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2017年7月17日 (月)

「武の精神」「剣の精神」こそ、國民の道義精神の要である

わが國の武士は太刀を「力と勇気と名誉と忠誠の表徴」として尊んだ。そればかりでなく太刀は神聖なものとして尊ばれた。太刀を御神体とする神社もある。

 

日本武尊が「床の辺に 吾が置きし つるぎの大刀」と歌ってをられるやうに、太刀は床の間に置かれた。太刀に対する侮辱はその太刀の持ち主に対する侮辱とされた。刀鍛冶は単なる工人ではなく、神聖なる職に従事するものであった。刀鍛冶は斎戒沐浴して工を始めた。太刀を作ることは神聖な宗教的行事とされた。

 

太刀(タチ)の語源は、「断()ち」であり、「顕()ち・現()ち」である。罪穢を断つと共に、罪穢を断った後に善き事を顕現せしめるといふ言霊である。罪穢を祓ひ清めた後、神威を発動せしめる意である。太刀によって邪悪を滅ぼし、穢れを清め、本来の清らかさを顕現せしめるのである。

 

太刀は「幾振り」と数へられるやうに、魂ふり(人の魂をふるい立たせ活力を与へ霊力を増殖させる行事)のための呪具でもあった。剣や玉など呪器に籠る霊力を振はせることによって、人間などの力を復活させる行事が「魂触り」なのである。

 

御神輿が練り歩くのも、神体等を振はせ揺り動かすことにより神霊を活性化させる意義がある。それと同じく剣を振る事によって本来活力を失った魂を再生し活力を再生させる。

 

鎮魂は、ミタマシズメ・ミタマフリと言ひ、枯渇した人間の魂を振り起し、復活させ、衰微した魂の生命力を再生し復活させる行事である。日本の剣は人の命を絶つための道具ではなく、人の命を生かす道具なのである。まさに「活人剣」なのである。

 

太刀・剣には魂が籠ってゐると信じられ、太刀を授受することは精神的・魂的な信頼関係が成立したことを意味する。敗者から勝者へ太刀・剣が奉られるのは、恭順の意を表する象徴的行事である。

 

小野田寛郎氏がそれを行ったことは多くの人が記憶してゐるところである。小野田氏がルパング島で発見された後、当時のフィリッピンのマルコス大統領に軍刀を差し出した。軍人の魂であるところの軍刀を差し出すといふことは恭順の意を表するといふことである。小野田氏は昭和の御代において武人の伝統を継承した人物だったのである。

 

さらに言へば、「タチ」は「タツ」と同じ語源であり、それは「龍(タツ)」である。龍神は水の神であるから、水源地である山奥には龍神の祭った神社が鎮座する。蛇を祭った社(やしろ)も水の神である。道を歩いてゐて、蛇を見ると光ってるやうに見える。「龍」や「蛇」は長くて光る動物であるので、「刀」とよく似てゐる。ゆえに「刀」は「龍・蛇」を連想させる。

 

また、雷が鳴ると必ず雨が降る。だから水の神と雷神とは近い関係にあると考へられた。雷の稲妻は、光を放つので太刀を連想した。このやうに、「刀」「龍」「蛇」「水の神」「雷神」はきはめて近い関係にあるものと信じられた。

 

天皇の統治したまへるわが日本國は、言葉の眞の意味において「平和國家」である。神武肇國の御精神・聖徳太子の十七条憲法・明治天皇御製を拝すれば、それは明らかである。また、歴代天皇は常に國家と國民の平安を祈られてきた。しかし、さうしたわが國の伝統は、「剣の心」「武」「軍」「戦ひ」を否定してゐるのではない。

 

「三種の神器」には、日本國體精神、日本天皇の国家統治の基本精神が表象されてゐる。「三種の神器」には、皇霊が宿ると信じられ、日本天皇の國家統治、言ひ換へれば日本民族の指導精神の象徴である。「三種の神器」は皇位の「みしるし」であり、歴代天皇は、御即位と共にこの神器を継承されてきた。

 

「鏡(八咫鏡・やたのかがみ)」は、「澄・祭祀・明らかなること・美意識・和御魂・太陽崇拝」の精神を表象し、「剣(草薙剣、くさなぎのつるぎ)」は、「武・軍事・たけきこと・克己心・荒御魂・鉄器文化」の精神を表象し、「玉(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)」は、「和・農業・妙なること・豊かさの精神・幸御魂・海洋文化」をそれぞれ表象してゐる承る。祭祀・軍事・農業を司りたまう天皇の御権能が「三種の神器」にそれぞれ表象されてゐるのである。

 

これらは別々の観念として傳えられてゐるのではなく、三位一體(三つのものが本質において一つのものであること。また、三者が(心を合わせて)一體になること)の観念である。日本國體精神、日本天皇の国家統治の基本精神には厳然として「武の精神」「剣の精神」が継承されてきてゐるのである。

 

現代日本は「生命尊重」のみで魂が死んでしまひ、頽廃と残虐の時代になった。「武」を否定し、「生命の尊重」が最高の道徳としされ、「平和と民主主義」を謳歌してゐる今日の日本において、戦前どころか有史以来見られなかった凶悪にして残虐なる犯罪、殺人事件が続発してゐる。

 

 三島由紀夫氏は、昭和四十五年十一月二十五日、市ヶ谷台状で自決された際の『檄文』で、「生命の尊重のみで、魂が死んでもよいのか」と訴へられた。まさに、現代日本は「生命尊重」のみで魂が死んでしまひ、頽廃と残虐の時代になってしまった。

 

 さらに三島氏は『檄文』において「軍の名を用ゐない軍として、日本人は魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されてきたのである」と訴へてゐる。

 

 魂の腐敗と國家の欺瞞は、「軍國主義國家」であったと言はれる戦前の日本にはあり得なかったやうな、「人命尊重」といふ言葉が空しくなる残虐なる殺人が日常茶飯事になった現代社會を現出させた。 

 

 國家を守るといふ「武の精神」「剣の精神」こそ、國民の道義精神の要である。武と國家、國防と道義は不離一体の関係にあるのである。今日の日本において、「武の精神」「剣の精神」を復興せしめねばならない。

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