« 2017年7月 | トップページ

2017年8月21日 (月)

「日本侵略國家論」を払拭しなければ「戦後」は終らない

 

「戦後体制」を維持したいという勢力がまだまだ根強いことを実感する。保守といわれる勢力の中にも、自主独立の日本の回復及び歴史と伝統の国日本の再興に反対し抵抗する勢力がまだまだ根強く存在する。また安倍政権の連立相手も創価学会・公明党も戦後体制打倒を目指してはいない。むしろ戦後体制維持である。

 

わが国伝統精神は、見直し・聞き直し・のり直しである。陰極は必ず陽転します。常夜行く時にこそ、天の岩戸は開かれる。国家の再生のためにこれからも勇躍前進して行かねばならない。そして国家的危機を跳ね返し、国の現在および将来を危うくする勢力を駆逐せねばならない。

 

真の保守とは、自民党政権を守るとか、現体制を擁護するというのでは決してない。戦後体制打倒である。まさに「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づく」日本を建設する我々こそが真の革新勢力=維新勢力なのである。

 

「戦後」といふ言葉は何時まで続くのであろうか。敗戦以来すでに七十二年も経過している。戦後とは敗戦後といふことであり、屈辱的な時代といふ事である。しかも、日本は侵略戦争を行なったという歴史観が『憲法』の『前文』にも記され、且つ、閣議決定の『戦後五十周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話』にも記されている。即ち、「日本は侵略戦争を行なった悪い国だった」といふのが日本『国是』になっていると言ふことが出来る。

 

だから「戦後」という言葉は陰鬱な響きを持っているのである。大東亜戦争は決して日本の一方的な侵略ではなかったこと、ソ連の謀略やアメリカの挑発によって追い込まれ、開始せざるを得なかったことを正しく認識すべきである。

 

 大東亜戦争侵略史観を払拭し、大東亜戦争は、自存自衛の戦いであり、アジア・アフリカ民族に民族としての自覚と名誉の回復の可能性を与え、民族自立と独立の引き金となった聖なる戦いであった、という正しき歴史認識を確立しなければ、「戦後」は終らないし、わが國の再生はあり得ない。

 

 極東國際軍事裁判で「日本無罪論」の判決を書いたインドのパール判事は、「時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には、その時こそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにその所を変えることを要求するであろう」と、「判決文」の最後に書いた。しかるに、日本國民自身が、戦後七十二年を経過したにもかかわらず、「偏見」と「虚偽」から脱出することができないでいる。

 

歴史を大観すれば、明治維新、日清・日露両戦争、満洲事変、支那事変、そして大東亜戦争は、まさに幕末以来の尊皇攘夷の戦ひ即ち西欧列強によるアジア侵略支配を打破する戦いであった。このことをわが國民は正しく認識し、「過去の賞罰の多くにその所を変へる時代」の招来を期するべきである。

 

また戦争中に残虐行為大量虐殺を行ったのはわが國ではなく、アメリカとソ=ロシア連であったことを全国民が正しく認識すべきである。

 

東トルキスタン、チベット、内コルを見てもわかるやうに、わが國に「謝罪しろ」と執拗に迫って来ている支那こそ、今日、帝國主義的侵略と搾取と暴虐の植民地経営を行っている最大最悪の侵略國家である。

 

日本人は、祖國と民族の名誉を回復するために、また、将来にわたり誇りある日本人を育てていくためにも、さらには、共産支那などからのわが國へ侵略を阻止するためにも、明治維新以来終戦までの正しい歴史観を形成すべきである。

 

 特に、満洲國建國の正当性、蘆溝橋事件及び支那事変におけるわが國の自衛権行使、米國側の挑発とソ連の陰謀による日米開戦という歴史の真実を正しく認識し、日本侵略國家史観を一日も早く払拭すべきである。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗八月二十日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、講演の準備。

| | トラックバック (0)

2017年8月20日 (日)

安倍晋三総理は、「戦後レジームからの脱却」という信念を今こそ明らかにして奮闘してもらいたい。

安倍晋三総理は、最近「戦後レジームからの脱却」ということをあまり主張なくなった。「レジーム」とは体制の事だ。七〇年代、活発に展開された民族派学生運動の中心スローガンは、「戦後体制打倒」「ヤルタポツダム体制打倒」であった。安倍氏のブレーンには、民族派学生運動で活躍した人たちがいる。

 

「真正保守」という言葉がある。本物の保守という意味であろう。偽物の保守とは現状維持・戦後体制維持勢力だ。真正保守とは一言で言えば「國體護持」である。それはあるべき日本の眞姿の回復と言い換えてもいい。そしてその日本の眞姿の回復はそのまま現状の革新なのである。「維新とは復古即革新である」と言われる所以である。「復古」の「古」とは時間的過去のことではない。日本のあるべき姿、天皇国日本の眞姿の事である。

 

今日、日本國體・日本の眞姿を隠蔽しているのが「戦後レジーム」「戦後体制」である。「戦後体制打倒」「戦後レジームからの脱却」とは、つまりは「維新」という事だ。

 

わが國は悠遠の歴史を有している。三千年に及ぶ歴史を貫いて来たわが日本の傳統精神、民族の精神的核に立ち返って、現状を正しく観察し、変革の方途を見出す精神が維新である。

 

我が國は過去において何回か國家的危機に際會し、見事に乗り越えて来た。外圧によって國家の独立が危殆に瀕した時、強烈な民族精神・尊皇精神が勃興し、変革を断行し、危機を打開して来た。

 

大化改新は唐新羅連合軍侵攻の危機があった時に行はれた。元寇=蒙古襲来の時、日本國民は愛國心を燃え立たせ神國意識を強固なものとした。それは建武中興へとつながった。明治維新は欧米列強による侵略の危機があった時に行はれた。

 

今日においてもわが國の本来の姿に回帰することによって、危機を乗り越えていかねばならない。必ず乗り越えることができると確信する。

 

民族の歴史と傳統精神を基本原理とする日本の革新即ち維新は、それを志す者が、自らの精神と行動に、憧憬すべき時代の先人たちと同じ決意と歓喜と行動の源泉を甦らしめることによって實現する。

 

わが日本國民が護るべき最高のものは傳統精神であり、変えるべきものは国家民族の真姿を隠蔽する全ての事象である。

安倍晋三総理は、「戦後レジームからの脱却」という信念を今こそ明らかにして奮闘してもらいたい。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗八月十九日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、書状執筆、講演の準備など。

| | トラックバック (0)

2017年8月19日 (土)

第七十六回日本の心学ぶ会

第七十六回 日本の心学ぶ会

 

テーマ「占領政策と今日の日本を考える」

 

平成29815日で72年目の終戦記念を迎えました。

九月二日の降伏文書への調印をもって大東亜戦争は終結し日本はアメリカの占領下におかれました。

しかし、アメリカとの戦いは形を変えて占領下でも続いていました。

アメリカは「降伏後当初の対日政策」のなかで日本占領の最終目標を「日本が再びアメリカ、世界の平和と安全の脅威にならないようにすること」「平和で責任ある政府を樹立し、他国の権利を尊重し国際連合憲章の理想と原則に示してある米国の目的を支持すること」として発表しました。

しかし占領政策の真の目的が「日本の弱体化」「日本人の精神的武装解除」であったことは明らかです。

GHQはメディアの検閲やプロパガンダ放送を通じて日本国民へ心理工作を実施し、政財界や学会などには公職追放を駆使して影響を及ぼしました。マッカーサーはキリスト教宣教師を3000人以上招聘し日本をキリスト教国化して根本的に改造することを計画していたようです。

このようなGHQによる日本の弱体化工作は「現行占領憲法」の「制定」という国際法違反の暴挙まで行い、それは今日にまで重要な影響を残しております。さらに「神道指令」や「教育勅語の廃止」などを強制しました。

今日の日本が直面する混乱の多くは、以上のようなGHQによる日本弱体化政策がその根本原因になっております。GHQの占領政策は「戦後レジーム」として今日でも日本を拘束しているといえます。

今回の勉強会ではこのような「戦後レジーム」から脱却するため、「占領政策と今日の日本」について考えてみたいと思います。

 

 【日時】平成二十九年八月二十七日 午後一時から

【場 所】文京シビックセンター 四階会議室B

住所:東京都文京区春日11621

◎東京メトロ丸ノ内線・南北線 後楽園駅 5番出口【直結】

◎都営地下鉄三田線・大江戸線 春日駅

 文京シビックセンター連絡口【直結】

JR中央・総武線水道橋駅 【徒歩約10分】

 

【講 演】「戦後体制と國體隠蔽―戦勝国の日本弱体化は今日実を結んでいる―」

 

講師 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

 

【司会者】林大悟

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

 

 

 

 

 

 

| | トラックバック (0)

偏向メディアの売国の所業

はっきり言って戦争とは敵と味方の殺し合いであり虐殺である。殺し合いや虐殺のない戦争などあり得ない。また、日本は、白色人種が行ったような計画的な一般市民の大量虐殺はしていない。広島・長崎への原爆投下、東京など各都市への無差別爆撃こそ、計画的な大量虐殺である。

 

しかるに、日本のテレ朝・NHKなどの反日メディアや共産党は日本の粗探しばかりやる。そればかりではなく、媚中政治家はわざわざ南京や盧溝橋に行って花輪を捧げたり謝罪をする。全く狂っているとしか言いようがない。まさに利敵行為であり、売国の所業である。

| | トラックバック (0)

2017年8月18日 (金)

イリハム・マハムティ氏による「ウイグルの現状について」と題する講演内容

四月三十日に開催された『第六十九回日本の心を学ぶ会』におけるイリハム・マハムティ氏による「ウイグルの現状について」と題する講演内容は次の通り。

「三千人から四千人のウィグル人が日本で生活している。中国はこの人たちを危険視するようになった。中国にとってウィグル人が集団でスポーツをすることが脅威。九七年二月、青年たちがサッカー場を借りて決勝戦を行おうとしたら、水を張ってできないようにした。若者たちが怒ったら無差別発砲した。

 

ウィグルでは沢山の天然資源が発見された。十三億人の消費エネルギーの三分の一はウィグルが支えている。しかしウィグル人は貧乏のまま。これに反発すると『民族主義』『分裂主義』と言われる。

 

公安に無断で転居すると逮捕。六十歳以下の男性は髭を伸ばしてはいけない。過激思想の象徴とされる。女性のベール着用禁止。二〇一五年、ウィグル人青年が赤信号を無視したらその場で射殺。警察官は処分されなかった。礼拝・祈りという言葉が携帯電話に出てきたら、過激思想の持ち主として逮捕。神のご加護という言葉を使っても駄目。今年三月『過激思想的摘発条例』が施行された。『豚肉料理を別の場所で食べて下さい』と言っても過激派になる。子供に宗教的な名前を付けたら受理されない。十年前のことを密告しても十万元もらえる。恨みのある人に対して権力を利用して報復することが出来る。ウィグルでは『自分はイスラム教徒ではない』と言う人が増えている」。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗八月十八日

午前は、諸事。

午後は、資料の整理。

午後六時より、神田神保町にて、若手憲法学者の方と懇談、意見交換。

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆。

| | トラックバック (0)

剣の精神について

 天皇を君主と仰ぐ萬邦無比の國體を護ることが最高の道義なのである。天皇の統治したまえるわが國は、言葉の眞の意味において「平和國家」である。神武肇國の御精神・聖徳太子の十七条憲法・明治天皇御製を拝すれば、それは明らかである。また、歴代の天皇は常に國家と國民の平安を祈られてきた。しかし、そうしたわが國の伝統は、「武」「軍」「戦い」を否定しているのではない。

 

 天皇の日本國御統治は「三種の神器」に表象されている。「三種の神器」は、皇霊が憑依(注・のりうつること)すると信じられ、日本天皇の国家統治の精神、日本国の指導精神の象徴である。「三種の神器」は皇位の「みしるし」であり、歴代の天皇は、即位と共にこの神器を継承されてきた。

 

鏡(八咫鏡・やたのかがみ)は「澄・祭祀・明らかなること・美意識・和御魂・太陽崇拝」の精神を表象する、剣(草薙剣、くさなぎのつるぎ)は「武・軍事・たけきこと・克己心・荒御魂・鉄器文化」の精神を表象する。玉(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)は「和・農業・妙なること・豊かさの精神・幸御魂・海洋文化」を表象する。

 

古代日本における劔・矛・弓などの武器は、鎮魂の祭具であり神事的意味を持つ。八千矛神(多くの矛を持つ神)は武神であるよりは呪術的機能を持った神であった。弓の弦を鳴らして鎮魂する祭事がある。 

 

剣は殺傷(人斬り包丁)の武器ではない。日本刀=剣は製作過程からして既に神道祭式の宗教儀式になっている。刀鍛冶は職人にして単なる職人ではなく、朝から斎戒沐浴して仕事にとりかかる。仕事場に榊を立て、しめ縄を張り巡らせて、その中で仕事をする。剣の製作は、神の魂が籠るものを作るのであるから神事である。

 

「刀は忠義と名誉の象徴」「刀は武士の魂」として大切にされてきた。剣を御神体とする神社もある。剣が礼拝の対象となっているのである。剣は武勇、そして克己の精神を象徴している。『日本書紀』の「仲哀天皇紀」に、天皇の軍が筑紫に進軍したのを歓迎して筑紫の県主五十迹手が、「この十握剣(とつかのつるぎ)を堤(ひきさげ)て、天下(あめのした)を平(む)けたまへ」と奏上したと記されている。剣は天下を平らげる武力を表しているのである。平和は剣によってもたらされ、剣によって守られるのである。「占領憲法」の欺瞞的な「平和主義」を払拭し、神代より継承されてきた我が国の真の「平和精神」「剣の精神」を興起しなければならない。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗八月十七日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、二本の原稿執筆・脱稿・送付。

| | トラックバック (0)

2017年8月16日 (水)

許し難い祖国解体を目的とする偽装運動

昨日も書きましたが、偏向マスコミや似非平和運動屋たちは、日本・アメリカなどの戦争行為・歴史問題・人権問題に対しては、根掘り葉掘りあることないことがなり立てますが、旧ソ連・共産支那・北朝鮮の戦争行為・歴史問題・人権問題に対しては、そのようなことはしません。左翼勢力が支那大使館や朝鮮総連に対してデモを行ったことなど一回もありません。彼らの平和運動・人権運動・歴史問題への取り組みは、支那北朝鮮の手先として祖国解体を目的とする偽装運動なのであります。

彼らは日本軍の戦時中のことを野良犬のように嗅ぎ回って問題にします。ところソ連ロシアによるわが同胞殺戮・強姦・シベリアへの拉致・十万人以上の大量殺戮、満洲・朝鮮北部・樺太千島侵略、そして共産支那の自国民虐殺、チベット・東トルキスタン・内蒙古侵略支配はあまり問題にしません。こういう者共を売国奴と言わずして何と言うのでしょうか。

戦後のいわゆる「反戦反核平和運動」そしてテレ朝・朝日新聞・NHKなどの反日メディアは、ずっとそういう姿勢を貫いてきました。断じて許し難いと思います。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗八月十六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆、脱稿、送付。この後、『萬葉集』講義原稿執筆など。

| | トラックバック (0)

2017年8月15日 (火)

終戦記念日に思う―東京裁判史観・自虐史観を徹底的に排除すべし

国防問題と歴史問題は密接に絡み合っている。特に、共産支那、そして日本共産党などという反日政党、朝日新聞・テレビ朝日・NHKなどという亡国メディアは、歴史問題で祖国の尊厳性と誇りを傷つけることに躍起になっている。「終戦記念日」前後において、テレビ朝日、朝日新聞、テレビ朝日などは「大東亜戦争は侵略だった、残虐行為を行った」などと、がなり立て、自虐史観をまき散らす。そしてそれがわが国国民の祖国愛を傷つけている。これは即ち国防安保の弱体化に直結する。亡国野党・反日メディアは侵略国家共産支那の手先なのである。

 

わが国は東京裁判という勝者による敗者に対する復讐に於いて、戦争当寺の国家指導者七名が処刑され、多数の人々が有期刑に処せられた。そして、アジア各地で行われたいわゆる「戦犯裁判」に於いても多数の人々が処刑され有期刑が処せられた。

 

さらに、戦後日本は七年間も戦勝国に占領された。そしてアジア各国対して戦後賠償を行った。支那・韓国に対しても事実上の戦後賠償を行った。支那・韓国は日本の経済技術援助によって経済発展を遂げた。

 

にもかかわらず、わが国に対して戦後七十二年を経過した今日においても、「戦争責任」「戦争犯罪」なるものをがなり立てる者どもは、日本にこれ以上何をすればいいと言うのか。わが日本は、すでにやるべきこと既にすべてやったのである。日本は、支那朝鮮に対して、これ以上謝罪も援助もする必要は毛筋の横幅ほどもない。

 

偏向メディアや「サヨク」がまき散らす「自虐史観」とは、「米英支蘇」は善人であり悪いことは何もしなかった、日本は悪人であり悪い事しかしなかったといふ史観である。別の言い方をすれば、欧米列強の切り取り強盗し放題は許されるが、日本がやったことは防衛と自存の為の戦いであっても侵略と見なすという史観である。これは「極東国際軍事裁判」という名の戦勝国によるわが国に対する軍事的報復における一方的断罪の理由付けとなった。従って「東京裁判史観」とも言うのである。

 

近代日本の歩み、とりわけ、明治維新から大東亜戦争敗戦までの歴史について、いかに考えるかが、今日の日本にとってきはめて重要な問題である事は言うまでもない。日本人は、「自虐史観」「東京裁判史観」と一日も早く訣別しなければならない。

 

わが国には戦争犯罪人は日本には一人もいない。東條英機氏らを裁いた「極東軍事裁判」はその名の示す通り「軍事裁判」なのであり、戦争行為の継続であり、敵国の復讐であったのである。そこにおいて絞首刑の「判決」を受け執行されたということは文字通り戦死であり殉難である。日本には戦勝国の復讐の犠牲者・殉難者は存在しても、唯の一人も「戦犯」は存在しない。「極東軍事裁判」なるものの「判決」により処刑された方々を殉難者・戦死者として靖国神社にお祭りするのは当然なのである。

 

我々日本人が「A級戦犯」という呼称を使うことは絶対にやめるべきである。「A級戰犯」と言われる人々は、人類の貴重な法文化たる法原則=「罪刑法定主義」の原則に全く反していわゆる「被告」を断罪した「東京國際軍事裁判」、つまり、裁判とは名ばかりの非常に野蛮で公平性を全く喪失した戰勝國による一方的な報復の場=復讐劇において、「有罪」と断罪され、「絞首刑」に処せられた犠牲者である。わが日本においては「昭和殉難者」と称するべきである。

 

「平和と人道に対する罪=侵略戰争遂行の犯罪」「共同謀議の罪」という罪名を勝手に作り、勝者が敗者を問答無用的に断罪した「東京國際軍事裁判」は、“法の真理”に照らして完全に間違ったものであった。

 

日本に原爆を落し東京大空襲を行ったアメリカこそ「平和と人道に対する罪=侵略戰争遂行の犯罪」を犯したのである。トルーマンこそ戦争犯罪人として処罰されるべきだったのである。また、満洲・樺太・全千島を侵略し多くの無辜の日本同胞を殺戮したソ連こそ「平和と人道に対する罪=侵略戰争遂行の犯罪」を犯したのである。スターリンこそ戦争犯罪人として処罰されるべきだったのである。

 

戦勝国こそ「人道に対する罪」を犯したのである。それを糊塗するためにわが國に「侵略國家」の汚名を着せそれを全世界に宣傳したのである。それが東京裁判でありアジア各地において行われたいわゆる「戦犯裁判」だったのである。 東京裁判史観・自虐史観を徹底的に排除し、不当性を主張し、歴史問題での外国の内政干渉や不当なる非難を跳ね除けなければならない。

 

共産支那が何かというと「過去の歴史問題」とやらを持ち出すのは、日本を政治的外交的に屈服させるためである。

 

巨大な軍事国家・全体主義国家の奴隷になるか独立と自由を守るかという二者択一の選択が、わが国民に迫られている。中華思想の共産支那こそ今日のアジア最大の敵である。わが国は、共産支那の理不尽さに対して毅然とした態度で臨むべきである。 そして事実上共産支那の手先となって国内に於いて自虐史観をまき散らしがなり立てる偏向メディアを徹底的に糾弾しなければならない。

 

| | トラックバック (0)

2017年8月12日 (土)

欺瞞的「反戦平和運動」を殲滅しなければならない

「北朝鮮の 核には一切 抗議せぬ 「反核・反戦平和」の 欺瞞を憎む」

 

今日詠んだ拙歌です。

「反戦平和」を標榜する運動は今も活発である。彼らは、新安保法制反対闘争・米軍基地反対闘争・核兵器反対運動・反自衛隊運動などを行ってきたが、共産支那・北朝鮮の核兵器に対しては一切抗議運動を展開しない。共産支那・北朝鮮の軍事侵略に対しても何の抗議も行はない。日本の安全と独立を守る運動のやうに見せかけて、實は意識するとせざるとにかかはらず共産支那・北朝鮮の侵略を助けてゐるのだ。

 

民進・社民・共産・偏向メディアの「反戦平和運動」は、共産支那・北朝鮮のわが國及び全アジアに対する侵略支配を實現に協力して来たのである。共産支那・北朝鮮の手先となって日本の安全・独立・自由・繁栄を脅かしてゐるのだ。

 

戦後ずっと行はれて来た左翼勢力の「反戦平和運動」の本質は、支那事変・日米戦争を煽りつつ實は「社會主義の祖國・ソ連」を守り、アジア赤化を實現せんとした風見章・尾崎秀實そして朝日新聞などの旧ソ連の手先と全く同じである。共産支那・北朝鮮の軍事的圧迫にさらされてゐる今日のわが祖國日本は、歴史に學び、侵略國家の謀略にはまることなく、祖國の独立と平和と自由を守り抜かねばならない。そして欺瞞的「反戦平和運動」を殲滅しなければならない。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗八月十二日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆など。

| | トラックバック (0)

ノンフィクション作家の河添恵子氏の「メディアが伝えないトランプ政権の本懐」と題する講演内容

四月二十三日に開催された『第六十一回主権回復記念国民大会』におけるノンフィクション作家の河添恵子氏の「メディアが伝えないトランプ政権の本懐」と題する講演内容は次の通り。

 

「習近平の訪米・米中会談には習近平派が出かけた。王毅などの外務省の役人以外は殆ど秋以降に中心に上がってくる人々ばかりで、江沢民派は一人もいない。習近平は北朝鮮をコントロールできない。去年、習近平は軍を改編した。瀋陽軍区を含む。山東省は何故か北部戦区の飛び地になっている。北朝鮮対策。瀋陽軍区が北朝鮮と一緒に核開発をしてきた。

 

習近平は東部軍区しかコントロールできない。旧満洲国の関東軍のノウハウは旧ソ連と北朝鮮に移った。その北朝鮮の技術と瀋陽軍区は結託。吉林省には朝鮮族自治区がある。その人たちの多くが朝鮮戦争に出兵。

 

張徳江全国人民代表大会常務委員会委員長は金日成総合大学に二年間留学。江沢民派。劉雲山政治局常務委員・中国共産党中央党校校長は内モンゴルを握っていた。江沢民派。張高麗政治局常務委員・副首相は江沢民派。習近平と王岐山はこの人たちを粛清しようとしている。張徳江は敵だから米中会談に連れて行かなかった。

 

習近平は、金正恩に会ったこともなく、会う気もない。江沢民派以外は北朝鮮との関係は持っていない。徐才厚は前立腺癌で獄死。殺されたに近い。周永康は終身刑。機密を北朝鮮に漏らした。周永康は「習近平は金正恩が制御不能なので金正男と張成沢による傀儡政権を作ろうとして金正男と張成沢を支援している」ことを金正恩にばらしてしまった。北朝鮮と中国の指導者は会うとハグすることになっていた。鄧小平と金日成、江沢民と金正日はハグした。今はしない。

 

クリントン時代は中国とズブズブ。IT技術を中国に横流しした。アメリカから中国東北部に核技術が行った。一九九〇年代のクリントンは軍事的機密・半導体技術が中国に相当流れてしまった。オバマ政権後期最後の一年、アメリカにある中国系の北朝鮮と深い関係のある企業は摘発。アメリカと習近平中国は、江沢民系列企業と北朝鮮を潰そうとしている。習近平は自分に核が飛んでくる可能性があるのでアメリカに何とかしてほしいと言いに行った。(米中会談)

 

トランプはロシアに近い政権になる。ティラーソン国務長官は親プーチン派。エクソンモービルの最高経営責任者をしていたので中国のこともよく分かっている。イヴァンカ・トランプはこどもがいっさいのときから中国語を学ばせている。ベビーシッターは中国人。

 

陳紅梅はケネディからクリントンまで八代の大統領の米中関係の顧問を務めた。中国は女性を使うのがうまい。中国は陳紅梅に非常に助けられた。彼女の叔父は廖承志。

 

中国の政治の中枢に入っている人の大部分は客家。鄧小平、リー・クアンユー、李登輝は客家。蔡英文は客家とのハーフ。客家は世界にネットワークを持っている。中国の内部抗争には外部の金が使われる。鄧小平はヨーロッパのユダヤ系に助けられて中国のトップになった。毛沢東をバックアップしたのはソ連。蒋介石をバックアップしたのはアメリカ。蒋介石は英語がしゃべれない。機密の話は英語が喋れる宋美齢が行った。写真をうつす時も宋美齢が真ん中に立ち蒋介石は横に立つ。

 

中国は共産党が一番上にあり、その下に軍がある。要するに軍閥国家。習近平はその軍と戦っている。北朝鮮と軍がつながっている。だから習近平はアメリカに命乞いに行った。令計劃は胡錦濤の金魚の糞。機密を弟の令完成に送った。令計劃は刑務所」。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗八月十一日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆、資料の整理。、

| | トラックバック (0)

2017年8月11日 (金)

『大和心』を表白した歌

 日本の伝統的精神のことを『大和心』という。その『大和心』を表白した歌が次の歌である。

 

 敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花

 

 近世の国学者・本居宣長の歌である。「大和心をどういうものかと人に問われたら、朝日に美しく映える山桜だと答えよう」というほどの意である。

 

 「朝日ににほふ山桜花」は何とも美しい。それが大和心なのだと宣長は言う。神の生みたまいし美しい国に生まれた日本人は美しいものを見たら素直に「美しい」と感動する。その「素直な心」「そのままの心」「純真無垢の心」が日本人の心なのである。それは、理智・理屈・理論ではない。純粋な感性である。嘘の無い心即ち「真心」である。大和心即ち日本伝統精神は、誰かによって作られた思想体系や理論体系ではないのである。

 

 しかしながら、日本人はただ単に感覚的に美しいものを好むのではない。もっと深い。日本人の「真心」は一種厳粛な神々しさを伴う。「朝日ににほふ山桜花」の美しさは神々しさの典型である。日の神の神々しさを讃えるている。

 

 さらに「夕日」ではなく「朝日」であるところに日本人が清々しさ・清浄さ・潔さ・明るさを好むことをも表現している。

 

 清らかで明るい心を「清明心」という。この清明心は天智天皇の御製に次のように歌われている。

 

 わたつみの豐旗雲に入日さし今夜(こよひ)の月夜清明(あきらけ)くこそ

 

 「大海原のはるかの大空に、大きく豊かな旗のように棚引く雲に入り日がさしている。今宵の月はきっと清らかで明るいであろう」という意。

 

 何とも大らかで豊かな御歌である。この天智天皇の大御心こそが日本人の本来的に持っている精神、即ち「大和心」なのである。そして、「清明」という漢字が用いられている。日本人は清らかで明るい心を好むのである。 

 

 「三日見ぬ間の桜かな」という言葉があるように、美しい桜の花は他の花々よりも咲いている時間が非常に短い。と言うよりも雨や風に当たればすぐに散ってしまう。日本人はそういう桜花の「潔さ」をとりわけ好むのである。これを「散華の美」という。

 

 保田與重郎氏は「しきしまの大和心を人問はばと歌はれたやうに、花の美のいのちは、朝日のさしそめる瞬間に、その永遠に豊かな瞬間に、終わるものといふ。日本の心をそれに例へたのは、さすがに千古の名歌を、永く国民のすべてに吟唱される所以であった」(昭和十四年・『河原操子』)と論じておられる。

 

 しかし、桜の花の命は、はかなくそして見事に散ってしまえば、それで消滅してしまうのではない。また来年の春に甦るのである。滅亡の奥に永遠の命がある。そう日本人は信じた。それが楠正成公の「七生報国」の御精神である。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗八月十日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆、書状執筆など。

| | トラックバック (0)

2017年8月10日 (木)

この頃詠みし歌

肉体の衰へ知らず生きて行け生きて行けとぞ自()に言ひ聞かす

 

再びは逢ひ得ぬ友の多ければ人との縁(えにし)のはかなさを思ふ

 

エレベーターで何時も会ひたる老婦人 施設に移りしと聞くはさみしき

 

今日もまた参り来たりし観音堂 鬱蒼として夏の葉繁る

 

父母を思ひ出しつつ参拝す 父母が守り来し小さき御堂を

 

赤き薔薇萎れて醜くなりにけり買ひ求めしより三日目にして

 

道に逢ふ笑顔の幼子これからの生き行く道の幸を祈れり

 

おいしい物を贈りくれたる友の顔 菩薩の如く浮かび来るかも

 

久しぶりに電話にて聞く友の声 明るく弾むその声ぞ良し

 

夏の日の夕暮れ時を歩み行く何時もと同じ街眺めつつ

 

挨拶を交はす人も今日は無く夕暮時の街を歩めり

 

とてもとても和歌とはいへぬしろものを讀むに堪へがたき『角川短歌』

 

一日の務めはたして夜の更けに机に向かひ日記つけゐる

 

今日もまた恙なく過ごせば父母(ちちはは)の遺影に向かひ手を合はせたり

 

われをしも護りたまへる父母(ちちはは)の御霊に向かひ経誦するかも

 

大いなる神の御手に護られて日日(にちにち)過ごす有難さかな

 

明日もまた酷暑の中で仕事して佳き一日を過ごさんと思ふ

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗八月五日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆。

| | トラックバック (0)

2017年8月 9日 (水)

オピニオン雑誌『傳統と革新』 第二十七号

オピニオン雑誌『傳統と革新』 第二十七号

平成二十九年九月 たちばな出版発行(四宮正貴責任編集)

特集憲法第九条と日本の防衛―憲法守って国が滅んでもいいのかー

 目次

『巻頭言』

「憲法守って國滅ぶ」といふ言葉が現実になる危険                四宮正貴 

『インタビュー』

憲法改正が平和を脅かす――そんな主張自体が、そもそもおかしいのです      山東昭子 

改憲勢力はその大義をもって 改正の議論に臨むべきだ             長島昭久

現実的な改憲への第一歩は「九条の二」の新設だ                百地 章 

「佐藤優の視点」 憲法論議は、まず歴史に学べ ~魚住忠一の“日本基督教”の土着化について考える~                                 佐藤 優

「日本国憲法」を廃棄して、「日本」即ち「国民」を取り戻せ!          西村眞悟 

誰も知らない憲法9条                            潮 匡人

矛先はまっすぐ九条に向けよ                         湯浅 博 

軍事が欠落した戦後日本の異常さ                       佐藤 守 

改憲論を混迷化させる安倍提案―国家の属性としての自衛権―          吉原恒雄 

憲法改正と三島由紀夫                            岡村 青 

やはり“押し付け憲法”だ ――まだ戦後は終わっていない           豊島典雄 

『聞き書き』相手をいかに牽制し、優位に立つか――外交防衛には「戦略」が不可欠だ 上杉 隆 

「特別寄稿」 「憲法改正」と「天皇退位」に伴う法案、法制定のねらい     高村正彦 

[提言・直言]

憲法九条によって、我が国が滅ばなかった本当の理由              武田良太イデオロギーの対立を超えて、九条の目指す大目標を、今こそ考えるべきとき   松木謙公 

 日本は、志ある平和外交の展開を                   樋高 剛

 憲法九条を、現実に近づけるべきか、現実を九条に近づけるべきか    石川知裕 

 

九条三項の加憲より、着手すべきことが沢山ある! ~建軍の本義と対米自立はイコールだ!~                                     木村三浩

 

「連載」『やまと歌の心』                         千駄木庵主人

石垣島便り㉑ 沖縄の偏向メディアの中に、まともな、地元石垣島のメディアが乗り込んできた                                     中尾秀一

我が体験的維新運動史 第26回 大楠公に学ぶ「承詔必謹」「尊皇絶対」観    犬塚博英 

編集後記

定価 本体価格1000円+税。 168頁

168〒167―0053 東京都杉並区西荻南二-二〇-九 たちばな出版ビル

 たちばな出版  ☎代表03―5941―2341 FAX5941―2348

27

|

「安岡教学研究会」第一八八回定例会

「安岡教学研究会」第一八八回定例会

 

 

 

演題『萬葉集と日本のこころ』

 

 

 

講師四宮政治文化研究所 代表 四 宮 正 貴

 

 

 

日時 平成二九年九月一九日(火)午後七時~八時四〇分

 

 

 

会場 横浜市技能文化会館 八階八〇一研修室  電話045-681-6551

 

JR京浜東北 根岸線・関内駅 南口より徒歩五分 横浜市営地下鉄 ブルーライン 伊勢佐木長者町駅出口2より徒歩三分

 

 

 

会費 一般二四〇〇円 学生五〇〇円

 

 

 

 定例会終了後の講師を囲んでの懇親会(自由参加)にご参加をご希望の方は、会場予約の都合上、必ず事前にお申し出ください。会費は当日会場にてお支払いをお願いいたします。懇親会参加費は三千円です。会場は当文化会館地下の居酒屋 匠(たくみ)です。

 

会員同士、講師を囲んで楽しく語らいながら懇親をはかりましょう!ご参加を希望される方は事前にお申し込みください。

 

| | トラックバック (0)

統治者としての天皇の御本姿を回復することが復古即革新=維新である

日本伝統信仰の「祭祀」とは自己を無にして神に奉仕する(つかへまつる)ということである。そして祭祀によって神と人とが合一する。天皇の「祭祀」そして「無私の大御心」が日本國民の道義の規範なのである。

 

人間の限り無い欲望・闘争心を抑制せしめるには、天皇の無私にして神ながらなる大御心に回帰する以外にない。

 

日本國の生命・歴史・伝統・文化・道義の継承者たる天皇の大御心・御意志にまつろう(服従し奉仕する)ことが日本國民の道義心の根幹である。そして天皇の大御心・天皇の國家統治の基本は、天照大神の御命令である「高天原の理想を地上に実現する」ということである。神の意志を地上において実現する使命を持つお方が天皇であらせられるのである。

 

現御神信仰の公的表現は、宣命詔勅に「現神(あきつかみ)と大八洲知ろしめす倭根子天皇(やまとねこすめらみこと)」と示されている。とりわけ『文武天皇即位の宣命』には「天津日嗣高御座の業と、現神と大八嶋知ろしめす倭根子天皇命の、授賜ひ負賜(おほせたま)ふ貴き高き廣き厚き大命受賜り恐み坐して……明き淨き直き誠の心以て、御稱(いやすす)み稱(すす)みて緩怠(たゆみおこた)る事無く」と示されている。

 

「明き淨き直き誠の心」こそ、わが國の道義心の根本である。天皇は現御神として天の神の御心を地上で実現されるお方であり道義精神の最高の実践者であらせられるのである。

 

天皇が日本国を統治されるのは、日本国の生きとし生けるもの・ありとしあらゆるものにその所を得さしめることである。明治天皇の『天下億兆一人も其處を得ざる時、皆朕が罪なれば、…』(明治元年三月十四日に示された『明治維新の御宸翰』)という御精神こそ天皇統治の本質であると拝する。

 

さらに明治陛下はその「御宸翰」で、「朕身骨を労し心志を苦め艱難の先に立ち、古列祖の盡させ給ひし蹤を履み、治蹟を勤めてこそ、始て天職を奉じて、億兆の君たる所に背かざるべし」と仰せになっている。

 

明治天皇の外祖父中山忠能前権大納言は、明治天皇御即位に当たって、「そもそも皇国は天照皇大神の御国で、天子をしてこれをあずからしめてあるので、至尊といえども吾物と思召ては、自然御随意の御処置に押移るべく、…」と言上した。

 

日本天皇は、『朕は国家なり』と言うような国家国民を私物化する西洋的な絶対専制君主とは全くその本質を異にする。日本天皇は天津神の御委任により「天職を奉じて」日本国に君臨されているである。故に天皇は常に無私の心で統治されるのである。

 

無私の心とは神の御心のままということである。天皇は、皇祖皇宗が踏み行われた道を継承されることを心がけられるのである。そのことがそのまま億兆の民にその所を得さしめる事即ち国民の幸福実現となるのである。

 

天皇の国家統治とは権力・武力を以て民を屈従せしめ私物化することではないのである。日本天皇の無私の精神および神聖なる権威はかかる御精神から発生するのである。

 

支那においては、天を以て帝権の象徴とし、地を以て民衆に擬し、天と地とは相対立する相対的関係のあるととらえ、天子たる皇帝は民衆を上から見下ろし支配すると考えている。

 

しかしわが国においては、天皇は天の神の御子として地上に天降られ、国民もまた神々の子孫であり、国土もまた天の神が生みたもうたのである。

 

混迷の極にある現代日本を救うには、統治者としての天皇の御本姿を回復することが大切であると考える。復古即革新=維新とはそういうことを言うのである。 

 

 

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗八月八日

午前は、諸事。

 

午後は、原稿執筆。

 

午後四時より、虎ノ門の笹川平和財団ビルにて、『笹川平和財団主催・イランイスラム共和国外務省事務次官来日記念講演会「中東情勢とイランの新たな役割」』開催。セイエッド・アッバス・アラグチ外務省事務次官(法務・国際問題担当)が講演。活発な質疑応答が行われた。

 

帰宅後は、原稿執筆。

| | トラックバック (0)

2017年8月 8日 (火)

天皇の「祭祀」「無私の大御心」が日本國民の道義の規範

 

 國家には独自の道徳観と理念が内在する。それにしたがって國民を教育し、共同体の正義を実現する。倫理観のない國家は本当の國家ではなく、多くの人の集合体を権力で統制する機構に過ぎない。これでは國民に道義心も愛國心も湧いて来ない。

 

 日本民族は、神聖君主日本天皇を道義の鏡として仰いできた。天皇は至高の道徳(日本人としての『道』)の継承者であらせられる。日本國民は古代以来天皇の神聖な権威を鏡として道義心を自覚した。

 

 「敬神崇祖」は日本人の道義の根幹であるが、それを身を以て実践されて来られたお方が「祭祀」を最大の使命とされる日本天皇であらせられる。

 

日本伝統信仰の「祭祀」とは自己を無にして神に奉仕する(つかへまつる)ということである。そして祭祀によって神と人とが合一する。天皇の「祭祀」そして「無私の大御心」が日本國民の道義の規範なのである。

 

人間の限り無い欲望・闘争心を抑制せしめるには、天皇の無私にして神ながらなる大御心に回帰する以外にない。

 

 日本國の生命・歴史・伝統・文化・道義の継承者たる天皇の大御心・御意志にまつろう(服従し奉仕する)ことが日本國民の道義心の根幹である。そして天皇の大御心・天皇の國家統治の基本は、天照大神の御命令である「高天原の理想を地上に実現する」ということである。神の意志を地上において実現する使命を持つお方が天皇であらせられるのである。

 

 現御神信仰の公的表現は、宣命詔勅に「現神(あきつかみ)と大八洲知ろしめす倭根子天皇(やまとねこすめらみこと)」と示されている。とりわけ『文武天皇即位の宣命』には「天津日嗣高御座の業と、現神と大八嶋知ろしめす倭根子天皇命の、授賜ひ負賜(おほせたま)ふ貴き高き廣き厚き大命受賜り恐み坐して……明き淨き直き誠の心以て、御稱(いやすす)み稱(すす)みて緩怠(たゆみおこた)る事無く」と示されている。

 

「明き淨き直き誠の心」こそ、わが國の道義心の根本である。天皇は現御神として天の神の御心を地上で実現されるお方であり道義精神の最高の実践者であらせられるのである。

 

 最近の日本は誤れる「民主主義思想・人権思想」によって人と國家の神聖性・道義性の破壊してきた。人間の尊厳性はその人間の生活する國家の尊厳性と不離一体の関係にある。國家をあしざまに罵り続け、天皇の神聖性を隠蔽し、自分さえ良ければいいという観念が横溢したところに、今日の日本の頽廃と混迷の根本原因があると考える。日本民族の古代からの天皇尊崇の心・現御神信仰を回復し、人間獣化=聖なるものの喪失から脱却することなくして、日本の再生はあり得ない。 

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗八月七日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆など。

| | トラックバック (0)

2017年8月 7日 (月)

天皇の国家統治と『国見』

 天皇の「國見」とはただ単に景色を眺められるのではなく、天皇が國を見渡して五穀の豊饒と民の幸福をお祈りし祝福する行事である。

 

 「目は口ほどにものを言ひ」といふ言葉もあるごとく「見る」といふのは対象物を認識する上で大切な行為である。天皇国家統治の御事を「みそなはす」(「御覧になる」・「見る」の尊敬語)と言ふ。

 

荒木博之氏は、「上代人にとって<見る>とは『対象物の神性に感応し、その対象物を飽かず見ることによって、その神性をその清浄さをおのれが本性にとりこむこと」(日本人の心情論理)と解した。この論を引用して大原康男氏は「<見る>は…単に空間とかかわる視覚に尽きるものではなく、そこには鎮魂儀礼の要素が含まれている…」と論じられてゐる。(『現御神考試論』)

 

 天皇が「國見」をされることは、天皇が行はれる國土讃嘆の農耕儀礼・祭祀である。新しい年の始まりを知らせる「春のことぶれ」(春が来たことを広く知らせること)・天地一新の行事である。祭祀主であり現御神である天皇が「國見」をされ祝福されることによって、國魂・國土が新たなる靈力を発揮し吹き返し新生する。國土が國が始まった時の若々しい命の姿に復元し新生し豊かな稔が約束されるのである。天皇が「國見」をされることによって國土の新生と五穀豊饒が實現する。

 

 つまり、「國見」は大嘗祭と同一の意義があり、天の神の地上における御代理即ち現御神(あきつみかみ)たる天皇が、國土に稲穂を豊かに實らせるといふ天の神から命じられた最大の御使命を實現するといふ天皇の統治にとって重大意味を持つ祭祀なのである。           

 

 昭和五十四年十二月四日、先帝昭和天皇は奈良県に御行幸あらせられた。翌四日、萬葉學者・犬養孝氏の御案内で、高市郡明日香村の甘橿丘にお登りになり、大和盆地を双眼鏡で一望された。この時、犬養氏は、この舒明天皇の御製など五首を朗詠した。犬養氏の「昭和の國見ですね」とふ言葉に、先帝陛下は声を立ててお笑ひになったと承る。そして、次のやうな御製を詠ませられた。

 

 「丘に立ち 歌をききつつ 遠つおやの しろしめしたる 世をししのびぬ」

 

 昭和五十九年十二月、再び奈良県に御行幸になり、翌昭和六十年の新年歌會始に「旅」といふ御題で賜った御歌が、

 

 「遠つおやの しろしめしたる 大和路の 歴史をしのび けふも旅ゆく」

 

である。

 

 農業國家・稲作國家であった古代日本は、國民生活は旱魃や洪水などの自然環境によって大きく支配される。したがって、集団の統率者は常に祭りを行って、自然の恵みを願ひ感謝しそして自然災害が起こらないやうに神に祈る祭祀を行ふことがことが大きな御使命であった。ゆゑに、祭祀は、天皇の重要な御使命であった。日本においては宗教と政治、祭祀と政治は一体であるべきである。これを<祭政一致>と申し上げる。

 今日においても、天皇陛下におかせられては各地を行幸され視察される。この行事は今日における「國見」(現御神として國土と國民を祝福される行事)であると拝する。

 日本天皇、権力によって國を支配されてゐるのではなく、現御神としての宗教的・祭祀的権威即ち御稜威(みいつ)によって國家を統治されてゐるのである。天皇は全國各地を御行幸されることによって「國見」をされ、日本各地の産土の神(うぶすなのかみ・土地を守る神)鎮守の神々を祝福され鎮められ、國土の新生と國民の幸福を實現されるのである。

 また、「國見」によって天皇の靈と各地の國魂(産土の神・鎮守の神)とが一体となって結ばれる。これを「魂触り」(タマフリ)といふ。この「魂触り」によって、天皇の神聖なる國家統治の霊的お力が益々増幅されるのである。これを「食國天下のまつりごと」といふ。先帝昭和天皇におかせられても、全國を御行幸あそばされ國民を祝福された。これがわが國の戦後復興の基となったのである。今上陛下におかせられても、その道統を継承されておられるのである。先帝陛下・今上陛下が、全国を御行幸あそばされ、国民を励まされたことは、今日における『国見』である。「天皇陛下は皇居で祭祀を行わせられてゐればいい」という意見があるが、『國見』の意義を正しく理解していない意見であると思う。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗八月六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』『やまと新聞』の原稿執筆。

| | トラックバック (0)

2017年8月 6日 (日)

 國家的危機状況において國民の愛国心・やまと心を興起せしめねばならない

村田清風の歌

しきしまの 大和心を 人問はば 蒙古のつかひ 斬りし時宗

 

 

 村田清風は長州の人。文化五年(一八〇八)二十六歳にして藩主・毛利齋房の近習になる。藩の制度改革・財政確立・士風作興に功績があり、國學明倫館を建て、江戸藩邸に有備館を建て、學問を振興させた。安政二年(一八五五)に七十三歳で病没。

 

この歌は、本居宣長の

 

しきしまの 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山ざくら花

 

を本歌取りした歌。北條時宗が弘安二年わが國に朝貢(日本が貢ぎ物を差し出して元の属國になること)を求めて来た元の使者を博多で斬った。この時宗の行為を大和心の典型であるとして讃えた歌である。

 

 大和心・大和魂には二つの意義があると考える。一つは、日本民族の持つ包容力・美しさを愛する心である。和魂漢才・和魂洋才の和魂は日本民族の強靱なる包容力のことであろう。もう一つは、勇武の心・桜の花に象徴される散華の心(潔く散る精神)である。

 

 この二つのは全く別なものではなく、清明心(清らかで明るい心)・純粋な心・素直な心・そのままの心として一つである。それは日本民族の本来的持っている魂であり精神である。宣長の歌はこの二つを「朝日に匂ふ山ざくら花」という言葉に結び合わせて歌っていると思う。

 

 日本は今日、中華帝國主義の侵略の危機にさらされ、北朝鮮にミサイルを飛ばされ國民を拉致され、韓國やロシアには領土を取られている。今こそ日本國民全体が愛國心・勇武の大和魂を発揮して國難に当たるべき時である。

 

 國家的危機状況において國民の愛国心・やまと心を興起せしめねばならない。本居宣長・村田清風・眞木保臣・吉田松陰のような日本民族の本来的な清明心・尊皇精神に立脚した大和魂を発揮しなければならない。

                  

 眞木保臣

 

 おほ山の 峯の岩根に 埋めにけり 吾が年月の やまとだましひ

 

 吉田松陰

 

 かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗八月五日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、書状執筆、原稿執筆の準備など。

| | トラックバック (0)

2017年8月 5日 (土)

現御神信仰は今日においても「生きた真実」である

 わが國の伝統的な天皇信仰・現御神信仰を表白した歌が、『萬葉集』の代表歌人・柿本人麻呂の次の歌である。

 

 大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に いほらせるかも

 

 「大君は神であられるので、天雲の雷の上に仮の廬を結んでおられることだ」というほどの意。持統天皇が雷の丘にお出ましになった時に、人麻呂が現御神信仰を高らかにうたいあげた歌。

 

 「雷の丘」は奈良県高市郡明日香村にある雷神が祭られている丘。雷神が住んでいたという伝説のある神の山・聖なる山である。「いかづち」とは「厳槌」の義で、雷鳴は神が巨大な槌を転ばす音であると信じられた。「いほらせるかも」とは、直訳すれば「仮の庵を結ぶ」意であるが、この歌の場合は、天皇が祭り主として聖なる神の山・雷の丘で國見をされ祭事を齋行されることをいう。つまり、「いほり」とは「齋」(いつき・斎戒<心身を清めて言行・飲食などの行為をつつしむこと>して神をまつること)の意味である。

 

 「國見」とは、単に國土を望見されるというのではなく、天皇が國土を眺望され國土の繁栄と五穀の豊饒を祈る祭祀儀礼であり、天皇が國見をされることにより國土は新生する。古代人にとって「見る」とは魂の結合を意味した。

 

 この歌は、「聖なる山の上でまつりごとをされる天皇は、この世における神であられ、あらゆる神霊を従えたもう御稜威(神聖なる霊的威力)輝く御存在である」といふ現御神信仰即ち天皇信仰を歌っている。この信仰は人麻呂個人のものではなく、萬葉人即ち古代日本人に共通する信仰であった。神を祭られる天皇はこの世における神であるというのが日本人の現御神信仰である。

 

 また、自然を神として拝んだ古代日本人は「雷」も神として仰いだ。それが後世の天神(菅原道真の御霊を祭った神社)信仰につながる。「神」という漢字は、祭りの対象の意味を表す「示」(神への捧げ物を置く台の象形文字)と、音を表す「申」(稲光の象形文字)とからなる形声字である。つまり、古代支那においても、雷を天の神と考えたのである。

 

 人麻呂はまた別の歌で「やすみしし わが大君 高光る 日の御子」と歌っている。「四方八方をやすらけく御統治あそばされるわが大君、高く光る日の神の御子」というほどの意で、天皇は、天照大神の御子としての無上の神格を持たれるという現御神信仰を高らかにうたいあげている。

 

 天皇を「日の御子」「天津日嗣日本天皇」と申し上げるのは、天皇が日の神の御神威を継承して日本國を統治されるお方であるということである。「天津」は高天原からの天津神から継承されている神聖なという意で、「日嗣」は天照大神から伝えられた「日霊」を継承するという意である。 天皇は、大嘗祭・新嘗祭を通して日の神=天照大神の神威・霊威を体現される御存在となられ、天照大神の「生みの御子」すなわち「現御神」として君臨されることとなるのである。

 

 天皇は血統上は先帝から今上天皇が皇位を継承するのであるが、信仰上は御歴代の天皇お一方お一方が天照大神の「生みの御子」であらせられる。皇祖・天照大神との御関係は、邇邇藝命・神武天皇・今上天皇も同一である。これを「歴聖一如」と申し上げる。

 

 地上に天降られた邇邇藝命は肉身としての皇統の祖として祭られ、南九州に御陵が鎮まっている。天照大神は皇祖神として伊勢の神宮に祭られている。

 

 この尊い事実を會澤正志斎は、「神州は太陽の出ずる所、元気の始まる所にして、天日の之嗣、世(よよ)宸極(しんきょく)を御し、終古易(かは)らず」(新論)と言った。日蓮も「日本國の王となる人は天照大神の御魂の入代らせ給ふ王なり」(高橋入道殿御返事)と言っている。現御神信仰・現人神信仰は決して近代日本において人為的オロギーとして作られたものではないのである。   

 

 神々の中で最尊・最貴の神と仰がれる天照大神の御子であられる日本天皇は、雨の神・雷神などの自然神を従えられる御存在であるというのが萬葉人以来の日本人の信仰であった。それは今日においても自然な日本伝統信仰として生き続けている。

 

 昭和天皇は、昭和三十五年に、

 

 さしのぼる 朝日の光り へだてなく 世を照らさむぞ わがねがひなる

 

と歌われ、同三十四年には

 

 あなうれし 神のみ前に 日の御子の いもせの契り 結ぶこの朝

 

と詠ませられている。

 

この二首の御製は天皇および皇太子は「天照大神の生みの子」即ち「日の御子」であるという御自覚を歌われているのである。

 

 これらの御製を拝すれば、昭和天皇が「昭和二十一年元旦の詔書」においていわゆる「神格」を否定され「人間宣言」をされたなどという説が大きな誤りであることが分かる。

 

 平成十一年十一月十二日、皇居前広場にて『天皇陛下御即位十年をお祝いする國民祭典』開催された。夕刻になると強い雨が降り出したが、開會して両陛下お出ましの直前にその雨が止んだ。まことに不思議な事実であった。天長節・新年の皇居参賀など様々な行事の時も、そして地方行幸にお出ましの時にも、外國御訪問の時にも同様のことが起こる。これは人麻呂が歌った通り、天皇が自然神を支配し且つ自然神が天皇に奉仕している証拠である。

 

 天皇が現御神であらせられるということは古代日本人がつくりあげた「虚構」ではなく、今日唯今においても「生きた真実」なのである。           

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗八月四日

午前は、諸事。

午後は、資料の整理。

午後五時半より、赤坂の日本財団ビルにて、『第109回東京財団フォーラム トランプはどこまで変えられるのか-アメリカ大統領権限に見る可能性と限界』開催。久保 文明 東京財団上席研究員、東京大学法学部教授(モデレーター)、阿川 尚之 同志社大学法学部特別客員教授、浅野 貴昭 東京財団研究員・政策プロデューサー、梅川 健 首都大学東京都市教養学部法学系教授、杉野 綾子 日本エネルギー経済研究所主任研究員が討論。質疑応答。

帰宅後は、原稿執筆の準備など。

 

| | トラックバック (0)

2017年8月 4日 (金)

日本文化の国粋性と包容性

日本伝統信仰たる神道の神官が日本思想史・文学史において占める位置は大きい。賀茂真淵・吉田兼好・鴨長明がその代表的人物である。しかも兼好や長明は仏教の影響も強く受けていた。神道が排他的ではない証拠である。日本の神を祭る人は実に寛容にして大らかであった。これが日本文化そのものの包容性の原点であったと思われる。

 

国粋精神を謳歌した学者たちにおいても、外国文化受容に対して積極的だった。

 

例えば、平安前期・宇多天皇の御代の右大臣・菅原道真は優れた漢学者であり法華経の学者でもあった。言わば外来の最高の学問を身に付けた人であった。

 

その道真が編纂した歴史書『類聚国史』(二百巻)は神祇・帝王のことが冒頭に記されていて、仏教のことについては外国関係のものとしてはるか後ろの方に輯録されているという。

 

菅原道真はまた遣唐使の廃止を建言した人物でもある。日本の伝統を重んじる精神があったればこそ外国文化を正しく学び自己のものとすることができたのである。道真はまさに主体性と開放性とを併せ有する日本文化のあり方を体現した人物であったと言える。

 

 

徳川初期の儒学者・兵学者である山鹿素行は、日本の皇統の正統性と政治の理想が古代において実現されていたと論じた『中朝事実』という歴史書を著した。これは日本の特質を儒教思想によって論じている。

 

「中朝」とは世界の中心に位置する朝廷の意で、日本は神国であり天皇は神種であるとの意見が開陳されている。支那は自国を「中華・中国・中朝」とし、外国をことごとく野蛮な国と断じていた。素行は、その「中華・中国・中朝」は実に日本であるとして、書名を「中朝事実」としたのである。つまり国粋思想をを支那の学問を仮りて論じているのである。

 

室町・戦国時代の神道家である吉田兼倶(かねとも)は、「吾が日本は種子を生じ、震旦(支那注)は林葉を現はし、天竺(注インド)は花実を開く。故に仏教は万法の花実たり、儒教は万法の枝葉たり、神道は万法の根本たり。彼の二教は皆是れ神道の分化なり。枝葉・花実を以て其の根源を顕はす。花落ちて根に帰るが故に今此の仏法東漸す。吾が国の、三国の根本たることを明さんが為めなり」(唯一神道名法要集)と論じでいる。

 

日本の二大外来宗教・思想たる仏教と儒教が神道から分かれた枝葉・花実であるという日本を中心とする国粋思想である。儒教仏教を包摂した根底にこうした強靱な生命力があったと言える。

 

江戸前期の陽明学者熊沢蕃山はその経世論『集義外書』において、「天地を父母として生れたる人なれば、中國・日本・戎蠻・北狄の人も、皆兄弟也。……人といへば耳目口鼻かはりなきが如く、心の知仁勇は皆天理の一徳にしてへだてなし」と論じている。

 

支那の中華思想の影響を受けた封建時代の学者としては何と開放的な考え方であることか。こうした考え方を日本人が持っていたからこそ、日本文化は発展したのである。

 

近世の国学は幕末の尊皇攘夷運動の思想的基盤の一つであったが、決して排他的な偏狭な考え方に支配されていたわけではない。

 

例えば、平田篤胤は「仏法すなわち神の枝道にて、仏すなわち天竺の神なり。…凡て世の中のことは善きも悪きも、本は神の御所業(しわざ)に因れることにて、則公(おほやけ)ざまにも立置るゝ事なれば、これも広けき神の中の一ノ道なり。」(鬼神新論)と論じている。仏教は広大なる神の道の一つの枝でありインドの神だというのである。

 

また「そもそもかく外国々より万づの事物の我が大御国に参り来ることは、皇神たちの大御心にて、その御神徳の広大なる故に、善き悪しきの選みなく、森羅万象ことごとく皇国に御引寄せあそばさるる趣を能く考へ弁へて、外国より来る事物はよく選み採りて用ふべきことで、申すもかしこきことなれども、是すなわち第の御心掟思ひ奉られるでござる」(静の岩屋)と論じている。

 

外国から多くの文物が日本に入ってくるのは日本の神の御心で有るからこれをよく取捨選択すべきだというのである。

 

篤胤の門下にして勤皇の大義を説いた大国隆正は、「今の世の人は、学問とだにいへば儒学のことにこころえてあれど、儒学をのみ学ぶはこと狭し。『神代巻』を本書とし、支那、天竺、西洋よりわたり来れる書籍をすべて、わが神代巻の注釈書とおもひてみるべきなり。…わが門に入る人はたれもかくのごとくこゝろえて、ひろく学ぶべし。」(本学挙要)「外国の人の入り来るは、かしこき大御世の御栄にて、よろこぶべきことなるを、世の人の、…ひたすらにうちしりぞけんとするは、天神地祇のみ心を、悟らぬものならんかし。」(馭戎問答)と論じでいる。

 

日本の文化は、外来文化を包容摂取したが、外来文化は日本に伝来し日本に融合されることによって高度なものとなり洗練された。それは日本民族の文化感覚がもともと優れたものであったからにほかならない。

 

蓮田善明氏はその著『神韻の文学』において次のように述べておられる。「儒・道教、或は仏教が日本に入って来て、直接に(日本の注)神に会って、どのやうに高いものに達し得たか、どのやうに大きな光に透されたかを見る必要がある。日本人が、それらの有するあの誇りかな理法に絡(まつ)はられつゝも遂に、それに扼殺されてあの生の倦怠と惨落に陥るといふやうなことなく、神ながらのまさ道をまことに無窮の隆昌を保有してきた事実を知る必要がある。日本文化が異文化を抱合することによって高まったとなすが如き思想は正しくない。…我々は日本が儒老仏教によって真の意味に於て生命を国のいのちを豊かにされたとも向上されたとも信じない。」と論じておられる。

 

日本民族にこのくらいの誇りと自尊心があったからこそ日本文化は多くの外来思想・文化を取り入れつつそれをより高度なものにしてきたのである。

 

江戸期までは主にアジアの文化・文明を摂取してきた。近代においては、西洋科学技術を盛んに取り入れ自家薬籠中のものにした。西洋科学技術文明を取り入れつつ、アジアの文化伝統を保持しているている国が日本である。

 

近代科学技術文明は西洋合理主義を基盤としている。日本民族がこれを拒絶することなく自己のものとすることができたのは、日本民族には本来的に合理精神があったからである。非合理精神と合理精神を調和統合せしめる力が日本にはあるのである。日本は多少の矛盾はあったが、近代化を為し遂げることができたのである。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗八月三日

午前は、諸事。

午後は、原稿執筆の準備。

夕刻、団子坂にて、親族と懇談。

帰宅後は、書状執筆、資料の整理など。

| | トラックバック (0)

2017年8月 3日 (木)

『現行憲法』の部分改正について

憲法はただ憲法を改正すればいい、新しい憲法を作ればいいといふことではない。『現行占領憲法』の欠陥を根本的に否定しなければならない。

 

『現行占領憲法』の最大の欠陥は、その原理にある。『現行占領憲法』の三原理の一つとされる「國民主権・主権在民」といふ思想は、君主と國民が絶対的に対立し、権力を奪ひ合った歴史を持つ欧米で生まれた思想である。祭祀國家であり君民一體の國柄であるわが日本にはまったく適合しない思想であり、革命=國體破壊につながる思想である。

 

「國民主権論」「主権在民論」は「人類普遍の原理」を詐称してゐるがさうではない。欧米における革命・政治変革から生まれてきた思想であり、日本國體とは絶対に相容れない思想である。

 

日本天皇の國家統治の本質は、権力・武力による國家・國民支配ではない。天皇の祭祀主としての神聖なる権威による統治(すべおさめる。しろしめす。きこしめす)である。そして、天皇の神聖なる権威が権力者・為政者の権力濫用を抑制するのである。それがわが國の建國以来の國體であり歴史である。

 

日本國は信仰共同體・祭祀國家であり國民が契約を結んで人工的に作った國ではない。そして祭祀主である天皇は國民と対立してこれを力によって支配する御存在ではない。天皇と國民と國土の関係は、対立関係・支配被支配の関係にあるのではない。契約関係・法律関係にあるのでもない。精神的一體関係にある。これを「一君萬民・君民一體の國柄」といふ。これが日本肇國以来の國柄であり國體である。

 

つまり、日本の歴史と傳統そして日本國體は、西洋の契約思想や人間不信を基盤とした国民主権論や西洋近代の成文法とは基本的に相容れないのである。

『占領憲法』第一条には「 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と書かれている。これは天皇の御地位そして日本國體は国民の多数意思によって廃絶できるという革命思想である。

 

さらに第九十八条には「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」と書かれている。建国以来、上御一人が発せられた「詔勅」を否定していると解釈できる。

 

つまり『現行占領憲法』は「革命憲法」であり、「國體隠蔽憲法」なのである。このやうなものは根底から否定しなければならない。國会の三分の二以上の賛成、有権者の二分の一以上の賛成で、一部改正を行ふと、『現行占領憲法』は占領軍の押しつけではないといふことになる。第九条のみの部分改正だと、『現行占領憲法』の「革命思想」「國體破壊思想」を占領軍の押しつけではなく「国民の意志」として肯定することとなる。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗八月二日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、原稿執筆など。

| | トラックバック (0)

2017年8月 2日 (水)

『政治文化情報』平成二十九年八月号のお知らせ

四宮政治文化研究所発行・『政治文化情報』平成二十九年八月号のお知らせ

 

『政治文化情報』は、昭和五十九年創刊以来、小生の論考、時局問題などに関する主張、活動状況の報告、各方面から得た様々な情報などを掲載し、それなりの評価を得て来たと自負致しております。
多くの心有る皆様方のご購読をお願い申し上げます。
見本誌御希望の方はご遠慮なくメールでお申し込み下さい。

メールアドレス m-shinomiya@max.hi-ho.ne.jp

購読料
年間 12000
半年 6000

平成二十九年八月号(平成二十九年七月二十五日発行)の内容

 

〈皇都の一隅より〉

『教育勅語』について

 

『教育勅語』渙発の経緯

『教育勅語』渙発の意義

 

日本傳統信仰の祭祀主であらせられる天皇が國民に宣明された尊き「みことのり」が『教育勅語』である

 

『教育勅語』と儒教

 

『教育勅語』に示された忠孝精神は、日本國民が永遠に遵守すべき徳目である

 

失効にすべきは、『現行占領憲法』であり『教育勅語』に関する衆参両院決議である

 

千駄木庵日乗

野嶋剛氏(ジャーナリスト、元朝日新聞台北支局長)中國は主権が及んでいない台湾に対して『鳴かぬなら殺してしまえホトトギス』というアプローチはできない。主権が及んでいるチベット、ウィグルに対しては殺してしまう」

安倍晋三内閣総理大臣「私は吉田松陰先生の『至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり』という言葉を胸に刻んでいる。奥野誠亮先生はそのお名前の通り、『誠』を貫かれた。誠意と情熱の人であられた」

 

奥野信亮衆議院議員「父は地方税制・地方財政の基礎を築いたと評価されている。『派に頼らず義を忘れず』の考え方で歩んできた。大東亜戦争の正しい評価、自虐精神の脱却を訴え続けてきた」

 

藤井厳喜氏「東シナ海と南シナ海の結節点にあるのが台湾。地政學上非常に重要。台湾にミサイル基地が出来たら何処へでも飛んでいく。中國が台湾を手に入れたらアジアが中國に靡くドミノ現象が起こる」

 

黄文雄拓殖大學日本文化研究所客員教授「日本は積極的に世界に関わるべし。トランプ登場は良いチャンス。日本第一主義・ヤマトイズムで出て行くべし」

 

高乗正臣平成國際大學名誉教授「一代限りの特例法は避けるべきだと思った。その場しのぎで法律を変えるとなると、皇位が不安定になる可能性がある。明確な基準と手続を確立すべし。本来私は譲位には否定的」

 

慶野義雄平成國際大學教授「皇后陛下は深い國體へのご理解があられるのではないか。皇后陛下は『生前退位という言葉を聞いて大変ショックを受けました』と言われている。最大限のマスコミ批判。『深い悲しみを覚えました』と仰せになっている」

 

この頃詠みし歌

| | トラックバック (0)

現御神信仰について

 

日本人が古代から抱いてきた現人神(あらひとがみ)思想=現御神(あきつみかみ)信仰は、天皇がイエス・キリストのやうに海の上を歩いたりする超人であるとか、全知全能の絶対超越神であるといふ信仰ではない。

 

日本物語文學の祖とされる『竹取物語』(成立年代不明・作者不明)では、かぐや姫に求婚した天皇が「天竺の宝物を持って来てくれ」などといふ難題を言ひかけられて大いに悩まれることが記されてゐる。日本人の現御神信仰が天皇は絶対無謬の御存在であり全知全能の神とする信仰であったら、古代においてこのやうな物語が生まれるはずがない。 

 

和辻哲郎氏は、「(天皇が神聖な権威を担ふといふ傳統、皇統が天つ日嗣として神聖であるといふことは・註)この傳統を担っている現人をそのまま神化しようとするのではない。従ってそこには天皇の恋愛譚や、皇室内部における復讐譚などを数多く物語っている。これらは天皇の現人性を露骨に示すものと言ってよいであろう。しかしかく現人たることなしに現人神であることはできない。現人でありながらしかも現人たることを超えて民族的全体性の表現者となり、その全体性の根源から神聖な権威を得てくるということ、従ってこの権威はただ一系であり不易であるということ、それを記紀の物語は説き明かそうとしたのである。」(『日本倫理思想史』)と論じてゐる。

 

現御神あるいは現人神とは、読んで字の如く、現実に人として現れた神といふことである。人でありながら神であり、神でありながらながら人であるお方が、祭り主であられる日本天皇なのである。それを名詞で表現したことばが現人神・現御神なのである。 

 

そしてこの場合の神とは、キリスト教や回教の神のような超自然的・超人間的な神なのではない。だから現御神であらせられる天皇御自身、神仏に祈願を込められ、天皇の御名において神々に御幤を奉られるのである。

 

葦津珍彦氏は〈現御神日本天皇〉の意義について次のやうに論じてゐる。「天皇おん自らは、いつも過ちなきか、罪けがれなきかと恐れて御精進なさっている。天上の神になってしまって、謬つことなき万能の神だと宣言なさった天皇はない。…現御神とは、地上において高天原の神意を顕現なさる御方というのであって、決して無謬・無過失の神だというのではない。」「現人神というのは人間ではないというのではない。人間であらせられるからこそ、皇祖神への祭りを怠らせられないのである。天皇は、神に対して常に祭りをなさっている。そして神に接近し、皇祖神の神意に相通じ、精神的に皇祖神と一体となるべく日常不断に努力なさっている。天皇は祭りを受けられているのではなく、自ら祭りをなさっている。祭神なのではなくして祭り主なのである。その意味で人間であらせられる。けれども臣民の側からすれば、天皇は決してただの人間ではない。常に祭りによって皇祖神と相通じて、地上において皇祖神の神意を表現なさるお方であり、まさしくこの世に於ける神であらせられる。目に見ることのできる神である。だからこそ現御神(現人神)と申上げる。」(『近代民主主義の終末』)。

 

 現御神(現人神)日本天皇は、天つ神・皇祖神の御子としての神聖なる権威を担って、目に見える人の姿として、現実に地上に現れられた神であらせられる。そして、皇祖天照大神の住みたまふ天上界(高天原)と地上とは隔絶した関係ではなく、常に交流してゐる関係にある。

 

 日本人の傳統信仰は、皇祖神と天皇の関係ばかりでなく日本の神々と一般國民も種々の形で交流し、両者の間に超えがたい区別などはないのである。神はしばしば人の姿をとって現実世界に現れ、人の口を借りて神意を傳へんとする。

 

日本國の祭り主であられる天皇は、「無私」になって神のまつろひ奉る御方であり、神のみ心を伺ひ、それを民に示される御方である。また民の願ひを神に申し上げて神の御加護を祈られる御方である。

 

「祭る」とは無私になって神にまつろふといふ事であり、祭る者が自分を無にして祭られる者=神に従ふといふ事である。「祭り」とは神人合一の行事である。

天皇が祭り主として「無私」であられるからこそ、神のみ心を実現され、天照大神の神霊を體現される御方となられるのである。だから民から天皇を仰ぐ時には「この世に生きたまふ神」すなはち「現御神(あきつみかみ)」あるいは「現人神(あらひとがみ)」と申し上げるのである。

 

天照大神と天皇の関係は、単に、天照大神が天皇の御祖先であり天皇は天照大神の御子孫であるといふ関係だけではなく、天照大神の神霊が天皇のお体に入り、天皇が天照大神の御意志(地上に稲を実らせること)を地上(豊葦原の瑞穂の國=日本)において実現するといふ関係である。日本天皇は日本の神々の中で最高の尊貴性を持たれる天照大神の「生みの御子」として地上に現れられたお方であらせられるのである。

| | トラックバック (0)

2017年8月 1日 (火)

千駄木庵日乗八月一日

午前は、諸事。

昼は、若き友人と懇談。

午後からは、在宅して、書状執筆・原稿執筆の準備、資料の整理など。

| | トラックバック (0)

北朝鮮・共産支那が日本に対しては絶対に手を出せないという国防体制確立が急務である

北朝鮮や共産支那の動向を見て明らかな如く、「現行占領憲法」の「前文」の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれ等の生存と安全を保持しようと決意した」という美辞麗句がいかに危険であるかが火を見るよりも明らかである。

 

この「憲法」なるものをかたくなに守ってきた結果、わが国は、尖閣列島・沖縄は共産支那の侵略の危機に去らされ、竹島は韓国に南樺太全千島はロシアに不当に占領されたままである。そして、共産支那は超軍事大国として、また北朝鮮は核開発に狂奔する軍事独裁侵略国家としてわが国を威嚇し続けているのである。そして拉致問題もいつになっても解決しない。

 

「現行占領憲法」の「欺瞞的平和主義」は通用しないどころか極めて危険な考え方である。「現行憲法」は一刻も早く無効にしなければならない。

 

日本は自国の防衛について米国に大きく依存しなければならない。それは、大東亜戦争直後、国際法に違反してまで日本を弱体化することを目的とした「現行憲法」を押し付けた事がその原因である。米国にも大いに責任がある。

 

ともかく、日本は自国の安全と独立を守るための体制を確立する事が急務である。「対米依存」という屈辱的状況から脱却するためにも、自主防衛体制の確立を断行しなければならない。北朝鮮・共産支那が日本に対しては絶対に手を出せないという国防体制確立が急務である。それと共に日本国内に巣食う似非平和運動勢力=事実上の共産支那・北朝鮮の手先を殲滅すべきである。

| | トラックバック (0)

この頃詠みし歌

 

朝の光身に浴びにつつベランダで窓拭きをれば心清々し

 

迎へ火を焚きゐる夫婦の姿眺め谷中寺町の夕暮れを行く

 

汗拭ひ部屋の掃除をする時は自づからにわが身も清まる思ひ

 

何時も来る美術館より見ゆるなる桜田門の歴史を偲ぶ(桜田門外の変)

 

討ち取られし直弼の首 日本の維新変革の始まりの時()

 

水戸藩士宗家の大番頭討ち取りて尊皇の大義貫きにけり()

 

灯台の下の岸壁に腰下ろし海眺めつつお握りを食す(足摺岬)

 

生命の力は強し夏草は烈日の下に伸びてゆくなり

 

(こぼ)たれし家の跡には夏草が茫々(ばうばう)と生へて命を誇る

 

アメリカ人の父子が楽しげに酒酌みて語らひてをり根津の酒場で

 

ベランダに転がりし雹を頬張ればかき氷の如き味がするなり

 

ベランダに叩きつけられし雹を拾ひ口に入れたり幼子の如く

 

母と二人で相撲中継を見てゐたる思ひ出悲し去年の今頃 (大相撲夏場所)

 

相撲を見ることもなくなりし夕つ方一人煙草を燻らしてゐる

 

ニコライの鐘の音聞きつつ信号を待つ時の間の心地良さかな

 

祈り終へ眠りにつかんとする時の静けさの中に我はゐるなり

 

七十年生き来てなほも生きんとす力強くも生きんとするなり

 

夏の夜空飛行機の灯りが進みをり人々を乗せて何処に行くか

 

美辞麗句連ねられゐる憲法の前文を讀むことの空しさ

 

敗戦国の自虐的歴史観と「平和主義」にしがみつく人の多きを嘆く

 

まやかしの「平和主義」にしがみつく輩は侵略国の手先とぞ知れ

 

安全と生存すらも外国にゆだねる國が何処にぞある

 

片山哲が住みゐし家の跡所(あとどころ)ルノアールといふ茶房となりぬ

 

学生時代にボーイをしたる茶房にて今日は静かに書を讀みてゐる

 

はるばると訪ね行きたる町にして道に迷へる子羊われは

 

何時見ても心やすらぐその姿 悲母観音像を今日も仰げり(東京藝大美術館にて)

 

若き夫婦が営む店で焼き鳥を食しつつ呑むチューハイ美味し

 

朧月を見上げてをれば後ろより隣人夫妻が声かけてくる

 

宮柊二氏の歌集を讀みつつ大陸に戦ひし父のことを偲べり

 

自衛隊の制服を着て午前五時に家を出る父を見送りし日々

 

時は経てど母を思ふ心は絶えるなし懐かしきかもその面影は

 

母上の終(つひ)の声を聞き得ずに永久の別れとなりしさみしさ

 

百歳までは生きたまふなりと信じゐし母を思へば胸迫りくる

 

父母(ちちはは)の位牌を清め安置せる日曜の朝の静かなる心

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗七月三十一日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆・脱稿・送付。原稿校正。資料の整理など。

| | トラックバック (0)

« 2017年7月 | トップページ