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2017年10月31日 (火)

『東照大権現』について

徳川家康のことを「東照大権現」と言う。東から日本の國を照らす神という意味であろう。皇室の祖先神・天照大御神を意識した神名である。臣下にこのような神号を付けるのは明らかに不敬である。

 

「権現」とは、仏が衆生を救うために、神・人など仮の姿をもってこの世に現れることで、神道の本地垂迹説においては、仏が衆生を救うために日本の神の姿となって現れた神のことという。

 

東照大権現即ち徳川家康の本地(本来の姿)は、東方浄瑠璃世界の教主・薬師瑠璃光如来であるとした。徳川家の菩提寺・上野寛永寺の本尊は薬師瑠璃光如来である。

 

しかも「東照大権現」という神号は、後水尾天皇の勅許によってつけられた。日光東照宮には後水尾天皇の御宸筆の「東照大権現」と書かれた敕額が掲げられた。つまり徳川幕府は、天皇の権威によって徳川家康の神格化を行ったのである。しかもその神格化は、明らかに、天皇の権威に対抗するものであった。日光東照宮は、伊勢皇大神宮に対抗するものである。そして大名に東照宮を建立することを半ば強制し全国の五百社を超える東照宮が作られた。

 

後水尾天皇は、度重なる徳川幕府とりわけ、徳川秀忠の圧迫と不敬行為に耐えられ、朝廷の権威を守られた。京都岩倉実相院で、後水尾上皇御宸筆の『忍』という色紙を拝したことがある。徳川幕府の横暴に対する御心を示されたと拝される。

 

しかし、幕末の国家的危機において、日本国民は、皇祖天照大神に国難打開を祈り、天照大御神の生みの御子即ち現御神たる天皇中心の國體を明らかにすることによって、国難を打開し、明治維新を断行した。

欧米列強の侵略の危機を打開し、日本の独立を維持するためには、徳川幕府が、天皇及び皇室の神聖権威に対抗すべく不遜不敬にも創出した「東照大権現」の神威では、とても國民的統一の信仰的核にはなり得なかった。

 

今谷明氏は、「東照大権現の神威は、武家階層はともかく、民衆レベルに浸透したとはとうてい考えられない。反面、大衆の間に天皇祖神を祭る伊勢の神威が高まっていくのは、よく知られているとおりである。伊勢と日光の勝負はもはやついて居た。」(『武家と天皇』)と論じてゐる。

 

そもそも征夷大将軍たる徳川氏は、その職責である夷狄を征伐する力を喪失したのである。もともと戦國時代の武士の覇権争いの勝者・覇者にすぎなかった徳川氏は、覇者たるの力と資格を喪失したのである。端的に言えば、徳川氏は「征夷大将軍」(夷狄を征伐する大将軍)の任を果たす事が出来なくなったのである。

 

現御神信仰・尊皇精神の興起は、勤皇の志士たちのみならず、一般庶民においても旺盛であった。伊勢の皇大神宮への民衆の集団参拝(いわゆる御蔭参り)が行われ一般庶民の皇室の御祖先神に対する信仰が大きく復活してきていた。天保元年(一八三〇)には、御蔭参り参加者が閏一月から八月までで五百万人に達したという。

 

國家の独立と安定と統一を保持するには、日本の伝統と自主性を體現される御存在=神聖君主日本天皇を中心とした國家體制を確立しなければならなくなった。欧米列強の侵略から祖國日本を守るための國家體制は、神話時代からの伝統的君主である天皇を中心とする國家でなければならないということが全國民的に自覚されるようになった。そして、一君万民の國體を明徴化する明治維新が断行されたのである。

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千駄木庵日乗十月三十一日

午前は、諸事。

午後三時より、西麻布にて、猪瀬直樹氏にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

帰宅後は、原稿執筆・脱稿・送付。

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2017年10月30日 (月)

舎人皇子の「ますらをふり」の戀歌

 

舎人皇子の御歌

                            

ますらをや 片戀せむと 嘆けども 醜(しこ)のますらを なほ戀にけり

 

舎人皇子が舎人娘子に贈った「ますらをぶり」の戀歌。舎人皇子は、天武天皇第三皇子。天武天皇四年(六七六)~天平七年(七三五)。第四七代・淳仁天皇の父君。勅を奉じて『日本書紀』を選進した責任者であられる。薨去後、太政大臣を贈られた。舎人娘子は、伝未詳。

 

【ますらをや片戀せむ】ヤは反語(本来の意味とは反対の意味を含ませる表現法。多くは疑問の形で、例へば「これが嘆かずにいられるか」のやうに表す)。「堂々たる日本男児たるもの片思ひなどするものか」といふ意。自嘲的響きもある。「醜のますらを」は自己嫌悪感を表現してゐる。自分の不甲斐なさを嘆くと共に、戀心を表白してゐる。

 

 通釈は、「堂々たる日本男児たる者片戀などするものかと嘆いても、みっともない男児である私はやはり戀してしまふ」といふほどの意。

 

 日本男児たる者、常に國家を心に置き、大君に仕へ奉るべきだとするのが、この時代の男性の心意気であった。それなのに一人の女性に戀々とする自分自身を恥じて「醜の」と詠んだ。

 

 また、日本男児の戀は、女性から愛されて結ばれるのがあるべきなのだが、戀の相手がなかなか私のことを思ってくれないみっともない私はさうはいかない、といふ自嘲的な気持も込められてゐる。

 

 ただし、この歌は相手の女性に贈った歌であるから、本心から自分のことを「不甲斐ない奴」と思ってゐたわけではないし、自分の戀を嘆いてゐるわけでもない。また「醜」とは現代語の醜いとはやや違った意味であって、「かたくなに」「強い」といふ意味もある。防人の歌に「今日よりはかへりみなくて大君の醜(しこ)の御楯と出で立つ吾は」(今日以後他の一切を顧慮することなく、卑しき身ながら大君の御楯となって出発します。私は)といふ歌がある。

 

 この歌はもちろん相手の女性(舎人娘子)に訴へかけた戀歌であるが、「片戀」といふ言葉以外に直接的に相手に訴へかける言葉はない。しかし、それだけにこの歌を受け取る女性にとっては、「これほどまでに私のことを戀ひ慕って下さるのか」といふ心を起こさせる歌である。またそれを期待して詠んだ歌であるとも言へる。

 

 『萬葉集』とは「ますらをぶり」の歌集であると、近世(江戸中期)國學者の賀茂真淵が主張した。「ますらをぶり」とは、「男らしく」「日本男児らしく」といふほどの意で、「男性的で大らかな歌風」のことをいふ。さらに、『古今和歌集』は以後の歌風を「たをやめぶり」(女性的で優雅な歌風)と言った。『萬葉集』の「ますらをぶり」の歌とは、この舎人皇子の御歌や防人の歌などがその典型である。

 

 そして、真淵は「ますらをぶり」とは大和の國を都とした時代(白鳳・天平時代)即ち萬葉時代の歌風であり、「たをやめぶり」は京都の文化であるとした。しかし、『萬葉集』を「ますらをぶり」だけの歌集だとすることはできない。大伴家持の歌などにはむしろ平安朝の歌風に近い歌も数多くある。

 

 それはともかく、賀茂真淵は、和歌は「すめらみくにの上つ世の姿」、つまり萬葉時代に帰らなければならないと主張した。「ますらをぶり」の精神風土を尊重しなければいけないとした。それは平安時代以来続いた「たをやめぶり」への反発であった。

 

 真淵は現在の静岡県出身であり、東國の人であった。そして、徳川吉宗の子の田安宗武の和歌の師であったので、武家の美學を昂揚させようとして、「ますらをぶり」「萬葉ぶり」の復活を唱へたと思はれる。

 

 しかし、賀茂真淵の弟子の本居宣長は、『源氏物語』を高く評価し、「たをやめぶり」も日本の文化の大切な流れであるとした。

 

 武士が政権を壟断するやうになると、儒教の影響からか、武士たるもの、戀愛を文學にしてはならないといふやうな風潮が生まれた。語ってもいけないといはれた。「男女の愛」を文や歌に表現することは武士のやることではないとされるやうになった。

 

 しかし、神話時代や古代日本においては、武士の元祖のやうな方であられる須佐之男命や日本武尊は、戦ひの歌・「ますらをぶり」の歌と共に、戀愛の歌を大いに歌はれた。天智天皇・天武天皇そして藤原鎌足も戀歌を歌った。

 

 わが國のますらをは大いに戀愛をし、戀を歌った。須佐之男命が妻を娶られた時の喜びの歌である「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」(多くの雲が湧く。出で立つ雲の幾重もの垣。妻ぐるみ中に籠めるやうに幾重もの垣を作る。ああその八重垣よ、といふほどの意)は、和歌の発祥とされてゐる。

 

 古事記・萬葉の世界では、「武」「歌」「戀」の三つは一体なのである。わが國文學は戀愛が大きな位置を占める。男女の愛情を尊んだ。『萬葉集』の戀愛歌・相聞歌を見ればそれは明らかである。

 

舎人娘子、和へ奉れる歌

 

歎きつつ ますらをのこの 戀ふれこそ わが結()ふ髪の 漬()ぢてぬれけれ

 

 舎人娘子が舎人皇子に答へ奉った歌。皇子の名の「舎人」は乳母の氏の名であらうと見られるので、舎人娘子は舎人皇子の乳母兄弟であらうといふ説がある。

 【歎きつつ】嘆き続けて。【ますらをのこ】「ますらを」に「をのこ」を付けた言葉。【戀ふれこそ】「戀ふればこそ」。【漬ぢてぬれけれ】「ヒツ」は「水に漬かったやうにびしょり濡れる」。「ヌル」は「ひとりでにゆるんで解ける」。上の句は下の句の原因を歌ってゐる。

 

 通釈は、「嘆き続け、ますらをのあなたが戀をするからこそ、私の結った髪が濡れてほどけたのですね」といふほどの意。

 

 古代には「結んだ紐や結った髪がひとりでに解けるのは、誰かに戀されてゐるしるしだ」といふ民間信仰があった。

 

 この二首はお互ひの気持ちを十分に了解し合った中における贈答歌。しかし離れて住んでゐたので、舎人皇子は愛の切なさを「片戀」といふ言葉で表現したのであらう。

 

 娘子は、皇子の力強い愛の表白に満足し幸福感にひたってこの歌を返した。押さへがたい男女の愛を豊かに表現してゐる。しかし、軽薄に流れてはゐない。

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千駄木庵日乗十月三十日

午前は、諸事。

 

午後は、原稿執筆の準備。

 

午後四時より、虎ノ門の笹川平和財団ビルにて笹川平和財団主催「第3回サイバーセキュリティ月例セミナー」開催。デニス・C・ブレア氏(元米国太平洋軍司令官 米国第3代国家情報長官)が講演。渡部恒雄同財団シニアフェローがモデレーター。活発な質疑応答が行われた。

 

帰宅後は、明日のインタビューの準備など。

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2017年10月29日 (日)

正統性のない「現行占領憲法」に立脚した「立憲主義」は國を危うくする

 

 

先日も書いたが、立憲民主党の「国民との約束」という文章には「アジア、そして世界の中で、国際協調にもとづく、日本の安全保障に関する基本姿勢を守ります。2015年に強行採決された違憲の安保法制の問題をうやむやにしたままに、理念なき憲法改正が叫ばれています。専守防衛を逸脱し、立憲主義を破壊する、安保法制を前提とした憲法9条の改悪とは、徹底的に闘います。現下の安全保障環境を鑑み、領域警備法の制定と憲法の枠内での周辺事態法の強化をめざします。基本的人権の尊重、立憲主義、民主主義といった原則は、決して揺るがしません」と書かれている。

 

今日わが國で施行されてゐる憲法がまっとうな憲法、正統性のある憲法なら「立憲主義」は肯定される。しかし、『現行占領憲法』は最初から正統性などなかった。『現行憲法』が『大日本帝國憲法』を改正したものだなどといふこと自體が欺瞞だからである。天皇の統治大権が占領軍の隷属の下にあった占領期間中の改憲は「摂政を置くの間之を変更することを得ず」といふ『帝國憲法』の条項に明確に違反してゐる。 『現行占領憲法』は、日本を永久に弱體化しておくために戦勝國=アメリカ占領軍が日本に押しつけた憲法である。

 

大変畏れ多いことであるが、「天皇及日本國政府ノ國家統治ノ権限ハ本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル聯合國最高司令官ノ制限ノ下(「subject to」)ニ置カルルモノトス」(バーンズ回答・正しくは「隷属ノ下」と訳されるべきといふのが定説である)とされてゐる時期の「天皇のご裁可」「天皇による公布」は、天皇陛下が自由に表明された御意志即ち「大御心」によるものとは異なると私は考へる。

 

『占領憲法』は、十七世紀、十八世紀の欧米の市民革命の基礎理論であった「社會契約論」に立脚してゐる。

 

中川剛氏は次のやうに論じてゐる。「日本國憲法が、一七・一八世紀の欧米の市民革命の理論的基礎となった社會契約論に立脚して起草された。…アメリカの独立宣言や連邦憲法が、当時の革命思想であった社會契約論によって起草されたため、占領軍総司令部の憲法案起草者にとっても、社會契約の考え方が基本枠組みとして採用され…憲法の基本原理についてさえ、傳統にも文化にも手がかりを求めることができず外國の理論に典拠を探さなくてはならないという恐るべき知的状況が出現するに至った」(『憲法を読む』)

 

國の生成・成り立ちが欧米とは全く異なり、市民革命も経験してゐないわが日本國に、西洋國家思想たる「社會契約論」を基礎にした憲法が押し付けられたのである。この一点を以てしても『現行占領憲法』に正統性がないことは明白である。

 

日本の國家観と西洋國家観とは根本的に異なる。日本國は、「数多くの個としての人間」が寄り集まって契約を締結して人為的・人工的に作った権力機構・契約國家(これを「國家法人説」と言ひ換へてもいいと思ふ)とはその本質が全く異なる。「國家法人説」を日本國に当て嵌めることはできない。

 

「國家法人説」とは、國家を法的な主體としての法人と考へる理論である。そして「法人」とは「自然人以外で法律上の権利義務の主體となることができるもの。一定の目的の下に結合した人の集団あるいは財産についてその資格が認められてゐる集団」とされてゐる。

 

つまり、國家は人間が集まって文字通り人為的に作られたといふのが西洋の國家観である。國家とは、社団法人や財団法人のやうに多くの人々が一定の目的のために契約を結び人為的に造られたものだといふのが「契約國家論」「國家法人説」なのである。

 

天皇中心の信仰共同體たる日本は断じてそのやうな國家ではない。日本といふ國家の本質は、権力者が國民を支配するための機関すなはち権力國家ではないし、日本國の君主たる天皇は、武力や権力を以て國民に命令を下す権力者ではない。また、日本國は多数の個人が契約を結んで造った國ではない。さらに、征服や革命によって人為的に成立した國家でもない。日本國は古代において自然に「生まれた」國である。日本といふ國家は、人の魂が結び合って生まれてきた生命體なのである。日本民族の農耕を中心とする傳統的生活の中から培はれた信仰(自然信仰と祖霊崇拝・自然と祖霊を神として拝む心)が根幹となって生まれてきた生命體が日本國なのである。そしてその〈むすび〉の中核が日本傳統信仰の祭祀主である天皇である。これが三島由紀夫氏の言ふ「祭祀的國家」としての日本なのである。

 

「むすび」の語源は、「生()す」である。「草が生す」「苔が生す」といわれる通りである。つまり命が生まれることである。故に母から生まれた男の子を「むすこ」(生す子)といひ、女の子を「むすめ」(生す女)といふのである。「むすび」とは命と命が一體となり緊密に結合するといふことである。米のご飯を固く結合させたものが「おむすび」である。そして日本傳統信仰ではその米のご飯には生命・魂が宿ってゐると信じてきた。

 

「庵を結ぶ」という言葉があるが、日本家屋は様々な材木や草木を寄せ集めこれらを結び合はせて作られた。結婚も男と女の結びである。故にそのきっかけを作った人を「結びの神」という。そして男女の〈むすび〉によって新たなる生命が生まれる。日本の家庭も〈むすび〉によって成立しているのである。日本國土は、伊邪那岐命と伊邪那美命との「むすび」によって生成されたのである。

 

我々はまず以て「國家観」を正しく確立しなければならない。日本と欧米とは歴史・文化・宗教・社会構造・人間関係を異にしているのだから、日本國の憲法は近代西欧流の國家法人説・國家暴力装置説などの「國家観」を基礎にしてはならない。

 

日本天皇の國家統治の本質は、天皇の祭祀主としての神聖なる権威による統治(すべおさめる。しろしめす。きこしめす)である。そして、天皇の神聖なる権威が権力者・為政者の権力濫用を抑制する。それがわが國の建國以来の國體であり歴史である。

 

日本國は信仰共同體・祭祀共同體であり、天皇はその祭祀主である。従って、天皇は國民と対立し、國民を力によって支配する御存在ではない。天皇と國民と國土の関係は、対立関係・支配被支配の関係にあるのではない。契約関係・法律関係にあるのでもない。信仰的・精神的一體関係にある。これを「君民一體」といふ。これが日本肇國以来の國柄であり國體であり歴史である。祭祀國家として約三千年の時間的連続・歴史を有してきたことが最も大切な日本國の特質であり尊厳性なのである。これを「萬邦無比の日本國體」と言ふ。

 

日本に憲法を押し付けたアメリカ合衆國は、一七七六年七月四日に独立を宣言して「社會契約論」「國家法人説」を基礎して「人為的に造られた國」である。

「生まれる」と「造られる」とでは絶対的な違ひがある。「生む」は日本傳統信仰の「國生み」観念であり、「造る」はキリスト教の「天地創造」の観念である。伊耶那岐命・伊耶那美命は日本國土をお生みになったのであり、キリスト教の神(ゴッド)は人間を造ったのである。キリスト教の神はなぜか國家は造らなかった。

 

つまり、日本の歴史と傳統そして日本國體は、西洋の契約思想・國家法人説や、人間不信を基盤とした國民主権論や西洋近代の成文法、そしてさうした思想が基礎になってゐる『現行占領憲法』の「國家観」とは基本的に相容れないのである。『現行占領憲法』に正統性がない最大の理由はここにある。その上、『現行占領憲法』は戦勝國アメリカの占領下に、強制的に押し付けられた憲法である。従って、この『現行占領憲法』には内容的・思想的にも、制定過程においても全く正統性がないのである。

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千駄木庵日乗十月二十九日

午前は、諸事。

午後一時より、谷中の上聖寺にて、『憂国烈士之碑追善供養の儀』執行。三沢浩一代表発起人が挨拶。上聖寺住職が導師。読経、参列者全員が焼香。続いて、憂国烈士之碑及び荻島峰五郎氏の墓所などに拝礼。終了。

帰宅後は、明後日に行うインタビューの準備、資料の整理、原稿執筆。

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『政治文化情報』平成二十九年十一月号のお知らせ

四宮政治文化研究所発行・『政治文化情報』平成二十九年十一月号のお知らせ

 

『政治文化情報』は、昭和五十九年創刊以来、小生の論考、時局問題などに関する主張、活動状況の報告、各方面から得た様々な情報などを掲載し、それなりの評価を得て来たと自負致しております。
多くの心有る皆様方のご購読をお願い申し上げます。
見本誌御希望の方はご遠慮なくメールでお申し込み下さい。

メールアドレス m-shinomiya@max.hi-ho.ne.jp

購読料
年間 12000
半年 6000

平成二十九年十一月号(平成二十九年九月二十五日発行)の内容

 

〈皇都の一隅より〉

國學と井伊直弼

 

徳川幕府瓦解と井伊直弼の専断政治

 

國學を學んだ井伊直弼・長野主膳が、何故朝廷を圧迫し尊皇の志士思想家を弾圧したのか

 

征夷大将軍の地位の継承に「皇位継承の道統」を当てはめるのは牽強付會であり大不敬である

 

保田與重郎氏による本居宣長の「徳川幕藩体制論」についての卓見

 

『直毘靈』に示された本居宣長の根本思想

 

天皇中心帰一の國體精神と國難打開

 

千駄木庵日乗

 

河添恵子氏(ノンフィクション作家)「九九〇年代のクリントン時代は軍事的機密・半導体技術が中國に相当流れてしまった」

 

イリハム・マハムティ氏「ウィグルでは沢山の天然資源が発見された。十三億人の消費エネルギーの三分の一はウィグルが支えている。しかしウィグル人は貧乏のまま」

 

金田秀昭氏(岡崎研究所理事・元海将)「中國はソ連との國境の三十萬の守備隊を退かせた。ロシアとの関係も良くなった。エネルギーのはけ口が海に向かい、海洋進出」

 

加瀬英明氏「日本は海原の向うに常世の國という理想郷がある。恵比寿信仰は波に乗ってくる漂着神。海原の向うから幸をもたらす。日本は外國に対して傲慢ではない」

 

荒木和博氏(特定失踪者問題調査會代表・拓殖大学海外事情研究所教授)「『北朝鮮という國をどうにかしなきゃいけない』という國際世論を高めていくことで、日本の主体的な動きの自由度を増すということに尽きる」

この頃詠みし歌

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この頃詠みし歌

 

 

遠き日の和歌の浦への旅思ひ出す 山部赤人の歌を讀みつつ

 

夕空を 鳴きゆく鳥に何処へ行くかと心の中で問ひかけにけり

 

解禁となりたるといふ牡蠣を食す何があっても季節は巡る

 

贈られし松茸を食しこの国の自然の恵みの有難さを思ふ

 

置き忘れし老眼鏡を探し回る天下国家を論じゐる我

 

若き友に二人目の子が生()れしてふめでたき事を聞きてうれしき

 

父と子が同じ学問の道を行く姿尊き今日の会合(憲法懇話会)

 

佳き友が集へる今宵皆共に憲法のことなど語らひてをり()

 

何時もの道を何時ものやうに歩み行くことの嬉しも健やかなる日々

 

健やかな体に恵まれし喜びを父母(ふぼ)の御霊に感謝しまつる

 

佳き友の笑顔を見てはやすらぎぬ秋の雨しとしとと降る寒き夜

 

漸くに雨止みたれば傘を持たず街に出にけり煙草買はむと

 

秋の長雨続きいゐる夜窓を伝ふ雨だれを見て晴れやらぬ心

 

我が力湧き出るを感ず怒りの念沸々と湧くその時にこそ

 

何となく疎遠となりたる人の顔浮かび来てややにさみしき心

 

九頭竜といふ酒呑みて談笑す寒き夕べのカウンター席

 

水たまり避けつつ歩む雨の夜人生のまさにかくの如きか

 

喧噪の原宿駅前より入り来れば神宮の森に清き雨降る(明治神宮参拝)

 

緑濃き道眺めつつ歩み行く都の真中の清らけき道()

 

外つ國人が多く歩める神宮の参道を行く日本人我()

 

幼馴染みが座りゐる前の投票箱に一票を投じ帰り来にけり

 

独裁国家の手先の共産社民をばリベラルといふこの愚かさよ

 

愚かさにあらず情報操作なり偏向メディア許さざるべし

 

自民勝利は当たり前なりこの国を任すに足りる野党無ければ

 

この国の民は賢し愚かなる者等に政権を委ねることなし

 

疲れたる顔をせし都知事が元気なく語りゐる姿あはれなりけり

 

右でも左でもないといふ立憲は共産社民と縁を切るべし

 

選挙終り台風も去りて東京の大空は青く晴れわたりたり

 

偏向メディア亡国野党が攻撃をするとも自民党政権倒れざりけり

 

安倍政権が憎くてならぬか狂へる如く攻撃をする朝日新聞

 

古き樹木いまだ命は絶えざりき青葉を少しつけてゐるなり

 

昼食を抜く生活を送り始め三キロ痩せしことを喜ぶ

 

午後三時が一番腹が鳴る時刻それが過ぎれば夕食待つのみ

 

戦ひの道を歩めるわが友はややに白髪増えにけるかも(博友会)

 

自らの信念貫く友どちが静かに語る今日の会合()

 

丘の上の高校に通ひし遠き日を思ひ出すなり富士ケ嶺秩父

 

丘の上の運動場でサッカーをせし思ひ出に砂塵舞ひゐる

 

今日もまた共に語らひ酌み交はせし友と握手し別れ来にけり

 

軽き言葉発せし時は自らの心の動きを深く慎む

 

見上げれば秋の青空広らなり

 

國のため身を捧げたるもののふの御墓辺に立つ晴れし秋の日(来島恒喜氏墓所)

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千駄木庵日乗十月二十八日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して資料の整理、原稿執筆など。

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2017年10月27日 (金)

『紀尾井坂の変』=大久保利通斬殺事件について

 

明治維新の後、「維新の理想未だ成らず」との思ひで展開された戦ひを明治第二維新運動と言ふ。明治新政府は、欧米列強のアジア侵略植民地化を目のあたりにして、わが國の独立を維持し発展せしめるべく、「富国強兵」「殖産興業」「脱亜入欧」の政策を推し進めた。さらに、大久保利通を中心とした一部の人々の専制政治が行はれた。それはそれで止むを得ないことであり、全面的に否定はできない。しかし、維新日本において最も大切な事、即ち神代以来の日本の伝統への回帰・神武創業の精神の恢弘といふ大命題との大きな矛盾をもたらした。この矛盾を解決し、維新の理想をあくまでも貫徹せんとする運動が明治第二維新運動である。

 

その具体的な動きが、西南戦争・佐賀の乱をはじめとした各地の武装蜂起であり、明治七年(一八七四)一月十四日の赤坂喰違付近での高知県士族の武市熊吉らによる岩倉具視襲撃事件であり、明治十一年五月十四日の紀尾井坂における島田一良らによる大久保利通斬殺事件(紀尾井坂の変)である。

 

大久保利通は当時の最高権力者として「富国強兵」「殖産興業」「脱亜入欧」路線を強力に推し進めた。明治六年の政変から大久保の死に至る迄の数年間は、大久保を中心とした独裁政治と言って良かった。これを〈有司専制政治〉と言ふ。

 

大久保利通は、西郷隆盛・江藤新平・板垣退助らを下野せしめた後、三条実美・岩倉といふ公卿勢力を擁し、大隈重信・伊藤博文・黒田清隆・川路利良らを手足とし、欧米の文化・文明を取り入れた近代日本の建設に邁進し、これに抵抗する勢力をあらゆる手段を用いて排除した。特に川路利良=警察権力を使ひ卑劣な手段を用いた挑発行為・密偵政治は多くの人々の憎悪を招いた。

 

 大久保利通が第二維新運動の標的となったのは、直接的には大久保が西郷隆盛・江藤新平といった人々を卑劣な策略を用いて死地に追いやった後、専制的な寡頭政治を行なったことであらう。そして、大久保の政治(強権政治・欧化政策)が明治維新の理想を隠蔽する邪悪なものとされたからであらう。

 

 『大久保利通斬奸状』には次のやうに書かれてゐる。

「方今我皇国の現状を熟察するに、凡そ政令法度、上天皇陛下の聖旨に出るに非ず、下衆庶人の公議によるに非ず、独り要路官吏数人の臆断専決する所に在り。…今日要路官吏の行事を親視するに…狡詐貪婪上を蔑し下を虐し、遂に以て無前の國恥、千載の民害を致す者あり。今其罪状を条挙する左の如し。曰く、公議を杜絶し、民権を抑圧し、以て政事を私する。其罪一なり。…曰く慷慨忠節の士を疎斥し、憂国敵愾の徒を嫌疑し以て内乱を醸成する其罪四なり。…曰く外国交際の道を誤り以て国権を失墜するそれ罪五なり。公議は国是を定る所以、民権は国威を立る所以なり。今之を杜絶し之を抑圧するは則ち国家の興起を疎隔するなり。法令は国家の大典、人民の標準なり、今之を謾施しするは則ち上王網を蔑棄し、下民心を欺誣するなり、…勅令を矯め、国権を私し、王師を弄し、志士憂国者を目するに反賊を以てす。甚だしきに至りては陰謀密策を用ひて以て忠良節義の徒を害せんと欲す。…一良等今天意を奉じ民望に随ひ、利刃を揮ひて大姦利通を斃す、…前途政治を改正し、国家を興起するの事は、則ち天皇陛下の聖明闔国人衆の公議に在り。願くは明治一新の御誓文に基き八年四月の詔旨に由り、有司専制の弊害を改め、速かに民会を興し公議を取り、皇統の隆盛国家の永久、人民の安寧を致さば、一良等区々の微衷、以て貫徹するを得、死して而して瞑す…」

 

伝統を重んじつつ革新を志向する堂々たる名文である。もっともっと長文であり、大切な事が書かれているが、誌面の都合でごく一部しか書けないことを遺憾とする。これはいはれるやうな不平士族の時代錯誤思想ではない。当時のわが國の矛盾・正すべきところを厳しく指摘したすぐれた文章である。

 

閣議で一度決した西郷隆盛韓国派遣を、大久保及び岩倉具視が策略を用いて覆したことを批判してゐる。大久保と岩倉は、閣議決定といふ「公議」を無視し、陰謀を用いて西郷隆盛の対韓使節派遣を葬り去った。これは「万機公論に決すべし」との明治天皇の大御心に反する行為である。故にこの『斬奸状』において『五箇条の御誓文』に示された「広く会議を興し万機公論に決すべし」との国是、そして『五箇条の御誓文』に基づく『元老院・大審院設置、地方官召集の詔』を実現し奉れと論じたのである。さらに大久保及び川路利良が卑劣な手段で佐賀の乱、西南戦争を挑発したことを批判してゐるのである。

 

この斬奸状の主張は時代錯誤どころが先進的な思想である。しかも天皇を戴く国家の伝統を正しく継承してゐる。ここに書かれてゐる主張こそ、明治第二維新の思想である。明治維新の不徹底・未完成を正し、天皇中心の國體をより明らかにすることによって国民の権利を拡張し国家の独立と尊厳性を維持せんとする思想である。民権といはゆる国権は矛盾するものではないのである。

 

葦津珍彦氏はこの紀尾井坂の変の『斬奸状』の内容及び『玄洋社憲則第三条』に「人民の権利を固守すべし」とあることについて、「人民権利の主張と、純然たる国粋の精神とを直結した一つの典型として思想史上、注目すべき文書」と論じてゐる。(『大アジア主義と頭山満』)

 

さらに徳富蘇峰氏は、紀尾井坂の変について、「大久保の死に依る影響中、さらに大なるものは、これによって民権論者の擡頭を促進せしためることであった。…大久保去って後は、薩長何物ぞ、藩閥政治何物ぞ。かくのごとくして自由民権の運動は、今や積雪堅氷の下に圧せられたる草木が、一時に天日を迎ふるがごとく、生色を発揮し来たった。」(『明治三傑』)と論じてゐる。

 

なほ、島田一良ら六烈士を裁いたのは玉乃世履(たまのせいり・初代大審院院長)である。玉乃の墓所は島田一良らの墓所と同じく東京谷中墓地にある。玉乃は六烈士の一人・長連豪を「其人格の美なる晧晧たる秋月の如し、世は連豪の人格に心酔したり」と語ったといふ。

 

「紀尾井坂の変」のその前後の歴史は、今日の日本の混迷打開のために学ぶべき多くのことを語ってゐるやうに思へる。国家の根幹に関る問題をはじめ憲法問題・外交問題そして「変革と直接行動(テロ)」について、重要な示唆を与へてゐると考へる。

 

紀尾井坂の変の影響の最も大なるものは、自由民権運動、民選議会開設・憲法制定の動きの活発化である。紀尾井坂の変の直後、頭山満は土佐に板垣退助を訪問し、その決起を要請した。翌明治十二年、民権の主張は全国的に展開されるやうになり、大阪会議が開かれ、明治十四年には国会開設・憲法制定を公約せしめた。

 

明治維新前後の時代におけるテロの有効性は、桜田門外の変及びこの紀尾井坂の変によって明らかである。

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千駄木庵日乗十月二十七日

午前は、諸事。

 

午前十一時半より、日暮里のホテルラングウッドにて、『呉竹会』幹事会開催。頭山興助会長が挨拶。小生が「大アジア主義・近代維新論」について講演。事務局よりの報告。

 

この後、谷中霊園に赴き、出席者全員で来島恒喜の墓所に供花・線香・お供物を捧げ、拝礼。頭山興助氏がスピーチ。

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来島恒喜氏墓所

 

続いて、明治十一年(一八七八) 五月十四日、東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷にて内務卿・大久保利通に天誅を加えた石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の六氏の墓所に拝礼。

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六氏の墓所

 

 

帰宅後は、原稿執筆、原稿執筆の準備など。

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2017年10月26日 (木)

立憲民主党の憲法論について

立憲民主党という政党が出来た。この政党の「綱領」には「一. 自由と民主主義に立脚した立憲主義を守る 私たちは、日本国憲法が掲げる『国民主権』『基本的人権の尊重』『平和主義』を堅持し、自由と民主主義に立脚した立憲主義を断固として守る。象徴天皇制のもと、新しい人権、統治機構改革など時代の変化に対応した未来志向の憲法を国民とともに構想する」と書かれている。

 

また「国民との約束」という文章には「アジア、そして世界の中で、国際協調にもとづく、日本の安全保障に関する基本姿勢を守ります。2015年に強行採決された違憲の安保法制の問題をうやむやにしたままに、理念なき憲法改正が叫ばれています。専守防衛を逸脱し、立憲主義を破壊する、安保法制を前提とした憲法9条の改悪とは、徹底的に闘います。現下の安全保障環境を鑑み、領域警備法の制定と憲法の枠内での周辺事態法の強化をめざします。基本的人権の尊重、立憲主義、民主主義といった原則は、決して揺るがしません。解散権の制約や知る権利など、この原則を深化するための憲法論議を進めます」と書かれている。

 

「立憲主義」とは、「政府の統治を憲法に基づき行う原理で、政府の権威や合法性が憲法の制限下に置かれていることに依拠する」という考え方であるそうだが、その立てるべき憲法が問題である。似非憲法・占領憲法を肯定し、それを立て、それに制限されなければならないというでは、亡国への道を歩む、まさに「憲法護って國滅ぶ」である。

 

また、「憲法解釈を、政府が便宜的に、意図的に変更すれば、政府の憲法解釈ひいては憲法規範そのものへの国民への信頼が損なわれる」という意見がある。

 

しかし、憲法激変する情勢に応じて改正し変更することによって憲法に国家の規範法としての権威が確立される。『現行憲法』にはそれがない。

 

「憲法護って國滅ぶ」というのは、悪い憲法を遵守すれば国が滅びるということである。ならば悪い憲法を改正するか破棄するか無効にするしかない。押しつけ憲法を破砕し正統憲法に回帰することが真の「立憲主義」を実現する。

 

国防力増強が議論される時、必ず、戦争の悲惨さが強調される。沖縄戦、原爆の被害などが語られ、だから自衛隊は無くすべきだ日米同盟は無くせなどという主張が行われる。今日もも「戦争反対、憲法壊すな」というデモがあったが、戦争を防ぐために「安保法制」「集団的自衛権行使容認」が必要なのだ。

 

サンフランシスコ講和条約、第一次安保、第二次安保改定の時も、日本が戦争に巻き込まれるという議論があったが、巻き込まれなかった。むしろ平和が保たれてきた。日本が戦後ずっと平和だったのは「占領憲法」があったからではない。自衛隊と日米軍事同盟があったからである。それは現実が証明している。

 

共産支那の軍拡・侵略策謀、北朝鮮の核ミサイル開発などわが国の軍事的環境は極めて厳しくなっている。これに対処するには、米国との軍事同盟強化が必要である。

 

『現行憲法』の「前文」には「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意し…」「平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して、われらの生存と安全を保持しようと決意した」と書かれている。

 

わが國固有の領土南樺太・全千島を五十年間も占拠したままのロシア、そしてチベットを侵略支配し台湾及び尖閣諸島などのわが國固有の領土・領海を侵略せんとしている共産支那、わが国民多数を拉致しテロを行う北朝鮮、わが国固有の領土竹島を占拠し続ける韓国のどこに「公正と信義」という立派なものがあるというのか。

 

『現行憲法』の「平和主義」には、「日本の軍隊はかつて侵略戦争を行い、アジアの人々や日本國民を塗炭の苦しみに陥らせた。日本に軍隊や武力を持たせるとなにをするかわからない」という観念が根底にある。

 

この『前文』の精神に基づいて『現行占領憲法』第九条の「國権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、國際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。國の交戦権はこれを認めない」を読めば、『現行憲法』が自衛権・國防軍の存在を否定していると解釈するのが至当である。

 

平和の前提は、國家の独立・民族の自立である。國家の独立を維持し、民族の自立を守り、平和を維持し実現するために國防力・軍事力が不可欠である。         

 

國防戦争・自衛戦争まで悪として否定し、憲法に國防が明確に規定されてないという欺瞞的な状況を一刻も早く是正することが必要である。憲法を改めて、自衛隊を國軍として正しく規定し、國家には独立と安全を保つために自衛権・交戦権を有すると明確に憲法に規定すべきである。『現行占領憲法』がある限り日本は真の独立国家とはなりえ得ないし、国家国民の生存と平和は保てない。

 

こんな「憲法」とはいえない代物を根幹とする「立憲主義」などというものは徹底的に否定されなければならない。

 

歴代内閣は、「集団的自衛権は国際法上保有しているが憲法上行使は認められない」との立場をとって来た。その根拠は、昭和五十一年に法制局が示した「憲法九条で許容される自衛権の行使は日本を防衛するために必要最小限の範囲にとどまるべきで、集団的自衛権の行使はその範囲を超え許されない」という憲法解釈だ。こんな解釈は今日の国家的危機に際して、国の平和と独立を根底から脅かす。

 

国家の自然権としての『自衛のための武力行使』は、個別的か集団的かを問わず認められている。認められないのは、国家による一方的な侵略のための武力行使である。

 

「似非憲法」「占領憲法」「亡国憲法」を基礎にした『立憲主義』は頭から否定しなければならない。

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千駄木庵日乗十月二十六日

午前は、諸事。

正午より、西新宿の東京都議会議事堂都議会自民党控室にて、古賀俊昭都議会議員にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

帰宅後は、明日の講演の準備、原稿執筆など。

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2017年10月25日 (水)

大久保利通について

大久保利通は、明治元年正月二十三日に明治新政府に提出した『大阪遷都の議』において、

「…朝廷上に於て、一時の勝利を恃み、永久治安の思をなされ候ては、則北条の後に足利を生じ、前姦去て後姦来るの覆轍を踏ませられ候は必然たる可し。依て深く皇図を注目し、触視する所の形跡に拘らず、広く宇内の大勢を洞察し玉ひ、数百年来一塊したる因循の腐臭を一新し、官武の別を放棄し、國内同心合体、一天の主と申し奉るものは、斯く迄に有り難きもの、下蒼生といへるものは斯く迄に頼もしきものと、上下一貫、天下萬民感動涕泣いたし候程の御實行挙り候事、今日急務の最急なるべし」

「是迄通り、主上と申し奉るものは、玉廉の内に在(いま)し、…纔(わづか)に限りたる公卿方の外拝し奉ることの出来ぬ様なる御さまにては、民の父母たる天賦の御職掌には大に乖戻(かいれい)したる訳なれば…主上の在す処を雲上と云ひ、公卿方を雲上人と唱へ、龍顔は拝し難きものと思ひ、玉体は寸地も踏み玉はざるものと、余りに推尊奉りて、…終に上下隔絶して、其形今日の弊習となりしものなり」

「是を一新の機會にして、…民の父母たる天賦の君道を履行せられ、命令一たび下りて、天下慄動する処の大基盤を立、推及し玉ふにあらざれば、皇威を海外に輝し、萬國に御対立あらせられ候事叶うべからず」

と論じた。

 

この文章は、日本國家の独立を確保し、有史以来未曾有の一大変革を断行するには、天皇中心・一君萬民の國體を明らかにすべきであると論じてゐるのである。

 

德川幕府瓦解・江戸城無血開城の後、明治元年六月、明治新政府の重職にある者として、江戸を新しき皇都とすべく関東に赴いた時の感慨を詠んだのが次の詩である。

 

「辞を陛して千里関東に向ふ 特に天顔を拝して恩賜隆たり 一死酬い難く臣職重し 鞠躬 願はくば泰平の功を致さん」

 

「鞠躬」とは身をかがめる意。「天子に申し上げて、千里の道を関東に向ふ。特に天皇のお顔を拝し、天皇から賜った御恩は深い。一死を以てお報いすることはなかなか困難であり、臣下としての職は重い。しかし、謹み畏みて國家を太平にする功績をあげたい」といふ意である。一命を賭してご奉公するといふ大久保の尊皇精神が吐露されてゐる。

 

明治六年、大久保利通は対韓外交問題で西郷隆盛と対決しなければならない状況に立ち至った。この問題を協議する閣議が行なはれる前々日の同年十月十二日に家族への遺書を書いた。それには「断然当職(注・参議)拝命、此の難に斃れて以て無量の天恩に奉答し奉らんと一決いたし候」と書かれている。命懸けで閣議に臨み、天皇の御恩に報い奉るといふ悲壮な決意を示したのである。

 

大久保利通に対する批判は多い。西郷隆盛を失脚せしめ、死地に追いやって大久保独裁体制(有司専制政治)を確立したといふ批判は強い。私もその一人であった。確かに、大久保利通の尊皇精神は、吉田松陰先生や楠木正成公のやうな信仰的な絶対尊皇精神ではなかったかもしれない。しかし、大久保利通には尊皇精神は無かったとすることは到底できないし、希薄であったとすることもできない。大久保利通は、維新の戦ひの途上においても、また維新断行後の新体制建設期にあっても、様々な過誤はあっても、終始一貫、天皇を中心とする一君萬民の國體を明らかにし、天皇を君主と仰ぐ近代國家建設のために粉骨砕身努力したと考へる。

 

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千駄木庵日乗十月二十五日

午前は、諸事。

 

午後一時半より、永田町の参議院議員会館にて、山田宏参議院議員にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

 

午後六時半より、霞が関の霞山会館にて、『岡崎研究所懇親会』開催。太田博理事長が挨拶。槙原稔三菱商事特別顧問の音頭で乾杯が行われ盛宴に移った。この後、藤崎一郎元駐米大使、大野元裕参議院議員、渡辺利夫拓殖大学学事顧問、伊豆見元東京国際大学教授がスピーチ。友人・知人方々と懇談。

 

帰宅後は、原稿執筆。明日のインタビューの準備。

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『天壌無窮の御神勅』と吉田松陰

 

吉田松陰は、「安政の大獄」に於いて処刑される直前の安政六年十月二十日付の故郷の父母や叔兄に宛てた手紙において、「幕府正議は丸に御取用ひ之なく、夷狄は縦横自在に御府内を跋扈致し候へども、神國未だ地に墜ち申さず、上に、聖天子あり、下に忠魂義魄充々致し候へば、天下の事も余り御力落し之なく候様願ひ奉り候。」と書き記した。

 

松陰は、安政六年六月二十四日に江戸に到着。長州藩邸の獄につながれる。七月九日、幕府評定所の呼び出しがあり、幕吏の尋問を受け、伝馬町の獄に入れられ、以後、幕吏の尋問を受けた。

 

八月十三日付の久保清太郎・久坂玄随宛の松陰の手紙には「天下の事追々面白くなるなり。挫する勿れ。神州必ず不滅なり」と書かれてゐる。

 

十月十一日付の堀江克之助宛の手紙には、「天照の神勅に『日嗣之隆(あまつひつぎのさかえまさんこと)、与天壌無窮(あめつちときはまりなかるべし)』と之有り候。神勅相違なければ日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正氣重ねて発生の時は必ずある也。只今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪軽からざるなり」と記し、

「皇神(すめかみ)の誓おきたる國なれば正しき道のいかで絶べき」

「道まもる人も時には埋もれどもみちしたゑねばあらわれもせめ」

の二首の歌を書いた。

 

松陰は、安政六年四月頃、萩獄中に於いて記した『坐獄日録』に、「吾幼にして漢籍にのみ侵淫して、尊き皇國の事に甚だ疎ければ、事々恥思ふも多けれど、試みに思ふ所と見聞する所を挙げて自ら省み且同志の人々へも示すなり。抑々皇統綿々千万世に伝りて、変易なきこと偶然に非ずして、即ち皇道の基本亦爰にあるなり。蓋し天照大神の神器を天孫瓊瓊杵尊に伝へ給へるや、宝祚之隆与天壌無窮の御誓あり。されば、漢土天竺の臣道は、吾知らず、皇國に於ては、宝祚素より無窮なれば、臣道も亦無窮なること深く思を留むべし」と記してゐる。純日本精神への回帰である。

 

吉田松陰は、『天壌無窮の神勅』に絶対的な信を置いていた。これらの手紙・日記は、獄中にあってもなほ「神州不滅」を信ずる松陰の不撓不屈の精神が表白されており、松陰の偉大さを証明してあまりあるものである。

 

松陰はこれらの手紙で祖國がいかなる危機に遭遇していようとも「天壌無窮の神勅」は絶対に相違することはないという揺るぎない絶対的信を、松陰のその死の直前に吐露している。

 

天照大御神が、瓊瓊杵尊に下された『天壌無窮の神勅』には「葦原千五百秋瑞穂の國は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」と、天皇を統治者と仰ぐ日本の國體が端的に示されている。

 

死罪となり死地に赴くという絶望的状況にあって、天皇國日本は永遠不滅であると確信する吉田松陰は、真の愛の尊皇愛國の士であった。  

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千駄木庵日乗十月二十四日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆など。

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2017年10月23日 (月)

神道と近代日本

戦前、神社は内務省神社局の管理下に置かれ、神職は公務員であった。政府の基本的考え方は、「神社神道は宗教にあらず儀礼である」ということとなっていたという。私は明治大正昭和前期までの実際の神社神道については体験的に知っているわけではないので、確定的なことは言えないが、日本国民の伝統的信仰精神が隠蔽されたと見る事が出来る。勿論、神社神道においては、「御託宣」とか「神がかり」は行われなくなったと思われる。神社は専ら儀礼としての祭祀のみを行い、神道精神に基づく宗教的救済活動も行わなくなった。そして、実際に民衆に対する宗教的救済活動は、天理教・金光教・黒住教・大本教などの教派神道が行うようになった。

 

葦津珍彦先生は、

「明治維新に際して「祭政一致」「神仏分離」「大教宣布」の国策決定に大きな働きをした玉松操などをはじめとする主要人物や活動家は、明治3年には早くも政府中枢と対決を生じて、その後10年のうちに追放され、刑死され、戦没するなどして、いわゆる神道勢力全般は「残党なお亡びず」といった悲惨な状態になってしまっていた」

 

「神社局の消極主義は、無精神、脱イデオロギー、ことなかれ主義とも言いかえる事ができ、神宮神社を著名な天皇、皇族、または国家、郷土に功労のあった人々を崇敬するためのモニュメントとして、神霊を祀る神道独自の精神を著しく否定するものだった。神社局長のポストが任官待ちのポストで祝詞も古典も知らないような官吏が腰かけにするようなものであったところをみても、いかに当時の政府が神道に何の期待もしていなかったかがわかる 」(「武士道、天皇、国家神道」)

 

「神社は宗教に非ず」との政府の公式見解は、古来の日本人の神道信仰心理を抹消しようとした。…内務省の公式見解は、議会、とくに衆議院の建議者たちとは異なって、非宗教といふことを、きはめて世俗の常識合理主義の意味での国家精神(国民道徳)以上のなにものでもないとの意味に解することになった。その解釈を要約すると、神社とは、日本帝国の天皇、皇族または、国家社会に特に功績のあった人格者に対して、伝統的な礼法をもって表敬すべき場所であるといふことである。神主は、国家的記念堂(メモリアル・ホール)の儀礼的執行者であり管理人であって、特殊格別の宗教信仰心や思想を持つものではない。忠良な臣民としては、仏教、儒教、キリスト者と同一の国民精神を持つべきで、神道といふ特殊の宗教や思想の対立的独自の立場があるべきではないといふのである」(「国家神道とは何だったのか」)

と論じておられる。

 

明治維新当初は、祭政一致の古代国家再生が実行されようとしたが、それは文明開化路線とは相容れずかつまた仏教教団の反対にあって頓挫してしまった。神道はむしろ形骸化されたと言うべきである。

 

仏教を尊崇し、檀家制度を体制維持の手段にした徳川幕府打倒の戦いであった明治維新の後、明治初期に「神仏分離令」が出され、廃仏毀釈が行なわれたのは徳川幕藩体制下で、神道・神社が仏教から圧迫され制約を受けていたことへの反動である。

 

近代日本においては、神社は宗教ではないとされた。ただ、国民道徳上の儀礼ということになった。「神」も遺徳ある先人と言う事であり宗教上の神ではない。神社神道によって仏教などが圧迫され「布教の自由・信教の自由」が脅かされたなどと言うことはなかった。むしろ神社神道がその宗教性を剥奪されたと言って良い。

 

第二維新すなわち明治維新の理想貫徹をめざした人々=神風連は勿論西郷隆盛や江藤新平らは、大体神道を重んじ、キリスト教や仏教には批判的であったが、そういう勢力が弱まってしまった。

 

近代日本の政府は「神道は宗教ではなく神職は宗教家ではないから宗教活動・布教活動はしなくて良い」というのが基本方針であった。「国家神道が国教だった。国家神道以外は迫害された」などという主張は全くの幻想であり虚構である。

 

しかし、神道の祭祀は、天皇・皇室そして全国の神社で継承され、それが日本国民精神・文化伝統の基軸・基盤となっていた。

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千駄木庵日乗十月二十三日・

午前は、諸事。

午後二時より、目黒にて、ケント・ギルバート氏にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

午後六時より、新宿にて、『博友会』開催。犬塚博英氏が挨拶・進行。稲貴夫氏(前神社本庁総合研究部長)が「神道人としての生き方、処し方について」と題して講演。活発な質疑応答が行われた。

帰宅後は、原稿執筆など。

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今日詠みし歌

 

自民勝利 当たり前なり この国を 任すに足りる 野党なければ

 

疲れたる 顔をせし都知事が 元気なく 語りゐる姿 あはれなりけり

 

右でも 左でもないと いふ立憲は 共産社民と 縁を切るべし

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2017年10月22日 (日)

支那という呼称について

 

 渡辺はま子という歌手がおられた。戦前においては、『支那の夜』『蘇州夜曲』『愛国の花』、戦後においては『サンフランシスコのチャイナタウン』『ああモンテンルパの夜は更けて』というヒット曲を飛ばした大歌手である。戦前は支那大陸の戦地の慰問、戦後はフィリッピンのモンテンルパに収容されていた日本人戦犯者の釈放運動に挺身した文字通り<愛国の花>である。ところが渡辺はま子女史の最大のヒット曲『支那の夜』はテレビなどで歌うことはできなかった。「支那という呼称は蔑称であり『中国』といわなければ国際問題になる」というのがその理由であったという。日本人の誤った観念がこの名曲を歌ったり聞いたりする機会を奪ったのだ。

 

 マスコミ・出版界では支那という呼称は禁句である。ところが、なぜ支那が蔑称となるのか納得のいく説明はない。というよりもできないのだ。支那が蔑称であるのなら、支那そば・東シナ海・インドシナ半島という呼称も蔑称になる。

 

 支那という呼称をわが国およびわが国民が用いたとて支那及び支那人を蔑視したことにはならない。そもそも何処の国もそして国連などの国際機関も支那のことを支那「China」と呼称している。

 

 支那とは、秦帝国(始皇帝が周および六国を滅ぼして天下を統一した王朝)の「秦(シン)」の音変化に由来し、サンスクリット語の仏典を漢訳した時から漢字では支那と書くようになった。以来、支那人自身が用いてきた言葉である。だから諸外国も支那と呼称するようになり、英語・フランス語・スペイン語・ポルトガル語などでも支那と呼んでいる。英語ではChina(チャイナ)と呼称した。支那は歴史的名称であり、わが国も支那と呼称するようになったのである。何故にわが国民が支那を支那と呼称すると差別・蔑視になるのか。

「中国」という国はこの地球上に存在しない 

 

 また、中華人民共和国・中華民国という国は存在していても「中国」という国はこの地球上に存在しないし、かつて一度も存在したこともない。支那大陸に中国という国は存在しないのだから支那を中国と呼ぶことはできないのである。

 

 わが国は古代より「日本」が国号である。ところが、支那は「五千年の伝統」などと威張ってはいるが、革命が繰り返されて、一つの王朝が継続してこなかった。したがって一つの国号が続かなかった。すぐ思い浮かぶだけでも隋・唐・宋・元・明・清・中華民国・中華人民共和国と実に多く国名が変わった。こんなに国名が変化しているのにわが国に対して「中国と呼ばなければ駄目だ」などと指図する資格はない。

 

 わが国には葦原中国(あしはらなかつくに)という国号もある。江戸前期の儒学者・山鹿素行が赤穂配流中に著した歴史書は『中朝事実』という。中朝とはわが日本のことである。つまり、わが日本国も中国なのである。

 

 日本のみが支那と呼んではいけないというのは日本に対する差別である。日本に対してのみ支那を中国と呼ばせるのは、支那が日本を属国と思っているからであり、日本人を西洋人より下に見て、差別し蔑視しているからである。こうしたシナの日本に対する差別観念は中華思想から来ている。

 

 中国とは中華の国の略称なのだろう。支那は世界の中心・地球の真ん中にあって文化が華のように咲き誇っているという思想である。支那は世界帝国であり、支那の皇帝に朝貢(皇帝にみつぎものを差し上げること)する属国の形式でしか外国の存在を認めず、支那以外の世界各地域は支那に朝貢しなければならないと考えて来た。世界各地の支配者はシナの皇帝の冊封(天子の命で官・位を授ける書きつけである『冊』により諸侯に封禄・爵位を授けること)によってその地位と権力を認められる、とする。こうした中華思想には対等な外交関係はあり得ない。

 

 それだけではなく、周辺諸民族を東夷・西戎・南蛮・北狄と獣や虫けらのように呼んでこれを蔑視し侮った。東夷とは東方の野蛮人のことで、日本・満州・朝鮮などの民族を指した。西戎とは西方の野蛮人のことで、チベットやトルコ系の諸民族を指した。南蛮とは南方の野蛮人のことで、インド支那など南海諸地方の民族を指した。北狄とは北方の野蛮人のことで、匈奴(きようど)・ウイグル・韃靼(だつたん)等の遊牧民族を指した。これが中華思想の基本的考え方のである。

 

 このように中華思想こそ、とてつもない帝国主義思想・差別思想なのである。そしてこの中華思想が支那歴代王朝の精神であり、「共産支那」といえども中国という呼称に固執している以上変化はない。毛沢東・鄧小平・江沢民・習近平は支那の皇帝であり、国内的には残虐にして強固な独裁体制、国外的には侵略思想・差別思想を持ち続けた。ニクソンも田中角栄も毛沢東に朝貢したのである。

 

 支那人自身が自分の国を中国と呼称するのは自由である。それと同様日本人が支那を支那と呼称するのは日本人の自由である。わが国に対してのみ「支那と呼ばずに中国と呼べ」と強要するのはおかしいし、それに唯々諾々と従う日本人もおかしい。

 

 前述したように中国という国家は存在しないのだから支那のことを中国と呼ぶのはおかしい。ただそれだけの話である。

 

 「中国という言葉はすでに定着しているのだから、中国を刺激してまで無理に支那と呼称することはない」という意見があるが大間違いである。これはわが国の尊厳性・文化の独自性の保持、突き詰めればわが国の独立に関わる問題なのである。

 

 世界の先進国で支那を中国と呼んでいる国は日本以外にない。支那大陸に盤踞する「共産支那」は近年とみに軍事力を強化し、アジアにおける覇権確立を狙っている。そしてわが国固有の領土・尖閣諸島侵略の機を窺い、わが国を政治的・軍事的・経済的・文化的に隷属させようとしている。わが日本は支那共産政権のこうした野望を打ち砕きわが国の独立と自由を守らねばならない。支那の強要によってわが国が支那のことを中国などと呼称する自体、わが国にとってこれほどの屈辱はないし、「日本は中国の属国であり冊封国だ」と認めることになり、わが国が中華思想に侵略され支那に併呑される原因となる。わが国及びわが国民が支那を中国と呼ぶことは、わが国及びわが国民が支那の支配下に日本が入ることである。

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千駄木庵日乗十月二十二日

午前は、諸事。

午後からは、『伝統と革新』編集の仕事、母校の投票所に赴き投票、原稿執筆など。

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萬葉古代史研究會 のお知らせ

萬葉古代史研究會

 

四宮正貴が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

日時 十一月八日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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2017年10月21日 (土)

今上陛下の御製を拝し奉りて

 

昭和三十四年四月十日、当時中学一年生であった私は、テレビで中継されていた宮中三殿賢所において執行された「結婚の儀」を拝した。その荘重さ、神々しさに感激したことを覚えている。

 

今上天皇が「祭」について詠ませられた御製を掲げさせていただく。

 

昭和三十二年

歌会始御題 ともしび

ともしびの 静かにもゆる 神嘉殿 琴はじきうたふ 声ひくくひびく

 

昭和四十五年

新嘗祭

松明の 火に照らされて すのこの上 歩を進め行く 古思ひて

新嘗の 祭始まりぬ 神嘉殿 ひちきりの音 静かに流る

ひちきりの 音と合せて 歌ふ声 しじまの中に 低くたゆたふ

歌ふ声 静まりて聞ゆ この時に 告文読ます おほどかなる御声

 

昭和四十九年

歌会始御題 朝
神殿へ すのこの上を すすみ行く 年の始の 空白み初む   

 

昭和五十年

歌会始御題 祭り

神あそびの 歌流るるなか 告文の御声聞え来 新嘗の夜

 

平成二年

大嘗祭

父君の にひなめまつり しのびつつ 我がおほにへの まつり行なふ 

 

平成十七年

歳旦祭
明け初むる 賢所の 庭の面は 雪積む中に かがり火赤し

          ○

これらの御製は全て、皇居のおける祭祀の御事を詠ませられている。宮中三殿において、天皇のみ祭りが行われている。皇居は、明治維新前までは、徳川将軍家の居城であったとしても、今日は、まことに以て神聖不可侵の聖域である。

 

日本は、二十一世紀を迎えた今日においても、神話の世界のままに、天の神の祭り主の神聖なる御資格を受け継ぎ給う天皇を、現實の國家元首と仰ぎ、國家と民族の統一の中心として仰いでいる。これは日本の麗しい自然と稲作生活が完全に滅びない限り続くであろう。こうした事實が、西洋諸國やシナと日本國との決定的違いである。わが國が、長い歴史を通して様々な変化や混乱などを経験しつつも國が滅びることなく統一を保ち続けたのは、天皇という神聖権威を中心とする共同體精神があったからである。日本という國は太古以来の傳統を保持する世界で最も保守的な國でありながら、激しい変革を繰り返して来た國なのである。その不動の核が天皇である。

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千駄木庵日乗十月二十一日

午前は、諸事。「政治文化情報」発送作業。

 

午後二時よりTAP高田馬場にて、『共済セミナー』開催。倉田信靖氏が主催者挨拶。加藤達也編集委員(前ソウル支局長)が「日韓関係の現状と将来」と題して講演。質疑応答。

 

帰宅後は、「政治文化情報」の発送完了。書状執筆、原稿執筆。

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2017年10月20日 (金)

『明治改元百五十年記念特別展覧会 近代の御大礼と宮廷文化 明治の即位礼と大嘗祭を中心に』拝観記

本日拝観した『明治改元百五十年記念特別展覧会 近代の御大礼と宮廷文化 明治の即位礼と大嘗祭を中心に』は、「明治天皇の御大礼は、明治元年(1868827日(新暦1012日)新式の即位礼が京都御所の紫宸殿で催され、また同41117日(新暦1228日)夜、古式に即った大嘗祭が、初めて東京の皇居で営まれました。しかも、明治天皇の聖旨により、それ以後も京都で行う事が定められた即位礼と大嘗祭は、大正4年(191511月の10日と14日、及び昭和3年(19281110日と14日に実施されたのです。そこで、『明治』改元から150年目の今年、明治を中心に大正・昭和も含めて即位礼と大嘗祭に関する重要な資料を精選して、明治神宮文化館宝物展示室で特別展覧会を催します。多くの皆様に、雅な宮廷文化を楽しんで頂けたら幸いです」(案内書)との趣旨で開催された。

 

『光格天皇御譲位 櫻町殿行幸図』(原在明画)、『聖徳記念絵画館壁画下図践祚』(川崎小虎画)、『明治天皇御即位式図』、『髙御座屋根飾雲上華形』、『聖徳記念絵画館壁画下図大嘗祭』(前田青邨画)、『阿波志料践祚大嘗祭御贄考』、『明治天皇御肖像』(明治五年写真師内田九一により撮影された御束帯姿の御真影)、『明治天皇御料 御直衣(おのうし)』、『明治天皇御料 御齋服(ごさいふく)』、『明治天皇御料 黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)』などを拝観。

 

明治天皇即位の大嘗祭は、明治四年十一月十七日(新暦十二月二十八日)に東京の皇居内の吹上広芝で行わせられた。私は大嘗祭も即位式と同様京都御所で行わせられたと思っていた。そうではなかったことをこの度初めて知った。

 

本年は明治改元百五十年目、来年は明治改元満百五十年の意義深い年である。明治天皇の即位式は、慶應四年九月八日(新暦十月二十三日)に、京都御所において執り行われた。江戸期までは「唐式」で行われた即位式が日本伝統に即した即位式に復古したと承る。わが国は神代以来の伝統を継承し回帰しつつ、新たなる変革を繰り返す国である。明治維新はまさに「復古即革新」であったと拝し奉る。

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千駄木庵日乗十月二十日

午前は、諸事。

 

昼、明治神宮文化館で開催された『明治改元百五十年記念特別展覧会 近代の御大礼と宮廷文化 明治の即位礼と大嘗祭を中心に」の内覧会参観。

 

午後二時より、明治神宮会館で開催された『記念コンサート』鑑賞。所功実行委員長が挨拶。「合田道人 童謡の謎コンサート」、「東儀秀樹×塩谷哲コンサート」鑑賞。

 

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆など。

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2017年10月19日 (木)

武貞英士拓殖大学大学院教授による「朝鮮半島情勢を読む」と題する講演内容

七月八日に開催された『アジア問題懇話会』における武貞英士拓殖大学大学院教授による「朝鮮半島情勢を読む」と題する講演内容は次の通り。

「朝鮮半島は七月四日非常な転換点を迎えた。アメリカは臆病者・弱い者と言われるのを最も嫌う。北朝鮮がICBМを発射したのに傍観したといわれるのが嫌なのでICBМとは言えなかった。翌日声明の中で訂正した。現実を直視するようになった。異次元の政策をアメリカはこれからとるであろう。東アジア動乱の時代を迎えた。

 

情勢分析には四つの眼が必要。①虫の目。②鳥の目。③魚の目。④蝙蝠の目。中国は北の核兵器を喜んでいる。移動式発射台は中国からの輸出。中国は『北朝鮮が核兵器を持っていても良いが撃たないでくれ』ということ。中国は北朝鮮の核開発に水面下で関わっている。貿易の金額を増やしている。中朝の物流を活性化している。一帯一路に北朝鮮を組み込んでいる。

 

アメリカが取る事が出来る選択肢は少なくなってきている。偶発的に戦争が起こる可能性は十分にある。韓国を守るのは嫌だとトランプ・アメリカが言い出す可能性あり。中国には北朝鮮を崩壊させてまで核問題を解決する気はない。

 

南北の対話が必要。東西ドイツの統一に韓国は学んでほしい。民族和解はドイツの知恵に学んでほしい。日本は拉致問題でピョンヤンに連絡事務所を置くべし。

 

金正男は不倫の子。金日成は初孫なので可愛がった。母親はモスクワで亡くなった。脱北者が亡命政府の首席に金正男を据えようとした。見せしめにカメラの前で殺された。

 

日本は敵基地攻撃能力・積極的防御能力獲得の検討(巡航ミサイル、弾道ミサイル、空対地ミサイル、早期警戒衛星、THAAD、空中給油機)。外交努力を続ける。近隣諸国との関係修復。日中、日露、日韓首脳会談。日米韓の政策協調は不可欠。北朝鮮には英国式の批判的関与(critical engagement)をすべし。拉致問題で北朝鮮と直接協議を再開する。的確な北朝鮮動向分析が必要。北朝鮮の変化に注目。金正恩委員長の側近・李洙墉(リスヨン)前外相が最高人民会議の外交委員長に。朝日友好親善協会顧問。日朝関係改善に意欲」。

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千駄木庵日乗十月十九日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆など。

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2017年10月18日 (水)

立憲民主・社民・共産を政治の世界から排除すべし

すでこの欄に掲載した主張をまとめたものですが、本日私が行ったこの度の総選挙に関する私の考えを語ったスピーチの草稿を掲載します。

             〇

偏向メディアは、共産・社民両党を繰り返し「リベラル」と報道している。「リベラル」という言葉は、定義が全く曖昧だ。独裁専制国家共産支那・北朝鮮を結果的に利する立場を取る政治勢力・政治家を「リベラル」と呼ぶ全く間違っている。

 

「リベラル」とは一体何なのか。共産党の志位も小池も「リベラル」という言葉を口にしないと思う。

 

社会主義・共産主義は、国民の自由を圧殺し、権力による統制国家・専制独裁国家を建設した思想である。実際にロシア・共産支那・北朝鮮などの社会主義・共産主義国家はそういう国家である。

 

中国共産党・朝鮮労働党は、世界の中でもっとも「自由」を圧殺している政党である。日本共産党・社民党は中国共産党・朝鮮労働党と同根である。この二つの政党は、戦後一貫して北朝鮮・共産支那と「友好関係」「兄弟関係」にあり続けてきた。だから自民党政権やアメリカに対しては激しく非難攻撃しても、共産支那・北朝鮮の独裁政治、強権政治・民衆圧迫・軍事侵略についてはあまり批判しない。偏向メディア・共産党・社民党(旧社会党)は、戦後一貫して共産支那・北朝鮮の手先であったが、今もそうなのである。まさに排除すべきである。

 

リベラル=自由を圧殺する社会主義共産主義政党を「リベラル」などと言うのは全く間違っている。と言うよりも偏向メディアに巣食っている共産主義者・社会主義者の謀略・情報操作である。

 

報道によると、枝野幸男氏は「私は日本国民の生活の安心、立憲主義、民主主義、自由な社会を守っていくために立憲民主党を結成することを決意した」と語った。

 

てあるならば立憲民主党は、「民主主義、自由な社会」を破壊する左翼全体主義集団すなわち共産・社民とは共闘できないどころか、これを敵として戦わねばならないはずである。しかし、そうではないのは、立憲民主党も共産・社民と同質なのである。 

 

「保守」「革新」という区別があるが、これも定義がまことに曖昧だ。「保守」と言っても「現状維持」戦後体制擁護」という「保守」と、「國體護持」「戦後体制打倒」という「保守」がある。

 

近年は「真正保守」という言葉が出てきた。「天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体日本の國體」を守るのが真の保守である。それを「真正保守」と言うと思う。また、歴史問題で自虐的な思想を抱いていないことも大切である。

 

国防問題や外交問題でまともなことを言っている政治家でも、肝心要の國體や歴史問題で、全く期待を裏切るようなことを言う人がいる。実に困ったことである。

 

尊皇精神を保持し、日本の傳統精神を重んじる政治家は、国防・安保・教育・憲法などのことでも正統な主張をする。ところが、尊皇精神が希薄で、日本の傳統精神について正しい理解がなく、歴史観もおかしい人は、他の事でもおかしな主張をする。また権力型政治家が多い。

 

今度の選挙について言えば、いろいろ不満はあっても、國體護持政党を支持する以外にない。亡国政党・利敵政党に政権を取らせてはならないと考える。

 

また国難に対処する国家体制の強靭化ということを考えれば、ブームや風に乗って政治家になろうという人たちに政権を委ねることはできない。となると、やはり自民党に入れるしかない。

 

小池百合子さんが、民進左派を排除したことを高く評価する。

しかし、小池さんが衆議院議員にならないのだから、小池さんが代表を務める政党が政権を掌握しても、小池さんが総理大臣になることはできない。防衛大臣・外務大臣にもなることはできない。また小池新党で当選する人々がどういう人たちか全くわからないし、政治経験が未熟な人も多いであろう。それでは、国難の時期に強力なる政府を作ることはできない。

 

従って、今度の選挙で小池新党に票を入れることは出来ない。色々不満はあっても、自民党に入れるしかない。

 

ともかく立憲民主・社民・共産を政治の世界から排除することが大切である。

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千駄木庵日乗十月十八日

午前は、諸事。

午後二時半より、芝の駐健保会館にて、『大行社幹部会』開催。顧問の一人としてスピーチ。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆など。

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日本人の自然信仰

 

日本人にとって自然とは、対立するものでも、征服するものでも、造り替えへるものでもなかった。自然を神々として拝ろがみ、自然に随順し、自然の中に抱かれて生活してきた。自然の摂理に歯向かふ時、人間は自然の報復を受けるといふことを体験的に知ってゐた。報復と言って悪ければ、摂理に逆らふことによって害を受けることを知っていた。日本人は古来、自然を畏敬し、順応しつつ生きて来た。

 

菅原道真は

このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに

と詠んだ。

 

伴林光平は

度會の 宮路に立てる 五百枝杉 かげ踏むほどは 神代なりけり

と詠んだ。

 

藤原俊成は

雪降れば 嶺の真榊 うづもれて 月に磨ける 天の香具山

と詠んだ。

 

かうした自然を神として拝ろがむ精神を回復することが今最も大切である。その上で、科学技術の発展を期するべきである。

 

日本神道は、天神地祇を祀る祭祀宗教であるが、神の偶像を拝むといふことはない。何処の神社にお参りしても、その神社の御祭神の神像を拝むといふことはない。日本神道は自然神・祖霊神そのものを拝むからである。

 

祭祀は、現代に生きる神話である。祭祀は、原初・始原への回帰であり、天地宇宙開闢への回帰である。それがそのまま新生となり革新となる。決定的な危機に際して、「原初の神話」を繰り返すことによってこれを打開する。

 

個人の生存も共同体の存立も「肇(はじめ)の時」「始原の時間」への回帰が大切である。個人も共同体も年の初めに新たなる希望と決意を燃やす。祭祀とはその「肇の時」「原初への回帰」の行事である。

 

日本の伝統信仰は自然神秘思想であることは間違ひないが、全てを神や仏といふ絶対者の支配に任せ、科学的思考・合理的思考を拒絶するといふ考へ方ではない。むしろ日本民族は実際生活においては、きはめて合理的・科学的な生活を営んできた。

 

近代科学技術文明による自然破壊・人間破壊の危機を救済するには、稲作生活を基本とした神代以来の天皇中心の祭祀国家・信仰共同体を今日まで保持しつつ、西洋文化・文明を受容し、それを発展せしめ、もっとも発達した工業国なった日本の精神伝統が大きな役目を果たすと考へる。

 

 

 

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千駄木庵日乗十月十七日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事など。

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2017年10月16日 (月)

錦の御旗と徳川慶喜の尊皇心

 

「鳥羽伏見の戦ひ」と呼ばれる戦ひで、何故幕府軍は敗退してしまったのであらうか。史家たちかあげる原因は次の通りである。「①士気・戦意の違ひ。政府軍が士気・戦意共に勝っていた。②幕府方の戦争目的の曖昧さ。③幕府方の計画性と指揮能力の欠如。④新政府軍の武器が幕府軍の武器よりも優れていた。⑤幕府方内部の裏切りと内紛。⑤総大将たる徳川慶喜の戦意・統率力の欠如。」

 

そして、多くの史家は、開戦翌日の一月四日に、新政府軍が「錦の御旗」を掲げたので、幕府軍の士気が萎えてしまったと論じてゐる。新政府軍が「錦の御旗」を掲げたことが、史家のいふところの「両軍の士気・戦意の喪失、幕府内部の所謂『内紛』、徳川慶喜の戦意欠如」の根本原因である。

 

錦の御旗とは、朝廷の軍即即ち官軍の旗印であり略称を錦旗(きんき)と言ふ。赤地の布に日月の形に金銀を用いて刺繍したり描いたりした旗を、朝敵討伐のしるしとして天皇から官軍の総指揮官に下賜される。承久の乱(一二二一)に際し、後鳥羽上皇が近江守護職佐々木広綱をはじめ朝廷方の武士に与へたのが歴史上の錦旗の初見と傳へられる。

 

『トンヤレ節』には、「宮さん宮さんお馬の前に ヒラヒラするのは何じやいな トコトンヤレ、トンヤレナ あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じや知らないか トコトンヤレ、トンヤレナ」と歌はれてゐる。

 

「鳥羽伏見の戦ひ」に登場した「錦の御旗」は、岩倉具視が、国学者・玉松操に頼んで、適当にでっち上げさせたものだとか、贋作だとか言ふ説がある。

 

明治天皇は、一月三日深夜、議定(王政復古により置かれた明治新政府の官職名。総裁・参与とともに三職の一。皇族・公卿・諸侯の中から選ばれた)仁和寺宮嘉彰親王(後の小松宮・上野公園に銅像が建てられてゐる)を軍事総裁に任ぜられ、翌四日には「錦の御旗」と征討の節刀を賜り、征討大将軍に補任された。

 

明治天皇から征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王に下賜された「錦の御旗」が、「贋作・でっち上げである」などといふ説は全く成り立たない。

 

仁和寺宮嘉彰親王は、新政府軍を率いて御所をご進発、午後には洛南の東寺に陣を置かれ、錦旗が掲げられた。

 

西郷隆盛は一月三日付の大久保利通宛の書状に、「初戦の大捷、誠に皇運開立の基と、大慶此の事に御座候。兵士の進みも実に感心の次第驚き入り申し候。…明日は錦旗を押立て、東寺に本陣を御居(す)ゑ下され候へば、一倍官軍の勢ひを増し候事に御座候…」と書いた。

 

一月五日、征討大将軍が鳥羽街道を錦旗を立てて南下すると、それを遠望した幕府軍は浮足立ち、淀城へ退却した。ところが、淀藩は幕府軍の淀城入場を拒んだ。

 

小生をして言はしむれば、津藩・淀藩の行動は決して裏切りではなく、上御一人日本天皇への恭順である。徳川慶喜の戦意喪失も決して臆病風に吹かれたのではなく、彼の尊皇精神がさうさせたのである。

 

『徳川慶喜公伝』(渋沢栄一著)は鳥羽伏見の戦ひにおける徳川慶喜の心情を次のやうに記してゐる。「…やがて錦旗の出でたるにを聞くに及びては、益々驚かせ給ひ、『あはれ朝廷に対して刃向ふべき意思は露ばかり持たざりしに、誤りて賊名を負ふに到りしこそ悲しけれ。最初たとい家臣の刃に斃るるとも、命の限り會桑を諭して帰国せしめば、事此に至るまじきを、吾が命令を用ゐざるが腹立たしさに、如何やうとも勝手にせよと言ひ放ちしこそ一期の不覚なれ』と悔恨の念に堪へず、いたく憂鬱し給ふ」。

 

そして慶喜はフランス大使レオン・ロッシュに対して「我邦の風として、朝廷の命と称して兵を指揮する時は、百令悉く行はる。たとい今日は公卿大名の輩より申し出たる事なりとも、勅命といはんには違背し難き國風なり。されば今兵を交へて此方勝利を得たりとも、萬々一天朝を過たば、末代まで朝敵の悪名免れ難し。…当家中興の祖より今に二百六十余年、尚も天朝の代官として士民の父母となり国を治めたる功績を何ぞ一朝の怒に空しくすべけんや。尚も余が本意に背き、私の意地を張りて兵を動かさんとせば、当家代々の零位に対して既に忠臣にあらず、まして皇国に対しては逆賊たるべし。」と言明したといふ。

 

徳川慶喜の尊皇精神が、明治維新を成就せしめた大きな原因の一つである。これは決して慶喜の戦闘精神の欠如などと批難されるべきことではない。わが国に「天皇の代官」なるものは必要ではない。天皇御自らが日本国を統治されるのが本来の姿である。一君万民の日本國體が明らかになることによって、内憂外患を取り除くことが出来るのである。

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千駄木庵日乗十月十六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、資料の整理、『政治文化情報』発送準備など。

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2017年10月15日 (日)

日本文化の国粋性と包容性

日本伝統信仰たる神道の神官が日本思想史・文学史において占める位置は大きい。賀茂真淵・吉田兼好・鴨長明がその代表的人物である。しかも兼好や長明は仏教の影響も強く受けていた。神道が排他的ではない証拠である。日本の神を祭る人は実に寛容にして大らかであった。これが日本文化そのものの包容性の原点であったと思われる。

 

国粋精神を謳歌した学者たちにおいても、外国文化受容に対して積極的だった。

 

例えば、平安前期・宇多天皇の御代の右大臣・菅原道真は優れた漢学者であり法華経の学者でもあった。言わば外来の最高の学問を身に付けた人であった。

 

その道真が編纂した歴史書『類聚国史』(二百巻)は神祇・帝王のことが冒頭に記されていて、仏教のことについては外国関係のものとしてはるか後ろの方に輯録されているという。菅原道真はまた遣唐使の廃止を建言した人物でもある。

 

日本の伝統を重んじる精神があったればこそ外国文化を正しく学び自己のものとすることができたのである。道真はまさに主体性と開放性とを併せ有する日本文化のあり方を体現した人物であったと言える。

 

徳川初期の儒学者・兵学者である山鹿素行は、日本の皇統の正統性と政治の理想が古代において実現されていたと論じた『中朝事実』という歴史書を著した。これは日本の特質を儒教思想によって論じている。

 

「中朝」とは世界の中心に位置する朝廷の意で、日本は神国であり天皇は神種であるとの意見が開陳されている。支那は自国を「中華・中国・中朝」とし、外国をことごとく野蛮な国と断じていた。素行は、その「中華・中国・中朝」は実に日本であるとして、書名を「中朝事実」としたのである。つまり国粋思想を支那の言葉によって論じたのである。

 

室町・戦国時代の神道家である吉田兼倶(かねとも)は、「吾が日本は種子を生じ、震旦(支那注)は林葉を現はし、天竺(注インド)は花実を開く。故に仏教は万法の花実たり、儒教は万法の枝葉たり、神道は万法の根本たり。彼の二教は皆是れ神道の分化なり。枝葉・花実を以て其の根源を顕はす。花落ちて根に帰るが故に今此の仏法東漸す。吾が国の、三国の根本たることを明さんが為めなり」(『唯一神道名法要集』)と論じでいる。

 

日本の二大外来宗教・思想たる仏教と儒教が神道から分かれた枝葉・花実であるという日本を中心とする国粋思想である。儒教仏教を包摂した根底にこうした強靱な生命力があったと言える。

 

近世の国学は幕末の尊皇攘夷運動の思想的基盤の一つであったが、決して排他的な偏狭な考え方に支配されていたわけではない。

 

例えば、平田篤胤は「仏法すなわち神の枝道にて、仏すなわち天竺の神なり。…凡て世の中のことは善きも悪きも、本は神の御所業(しわざ)に因れることにて、則公(おほやけ)ざまにも立置るゝ事なれば、これも広けき神の中の一ノ道なり。」(『鬼神新論』)と論じている。仏教は広大なる神の道の一つの枝でありインドの神だというのである。

 

平田篤胤はまた「そもそもかく外国々より万づの事物の我が大御国に参り来ることは、皇神たちの大御心にて、その御神徳の広大なる故に、善き悪しきの選みなく、森羅万象ことごとく皇国に御引寄せあそばさるる趣を能く考へ弁へて、外国より来る事物はよく選み採りて用ふべきことで、申すもかしこきことなれども、是すなわち第の御心掟思ひ奉られるでござる」(静の岩屋)と論じている。

 

外国から多くの文物が日本に入ってくるのは日本の神の御心で有るからこれをよく取捨選択すべきだというのである。

 

篤胤の門下にして勤皇の大義を説いた大国隆正は、「今の世の人は、学問とだにいへば儒学のことにこころえてあれど、儒学をのみ学ぶはこと狭し。『神代巻』を本書とし、支那、天竺、西洋よりわたり来れる書籍をすべて、わが神代巻の注釈書とおもひてみるべきなり。…わが門に入る人はたれもかくのごとくこゝろえて、ひろく学ぶべし。」(『本学挙要』)「外国の人の入り来るは、かしこき大御世の御栄にて、よろこぶべきことなるを、世の人の、…ひたすらにうちしりぞけんとするは、天神地祇のみ心を、悟らぬものならんかし。」(『馭戎問答』)と論じでいる。

 

近代においては、西洋科学技術を盛んに取り入れ自家薬籠中のものにした。西洋科学技術文明を取り入れつつ、傳統文化を保持している国が日本である。

 

近代科学技術文明は西洋合理主義を基盤としている。日本民族がこれを拒絶することなく自己のものとすることができたのは、日本民族には本来的に合理精神があったからである。非合理精神と合理精神を調和統合せしめる力が日本にはあるのである。日本は多少の矛盾はあったが、近代化を為し遂げることができたのである。

 

日本の文化は、外来文化を包容摂取したが、外来文化は日本に伝来し日本に融合されることによって高度なものとなり洗練された。それは日本民族の文化感覚がもともと優れたものであったからにほかならない。

 

蓮田善明氏はその著『神韻の文学』において次のように述べておられる。「儒・道教、或は仏教が日本に入って来て、直接に(日本の注)神に会って、どのやうに高いものに達し得たか、どのやうに大きな光に透されたかを見る必要がある。日本人が、それらの有するあの誇りかな理法に絡(まつ)はられつゝも遂に、それに扼殺されてあの生の倦怠と惨落に陥るといふやうなことなく、神ながらのまさ道をまことに無窮の隆昌を保有してきた事実を知る必要がある。日本文化が異文化を抱合することによって高まったとなすが如き思想は正しくない。…我々は日本が儒老仏教によって真の意味に於て生命を国のいのちを豊かにされたとも向上されたとも信じない」と論じておられる。

 

日本民族にこの様な誇りと自尊心があったからこそ、日本文化は多くの外来思想・文化を取り入れつつそれをより高度なものにしてきたのである。

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千駄木庵日乗十月十五日

午前は諸事。

午後は、資料の整理。

午後五時より、原宿の南国酒家にて、『國粋青年隊創立五十周年祝賀会』開催。国民儀礼の後、吉岡亜樹会長が挨拶。渡邊謙二氏及び小生などが祝辞を述べ、盛宴に移った。

帰宅後は、原稿執筆など。

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國防に関してはわが國は法治國家ではない

 

『現行占領憲法』第九条には「1・日本國民は、正義と秩序を基調とする國際平和を誠実に希求し、國権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、國際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2・前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。國の交戦権は、これを認めない」と書かれてゐる。

 

この条文を素直に讀めば、『現行占領憲法』は自衛権・國防軍の存在を否定してゐると解釈するのが至当である。

 

憲法学の専門用語の解釈ではどうかは知らないが、ごく当たり前の國語の解釈を以てすれば、國家防衛即ち自衛戦争は最重要な「國権の発動」である。北朝鮮や共産支那などからの武力侵略は最も悪質なる「國際紛争」である。これを阻止するために「國権の発動たる戦争」「武力による威嚇又は武力の行使」を行ふのは國家として当然の権利だ。それを一切否定する『現行憲法』第九条第一項が亡國条文であることは明白だ。

 

従って、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。國の交戦権は、これを認めない」といふ第二項は、國家の存立を根底から否定する条文である。「前項の目的」とは「國際紛争を解決する手段」のことであり、それは「侵略戦争」を意味するから、自衛のための戦力は否定してゐないといふ解釈は『現行占領憲法』の「前文」の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」というまったく他力本願の精神に立脚すれは全く成り立たない。

 

『現行憲法』は「戦勝國による日本占領基本文書」であり、二度と再びわが國が米英支ソといふ戦勝國に対して立ち向かふことのないようにすることを目的として押しつけられたのだから、「交戦権」も「戦力」も「陸海空軍」も持つことを許されなかったのである。

 

しかし、その後の國際関係に変化によりアメリカの意向で創設され、現実にわが國に存在する自衛隊は、立派な「陸海空軍」であり、武力の行使又は威嚇を行ふ実力組織であり、戦力も交戦権も保持してゐる。「戦力」「交戦権」を持たない「軍」はあり得ない。

 

そして、この自衛隊といふ名称の「陸海空軍」によって、わが國の安全と独立が守られてゐる。この事実は、自衛隊が違憲であるか否かに関はらず、厳然たる事実である。そしてそのことは、「國民大多数の合意になってゐる」と言はれる。『現行占領憲法』が如何に現実を無視してをり、空文となってゐるかは火を見るよりも明らかである。

 

吉田茂内閣総理大臣(当時)は、昭和二十一年六月に國會で「第九条第二項において、一切の軍備と國の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したのであります」と述べた。これが『現行占領憲法』の立法意志であり、まともな解釈である。

 

『現行占領憲法』第九条を素直に讀めば、「自衛のためであらうと戦争はしない」「一切の戦力・陸海空軍は持たない」といふ意味であることは明白だ。前述した通り「前文」の精神に立脚すればそれは当然である。

 

第九条がある限り誰が見ても陸海空軍である自衛隊は「陸海空軍」と見做されないのである。「交戦権」を否定されてゐるのに事実上「陸海空軍」があるといふのは全くの矛盾である。

 

したがって、「現行憲法」がある限り、自衛隊は憲法上「國軍」として認知されず、何時までも誰かが言った「違憲合法」といふ絶対矛盾の存在であり続けなければならない。つまり國防に関してはわが國は法治國家ではないのである。こんな憲法は根底から否定されなければならな

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千駄木庵日乗十月十四日

午前は、諸事・

午後は、資料の整理。

午後六時より、神田学士会館にて、『憲法懇話会』開催。慶野義雄平成國際大学教授が「憲法改正への現実的対応ーもう一つの道」と題して報告。続いて「三潴信吾氏著『日本憲法要論』を輪読、討論。

帰宅後は、原稿執筆など。

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2017年10月14日 (土)

今朝思ったこと

偏向メディアは、共産・社民両党を繰り返し「リベラル」と報道しているが、社会主義・共産主義は、国民の自由を圧殺し、権力による統制国家・専制独裁国家を建設せんとする思想である。

 

実際にロシア・共産支那・北朝鮮などの社会主義・共産主義国家はそういう国家である。

 

リベラル=自由を圧殺する政党を「リベラル」などと言うのは全く間違っている。と言うよりも偏向メディアに巣食っている共産主義者・社会主義者の謀略・情報操作である。

 

偏向メディア・共産党・社民党(旧社会党)は、戦後一貫して共産支那・北朝鮮の手先であったが、今もそうなのである。まさに排除すべきである。

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橋下富太郎麗澤大学助教による「新渡戸稲造における武士道」と題する講演内容

七月一日に開催された日本学協会主催『日本学講座』における橋下富太郎麗澤大学助教による「新渡戸稲造における武士道」と題する講演内容は次の通り。

 

「麗澤大学は道徳と國體を基軸に置く大学なので、国際的に活躍する人間は日本のことをよく学ぶべきであるという方針である。私たちのルーツを骨身に沁み込ませたいという学生が増えて来ている。

 

新渡戸稲造先生の知名度は実績に比べると低い。人物・実績の背景には家の伝統・祖先が必ずある。新渡戸稲造の祖父・伝(つとう)は七戸藩家老。開拓事業に人生を捧げる。父・十次郎も開拓事業に従事。藩の勘定奉行。晩年蟄居。十次郎は父・伝より先に亡くなった。新渡戸稲造は十次郎の三男として文久二年(一八六二)生まれた。戊辰戦争で東軍となり敗北。降伏した時に屈辱感をおぼえた。立身出世しなければならないというモチベーションはこの屈辱感にあった。

 

明治四年(一八七一)稲造は叔父・大田時敏の養子となり上京。家名を挽回したいという思いに駆られていた。明治六年東京外国語学校に入学。同十年に故郷より遠い札幌農学校に入学。十一年に受洗。十六年に東京大学に入学。外山正一教授に『太平洋の橋になりたいと思います』『日本の思想を外国に伝え、外国の思想に日本に普及する媒酌になりたいのです』(『帰雁の蘆』)と表明した。十六年、大田時敏など家族の援助で渡米し、ジョンズ・ホプキンス大学に留学。クエーカーと出会う。二十四年メアリー・エルキントンと結婚。帰国して札幌農学校教授。三十三年(一九〇〇)『武士道』(英文)刊行。三十四年台湾総督府技師・殖産課長。三十六年京都帝国大学教授。三十九年から大正二年まで第一高等学校校長。四十二年から東京帝国大学教授。大正七年(一九一三)東京女子大学初代校長。大正八年国際連盟事務局次長就任のため渡欧。十五年に帰国後貴族院議員。

 

著書『武士道』は、明治天皇に献上している。『武士道』は限られた精神論ではなく、すそ野の広い内容を帯びている。『日本には道徳教育はない』と言われたことへのアンチテーゼとして書いた。『武士道』はある意味でバイブルである。創唱宗教にはバイブルが求められる。『古事記』『日本書紀』は教典として書かれたわけではない。『武士道』も然り。武士の目指した道徳を整理し分類して書かれている。一九〇〇年以前は辞書に『武士道」という言葉はない。この著書は『武士道』という言葉を一般化した。

 

人間としてのお手本が武士。戦闘する者としての武士の実用性・素養が大きく変化するのが江戸時代。為政者・行政官としての素養へと変った。それ以前の武士は勝てば良かった。必ずしも道徳的ではなかった。死に対する平安は『禅』によって得られている。しかし物足りないものがあった。忠君愛国としての国民道徳は神道によって得られ、仁は儒教によって得られた。『士は義の為に死ぬ』。死に値しないことの為に死ぬのは『犬死』。嘲笑の的となった。

 

新渡戸稲造こそ、日本及び天皇に対する忠義の士であった。愛国心が強ければ強いほど語学を学ばねばならなかった。発信する力を持たねばならない。新渡戸は『日本の武士道の跡を継ぐのはキリスト教である』と言っている。昭和六年、新渡戸稲造がジュネーヴでの国際聯盟事務局での七年の勤務を終えるに際し、或るイギリス人の友人の慫慂に応えて著した『日本-その問題と発展の諸局面』と題する英文の著述において、天皇について詳しく論じている。『天皇は国民統合の象徴』という言葉が出てくる。天皇の本質を表す言葉として『象徴』という言葉を使っている。GHQの関係者は当然この本を読んでいたであろう。

 

伊藤博文は『日本の基軸となるものは皇室あるのみ』と言った。日本人としてのあり方・道徳の指標は天皇・皇室である。新渡戸稲造の意思を継いでゆくべし。武士道を素養として身につけさせるには新渡戸の『武士道』を学ばせることが大事」。

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千駄木庵日乗十月十三日

午前は、諸事。

 

午後は、原稿執筆の準備。

 

午後五時より、虎ノ門の笹川平和財団ビルにて、『第二回サイバーセキュリティ月例セミナー』開催。茶野順子常務理事が挨拶。田中達浩氏(富士通システム統合研究所 安全保障研究所 主任研究員 元通信学校長兼久里浜駐屯地司令、元陸将補)が「サイバー抑止について」と題して講演。活発な質疑応答が行われた。山口昇参与(軍事評論家・元陸上自衛隊研究本部長)がモデレータ―。

 

この後、赤坂にて、友人ご夫妻と懇談。

 

帰宅後は、原稿執筆。

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2017年10月12日 (木)

「清明心」は神話時代以来わが國の重要な道徳観念

 

「清明心(清く明らかなこと・きよらけくあきらけき心)」は、神話時代以来わが國の重要な道徳観念である。日本人は、「あいつは悪い奴だ」といはれるよりも、「あいつは汚い奴だ」といはれる方を厭ふ。天照大神は、高天原に上ってきた須佐之男命に「しかあらば、汝が心の清く明きは何をもって知らむ」と仰せられた。須佐之男命は、ご自分の「清明」を証明するために「うけひ」をされた。

 

また、天照大神が天の岩戸からお出ましになり、その御光が天下に輝きわたった時、八百萬神が一斉に「天晴れ、あな面白、あな楽し、あな清明(さや)け、おけ」と唱へて、高天原みな笑ったと、『古語拾遺』に記されてゐる。日本國民は古来、「清けく明けく」(清明心)を最高の価値として来たのである。

 

 天智天皇は

 

「渡津海の豐旗雲に入り日さし今夜の月夜清明(あきらけく)こそ」

(海空に、豊かに旗の如くたな引く雲、それに入り日がさしてゐる。今夜の月夜は明らかなことであらう。)

 

と詠ませられてゐる。「清々しい」といふほどの心にこの「清明」の文字をあてた御心が大事である。「清明心(汚れなく・清く・くもりなく・明らけき心)」にあこがれ「くらき心」「きたなき心」を嫌った心が日本人の心である。神道が禊祓を大切な行事とするのもこの精神によるのである。

 

「清明心」「清き心」の傳統は、日本の倫理思想の中に力強く生きてゐる。そしてそれは、絶対尊皇精神と一体の倫理観であった。日本武尊の御事績を拝すればそれは明らかである。

 

和辻哲郎氏は、「上代人は、全体性の権威を無限に深い根源から理解して、そこに神聖性を認めた。そして神聖性の担い手を現御神や皇祖神として把握した。従って全体性への順従を意味する清明心は、究極において現御神や皇祖神への無私なる帰属を意味することになる。この無私なる帰属が、権力への屈従ではなくして柔和なる心情や優しい情愛に充たされているところに、上代人の清明心の最も著しい特徴が看取せられるべきであろう。」(『日本古代文化』)と論じておられる。

 

平田篤胤は、「抑我が皇神の道の趣きは、清浄を本として汚穢(ケガレ)を悪(キラ)ひ、君親には忠孝(マメ)に事(ツカ)へ、妻子(メコ)を恵みて子孫を多く生殖(ウミフヤ)し、……家の栄えむ事を思ふぞ、神ながら御傳(ミツタ)へ坐(マ)せる真(マコト)の道なる。」(『玉襷』)と論じてゐる。

 

「清明心」は「まごころ」といはれる精神であり、中世神道においては「正直」と称せられるものである。偽善や嘘を嫌ふ心である。無私の心であり我執なき無我の心である。

 

西洋精神が自我を拡張し、自我を確立することを根本とするのとは対照的に「無我」を根本とするのである。無我・無私となられて神を祭られる天皇は、「清明心」の根源者であらせられ、体現者であらせられるのである。ゆへにこそ「現御神・現人神」と仰がれるのである。そして現御神日本天皇に対し奉り無私となって仕へまつる國民の精神と行動も「清明心」なのである。

 

明治天皇は

 

さしのぼる朝日のごとくさはやかにもたまほしきは心なりけり

 

あさみどり澄みわたりたる大空の広きをおのが心ともがな

 

と詠ませられてゐる。この御製の大御心こそ清明心であると拝する。

 

村岡典嗣氏は「まごゝろといひ、大和心といふものには、一味もののはれと通ずるところがある。而してこれまた、現人神にます天皇を對象とすることに於いて、重なる存在をはじめに有した丹き心本来の性格であった。……正統記に、儒教的の有徳王君主の思想を少なくとも絶對的に否定しつべき積極的主張の十分でなかったことを、感ぜざるを得ざらしめる。これは國学者の立場からせば、所謂漢意を去りえなかったのである。天皇は天皇にまします故に貴く、善悪の論を離れて絶對に尊びまつるべしといふのは、合理主義以上のまた以外の至情である。丹き心の根柢にはこの情味がある。この事は、國学をまって、始めて明瞭なる自覺を以て發揮せられたところである。されば親房以後近世の日本的儒学者の間に於いては、就中、山鹿素行の如き、頗る日本精神の主張に於いて、一層の進歩を示したとはいへども、未だこの點國学ほど純粋ではなかった憾みがある。而してこは、國学の古典学を有しなかった爲である。」(『日本思想氏研究第四』)と論じてゐる。

 

わが國における「尊皇精神」「忠義」とは、現御神日本天皇に対する絶対的な仰慕の心・恋闕の心をいふのである。一切の私心なく天皇にまつろひ奉ることそのことが最高の道義なのである。それを「清明心」といふのである。

 

「丹(あか)き心」とは、「赤心(せきしん)」であり、誠実、偽りのない心、まごころ、美しい心、きれい心、清い心、まことの心である。すなはち日本精神の骨髄たる「清明心」である。

 

古代における「清明心」(誠実、偽りのない心、まごころ、美しい心、きれい心、清い心、まことの心)は、中古時代には『源氏物語』において「もののあはれ」と表現され、中世においては『神皇正統記』などにおいて「正直」と表現され、近世においては本居宣長などによって「やまとこころ」と表現され受け継がれた。 

わが國の「もののふの道」は、『古事記・萬葉』の歌々を見ても明らかな如く、日本の中核的な伝統精神から発した。上御一人・現御神に対する恋闕が根幹である。

 

大東亜戦争後、日本弱体化を目的として押し付けられた誤れる「平和主義」を脱却して、「ますらをの道」「もののふの道」に回帰すべきである。それこそが、共産支那や北朝鮮の軍事的政治的恫喝からわが国を守り抜き真の平和を確立する方途であると確信する。

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千駄木庵日乗十月十二日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆・脱稿・送付。書状執筆など。

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この頃詠みし歌

母上が護り来たりし小さき御堂に如意輪観世音鎮座まします

 

古き町に七十年を生きて来て町を歩めば知り人多し

 

時計の針が二時を指して今日もまた我の一日(ひとひ)は終らむとする

 

流れゆく雲の間に煌々とまんまる月は光り放てり

 

父と子がバスを待つ姿眺めつつ我に子無きをさみしみてをり

 

たらちねの母の面影浮かび来るこの静か夜を一人過ごせば

 

たらちねの母の面影今日もまたやさしくわれを護りたまへり

 

秋の夜は静かなりけりものを書くわが筆の音さらさらと鳴る

 

亡くなりし人を偲ぶと集ひ来し人々もまた老いにけるかな

 

ビルの上に朱色の半月浮かびをり神秘の世界に誘ふ如く

 

若くして身罷りし友の面影はまだくっきりと眼裏(まなうら)にあり

 

慈しみ深きわが母思ひ出し胸迫りくる日々にしありけり

 

若き日に命を懸けて戦ひし父を思へば胸迫りくる

 

上野山休日の午後は賑はひて幼な児たちの声溢れゐる

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千駄木庵日乗十月十一日

午前は、諸事。

午後は、本日行う『萬葉雌雄』講義の準備。

午後六時半より、豊島区立駒込地域文化創造館にて、「萬葉古代史建機友会」開催。小生が笠金村などの歌を講義。質疑応答。終了後、出席者の方々と懇談。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

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2017年10月11日 (水)

石川県護国神社に建立されてゐる『大東亜聖戦大碑』『清水澄博士顕彰之碑』について

 

石川県護国神社境内には『大東亜聖戦大碑』が建立されてゐる。平成十二年八月四日の建立である。草地貞吾元陸軍大佐(関東軍参謀作戦班長)の書。高さ十二㍍。『銘』には草地氏の

 

「大東亜 おほみいくさは 万世の 歴史を照らす 鏡なりけり」

 

といふ歌が刻まれてゐる。背面には「八紘為宇」と刻まれてゐる。

 

桑木崇秀氏(陸軍軍医としてインパール作戦に参加。ビルマ英霊顕彰会副会長)はこの大碑の意義について、「大東亜戦争が英霊のお蔭で白色人種の植民地を解放し、万民平等の世界をつくった―――そのことを日本人は世界に誇るべきであるのに、日本は侵略戦争をした、アジアに迷惑をかけたなどと謝罪ばかりしている。広島でも、国際法無視のアメリカの原爆にやられたのに、『二度と過ちは繰り返しません』などと、まるで日本が悪かったように反省している。…こうした日本の空気を、日本人の心を一新しようというのが、この聖戦大碑建立の意義であろう」(平成十二年八月二十五日 『戦友連』三七九号)と述べてゐる。

 

すぐそばに『清水澄博士顕彰之碑』建てられてゐる。

清水澄博士は、明治元年金沢市に生まれ、東京帝国大学法科を卒業後、学習院大学教授となり、明治三十八年法学博士の学位取得し、宮内省、東宮御学問所の御用掛を拝命された。大正天皇、昭和天皇に御進講され、行政裁判所長官、枢密院顧問官を経て、敗戦後、最後の枢密院議長に任ぜられた憲法学者である。

 

「碑文」には大要次のやうに記されてゐる。

「憲法学者清水澄博士(金沢市東山三丁目御出身)は占領軍司令部が強制した日本国憲法施行の日、日本国の天皇制(原文のまま)の将来を憂慮され、幽界よりわが國體の護持と皇室の御安泰、今上陛下の御在位を祈願しようと自決を決意され、憂国の至誠極まる所、汨羅(べきら)の淵に身を投じた楚の国の忠臣屈原の故事に倣い、九月二十五日、熱海の錦ヶ浦の波涛に愛国赤心の躯幹を投ぜられた。敗戦日本の正気阻喪の惨状は正視するに耐え難いものが連続的に生起した。博士はわが國の伝統・文化の変革し行く姿を見、祖国の将来を憂慮され、ことに建国以来、国の生命、民族の中心として連綿と存在する皇室の上に思いをいたされ、身の置き処が無かったのである。東京の青山墓地に眠る博士の墓石に記された嗣子虎雄氏の碑文の中に『ケダシソノ生涯ハ君國ニ対スル忠誠ノ念ヲモッテ終始シ』とある如く、博士の衷情はただ一つ祖国の道義を万代に堅持せんがための至情以外の何ものでもなかった。新憲法下ここに三十年、博士の憂慮された如く、この間政治 経済 文化 その他あらゆる分野において、正統の道義は地に落ち、全て自己中心の個人主義の思想が瀰漫し、国の伝統と民族の歴史に背反すること夥しく、まさに祖国の危機と言わざるを得ない。この亡国的惨状打開の途は、国の歴史と伝統に基づく民族の正気の恢弘、維新以外にあり得ない。云々 昭和五十二年九月 林屋亀次郎」。

 

汨羅は支那湖南省北部を流れる湘江の支流。江西省修水県の西南を源とし、西流して湘水に入る。

林屋亀次郎氏は、明治十九年金沢市生まれ。昭和五十五年逝去。昭和二十二年以来、参議院議員を三期務められた。

 

 清水澄博士の『自決ノ辞』には次のやうに記されてゐる。

「新日本憲法ノ發布ニ先ダチ私擬憲法案ヲ公表シタル團体及個人アリタリ其中ニハ共和制ヲ採用スルコトヲ希望スルモノアリ或ハ戦争責任者トシテ今上陛下ノ退位ヲ主唱スル人アリ我國ノ將來ヲ考ヘ憂慮ノ至リニ堪ヘズ併シ小生微力ニシテ之ガ對策ナシ依テ自決シ幽界ヨリ我國體ヲ護持シ今上陛下ノ御在位ヲ祈願セント欲ス之小生ノ自決スル所以ナリ而シテ自決ノ方法トシテ水死ヲ択ビタルハ楚ノ名臣屈原ニ倣ヒタルナリ

元枢密院議長  八十翁 清水澄  法學博士  昭和二十二年五月 新憲法実施ノ日認ム

追言 小生昭和九年以後進講(宮内省御用係トシテ十数年一週ニ二回又ハ一回)シタルコト従テ龍顔ヲ拝シタルコト夥敷ヲ以テ陛下ノ平和愛好ノ御性質ヲ熟知セリ従テ戦争ヲ御賛成ナカリシコト明ナリ」。

 

今日、「碑文」に書かれた憂慮すべき状況は愈々益々深刻になってきてゐる。憲法改正が現実の問題として論じられて来てはゐるが、肝心要の國體については、欧米の権力国家観・契約国家論に基づく『国民主権』といふ日本國體に合致しない『原理』を踏襲するのでは、真の「憲法改正」でもないし「自主憲法制定」でもない。

 

日本天皇は権力・武力を以って国家国民を支配される御存在ではない。また、天皇と国民は権力的対立関係にあるのではない。天皇と国民は精神的信仰的一体関係にある。これを君民一体の国柄といふ。主権が君主にあるとか国民にあるとかといふことは、わが國の國體には全く無関係なのである。したがって、「国民主権」などということを憲法に麗々しく憲法に記す必要はさらさらない。そのやうなことを記すことは天皇を権力者と仰ぎ奉ることになり、重大な國體破壊である。

 

『清水澄博士顕彰之碑』のすぐ近くに『大東亜聖戦大碑』が建立された事は実に意義深いことである。自虐史観の払拭=大東亜戦争の意義の恢弘と占領憲法破棄・正統憲法回復とは一体である。

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「第七十八回日本の心を学ぶ会」のお知らせ

第七十八回日本の心を学ぶ会

衆院選後の情勢と展望を考える

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28日の臨時国会冒頭で衆議院は解散し1022日の投票日に向けて選挙戦が始まりました。
今回の解散について「大義なき解散」「自己都合解散」などという批判があります。

しかしながら安倍総理は「今年の暮れから来年にかけて北朝鮮危機は緊迫化していくため選挙を行う状況でなくなる」との見方を示し解散について理解を求めました。

今回の選挙は北朝鮮による核の恫喝を受けている中で行われることになり必然的に日本の安全保障と憲法改正が重要な争点として浮上しております。

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8日の党首討論の中で安倍総理は憲法を改正し自衛隊の存在を憲法に明記することを公約として掲げて おり、野党の中にも憲法改正を掲げる勢力がいることから改正の発議に必要な三分の二以上を確保できるかが選挙の焦点の一つとなりそうです。

アメリカは12月以降に北朝鮮を軍事攻撃するという予測があり、第二次朝鮮戦争が始まれば我が国にとっても決して対岸の火事ではすありません。

今回の衆院選はまさに国難の迫る中で行われる選挙であり、どの政党のどのリーダーがわが国の独立と国民の生命自由財産を守れるのかが問われるといえます。

我々は今回の衆院選の結果が今後の日本の運命に大きな影響を及ぼすことを胸に刻んで投票しなければなりません。

今回の勉強会は衆院選の投票日の一週間後となります。衆院選の結果と我が国の今後について考えてみたいと思います。
        
【日時】平成2910月月29日 1800から

【場 所】文京シビックセンター 3階会議室A
住所:東京都文京区春日11621

http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/civiccenter/civic.html
◎東京メトロ丸ノ内線・南北線 後楽園駅 5番出口【直結】
◎都営地下鉄三田線・大江戸線 春日駅
 文京シビックセンター連絡口【直結】
JR中央・総武線水道橋駅 【徒歩約10分】

【講 演】

「衆院選後の情勢と展望について()

講師 遠藤健太郎氏 日本政策協会

「国難と選挙―保守・革新・リベラルとは何か?」
講師 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表


【司会者】林大悟
【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)
【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

               〇

この告知文は主催者が作成しました。

 

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千駄木庵日乗十月十日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆、明日行う『萬葉集』講義の準備、書状執筆など。

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2017年10月10日 (火)

『ボストン美術館の至宝展-東西の名品、珠玉のコレクション』参観記

本日参観した『ボストン美術館の至宝展-東西の名品、珠玉のコレクション』展は、「世界有数の規模と質を誇るボストン美術館のコレクションは、国や政府機関の経済的援助を受けず、ボストン市民、個人コレクターや企業とともに築かれています。本展では、美術館を支えてきた数々のコレクターの物語に光を当てながら、発掘調査隊の成果を含む古代エジプト美術から、歌麿や蕭白らによる日本・中国美術の名品、ボストン市民の愛したモネやファン・ゴッホを含むフランス絵画のほか、現代美術までを選りすぐりの80点でご紹介します」(案内文)との趣旨で開催された。

 

フィンセント・ファン・ゴッホ《郵便配達人 ジョゼフ・ルーラン》1888年《子守唄、ゆりかごを揺らすオーギュスティーヌ・ルーラン夫人》1889年、英一蝶 《涅槃図》江戸時代1713年(正徳3年)、喜多川歌麿《三味線を弾く美人図》江戸時代、1804-06年(文化1-3年)頃、ジョン・シンガー・サージェント 《フィスク・ウォレン夫人(グレッチェン・オズグッド)と娘レイチェル》1903年、曾我蕭白《風仙図屏風》江戸時代の1764年(宝暦14年/明和元年)頃、《ツタンカーメン王頭部》エジプト新王国時代の紀元前1336-1327年、などを参観。

 

殆どはアメリカの富裕階層と言うか大金持ちが収集し、ボストン美術館に寄贈した美術品である。エジプトの美術品は、紀元前千年から二千年のものであるが、実に精巧で美しい。四千年近い時間的経過を感じさせない。民族の興亡、文化の盛衰を実感した。

 

ボストン美術館の日本美術コレクションは、日本国外の日本美術コレクションとしては最大であるという。英一蝶の《涅槃図》は、芝愛宕町の青松寺というお寺にあったものであるが、何故かボストン美術館に収蔵された。お釈迦様の入滅の歎く人々・動物が描かれていて面白い。ただ宗教的荘厳さはあまり感じられなかった。尾形乾山の《銹絵觀爆図角皿》は、瀧を眺める人物と共に、李白の「望廬山瀑布」という漢詩が記されている。「日照香炉生紫煙 遥看瀑布挂前川 飛流直下三千尺 疑是銀河落九天」(廬山(ろざん)の瀑布(ばくふ)を望む 李白 日は香炉(こうろ)を照らして紫煙(しえん)を生ず、遥かに看()る瀑布(ばくふ)の前川(ぜんせん)に挂()かるを。飛流直下(ひりゅうちょっか) 三千尺(さんぜんじゃく)、疑(うたご)うらくは是()れ銀河の九天(きゅうてん)より落つるかと)。瀧が流れ落ちるのは銀河が天より落ちてくるようだというまことに大げさの詩であるが、高校時代の漢文の授業で習って以来私が好きな漢詩である。

 

洋画は、印象派・ポスト印象派の作品であるということだが、素人の私は印象派とは何なのかは分からない。しかし、ミレー、モネなど観る人の目を楽しませ安らぎを与える美しい作品ばかりであった。ジャン=バティスト=カミーユ・コロというまことに長い名前の画家の《ボーヴェ近郊の朝》という作品が特に良かった。描かれた景色の中に入って行きたいという思いがした。ゴッホの作品はやはり迫力がある。ただ美しいというだけではない。色彩は強烈であり描き方も力強い。そして緻密である。

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千駄木庵日乗十月九日

午前は、諸事。

午後は、上野公園の東京都美術館にて開催中の『ボストン美術館の至宝展ー東西の名品、珠玉のコレクション』参観。

帰宅後は、書状執筆・水曜日に開催される『萬葉古代史研究会』における講義の準備など。

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2017年10月 9日 (月)

今朝思ったこと

「保守」「革新」という区別があるが、定義がまことに曖昧だ。「保守」と言っても「現状維持」戦後体制擁護」という「保守」と、「國體護持」「戦後体制打倒」という「保守」がある。

 

近年は「真正保守」という言葉が出てきた。「天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体日本の國體」を守るのが真の保守である。それを「真正保守」と言うと思う。また、歴史問題で自虐的な思想を抱いていないことも大切である。

 

国防問題や外交問題でまともなことを言っている政治家でも、肝心要の國體や歴史問題で、全く期待を裏切るようなことを言う人がいる。実に困ったことである。そうした中にあって、平沼赳夫氏はやはりまともであったが、ついに引退されてしまった。

 

尊皇精神を保持し、日本の傳統精神を重んじる政治家は、国防・安保・教育・憲法などのことでも正統な主張をする。ところが、尊皇精神が希薄で、日本の傳統精神について正しい理解がなく、歴史観もおかしい人は、他の事でもおかしな主張をする。また権力型政治家が多い。

 

「リベラル」という言葉も定義が全く曖昧だ。独裁専制国家共産支那・北朝鮮を結果的に利する立場を取る政治勢力・政治家を「リベラル」と呼ぶ全く間違っている。共産社民は言までもなく立憲民主もリベラルではない。

 

今度の選挙について言えば、安倍晋三にも小池百合子にもいろいろ不満はあっても、この二人がトップを務める政党を支持する以外にない。亡国政党・利敵政党に政権を取らせてはならないと考える。

 

また国難に対処する国家体制の強靭化ということを考えれば、ブームや風に乗って政治家になろうという人たちに政権を委ねることはできない。となると、やはり自民党に入れるしかない。

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丹羽文生拓殖大学海外事情研究所准教授による「台湾蔡英文政権の対日政策―緊密化する日台関係―」と題する講演内容

六月十七日に開催された『アジア問題懇話会』における丹羽文生拓殖大学海外事情研究所准教授による「台湾蔡英文政権の対日政策―緊密化する日台関係―」と題する講演内容。

 

「一九九九年九月二十一日台湾南投県を震源とするマグニチュード七・六の大地震発生。私が国士舘大學二年生の時。発生から十日後の十月一日、台湾に飛んだ。六十人の仲間と共に十日間ボランティアとして救援活動を行った。台湾の親日に触れた。日本語が流暢な老人が『ふるさと』を涙を流しながら歌ってくれた。その老人に『君は教育勅語を知っているか』と言われた。私は祖父母と暮らしていて『教育勅語』を憶えていたので朗誦したら、老人は手をたたいて喜んでくれた。

 

十年後、拓殖大学に奉職。拓殖大学は台湾協会学校として発足。台湾統治を進めるための台湾研究と日本人への啓発を行った。第二代台湾総督の桂太郎が初代校長となり、台湾近代化に役立つ人材を育てた。三代目学長は後藤新平。二代目學監は新渡戸稲造。『拓殖』とは開拓殖民の略。拓殖大学のアイデンティティの源は台湾。平成二十八年四月台湾研究センター創設。

 

蔡英文政権で日台関係は成果が出ている。台湾駐日代表に知日派大物を起用。謝長廷代表は元行政院長。行政のトップだった人が大使になるのは異例。亜東という言葉は日本人にはなじみがない。中華民国という言葉は稀薄化している。実務機関の名稱は『交流協会』から『日本台湾交流協会』に、『亜東関係協会』から『台湾日本関係協会』に変更した。二〇〇一年三月、赤間二郎総務副大臣が公務で訪台。二〇〇二年一月、古屋圭司経済産業副大臣が私的に訪台。二〇〇六年八月、宮腰光寛農林水産副大臣が私的に訪台。

 

安倍再登板後、二〇一二年に『日台漁業協定』締結。一三年に李嘉進亜東関係協会会長が首相官邸で菅義偉官房長官と面会。一五年七月に安倍総理が李登輝元総統と面会。同年十月に安倍総理が蔡英文主席と面会。二〇一三年三月、安倍総理はフェイスブックで『震災発生時、台湾は世界のどの国よりも多額の二百億円を超える義捐金を送ってくれた日本の友人です』と書いた。二〇一六年一月に国会で『台湾は日本の古くからの友人です。自由な言論の下で行われた今般の総統選挙は台湾の民主主義の証しです』と答弁。岸田外務大臣は『台湾はわが国にとって、基本的な価値観を共有し、緊密な経済関係と人的往来を有する重要なパートナーであり、大切な友人』と言った。いびつな状態は改善されつつある。日本が台湾に冷ややかな態度をとると台湾のみならず国際社会から後ろ指を指される。馬英九政権下でも、日台関係は進化。馬英九は反日の権化と言われるが、八田與一記念公園は馬英九の指示で作られた。

 

二〇一六年の対日世論調査では、『最も好きな国』は日本が五六%、中国は六%、アメリカは五%。日本統治下で建てられた日本式建物をリノベーションして民宿・カフェ・レストランとして再利用すする現象が台湾各地で起こっている。その中心は二十歳から三十歳の若者。何処に行っても日本のコンビニ、百円ショップが散見される。台湾と日本の人的往来は拡大している。修学旅行先として台湾ほど適している國はない。台湾への修学旅行を増やすべし。韓国・中国は子供たちの将来にとって有益なのか。地域間交流も活発化すべし。

 

民進党内部では蔡英文への批判が高まっている。中国人観光客が減った。観光施設に打撃。対中政策を柔軟にせよという声あり。国民党は複雑な政党。台湾国民党と中国国民党とがある。国民党と自民党はもともといい関係。民進党は日本の民主党といい関係。

 

パナマとは一九一二年中華民国建国以来の関係。断交二か月前に大使に勲章を授与した。中国はパナマを札束でひっぱたいた。中国はパナマ運河の二番目の利用国。これが中華民国の存在を稀薄にした。断交ドミノが続く。次はバチカンかもしれない。トランプにとって台湾は取引材料。トランプに幻想を抱いてはならない。バチカンは一九四二年に重慶政府と外交関係樹立。中国には五五〇万人のカソリック信者がいる。地下教会に属する人はその数十倍。ローマ法王はその安全を保つために中国と国交を結びたいのではないか。

 

日本の民進党は思想も哲学もない。政党の体をなしていない。蓮舫はミニ金美齢と言われていたことがある。台湾に融和的であった。最近の蓮舫はそうとも言い切れない。しかし個人としては台湾にシンパシーを抱いていると思う。民主党の親台派は小沢一郎幹事長によって潰された。

 

日本版『台湾関係法』を作るべし。自民党に『日本・台湾経済文化交流を促進する若手議員の会』(会長・岸信夫氏)がある。アメリカの『台湾関係法』を念頭に置いている。日本外交に求められるのは主体性を持って台湾と付き合うという強靭さ」。

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千駄木庵日乗十月八日

午前は、諸事。

午後三時より、西新宿の京王プラザホテルにて、『蔡焜燦先生を偲ぶ会』開催。王明理さんが司会。全員が献花。渡辺利夫・田久保忠衛・阿川佐和子の各氏らが偲ぶ言葉を述べた。福永武氏が遺詠を朗誦。全員で「仰げば尊し」を合唱した。

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帰宅後は、原稿執筆など。

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2017年10月 8日 (日)

天皇国日本の本質

 

 日本國の本質は、祭り主・天皇を中心にした國民の信仰的・精神的共同體である。農耕生産の共同生活を営む人々の祭祀がその中核である。祭り主である天皇の祭祀が及ぶ範囲が広がって行って生成された國である。これを『日本神話』は「神が日本國を生みたもうた」と表現した。

 

 したがって、日本といふ國家の本質は権力者が國民を支配するための機関すなはち権力國家ではないし、日本國の君主たる天皇は、武力や権力を以て國民に命令を下す権力者ではない。また、多数の個人が契約を結んで作った國ではない。さらに、征服や革命によって人為的に成立した國家でもない。だから我が國の國體を「萬邦無比」といふのである。

 

 

 日本民族の生活の基本たる稲作に欠かすことのできない自然の恵みが、太陽であり大地である。日本民族は太陽と大地を神として拝んだ。その太陽の神が天照大御神である。また大地の神は國津神として祭られた。また稲穂そのものも神の靈が宿ってゐるものとして尊ばれた。そして、古代日本人は太陽神・天照御神を最も尊貴なる神として崇めた。天照大御神は、太陽の神であると共に、皇室の御祖先神であると信じられた。

 

 天照大御神をはじめとする天津神、大地の神である國津神、稲穂の靈をお祭りされ、國民の幸福と五穀の豊饒を祈られる祭り主たる日本天皇は、天照御神の御子即ち日の御子として國民から崇められた。祭り主たる天皇は、稲作を営む古代日本人の共同體の統合と連帯の中心者・君主として仰がれた。

 

 古代日本の統一は、日の御子たる天皇が行はれる祭祀を中心とし、その祭祀が地方の祭祀を次第に全國的に統一されることによって實現したのである。古代日本の統一(日本國の生成)は、祭祀的統一である。各部族間の武力闘争はあったにしても、その有限的にして相対的な勝利は、最終的には神への祭祀によって聖化された。

 

 大和朝廷による祭祀的統一によって、日本民族が狭い部族的あるいは地縁的な共同體の分立から、今日の日本國の原形である全體性を確立した。その中心にあったのが<天皇の祭祀>である。これが「祭」と「政」の一致なのである。かかる意味において、日本國は天皇を中心とした信仰共同體なのである。

 

天皇国日本は、そこに住む人々の共同の意識・倫理観・信仰精神と共にある。祭祀主たる天皇は権力者でもないし権力機関でもない。その共同体に生活する国民は、天皇の大御宝と尊ばれ、神の子として育まれ、美しいものへの憧憬憬の心を育てられて生きてきた。

 

その信仰共同体としての国は、母なる大地であり、まさに祖国であり母国である。日本国は、親と子との関係と同じ精神的結合によって形成されてゐるのである。

 

日本国は「日の御子」と呼ばれる祭祀主の信仰的権威によって統一された

日本の統一は、分立してゐた地方の共同体勢力がともどもに日の大神=天照大御神の権威を承認することによって成就した。日の大神の御子である「日の御子」と呼ばれる祭祀主の信仰的権威によって統一したのである。日本各地から太陽神祭祀の象徴である鏡が数多く発見されてゐる。

 

天照大御神をお祭する祭り主たる天皇は、地上における天照大御神の御代理・神聖なる御存在=現御神として仰がれるやうになった。信仰共同体・日本国の〈生きた全体性〉は天照大御神とその地上的御顕現であらせられる現御神日本天皇によって体現される。

 

祭祀主による日本国の統合は、軍事力によるのではなく、祭祀による統合であった。古代日本において、軍事力が全く使用されなかったといふことはなかったとしても、基本的には祭祀的統合・結合が基本であった。古代日本の地方共同体が稲作生活を基本として交流し、共同を確かめ、稲作生活に必要不可欠な太陽を神と仰ぐ信仰を共通の信仰としたのである。そして天照大御神を最高神と仰ぐ共同体・日本国として統一された。それが天皇国日本の成り立ちである。

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千駄木庵日乗十月七日

午前は、諸事。

午後二時より、内幸町の日本ブレスセンターにて、『アジア問題懇話会』開催。山本秀也氏(フジサンケイビジネスアイ編集長兼産経新聞論説委員)が「頼行政院長の誕生と日中台関係」と題して講演。活発な質疑応答が行われた。

帰宅後は、書状執筆、資料の整理。

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2017年10月 7日 (土)

明治維新、尊皇討幕運動は水戸藩の「尊皇攘夷思想」から発した

「安政の大獄」によって断罪されたのは吉田松陰・梅田雲濱・橋本左内といふ勤皇の志士思想家だけでなかった。「大獄」によって福井藩主松平春嶽公・水戸藩主徳川齊昭公も処断されたのである。さらに、永井尚志、岩瀬忠震、川路聖謨、大久保忠寛、水野忠徳という有能な幕府官僚もその職を追はれた。

 

幕末における水戸藩の「尊皇攘夷思想」が端的に書かれた文章を紹介する。

 

天保十四年に、福井藩主松平春嶽公に対して、水戸藩主徳川齊昭公が示した「治国」についての文章には「一、国守身持心得方之事、天朝公辺への忠節を心懸、内は士民撫育之世話、外は夷狄奸賊防禦之手当為肝要候」と書かれてゐる。

 

国守即ち藩主として、朝廷・幕府へ忠節を尽くすこと、藩士と領民の面倒をよく見ること、そして外敵の侵略に対して国土を守る備えをすべきことを論じている。徳川斉昭は決して一部の歴史が言う「狂信的に攘夷論者」ではなかった。

 

明治維新における水戸烈公と松平春嶽公の貢献は非常に大きかった。しかも水戸藩は御三家の一つ、福井藩は徳川家康の長男と松平秀康を藩祖とする親藩筆頭である。

 

水戸学の泰斗・藤田東湖が、主君・徳川齊昭に奉った文章で次のやうに論じてゐる。

「先づは関東の弊風にて、日光等さへ御立派に候へば、山陵はいか様にても嘆き候者も少なき姿に御座候、…日光御門主〈輪王寺宮〉を平日御手に御附け遊ばされ、万一の節は、忽ち南北朝の勢をなし候意味、叡山へ対し東叡山御建立、其の外禁中諸法度等の意味、実に言語を絶し嘆かはしき次第、右等を以て相考へ候へば、京所司代などは、以心伝心の心得ぶり、密かに相傳り仕り候かも計りがたく、実意を考へつめて候へば、一日も寝席を安んじかね候次第」。

 

徳川幕府の朝廷への不敬を厳しく糾弾した文章である。こうした正統なる尊皇精神が徳川御三家の一つ水戸徳川家に存したということは実に以て驚くべき事である。明治維新、尊皇討幕運動は水戸藩の「尊皇攘夷思想」から発したのである。

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千駄木庵日乗十月六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆、資料整理など。

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2017年10月 6日 (金)

天皇中心帰一の國體精神と國難打開

 

幕末期における現御神信仰・尊皇精神の興起は、勤皇の志士たちのみならず、一般庶民においても旺盛であった。伊勢の皇大神宮への民衆の集団参拝(いはゆる御蔭参り)が行はれ一般庶民の皇室の御祖先神に対する信仰が大きく復活してきてゐた。天保元年(一八三〇)には、御蔭参り参加者が閏一月から八月までで五百萬人に達したといふ。

 

國家の独立と安定と統一を保持するには、日本の伝統と自主性を體現される御存在=神聖君主日本天皇を中心とした國家體制を確立しなければならなくなった。欧米列強の侵略から祖國日本を守るための國家體制は、神話時代からの伝統的君主である天皇を中心とする國家でなければならないといふことが全國民的に自覚されるようになった。そして、一君萬民の國體を明徴化する明治維新が断行されたのである。

 

國家の独立と安定と統一を保持するには、日本の伝統と自主性を體現される御存在=神聖君主日本天皇を中心とした國家體制を確立しなければならなくなった。欧米列強の侵略から祖國日本を守るための國家體制は、神話時代からの伝統的君主である天皇を中心とする國家でなければならないといふことが全國民的に自覚されるようになった。そして、一君萬民の國體を明徴化する明治維新が断行されたのである。

 

西欧列強の日本侵略から日本を守りぬくためには、全國的な統一國家建設が絶対必要条件であった。封建的各藩の分立を廃して統一國家を建設しなければならない。國家の中心を正しく確立しなければならない。もっともっと強力な國家統一・國家体制強化の牽引力が必要であった。この牽引力は、単に権力・軍事力に依拠するのでは駄目である。もともと戦國時代の武士の覇権争いの勝者・覇者にすぎなかった徳川氏は、その力を喪失してしまへば、國を支配者たるの地位も失ふのである。

 

「東照大権現」などと徳川家康の神聖性を強調しても、たかだか二百余年前に天海といふ僧侶によってつくりあげられた宗教的権威・疑似神話ではとても全國民的に精神的統一の中心とはなり得なかった。全國民が真に日本民族としての運命共同意識を強く保持し燃え立たせ得る精神的な基盤に依拠しなければならない。さうした精神的基盤は、神代以来の神聖権威の体現者・保持者であらせられる日本天皇への尊崇の念即ち尊皇精神であらねばならない。

 

和辻哲郎氏は、「明治維新は尊皇攘夷という形に現わされた國民的自覚によって行われたが、この國民的自覚は日本を神國とする神話の精神の復興にもとづき、この復興は氏神の氏神たる伊勢神宮の崇拝に根ざしている。原始社会における宗教的な全体性把捉が高度文化の時代になお社会変革の動力となり得たというような現象は、実際、世界に類がないのである。」「(註・明治維新で)封建制度は再び顛覆せられた。中央集権的國家は再び形成せられた。永い封建制度の間を通じて権力なき権威であった天皇の権威は、依然として将軍の権力よりも上にあり、依然として國民の全体性を表現するものである、ということが明白に示された。原始的な信仰は決して死んではいなかった。」(『風土』)と論じてをられる。

 

皇祖神たる天照大御神は伊勢皇大神宮に祀られると共に、天皇がその地上におけるご代理=現御神としての役目を果たされた。

 

日本民族精神の基礎となるものは、天皇中心の國體を護持する精神である。日本國民の國を愛する心の特質は、「尊皇攘夷」「尊皇愛國」といふやうに萬邦無比といはれる日本國體の精神即ち天皇尊崇の心と一体であるところにある。今日の外患の危機も、日本國民が、天皇中心帰一の國體精神を正しく体得し、強い愛國心を持つことによって打開できると確信する。

 

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千駄木庵日乗十月五日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2017年10月 5日 (木)

『おごるなよ 月の丸さも ただ一夜』

本日は、満月であった。

夜空を見上げるとまんまるの月が煌々と照り輝いていた。暫くそれを眺めていた。そして次の歌を思ひ出した。

 

『たゞよへる 雲の彼方に まんまるに 澄み切る月ぞ わが相(すがた)なり』谷口雅春

 

『おごるなよ 月の丸さも ただ一夜』仙崖義梵

 

『この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の欠けたる事も なしと思へば』藤原道長

 

谷口雅春氏の歌は、人間は本来神の子であり完全円満であるといふ生長の家の教義を詠んだ歌である。仙崖義梵は江戸時代の名僧で、これは、人間は謙虚さが大切であるといふことを詠んだ句である。藤原道長の歌はあまりにも有名であるが、好きな歌ではない。

 

個人的体験を述べれば、私が中學生の時に読んだ谷口雅春氏の著書『若人のための七八章』といふ本に「『たゞよへる雲の彼方にまんまるに澄み切る月ぞわが相(すがた)なり』これは或る晩、月を眺めながら私の詠んだ歌であります。…雲が暗澹とたれ込めているように見えておっても…ほんとうはお月様に雲がかかったことはないのであります。實は地球に雲がかかっているために、この地球から見るからお月様に雲がかかっているように見えている。お月様のほんとうの相(すがた)、すなわち、實相は圓満玲瓏としてどこにも雲がかかっていないので、これがほんとうの相、すなわち實相というものであります。われわれの生命の實相、すなわち生命のほんとうの相というものは、實に圓満玲瓏なるものであって、いまだかつて雲がかかったことがない。…實相のほか何もない。…見えるすがたの奥にほんとうのお月様があるように、ほんとうの完全な生命(いのち)がある」と書かれてあった。

 

私が「月」を主題とする歌を讀んだのはこの文章が最初であったかと思ふ。

 

日本人は上代から今日に至るまで、月を愛で、月を拝み、月を歌って来た

お月様、お日様、お星様といふ言葉がある。日本人は自然を尊び愛し敬意を持ってゐることの証しする言葉である。英語にかういふ表現があるのであらうか。「ミスター・ムーン」「ミス・サン」「ミスター・スター」といふ言葉はないのではないか。

 

日本人は歌や俳句によく「月」を詠む。日・月・星の中でも、月が最も日本人に親しまれて来たと思はれる。日常生活において、「月」は最も親しい自然景物なのではないか。

 

月讀命は、神話物語に一回しか登場せず、全國の神社に祀られることは少なかったが、「月」は日本人の愛され続けてきた。日本人は「月」をこよなく愛した。古代以来、國民一人一人が生活の中で「月」に親しんできた。だらこそ、あらためて「神やしろ」に神として祀ることがなかったのでなからうか。

 

月讀命が神やしろに祀られることが比較的少なく、且つ、月讀命が神話物語にも一回しか登場しないにもかかはらず、『萬葉集』から現代日本の歌・歌謡に至るまで、「月」を題材とした作品は数多い。これは實に不思議である。「神としての月」はあまり祀られないのに、「月」そのものは古代から現代に至るまで日本人に親しまれ、愛され続けてゐる。

 

月を眺めて楽しむことを「月見」と言ふ。「月見」は、主に旧暦八月十五日から十六日の夜(八月十五夜)に行はれる。野口雨情作詞・本居長世作曲『十五夜お月さん』といふ童謡もある。この夜の月を「中秋の名月」と言ふ。

 

折口信夫氏は次のやうに論じてゐる。「月見の行事の心の底には、昔から傳ってゐるお月様を神様と感じる心が殘ってゐる。さういふ風に昔の人が、月夜見命などゝいふ神典の上の神とは別に、月の神を感じて居り、その月の神に花をさしあげるのが、月見といふのです。月見はお月さんのまつりのことです。……神が天から降りて來られる時、村里には如何にも目につく様に花が立てられて居り、そこを目じるしとして降りて來られるのです。昔の人はめいめいの信仰で自分自身の家へ神が來られるものと信じて、目につくやうに花を飾る訣なのです」(『日本美』)

 

この折口氏の論述で注目されるのは、日本人の多くは、月夜見命といふ神典の上の神とは別に、月の神を感じていたとしてゐることである。これは一体どういふことか。

 

上代から今日に至るまで、日本人は月を愛で、月を拝み、月を歌って来た。しかしそれは、『記紀』に登場する「月夜見命」を拝んだり祭ったり歌ったりしてきてゐるのではなく「めいめいの信仰」で神と仰いだと、折口氏は言ふのである。

 

自然は美しい。特に「月」は、日本人に愛されてゐる。歌に俳句によく詠まれる。月が人間にやすらぎを与へるからであらう。月の不可思議な光は、恋に悩めるものを慰め、労はってくれる。それは日本人特有の信仰精神と美意識に深くかかはる。古来日本人は、夜空に浮かぶ月を見て格別の詩情をそそられ、月もまた何事かを地上の人間に語りかけて来た。われわれ日本人は、これからも自然と共に生きる姿勢を保っていかなければならない。人間の力が自然を征服するなどといふ傲慢な考へ方を持たず、自然の命を尊び、自然に「神」を見なければならない。自然に宿る神々に畏敬の念を持つことが大切である。

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千駄木庵日乗十月四日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆など。、

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2017年10月 4日 (水)

今朝思ったこと

リベラルとは一体何なのか。共産党の志位も小池も「リベラル」という言葉を口にしないと思う。中国共産党・朝鮮労働党は、世界の中でもっとも「自由」を圧殺している政党である。日本共産党・社民党は中国共産党・朝鮮労働党と同根である。この二つの政党は、北朝鮮・共産と「友好関係」「兄弟関係」にある。だから共産支那・北朝鮮の独裁政治、強権政治・民衆圧迫・軍事侵略について一切批判しない。

 

立憲民主党とやら言う政党が、本当にリベラルなら共産・社民と共闘することはあり得ないどころか、昨日も書いたが共産・社民を厳しく批判すべきである。しかし、そうではないのは、立憲民主党も共産・社民と同質なのである。ともかく立憲民主・共産・社民を排除し叩き潰すべし。

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この頃詠みし歌

幼き日より上り下り來し大給坂の勾配次第に険しくなりゆく

 

秋となり父母の眠れる菩提寺に参り行く日が近づきにけり

 

真言宗智山派信徒のわが家に大日如来像鎮座まします

 

車椅子に乗り行く人が電柱に邪魔されることは何とかならぬか

 

佳き人の便りの言葉有難くわが胸の内に深く刻まむ

 

神の前に座して祈ればおのづから新しき力湧きて来るなり

 

提灯は並びてをれど雨の降る祭りの夜は静かなりけり

 

担ぎ手は雨に濡れつつ歩みをり嵐近づく根津の祭礼

 

高きタワーは雲に隠れて姿無し嵐近づく東京の空

 

佳き母子のことを思へりやまと歌の道歩み行く尊き母子を

 

父の道祖父の道を歩み行く母子の姿は尊かりけり

 

やまと歌のことを語れるわが声は初秋の夜の部屋に響けり

 

友ら集ふ熱海の夜に熱唱す「元禄名槍譜俵星玄蕃」

 

七十歳になりても高らかに熱唱す高校時代に憶へたる歌

 

重き身を支へる我の足二本恙なくあれと歩む日日(にちにち)

 

賑はへる街を一人歩みなばチャイナの言葉の喧しきかな

 

病みし友の前に坐りて語らへる時に命の永久(とことは)を祈る

 

わが家の墓清めつつ安らかに眠りたまへとただに祈れり

 

雨の降る坂道下り老夫婦が営む酒房にたどり着きたり

 

谷中寺町古き床屋の御主人と幼き日のことなど語らひてをり

 

古来稀なる年齢となれど我はしも日の本の國に生きてゆくなり

 

秋の日の青山霊園の墓前祭自決せし人の御霊を慎み拝す(清水清博士墓前祭)

 

志篤き人々集ひ来て清水澄博士の御霊拝ろがむ

 

友の情け身に沁みにつつ丁寧に手紙を書けば心足らひぬ

 

カラスも雀も姿の見えぬこの頃はいよいよ都は無機質となる

 

窓の外にマンション建設のクレーン見ゆ圧迫感といふ言葉そのもの

 

母の押す乳母車に乗る幼子とすれ違ひつつ幸を祈れり

 

道を行く母と子を見ればこの國の永久の平和を祈る心涌く

 

地震といふ恐ろしきものが何時来るかと思ひつつ過ごす日本人我

 

民進党の左翼分子を放逐するが小池と前原の策略なりしか

 

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千駄木庵日乗十月三日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、原稿執筆・脱稿・送付。原稿執筆の準備など。

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2017年10月 3日 (火)

今日思ったこと


報道によると、枝野幸男氏は「私は日本国民の生活の安心、立憲主義、民主主義、自由な社会を守っていくために立憲民主党を結成することを決意した」と語ったそうです。

 

てあるならば「民主主義、自由な社会」を破壊する左翼全体主義集団すなわち共産・社民とは共闘できないどころか、これを敵として戦わねばならないはずであります。

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独立不羈三千年来の大日本

 

何処の國の革命も変革も、洋の東西・時の今昔を問はず、外國との関連・外國からの圧力によって為し遂げられた。古代日本の大変革たる大化改新も支那・朝鮮からの侵攻の危機下に行はれた。ロシア革命も日露戦争・第一次世界大戦の影響下に行はれた。

 

明治維新もしかりである。アメリカなどの西欧列強は「征夷」の意志と力を喪失し弱体化した徳川幕府に付け入って武力による威圧で屈辱的な開港を日本に迫った。徳川幕府は、外圧を恐れかつ自らの権力を維持せんとしてそれを甘受しやうとした。

 

かうした状況下にあって、國家の独立と安定と統一を保持するために、日本の傳統と自主性を體現する最高の御存在たる天皇を中心とした國家に回帰した。欧米列強の侵略から祖國日本を守るための國家體制は、神話時代からの傳統的君主である天皇を中心とする國家に回帰しなければならないといふことが全國民的に自覚されたのである。

 

戦國時代の覇者たる徳川氏は國家の「擬似的中心者」たるの資格を喪失した。天照大神そしてその地上的御顕現たる日本天皇の御稜威によってこそ日本は護られ独立を維持することができた。東照大権現=徳川家康以来の将軍家の権威では國難を打開できなかったのである。

 

吉田松陰は、安政六年四月七日付の北山安世宛書状で、「独立不羈(ふき・束縛されないこと)三千年来の大日本、一朝人の覇縛(きばく・つなぎしばること)を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや。……今の幕府も諸侯ももはや酔人なれば扶持(ふじ・そばにゐていたすけささへること)の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。……草莽崛起の力を以て近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を輔佐し奉れば、……神州に大功ある人と云ふべし」と書いた。

 

質の高い統合を実現してゐる國家に強大な外敵が出現した場合、民族的一體感・ナショナリズムが沸き起こるのは当然である。天皇中心の國體を明らかにして強力な統一國家を建設し外圧を撥ね除けようとしたのが明治維新である。

 

今日わが國は、政治の混乱・経済の停滞・道義の低下・外圧の危機が顕著になってゐる。そのうえ、未曽有の自然災害、原発事故災害も起こった。それは明治維新前夜よりも深刻な状況である。そして人々の心の中に恐怖と不安と空虚感が広まっている。これを克服するためには、日本民族としての主體性・帰属意識そして自信を回復する以外に無い。今こそ傳統的ナショナリズムが勃興すべき時である。

 

わが國の歴史を回顧すると、國家的危機の時こそ、尊皇精神・愛國心が勃興し、その危機を乗り切ってきた。白村江の戦ひに敗れ、唐新羅連合軍のわが國への侵攻の危機に見舞はれた時には、大化改新を断行し、天皇中心の國家體制を明徴化した。壬申の乱の後には、皇室祭祀および伊勢の神宮祭祀の制度が確立し『記紀』『萬葉集』が編纂され天皇中心の國家思想が正しく確立された。元寇の時には、それこそ全國民的に神國思想が勃興し國難を乗り切った。幕末の外患の危機に際しては、尊皇攘夷をスローガンとする明治維新が断行され、日本の独立を維持し近代國家として出発した。

 

今日の日本の危機的状況も、ナショナリズムの興起・日本傳統精神の復興により必ず打開し乗り切ることができると確信する。

 

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千駄木庵日乗十月二日

午前は、諸事。

午後は、原稿執筆。

午後三時半より、ある報道機関の取材を受ける。

午後五時半より、根津にて、知人二氏と懇談。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2017年10月 2日 (月)

今朝思ったこと

「立憲民主党」の「立憲」とは言うまでもなく「現行占領憲法を立てる」という意である。アメリカから押し付けられた憲法、日本弱体化・國體隠蔽憲法を護り抜くという政党である。戦後体制擁護、欺瞞的な似非「反戦平和」政党である。つまり日本国を破壊する政党である。断じて排除すべし。

 

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德川幕府による朝廷圧迫の実態

 

慶応三年、大政奉還が行はれたが、徳川慶喜はこれに先立って、山城一国・二十三万石余を「禁裏御料」として献上した。それまでは「禁裏御料」「仙洞御陵」など色々な区別はあるが、朝廷・皇室の所領は四万石余で、小大名と同じくらいであった。徳川幕府は、「あめのしたしらしめすすめらみこと」に対し奉りこのやうな処遇をしてゐたのである。

 

天皇崩御の際の「布令」を見ると、普請及び鳴物(建築工事及び音楽)の停止は五日間(もしくは三日間)であったといふ。これに反し徳川将軍の死去にあたっては鳴物停止五十日を普通としてゐたといふ。

 

『岩倉公実記』には次の如くに書かれてゐる。「安永年中幕府厳に朝廷の会計を検束し、供御の丁度に制限を設け、当時の価格を以て御用品代価の標準を定む。爾後御用品の時価に低昂あるも、其費を増減するを許さず。此の如く供御の調度に制限を設くるを以て、和歌御用の懐紙短冊の如き些細の物品にも一箇年間消費の数に限り有りて、時々不足を告げ、近習の堂上、密に之に進献して其不足を補充すること有り。又諸物価年を追ふて騰貴するに由りて、御用商人は所謂本途直段を以て物品を調達するときは、損益相償はざるが為に、粗悪の物品を混合して以て其品目に充て、その員数に盈たしむ。是故に御膳の如きも魚菜八塩醃(注・魚、野菜などを塩に漬けて保存すること。また、その物。塩づけ)腐餒して食ふ可らざるもの多し…」。

 

幕府が朝廷の会計を厳しく制限したために、天皇が和歌をお書きになる懐紙も足らなくなり、御用商人はお買ひ上げ価格が低いので粗悪の品物を納品し、さらには、上御御一人が召上がる食べ物すら腐った物をお出しせざるを得なかったといふのである。かうなると徳川幕府は「不忠の臣」どころか「逆臣」と断定してもいいくらいである。

 

第百十代・後光明天皇は、父帝である後水尾上皇が御病気を憂慮あそばされ、お見舞ひにのために後水尾上皇の御所に行幸ありたき旨を京都所司代に仰せ出されたところ、所司代・板倉周防守重宗は、「江戸に申し遣はし幕府の許可を得なければなりませぬ」と申し上げた。後光明天皇は「それならば自分の御所の東南隅よりと院の御所の西北隅にかけて梯子でつなげ高廊下を早々に設けよ。廊下を渡るだけなら行幸と幕府も言はないだらう」と仰せられ、御病気見舞ひを強行あそばされたと承る。

 

つまり、天皇は、父君のお見舞ひのために御所を出られることすら自由にお出来にならなかったのである。

 

徳川幕府専横時代、寛永年間、三代将軍徳川家光が上洛した時に、後水尾天皇が二条城に出でまして以来、嘉永七年に、皇居が炎上し、孝明天皇が下鴨社に渡御あそばされるまで、上御一人は皇居の中から外にお出になることは出来なかったのである。しかも嘉永七年の孝明天皇下鴨社渡御は、皇居炎上といふ突発事故が無ければ行はれなかったのである。

 

このやうに、大変畏れ多い言ひ方であるが、天皇は、「てのひらほどの大宮所」しかもその中の天皇の住まはれる御所の中に厳しい経済状態で軟禁状態に置かれてゐたと言っても過言ではないのである。徳川幕府の天皇・皇室への圧迫・迫害は許し難いものであった。

 

阪本健一氏は次のやうに論じてゐる。「近世において、天皇の御在位中、皇居の外への行幸は、寛永年中、三代将軍家光の時、二条城へのいでましのみである。御室の花は咲けども、嵐山の楓は紅葉すれども、そのいでましはなかったのである。もちろん幕府の政策のしからしめたところであって、志士仁人が憂憤興起した所以もまたそこにあった」(『天皇と明治維新』)

 

徳川幕府は、天皇・朝廷を敬して遠ざけたなどといふことではない。幕府の権威づけに天皇朝廷は利用したけれども、その実態は天皇・朝廷を理不尽に抑圧し続けたのである。

 

阪本健一氏の言はれる「志士仁人」たる高山彦九郎、蒲生君平の歌に表白されてゐる皇室の式微を嘆いた憂憤恋闕の情、そして、皇陵修復と天下を周遊して志士を鼓舞する行動は、尊皇運動の先駆であった。そして、明治維新・王政復古・朝威回復を目指した志士たちの思想的基盤の一つとなり、計り知れない影響を与へたのである。

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千駄木庵日乗十月一日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆の準備、原稿執筆。

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2017年10月 1日 (日)

日本傳統信仰とは稲作生活から発した自然と人間の共生の精神

 我が國には神話時代(神代)以来の傳統精神がある。日本傳統精神とは、生活の中の中から自然に生まれた精神で、天神地祇崇拝(祖先と自然の霊を尊ぶ心)を基本とする。そこから明朗心・清明心・武の心・慈しみの心・むすびの心・神人合一観(すべてに神を観る心)・天皇仰慕の心・まつりの心などが生まれた。それは古代日本の稲作生活から発した大自然と人間の共生の精神である。

 

日本傳統精神は文献的には「記紀」と「萬葉集」に示されている。そしてそれを常に実践されているお方が祭祀主・日本天皇である。日本の傳統精神・生活・文化の基本・核は天皇の祭祀である。

 

日本傳統精神の本質は、自然を大切にし自然の中に神の命を拝む心・祖先を尊ぶ心である。きわめて自然で自由で大らかな精神である。日本人は、あるがままの自然に素直に随順し、人間と自然は相対立する存在とは考えないで、人間が自然の中に入り、人と自然とは生命的に一体であるとの精神に立つ。

 

再生と循環は自然の思想である。古代日本人は自然の再生と循環の中に共に生きて来た。日本人は、人の命も自然の命も永遠に共生し循環し続ける事を実感してきた。しかるに今日、自然破壊が人間の心を荒廃せしめる大きな原因になっている。自然破壊は何としても是正されなければならない。

 

日本傳統信仰は、人の命と自然の命を神聖なるものとして拝ろがむ精神である。祭祀という神人合一の行事はその實践である。その最高の祭り主・日本傳統信仰の體現者が日本天皇であらせられる。

 

わが國の神は天津神、國津神、八百万の神と言われるように、天地自然の尊い命であり、先祖の御霊である。日本傳統精神すなわち「日本人が歩むべき道」とは「日本の神々の道」である。したがって、伊耶那岐命・伊耶那美命・天照大神をはじめとする日本の神々を祭られる日本天皇が、日本の道を体現されている方であると信じてきた。つまり「日本の道」は実体の無い抽象的な教義として継承されてきたのではなく、<天皇の祭祀>という現実に生きた行事によって継承されてきているのである。

 

わが國の傳統精神における最も大切な行事は祭祀である。「祭祀」とは神に奉仕し、神の御前において自己を無にして神の御心に従い奉ることである。つまり神と自己との一體を確認し、神の御心のままに勤めることをお誓いする行事である。さらに、自然と人の命を拝み、自然と人の命を大切にする精神の実践である。つまり人と自然の本来の姿を回復する行事が祭りである。そしてそれは、明るく平和的な行事である。

 

わが國民が祭りが好きであるということは、日本人が本来明るい平和的精神を持っているということである。日本民族は本来的に残虐でもないし、厭世的でもなければ逃避的でもない。また排他的でもない。それがわが國民性である。いかなる困難も罪穢も神を祭ることによってこれを打開し祓い清めることができると信じ続けてきている。この「祭祀」の精神が、戦争・闘争テロが繰り返され、自然は破壊され、人の命は軽視される現代を救済し打開する原理となると確信する。

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千駄木庵日乗九月三十日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆の準備、書状執筆、原稿執筆。

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