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2017年10月14日 (土)

橋下富太郎麗澤大学助教による「新渡戸稲造における武士道」と題する講演内容

七月一日に開催された日本学協会主催『日本学講座』における橋下富太郎麗澤大学助教による「新渡戸稲造における武士道」と題する講演内容は次の通り。

 

「麗澤大学は道徳と國體を基軸に置く大学なので、国際的に活躍する人間は日本のことをよく学ぶべきであるという方針である。私たちのルーツを骨身に沁み込ませたいという学生が増えて来ている。

 

新渡戸稲造先生の知名度は実績に比べると低い。人物・実績の背景には家の伝統・祖先が必ずある。新渡戸稲造の祖父・伝(つとう)は七戸藩家老。開拓事業に人生を捧げる。父・十次郎も開拓事業に従事。藩の勘定奉行。晩年蟄居。十次郎は父・伝より先に亡くなった。新渡戸稲造は十次郎の三男として文久二年(一八六二)生まれた。戊辰戦争で東軍となり敗北。降伏した時に屈辱感をおぼえた。立身出世しなければならないというモチベーションはこの屈辱感にあった。

 

明治四年(一八七一)稲造は叔父・大田時敏の養子となり上京。家名を挽回したいという思いに駆られていた。明治六年東京外国語学校に入学。同十年に故郷より遠い札幌農学校に入学。十一年に受洗。十六年に東京大学に入学。外山正一教授に『太平洋の橋になりたいと思います』『日本の思想を外国に伝え、外国の思想に日本に普及する媒酌になりたいのです』(『帰雁の蘆』)と表明した。十六年、大田時敏など家族の援助で渡米し、ジョンズ・ホプキンス大学に留学。クエーカーと出会う。二十四年メアリー・エルキントンと結婚。帰国して札幌農学校教授。三十三年(一九〇〇)『武士道』(英文)刊行。三十四年台湾総督府技師・殖産課長。三十六年京都帝国大学教授。三十九年から大正二年まで第一高等学校校長。四十二年から東京帝国大学教授。大正七年(一九一三)東京女子大学初代校長。大正八年国際連盟事務局次長就任のため渡欧。十五年に帰国後貴族院議員。

 

著書『武士道』は、明治天皇に献上している。『武士道』は限られた精神論ではなく、すそ野の広い内容を帯びている。『日本には道徳教育はない』と言われたことへのアンチテーゼとして書いた。『武士道』はある意味でバイブルである。創唱宗教にはバイブルが求められる。『古事記』『日本書紀』は教典として書かれたわけではない。『武士道』も然り。武士の目指した道徳を整理し分類して書かれている。一九〇〇年以前は辞書に『武士道」という言葉はない。この著書は『武士道』という言葉を一般化した。

 

人間としてのお手本が武士。戦闘する者としての武士の実用性・素養が大きく変化するのが江戸時代。為政者・行政官としての素養へと変った。それ以前の武士は勝てば良かった。必ずしも道徳的ではなかった。死に対する平安は『禅』によって得られている。しかし物足りないものがあった。忠君愛国としての国民道徳は神道によって得られ、仁は儒教によって得られた。『士は義の為に死ぬ』。死に値しないことの為に死ぬのは『犬死』。嘲笑の的となった。

 

新渡戸稲造こそ、日本及び天皇に対する忠義の士であった。愛国心が強ければ強いほど語学を学ばねばならなかった。発信する力を持たねばならない。新渡戸は『日本の武士道の跡を継ぐのはキリスト教である』と言っている。昭和六年、新渡戸稲造がジュネーヴでの国際聯盟事務局での七年の勤務を終えるに際し、或るイギリス人の友人の慫慂に応えて著した『日本-その問題と発展の諸局面』と題する英文の著述において、天皇について詳しく論じている。『天皇は国民統合の象徴』という言葉が出てくる。天皇の本質を表す言葉として『象徴』という言葉を使っている。GHQの関係者は当然この本を読んでいたであろう。

 

伊藤博文は『日本の基軸となるものは皇室あるのみ』と言った。日本人としてのあり方・道徳の指標は天皇・皇室である。新渡戸稲造の意思を継いでゆくべし。武士道を素養として身につけさせるには新渡戸の『武士道』を学ばせることが大事」。

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