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2017年9月 1日 (金)

天香具山について

 天香具山は奈良県橿原市東部にある海抜一四八㍍の小山。大和盆地は海抜百㍍だから麓からは四八㍍しかない。畝傍山・耳成山と共に大和三山の一つである。古代日本人には、麗しい山を神と仰ぐ信仰がある。大和地方では大和三山・三輪山・二上山など、東國地方では木曽御嶽山・富士山・筑波山・出羽三山など、九州地方では高千穂峰・阿蘇山が尊い山として仰がれた。

 

 天香具山は、上に「天の」と付けられてゐるやうに高天原から天降って来た山で「天と地とをつなぐ山」として神聖視され大和三山の中でもとりわけ尊い山とされた。現代風にいへば、天と地とをつなぐアンテナで、神事を行ふ際、神の降臨を仰ぐために立てる榊である「ひもろぎ」と同じ性格を持つ山である。「鎮守の森」といはれるやうに神社には多くの樹木があるのは、その樹木に神が降臨すると信じたからである。

 

 キリスト教では、人類が唯一絶対神たるゴッド及びその一人子であるイエス・キリストを受け入れ、罪を悔い改めなければ、最後の審判において罪人は滅ぼされ、天國に入ることができないとされてゐる。キリスト教は神人分離の信仰である。ところがわが國傳統信仰における「神代」「高天原」と「地上」とは交流しゐて、隔絶してゐない。日本傳統信仰は天地一体・今即神代・神人一体の信仰である。

 

 「香具」(かぐ)とは「輝く」を短くした言葉で、香具山は輝く山・神聖な山として信仰の対象となってゐる。後世のかぐや姫とは「輝く御姫様」といふ意である。天香具山とは「天に通じる輝く山」といふ意で、高天原と直結する山と信じられたのである。

 

 高天原にある天香具山について、『古事記』には、天照大神が天の岩戸に隠れになった時、大神に岩戸からお出ましを願ほうとした八百萬命が相談して、天児屋命(あめのこやねのみこと)と布刀玉命(ふとたまのみこと)が取って来た天香具山の男鹿の肩胛骨を波波迦の木で焼いて占ひを行って、天香具山に茂った賢木(さかき)に勾玉(まがたま)や鏡などを付けて捧げ持ち、天宇受売命(あめのうづめみこと)が天香具山の日影蔓(ひかげかづら)を手襁(たすき)に懸け、真拆(まさき)を鬘(かずら)として、天香具山の小竹の葉を手に持ち、岩戸の前で桶を踏み鳴らして神憑りしたと傳へられてゐる。

 

 また、神武天皇が御東征を終へられ大和に都を開かれる時のお祭りで用いられた神具の土器は、天香具山の土で作られたと傳へられてゐる。國土には地の靈(國魂)が籠ってゐるといふ信仰があり、大和の都を開かれるにあたっては、大和の國の靈を鎮めなければならない。そのために大和の地の靈を象徴し大和の國魂が宿ってゐて、天と地とをつなぐ神聖なる天香具山の土を、土器にして祭祀に用いたのである。それによって、神武天皇は大和國を治められる靈的なお力を備へられたのである。天香具山の土を手に入れることが大和全体をしろしめすことになるといふ信仰である。

 

 折口信夫氏は、「天香具山の名は天上の山の名である。同時に地上の祭時に當って、天上と一つの聖地-天高市(アメタケチ)-と考へられた土地の中心が此山であった。だから平常にも聖なる地として天なる称號をつけて呼ぶ様になったのだ」「大和なる地名は、當然宮廷のある地を意味する。天は、宮廷の真上にあり、宮廷のある處は、天の真下である。即ち、國語に於ける天が下(アメガシタ)の確かな用語例は、宮廷及び宮廷の所在を示すことになる。だから、宮廷の存在なる狭義の大倭は、天が下であり、同時に天其物と觀じることが出来た。天香具山は、地上に於ける聖地の中心であった。即ち、大倭の中心である。この山の埴土(注・きめの細かい黄赤色の粘土)は、大倭の國魂の象徴にもなる…。」(大倭宮廷の靱業期)論じられてゐる。

 

 天皇のゐます宮は「天」(高天原)であり「聖地」である。その中心が天香具山なのである。このやうな神聖な所を神座(カミクラ・神のゐますところ)といふ。

 

 このやうに天香具山は天皇の祭祀・神事即ち國家統治には欠かせない尊い山である。舒明天皇が、神座である天香具山に登られて「國見」をされた。 

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