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2017年8月 9日 (水)

統治者としての天皇の御本姿を回復することが復古即革新=維新である

日本伝統信仰の「祭祀」とは自己を無にして神に奉仕する(つかへまつる)ということである。そして祭祀によって神と人とが合一する。天皇の「祭祀」そして「無私の大御心」が日本國民の道義の規範なのである。

 

人間の限り無い欲望・闘争心を抑制せしめるには、天皇の無私にして神ながらなる大御心に回帰する以外にない。

 

日本國の生命・歴史・伝統・文化・道義の継承者たる天皇の大御心・御意志にまつろう(服従し奉仕する)ことが日本國民の道義心の根幹である。そして天皇の大御心・天皇の國家統治の基本は、天照大神の御命令である「高天原の理想を地上に実現する」ということである。神の意志を地上において実現する使命を持つお方が天皇であらせられるのである。

 

現御神信仰の公的表現は、宣命詔勅に「現神(あきつかみ)と大八洲知ろしめす倭根子天皇(やまとねこすめらみこと)」と示されている。とりわけ『文武天皇即位の宣命』には「天津日嗣高御座の業と、現神と大八嶋知ろしめす倭根子天皇命の、授賜ひ負賜(おほせたま)ふ貴き高き廣き厚き大命受賜り恐み坐して……明き淨き直き誠の心以て、御稱(いやすす)み稱(すす)みて緩怠(たゆみおこた)る事無く」と示されている。

 

「明き淨き直き誠の心」こそ、わが國の道義心の根本である。天皇は現御神として天の神の御心を地上で実現されるお方であり道義精神の最高の実践者であらせられるのである。

 

天皇が日本国を統治されるのは、日本国の生きとし生けるもの・ありとしあらゆるものにその所を得さしめることである。明治天皇の『天下億兆一人も其處を得ざる時、皆朕が罪なれば、…』(明治元年三月十四日に示された『明治維新の御宸翰』)という御精神こそ天皇統治の本質であると拝する。

 

さらに明治陛下はその「御宸翰」で、「朕身骨を労し心志を苦め艱難の先に立ち、古列祖の盡させ給ひし蹤を履み、治蹟を勤めてこそ、始て天職を奉じて、億兆の君たる所に背かざるべし」と仰せになっている。

 

明治天皇の外祖父中山忠能前権大納言は、明治天皇御即位に当たって、「そもそも皇国は天照皇大神の御国で、天子をしてこれをあずからしめてあるので、至尊といえども吾物と思召ては、自然御随意の御処置に押移るべく、…」と言上した。

 

日本天皇は、『朕は国家なり』と言うような国家国民を私物化する西洋的な絶対専制君主とは全くその本質を異にする。日本天皇は天津神の御委任により「天職を奉じて」日本国に君臨されているである。故に天皇は常に無私の心で統治されるのである。

 

無私の心とは神の御心のままということである。天皇は、皇祖皇宗が踏み行われた道を継承されることを心がけられるのである。そのことがそのまま億兆の民にその所を得さしめる事即ち国民の幸福実現となるのである。

 

天皇の国家統治とは権力・武力を以て民を屈従せしめ私物化することではないのである。日本天皇の無私の精神および神聖なる権威はかかる御精神から発生するのである。

 

支那においては、天を以て帝権の象徴とし、地を以て民衆に擬し、天と地とは相対立する相対的関係のあるととらえ、天子たる皇帝は民衆を上から見下ろし支配すると考えている。

 

しかしわが国においては、天皇は天の神の御子として地上に天降られ、国民もまた神々の子孫であり、国土もまた天の神が生みたもうたのである。

 

混迷の極にある現代日本を救うには、統治者としての天皇の御本姿を回復することが大切であると考える。復古即革新=維新とはそういうことを言うのである。 

 

 

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