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2017年10月27日 (金)

『紀尾井坂の変』=大久保利通斬殺事件について

 

明治維新の後、「維新の理想未だ成らず」との思ひで展開された戦ひを明治第二維新運動と言ふ。明治新政府は、欧米列強のアジア侵略植民地化を目のあたりにして、わが國の独立を維持し発展せしめるべく、「富国強兵」「殖産興業」「脱亜入欧」の政策を推し進めた。さらに、大久保利通を中心とした一部の人々の専制政治が行はれた。それはそれで止むを得ないことであり、全面的に否定はできない。しかし、維新日本において最も大切な事、即ち神代以来の日本の伝統への回帰・神武創業の精神の恢弘といふ大命題との大きな矛盾をもたらした。この矛盾を解決し、維新の理想をあくまでも貫徹せんとする運動が明治第二維新運動である。

 

その具体的な動きが、西南戦争・佐賀の乱をはじめとした各地の武装蜂起であり、明治七年(一八七四)一月十四日の赤坂喰違付近での高知県士族の武市熊吉らによる岩倉具視襲撃事件であり、明治十一年五月十四日の紀尾井坂における島田一良らによる大久保利通斬殺事件(紀尾井坂の変)である。

 

大久保利通は当時の最高権力者として「富国強兵」「殖産興業」「脱亜入欧」路線を強力に推し進めた。明治六年の政変から大久保の死に至る迄の数年間は、大久保を中心とした独裁政治と言って良かった。これを〈有司専制政治〉と言ふ。

 

大久保利通は、西郷隆盛・江藤新平・板垣退助らを下野せしめた後、三条実美・岩倉といふ公卿勢力を擁し、大隈重信・伊藤博文・黒田清隆・川路利良らを手足とし、欧米の文化・文明を取り入れた近代日本の建設に邁進し、これに抵抗する勢力をあらゆる手段を用いて排除した。特に川路利良=警察権力を使ひ卑劣な手段を用いた挑発行為・密偵政治は多くの人々の憎悪を招いた。

 

 大久保利通が第二維新運動の標的となったのは、直接的には大久保が西郷隆盛・江藤新平といった人々を卑劣な策略を用いて死地に追いやった後、専制的な寡頭政治を行なったことであらう。そして、大久保の政治(強権政治・欧化政策)が明治維新の理想を隠蔽する邪悪なものとされたからであらう。

 

 『大久保利通斬奸状』には次のやうに書かれてゐる。

「方今我皇国の現状を熟察するに、凡そ政令法度、上天皇陛下の聖旨に出るに非ず、下衆庶人の公議によるに非ず、独り要路官吏数人の臆断専決する所に在り。…今日要路官吏の行事を親視するに…狡詐貪婪上を蔑し下を虐し、遂に以て無前の國恥、千載の民害を致す者あり。今其罪状を条挙する左の如し。曰く、公議を杜絶し、民権を抑圧し、以て政事を私する。其罪一なり。…曰く慷慨忠節の士を疎斥し、憂国敵愾の徒を嫌疑し以て内乱を醸成する其罪四なり。…曰く外国交際の道を誤り以て国権を失墜するそれ罪五なり。公議は国是を定る所以、民権は国威を立る所以なり。今之を杜絶し之を抑圧するは則ち国家の興起を疎隔するなり。法令は国家の大典、人民の標準なり、今之を謾施しするは則ち上王網を蔑棄し、下民心を欺誣するなり、…勅令を矯め、国権を私し、王師を弄し、志士憂国者を目するに反賊を以てす。甚だしきに至りては陰謀密策を用ひて以て忠良節義の徒を害せんと欲す。…一良等今天意を奉じ民望に随ひ、利刃を揮ひて大姦利通を斃す、…前途政治を改正し、国家を興起するの事は、則ち天皇陛下の聖明闔国人衆の公議に在り。願くは明治一新の御誓文に基き八年四月の詔旨に由り、有司専制の弊害を改め、速かに民会を興し公議を取り、皇統の隆盛国家の永久、人民の安寧を致さば、一良等区々の微衷、以て貫徹するを得、死して而して瞑す…」

 

伝統を重んじつつ革新を志向する堂々たる名文である。もっともっと長文であり、大切な事が書かれているが、誌面の都合でごく一部しか書けないことを遺憾とする。これはいはれるやうな不平士族の時代錯誤思想ではない。当時のわが國の矛盾・正すべきところを厳しく指摘したすぐれた文章である。

 

閣議で一度決した西郷隆盛韓国派遣を、大久保及び岩倉具視が策略を用いて覆したことを批判してゐる。大久保と岩倉は、閣議決定といふ「公議」を無視し、陰謀を用いて西郷隆盛の対韓使節派遣を葬り去った。これは「万機公論に決すべし」との明治天皇の大御心に反する行為である。故にこの『斬奸状』において『五箇条の御誓文』に示された「広く会議を興し万機公論に決すべし」との国是、そして『五箇条の御誓文』に基づく『元老院・大審院設置、地方官召集の詔』を実現し奉れと論じたのである。さらに大久保及び川路利良が卑劣な手段で佐賀の乱、西南戦争を挑発したことを批判してゐるのである。

 

この斬奸状の主張は時代錯誤どころが先進的な思想である。しかも天皇を戴く国家の伝統を正しく継承してゐる。ここに書かれてゐる主張こそ、明治第二維新の思想である。明治維新の不徹底・未完成を正し、天皇中心の國體をより明らかにすることによって国民の権利を拡張し国家の独立と尊厳性を維持せんとする思想である。民権といはゆる国権は矛盾するものではないのである。

 

葦津珍彦氏はこの紀尾井坂の変の『斬奸状』の内容及び『玄洋社憲則第三条』に「人民の権利を固守すべし」とあることについて、「人民権利の主張と、純然たる国粋の精神とを直結した一つの典型として思想史上、注目すべき文書」と論じてゐる。(『大アジア主義と頭山満』)

 

さらに徳富蘇峰氏は、紀尾井坂の変について、「大久保の死に依る影響中、さらに大なるものは、これによって民権論者の擡頭を促進せしためることであった。…大久保去って後は、薩長何物ぞ、藩閥政治何物ぞ。かくのごとくして自由民権の運動は、今や積雪堅氷の下に圧せられたる草木が、一時に天日を迎ふるがごとく、生色を発揮し来たった。」(『明治三傑』)と論じてゐる。

 

なほ、島田一良ら六烈士を裁いたのは玉乃世履(たまのせいり・初代大審院院長)である。玉乃の墓所は島田一良らの墓所と同じく東京谷中墓地にある。玉乃は六烈士の一人・長連豪を「其人格の美なる晧晧たる秋月の如し、世は連豪の人格に心酔したり」と語ったといふ。

 

「紀尾井坂の変」のその前後の歴史は、今日の日本の混迷打開のために学ぶべき多くのことを語ってゐるやうに思へる。国家の根幹に関る問題をはじめ憲法問題・外交問題そして「変革と直接行動(テロ)」について、重要な示唆を与へてゐると考へる。

 

紀尾井坂の変の影響の最も大なるものは、自由民権運動、民選議会開設・憲法制定の動きの活発化である。紀尾井坂の変の直後、頭山満は土佐に板垣退助を訪問し、その決起を要請した。翌明治十二年、民権の主張は全国的に展開されるやうになり、大阪会議が開かれ、明治十四年には国会開設・憲法制定を公約せしめた。

 

明治維新前後の時代におけるテロの有効性は、桜田門外の変及びこの紀尾井坂の変によって明らかである。

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