。出で立つ雲の幾重もの垣。妻ぐるみ中に籠めるやうに幾重もの垣を作る。ああその八重垣よ、といふほどの意)は、和歌の発祥とされてゐる。

 

 古事記・萬葉の世界では、「武」「歌」「戀」の三つは一体なのである。わが國文學は戀愛が大きな位置を占める。男女の愛情を尊んだ。『萬葉集』の戀愛歌・相聞歌を見ればそれは明らかである。

 

舎人娘子、和へ奉れる歌

 

歎きつつ ますらをのこの 戀ふれこそ わが結()ふ髪の 漬()ぢてぬれけれ

 

 舎人娘子が舎人皇子に答へ奉った歌。皇子の名の「舎人」は乳母の氏の名であらうと見られるので、舎人娘子は舎人皇子の乳母兄弟であらうといふ説がある。

 【歎きつつ】嘆き続けて。【ますらをのこ】「ますらを」に「をのこ」を付けた言葉。【戀ふれこそ】「戀ふればこそ」。【漬ぢてぬれけれ】「ヒツ」は「水に漬かったやうにびしょり濡れる」。「ヌル」は「ひとりでにゆるんで解ける」。上の句は下の句の原因を歌ってゐる。

 

 通釈は、「嘆き続け、ますらをのあなたが戀をするからこそ、私の結った髪が濡れてほどけたのですね」といふほどの意。

 

 古代には「結んだ紐や結った髪がひとりでに解けるのは、誰かに戀されてゐるしるしだ」といふ民間信仰があった。

 

 この二首はお互ひの気持ちを十分に了解し合った中における贈答歌。しかし離れて住んでゐたので、舎人皇子は愛の切なさを「片戀」といふ言葉で表現したのであらう。

 

 娘子は、皇子の力強い愛の表白に満足し幸福感にひたってこの歌を返した。押さへがたい男女の愛を豊かに表現してゐる。しかし、軽薄に流れてはゐない。

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