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2017年7月 4日 (火)

『第四回日本學講座』における平井正修全生庵住職による「山岡鐡舟居士と武士道」題する講演内容

三月十一日に開催された『第四回日本學講座』における平井正修全生庵住職による「山岡鐡舟居士と武士道」題する講演内容は次の通り。

 

「今年は、山岡鐡舟居士没後百三十回忌。来年は、江戸無血開城百五十年。靖国神社は官軍のみしか祀られていない。時の政府の事情で幕府は賊軍、薩長は官軍と言われた。賊軍と言われた人々も國を憂い、その志で散って行った。山岡先生はそういう志士たちを多くご覧になった。山岡先生は官軍・賊軍に関係なく、命を落とした全ての人々の菩提を弔いたいということで全生庵を明治十六年に建立した。

 

全生庵の寺名は、明治七年に山岡鐡舟居士が鎌倉建長寺開山蘭渓道隆禅師自筆の全生庵という額を人から貰いこれを書斎に掛けて愛蔵していたことによる。明治十三年山岡鐡舟居士が一寺建立を発願し、寺域を道友国泰寺越叟和尚のすすめにより谷中の現在地に選定した。ところが計らずも この土地が七百年前、道隆禅師が江戸に漂着し九死に一生を得て、全生庵という庵室を作って閑居していた旧跡であるということが分かった。居士も奇縁に感じ、明治十六年、全生庵を寺号とし、居士邸から曾て江戸城の守本尊であった葵正観世音の霊像を遷して本尊とした。私は七代目住職の責を汚している。

 

明治時代になり封建時代の倫理規範としての武士道ではなくなり、すべての日本人が実践して行くものとして説かれている。山岡鐡舟居士が説く武士道の根源は無我の境に達するということである。『開悟せよ、すればすべての苦悩は一瞬のうちに消えてゆく』と言っておられる。勝海舟は『鐡舟は明鏡の如く一点の曇りも無かった。物事に誤ることは無かった。無口であったが、人をして反省せしめた』と言った。鏡はただ目の前にあるものをそのまま映す。目の前に物が無くなれば鏡の中にも物が無くなる。人間の心とは本来そういうもの。しかし、人間には『心』というものがある。自分の鏡に傷があると相手に傷がついているように見える。唯目の前にあるものを素直にまっさらに映すことを無我と表現した。

 

素直になるのは難しい。『修身二十則』は、鐡舟十五歳の時に自分の身を修めて行くために書いた。一番目の『嘘を言うべからず』は難しい。言うは易く行うは難しい。山岡という人はただただひたすらに愚直にこれを守った人。『先祖を大切にする』『親や先生の言うことを聞く』という事も体で実行するのがどれだけ難しいか。

 

山岡鐡舟は、同時代の勝海舟のような政治性・先見性、西郷隆盛のような英雄性とは少し異なる。愚直・正直で一生を過ごした。剣禅書の達人と言われる。その三つのうちの一つでも究めるのは凡人には難しい。ただただひたすら努力の結集である。坂本龍馬は鐡舟の一歳上。

 

鐡舟は幕末志士と同世代。六百石(長谷川平蔵は四百石)。殿様と言われる身分。父は飛騨高山の郡代をしていたので、鐡舟は幼少期飛騨で過ごした。両親から可愛がられ、周りからも若様と言われて育った。父六十歳、母二十六歳の時に生まれた。母は後添え。母は塚原磯は、常陸国鹿島神宮神職・塚原石見の二女。先祖に塚原卜伝がいる。父は小野派一刀流。

 

母が『忠孝』について話された。鐡舟は『母上はそれを実践されているのですか』と聞くと、母は『しがない女には実践できぬ。お前は生涯をかけて実践するように』と言われた。

 

弘法大師流入木道(じゅぼくどう)五十二世の岩佐一亭に書を学び、十五歳で五十二世を受け継ぎ、一楽斎と号す。また、父が招いた井上清虎より北辰一刀流剣術を学ぶ。

 

父に『武士の家に生まれ死地に赴かねばならない時がある。その時、不動心にならねぎならぬ。不動心であるには禅が一番』と諭され、禅を始めた。二十歳の時に請われて山岡家の養子となる。貧乏をした。家に畳が三枚しかなかった。何も食わぬ日が一カ月に半分位と語っている。最初の子は、奥さんの父が出ないのでなくなった。酒は欠かさなかった。一晩に六升から七升呑んだという。そんな貧乏の中でも剣禅書に精進。

 

一八五三年、ペリー来航。維新までわずか十五年。幕府は雪崩のように崩れて終焉を迎えて行く。物事とはこういうものかもしれない。何か一つの事でガタガタといってしまう。山岡はひたすら剣禅書に励んだ。世の中は風雲急を告げる。

 

清河八郎と共に尊皇攘夷運動を始める。清河八郎は出羽国田川郡清川村(現・山形県東田川郡庄内町)庄内藩郷士・齋藤豪寿の子。江戸で剣と学問を教える塾を開いた。文久三年二月、第十四代将軍・徳川家茂上洛の際、その前衛として浪士組を率いて上洛。鐡舟も深く関わった。清河は暗殺され、鐡舟はその責め負い、閉門蟄居。

 

鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は海路江戸に帰って寛永寺に蟄居。官軍との交渉がうまくいかなかった。信のおける人物を官軍大本営に使者を立てた。最初は高橋泥舟。江戸の旗本御家人はまだ戦をしていないので、薩長何するものぞという意気があった。泥舟の推薦で慶喜の命により、鐡舟が大本営に派遣された。勝海舟の西郷隆盛宛ての書状を預かった。益満休之助も共に行った。『朝敵まかり通る』と行って敵中突破。

 

西郷より条件が提示された。鐡舟は『慶喜公備前岡山藩お預けだけは呑めぬ。島津公一人を敵に渡して臣が生き残ることが君臣の情として出来るか』と言った。西郷は『慶喜公の事は私一人が責任を以て引き受ける』と言った。この時に隆盛は山岡を高く評価した。『大西郷遺訓』の『命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也』は山岡を評した言葉。

 

明治五年から十年間、侍従として明治陛下にお仕えした。慶喜公が明治陛下に拝謁できない時に明治陛下にお仕えするのは畏れ多いと固辞した。しかし『あなたこそ』と言われて侍従になった。京都で公卿女官に囲まれていた天皇を、国家元首・大元帥の陛下として御教導申し上げた。竹橋事件の時、明治陛下は山岡の佩刀をご自分の護り刀とされ非常の備えとされた。明治陛下は『この刀があれば山岡がいてくれるのと同じだ。心配することはない』と仰せになった。明治陛下にとって山岡はかけがえのない存在であった。山岡が病気になった時、何回もお見舞いの勅使が差遣された。山岡か亡くなった時。葬列が皇居の前に止められ、明治陛下は高殿から見送られた。

 

武士道とは武士社会の道徳ではない。身分とは関係なく日本人たるべきものが皆行うべき道である。仁義礼智信全てを貫く大道。根柢にあるものは『無我』。無我の境地に立つと、親に対しては孝、君に対しては忠になる。海舟が言ったように鐡舟は明鏡のような人だった。そういう境地が鐡舟の武士道。東日本大震災における日本人の行動に外国から称讃の声が寄せられた。我々日本人の奥底にはいまだに武士道が脈々と生き続いてゐると私は考えている」。

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