« 千駄木庵日乗七月七日 | トップページ | 千駄木庵日乗七月八日 »

2017年7月 8日 (土)

雄略天皇御製に歌はれた國體精神

 

泊瀬朝倉宮御宇天皇代(はつせのあさくらのみやにあめのしたしろしめしし すめらみことのみよ)

 

天皇御製歌(すめらみことのよみませるおほみうた)

 

籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この丘に 菜摘ます兒 家聞かな 名告らさね そらみつ やまとの國は おしなべて 吾こそをれ しきなべて 吾こそませ 我こそは 告らめ 家をも名をも

〈通釈〉「籠よ。籠よ。その籠やふぐしを持って、菜を摘んでおいでの娘よ。家をおっしゃい。名をおっしゃい。この大和の國は、この私がすっかり従へてゐる。この私が治め従へてゐるのです。私から先に言はうよ。私の家も、それから名も。この上はお前も、家をおっしゃい。名をおっしゃい。」

 

第二十一代・雄略天皇は、允恭天皇の第五皇子。治世二十三年。「倭五王」(宋書倭国伝)の「武」に比定される。

 

「泊瀬朝倉宮」は、雄略天皇の宮廷の御名。奈良県桜井市。桜井から初瀬に出る道の中間辺りの、初瀬川に沿った山峡の平地である。泊瀬峡谷の朝倉の地にあった御所の名。冬暖かく夏涼しい豊かな丘の上に宮殿があったといふ。三輪山の東、初瀬山の西南である。

 

この御製は、雄略天皇が御遊行された時に、地方の娘につまどひ=求婚されたお歌である。

 

では何故「相聞歌」に分類されず、「雑歌」に入ってゐるのであらうか。『萬葉集』が、天皇國日本を讃嘆し、天皇の御世が永遠に続くことを寿ぐための歌集であるからである。

 

保田與重郎氏は、「萬葉集開巻第一に、雄略天皇の御製を掲げ奉ったのは、當時の國民的な歴史觀をふまへて、己自らの志を示されたものである。…雄略天皇は國のうちで偉大な御稜威を發揮されたばかりか、當時の國際的にも有力な帝王として畏怖されてをられた。上古の世界觀念から見て、劃期の時代がこの天皇の御代であった。」「文藝の中でも詩歌は、感情の直接に流露したもので、人のした行爲を語ったり、記録されたものの中では、最も直接的で、飾り氣なく、正しく、その作者の真實の傳へられるものである。かつ古の詩歌は、人の口から口へ傳へられたゆゑに、人を感動させぬ詩歌は、たやすく忘れられるのである。雄略天皇は優れて天真爛漫の御詩人であらせられた。」(『萬葉集名歌選釋』)と論じてゐる。

 

この御製で注目しなければならないのは、天皇が「摘ます」と仰せになってゐることである。「摘ます」は、摘むの敬語である。民の娘に対して敬語が使はれたのは、古代は農業の労働が重んじられたから、その労働に従事をする人をいたはり、ねぎらふ気持ちでいはれたからである。農業は神聖な労働とされてゐたから、天子様も相手を尊んだ物言ひをされた。

 

古代日本の女性たちは、豪族・貴族の娘でも、後世のやうに奥深くこもってゐたのではなく、野遊びに出た趣がある上、時を限って貴賎の区別なく、共同労役をしたこともあるから、菜を摘んでゐても、庶民の娘とは決められない。かういふ折にこそ、平生見ることのできない豪族や貴族の娘を見ることができたのかも知れない。山野で菜を摘んでゐるから庶民の娘だと考へるのは、近代的考へである。

 

天子の御製の中に登場するのだから、神聖なる娘か豪族の娘といふ可能性もあると。天子が、地方の豪族の娘あるいは地方の巫女と結婚されると、その豪族の支配する地方國の威力の中心たる神すなはち國津神・國魂を天子が迎へることとなり、天子の國家統治の範囲が広がり強くなったといふ。

 

「名告らさね」のサネのサは敬相をつくる語尾。ネは命令・希望の意を表す接尾語。

言靈信仰の盛んであった時代には、人の「名」も人格の一部と考へてゐた。ある人の「名」を知ることは、その人の全人格生命を左右する力を得た。何処の家の何といふ「名」の人かを知らうとすることは、相手を自分の思ふ通りにしやうとすることであった。

 

だから、他人に「名」を知られるのを忌んだ。他人として女の「名」を知る者は、夫に限られた。「名」を知られた場合には、その人を夫としなければならない風習が、「名乗り」の根本思想である。だから、「名」のみならず、その娘がどこの家の娘かも容易に明かさなかった。戦場で武士が名乗りをあげるのも重要な風習であった。

 

他人に「名」が知られた時には、その知った人には許婚しなければならなかった。男性は結婚の承諾を得るには、相手の女性の「名」を問ひ出す必要があった。「名」を聞くことが結婚の成立であった。

 

「やまと」は、この御製歌の場合は、一國の地名といふよりも、天皇の統治してゐる範囲の意のことだとされる。古来、『大和』とは色々な意味がこめられてきた。大和地方の中原の高市、山辺、磯城、十市郡辺りを指すことから発展して、北の平原(いまの奈良市付近)さらに、吉野を含めるやうになり、畿内(畿内とは、朝廷のあった主都周辺の四ないし五か國の総称。また、その範囲内に属する地。五か國の場合は、山城(京都府)、大和(奈良県)、河内(大阪府)、和泉(大阪府)、摂津(大阪府と兵庫県の一部)。うちつくに。五畿内。)一帯をいふやうになったといふ。さらに、日本國全體を指すやうになった。

 

天地自然の悠久の風景を背景とした素朴・放胆な表現が、純粋な古代天子の御性格を明らかに見せてゐる。雄略天皇の御自覚、天皇の國家統治者としての御本質が、のびやかに宣言されてゐる。古代國家建設のためにあらぶる力を発揮された雄略天皇の御製は、雄大な劇的背景を持ちつつ広々とした歌の調べを持ってゐる。

 

この歌をくり返し口ずさんでみると、御製の大らかな味はひは素晴らしいものがある。権力者の強がりは微塵も感じられない。何といふ牧歌的なしらべであらう。

 

この御製の意義は、第一に、「やまとの國は おしなべて 吾こそをれ しきなべて 吾こそませ 」と、日本國は天皇國であることが高らかに歌はれてゐることである。

 

第二に、農耕生活が神聖なるものであることが歌はれてゐることである。『萬葉集』はその冒頭に、天皇國日本の本質を歌ひあげた天皇御製が収められたのである。

 

雄略天皇の御製から始まり、大伴家持の賀歌を以て終る『萬葉集』は、天皇の御代を讃へる歌集であるとともに、わが國の永遠の栄えを祈る歌集である。實におめでたい歌集である。

 

しかし、『萬葉集』は平穏無事の時代に編纂されたのではない。大化改新・壬申の乱・白村江の戦ひなど、大変革・大建設・大動乱の時代にあって日本の國の理想・國體の本姿を語り伝へるために編纂された。『萬葉集』は、日本が様々苦難を経ながら天皇中心の統一國家體制を確立した時期の天下萬民の歌を集めた歌集である。そして、天皇國日本の中核精神があますところなく表白されてゐる。

 

折口信夫氏は、「萬葉集といふ命名が、褒めことばであることを強調しておきたい…其は書物の生命を祝福する意味ばかりでなく、主上の生命の長く久しきことを祝福するものと考へられる…。萬葉集の歌は、…天子・皇居の長久であること祝した詞章、或は其等が発達して文學的に洗煉せられたものである」(全集十二巻)と論じてゐる。

 

 高崎正秀氏は、「萬葉といふことが、そもそも聖寿萬歳を祝福する歌集の謂ひであった。巻第一を雄略天皇、巻第二を磐姫皇后お二方の鎮魂歌にはじまり、家持の神賀詞代の短歌ー賀歌(新しき年の始めの初春の…)を以て結ばれる萬葉集第二〇巻は──そういう意図の下に編纂された。…萬葉集は舒明・皇極斉明両帝に出づる天智・天武両皇統を中心として…聖壽礼讃の呪言──賀歌の堆積といふ形をしてゐる。」(全集二巻)と論じてゐる。

 

この時代は大きな危機に遭遇したが、反面、明るく大らかで溌剌とした日本國家勃興の時期であり、造型・建築など多くの文化・芸術が開花した時代である。そして支那からの影響を受けつつも日本独自の政治・文化を闡明しやうとした日本ナショナリズムの勃興期であった。國家の大変革とその後の大興隆期において、『萬葉集』全二十巻という日本最大の古典が誕生した。

 

今日、わが國は政治の混乱・道義の頽廃・外圧の危機が顕著になり日本國民の心の中に不安と空虚感が広まってゐる。歴史と傅統の國日本は、崩壊しつつあると言っても過言ではない。

 

終戦後、わが國に対する精神の奥底に達する破壊行為が、昭和二十年から六年八ヵ月の占領期間に行はれた。大東亜戦争後の戦勝國による日本弱體化策謀が敗戦後五十二年を閲して愈々その成果があがり花開き實を結んでゐるのである。

日本民族の共通の信仰・文化・傅統を體現される御方が〈祭り主日本天皇〉であらせられる。わが國において、民族的一體感・國民的同一性の中心は天皇以外にあり得ない。皇室問題・國防問題・外交問題・教育問題など、萬葉時代と同様あるいはそれ以上の激動と危機の時期にある今日においてこそ、『記紀』に語られ『萬葉集』に歌はれた日本國體精神に回帰し、それを現代において開顕せしめることが大切である。それこそが、現代の危機打開の最高の方策である。

|

« 千駄木庵日乗七月七日 | トップページ | 千駄木庵日乗七月八日 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/121949/65506293

この記事へのトラックバック一覧です: 雄略天皇御製に歌はれた國體精神:

« 千駄木庵日乗七月七日 | トップページ | 千駄木庵日乗七月八日 »