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2017年9月19日 (火)

吉田松陰先生について

江戸時代に傳馬町牢屋敷があった。牢屋敷は慶長年間常盤橋際よりこの地に移り、明治八年五月に市ヶ谷囚獄が出来るまで二百七十年間存した。安政の大獄の時、この地で吉田松陰・頼三樹三郎・橋本左内などの勤皇の志士九十六名が処刑された。吉田松陰は安政六年七月傳馬町牢に囚はれ、同年十月二十七日三十歳にて最期を遂げた。

 

松陰はこの獄に二回囚はれた。最初は、安政元年三月、海外渡航を決意し、下田から米艦に乗船しようとして果たせず、傳馬町獄送りとなった。途中、播州赤穂藩主・浅野長矩及び大石内蔵助等赤穂義士の墓所のある高輪泉岳寺前で詠んだ歌が有名な、

 

「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」

 

である。

 

松陰は、『安政の大獄』によって安政六年七月、再びこの獄に囚はれた。他の囚徒たちは松陰先生にたちまち感化され門人になったといふ。

 

大老井伊直弼の特命により死罪と決定された事を聞いた松陰は、父、叔父、兄に宛てて永訣の書を送ってゐる。安政六年十月十一日付けの堀江克之助に宛てた松陰の書状にあるのが、

 

「親思ふ心にまさる親ごころけふのおとづれ何と聞くらむ」

 

の一首である。

 

徳富蘇峰氏はこの歌について、「死するに際して、第一彼れの念頭に上りし者は、その父母にてありしなり。…かくの如き人にしてかくの如きことを作()す、不思議なる忠臣を考子の門に求むるの語、吾人実にその真なるを疑ふ能はず。」(吉田松陰)と述べてゐる。松陰はまさに忠孝一本の日本道義精神の実践者であったのである。

 

そして、松陰は同じ書状に「幕府正義は丸に御取用ひ之なく、夷狄は縦横自在に御府内を跋扈致し候へども、神國未だ地に墜ち申さず、上に、聖天子あり、下に忠魂義魄充々致し候へば、天下の事も余り御力御落し之無き様願ひ奉り候」「日嗣之隆、与天壌無窮と有之候所、神勅相違なければ日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば、正気重ねて発生の時、必ずある也。只今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪軽からざるなり」と記した。

 

松陰先生の偉大なのは、どんなに逆境にあっても、國體の無窮・上御一人の御稜威を信じて疑はず、祖國の将来を絶対に絶望されなかったことである。松陰は、天壌無窮の御神勅に絶対の信を置き、復古即革新すなはち日本肇國の大精神の回帰してこの國の危機を救はんとしたまことの維新者であった。

 

また、処刑の時の近づくのを知って十月二十五日より二十六日の黄昏にかかって書き上げたのが『留魂録』である。その冒頭に記した歌が

 

「身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともとゞ置かまし大和魂」

 

である。

 

また『留魂録』の最後には

 

「呼びだしの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな」

「討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ」

 

等の歌が記されてゐる。これら松陰先生の辞世は文字通り古今の絶唱であり、日本民族の魂に刻まれる歌である。

 

この『留魂録』は同囚で八丈島送りになった沼崎吉五郎に託したが、二十年後、当時神奈川県令となってゐた松陰門下の野村靖に手渡したものが現在残ってゐる『留魂録』である。小生はその實物を萩の松陰神社にある松陰遺墨展示館で拝観した。

 

二十七日、刑の執行を受けるため揚屋(士分の牢獄)を出る時、松陰は、

 

「吾今國の為に死す 死して君親に負(そむ)かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」

 

の詩を朗唱し、刑場では「身はたとひ」の歌を朗唱して従容として刑についたと伝へられる。行年三十歳であった。

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