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2017年7月19日 (水)

松本彧彦氏(日台スポーツ・文化推進協会理事長)による「日台草の根交流の五十年」と題する講演内容

四月一日に開催された『アジア問題懇話会』における松本彧彦氏(日台スポーツ・文化推進協会理事長)による「日台草の根交流の五十年」と題する講演内容は次の通り。

 

「大學時代に『六〇年安保』を経験。政治に関心を持った。自由主義が良いか、社会主義か良いかを考え、自由主義か良いと思った。大学で法律を学び、卒業後、東京都の公務員になった。ヨーロッパの都市行政を視察。ベルリンの壁が出来た三年後。東ベルリンに行って、西ベルリンに帰ってきた。命懸けだった。撃たれる可能性があった。そして、自由が大事だと実感した。西へ逃げて来た人たちの話を聞き、自由を守るために戦うことを決意し、自由民主党本部に入った。青年局に入った。海部俊樹青年局長の下で働いた。

 

佐藤総理は海部に『自分の後、中華民国との関係がどうなるか分からない。自民党青年局が中心となって台湾との交流をしたらどうか』という話があった。海部が小渕恵三に指示して、日華青年親善協会が出来た。小渕氏が会長となり私が事務局長を務めた。一九六七年五十数名で訪台。九月に佐藤総理も台湾に行った。当時の台湾は反共一色。中国青年反共救国団という組織があった。『反攻大陸』のポスターが町中に貼ってあった。救国団のトップは蒋経国。国防部長となった蒋経国は十一月に公賓として来日。海部と蒋経国との話し合いで、毎年春秋の二回、青年がお互いに訪問し合うこととなった。佐藤総理、田中幹事長も歓迎してくれた。

 

一九七一年は、中華民国にとって運命の年。アルバニア案が採択され、中華民国は国連を脱退。一九七二年、ニクソン訪中。上海コミュニケ発表。中華民国は四面楚歌。八十五歳の蒋介石の最後の総統選挙・国民大会代表選挙が行われ、五撰された。恩人である蒋介石に祝意を表するため訪台。陽明山の中山楼の投票所で外国人として初めて最前列で投票を視察。行政院副院長となった蒋経国と単独会見。『難局をどう指導していくのか』と質問。蒋経国は『国家の存亡は外圧に左右されることはない。国民の気持が一つにまとまっている事だ。本省人・外省人と言っている時ではない』と語った。それまでは十八の閣僚ポストで本省人は一つだったが、一気に六人になった。その一人が李登輝さん。農政担当の閣僚になった。蒋経国はジャンパーを着て各地を視察。直接国民に接触した。蒋経国は暗い、怖いイメージがあったが、親しまれる指導者になった。

 

一九八八年、蒋経国が逝去。日華議員懇談会が弔問。灘尾弘吉・藤尾正行、青嵐会が行った。麻生太郎さんは通夜の前の日に行った。吉田茂と蒋介石が親しかったので、麻生氏は蒋介石の孫の蒋孝武と挨拶。柩を乗せた自動車は総統府、国民党本部前を巡回。道は立錐の余地なし、私は総統府のそばにいた。沿道にいた一般の人たちが泣いていた。蒋経国は晩年、『半世紀以上台湾にいたので私も台湾人』と演説。私は本省人にも友人が多いが、蒋経国の悪口を聞いたことがない。蒋介石とは違う。

 

昭和四七年に佐藤首相退陣、田中政権誕生、日中国交回復。田中政権の人事は、大平・三木・中曽根・田中の四派中心。石田博英が党三役と同等の全国組織委員長になる。私はその補佐をするようになった。日中国交回復について台湾の理解を得るべく台湾に政府特使を派遣することとなった。当時の中華民国駐日大使の彭孟緝は強硬で、受け入れられないと言ってきた。蒋経国に伝手のある国会議員無し。私は瀬田の大平邸に呼ばれ、『松本君は蒋経国に付き合いがあるよね。蒋経国とのパイプが見つからない。特使を受け入れてもらえない。椎名悦三郎先生に特使をお願いする』と大平は言った。椎名氏に自民党副総裁の身分で訪台してもらうことになった。石田博英全国組織委員長に話をした。石田氏は『国家の大事に関わるのは国会議員でも一度あるかないかだ』と言われ、逃げられなくなった。対日関係で重要な役目を果たしていた張群総統府秘書長(後に総統府資政)は、若い頃蒋介石と二人で日本に留学していた。蒋介石の懐刀。張群先生には一度もお会いしたことが無かった。

 

昭和四十七年九月八日特使秘書として公用旅券で訪台。宇山厚駐中下華民国日本大使に会った。宇山氏は『私の立場で会えるのは外交部長』と言った。そこで救国団の蒋経国に張群への橋渡しを頼むことにした。宋時選、李煥、王昇が蒋経国側近の三羽烏。その中の宋時選とコンタクトを取ると、『九月十二日に総統府に行きなさい』と言われた。総統府で張群と会った。緊張した。日本語で話し合った。私は『青年の交流に配慮願いたい。特使を受け入れてもらいたい』と言った。『松本君の言うことは理解した。日本の青年と仲良くしたことを思い出した。今後も交流を続けて下さい』と言われた。これは大丈夫だという印象だった。宇山大使に伝えた。九月十三日沈昌煥外交部長から宇山大使に『特使受け入れ』の通告があった。当時三十二歳の一介の青年の私と、当時八十三歳の張群とは、おじいさんと孫の対面。

 

九月十七日、椎名特使一行が訪台。松山空港のロータリーは数千人のデモ隊がいた。戒厳令下の官製デモ。午後二時のJALで到着。クライスラーが十四台チャーターされた。椎名特使や椎名派の秋田大助氏など高齢者が多かった。私は七号車に乗った。浜田幸一氏、中村弘海氏と一緒。ものすごい警備だったがデモ隊に囲まれた。フロントガラスが破られた。ハマコーさんが『松ちゃん、我慢しろ』と言った。民権東路から中山北路を右折して、円山大飯店着いた。嚴家淦、張群、何応欽が椎名特使に会った。

 

十八日に椎名氏が『外交を含めて従来の関係を維持する』と発言すると皆どよめいた。和やかな雰囲気になった。翌十九日羽田に着いた。羽田東急ホテルで記者会見。北京に行っていた小坂善太郎氏が深夜に周恩来首相に呼び出された。『外交関係を含めてという発言があった。二つの中国を認めるのか』と質問された。その日のうちに情報が周恩来に入っていた。

 

九月二十五日、田中・大平・二階堂が訪中。日華国交断絶。この日の夜、私は泣いた。蒋経国、張群の顔を思い出した。眠れなかった。これから民間人として交流しなければならないと決意した。一九七三年二月の旧正月の前に台湾に行った。在留邦人の安否が心配だった。日系企業の財産没収の噂があった。一切そんなことはないことが分かった。第二の『以徳報怨』の指示を蒋経国が出したのだと想像した。飛行機の中で石原裕次郎に会った。『中山北路で喫茶店を経営している。潰されるかと思ったが、石一つぶつけられなかった』と言っていた。

 

昭和五十二年、三木内閣で石田博英が運輸大臣になった。秘書官となった私は日本が協力した台湾の職業訓練センター開所式に大臣の名代として出席。断交後初めての公務員の訪台だった。その後、『友好の桜』植樹を開始。八田與一記念公園・霧社などに桜を植樹、台北マラソンへの日本人ランナー派遣、バシー海峡戦没者慰霊式など各種文化交流を今日まで推進してきた。台湾との友好は日本の国益。若い人々が交流してもらいたい」。

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