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2017年10月29日 (日)

正統性のない「現行占領憲法」に立脚した「立憲主義」は國を危うくする

 

 

先日も書いたが、立憲民主党の「国民との約束」という文章には「アジア、そして世界の中で、国際協調にもとづく、日本の安全保障に関する基本姿勢を守ります。2015年に強行採決された違憲の安保法制の問題をうやむやにしたままに、理念なき憲法改正が叫ばれています。専守防衛を逸脱し、立憲主義を破壊する、安保法制を前提とした憲法9条の改悪とは、徹底的に闘います。現下の安全保障環境を鑑み、領域警備法の制定と憲法の枠内での周辺事態法の強化をめざします。基本的人権の尊重、立憲主義、民主主義といった原則は、決して揺るがしません」と書かれている。

 

今日わが國で施行されてゐる憲法がまっとうな憲法、正統性のある憲法なら「立憲主義」は肯定される。しかし、『現行占領憲法』は最初から正統性などなかった。『現行憲法』が『大日本帝國憲法』を改正したものだなどといふこと自體が欺瞞だからである。天皇の統治大権が占領軍の隷属の下にあった占領期間中の改憲は「摂政を置くの間之を変更することを得ず」といふ『帝國憲法』の条項に明確に違反してゐる。 『現行占領憲法』は、日本を永久に弱體化しておくために戦勝國=アメリカ占領軍が日本に押しつけた憲法である。

 

大変畏れ多いことであるが、「天皇及日本國政府ノ國家統治ノ権限ハ本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル聯合國最高司令官ノ制限ノ下(「subject to」)ニ置カルルモノトス」(バーンズ回答・正しくは「隷属ノ下」と訳されるべきといふのが定説である)とされてゐる時期の「天皇のご裁可」「天皇による公布」は、天皇陛下が自由に表明された御意志即ち「大御心」によるものとは異なると私は考へる。

 

『占領憲法』は、十七世紀、十八世紀の欧米の市民革命の基礎理論であった「社會契約論」に立脚してゐる。

 

中川剛氏は次のやうに論じてゐる。「日本國憲法が、一七・一八世紀の欧米の市民革命の理論的基礎となった社會契約論に立脚して起草された。…アメリカの独立宣言や連邦憲法が、当時の革命思想であった社會契約論によって起草されたため、占領軍総司令部の憲法案起草者にとっても、社會契約の考え方が基本枠組みとして採用され…憲法の基本原理についてさえ、傳統にも文化にも手がかりを求めることができず外國の理論に典拠を探さなくてはならないという恐るべき知的状況が出現するに至った」(『憲法を読む』)

 

國の生成・成り立ちが欧米とは全く異なり、市民革命も経験してゐないわが日本國に、西洋國家思想たる「社會契約論」を基礎にした憲法が押し付けられたのである。この一点を以てしても『現行占領憲法』に正統性がないことは明白である。

 

日本の國家観と西洋國家観とは根本的に異なる。日本國は、「数多くの個としての人間」が寄り集まって契約を締結して人為的・人工的に作った権力機構・契約國家(これを「國家法人説」と言ひ換へてもいいと思ふ)とはその本質が全く異なる。「國家法人説」を日本國に当て嵌めることはできない。

 

「國家法人説」とは、國家を法的な主體としての法人と考へる理論である。そして「法人」とは「自然人以外で法律上の権利義務の主體となることができるもの。一定の目的の下に結合した人の集団あるいは財産についてその資格が認められてゐる集団」とされてゐる。

 

つまり、國家は人間が集まって文字通り人為的に作られたといふのが西洋の國家観である。國家とは、社団法人や財団法人のやうに多くの人々が一定の目的のために契約を結び人為的に造られたものだといふのが「契約國家論」「國家法人説」なのである。

 

天皇中心の信仰共同體たる日本は断じてそのやうな國家ではない。日本といふ國家の本質は、権力者が國民を支配するための機関すなはち権力國家ではないし、日本國の君主たる天皇は、武力や権力を以て國民に命令を下す権力者ではない。また、日本國は多数の個人が契約を結んで造った國ではない。さらに、征服や革命によって人為的に成立した國家でもない。日本國は古代において自然に「生まれた」國である。日本といふ國家は、人の魂が結び合って生まれてきた生命體なのである。日本民族の農耕を中心とする傳統的生活の中から培はれた信仰(自然信仰と祖霊崇拝・自然と祖霊を神として拝む心)が根幹となって生まれてきた生命體が日本國なのである。そしてその〈むすび〉の中核が日本傳統信仰の祭祀主である天皇である。これが三島由紀夫氏の言ふ「祭祀的國家」としての日本なのである。

 

「むすび」の語源は、「生()す」である。「草が生す」「苔が生す」といわれる通りである。つまり命が生まれることである。故に母から生まれた男の子を「むすこ」(生す子)といひ、女の子を「むすめ」(生す女)といふのである。「むすび」とは命と命が一體となり緊密に結合するといふことである。米のご飯を固く結合させたものが「おむすび」である。そして日本傳統信仰ではその米のご飯には生命・魂が宿ってゐると信じてきた。

 

「庵を結ぶ」という言葉があるが、日本家屋は様々な材木や草木を寄せ集めこれらを結び合はせて作られた。結婚も男と女の結びである。故にそのきっかけを作った人を「結びの神」という。そして男女の〈むすび〉によって新たなる生命が生まれる。日本の家庭も〈むすび〉によって成立しているのである。日本國土は、伊邪那岐命と伊邪那美命との「むすび」によって生成されたのである。

 

我々はまず以て「國家観」を正しく確立しなければならない。日本と欧米とは歴史・文化・宗教・社会構造・人間関係を異にしているのだから、日本國の憲法は近代西欧流の國家法人説・國家暴力装置説などの「國家観」を基礎にしてはならない。

 

日本天皇の國家統治の本質は、天皇の祭祀主としての神聖なる権威による統治(すべおさめる。しろしめす。きこしめす)である。そして、天皇の神聖なる権威が権力者・為政者の権力濫用を抑制する。それがわが國の建國以来の國體であり歴史である。

 

日本國は信仰共同體・祭祀共同體であり、天皇はその祭祀主である。従って、天皇は國民と対立し、國民を力によって支配する御存在ではない。天皇と國民と國土の関係は、対立関係・支配被支配の関係にあるのではない。契約関係・法律関係にあるのでもない。信仰的・精神的一體関係にある。これを「君民一體」といふ。これが日本肇國以来の國柄であり國體であり歴史である。祭祀國家として約三千年の時間的連続・歴史を有してきたことが最も大切な日本國の特質であり尊厳性なのである。これを「萬邦無比の日本國體」と言ふ。

 

日本に憲法を押し付けたアメリカ合衆國は、一七七六年七月四日に独立を宣言して「社會契約論」「國家法人説」を基礎して「人為的に造られた國」である。

「生まれる」と「造られる」とでは絶対的な違ひがある。「生む」は日本傳統信仰の「國生み」観念であり、「造る」はキリスト教の「天地創造」の観念である。伊耶那岐命・伊耶那美命は日本國土をお生みになったのであり、キリスト教の神(ゴッド)は人間を造ったのである。キリスト教の神はなぜか國家は造らなかった。

 

つまり、日本の歴史と傳統そして日本國體は、西洋の契約思想・國家法人説や、人間不信を基盤とした國民主権論や西洋近代の成文法、そしてさうした思想が基礎になってゐる『現行占領憲法』の「國家観」とは基本的に相容れないのである。『現行占領憲法』に正統性がない最大の理由はここにある。その上、『現行占領憲法』は戦勝國アメリカの占領下に、強制的に押し付けられた憲法である。従って、この『現行占領憲法』には内容的・思想的にも、制定過程においても全く正統性がないのである。

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