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2017年7月14日 (金)

日本人の神観念と現御神信仰

 「かみ(神)」の「カ」は接頭語であり、「ミ」は語根である。「ミ」は漢字で「實」「身」と書かれるやうに、中身・實在そのもの・力のある存在・無形のカオス(天地創造以前の世界の状態。混沌)・靈威ある存在のこと。神は「上」の方にゐる存在だから「カミ」といふとの説は國語學的には誤りであるとされる。

 

 神には、自然神・呪物神・人格神・祖神がある。日本の神々は、自然神と祖靈神とに大きく別けられる。この両方の性格を具備してをられる神が天照皇大御神であらせられる。天照皇大御神は、太陽神といふ自然神であると共に皇室の御祖先神であらせられる。

 

 日本の神々とは何か強い力を持ってゐる存在をいふのであって、必ずしも完全円満な存在ではない。まして唯一絶対無謬神ではない。 

 

 「神」の枕詞は「千早振る」である。「チ」とは靈のこと。「ハヤ」は「疾風(はやて)の如く」といふやうに激しい状況。「フル」は震へるといふ意。だから「千早振る」とは、神靈が激しく震へるといふ意である。また「フル」は體に触れる・密着するといふ意味もある。 

 

 折口信夫氏は、「いつ(靈の権威・力)といふ語は、音韻変化してウチとも又イチともなります。ちはやぶるといふ枕詞は、いちはやぶる・うちはやぶるなどといふ語の第一音の脱落した形です。古事記の倭建命の東征の條にも、『うちはやぶる人』といふ語が出て來ます。亂暴する人といふことです。はやぶるといふのがその意味で、威力ある靈魂が暴威を發揮することがちはやぶるです。…神の中に暴威を振ふ神が多い。…さういふ觀念から、枕詞として、ちはやぶるが出來ました。」(『神々と民俗』)と論じてゐる。

 

 日本伝統信仰の「神」とは、人知では計り知れない靈妙なる存在のことである。日本人は古代より、祭祀や祈りの対象とされるかしこき存在を「神(かみ)」と言ったと思はれる。

 

 漢字の「神」は象形文字である。偏の「示」(しめすへん)は神に捧げる物を置く台を意味する。旁の「申」(しん)は、音を表すと共に、稲妻の形をかたどってゐる。雷様の光とそれに物を捧げる台を合せた意味が「神」といふ漢字の原義である。つまり支那古代においては、「神」とは雷のことだったのである。(加藤常賢先生著『字源辞典』)

 

 わが日本においても、神は雷と深い関係にある。雷は雷神として崇められ恐れ荷れている。今でこそ、雷とは、雲と雲との間、または雲と地表との間に起こる放電現象である事は分かってゐるが、古代人はそのやうな事は分からない。一天にはかにかき曇り、突然大きな音を伴って空から落ちて来る恐ろしい光であり人間がそれに当たれば焼き殺されてしまふし、樹木も裂ける、といふ事で大変恐れられた。「地震・雷・火事・親爺」といふ言葉もある。 

 

 と共に、雷は豊作の予兆でもあった。雷の光は龍神でもあり水の神でもあった。刀の神でもあった。刀剣は抜いて振り回すと光を放つ。その姿は雷に似てゐる。

 

 須佐之男命が出雲で八股の大蛇を退治した時、尻尾から出てきたのが草薙の劔である。龍と大蛇は近い関係にある。「くしなだ姫」は稲を象徴し、「八股の大蛇」は出雲を流れる樋井川を象徴してゐるといふ。つまり、樋井川が氾濫して田んぼが流されてしまふ事を象徴する神話であり、須佐之男命は川の氾濫をなくす働きをされた神であり、治水工事を行ひ豊作をもたらした行った豊饒神といふ事である。これが須佐之男命の八股の大蛇退治の神話の解釈である。

 

尻尾から刀が出てきたのは、洪水の時は雷が発生するといふ事を象徴してゐるといふ。雷神は非常に恐れられたと共に豊饒の神でもあった。日本の神は善と悪が混淆し恐ろしい面とやさしい面の両面がある神が多い。それは雷神だけではない。

 

 須佐之男命は、高天原では反逆した神である。しかし地上に降りて来られたら、豊饒神となられた。 

 

 菅原道真は雷神として崇められてゐる。最初は祟りの神であったが、後に學問の神となられた。日本の神はこのやうに非常におもしろい。決して一面的ではない。自由でおほらかな神々である。多面的であり自由であり幅が広く奥行が深い。

『萬葉集』には柿本人麿の次の歌が収められてゐる。

 

「天皇、雷岳(いかづちのをか)に御遊(いでまし)し時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌

         

大君は神にしませば天雲(あまぐも)の雷(いかづち)の上(うへ)にいほらせるかも」

 

 通釈は、「天皇は神様でゐらっしゃいますから、天雲の雷の丘にいほりを造ってをられるなあ」といふ意。

 

「大君は神にしませば…」と歌ひあげてゐるのは、天津神の「生みの御子」であられ、現御神であられる日本天皇は、山の神、雷の神をも支配されるといふ信仰を歌ひあげてゐるのである。

 

この歌は、天皇が山の神も天雲も支配される霊的権能(これを御稜威といふ)をお持ちであるから、雷神が住む丘の上にいほりをむすばれることができるのだといふことを歌ってゐる。

 

 このやうな現御神信仰・國體観念が白鳳時代の日本國の強靭なる体質を培ったのである。これは柿本人麻呂個人の信仰ではなく、日本民族全体の信仰であった。「大君は神にしませば」は古代日本人共通の天皇信仰の表現であったのである。

 

しかし、この歌には祭り事をされてゐる天皇のお姿を人麻呂らしく壮大なイメージで歌ってをり、詩的レベルは高いと評価されてゐる。

 

現御神の御資格において山の神・雷神を従へてゐる天皇のお姿を篤い信仰精神で高らかに歌った荘厳な調べの歌である。山の上から天空にまで広がる大いなる歌である。

 

雷の丘などの神聖なる神奈備山は、神の来臨する山であり、天上の世界への通路・天に通じる柱であると信じられてゐる。そこにおいて天皇が神人合一の行事である祭り事をされてをられる神々しさを、人麻呂は感激をもって歌ったのである。

 

わが國は今日においても、神話の世界のままに、天の神の祭り主の神聖なる御資格を受け継ぎ給ふ天皇を、現実の國家君主と仰ぎ奉り、國家と民族の統一の中心として仰いでゐる。わが國が様々な変化や混乱などを経験しつつも國が滅びることなく統一を保ち続けたのは、天皇といふ神聖権威を中心とする共同体精神があったからである。日本國は太古以来の傳統を保持する世界で最も保守的な國でありながら、激しい変革を繰り返して来た國である。その不動の核が神聖君主日本天皇である。

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