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2017年7月31日 (月)

天皇の国家統治の意義

 

                  

 天皇の国家統治の「統治」という言葉は言うまでもなく漢語である。これを<やまとことば>で言えば「しらす」「しろしめす」である。「天皇が民の心を知りたまい民もまた天皇の御心を知る」ということが「統治」なのである。祭り主たる天皇が民の心を知りそれを神に申し上げ、さらに神の心を承って民に知らしめることが天皇の国家統治の本質である。このことによって「君と民とは相対立する存在ではなく、精神的に一体の関係にある信仰共同体」としての日本国が成立する。

 

 萬葉集歌人・大伴家持はその長歌で、「葦原の 瑞穂の國を 天降り しらしめしける 天皇の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と しらし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の國には…」(四0九四)と歌っている。

 

現代語に訳せば、「この豊葦原の瑞穂の國を、高天原より天降られまして御統治あそばされました皇祖邇邇藝命から御代を重ねられ、天津日嗣として天の下を御統治になった御歴代の天皇の御代御代、治められたこの四方の國は…」というほどの意である。

 

 さらに萬葉集には、「泊瀬朝倉宮御宇天皇代」(はつせのあさくらのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ)とか「高市岡本宮御宇天皇代」(たけちのをかもののみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ)と記されている。

 

 天皇統治は、天の神の御委任により天の神の地上における御代理としての天皇が天の下をお治めになるという雄大なる神話的発想に基づくのである。人為的に権力・武力によって民と国土を治めるのではなく、あくまでも神の御心のままに宗教的権威によって国民と国土を治めるというのが天皇の国家統治である。

 

 <やまとことば>ではまた「統治」のことを「きこす」「きこしめす」(「聞く」の尊敬語)とも言う。天皇が民の心を聞かれるという意味である。

 

 日本を統治するために天の神の命令により天から天降られた天孫邇邇藝命の父にあたられ、天照大神が邇邇藝命の前に地上に天降らせようとした神を正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)と申し上げる。さらに、神武天皇の御子・綏靖天皇を神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)と申し上げる。日本国の統治者・君主は「耳で聞く」ことを大事にされていたので「耳」という御名を持たれたと拝する。

 

 『古事記』には仁徳天皇の世を聖帝の世というと記されている。仁徳天皇は、高い山に登って四方の国をご覧になり、「国の内に炊煙が立たないのは国民が貧しいからだ。これから三年間国民から税金を取るのをやめよう」と仰せられた天皇で、聖帝と讃えられた。

 

 日本思想体系『古事記』の「補注」において佐伯有清氏は、「(聖帝の注)『聖』とは、耳と呈(貞即ち正)から成り、耳聡く聞き分ける人、神秘的な洞察力のある人物。農耕社会では時候の推移を洞察して農事を指導することが、対立する主張を聴取して調整することと共に、王たるべき者の責務であるから、聖と王とは結びつきやすい」と論じている。

 

また『角川当用漢字字源辞典』(加藤常賢・山田勝美著)によれば、「聖」の字義について「意味を表わす『耳』と『口』と、音を表す『壬』とからなる形声字。…耳の穴がよく開いていて普通人の耳に聞こえない神の声の聞こえる意。…古代社会においては、普通人の聞きえない神の声を聞き分けうる人を『聖』と呼んだものであろう」という論じている。

 

 一般人が聞きえないことを聞く人というのは、聴覚器官が普通の人より発達している人ということではなく、神霊の声を聞く人ということであり、祭り主ということである。神の声を聞いて民に伝え、民の声を聞いて神に申し上げるという神と人とをつなぐ役目を果たされる祭り主が天皇のなのである。

 

 また、<やまとことば>の「ひじり」(漢字では聖と書く)とは、「日を知る人」の意であるという。日とは文字通り太陽のことであり、天体の運行に通暁している人のことである。天体の運行即ち暦は農業にとってきわめて重要である。これを知っている人は農耕国家の君主たる資格を持つのである。また「日」は「霊」であり、「ひじり」は「霊力を有する神聖な存在」という意味でもある。

 

 『萬葉集』に収められた「近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本人麿朝臣の作れる歌」という長歌の冒頭に、「玉だすき 畝傍の山の 橿原の 日知の御代ゆ 生れましし 神のことごと つがの木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを…」とある。これは「(『玉だすき』は畝傍にかかる枕詞注)畝傍の山の橿原に都を開かれた日知りにまします(神武天皇の注)御代以来、(『つがの木』はつぎにかかる枕詞注)この世に降臨された現御神はことこどくみな天下を御統治になられたが…」というほどの意である。ここにも「日知り」という言葉が登場する。

 

本居宣長は、「日知り」を「日の如くして天下を知らしめすといふ意なるべし」としている。「日の神・太陽の神の如くわけへだて無く天下を統治される天皇の御代」を「日知りの御代」と言ったのである。

 

先帝昭和天皇陛下は、

 

 さしのぼる朝日の光りへだてなく世を照らさむぞ我がねがひなる

 

 とお詠みになっておられる。これは文字通り、<日の御子><現御神>としての神人合一の無上の御境涯を高らかにお詠みになった尊い御製であると共に、「昭和天皇は、昭和二十一年元旦の詔書において『人間宣言』をされ、天皇は神から天皇になった」などという議論が全く誤りであることを証明する御製である。

 

 ともかく、日本伝統の「ひじり」についての考えと支那の「聖」という字の意義とが結合して「聖帝」という考えが生まれたのである。このように民の心を知りたまい(しろしめす)聞きたまう(きこしめす)ことが天皇の国家統治の基本なのである。 

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千駄木庵日乗七月三十日

午前は、諸事。

午後は、今夜行う講演の準備。

午後六時半より、春日の文京シビックホールにて、『日本の心を学ぶ会』開催。林大悟氏が司会。渡邊昇氏が主催者挨拶。河原博史氏が「神州不滅たるの確信をー國體観念の動揺を糺す」と題して講演。続いて小生が「天皇の御本質と日本國體』と題して講演。質疑応答。数多くの参加者があり有り難かった。

帰宅後は、原稿執筆。

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2017年7月30日 (日)

現御神信仰と皇位継承

後櫻町天皇御製に拝する『天津日嗣』の御精神

 

第百十七代・後櫻町天皇御製

 

「まもれなほ伊勢の内外(うちと)の宮ばしら天つ日つぎの末ながき世を」

(どうかお護り下さい。伊勢の内宮外宮の神よ。天津日嗣日本天皇が統治する永遠の日本國を)

 

後櫻町天皇は、第百十五代・桜町天皇の第二皇女。江戸時代の宝暦十三年(一七六三)に御即位。

 

 「天津日嗣」とは、「天照大御神の靈統を継承する御方」といふ意である。天皇の神聖性はここより発する。「日」は「天照大御神の神靈」の御事である。

 

わが國悠久の歴史は、現御神としての御自覚で君臨あそばされた大君と、天皇を現御神として仰いだ國民とが支へてきたのである。天皇は地上においては天照大神の靈統の継承者・御代理としての御資格を有される。この御製はそのご自覚を高らかに歌ひあげられた御歌と拝する。

 

影山正治氏は、「(天津日嗣は)『もっもと大いなる日〈ひ〉を継ぎつづける日本國の中心の御方』といふ意味である。『生命』─『いのち』の核心は『ひ』であり、『人』は『日子(彦)』と『ひ女(姫)』に分れる『ひ止』であって『ひのとどまったもの』であり、『ひを継ぎつづけること』によってこそ存在するものであるが、そのうちでも、最も中心的な、最も大いなる『ひ』を継ぎつづける日本の中心をなす『大生命』が『あまつひつぎ─天皇』の御存在である。」(『天皇の御本質』・「不二」昭和五十五年緑陰号)と論じてゐる。

 

女性天皇も、現御神即ち地上に現はれられた生きたまふ神であらせられる。肉身においては女性であられても、天津日嗣を継承される現御神であらせられるのである。臣民もまた、「人」としての靈統は、男女の差別は全くなく継承されるのである。「人」は、「日子」であり「日女」であるといふのが神代以来のわが國の傳統信仰である。

 

 

平野孝國氏は、「(天津日嗣の)ツギの思想は、元来個人の肉体を超えて継承される系譜と思ってよい。ヨツギという形で後代まで変化しつつ残ったが、宮廷のツギは日を修飾にして、ヒツギと言ふ。日のみ子、或は日神の系図の義である。」(『大嘗祭の構造』)と論じてゐる。

 

天皇は、先帝の崩御によって御肉體は替はられるが御神靈は新帝に天降られ再生されるのである。ただしその御肉體・玉體・御血統は皇祖皇宗から繼承されなければならない。

 

昭和天皇は、『昭和二十一年元旦の詔書』に於いて「神格」を否定されたなどといふ論議があるが全く誤りである。先帝昭和天皇も、今上陛下も、祭祀を厳修せられてゐる。この貴い事實は、戦勝國アメリカの占領軍の無理強ひによって発せられた『昭和二十一年元旦の詔書』が「人間宣言」であったなどといふことを根底から否定する。

 

昭和天皇おかせられては、昭和三十四年、『皇太子の結婚』と題されて、

 

あなうれし神のみ前に日の御子のいもせの契りむすぶこの朝

 

と詠ませられてゐる。「日の御子」とは「日の神すなはち天照大御神の御子」といふ意味である。「日嗣(ひつぎ)の御子」とも申し上げる。昭和天皇におかせられては、天皇及び皇太子は「天照大御神の生みの御子=現御神である」との御自覚はいささかも揺らいでをられなかったことは、この御製を拝すればあまりにも明白である。

 

『萬葉集』に収められてゐる柿本人麻呂の歌には「やすみしし わが大君 高照らす 日の御子 神ながら 神さびせすと…」と高らかに歌ひあげられてゐる。「四方をやすらけくたいらけくしらしめされるわが大君、高く光る日の神の御子、神ながらに、神にますままに、…」といふほどの意である。この歌は、古代日本人の現御神日本天皇仰慕の無上の詠嘆であり、現御神日本天皇のご本質を高らかに歌ひあげてゐる。

 

「高光る 日の御子 やすみしし わが大君」といふ言葉は、『古事記』の景行天皇記の美夜受比売(みやづひめ)の御歌に最初に登場する。現御神信仰は、わが國古代以来今日まで繼承されて来たてゐるのである。

 

歴代天皇そして皇太子は、血統上は天照大御神・邇邇藝命・神武天皇のご子孫であり血統を継承されてゐるのであるが、信仰上は今上天皇も皇太子もひとしく天照大御神の「生みの御子」であらせられるのであり、天照大御神との御関係は邇邇藝命も神武天皇も今上天皇も皇太子も同一である。

 

昭和天皇はさらに、昭和三十五年に『光』と題されて、

 

さしのぼる朝日の光へだてなく世を照らさむぞわがねがひなる

 

と詠ませられてゐる。「さし昇る朝日の光が差別することなく世を照らすことこそ私の願ひである」といふほどの意と拝する。

 

鈴木正男氏は、この御製について「まことに堂々たる天津日嗣天皇の大みうたである。…一天萬乗の至尊にしてはじめて述べることのできる御製である。いかに昭和天皇が皇祖皇宗の示された大道を畏み給ひ、御歴代中最も苦難な御一代を通じて、その御重責をいかに御痛感遊ばされてゐたかを示す御製である。」と述べてゐる。(『昭和天皇のおほみうた』)

 

昭和天皇は、現御神として君臨あそばされてゐるといふ御自覚は決して失っておられなかったのである。『昭和二十一年元旦の詔書』において昭和天皇は「人間宣言」をされたなどといふことは全くの絵空事である。「現御神信仰」は今日においても「生きた真実」である。

 

この二首の御製は、天皇および皇太子は「天照大神の生みの子」即ち「日の御子」であるといふ御自覚を歌はれてゐるのである。

 

これらの御製を拝すれば、昭和天皇が『昭和二十一年元旦の詔書』においていはゆる「神格」を否定され「人間宣言」をされたなどといふ説が大きな誤りであることが分かる。

 

天皇の即位は、聖なる『日の御子』御生誕であり天降りであり、新たなる大御代の始まりである。肇國(はつくに)・稚國(わかくに)への回帰である。天皇即位の時、天津日嗣の高御座に登られ百官の前にお姿を現される御装束は、日の御子のお姿である。「天津日嗣の高御座」とは、天上の日の神とおられるところと同じ高いところといふ意味であるといふ。また、大嘗祭は、若々しい新生の「現御神御誕生」の祭祀である。

 

今上陛下におかせられては、平成二年、「大嘗祭」と題されて、

 

父君のにひなめまつりしのびつつ我がおほにへのまつり行なふ

 

と詠ませられた。皇位の継承は祭祀の継承であり、それは現御神日本天皇のご使命・ご自覚の継承である。

 

天皇が即位の大礼を行はれ、大嘗祭を執行されるといふことは、すなはち天皇の神聖性の確認であり、現御神日本天皇の靈統の継承なのである。天皇が「神格」を否定されることはあり得ないし、不可能なことなのである。

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千駄木庵日乗七月二十九日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、明日の講演の準備、資料の整理、書状執筆など。

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2017年7月29日 (土)

天皇の国家統治について

天皇が日本国を統治されるのは、日本国の生きとし生けるもの・ありとしあらゆるものにその所を得さしめることである。明治天皇の『天下億兆一人も其處を得ざる時、皆朕が罪なれば、…』(明治元年三月十四日に示された『明治維新の御宸翰』)という御精神こそ天皇統治の本質であると拝する。

 

 さらに明治陛下はその御宸翰で、『朕身骨を労し心志を苦め艱難の先に立ち、古列祖の盡させ給ひし蹤を履み、治蹟を勤めてこそ、始て天職を奉じて、億兆の君たる所に背かざるべし』と仰せになっている。

 

 日本天皇は、『朕は国家なり』と言うような国家国民を私物化する西洋的な絶対専制君主とは全くその本質を異にする。日本天皇は天津神の御委任により「天職を奉じて」日本国に君臨されているである。故に天皇は常に無私の心で統治されるのである。

 

無私の心とは神の御心のままということである。さらに御歴代の天皇の踏み行われた道を継承されることを心がけられるのである。そのことがそのまま億兆の民にその所を得さしめる事即ち国民の幸福実現となるのである。

 

明治天皇の外祖父中山忠能前権大納言は、明治天皇御即位に当たって、「そもそも皇国は天照皇大神の御国で、天子をしてこれをあずからしめてあるので、至尊といえども吾物と思召ては、自然御随意の御処置に押移るべく、…」と言上したという。

 

 天皇の国家統治とは権力・武力を以て民を屈従せしめ私物化することではないのである。日本天皇の無私の精神および神聖なる権威はかかる御精神から発生するのである。

 

 支那においては、天を以て帝権の象徴とし、地を以て民衆に擬し、天と地とは相対立する相対的関係のあるととらえ、天子たる皇帝はは民衆を上から見下ろし支配すると考えている。

 

しかしわが国においては、天皇は天の神の御子として地上に天降られ、国民もまた神々の子孫であり、国土もまた天の神が生みたもうたのである。

 

天皇は一大家族国家・祭祀国家の祭祀主であらせられ君主であらせられる。簡単に言えば支那においては、天子は権力と武力によって国民を支配し、日本においては、天皇の信仰的権威によって国民を慈しむのである。日本と支那とは国家の成り立ちと歴史が全く異なるのである。

 

 祭祀主日本天皇が君臨され、常に国家の平安と国民の幸福を神に祈る祭祀を続けられているということが、政治のみならず日本国のあらゆる物事の安定と調和と統一の核となり、道義性の維持の基となって来た。その尊い事実が天皇の国家統治そのものなのである。

 

 混迷の極にある現代日本を救うには、統治者としての天皇の御本姿を回復することが大切であると考える。復古即革新=維新とはそういうことを言うのである。 

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千駄木庵日乗七月二十八日

午前は、諸事。

午後は、書状執筆、明後日行う『日本の心を学ぶ会』における講演の準備。

夕刻、千駄木にて、地元の友人と懇談。

帰宅後も、明後日の講演の準備など。

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2017年7月28日 (金)

日本國體を隠蔽している「現行占領憲法」を否定すべし

『現行占領憲法』には「第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と書かれている。

 

「象徴」という言葉は、天皇の空間的統一性・統合性をある程度表現してはいるが、天皇の時間的連続性・伝統性は全く表現されていない。言い換えると、「象徴」という表現は、何ゆえ天皇は国家国民を統合される御存在であるのかという理由が示されていないのである。

 

天皇は、日本國及び日本国民の歴史と傳統、そして日本国民の普遍意志=過去・現在・将来にわたる日本国民の伝統的な普遍意思を体現されるご存在である。天皇が日本国の本来の統治者・君主として仰がれてきたという事実と、天皇が日本国の歴史と傳統そして国民の普遍意志の体現者である事実とは、不可分の関係にある。

 

『現行憲法』の「天皇は象徴である」という規定は、この不可分の関係を無視し、あわせて日本伝統信仰(神道)の最高祭祀主としての天皇の地位と権能を否定し去っている。

 

『現行占領憲法』は、経過的暫定の制度として彼らの言う「天皇制」を承認し、やがては廃止を理想とした米国占領軍の意図を反映したものだからこういう規定になったのである。

 

三島由紀夫氏は、天皇のご本質について「天皇は、われわれの歴史的連続性、文化的統一性、民族的同一性の、他にかけがえのない唯一の象徴」(『反革命宣言』)「われわれの考える天皇とは、いかなる政治権力の象徴でもなく、それは一つの鏡のように、日本の文化の全体性と、連続性を映し出すもの」(『反革命宣言補註』)「国と民族の非分離の象徴であり、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸であるところの天皇」(『文化防衛論』)と論じてゐる。

 

『現行占領憲法』第一条の規定は、天皇の歴史的連続性・伝統性を否定し、天皇の尊厳性を隠蔽している。天皇が、日本国及び日本国民を統合される御存在であるのは、天皇が歴史的伝統性・時間的連続性を継承され体現される御存在であるからである。「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」といふ規定は、天皇のご本質の半面しか表現していない。天皇の空間的統一性は表現されているが、歴史的伝統性・時間的連続性が表現されていないのである。

 

さらに言えば、『現行占領憲法』は『国生み神話』『天壌無窮神勅』、『萬葉集』に歌われた伝統的國體精神を全く継承してゐない。

 

『現行占領憲法』は最も大切な『大日本帝国憲法』の第一条から第三条までの國體条項を抹消した。さらに、『占領憲法』は、『大日本帝国憲法』には無かった「国民主権」を明示した上「天皇の神聖性」の規定を削除した。

 

ゆえに、『大日本帝国憲法』を改正した憲法であるとする『現行占領憲法』は、『大日本帝国憲法』の改正限界を大きく超えて國體の基本を隠蔽してしまったのである。その上、日本の國體に全く合致しない西洋の悪しき普遍主義に毒されている。

 

『現行占領憲法』は國家の存立の基本を隠蔽しているのであるからこれを全面否定しなければならない。

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2017年7月27日 (木)

千駄木庵日乗七月二十七日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、書状執筆、原稿執筆の準備。

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政治家の質の劣化について

政治家の質の低下とか劣化ということがよく言われますが、私も同感です。またどうしたわけか、最近は政治家を長くやると人相が悪くなるようです。個人名を出して恐縮ですが、菅直人氏は若い頃はもっと人相が良かった、いわゆるイケメンであったと思います。大体、私と思想的立場を異にする政治家は人相が悪いようです。

 

今の政治家の中に、歌を詠み、書を書く人はあまり多くはないと思います。吉田茂氏は、書も書きましたし、何と漢詩も作りました。岸信介氏の書はまさに書家並のうまさでした。私は岸氏の「信は萬事の本と為る」と書かれた色紙を持っております。

 

以前あるところで、海部俊樹元総理の色紙を見ましたが、書かない方が良いと思う位の字でした。私に言わせれば小学生の習字作品の方がまだ良いと思いました。それでも政治家は頼まれれば色紙を書かねばならないのでしょう。

 

ともかく、昔は、政界に限らず、財界・学界・文壇・芸能界などあらゆる分野において、風格と威厳のある人が多かったと思います。俳優・歌手でいえば、嵐寛寿郎・大河内伝次郎・月形龍之介・島田正吾・辰巳柳太郎・田谷力三・東海林太郎・藤山一郎・伊藤久男・松島詩子・渡辺はま子といった人々はみんな風格がありました。深みもありました。今はこういう人はいません。(私の好きな俳優と歌手を書いただけというお叱りを受けるかもしれませんが)

 

海部俊樹は、「朝日新聞」七月二十六日号で、今上陛下の即位の大礼の時のことを得意げに話し、「宮内庁からは、皇族と同じ『衣冠束帯』を着るよう求められたが、僕は『この時代にそれはないでしょう』と反対し、燕尾服で参加した。天皇、皇后両陛下より一段低い中庭の玉砂利の上で待ち、呼ばれてから殿上に上がって来るようにも言われたが、僕はこれも断り、最初から殿上にいることにこだわった」「宮内庁は、田中義一首相時代の昭和天皇即位の礼にならおうとした。しかし、今の陛下の即位の礼は、戦後の新憲法の下で初めて国事行為として行われるものだった。各国の国王や大統領らが臨席する中、日本が戦前と違う国民主権の民主主義国家であることを示そうと、僕なりに精いっぱいの努力した」などと語りました。

 

伝統を守ることを拒否し、畏れ多くも天皇陛下と総理大臣が対等であるかのごとき考えを披歴し、さらに、アメリカからの押し付け憲法を遵守する姿勢を示しています。

 

この海部の発言については、機会を改めて批判したいと思います。小沢一郎は、海部俊樹を「軽くてパー」と言いましたが、今回のこの発言を讀んでまさにその通りと実感しました。

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2017年7月26日 (水)

『東京藝術大学創立130周年記念特別展 藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!』参観記

昨日参観した『東京藝術大学創立130周年記念特別展 藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!』は、「東京藝術大学は今年、創立130周年を迎えます。これを記念し、大規模なコレクション展を開催します。東京美術学校開設以来、積み重ねられてきた本学のコレクションは、国宝・重要文化財を含む日本美術の名品ばかりではなく、美術教育のための参考品として集められた、現在では希少性の高い品々や、歴代の教員および学生たちが遺した美術学校ならではの作品が多くあることが特徴となっています。本展では、多様なテーマを設けて、すでに知られた名品だけでなく、これまで日の目を見ることの少なかった卒業制作などの作品、模写、石膏像や写真・資料類にもスポットをあてることによって、藝大コレクションの豊富さ、多様さ、奥深さをご紹介します。また、近年の研究成果を展示に反映させ、コレクションに新たな命を吹き込まれていくさまもご覧いただきます」(案内書)との趣旨で開催された。

 

椿椿山「佐藤一斎像画稿」、原田直次郎「靴屋の親爺」、浅井忠「収穫」、黒田清輝「婦人像(厨房)」、狩野芳崖「悲母観音」、横山大観「村童観猿翁」、白滝幾之助「稽古」、下村観山「天心岡倉先生(草稿)」、鏑木清方「一葉」、前田青邨「白頭」、平櫛田中「活人箭」「禾山笑」、和田英作「渡頭の夕暮れ」、高村光太郎「獅子吼」、青木繁「黄泉比良坂」、高橋由一「鮭」、小倉遊亀、「月光菩薩坐像」(奈良時代)、「広東錦」(飛鳥時代)、「絵因果経」(奈良時代)、「羅漢図」(南宋時代)などを参観。

 

それぞれ美術史にのこる名品である。何回も見た作品もあったが今回初めての作品もあった。

 

和田英作「渡頭の夕暮れ」に最も感激した。何回か見た作品であるが、落日に染まる多摩川の水面を、渡し場でじっと見つめる農民の姿が描かれている。老人と中年の男性、赤子を背負う女性、そして二人の子供が船を待っているのであろう。じっとこの作品を見つめていると何故か涙が浮かんでくる。不思議な絵である。

 

狩野芳崖「悲母観音」は、芸大美術館の収蔵作品展では必ずと言っていいほど展示される。生まれたての赤子に甘露の水を灌ぐ観音様の姿が描かれている。観世音菩薩の慈悲の心がそのまま絵画になっているように思える。芳崖が亡くなる四日前まで描いていた絶筆であり、作家自身の最高傑作として名高い。日本美術史上重要な作品とされている。

 

「羅漢図」(南宋時代)の「羅漢(らかん)」とは、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者ことだそうであるが、角ばった坊主頭が面白い。私が子供の頃、私宅近くの日暮里に及川裸観(らかん)という人がいたのを思い出した。坊主頭で上半身は裸、半ズボン姿で「薄着は健康のもと」と書かれたのぼりを持ち、たすきがけをして「ワハハ、ワハハ」と笑いつつ「御機嫌よう、御機嫌よう」と言いながら走っていた。日本全国を行脚し、健康体操の指導、健康相談を行っていた。「裸のおじさん」「羅漢さん」と呼ばれていた。「羅漢図」の「羅漢」はその「裸のおじさん」によく似ているのである。昭和六十三年に八十八歳で亡くなったという。

 

高村光太郎「獅子吼」は、光太郎の「卒業制作」である。若々しい日蓮が路上で説法する姿である。若い頃の日蓮の強靭な意志が伝わってくる。弘法大師空海を描いた絵画や彫刻は多いが日蓮は珍しい。

 

「藤田嗣治資料」というのも展示されていた。君代夫人が寄贈した五千点以上にのぼる資料の一部である。日記帳・書簡などである。日記帳に「中河与一」という文字が見えたのだが、ケースの中に入っており、字が細かくてよく讀めなかった。

 

私は藤田嗣治(レオナール・フジタ)の作品が好きである。乳白色が用いられた何か不思議な感じのする絵である。見ていて美しいなあという思いがする。絵画というものは美しくなければいけない。

 

何故私がレオナール・フジタに関心を持つようになったかと言うと、フジタが私の文芸上の恩師である中河与一先生と深い親交があったからである。中河先生の家の応接間には、フジタが描いた『嬉子像』という中河先生の三女の方の肖像画が飾られていた。そしてその隣には、佐伯祐三が描いた『恐ろしき顔』と題した中河先生の肖像画も掲げられていた。

フジタも佐伯も近代日本における洋画家の最高峰である。二人とも日本国内のみならず、欧米において高い評価を得ている。中河先生のこの二人と若いころから親交があったのである。中河先生自身、画家を志して岡田三郎助の指導を受けたこともある。

 

中河先生と藤田は戦後、同じような運命を背負った。二人とも「戦争協力者」とされ、作家や画家や評論家たちから非難攻撃を受け文壇及び画壇から追放された。中河も藤田も祖国の危機に際して、粉骨砕身その芸術家としての立場から、大東亜戦争に協力した。敗戦後、文壇・画壇において、「戦争協力者」「戦争犯罪人」烙印を押され二人に対する追及が起こった。戦争への反省と言うよりも、画家や作家たちの戦勝国へのおもねり、時局便乗、自己保身のために行われたという側面もある。そのターゲットにされたのが、文壇では文芸評論などで活躍した中河与一先生であり、画壇ではいわゆる「戦争画」を描いた藤田嗣治だった。

 

「戦争協力」という言葉自体実に怪しげな言葉である。第一、戦時中は日本国民のほとんどが戦争に「協力」したのである。

戦後、藤田はフランスに渡り、彼の地で創作活動を続けた。中河与一はパリに藤田を訪ねたこともあった。藤田はパリで子供たちを主題とした作品を多く描いた。しかし、描かれた子供たちには笑顔が無かった。藤田の孤独感を象徴しているように私には思えた。

 

中河与一の父君は医師であり、藤田の父君も医師である。藤田の父が陸軍軍医総監であった。

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千駄木庵日乗七月二十六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、書状執筆、原稿執筆など。

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昨日と今日詠みし歌

この頃詠みし歌

 

出て行けと怒鳴り声あげるバカ議員 お前こそ国会から出て行くが良し

 

醜き顔さらして大声をはりあげる議員の姿見るに堪え難し

 

アメリカよりお押しつけられし『平和憲法』反米主義者が擁護を叫ぶ

 

侵略国家の手先となりてまやかしの『平和憲法』にしがみつく輩

 

声高に『平和』を叫ぶ共産党 支那と北鮮の手先なりけり

 

すぐ隣の暴虐国家に公正と信義があると誰が思ふや

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2017年7月25日 (火)

『大日本帝国憲法』は肇国以来の日本國體を成文化した憲法

 

わが日本は国家の本質と君主たる天皇の御本質が建国以来、信仰的に厳然と確立している。これを法律的に言えば、不文法によって定まっているということであろう。故に成文憲法でそれを変革することはできないし、成文憲法は不文憲法(立国の基本)に反する規定をしてはならない。西洋から輸入した近代法思想に基づく成文憲法によってこの立国の基本を覆したり破壊してはならない。

 

 三潴信吾氏は、「法思想上には、不文憲法主義と成文憲法主義とがある。…(成文憲法主義は・注)ローマ法思想の流れを汲み、君主(統治者)と人民(被統治者)との間、又は各人相互の間の不信、性悪観に基づくものである…近代のヨーロッパに於ける成文憲法の制定も、マグナ・カルタ以来の歴史が示す如く、専制君主と人民との間の不信感に発した、人権保障の約束証文に由来するものであって、これは権力國家観への移行の段階に於いて現はれたものである。」「憲法の基盤となる立國法とは、國体法とも称されるが、不文憲法として、成文憲法のある場合にも、必ずその基礎を成すものである。…立國法はその國の立國と同時に、その成立事實と不可分に存立するものであって、立國の精神的または道徳的理想を根幹として、その國の最も基本的な伝統的秩序を樹立するものである。」「憲法はその國の統治権力作用の拠って立つべき立國の理想目的に抵触したりそれを支へる人類普遍の原理を侵すことはできない。」(日本憲法要論)と論じておられる。

 

 つまり天皇及び皇室そしてそれを中心とする日本国体は憲法などの世俗 的な法律を超越しており、憲法などの法律は、皇室にかかわることに干渉することはできないのである。

 

 日本国は信仰共同体であり国民が契約を結んで人工的に作った国ではない。そして祭祀主である天皇は国民と対立してこれを力によって支配する御存在ではない。こうした日本の基本的国柄は成文憲法が制定される以前即ち明治初期以前から確立している。

 

 信仰共同体日本においては成文憲法は「第二の規定」である。西洋の契約思想や人間不信を基盤とした成文法に神話の時代に発生し悠久の歴史を有する日本国体を規定すること自体不自然なことなのかも知れない。

 

 西洋の国々の君主は人民を征服し武力と権力によってこれを支配服従せしめていた存在であった。そして君主と人民は相対立存在であった。だから、主権が君主にあるとか人民にあるとかという君主と人民の対立概念が出て来るのである。こういう日本に全くなじまない西洋概念で日本国体を規定すること自体無理なのである。

 

 近代日本に於ける成文憲法たる「大日本帝国憲法」の制定においてはこのことを考慮し、第一条から第三条において立国の基本(即ち不文法に定められた日本国体の基本・天皇中心の信仰共同体日本の本姿)を明らかに規定した。

 

 しかし、日本天皇が日本国の君主・統治者であらせられるのは、日本の伝統信仰・歴史的な国体観念に基づくのであって、憲法に規定されているから天皇が君主であらせられるのではない。

 

 さらに、成文法以前の存在であるところの天皇中心の日本国体は成文法で規定する必要はなく、成文憲法には国の政治組織について規定するのみでよいという論議もある。言い換えれば成文憲法には國體については規定せず、政体のみのについて規定すればよいというのである。

 

 例えば、中川剛氏は「君主主権も不敬罪もヨーロッパ大陸の産物である。憲法を持つこと時代が、英米にはじまるものである。明治憲法はじつは極端なほど欧化政策の結果であった。明治憲法下の天皇制はむしろ伝統をねじ曲げるものだった。近代国家としての体裁を整えるための、たてまえとしての性格の強かった明治憲法であるから、憲法が制定されたからといってただちに、天皇が西欧の絶対君主なみの統治権を掌握したわけではなかった。天皇は制度とは別に、依然として国民的つながりの中心としての文化的存在でありつづけた。政治的天皇と文化的天皇の二重性をそこに認めることができる。」(憲法を読む)と論じている。

 

 ただ「大日本帝国憲法」は、ただ単に西洋立憲制度を模倣したというのではなく日本の伝統信仰の体現者として国家を統治される天皇の御本質を成文法によって名文化しようと努力したものと言える。ともかく井上毅・伊藤博文などの先人たちは、日本の国体を根幹としつつ近代成文憲法を実に苦心して作りあげたのである。『大日本帝国憲法』は決してドイツから輸入した翻訳憲法ではなかった。

 

『大日本帝国憲法』は肇国以来の日本國體を成文化した憲法であり、國體条項である

「第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス

第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」

 

に日本國體精神が明確に示されていると考える。

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千駄木庵日乗七月二十五日

午前は、諸事。

午後は、上野公園の東京芸術大学美術館で開催中の『藝大コレクション―パンドラの箱が開いた』展参観。

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆の準備など。

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、「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の精神を払拭し、祓い清めなければならない

日本人の悪い癖は、ある特定の一人の人物を、みんなで寄ってたかって悪の権化として裁き、あることないこと暴き立てて糾弾し、責め苛むことです。戦争直後は「東条が悪い」。講和発効後は「吉田を倒せ」。第一次安保では「岸を倒せ」。佐藤長期政権では「ストップ・ザ・サトウ」、ロッキード金権問題では「田中内閣打倒」。その後しばらくありませんでしたが、今は「安倍一強政治打倒」。一人の特定の人物さえ打倒し抹殺すればすべてが良くなると考えているのです。政治家に対しては久しぶりに安倍攻撃が行われていますが、メディアによって一人の人を悪の権化として責苛む現象はますますひどくなっています。

 

最近の、「朝日新聞」「テレビ朝日」の安倍攻撃は異常です。あることないことと言うよりも、ないことまでも書き立て言いたてているようです。余程安倍氏が憎いのでしよう。読売産経が自民党の手先なら、朝日は共産党の手先です。

 

何回か掲載した文章ですが、以下のことを最近痛切に感じていますので掲載します。

 

             〇

 

 

マスコミは、マイクやカメラを突き付けて「悪」と断定した人物を追い回す。市中引き回しの刑の現代版である。しかもテレビは繰り返しその映像を垂れ流し的に興味本位に放送する。そういうテレビ映像を見て育った子供たちが学校で特定の子供を寄ってたかって苛めるのである。

 

「いじめ」とは、小學生・中學生の専売特許ではない。「戦後民主主義・平和主義」の「守り手」・「弱者の味方」を以て任ずるマスコミは、「知る権利」「知らせる義務」とやらを振り回し、カメラやマイクを持って「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の対象となっている特定の人物を追ひかけ回し、特定人物を責め苛む。これまで、かういふやり方でどれだけ多くの人々が血祭りにあげられ、「魔女狩り」の対象になってきたであろうか。小學生・中學生のいじめは、大人のこうしたやり方を真似しているに過ぎないのである。

 

三島由紀夫氏は言う。「われわれは戰後の革命思想が、すべて弱者の集團原理によって動いてきたことを洞察した。…不安、嫌惡、嫉妬を撒きちらし、これを恫喝の道具に使ひ、これら弱者の最低の情念を共通項として、一定の政治目的へ振り向けた集團運動である」(『反革命宣言』)と。

 

革命思想のみならず、戦後日本全体を覆ってきた精神が、「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」である。自分よりも富める者・幸福に見える者を憎み、嫉妬し、これを引きずり下ろそうという精神が國民に横溢している。それを煽り続けているのがメディアである。

 

「本是神州清潔の民」と言われるように、日本人の潔癖さは日本民族の優れた体質である。しかし、それが単に、嫉妬であり、自分よりも幸福そうな人を引き摺り下ろそうという精神に堕してしまってはならない。われわれは、「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の精神を払拭し、祓い清めなければならない。そして、日本精神の真の清明、闊達、正直、道義的な高さを回復しなければならない。

 

              〇

私は「何が何でも安倍が正しい、安倍を擁護する」という考えではありませんが、「何が何でも安倍が悪い、安倍を潰せ」という「朝日新聞」「テレビ朝日」の姿勢には激しい嫌悪感を覚えます。また、共産党・民進党などの連立政権が誕生することは絶対に阻止すべきと思います。

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千駄木庵日乗七月二十四日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、たまりにたまった資料の整理。ところが整理すべき雑誌新聞に興味ある記事があると読んでしまうので、なかなか進まない。今日の安倍氏の対応は良かった。最初からこういう対応をしていれば、偏向マスコミに付け込まれなくし済んだのにと思う。野党議員の質の悪さには辟易する。

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2017年7月24日 (月)

今日思ったこと

野党やメディアが政府を追及するのを否定するものではない。大いにやるべきである。しかしロッキード事件以降、記者会見・国会審議・証人喚問・参考人招致における追及は、ロシア革命・支那共産革命における「人民裁判」、共産支那の文化大革命における「闘争大会」を想起する。

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日本は古代からの信仰共同体が今日も続いている

 

 

 祭祀国家日本の祭り主である日本天皇は、常に国民の幸福を祈る祭り主なのであるから、国民と相対立する存在ではないし、日本天皇は国民を力によって支配し隷従せしめる存在ではない。国民と共に神に祈り、神を祭り、神の意志を国民に示し、また国民の意志を神に申し上げ、国民の幸福の実現を最高の使命とされるお方が天皇である。つまり君主と民は「和」「共同」の関係にあるのであり、対立関係ではない。こうした天皇中心の日本の国柄を「君民一体の日本国体」というのである。

 

 このような日本の国柄は、歴史のあらゆる激動を貫いて今日まで続いてきている。ところが外国では、太古の王家も古代国家もそして古代民族信仰もとっくに姿を消し、その後に現れた王家は武力による征服者であり、その後に現れた国家は権力国家であり、その後に現れた信仰は排他的な教団宗教である。古代オリエントや古代シナにおいては、祭祀を中心とする共同体が武力征服王朝によって破壊されてしまった。共同体を奪われ祭りを喪失したよるべなき人々は、貨幣や武力に頼らざるを得なくなり、権力国家・武力支配国家を形成した。

 

 それに比してわが日本は、古代からの祭祀主を中心とする共同体国家が、外国からの武力侵略によって破壊されることがなく、今日も続いている唯一の国なのである。皇室祭祀だけでなく、全国各地で一般国民が参加する祭祀が続けられている。まことにありがたき事実である。

 

 そして二十一世紀を迎えた今日においても、神話の世界のままに、天の神の祭り主の神聖なる御資格を受け継ぎ給う天皇を、現実の国家君主と仰ぎ、国家と民族の統一の中心として仰いでいる。これは日本の麗しい自然と稲作生活が完全に滅びない限りつつくであろう。こうした事実が、西洋諸国やシナと日本国との決定的違いである。

 

 長い歴史において様々な変化や混乱などを経験しつつも国が滅びることなく統一を保ち続けたのは、天皇という神聖権威を君主と仰ぐ共同体精神があるからである。日本という国は太古以来の伝統を保持する世界で最も保守的な国でありながら、激しい変革を繰り返して来た国なのである。その不動の核が天皇であらせられる。

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2017年7月23日 (日)

千駄木庵日乗七月二十三日

午前は、諸事。

午後一時半より、池之端の大本東京本部・東京宣教センターにて、『出口王仁三郎と大本-藝術は宗教の母』開催。猪子恒大本東京宣教センター次長が「出口王仁三郎と大本-藝術は宗教の母」と題して講演。続いて「八雲琴」「弓太鼓」「朗詠」「能楽」の実演が行われた。池之端は私宅の近くであるが、大本東京本部を訪問したのは、二回目で、一回目は実に三十年j前くらいである。綾部と亀岡の本部にはやはり二十年以上前に訪問したことがある。生長の家の谷口雅春師が若き日に大本の幹部であったので、大本には深い関心がある。生長の家、世界救世教など大本出身の人が教祖となって新宗教は多い。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事。資料の整理、原稿執筆。

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天皇の御稜威と「大日本帝国憲法」

「大日本帝国憲法」は、ただ単に西洋立憲制度を模倣したというのではなく日本の伝統信仰の体現者として国家を統治される天皇の御本質を成文法によって名文化しようと努力したものといえる。

 

 葦津珍彦氏は「帝国憲法制定の歴史について、これを伊藤博文とか、井上毅等の官僚政治家が、西欧(とくにドイツ、プロシャ、バイエルンなど)の憲法をまねて起案し制定したもののように解釈する学者が多い。しかしそれは非常に浅い皮相の見解であって、全く日本国民の政治思想史を無視したものといわねばならない。この近代憲法ができるまでの歴史条件としては、少なくとも弘化・嘉永ころからの激しい政治思想の展開を見なければならない。黒船が日本に対して開国をせまって来たころから、徳川幕府がそれまでの独裁専決の政治原則に自信を失って、外交政策については『会議』によって国是を固めようとすることになってきた。この会議政治の思想が生じてきたことは、そののちの政治思想に決定的な波紋を生じた。」(近代民主主義の終末)と論じておられる。

 

 「大日本帝国憲法」の起草に当たった井上毅は「御国の天日嗣の大御業の源は皇祖の御心の鏡持て天か下の民草をしろしめすという意義より成立したるものなり。かゝれば御国の国家成立の原理は、君民の約束のあらずして一の君徳なり。国家の始は君徳に基づくといふ一句は日本国家学の開巻第一に説くべき定論にこそあるなれ」「わが国の憲法は欧羅巴の憲法の写しにあらずして即遠つ御祖の不文憲法の今日に発達したるなり」(梧陰存稿)と論じている。

 

 君主と民とは相対立しており国家は君と民、あるいは民同士の契約によって成立するなどという西洋法思想・国家観は、日本の国体観念・天皇観とは全く異質なものであると井上毅は説いているのである。

 

 ただし、井上毅はここで「君徳」と言っているが、日本天皇は人としての「徳」よりももっと深い「祭り主としての神聖権威」日本伝統信仰の言葉で言えば「御稜威」(みいつ)によって国家を統治したもうのである。御稜威とは天皇の有される神霊の威力というべきものである。

 

 折口信夫氏は「御稜威」について、「みいつといふ語の語根いつといふ語は、稜威といふ字をあてる…いつのちわき・いつのをたけびなどといふ風につかってゐます…天子に傳り、これが内にある時は、その威力が完全に発現するところの権威の原動力なる魂の名でありました。」(神々と民俗)「天子には天皇霊といふべき偉大な霊魂が必要であって、これが這入ると、天子としての立派な徳を表されるものと考へられてゐました。その徳をみいつといふ語で表してゐます。…これは天皇靈の信仰上の名稱でした。」(鳥の聲)と論じておられる。

 

歴代天皇には「人」としての徳がいかにあられようと歴聖一如の「御稜威」によって国家を統治したまうのである。今上天皇におかせられても、大嘗祭を執行されて現御神となられ御稜威を保持されていることは言うまでもない。昭和天皇もしかりである。つまり「昭和二十一年元旦の詔書」において、天皇が神格を否定され『人間宣言』をされたなどということは、「みまつり」という厳粛なる事実によって否定されるのである。

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千駄木庵日乗七月二十二日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆など。

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2017年7月22日 (土)

「清明心」に憧れ「くらき心」「きたなき心」を嫌ふ日本人の心

 

 

大伴家持

 

「劒太刀いよよ研ぐべし古(いにしへ)ゆ清(さやけ)く負ひて來しその名ぞ」

 (四四六七・わが一族の傳統の刀をいよいよ研ぐべきである。古来より清くさやけく傳へてきた大君の辺にこそ死なめといふ大伴氏の名であるぞ。祖の名を曇らすことなきように磨けよ)といふ意。

 

天平勝宝八年(七五六)聖武天皇が崩御されると間もなく、大伴氏の有力者・古慈悲が朝廷を誹謗した廉で解任された。家持は氏の上としての責任感から「族を喩す歌」といふ長歌を詠んだ。この歌はその反歌である。

 

「剣太刀いよよ研ぐべし」と、きはめて断定的な歌ひ方をしてゐる。興奮した歌ひぶり。「研ぐ」といふ言葉に「剣太刀を研ぐこと」と「家名を磨くこと」を掛けてゐる。

 

 長歌は、「ひさかたの 天の戸開き 高千穂の 嶽に天降りし 皇祖(すめろき)の 神の御代より…」と天孫降臨から歌ひ起こし、神武天皇橿原奠都を歌ひ、わが國の歴史を述べ、天孫降臨すなはち肇國のはじめからの歴史精神を貫いてゐる。そして、「皇祖の 天の日嗣と つぎて来る 君の御代御代 隱さはぬ 赤き心を 皇方(すめらべ)に 極め盡して 仕へ来る 祖(おや)の職(つかさ)と …… 清きその名ぞ 凡(おほ)ろかに 心思ひて 虚言(むなごと)も 祖の名斷つな 大伴の 氏の名に負へる 丈夫(ますらを)の伴(とも)」と歌った。

 

 この家持の「族を喩す歌」には、二つの大きな思想精神が詠まれてゐる。一つは、天孫降臨以来の皇統連綿・萬世一系の御歴代天皇への絶對的忠誠であり、降臨された天孫邇邇藝命に仕へ、御歴代の天皇に仕へた大伴氏の勤皇の誇りである。二つは、祖先を尊び家柄・家名を重んじる精神である。「名を重んずる心」である。

 

反歌では特に家名を重んじる精神を歌ってゐる。「剣太刀いよよ研ぐべし」といふ武門の名誉そして「赤き心を皇辺に極めつくして止へ来る」といふ赤誠心を詠んだ。

 

保田與重郎氏は、「彼(註・大伴家持)は喩族歌の中で、史官の描かない、時局情勢の描かぬ、眞の歴史を歌ひあげ、…その日の時局に對立して肇國の精神を貫かうとする思想であった。…天降りし天孫に仕へ奉ったといふことをいふ、皇方(スメラヘ)に仕へた勤皇の誇りだったのである。…彼は不平不満の中で、不平の詩歌を開くといふ類の東洋的詩人の域をつとに脱してゐたのである。」(『萬葉集の精神』)と論じてゐる。

 

大伴家持の『族に喩す歌』は、神代以来忠誠を一族の使命として来た大伴氏の家柄を詠じて、一族の奮起を促し、大伴一門の傳統的忠誠・尊皇思想そして家名を重んじる精神を歌ってゐる。しかし、それだけでなく、わが國民全体が保持すべき尊皇精神と家名を重んじる廉恥の心を歌ったと言へる。

 

 そして、この歌は、決して口先だけの生易しい歌ではなく、氏の長者としての責任の重大さを痛感して、真心を吐露し、赤誠を表白した血の出るやうな歌である。

 

家持の歌の「さやけく」とは「清明心」である。「清明心(清く明らかなこと・きよらけくあきらけき心)」は、神話時代以来わが國の重要な道徳観念である。日本人は、「あいつは悪い奴だ」といはれるよりも、「あいつは汚い奴だ」といはれる方を厭ふ。天照大神は、高天原に上ってきた須佐之男命に「しかあらば、汝が心の清く明きは何をもって知らむ」と仰せられた。須佐之男命は、ご自分の「清明」を証明するために「うけひ」をされた。

 

また、天照大神が天の岩戸からお出ましになり、その御光が天下に輝きわたった時、八百萬神が一斉に「天晴れ、あな面白、あな楽し、あな清明(さや)け、おけ」と唱へて、高天原みな笑ったと、『古語拾遺』に記されてゐる。日本國民は古来、「清けく明けく」(清明心)を最高の価値として来たのである。

 

 天智天皇は

 

「渡津海の豐旗雲に入り日さし今夜の月夜清明(あきらけく)こそ」

(海空に、豊かに旗の如くたな引く雲、それに入り日がさしてゐる。今夜の月夜は明らかなことであらう。)

 

と詠ませられてゐる。「清々しい」といふほどの心にこの「清明」の文字をあてた御心が大事である。「清明心(汚れなく・清く・くもりなく・明らけき心)」にあこがれ「くらき心」「きたなき心」を嫌った心が日本人の心である。神道が禊祓を大切な行事とするのもこの精神によるのである。

 

「清明心」「清き心」の傳統は、日本の倫理思想の中に力強く生きてゐる。そしてそれは、絶對尊皇精神と一体の倫理観であった。日本武尊の御事績を拝すればそれは明らかである。

 

和辻哲郎氏は、「上代人は、全体性の権威を無限に深い根源から理解して、そこに神聖性を認めた。そして神聖性の担い手を現御神や皇祖神として把握した。従って全体性への順従を意味する清明心は、究極において現御神や皇祖神への無私なる帰属を意味することになる。この無私なる帰属が、権力への屈従ではなくして柔和なる心情や優しい情愛に充たされているところに、上代人の清明心の最も著しい特徴が看取せられるべきであろう。」(『日本古代文化』)と論じておられる。

 

平田篤胤は、「抑我が皇神の道の趣きは、清浄を本として汚穢(ケガレ)を悪(キラ)ひ、君親には忠孝(マメ)に事(ツカ)へ、妻子(メコ)を恵みて子孫を多く生殖(ウミフヤ)し、……家の栄えむ事を思ふぞ、神ながら御傳(ミツタ)へ坐(マ)せる真(マコト)の道なる。」(『玉襷』)と論じてゐる。

 

「清明心」は「まごころ」といはれる精神であり、中世神道においては「正直」と称せられるものである。偽善や嘘を嫌ふ心である。無私の心であり我執なき無我の心である。

 

西洋精神が自我を拡張し、自我を確立することを根本とするのとは對照的にわが國は「無我」を根本とするのである。無我・無私となられて神を祭られる天皇は、「清明心」の根源者であらせられ、体現者であらせられるのである。ゆへにこそ「現御神・現人神」と仰がれるのである。そして現御神日本天皇に對し奉り無私となって仕へまつる國民の精神と行動も「清明心」なのである。

 

明治天皇は

 

さしのぼる朝日のごとくさはやかにもたまほしきは心なりけり

あさみどり澄みわたりたる大空の広きをおのが心ともがな

 

と詠ませられてゐる。この御製の大御心こそ清明心であると拝する。

 

村岡典嗣氏は「まごゝろといひ、大和心といふものには、一味もののはれと通ずるところがある。而してこれまた、現人神にます天皇を對象とすることに於いて、重なる存在をはじめに有した丹き心本来の性格であった。……正統記に、儒教的の有徳王君主の思想を少なくとも絶對的に否定しつべき積極的主張の十分でなかったことを、感ぜざるを得ざらしめる。これは國學者の立場からせば、所謂漢意を去りえなかったのである。天皇は天皇にまします故に貴く、善悪の論を離れて絶對に尊びまつるべしといふのは、合理主義以上のまた以外の至情である。丹き心の根柢にはこの情味がある。この事は、國學をまって、始めて明瞭なる自覺を以て發揮せられたところである。されば親房以後近世の日本的儒學者の間に於いては、就中、山鹿素行の如き、頗る日本精神の主張に於いて、一層の進歩を示したとはいへども、未だこの點國學ほど純粋ではなかった憾みがある。而してこは、國學の古典學を有しなかった爲である。」(『日本思想氏研究第四』)と論じてゐる。

 

わが國における「尊皇精神」「忠義」とは、現御神日本天皇に對する絶對的な仰慕の心・戀闕の心をいふのである。一切の私心なく天皇にまつろひ奉ることが最高の道義なのである。それを「清明心」といふのである。

 

「丹(あか)き心」とは、「赤心(せきしん)」であり、誠實、偽りのない心、まごころ、美しい心、きれいな心、清い心、まことの心である。すなはち日本精神の骨髄たる「清明心」である。

 

古代における「清明心」は、中古時代には『源氏物語』において「もののあはれ」と表現され、中世においては『神皇正統記』などにおいて「正直」と表現され、近世においては本居宣長などによって「やまとごころ」と表現され受け継がれた。 

 

わが國の「もののふの道」は、『古事記・萬葉』の歌々を見ても明らかな如く、日本の中核的な傳統精神から発した。上御一人・現御神に對する戀闕が根幹である。

 

大東亜戦争後、日本弱体化を目的として押し付けられ「似非平和主義」を脱却して、「ますらをの道」「もののふの道」に回帰すべきである。それこそが、共産支那や北朝鮮の軍事的政治的恫喝からわが國を守り抜き真の平和を確立する方途であると確信する。

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千駄木庵日乗七月二十一日

午前は、諸事。

午後は、書状執筆。

午後六時より、神田三崎町にて、永年の同志二氏と懇談。意見交換。

帰宅後は、原稿執筆など。

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2017年7月21日 (金)

「絶對尊皇精神」と「名を惜しむ心」を詠んだ山上憶良と大伴家持の歌

 

山上憶良は次の歌をのこしてゐる。

 

「士(をのこ)やも 空(むな)しかるべき 萬代に 語り繼ぐべき 名は立てずして」(九七八・男児たるものが空しく朽ち果ててよいものか。いつまでも語り傳へられるに足りる名は立てないで)

 

 山上憶良は大宝年間に遣唐使として渡唐した。學問は漢和に亘り、聖武天皇が東宮の頃に侍講として奉仕し、筑前守となり、大伴旅人の知遇を受ける。七十歳で帰京、七十四歳で亡くなる時の辞世がこの歌である。

 

 名を立て、名を惜しみ、名を重んずる心が歌はれてゐる。憶良が病に沈み最期が近くなった時に胸中からほとばしり出た男子の本心を歌った慷慨悲憤の辞世である。憶良は名をあげる機會に接しなかったことを悲しんでゐる。しかし憶良は、かうした歌をのこしたことによって、名を後世にのこすことができた。人の胸を打つ歌である。彼がいかに自分の名をあげやうと努力してゐたかが窺はれる。「身を立て名をあげ やよ励めよ 今こそ別れめ いざさらば」といふ『仰げば尊し』の歌詞に通じる精神である。

 

聖武天皇の天平五年(七三三)のある日、憶良を見舞った藤原八束(不比等の第二子・房前の第三子。大納言。後の摂関家は全て八束の門から出た。この歌のときは二十代後半から三十代と推測される)の使ひに謝して後、憶良は暫くして涙を拭って悲しみ嘆じてこの歌を口ずさんだといふ。七十四歳の人生を振り返っての感慨である。春秋に富む藤原八束への激励であったかもしれない。 

 

わが國の武士道の徳目の一つに、「廉恥(心が清らかで、恥を知る心がつよいこと)心」があった。日本人は名誉を重んじ恥辱を殊の外嫌ふ。憶良の歌はその精神を詠んだのである。

 

この山上憶良の慷慨悲憤の辞世に熱血児・大伴家持が感動し憶良の歌に追和して詠んだ歌が次の歌である。

 

「丈夫(ますらを)は名をし立つべし後の代に聞き繼ぐ人も語り繼ぐがね」

(四一六五・丈夫は名を立てるべきだ。後の世に傳へ聞く人も語り傳へてくれるやうに) 

 

大伴家持は奈良時代の『萬葉集』の代表的歌人。旅人の子。奈良朝末期の人。地方、中央の諸官を歴任。晩年は中納言・東宮太夫。歌は繊細、優美を基調とし、すぐれた技巧と抒情性を示し、萬葉末期を代表。『萬葉集』中、歌数が最も多く、その編者といはれる。養老二年(七一八)~延暦四年(七八五)。 

 

家持は藤原氏の権勢が強まるに中にあって、神代以来の名門の悲運を身に負った人生であった。さうした生涯にあって、神ながらの精神・日本の傳統精神を守らうとし、私権を以て世を覆はむとする者たちに對して悲憤して止まなかった。 

 

大伴氏は、遠祖・天忍日命(あめのおしひのみこと)が天孫・邇邇藝命御降臨に際して、武装して供奉してより、代々武を以て朝廷に奉仕した。古代の中央豪族。大和朝廷の草創期に来目部・佐伯部などの集団を統宰して朝廷に仕へ、「大連」となり軍事力を担った有力な氏族である。壬申の乱には大海人皇子方に属した。御行・安麻呂・旅人は大納言に昇進した。

 

武門の名門たる大伴氏が『萬葉集』と深い関はりがあるのは、言を向けることが平定であったといふ古代信仰による。「言」とは言霊の力である。物部の「もの」の力である。

 

天平感宝元年(七四九)五月十二日、大伴家持は越中の國守の館で『陸奥の國より金を出せる詔書を賀(ことほ)ぐ歌』(四〇九四)を詠んだ。

 

「葦原の 瑞穂の國を 天降り しらしめしける 天皇(すめろぎ)の 神の命(みこと)の 御代重ね 天の日嗣と しらし来る 君の御代御代…」と日本國の肇國から歌ひ起こし、「…大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負()ひ持ちて 仕へし官(つかさ) 海行かば 水漬(みづ)く屍 山行ば 草生(むす)屍 大君の 邊()にこそ死なめ 顧みは せじと言立(ことだて) 丈夫(ますらを)の 清きその名を いにしへよ 今の現(をつづ)に 流さへる 祖(おや)の子どもぞ…大君の 御門(みかど)の守護(まもり) 吾をおきて また人はあらじと いや立て 思ひし増(まさ)る 大君の 御言の幸の 聞けば貴み」と歌った。

 

聖武天皇は、天平二十一年(七四九)四月一日に、東大寺に行幸され、わが國からはじめて黄金を出した喜びを橘諸兄に仏前に報告せしめ、この年の四月十四日を以って天平感宝と改元された。

 

その時の『宣命』で、聖武天皇は特に大伴一族の大伴佐伯のことに触れられ、「大伴佐伯宿禰は常にもいふ如く天皇(すめら)が朝(みかど)守り仕へ奉ること顧みなき人等(ども)にあれば、汝(いまし)たちの祖(おや)どもの言ひ来らく、海行かばみづく屍、山行かば草むす屍、王(おおぎみ)のへにこそ死なめ、のどには(静かには、穏やかには)死なじ(「のどにはしなじ」で無駄死にはしないの意)と言ひ来る人等(ひとども)となも聞こしめす。」と称賛された。

 

これに感激して、家持がこの『陸奥の國より金を出せる詔書を賀(ことほ)ぐ歌』を詠んだのである。佐伯氏は、大伴氏の別家で、武力を以て朝廷に仕へた名族。大伴氏と祖を同じくする。「海ゆかば 水づく屍 山行かば草むす屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みはせじ…」には、大伴一族の「いかなることがあらうとも、天皇の帰一し、天皇の御為に、天皇のおそばで死にたい」といふ戀闕心・勤皇精神が歌はれてゐる。大君のそばで倒れるのは武士(もののふ)たるものの当然の帰結としてゐる。

 

「み民われ・武人」たる者の心を言ひ尽くしてゐる。これは、大伴氏のならず、全國民的な殉忠の精神をうたひあげた言葉となってゐる。「大君の 辺にこそ死なめ 顧みはせじ」といふ精神は、下野の國の防人・火長今奉部與曾布(かちゃういままつりべのよそふ)「今日よりは顧みなくて大君の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ吾は」(四三七三・防人としての任務につく今日からは、最早我が身のことは一切顧みないで、ふつつかながら大君にお仕へ申し上げる兵士として私は出発致します)と同じで精神あり、もののふの心である。

 

現御神天皇への捨身無我の誠忠をあらわした精神であり、日本人としての偽りのないすがすがしい「まごころ」であり、「清明心」である。

 

「大君の 御門(みかど)の守護(まもり) 吾をおきて また人はあらじと いや立て 思ひし増(まさ)る」は、文字通り戀闕の心である。最も大切な日本精神・もののふの心である。もののふとしての自負心である。天皇の御信頼に臣としてこたへ奉る心の表白である。

 

保田與重郎氏は、「家持が陸奥國より黄金を出せる時の詔を賀してよんだ長歌のごときは、藤原氏の指導する文化精神に對する峻厳無比な抗議である彼はこの長歌の中で當時の指導精神を完全に無視して、堂々國初の精神を讃へ、一族に對して維新の史観とその人倫を教へたのである。」「この歌は盧舎那佛造營の讃歌に非ず、すべて國風の歴史と言葉をたゝへ、國ぶりの道とをしへを守ることに於て、この年の優諚(註・天皇の厚い仰せごと。天皇のめぐみ深いおことば)に奉行すべきことを、己と族に喩したものである。…萬葉歌人は一人として東大寺に於ける數々の國家的祭典を歌ってゐないのである。」(『萬葉集の精神』)と論じてゐる。

 

萬葉時代とりわけ奈良の大佛造営の頃は、佛教が大きな力を持ってゐた。しかし、それにもかかはらず、伊勢の神宮をはじめとした日本の神々への尊崇の念は非常に篤いものがあった。日本人独自の傳統的美的精神を歌ひあげ國民精神の表白である『萬葉集』には佛教思想の影響はきはめて少ない。

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千駄木庵日乗七月二十日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事など。

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2017年7月20日 (木)

笠金村と大伴宿禰三中が歌った「もののふ」「武士」の原義

 

古代日本人の「武の心」は、『萬葉集』に収められてゐる歌に具体的に歌はれてゐる。

 

笠金村は次の歌を詠んでゐる。笠金村は傳未詳。作歌年代の明らかな歌は、霊亀元年(七一五・元正天皇の御代)から天平五年(七三三・聖武天皇の御代)までである。

 

「もののふの 臣(おみ)の壮士(をとこ)は 大君の 任(まけ)のまにまに 聞くといふものぞ」(三六九・武人として朝廷に仕へる男は、大君の仰せの通りに御命令の通りに聞き従ふものであるぞ)

 

 もののふたる者は、何事も大君の命令のままに従ふべきであるといふわが國のもののふの道(これを臣道とも言ふ)を詠んでゐる歌である。

 

 鎌倉・室町時代には上級武士、江戸時代の幕府では旗本、諸藩では中小姓以上の武士を、「侍(さむらひ)」と称した。「さむらひ」の原義は、『萬葉集』に収められてゐる大伴宿禰三中が部下であった丈夫部龍麻呂(はせつかべのたつまろ)が首を縊って自死した時にそれを悼んで詠んだ長歌において歌はれてゐる。

 

大伴宿禰三中は、系統未詳。遣新羅副使・摂津班田使(律令制下民に授けられた田んぼである口分田を民に分かち与へるために派遣された官吏)などを歴任。「宿禰」とは、天武天皇の代に定めた八色姓(やくさのかばね) の第三。もと、臣下を親しんで言った呼び名。「姓」とは、わが國の上代で、氏族の尊卑を表すための階級的称号。臣(おみ)・連(むらじ) ・宿禰(すくね) など数十種がある。

 

「天雲の 向伏(むかふ)す國の 武士(もののふ)と いはるる人は 天皇(すめろぎ)の 神の御門(みかど)に 外(と)の重(へ)に 立ちさもらひ 内の重に 仕へ奉(まつ)りて 玉かづら いや遠長く 祖(おや)の名も 繼ぎゆくものと 母父(おもちち)に 妻に子供に 語らひて 立ちし日より…」(四四二・天雲の垂れ伏す遠い國のもののふといはれる人は、天皇が神の如くにをられる皇居で、外の回りを立って警備し、奥庭におそばでお仕へ申し上げ、(玉かづら・長居に掛る枕詞)ますます長く祖先の名を継ぎ行くものなのだと、父母に、妻に子供に語って出発した日より…) 

 

 故郷を出発する時の朝廷奉仕の確固たる覚悟が、上司の三中によって歌はれてゐる。「天雲の 向伏(むかふ)す國」は、「遠い國」につく慣用句で自死した丈夫部龍麻呂の出身地のこと。東國の出身であったらしい。

 

 「もののふ」はこの場合は『萬葉集』原文(萬葉仮名)に「武士」とあり、皇居を警備する武官を念頭に置いた。「天皇の神の御門」は現御神信仰に基づく言葉である。

 

 「さもらふ」は様子を伺ひ機を待つといふ意であるが、この言葉から「さむらひ」(武士)といふ言葉が生まれた。

 

 「祖の名も 繼ぎゆくものと」に、家の名・名誉を重んじ祖先を尊ぶ心が表白されてゐる。朝廷への御奉公は祖先(おや)の名を負ふてするのである。そこからおのづから敬神崇祖の念が生まれる。

 

祖先も、親も、共に「おや」と呼ぶのは、生みの親も遠い祖先も同一の存在と考へたためであった。「親」と「祖」との間に言葉としての区別はなかった。強いて区別する時は「遠つ親」といふが、先祖のことは「おや」と言ふのが普通であった。ここにわが國の久遠即今・今即永遠の観念がある。笠金村と大伴宿禰三中の二首の歌に「もののふ」「武士」の原義が歌はれてゐるのである。

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千駄木庵日乗七月十九日

午前は、諸事。

午後二時半より、芝の駐健保会館にて、『大行社幹部会』開催。顧問の一人としてスピーチ。

帰宅後は、資料の整理、『政治文化情報』発送準備、原稿執筆。

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2017年7月19日 (水)

松本彧彦氏(日台スポーツ・文化推進協会理事長)による「日台草の根交流の五十年」と題する講演内容

四月一日に開催された『アジア問題懇話会』における松本彧彦氏(日台スポーツ・文化推進協会理事長)による「日台草の根交流の五十年」と題する講演内容は次の通り。

 

「大學時代に『六〇年安保』を経験。政治に関心を持った。自由主義が良いか、社会主義か良いかを考え、自由主義か良いと思った。大学で法律を学び、卒業後、東京都の公務員になった。ヨーロッパの都市行政を視察。ベルリンの壁が出来た三年後。東ベルリンに行って、西ベルリンに帰ってきた。命懸けだった。撃たれる可能性があった。そして、自由が大事だと実感した。西へ逃げて来た人たちの話を聞き、自由を守るために戦うことを決意し、自由民主党本部に入った。青年局に入った。海部俊樹青年局長の下で働いた。

 

佐藤総理は海部に『自分の後、中華民国との関係がどうなるか分からない。自民党青年局が中心となって台湾との交流をしたらどうか』という話があった。海部が小渕恵三に指示して、日華青年親善協会が出来た。小渕氏が会長となり私が事務局長を務めた。一九六七年五十数名で訪台。九月に佐藤総理も台湾に行った。当時の台湾は反共一色。中国青年反共救国団という組織があった。『反攻大陸』のポスターが町中に貼ってあった。救国団のトップは蒋経国。国防部長となった蒋経国は十一月に公賓として来日。海部と蒋経国との話し合いで、毎年春秋の二回、青年がお互いに訪問し合うこととなった。佐藤総理、田中幹事長も歓迎してくれた。

 

一九七一年は、中華民国にとって運命の年。アルバニア案が採択され、中華民国は国連を脱退。一九七二年、ニクソン訪中。上海コミュニケ発表。中華民国は四面楚歌。八十五歳の蒋介石の最後の総統選挙・国民大会代表選挙が行われ、五撰された。恩人である蒋介石に祝意を表するため訪台。陽明山の中山楼の投票所で外国人として初めて最前列で投票を視察。行政院副院長となった蒋経国と単独会見。『難局をどう指導していくのか』と質問。蒋経国は『国家の存亡は外圧に左右されることはない。国民の気持が一つにまとまっている事だ。本省人・外省人と言っている時ではない』と語った。それまでは十八の閣僚ポストで本省人は一つだったが、一気に六人になった。その一人が李登輝さん。農政担当の閣僚になった。蒋経国はジャンパーを着て各地を視察。直接国民に接触した。蒋経国は暗い、怖いイメージがあったが、親しまれる指導者になった。

 

一九八八年、蒋経国が逝去。日華議員懇談会が弔問。灘尾弘吉・藤尾正行、青嵐会が行った。麻生太郎さんは通夜の前の日に行った。吉田茂と蒋介石が親しかったので、麻生氏は蒋介石の孫の蒋孝武と挨拶。柩を乗せた自動車は総統府、国民党本部前を巡回。道は立錐の余地なし、私は総統府のそばにいた。沿道にいた一般の人たちが泣いていた。蒋経国は晩年、『半世紀以上台湾にいたので私も台湾人』と演説。私は本省人にも友人が多いが、蒋経国の悪口を聞いたことがない。蒋介石とは違う。

 

昭和四七年に佐藤首相退陣、田中政権誕生、日中国交回復。田中政権の人事は、大平・三木・中曽根・田中の四派中心。石田博英が党三役と同等の全国組織委員長になる。私はその補佐をするようになった。日中国交回復について台湾の理解を得るべく台湾に政府特使を派遣することとなった。当時の中華民国駐日大使の彭孟緝は強硬で、受け入れられないと言ってきた。蒋経国に伝手のある国会議員無し。私は瀬田の大平邸に呼ばれ、『松本君は蒋経国に付き合いがあるよね。蒋経国とのパイプが見つからない。特使を受け入れてもらえない。椎名悦三郎先生に特使をお願いする』と大平は言った。椎名氏に自民党副総裁の身分で訪台してもらうことになった。石田博英全国組織委員長に話をした。石田氏は『国家の大事に関わるのは国会議員でも一度あるかないかだ』と言われ、逃げられなくなった。対日関係で重要な役目を果たしていた張群総統府秘書長(後に総統府資政)は、若い頃蒋介石と二人で日本に留学していた。蒋介石の懐刀。張群先生には一度もお会いしたことが無かった。

 

昭和四十七年九月八日特使秘書として公用旅券で訪台。宇山厚駐中下華民国日本大使に会った。宇山氏は『私の立場で会えるのは外交部長』と言った。そこで救国団の蒋経国に張群への橋渡しを頼むことにした。宋時選、李煥、王昇が蒋経国側近の三羽烏。その中の宋時選とコンタクトを取ると、『九月十二日に総統府に行きなさい』と言われた。総統府で張群と会った。緊張した。日本語で話し合った。私は『青年の交流に配慮願いたい。特使を受け入れてもらいたい』と言った。『松本君の言うことは理解した。日本の青年と仲良くしたことを思い出した。今後も交流を続けて下さい』と言われた。これは大丈夫だという印象だった。宇山大使に伝えた。九月十三日沈昌煥外交部長から宇山大使に『特使受け入れ』の通告があった。当時三十二歳の一介の青年の私と、当時八十三歳の張群とは、おじいさんと孫の対面。

 

九月十七日、椎名特使一行が訪台。松山空港のロータリーは数千人のデモ隊がいた。戒厳令下の官製デモ。午後二時のJALで到着。クライスラーが十四台チャーターされた。椎名特使や椎名派の秋田大助氏など高齢者が多かった。私は七号車に乗った。浜田幸一氏、中村弘海氏と一緒。ものすごい警備だったがデモ隊に囲まれた。フロントガラスが破られた。ハマコーさんが『松ちゃん、我慢しろ』と言った。民権東路から中山北路を右折して、円山大飯店着いた。嚴家淦、張群、何応欽が椎名特使に会った。

 

十八日に椎名氏が『外交を含めて従来の関係を維持する』と発言すると皆どよめいた。和やかな雰囲気になった。翌十九日羽田に着いた。羽田東急ホテルで記者会見。北京に行っていた小坂善太郎氏が深夜に周恩来首相に呼び出された。『外交関係を含めてという発言があった。二つの中国を認めるのか』と質問された。その日のうちに情報が周恩来に入っていた。

 

九月二十五日、田中・大平・二階堂が訪中。日華国交断絶。この日の夜、私は泣いた。蒋経国、張群の顔を思い出した。眠れなかった。これから民間人として交流しなければならないと決意した。一九七三年二月の旧正月の前に台湾に行った。在留邦人の安否が心配だった。日系企業の財産没収の噂があった。一切そんなことはないことが分かった。第二の『以徳報怨』の指示を蒋経国が出したのだと想像した。飛行機の中で石原裕次郎に会った。『中山北路で喫茶店を経営している。潰されるかと思ったが、石一つぶつけられなかった』と言っていた。

 

昭和五十二年、三木内閣で石田博英が運輸大臣になった。秘書官となった私は日本が協力した台湾の職業訓練センター開所式に大臣の名代として出席。断交後初めての公務員の訪台だった。その後、『友好の桜』植樹を開始。八田與一記念公園・霧社などに桜を植樹、台北マラソンへの日本人ランナー派遣、バシー海峡戦没者慰霊式など各種文化交流を今日まで推進してきた。台湾との友好は日本の国益。若い人々が交流してもらいたい」。

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千駄木庵日乗七月十八日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆、書状執筆、明日のスピーチの準備など。

午後三時ごろ、一天にわかに掻き曇り、雷鳴が轟き、雨と雹が降ってきた。これほど大量のそして大きな雹が降るのを見たのは初めてであった。一つ食べてみたが普通の氷と同じであった。近所の花屋さんは、店頭に置いてあった今日仕入れた花が駄目になったという。

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2017年7月18日 (火)

「もののふの道」=日本武士道とは

 

 「もののふ」とは、武人・武士のことをやまとことば(和語すなはち漢語や西洋などからの外来語に對し、日本固有の語)で表現した言葉であり、雅語(上品な言葉。正しくてよい言葉。特に、和歌などに使ふ、平安時代風の言葉)的表現である。

 

 「もののふ」とは、「宮廷を守護する者」即ち「物部(もののべ)」の音韻が変化した語であるといふ。「もの」とは「もののけ」の「もの」と同じで、不思議な霊力がある存在のことである。物部氏という氏族は、もっとも有力な「もののふ」だった。

 

 「物部」の原義は、宮廷の妨げをするものを平らげ鎮める働きをする部(群れ・組。世襲的に一定の職業に従事した団体)のことである。物部氏は、古代の氏族の一つで、朝廷の軍事・刑獄のことを司った。 

 

物部氏は饒速日命の後裔にして武勇を以て聞こえた家柄で、神武天皇に奉仕し、御東征の折に大和で長髄彦を討って勲功があった。大伴氏と共に宮門を護衛し、軍事を担当した。用命天皇崩御直後(用命天皇二年・五八七)、仏教受容を唱へた蘇我氏と物部守氏が戦ひ、物部氏は滅びた。

 

霊的力即ち巫術(超自然的存在が人にのりうつり、その人を通して話し、行動するもの)を以て戦場に臨み、敵軍を守る精霊を抑圧する役目を帯びた者たちが「もののふ」(物部)であった。

 

折口信夫氏は、「(古代日本では)多くは巫術を以て戰場に臨み、敵軍を守る精靈を抑壓する者だったらう。大體、男軍其ものが既に、軍靈を使って、敵軍の守護靈を壓倒することを第一義にして居た。其爲に戰士のことを靈部(物部)と言ったのである」(『大倭朝廷の刱業期』と論じてゐる。

 

『日本書紀』の神武天皇御東征の折の長髄彦(ながすねひこと)との一戦のくだりに「…神祇(あまつやしろくにつやしろ)を禮(ゐやま)ひ祭(いは)ひて、日神の威(みいきほひ)を背(そびら)に負ひたてまつりて、影(みかげ)のままに壓躡(おそひふ)まむに若かじ。かからば則ち曽て刃に血ぬらずして、虜(あだ)必ず自らに敗れなむ」と記されてゐる。

 

古代日本における戦ひは靈力の戦ひであったのであり、それに従事する士が「もののふ(靈部)」であった。とりわけ上御一人の「みいくさ」は、日の神の御神靈を祭りその神威を背負ひて神のまにまに戦はれたのである。

 

「神武」「天武」「文武」「聖武」といふ御歴代天皇の御諡号は、文武對立の武ではなく神威と一体の武である。

 

日本の武士が戦場に於いてお互ひに名乗りをあげたのは、互ひに名乗り合ふことによって相手方の靈を圧伏する意義があったと思はれる。

 

「もののふのみち」(「漢語」でいふ「武士道」)は、物部、大伴の二氏によって明確なる史實として表現せられた。

 

 なほ、「もののふ」を漢語で「武士」(ぶし)といふのは、折口信夫氏の説では、野に伏し山に伏して主君のために仕へる者であるからといふ。

 

もののふの道(武士道)とは、古代日本(古事記・萬葉時代)においては、天皇・朝廷に忠誠を尽しお護り申し上げる精神そのものである。それが原義である。日本武尊の御生涯を拝してもそれは明らかである。

 

もののふの道(武士道)とは、「尊皇心」「祖先を崇拝する心」「父母に對する孝の心」そして「名誉心(名を惜しむ心)」などがその内容となってゐる。名誉を重んずる心は、自己の一身を忠義・戀闕の對象(天皇・祖先・親・家)に捧げることに十分なる理由を与へた。

 

かうした日本の傳統的倫理観念が、人並み優れて強い男子といふ武士(もののふ)に、節度・忍従・帰服の心を付与した。「武」によって立つ者に道徳を与へたのは尊皇精神を中核とする日本傳統倫理精神であった。

 

新渡戸稲造氏は、「仏教の与え得ざりしものを、神道が豊かに供給した。神道の教義によりて刻みこまれたる主君に對する忠誠、祖先に對する尊敬、ならびに親に對する孝行は、他のいかなる宗教によっても教えられなかったほどのものであって、これによって武士の傲慢なる性格に服従性が賦与せられた。」(『武士道』)と論じてをられる。

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千駄木庵日乗七月十七日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、資料の整理、原稿執筆など。、

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2017年7月17日 (月)

「武の精神」「剣の精神」こそ、國民の道義精神の要である

わが國の武士は太刀を「力と勇気と名誉と忠誠の表徴」として尊んだ。そればかりでなく太刀は神聖なものとして尊ばれた。太刀を御神体とする神社もある。

 

日本武尊が「床の辺に 吾が置きし つるぎの大刀」と歌ってをられるやうに、太刀は床の間に置かれた。太刀に対する侮辱はその太刀の持ち主に対する侮辱とされた。刀鍛冶は単なる工人ではなく、神聖なる職に従事するものであった。刀鍛冶は斎戒沐浴して工を始めた。太刀を作ることは神聖な宗教的行事とされた。

 

太刀(タチ)の語源は、「断()ち」であり、「顕()ち・現()ち」である。罪穢を断つと共に、罪穢を断った後に善き事を顕現せしめるといふ言霊である。罪穢を祓ひ清めた後、神威を発動せしめる意である。太刀によって邪悪を滅ぼし、穢れを清め、本来の清らかさを顕現せしめるのである。

 

太刀は「幾振り」と数へられるやうに、魂ふり(人の魂をふるい立たせ活力を与へ霊力を増殖させる行事)のための呪具でもあった。剣や玉など呪器に籠る霊力を振はせることによって、人間などの力を復活させる行事が「魂触り」なのである。

 

御神輿が練り歩くのも、神体等を振はせ揺り動かすことにより神霊を活性化させる意義がある。それと同じく剣を振る事によって本来活力を失った魂を再生し活力を再生させる。

 

鎮魂は、ミタマシズメ・ミタマフリと言ひ、枯渇した人間の魂を振り起し、復活させ、衰微した魂の生命力を再生し復活させる行事である。日本の剣は人の命を絶つための道具ではなく、人の命を生かす道具なのである。まさに「活人剣」なのである。

 

太刀・剣には魂が籠ってゐると信じられ、太刀を授受することは精神的・魂的な信頼関係が成立したことを意味する。敗者から勝者へ太刀・剣が奉られるのは、恭順の意を表する象徴的行事である。

 

小野田寛郎氏がそれを行ったことは多くの人が記憶してゐるところである。小野田氏がルパング島で発見された後、当時のフィリッピンのマルコス大統領に軍刀を差し出した。軍人の魂であるところの軍刀を差し出すといふことは恭順の意を表するといふことである。小野田氏は昭和の御代において武人の伝統を継承した人物だったのである。

 

さらに言へば、「タチ」は「タツ」と同じ語源であり、それは「龍(タツ)」である。龍神は水の神であるから、水源地である山奥には龍神の祭った神社が鎮座する。蛇を祭った社(やしろ)も水の神である。道を歩いてゐて、蛇を見ると光ってるやうに見える。「龍」や「蛇」は長くて光る動物であるので、「刀」とよく似てゐる。ゆえに「刀」は「龍・蛇」を連想させる。

 

また、雷が鳴ると必ず雨が降る。だから水の神と雷神とは近い関係にあると考へられた。雷の稲妻は、光を放つので太刀を連想した。このやうに、「刀」「龍」「蛇」「水の神」「雷神」はきはめて近い関係にあるものと信じられた。

 

天皇の統治したまへるわが日本國は、言葉の眞の意味において「平和國家」である。神武肇國の御精神・聖徳太子の十七条憲法・明治天皇御製を拝すれば、それは明らかである。また、歴代天皇は常に國家と國民の平安を祈られてきた。しかし、さうしたわが國の伝統は、「剣の心」「武」「軍」「戦ひ」を否定してゐるのではない。

 

「三種の神器」には、日本國體精神、日本天皇の国家統治の基本精神が表象されてゐる。「三種の神器」には、皇霊が宿ると信じられ、日本天皇の國家統治、言ひ換へれば日本民族の指導精神の象徴である。「三種の神器」は皇位の「みしるし」であり、歴代天皇は、御即位と共にこの神器を継承されてきた。

 

「鏡(八咫鏡・やたのかがみ)」は、「澄・祭祀・明らかなること・美意識・和御魂・太陽崇拝」の精神を表象し、「剣(草薙剣、くさなぎのつるぎ)」は、「武・軍事・たけきこと・克己心・荒御魂・鉄器文化」の精神を表象し、「玉(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)」は、「和・農業・妙なること・豊かさの精神・幸御魂・海洋文化」をそれぞれ表象してゐる承る。祭祀・軍事・農業を司りたまう天皇の御権能が「三種の神器」にそれぞれ表象されてゐるのである。

 

これらは別々の観念として傳えられてゐるのではなく、三位一體(三つのものが本質において一つのものであること。また、三者が(心を合わせて)一體になること)の観念である。日本國體精神、日本天皇の国家統治の基本精神には厳然として「武の精神」「剣の精神」が継承されてきてゐるのである。

 

現代日本は「生命尊重」のみで魂が死んでしまひ、頽廃と残虐の時代になった。「武」を否定し、「生命の尊重」が最高の道徳としされ、「平和と民主主義」を謳歌してゐる今日の日本において、戦前どころか有史以来見られなかった凶悪にして残虐なる犯罪、殺人事件が続発してゐる。

 

 三島由紀夫氏は、昭和四十五年十一月二十五日、市ヶ谷台状で自決された際の『檄文』で、「生命の尊重のみで、魂が死んでもよいのか」と訴へられた。まさに、現代日本は「生命尊重」のみで魂が死んでしまひ、頽廃と残虐の時代になってしまった。

 

 さらに三島氏は『檄文』において「軍の名を用ゐない軍として、日本人は魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されてきたのである」と訴へてゐる。

 

 魂の腐敗と國家の欺瞞は、「軍國主義國家」であったと言はれる戦前の日本にはあり得なかったやうな、「人命尊重」といふ言葉が空しくなる残虐なる殺人が日常茶飯事になった現代社會を現出させた。 

 

 國家を守るといふ「武の精神」「剣の精神」こそ、國民の道義精神の要である。武と國家、國防と道義は不離一体の関係にあるのである。今日の日本において、「武の精神」「剣の精神」を復興せしめねばならない。

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千駄木庵日乗七月十六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、原稿執筆・脱稿・送付。

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2017年7月16日 (日)

『水墨の風 ―長谷川等伯と雪舟』展参観記

本日参観した『水墨の風 ―長谷川等伯と雪舟』展は、「水墨画の魅力を、『風』をキーワードに迫ってゆきます。『風』は、『かぜ』と読めるのと同時に、『画風』『遺風』といった言葉からもわかるとおり、『流儀』や『様式』といった意味も含んでいます。日本における水墨の『風』を考える上で欠くことのできないのが、雪舟と長谷川等伯というふたりの画家です。雪舟は、当時の日本で重んじられた画法を学びながらもそれに飽き足らず、中国に渡って日本とは全く異なる本場の絵画動向に触れ、強い表現性を持つ水墨画を生み出すに至りました。そして等伯は、雪舟以後に大きな飛躍をとげた水墨画をさらに変革し、日本人の心性にかなった、情緒あふれる絵画表現にまで高めたのです。…伝統を基盤としながらも新たなる風を興したふたりの創作意欲の源に迫りつつ、さらに日本における水墨画がいかなる遺風にならい、いかなる新風を興したのかを、深く読み解いてゆきます」(案内書)との趣旨で開催された。

 

破墨山水図 画・雪舟 賛・景徐周麟 室町時代

松に鴉・柳に白鷺図屏風 長谷川等伯 桃山時代

四季花鳥図屏風(右隻)  能阿弥 応仁3年(1469

酔舞・猿曳図屏風 (左隻) 狩野尚信 江戸時代

四季柳図屏風 長谷川等伯 桃山時代

雪峯欲晴図 浦上玉堂 江戸時代 

平沙落雁図 牧谿 南宋時代

 

などを参観。

 

水墨画というのは、「墨」一色で表現される絵画である。筆の動きによる墨線・墨の濃淡で美しさを表現するというのだから大変難しいと思う。雪舟の「破墨山水図」は極めて筆の動きが極めて早く躍動感が感じられた。水墨画の特質を十分に表現した作品であった。

長谷川等伯の作品では水墨画ではないが、「四季柳図屏風」が良かった。金色の背景にそよ風に吹かれる緑の柳が描かれている。美しい作品であった。 

 

「雪峯欲晴図」などの浦上玉堂の作品も良かった。大きな作品ではないが、自然に対する慈しみの心が良く表現されていると思う。心洗われる絵画である。

 

水墨画というのは支那から禅と共に伝わったというから、水墨画を見ることは一種の宗教的に安穏の境地に導かれるということなのであろう。

 

全体的には花鳥風月、山水の景色を描いた作品がほとんどであった。ワンパターンの作品がやや多かったように思える。

 

近世以前は、電気の照明というものが無かったのだから、昼間は外光がさして来ることもあっただろうが、夜は蝋燭などの灯りなどで絵画など鑑賞したのであろう。現代の展覧会の照明とは全く違う雰囲気であったと思う。

 

山水画は、自然の美しさを実感し、心が洗われるような気分になれれば、良いのであう。私などは、描かれる絵画の世界に入って行きたくなる気分を起こさせる絵が良い作品だと思う。近代絵画では川合玉堂の絵がそうだと思う。起用参観した水墨画も玉堂の絵も、景色と共に人物が描かれているところが良い。自然の中に住む人間の幸福を思わせる。

また、そこで描かれている世界は写実ではない。言い換えると現実ではない。むしろ非現実の世界、理想の世界と言っていいだろう。だから鑑賞する者の心をする者の心を安穏たらしめるのである。

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千駄木庵日乗七月十五日

午前は、諸事。

午後は、丸の内の出光美術館で開催中の『水墨の風 長谷川等伯と雪舟』展参観。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事、資料の整理など。

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2017年7月15日 (土)

 『萬葉集』と「武の心・もののふの心・ますらをぶり」の回復

 

 『萬葉集』の中心の時代は、天武天皇の御代から、孝謙天皇の御代にかけてである。その時代は決して太平の世ではなかった。大化改新・壬申の乱といふ大変革・大建設の時代であり、支那朝鮮からの武力侵攻の危機もあった。「やまとうた・和歌」をはじめとした優れた文藝はさうした時代に生まれる。変革・建設・戦ひと「和歌」とは切っても切れない関係にある。

 

 今日のわが國も萬葉時代とまったく同じ内憂外患交々来たるといった危機的状況にある。それは逆に変革の時代でありさらなる発展の時代であるとも言へる。國家的危機を乗り越へ偉大なる変革を成し遂げた萬葉時代の日本民族精神に學び回帰すべきである。

 

 保田與重郎氏は、「わが國の歴史に於いてみても、國民思想の樹立の契機となる重大な問題は、壬申の亂を峠とする時代の國の人心と人倫の歸趨にある。…萬葉集に於ては、はるかに一般國民精神の動向を臣民に道に於てあまねくうつし、しかも最もよく國の倫理の大本を護持して、當時二百年前後にわたる海外文化の影響下の日本にあって、わが固有の文化の流れを傳へた歴史の精神が如何に己を持して動かなかったかを示す點で國の精神の重きを思はせて實に感謝に耐へないものがある」(『萬葉集の精神』)と論じてをられる。

 

『萬葉集』には大変革・大建設の時代の息吹きに満ち満ちた日本民族の精神が歌はれてゐる。『萬葉集』の中核精神は、國家の危急時に、わが國民が如何にして天皇を中心とする國體を守り、國民が神と天皇に仕へ奉ったかが表白されてゐる。歌の調べの美しさも、慟哭も、みなこの一点より解さねばならない。萬葉歌のみならず和歌を學ぶとは、和歌の道に傳はった日本傳統精神に回帰しそれを踏み行ふことなのである。

 

今日の日本において特に取り戻さなければならないのは萬葉時代以来の「武の心・もののふの心・ますらをぶり」である。

 

大東亜戦争敗北以後、「武の心・もののふの心・ますらをぶり」が否定され隠蔽され続けてきた。『現行占領憲法』の三原理のひとつに「平和主義」といふのがあるが、これは、「我が國は侵略戦争をした悪い國であった。ゆへに、日本及び日本國民は今後一切いかなることがあっても、武力・戦力・國軍は持たない、武力の行使はしない、戦争はしないことを決意する」といふ思想である。それは戦勝國による日本弱体化思想以外の何ものでもない。

 

國家を守る精神こそ、國民の道義精神の要の一つである。國防と道義は不離一体の関係にある。「國民」は、運命共同体であるところの國家を生命を賭けて守る使命感があってこそ、「國民」である。

 

崇高なる道義精神である「國家を生命を賭けて守る使命感・義務観念」を喪失し、利己主義・利益至上主義に陥り、自分さへよければ他人はどうなってもいいといふ考へ方に陥ってゐる現代の青少年によって、凶悪無比なる犯罪が繰返されてゐる。軍と武を否定した「平和と民主主義の國・戦後日本」には、眞の平和も、眞の道義も希薄になってゐるのである。 

 

平和の前提は、國家の独立・民族の自立である。國家の独立を維持し、民族の自立を守り、平和を維持し實現するために國防力・軍事力が不可欠である。そしてその根幹として、日本國民一人一人が「武の心・もののふの心・ますらをぶり」の回復がなければならない。 

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千駄木庵日乗七月十四日

午前は、諸事。

午後は、北区にある菩提寺参詣。四宮家の墓を掃苔。ご先祖の御霊にご冥福とご加護を祈る。

帰宅後は、資料の整理。

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2017年7月14日 (金)

日本人の神観念と現御神信仰

 「かみ(神)」の「カ」は接頭語であり、「ミ」は語根である。「ミ」は漢字で「實」「身」と書かれるやうに、中身・實在そのもの・力のある存在・無形のカオス(天地創造以前の世界の状態。混沌)・靈威ある存在のこと。神は「上」の方にゐる存在だから「カミ」といふとの説は國語學的には誤りであるとされる。

 

 神には、自然神・呪物神・人格神・祖神がある。日本の神々は、自然神と祖靈神とに大きく別けられる。この両方の性格を具備してをられる神が天照皇大御神であらせられる。天照皇大御神は、太陽神といふ自然神であると共に皇室の御祖先神であらせられる。

 

 日本の神々とは何か強い力を持ってゐる存在をいふのであって、必ずしも完全円満な存在ではない。まして唯一絶対無謬神ではない。 

 

 「神」の枕詞は「千早振る」である。「チ」とは靈のこと。「ハヤ」は「疾風(はやて)の如く」といふやうに激しい状況。「フル」は震へるといふ意。だから「千早振る」とは、神靈が激しく震へるといふ意である。また「フル」は體に触れる・密着するといふ意味もある。 

 

 折口信夫氏は、「いつ(靈の権威・力)といふ語は、音韻変化してウチとも又イチともなります。ちはやぶるといふ枕詞は、いちはやぶる・うちはやぶるなどといふ語の第一音の脱落した形です。古事記の倭建命の東征の條にも、『うちはやぶる人』といふ語が出て來ます。亂暴する人といふことです。はやぶるといふのがその意味で、威力ある靈魂が暴威を發揮することがちはやぶるです。…神の中に暴威を振ふ神が多い。…さういふ觀念から、枕詞として、ちはやぶるが出來ました。」(『神々と民俗』)と論じてゐる。

 

 日本伝統信仰の「神」とは、人知では計り知れない靈妙なる存在のことである。日本人は古代より、祭祀や祈りの対象とされるかしこき存在を「神(かみ)」と言ったと思はれる。

 

 漢字の「神」は象形文字である。偏の「示」(しめすへん)は神に捧げる物を置く台を意味する。旁の「申」(しん)は、音を表すと共に、稲妻の形をかたどってゐる。雷様の光とそれに物を捧げる台を合せた意味が「神」といふ漢字の原義である。つまり支那古代においては、「神」とは雷のことだったのである。(加藤常賢先生著『字源辞典』)

 

 わが日本においても、神は雷と深い関係にある。雷は雷神として崇められ恐れ荷れている。今でこそ、雷とは、雲と雲との間、または雲と地表との間に起こる放電現象である事は分かってゐるが、古代人はそのやうな事は分からない。一天にはかにかき曇り、突然大きな音を伴って空から落ちて来る恐ろしい光であり人間がそれに当たれば焼き殺されてしまふし、樹木も裂ける、といふ事で大変恐れられた。「地震・雷・火事・親爺」といふ言葉もある。 

 

 と共に、雷は豊作の予兆でもあった。雷の光は龍神でもあり水の神でもあった。刀の神でもあった。刀剣は抜いて振り回すと光を放つ。その姿は雷に似てゐる。

 

 須佐之男命が出雲で八股の大蛇を退治した時、尻尾から出てきたのが草薙の劔である。龍と大蛇は近い関係にある。「くしなだ姫」は稲を象徴し、「八股の大蛇」は出雲を流れる樋井川を象徴してゐるといふ。つまり、樋井川が氾濫して田んぼが流されてしまふ事を象徴する神話であり、須佐之男命は川の氾濫をなくす働きをされた神であり、治水工事を行ひ豊作をもたらした行った豊饒神といふ事である。これが須佐之男命の八股の大蛇退治の神話の解釈である。

 

尻尾から刀が出てきたのは、洪水の時は雷が発生するといふ事を象徴してゐるといふ。雷神は非常に恐れられたと共に豊饒の神でもあった。日本の神は善と悪が混淆し恐ろしい面とやさしい面の両面がある神が多い。それは雷神だけではない。

 

 須佐之男命は、高天原では反逆した神である。しかし地上に降りて来られたら、豊饒神となられた。 

 

 菅原道真は雷神として崇められてゐる。最初は祟りの神であったが、後に學問の神となられた。日本の神はこのやうに非常におもしろい。決して一面的ではない。自由でおほらかな神々である。多面的であり自由であり幅が広く奥行が深い。

『萬葉集』には柿本人麿の次の歌が収められてゐる。

 

「天皇、雷岳(いかづちのをか)に御遊(いでまし)し時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌

         

大君は神にしませば天雲(あまぐも)の雷(いかづち)の上(うへ)にいほらせるかも」

 

 通釈は、「天皇は神様でゐらっしゃいますから、天雲の雷の丘にいほりを造ってをられるなあ」といふ意。

 

「大君は神にしませば…」と歌ひあげてゐるのは、天津神の「生みの御子」であられ、現御神であられる日本天皇は、山の神、雷の神をも支配されるといふ信仰を歌ひあげてゐるのである。

 

この歌は、天皇が山の神も天雲も支配される霊的権能(これを御稜威といふ)をお持ちであるから、雷神が住む丘の上にいほりをむすばれることができるのだといふことを歌ってゐる。

 

 このやうな現御神信仰・國體観念が白鳳時代の日本國の強靭なる体質を培ったのである。これは柿本人麻呂個人の信仰ではなく、日本民族全体の信仰であった。「大君は神にしませば」は古代日本人共通の天皇信仰の表現であったのである。

 

しかし、この歌には祭り事をされてゐる天皇のお姿を人麻呂らしく壮大なイメージで歌ってをり、詩的レベルは高いと評価されてゐる。

 

現御神の御資格において山の神・雷神を従へてゐる天皇のお姿を篤い信仰精神で高らかに歌った荘厳な調べの歌である。山の上から天空にまで広がる大いなる歌である。

 

雷の丘などの神聖なる神奈備山は、神の来臨する山であり、天上の世界への通路・天に通じる柱であると信じられてゐる。そこにおいて天皇が神人合一の行事である祭り事をされてをられる神々しさを、人麻呂は感激をもって歌ったのである。

 

わが國は今日においても、神話の世界のままに、天の神の祭り主の神聖なる御資格を受け継ぎ給ふ天皇を、現実の國家君主と仰ぎ奉り、國家と民族の統一の中心として仰いでゐる。わが國が様々な変化や混乱などを経験しつつも國が滅びることなく統一を保ち続けたのは、天皇といふ神聖権威を中心とする共同体精神があったからである。日本國は太古以来の傳統を保持する世界で最も保守的な國でありながら、激しい変革を繰り返して来た國である。その不動の核が神聖君主日本天皇である。

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千駄木庵日乗七月十三日

午前は、諸事。

午後からは、在まして、資料の整理など。

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2017年7月13日 (木)

この頃詠みし歌

忙しなく日々を過ごせど日に二回神仏の前に座するかしこさ

 

鬱蒼と茂れる樹木の中に立つ御堂にゐます尊き御仏

 

今日もまた靖國神社に多くの人が参り来れり梅雨空の下

 

書を讀みつつ夜を過ごせば入り来し虫が頭にとまりゐるなり

 

わが母校の体育館で投票を終へて眺める校歌の掲示

 

久しぶりに来たりし母校で口ずさむ校歌の歌詞の懐かしきかな

 

幼き日に覚えし校歌 七十歳となりても忘れずに口ずさみゐる

 

投票日の夜空の半月 朧なるその姿にぞ心休まる

 

都にぞ住みゐる我はこの何年蛙の声を聞きしことなし

 

部屋の中を飛び回りゐし虫一匹 朝が来たればむくろとなりぬ

 

ただただに一人の世界にひたるべし人多く乗りし地下鉄車内

 

眼つむりて静かなる心にならんとす地下走り行く電車の中で

 

神々しき光放ちて冴えかえるまんまる月を仰ぎ見るかな

 

憂きことを忘れんとして仰ぎ見るまんまる月はさやかなりけり

 

炎天の昼間は過ぎて夜の空に冴えかえるなるまんまるの月

 

朱色なる光りを放つ満月はスカイツリーの横にくっきりと浮かぶ

 

シャワー浴び身を清めたる後にして神棚拝ろがむ時清々し

 

母子二人われを見送る夕つ方 とこしなへに幸多かれと祈る

 

為すべき事為し終へし後のくつろぎに一本の煙草吸ひにけるかも

 

今日もまた為すべき事を為し終へて眠らんとすることの嬉しさ

 

常にして我を守らす神仏に手を合はせたり就寝の前

 

もののふの道を論ずる時あれど剣太刀をば振りしことなし

 

わが父より与へられたる木刀は昭和一新刀と名付けられをり  

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千駄木庵日乗七月十二日

午前は、諸事。

午後は、本日行う『萬葉集』講義の準備。

午後六時半より、駒込地域文化創造館にて、「萬葉古代史研究会」開催。小生が山上憶良の歌を講義。質疑応答。終了後、出席者の方々と懇談。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆・脱稿・送付。

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2017年7月12日 (水)

萬葉古代史研究會 のお知らせ

萬葉古代史研究會

 

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

 

日時 七月十二日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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「言霊のさきはふ國」日本

日本民族は、言葉を神聖視してきた。日本人は、萬物は言葉=神によって成ってゐると信じた。即ち言葉が事物の本質であるといふことを本然的に信じてゐた。

 

日本の國は、「言霊の幸はふ國」といはれる。日本は、言葉の霊が栄える国であり、言葉の霊の力によって生命が豊かに栄える国である、といふ意味である。日本人は、言葉に霊が宿ると信じ、言葉には生命を持ち、言葉を唱へることによってその霊の力が発揮されると信じた。

 

『御託宣』『神示』は神霊が籠り神威が表白された言葉である。『祝詞』は人間が神への訴へかけた言葉であり、『歌』も人間の魂の他者への訴へである。祝詞にも歌にも霊が込められてゐる。祝詞を唱へ歌を歌ふと、そこに宿る言霊が発動し偉大なる力を発揮すると日本人は信じた。神・人・天地自然にまでその力が及ぶのである。これが「言霊の幸はふ」といふことである。日本文藝の起源はここにある。

 

日本の古代信仰のみならずあらゆる宗教は、神や仏に対して祈りを捧げたり経典を読誦したり、題目や称名念仏など特定の言葉を唱へることが基本的行事である。

 

折口信夫氏は、「(言霊信仰とは)古くから傳っている言葉の持ってゐる霊力・魂というものを考へてゐるのであり、それが言霊、つまり言語の精霊である。祝詞には勿論これがあると信じてゐた。…言葉そのものに威力・霊魂があると考へた。それが言霊である。それは唱辭(トナヘゴト)以外、…抒情詩其他のものゝ上に皆あると信じたのである。古い物語を語るとその内の霊魂が動き出す、歌を歌ひかけると、その歌のうちにひそんでゐる霊魂が働きかけると信じてゐたのである。」(『古代人の信仰』)と論じてゐる。

 

「言霊のさきはふ國」といはれるわが國においては、祝詞や歌は何よりも大切な神への捧げものとされた。日本文藝の起源は、神への訴へかけである。やまとうた・和歌は神聖な文藝であると考へられてゐた。神に対してだけでなく、恋人や親や死者など他者に対する何事かを訴へかけが、日本文藝の起源である。

 

他者に対して何事かを訴へるものが「歌」であり、何事かを語りかけるものが「物語」である。「うた」の語源は、神様に何事かを「訴へる」といふところから来てゐる。神に自分の心・神への願ひ事を訴へることが歌の起源である。

 

日本では太古から、天地自然の奥に生きてをられる天地の神に、五穀の豊饒や民の幸福を祈るまつりごとが行はれてゐた。そのまつりごとにおいて祭り主が神憑りの状態で「となへごと」が発した。神憑りの状態から発せられた「となへごと」が度々繰り返された結果、一定の形をとるやうになったのが祝詞である。それが「やまとうた」(和歌)の起源である。

 

祭祀における「となへごと」は「やまとうた」のみならずわが國の文藝全体の起源である。「やまとうた」はまつりごとから発生したのである。日本人の言霊信仰が歌などの日本文藝を生んだといへる。

 

「敷島の日本(やまと)の國は言霊のさきはふ國ぞまさきくありこそ (敷島の大和の國は言霊の力によって、幸福がもたらされてゐる国です。どうか栄えて下さい、といふほどの意)」

 

これは、『萬葉集』柿本人麻呂歌集に収められてゐる歌である。この歌は言霊の霊力が発揮されて、人の幸福が実現することを祈り予祝した歌である。

 

山上憶良の「好去好来(かうこかうらい)歌」(遣唐使の出発に当たってその無事を祈り祝福した歌)には、

 

「神代より 言ひ傳(つ)て来らく そらみつ 大和の国は 皇神(すめがみ)の 嚴(いつく)しき國 言霊の 幸はふ國と 語り繼ぎ 言ひ繼がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり…。(神代以来言い伝えられて来たことですが、そらみつ大和の國は皇神の威徳が厳然としてゐる國であり、言霊が幸をもたらす国であると、語り継ぎ、言ひ継いでき来ました。それは今の世の人もことごとく目の当たりに見て知っゐます…、といふほどの意)」

 

と歌はれてゐる。この憶良の歌について保田與重郎氏は、「憶良は、實は専ら儒佛の思想を喜んだ人で、その方では當時の代表的な文人であるが、その人が歌った歌の中に、言霊の幸ふ國を云ひこれを今の目のまへに見たと歌ひ、聞いたと云うてゐるのは、却って、かういふ傾向の人の言葉だけに、尊い道のありさまを云ふものである。…萬葉集のありがたさは、かういふ道のありさまを示してゐるところにある。」(『言霊私観』)と論じてゐる。 

古代日本人は、言葉の大切さ、偉大さを本然的に強く自覚し信じ、言葉の霊力によって、幸福がもたらされてゐる国が大和の国であると信じてゐたことが、この二首の歌によって理解できる。

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2017年7月11日 (火)

千駄木庵日乗七月十一日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆。明日行われる『萬葉古代史研究会』における講義の準備など。

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『占領憲法』について

戦後日本は「国民主権」「人命尊重」「人権擁護」「平和」を絶対的価値、最高の目標としてきた。それは『現行占領憲法』の基本原理となっている。しかし、戦後七十二年を経過して、人権が侵害され、人命が軽視され、国民の平和が侵される残虐無比の事件が日常茶飯事になるというまったく逆の結果を生み出した。

 

「人権擁護」とか「人命尊重」とか「平和」とかがいくら麗々しく憲法の原理として書かれていても、それは空念仏にすぎなかった。むしろそういう原理に基づく戦後教育は、自分さえよければ良いという観念を養い、他人や国のために尽くす、親に孝養を尽くすという人倫の根本を忘却せしめた。そして、己の権利のみを主張する精神が横溢した。こうしたことが今日の日本を作り出した。

 

今日の日本を混迷に陥れている根本原因である『現行占領憲法』の「国民主権」という國體破壊思想、「恒久平和主義」といふ名の侵略誘発の敗北思想、「基本的人権の尊重」という欲望民主主義・利己思想という三原理に要約される「戦後精神」を徹底的に祓い清めなければならない。日本國の根幹を揺るがせ、日本国民の道義心を低下せしめている『現行憲法』の三原理を肯定したままで一部の条項を変えるだけの「改憲」では駄目である。

 

戦勝國によって押し付けられた理念であり、わが國の國體と合致せず、戦勝國に対する敗戦国日本の詫び証文である現行占領憲法前文に書かれた「三原則」を訂正しないのでは、憲法改正でも自主憲法制定でもない。「現行占領憲法」の「三原理」を継承しつつ憲法改正が行われると、日本を混迷に陥れた「三原則」が戦勝国の押し付けではなく、國民の意志によってこれを憲法理念とすることとなる。まさに亡國のはじまりである。

 

今日、「現行憲法」の「三原理」が「不磨の大典」のように論じられている。近年各方面から出された「改憲草案」はそのほとんどが「現行憲法」の「三原理」を継承している。

しかし、「現行憲法」の「主権在民論」こそ、日本の國體を隠蔽し破壊する元凶である。「現行憲法」の「平和主義」こそ、日本の国防体制確立を阻害し日本国をして他国の属国たらしめる元凶である。「現行憲法」の道義精神不在の「人権論」こそ、国民の頽廃の元凶である。「現行憲法三原理」の否定なくして「憲法改正」にも「自主憲法制定」にもならない。

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千駄木庵日乗七月十日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。『政治文化情報』の原稿執筆。

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「第七十五回 日本の心を学ぶ会」のお知らせ

第七十五回 日本の心を学ぶ会 

 テーマ 「國體明徴」「國體護持」とは如何なることなのか

我々運動者が國體を学ぶ事は大切です。國體に関しては先人による多くの研究が重ねられ、文献も数多くあります。そしてそれらの文献は専門用語も多く用いられ且つ、古文で書かれた難解なものも多く、全て正しく理解し体得するのは大変な努力が必要であります。

戦後教育においては、國體・国史について十分な教育が行われてきませんでした。学校教育では考古学を教えることはあっても日本神話を教育する機会も少ないようです。それゆえ日本國體を正しく理解している人はすくないと言われています。

戦前においても、日清・日露戦争、大正デモクラシー、昭和維新運動、満州事変、支那事変、大東亜戦争などと外患内憂の未曾有の国難の中で、國體についても色々な解釈や考え方が生まれました。

そして、敗戦後の日本は、「共産主義革命史観」「自虐史観」が横行し、「國體」という言葉すら忘れ去った人、無視する人が多くなりました。維新実現・戦後体制打倒とは、日本國體を明らかにする一大変革であります。

そこで、我々は、悠久の歴史を有する揺ぎ無い日本國體についてあらためて学びたいと思います。そして國體明徴・國體護持とは一体いかなることなのかを正しく把握をしたいと思います。

皆様のご参加をお待ちしています。

※ 今回の開場は、文京シビックセンター5階です。

【日 時】平成29730日 午後6時15分開場・開会

【会場】文京区シビックセンター5階 区民会議室AB

文京区春日一-一六-二一 東京メトロ後楽園駅・丸の内線(4a・5番出口)南北線(5番出口)徒歩一分、都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩一分、JR総武線水道橋駅(東口)徒歩九分

【講 演】

 

第一部

講演 神州不滅たるの確信を ~國體観念の動揺を糺す~

講師 河原博史氏 同血社会長

 

 第二部

 講演 天皇の御本質と日本國體

 講師 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

 

【司會者】林大悟

【参加費】資料代五〇〇円終了後、近隣で懇親會(二千円くらいの予定です)

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

この告知文は主催者が作成したものです。

 

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2017年7月10日 (月)

「教育勅語」失効決議について

 

昭和二十三年六月十九日に、日本弱体化・伝統抹殺を目的としたアメリカ占領軍総司令部の隷従下にあった衆議院と参議院で『教育勅語』の「排除」と「失効」を議決した。

 

 民進党は本年四月四日の衆院議院運営委員会理事会で、「『教育勅語』の教材活用を否定しない」とした政府答弁書に対し、反発をし、「教育勅語」の「排除」や「失効」を確認した昭和二十三年の「衆参両院決議」に「大きく反する」と抗議した。

 

昭和二十三年六月十九日に衆議院で行はれた「教育勅語等排除に関する決議」には以下のやうなことが書かれてゐる。「これらの詔勅(注・教育勅語並びに陸海軍軍人に賜わりたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅)の根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すものとなる。よって憲法第98条の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。右決議する」。

 

まず以て指摘しなければならないのは、日本国は君民一体の国柄であり、天皇は権力者ではあらせられない。「主権が天皇にあるとか国民にあるとかの観念は建国以来存在しないのである。だから、『大日本帝国憲法』には「主権在君」即ち「主権は天皇にある」などといふことは一言半句書かれてゐない。それがまさにわが国の「神話的国体観」なのである。日本は建国以来、天皇を祭祀主・君主と仰ぐ信仰共同体国家・祭祀国家なのである。祭祀主としての天皇の神聖なる権威が日本國家の安定と統一の基礎である。日本國體は世界の誇るべきものであり、「基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残す」ものなどでは微塵もないのである。

 

 政治機構としての國家は法律と権力によって運営される。しかし、その根本に傳統信仰を基礎とした祭祀國家がある。その祭祀主・君主が天皇であらせられるのである。

 

 現実の國家はそれを構成する國民の私欲の追求によって悲惨な闘争が起こる。それを可能な限り抑制するのは、私欲を超越した無私という倫理性を体現する存在である。わが國においては天皇がさうした御存在である。

 

 肇國以来今日に至るまでわが國の歴史を貫き、将来にも継続する無私の御存在・倫理的存在が天皇であらせられる。

 

 天皇は、倫理道義の鏡として祭祀主として君臨されてゐる。決して権力や武力によって國を支配してゐるのではない。権力や武力によって國を支配されるのではないということが、日本天皇の國家統治の御本質である。だから、「国民主権」「君主主権」といふ思想がわが国には本来ないのである。

 

新渡戸稲造氏がその名著『武士道』において、「我々にとりて天皇は、法律國家の警察の長ではなく、文化國家の保護者(パトロン)でもなく、地上において肉身をもちたもう天の代表者であり、天の力と仁愛とを御一身に兼備したもうのである」と論じてゐる通りである。

 

 ただし、天皇は、権力や武力の暴走、言ひ換へると権力者の私欲による権力と武力の行使を制限し抑制される権威をお持ちになる。中世・近世・近代を通じて武家権力や軍に対してさういふおはたらきをされて来た。 

 

『現行占領憲法』第九十八条には「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と書かれてゐる。

 

建国以来、上御一人が発せられた「詔勅」を否定してゐると解釈できる。これが昭和二十三年の衆参両院における「教育勅語」に関する決議の背景にあるのである。

 

現代は恥と卑怯という感覚が少なくなってゐる。地べたに座って物を食べ、電車の中で化粧をする。何故このやうになったのか、それは『教育勅語』に示された日本の伝統的倫理精神を否定した戦後教育がその原因の一つである。

 

今日何よりも必要なのは、押し付けられた「戦後民主主義」を根底から否定し、わが国の伝統精神を回復し、天皇を敬ひ、国を愛し、神仏を尊び、先祖及び護国の忠霊を敬ひ、親や家族を大事にする心を取り戻すことである。

失効にすべきは、『現行占領憲法』であり、『教育勅語』に関する衆参両院決議である。

 

 

 

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千駄木庵日乗七月九日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆。

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2017年7月 9日 (日)

日本民族の道徳的規範

 

明治天皇は、欧化の風、知育偏重の教育を憂いたまい、『教育勅語』を渙発あそばされた。 

 

『教育勅語』には、「…我カ臣民、克ク忠ニ克ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ、世世厥ノ美ヲ濟セルハ、此レ我カ國體ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」と示されている。

 

 親は、子に生命を与えてくださった方である。そしてその生命は溯っては祖先、くだっては子孫へと続いている。生命の連続とは単に肉体と血液の連続ということではない。慈愛の継承であり、心のつながりである。

 

 人間が共同生活をしていくには倫理・道義がなくてはならない。人間生活には倫理が常に働いている。人間は、洋の東西、時の今昔を問わず、人間が道徳的規範にしたがって理想を設定し、それに向かって一歩一歩進んでいくことが正しき生き方であり生活である、と信じている。今日及び将来においてもそのことに変わりはないし変わってはならない。

 

 その道徳的規範とは一体何か。それはわが民族においては古代から今日に至るので綿々と継承されてきた「尊皇」「敬神」「忠孝」という倫理観念である。

 

 倫理・道徳は世界的に共通する普遍的なものであるが、道徳的規範の現れ方は各民族・各國の文化によって異なる。

 

 わが國の傳統的倫理精神は、日本民族の暮らしの中から自然に生まれてきたものである。日本民族の暮らしとは、天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体の農耕生活である。生活の中から生まれた自然な道徳観が尊皇敬神の心なのである。

 

 祭祀主であらせられる日本天皇は、日本の傳統文化・傳統的倫理精神の継承者であらせられる。そして御歴代の天皇は常に民を思い、民の幸福を祈られてきた。

 

 ゆえに、建國以来日本國の祭祀主として君臨してきた天皇及び御皇室を尊崇する心即ち尊皇の精神が、わが國倫理精神の基本である。

 

神人合一が日本人の理想であり、祭祀は神人合一の行事である。神に真心を込めてお仕え申し上げることが「祭りの心」である。神と人間が心と行動において一体となること即ち神人合一が日本人の理想である。祭りとは神人合一の行事である。

 

『神社本庁敬神生活綱領』には、「世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと」とある。神と天皇に仕える心即ち自分たちの生活そのものを神の心を実現していくという生活が、わが國の理想的な倫理観念である。

 

 「みこともち」とは、神そして神への祭り主であらせられる天皇の御言葉・御命令を持しそれを地上において実現することである。それが日本民族の倫理精神の基本である。

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千駄木庵日乗七月八日

午前は、諸事。

午後二時より、内幸町の日本プレスセンターにて、『アジア問題懇話会』開催。武貞英士拓殖大学大学院教授が「朝鮮半島情勢を読む」と題して講演。質疑応答。

午後五時より、団子坂下にて、友人と懇談。意見交換。

帰宅後は、書状執筆。原稿執筆。

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2017年7月 8日 (土)

雄略天皇御製に歌はれた國體精神

 

泊瀬朝倉宮御宇天皇代(はつせのあさくらのみやにあめのしたしろしめしし すめらみことのみよ)

 

天皇御製歌(すめらみことのよみませるおほみうた)

 

籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この丘に 菜摘ます兒 家聞かな 名告らさね そらみつ やまとの國は おしなべて 吾こそをれ しきなべて 吾こそませ 我こそは 告らめ 家をも名をも

〈通釈〉「籠よ。籠よ。その籠やふぐしを持って、菜を摘んでおいでの娘よ。家をおっしゃい。名をおっしゃい。この大和の國は、この私がすっかり従へてゐる。この私が治め従へてゐるのです。私から先に言はうよ。私の家も、それから名も。この上はお前も、家をおっしゃい。名をおっしゃい。」

 

第二十一代・雄略天皇は、允恭天皇の第五皇子。治世二十三年。「倭五王」(宋書倭国伝)の「武」に比定される。

 

「泊瀬朝倉宮」は、雄略天皇の宮廷の御名。奈良県桜井市。桜井から初瀬に出る道の中間辺りの、初瀬川に沿った山峡の平地である。泊瀬峡谷の朝倉の地にあった御所の名。冬暖かく夏涼しい豊かな丘の上に宮殿があったといふ。三輪山の東、初瀬山の西南である。

 

この御製は、雄略天皇が御遊行された時に、地方の娘につまどひ=求婚されたお歌である。

 

では何故「相聞歌」に分類されず、「雑歌」に入ってゐるのであらうか。『萬葉集』が、天皇國日本を讃嘆し、天皇の御世が永遠に続くことを寿ぐための歌集であるからである。

 

保田與重郎氏は、「萬葉集開巻第一に、雄略天皇の御製を掲げ奉ったのは、當時の國民的な歴史觀をふまへて、己自らの志を示されたものである。…雄略天皇は國のうちで偉大な御稜威を發揮されたばかりか、當時の國際的にも有力な帝王として畏怖されてをられた。上古の世界觀念から見て、劃期の時代がこの天皇の御代であった。」「文藝の中でも詩歌は、感情の直接に流露したもので、人のした行爲を語ったり、記録されたものの中では、最も直接的で、飾り氣なく、正しく、その作者の真實の傳へられるものである。かつ古の詩歌は、人の口から口へ傳へられたゆゑに、人を感動させぬ詩歌は、たやすく忘れられるのである。雄略天皇は優れて天真爛漫の御詩人であらせられた。」(『萬葉集名歌選釋』)と論じてゐる。

 

この御製で注目しなければならないのは、天皇が「摘ます」と仰せになってゐることである。「摘ます」は、摘むの敬語である。民の娘に対して敬語が使はれたのは、古代は農業の労働が重んじられたから、その労働に従事をする人をいたはり、ねぎらふ気持ちでいはれたからである。農業は神聖な労働とされてゐたから、天子様も相手を尊んだ物言ひをされた。

 

古代日本の女性たちは、豪族・貴族の娘でも、後世のやうに奥深くこもってゐたのではなく、野遊びに出た趣がある上、時を限って貴賎の区別なく、共同労役をしたこともあるから、菜を摘んでゐても、庶民の娘とは決められない。かういふ折にこそ、平生見ることのできない豪族や貴族の娘を見ることができたのかも知れない。山野で菜を摘んでゐるから庶民の娘だと考へるのは、近代的考へである。

 

天子の御製の中に登場するのだから、神聖なる娘か豪族の娘といふ可能性もあると。天子が、地方の豪族の娘あるいは地方の巫女と結婚されると、その豪族の支配する地方國の威力の中心たる神すなはち國津神・國魂を天子が迎へることとなり、天子の國家統治の範囲が広がり強くなったといふ。

 

「名告らさね」のサネのサは敬相をつくる語尾。ネは命令・希望の意を表す接尾語。

言靈信仰の盛んであった時代には、人の「名」も人格の一部と考へてゐた。ある人の「名」を知ることは、その人の全人格生命を左右する力を得た。何処の家の何といふ「名」の人かを知らうとすることは、相手を自分の思ふ通りにしやうとすることであった。

 

だから、他人に「名」を知られるのを忌んだ。他人として女の「名」を知る者は、夫に限られた。「名」を知られた場合には、その人を夫としなければならない風習が、「名乗り」の根本思想である。だから、「名」のみならず、その娘がどこの家の娘かも容易に明かさなかった。戦場で武士が名乗りをあげるのも重要な風習であった。

 

他人に「名」が知られた時には、その知った人には許婚しなければならなかった。男性は結婚の承諾を得るには、相手の女性の「名」を問ひ出す必要があった。「名」を聞くことが結婚の成立であった。

 

「やまと」は、この御製歌の場合は、一國の地名といふよりも、天皇の統治してゐる範囲の意のことだとされる。古来、『大和』とは色々な意味がこめられてきた。大和地方の中原の高市、山辺、磯城、十市郡辺りを指すことから発展して、北の平原(いまの奈良市付近)さらに、吉野を含めるやうになり、畿内(畿内とは、朝廷のあった主都周辺の四ないし五か國の総称。また、その範囲内に属する地。五か國の場合は、山城(京都府)、大和(奈良県)、河内(大阪府)、和泉(大阪府)、摂津(大阪府と兵庫県の一部)。うちつくに。五畿内。)一帯をいふやうになったといふ。さらに、日本國全體を指すやうになった。

 

天地自然の悠久の風景を背景とした素朴・放胆な表現が、純粋な古代天子の御性格を明らかに見せてゐる。雄略天皇の御自覚、天皇の國家統治者としての御本質が、のびやかに宣言されてゐる。古代國家建設のためにあらぶる力を発揮された雄略天皇の御製は、雄大な劇的背景を持ちつつ広々とした歌の調べを持ってゐる。

 

この歌をくり返し口ずさんでみると、御製の大らかな味はひは素晴らしいものがある。権力者の強がりは微塵も感じられない。何といふ牧歌的なしらべであらう。

 

この御製の意義は、第一に、「やまとの國は おしなべて 吾こそをれ しきなべて 吾こそませ 」と、日本國は天皇國であることが高らかに歌はれてゐることである。

 

第二に、農耕生活が神聖なるものであることが歌はれてゐることである。『萬葉集』はその冒頭に、天皇國日本の本質を歌ひあげた天皇御製が収められたのである。

 

雄略天皇の御製から始まり、大伴家持の賀歌を以て終る『萬葉集』は、天皇の御代を讃へる歌集であるとともに、わが國の永遠の栄えを祈る歌集である。實におめでたい歌集である。

 

しかし、『萬葉集』は平穏無事の時代に編纂されたのではない。大化改新・壬申の乱・白村江の戦ひなど、大変革・大建設・大動乱の時代にあって日本の國の理想・國體の本姿を語り伝へるために編纂された。『萬葉集』は、日本が様々苦難を経ながら天皇中心の統一國家體制を確立した時期の天下萬民の歌を集めた歌集である。そして、天皇國日本の中核精神があますところなく表白されてゐる。

 

折口信夫氏は、「萬葉集といふ命名が、褒めことばであることを強調しておきたい…其は書物の生命を祝福する意味ばかりでなく、主上の生命の長く久しきことを祝福するものと考へられる…。萬葉集の歌は、…天子・皇居の長久であること祝した詞章、或は其等が発達して文學的に洗煉せられたものである」(全集十二巻)と論じてゐる。

 

 高崎正秀氏は、「萬葉といふことが、そもそも聖寿萬歳を祝福する歌集の謂ひであった。巻第一を雄略天皇、巻第二を磐姫皇后お二方の鎮魂歌にはじまり、家持の神賀詞代の短歌ー賀歌(新しき年の始めの初春の…)を以て結ばれる萬葉集第二〇巻は──そういう意図の下に編纂された。…萬葉集は舒明・皇極斉明両帝に出づる天智・天武両皇統を中心として…聖壽礼讃の呪言──賀歌の堆積といふ形をしてゐる。」(全集二巻)と論じてゐる。

 

この時代は大きな危機に遭遇したが、反面、明るく大らかで溌剌とした日本國家勃興の時期であり、造型・建築など多くの文化・芸術が開花した時代である。そして支那からの影響を受けつつも日本独自の政治・文化を闡明しやうとした日本ナショナリズムの勃興期であった。國家の大変革とその後の大興隆期において、『萬葉集』全二十巻という日本最大の古典が誕生した。

 

今日、わが國は政治の混乱・道義の頽廃・外圧の危機が顕著になり日本國民の心の中に不安と空虚感が広まってゐる。歴史と傅統の國日本は、崩壊しつつあると言っても過言ではない。

 

終戦後、わが國に対する精神の奥底に達する破壊行為が、昭和二十年から六年八ヵ月の占領期間に行はれた。大東亜戦争後の戦勝國による日本弱體化策謀が敗戦後五十二年を閲して愈々その成果があがり花開き實を結んでゐるのである。

日本民族の共通の信仰・文化・傅統を體現される御方が〈祭り主日本天皇〉であらせられる。わが國において、民族的一體感・國民的同一性の中心は天皇以外にあり得ない。皇室問題・國防問題・外交問題・教育問題など、萬葉時代と同様あるいはそれ以上の激動と危機の時期にある今日においてこそ、『記紀』に語られ『萬葉集』に歌はれた日本國體精神に回帰し、それを現代において開顕せしめることが大切である。それこそが、現代の危機打開の最高の方策である。

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千駄木庵日乗七月七日

午前は、諸事。

昼は、若き友お二人と懇談、意見交換。

こと後、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆の準備など。

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2017年7月 6日 (木)

千駄木庵日乗七月六日

午前は、諸事。

午後三時より、永田町の衆議院第二議員会館にて、長島昭久衆議院議員にインタビュー。『伝統と革新』に掲載のためなり。民進党離島の決意と今後の抱負、そして憲法問題などについてお話を伺う。お元気であった。

帰宅後は、原稿執筆など。

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『フランス絵画の宝庫 ランス美術館展』を参観して

六月二十三日に参観した西新宿の損保ジャパン日本興亜美術館にて開催された『フランス絵画の宝庫 ランス美術館展』は、フランス北東部シャンパーニュ地方にある、ランス美術館のコレクションをご紹介する展覧会です。ランス美術館は、歴代のフランス国王が戴冠式を行った大聖堂で知られる古都ランス市に位置し、初期ルネサンスから現代まで、幅広いコレクションを有しています。本展覧会はランス美術館の所蔵作品から、17世紀から20世紀まで、選び抜かれた作品約70点を展示、華麗なるフランス絵画の歴史をたどります。また、ランス市に縁の深い日本出身の画家レオナール・フジタ(藤田嗣治)の作品群も併せて展示します」との趣旨(案内書)で開催された。

レオナール・フジタ《聖母マリア》《『平和の聖母礼拝堂』フレスコ画のための素描》 

作者不明(フランス)《ルイ15世の娘、アデライード夫人の肖像(と思われる)》

ジャック=ルイ・ダヴィッド《マラーの死》

ウジェーヌ・ドラクロア《ボロニウスの亡骸を前にするハムレット》

ポール・ゴーギャン《バラと彫像》《アリスカンの並木道》

カミ―ユ・ピサロ《オペラ座通り、テアトル・フランセ広場》

フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ《ひまわり》

 

などを参観。レオナール・フジタ(藤田嗣治)が好きなので見に行ったのだが、他の作品も見ごたえがあった。美しい絵画の典型である。

レオナール・フジタは晩年ランスにノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂を建立して内壁を飾り、死後この礼拝堂に夫人とともに埋葬されている。そして、フジタの旧蔵作品や資料など2千点余りがランス美術館に寄贈された。1920-30年代の作品もあるが、大半は戦後、それも最晩年の礼拝堂を飾る壁画のための素描や習作である。展示されている作品には宗教的崇高さはあまり感じられなかったが、迫力のある作品であった。黒人の聖母マリア像というは大変に珍しかった。マリアの周りに子供達が描かれているのだが、誰一人笑顔を見せていない。フジタは晩年子供を描いた作品が多いが、笑っている子供はいない。不思議なことである。フジタの孤独感の表れであろうか。

フジタは、1955年にフランス国籍を取得、1957年フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、1959年にはカトリックの洗礼を受けて藤田嗣治からレオナール・フジタとなった。没後、わが國政府からも勲一等瑞宝章を追贈された。

何故、フランスに帰化し、カソリック教徒になったのか。戦時中戦争画を数多く描いたことから、非難がフジタに集中したことが原因かと言われている。藤田嗣治は、私が御指導を受けた作家の中河与一氏とは、深い交流があり、藤田がフランスに行った後も続いた。中河氏も、戦時中戦争に協力したということで文壇から事実上追放された。藤田・中河両氏とも戦後、画壇・文壇に巣食っていた左翼勢力の生贄になったと言える。しかし二人の芸術家・作家としての業績は不滅である。

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明治時代における尊皇攘夷運動=明治第二維新運動について

 

 

幕末に於いて、維新討幕が緊急とされた具体的理由は、『安政条約』という不平等条約を締結した日本が、「欧米の完全な植民地」となることを食い止め、早急に国家独立の体制を確立することにあった。

 

天皇を中心とした日本国を欧米列強の侵略支配から祖国を守り、世界の中で完全独立国家として屹立させることが明治維新の理想であった。それが尊皇攘夷の精神である。しかし、明治維新後に於いても、「不平等条約」が存続し、日本は西欧列強と対等の立場に立っているわけではなかった。それとどころか、文明開化に美名のもと、日本は欧化の風に侵された。

 

明治維新の理想を実現させるべく在野で運動したのが玄洋社をはじめとする愛国運動であった。そしてそれは、欧米列強に屈従する政策を取る政府、欧化の風に侵された文化文明、この二つを粛正することを目指した戦いであった。

 

民権と国権は相対立するととらえる説があるが、決してそうではない。国権とは民権を圧迫する国家権力のことではなく、祖国の独立のことである。

 

近代日本というか明治新政府は、「脱亜入欧」「文明開化」「富國強兵・殖産興業」の道を突き進んだ。つまり、欧米の文化・文明を取り入れて日本を近代化し、國を富ませ、軍事力を強固にし、生産を増やし産業を発展させることを目指したのである。

 

 明治初期に岩倉使節団に参加して欧米を視察した政府高官たちの基本的観念には、第一に、欧米の文明に対する高い評価があり、第二に、アジアに対する蔑視とは言わないまでも欧米に比較してアジアは未開であるという認識があり、第三に日本の発展は、アジアから脱して欧米に入ることによって達成されるという考え方である。そして大久保・岩倉などは、その能力がわが日本にはあると確信した。これはまた、『五箇条の御誓文』の「知識を世界に求め大に皇基を振起すべし」という大御心に沿うものであると考えたのであろう。

 

大久保利通は、明治七年に書いた『殖産興業に関する建議書』には、「必ずしも英國の事業に拘泥して、之を模倣す可きにあらずと雖も、君民一致し、其國天然の利に基き、財用を盛大にして國家の根抵を固(かと)ふするの偉績に至りては、我國今日大有為の秋に際して宜しく規範と為すべきなり、況や我邦の地形及天然の利は、英國と相類似するものにあるに於ておや、……」と記している。わが國と國柄および天然自然条件が類似する英國を規範として殖産興業につとめるべきであるという主張である。 

 

東洋の伝統を否定あるいは軽視して西洋型の帝國としての日本帝國を建設せんするこの大久保路線は、反対者によって『西洋覇道路線』とも名付けられる。そしてこの路線は、大久保の死後、伊藤博文・大隈重信・山県有朋らによって継承される。

 

さらに「脱亜入欧」「文明開化」の論理は、体制側・権力側の基本姿勢であっただけでなく、反体制運動にも踏襲されその思考の型となった。

 

こういった近代日本の体制側・反体制側に共通する「脱亜入欧」「文明開化」の論理に対抗したのが、明治初期においては西郷隆盛に象徴される伝統護持派である。明治第二維新運動では、西郷隆盛、江藤新平、島田一郎などが命を捧げたが、未完に終わった。

 

その精神と行動を継承する在野の國民の側即ち草莽の士の愛國維新運動である玄洋社は、明治十四年二月、福岡に創設された。「皇室を敬体戴すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権利を固守すべし」の三箇条を憲則に掲げた。

 

明治二十一年に三宅雪嶺・志賀重昂・杉浦重剛らによって結成された國粋主義文化団体・政教社(雑誌『日本人』を刊行)であり、そしてそれに続く大正維新運動・昭和維新運動なのである。    

 

そして、「脱亜入欧」「文明開化」の論理の克服は、大東亜戦争の敗北とその結果としての現代日本の様々な矛盾の根本的原因にも関わる今日的課題なのである。

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千駄木庵日乗七月五日

午前は、諸事。

午後は、原稿執筆の準備。

夕刻、お茶の水にて知人と懇談。

帰宅後は、明日インタビューの準備。原稿執筆。

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2017年7月 4日 (火)

ブレット・スティーブンス氏(ウォール・ストリート・ジャーナル 論説室副委員長)による講演内容

三月二十三日に開催された「笹川平和財団 日米交流事業主催 講演会『アメリカ第一主義』とリベラルな国際秩序の将来」におけるブレット・スティーブンス氏(ウォール・ストリート・ジャーナル 論説室副委員長)による講演内容は次の通り。

 

「ウッドロウ・ウィルソンは一九一七年四月、第一次世界大戦にアメリカを導入。しかし勝利は無駄なものになった。空疎な国際連盟が生まれた。アメリカは世界から遊離してはいけない。平和のためにはたまには力を用いなければならない。より高い次元を目指すものでなければならない。広い心を持って事に臨むのは犠牲ではなく投資。保護主義に戻ることはできない。

 

アメリカは世界の国々を守るために何十万の軍を各地に置いた。アメリカの力は敵を抑止し友好國を安心させた。集団安全保障をロシア・中国が拒否権を持つ国連に任せたら空疎なものになる。我々の利益を見出すのは深いところで価値観に基づく。アメリカの政治的理想が望むべきものと思われる世界を作ろうとした。

 

トランプにイデオロギーはあるのか。トランプの登場はどのような意味があるのか。私は彼が大統領選に出ると言った時から嫌いだった。彼はまぐれの産物。選挙制度というまぐれによって勝ったのだ。大統領として長続きしないと言われる。しかしトランプの抬頭は運命づけられていた。トランプはグローバリズムに反対する新しい形。トランプはムッソリーニのような人物。しかし、アメリカがファシズムになると言っているのではない。アメリカには三権分立・メディア・裁判の独立がある。しかし一九三〇年代の政治に似ていることを否定してはいない。

 

大衆の力によって大統領になったとトランプは言いたいのだ。敵を作ることによって権力の強化を正当化する。エリート・ブルジョアにショックを与える。大衆迎合政治。トランプは愚かではない。目的があり一貫性がある。知性と知性偏重を混同してはならない。リベラルな国際的秩序を下支えしてきた根拠が弱くなっている事をトランプは知っている。アメリカ第一主義を蘇生させたい。移民を貴重な人材資源とは見ず、テロの温床だという近視眼的見方をしている。

 

トランプがNATO支持と言っているのは安心材料。メルケルとはうまくいかない。アメリカの安保に依存してきた国々は他の方法を考えてもらわねばならない。

 

アメリカの変化は迅速。グローバリズムは大きく後退してきている。経済が失望した世代のニーズにこたえていない。インチキなポピュリズムのホラに共感している。

 

北京・ピョンヤンの独裁者はますます厚かましくなっている。無秩序な世紀に現在我々は生きている。今までのリベラル体制がいかに人を傷つけて来たかを知るべし。絶望した人々がヨーロッパに押し寄せてきている。過剰なリベラルな政策を考え直さねばならない。リベラルな国際秩序が何故それぞれの国に繁栄をもたらすのかの答えを出さねばならない。

 

アメリカが自由な世界の安全を保つことに努力してきたことで何故アメリカが繁栄して来たかを考えるべし。振り子は最終的にリベラリズムに戻って来る。自由の砦・平和の可能性を信じる必要あり、希望は残っている。リベラリズムをどうやってトランプ支援者に受け入れてもらうかが問題。

 

ニクソンドクトリン、レーガンドクトリンはあったが、トランプ主義はない。彼は思想家ではない。オバマ政権とトランプ政権とは共通性がある。北朝鮮はアメリカ大統領にとって遠い問題。トランプが介入主義をとると思うのは間違え。

 

日本にとって大事なのは強力なリッチな国であること。民主的国家の中で長きにわたって尊敬されている。日本は抑制することはない。韓国とどのようなことが協力できるかを考えるべし。中国からの侵略に対する砦・壁になるべし。

 

パレスチナの問題はシリアの問題に比べて小さくなっている。クルド人・タミール人・チベット人は国家を作りたいと思っている。グローバルの中でどう重要なのか。エルサレムに大使館を移動させる問題はローカルなストーリーになっている。

 

トランプ政権は個人崇拝に陥っている。カリスマ的リーダーの登場は感情的つながり。合理的意義を乗り越えてしまう。トランプの演説を聞いて感動する人はたくさんいる。トランプは相手の欠点をよく知っている。個人のレベルではない。ヒラリー攻撃、制度機構、メディアに対しても蹴っ飛ばすほど良いと思った。メディア攻撃は効果的であった。真実は政治的権力者が作る。それが全体主義への道」。

 

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千駄木庵日乗七月四日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、書状執筆、原稿執筆など。

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『第四回日本學講座』における平井正修全生庵住職による「山岡鐡舟居士と武士道」題する講演内容

三月十一日に開催された『第四回日本學講座』における平井正修全生庵住職による「山岡鐡舟居士と武士道」題する講演内容は次の通り。

 

「今年は、山岡鐡舟居士没後百三十回忌。来年は、江戸無血開城百五十年。靖国神社は官軍のみしか祀られていない。時の政府の事情で幕府は賊軍、薩長は官軍と言われた。賊軍と言われた人々も國を憂い、その志で散って行った。山岡先生はそういう志士たちを多くご覧になった。山岡先生は官軍・賊軍に関係なく、命を落とした全ての人々の菩提を弔いたいということで全生庵を明治十六年に建立した。

 

全生庵の寺名は、明治七年に山岡鐡舟居士が鎌倉建長寺開山蘭渓道隆禅師自筆の全生庵という額を人から貰いこれを書斎に掛けて愛蔵していたことによる。明治十三年山岡鐡舟居士が一寺建立を発願し、寺域を道友国泰寺越叟和尚のすすめにより谷中の現在地に選定した。ところが計らずも この土地が七百年前、道隆禅師が江戸に漂着し九死に一生を得て、全生庵という庵室を作って閑居していた旧跡であるということが分かった。居士も奇縁に感じ、明治十六年、全生庵を寺号とし、居士邸から曾て江戸城の守本尊であった葵正観世音の霊像を遷して本尊とした。私は七代目住職の責を汚している。

 

明治時代になり封建時代の倫理規範としての武士道ではなくなり、すべての日本人が実践して行くものとして説かれている。山岡鐡舟居士が説く武士道の根源は無我の境に達するということである。『開悟せよ、すればすべての苦悩は一瞬のうちに消えてゆく』と言っておられる。勝海舟は『鐡舟は明鏡の如く一点の曇りも無かった。物事に誤ることは無かった。無口であったが、人をして反省せしめた』と言った。鏡はただ目の前にあるものをそのまま映す。目の前に物が無くなれば鏡の中にも物が無くなる。人間の心とは本来そういうもの。しかし、人間には『心』というものがある。自分の鏡に傷があると相手に傷がついているように見える。唯目の前にあるものを素直にまっさらに映すことを無我と表現した。

 

素直になるのは難しい。『修身二十則』は、鐡舟十五歳の時に自分の身を修めて行くために書いた。一番目の『嘘を言うべからず』は難しい。言うは易く行うは難しい。山岡という人はただただひたすらに愚直にこれを守った人。『先祖を大切にする』『親や先生の言うことを聞く』という事も体で実行するのがどれだけ難しいか。

 

山岡鐡舟は、同時代の勝海舟のような政治性・先見性、西郷隆盛のような英雄性とは少し異なる。愚直・正直で一生を過ごした。剣禅書の達人と言われる。その三つのうちの一つでも究めるのは凡人には難しい。ただただひたすら努力の結集である。坂本龍馬は鐡舟の一歳上。

 

鐡舟は幕末志士と同世代。六百石(長谷川平蔵は四百石)。殿様と言われる身分。父は飛騨高山の郡代をしていたので、鐡舟は幼少期飛騨で過ごした。両親から可愛がられ、周りからも若様と言われて育った。父六十歳、母二十六歳の時に生まれた。母は後添え。母は塚原磯は、常陸国鹿島神宮神職・塚原石見の二女。先祖に塚原卜伝がいる。父は小野派一刀流。

 

母が『忠孝』について話された。鐡舟は『母上はそれを実践されているのですか』と聞くと、母は『しがない女には実践できぬ。お前は生涯をかけて実践するように』と言われた。

 

弘法大師流入木道(じゅぼくどう)五十二世の岩佐一亭に書を学び、十五歳で五十二世を受け継ぎ、一楽斎と号す。また、父が招いた井上清虎より北辰一刀流剣術を学ぶ。

 

父に『武士の家に生まれ死地に赴かねばならない時がある。その時、不動心にならねぎならぬ。不動心であるには禅が一番』と諭され、禅を始めた。二十歳の時に請われて山岡家の養子となる。貧乏をした。家に畳が三枚しかなかった。何も食わぬ日が一カ月に半分位と語っている。最初の子は、奥さんの父が出ないのでなくなった。酒は欠かさなかった。一晩に六升から七升呑んだという。そんな貧乏の中でも剣禅書に精進。

 

一八五三年、ペリー来航。維新までわずか十五年。幕府は雪崩のように崩れて終焉を迎えて行く。物事とはこういうものかもしれない。何か一つの事でガタガタといってしまう。山岡はひたすら剣禅書に励んだ。世の中は風雲急を告げる。

 

清河八郎と共に尊皇攘夷運動を始める。清河八郎は出羽国田川郡清川村(現・山形県東田川郡庄内町)庄内藩郷士・齋藤豪寿の子。江戸で剣と学問を教える塾を開いた。文久三年二月、第十四代将軍・徳川家茂上洛の際、その前衛として浪士組を率いて上洛。鐡舟も深く関わった。清河は暗殺され、鐡舟はその責め負い、閉門蟄居。

 

鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は海路江戸に帰って寛永寺に蟄居。官軍との交渉がうまくいかなかった。信のおける人物を官軍大本営に使者を立てた。最初は高橋泥舟。江戸の旗本御家人はまだ戦をしていないので、薩長何するものぞという意気があった。泥舟の推薦で慶喜の命により、鐡舟が大本営に派遣された。勝海舟の西郷隆盛宛ての書状を預かった。益満休之助も共に行った。『朝敵まかり通る』と行って敵中突破。

 

西郷より条件が提示された。鐡舟は『慶喜公備前岡山藩お預けだけは呑めぬ。島津公一人を敵に渡して臣が生き残ることが君臣の情として出来るか』と言った。西郷は『慶喜公の事は私一人が責任を以て引き受ける』と言った。この時に隆盛は山岡を高く評価した。『大西郷遺訓』の『命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也』は山岡を評した言葉。

 

明治五年から十年間、侍従として明治陛下にお仕えした。慶喜公が明治陛下に拝謁できない時に明治陛下にお仕えするのは畏れ多いと固辞した。しかし『あなたこそ』と言われて侍従になった。京都で公卿女官に囲まれていた天皇を、国家元首・大元帥の陛下として御教導申し上げた。竹橋事件の時、明治陛下は山岡の佩刀をご自分の護り刀とされ非常の備えとされた。明治陛下は『この刀があれば山岡がいてくれるのと同じだ。心配することはない』と仰せになった。明治陛下にとって山岡はかけがえのない存在であった。山岡が病気になった時、何回もお見舞いの勅使が差遣された。山岡か亡くなった時。葬列が皇居の前に止められ、明治陛下は高殿から見送られた。

 

武士道とは武士社会の道徳ではない。身分とは関係なく日本人たるべきものが皆行うべき道である。仁義礼智信全てを貫く大道。根柢にあるものは『無我』。無我の境地に立つと、親に対しては孝、君に対しては忠になる。海舟が言ったように鐡舟は明鏡のような人だった。そういう境地が鐡舟の武士道。東日本大震災における日本人の行動に外国から称讃の声が寄せられた。我々日本人の奥底にはいまだに武士道が脈々と生き続いてゐると私は考えている」。

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千駄木庵日乗七月三日

午前は、諸事。

 

午後は、資料の整理、

 

午後六時より、北青山の大東会館にて、『譲位問題懇談会』開催。同志と討論。

 

帰宅後は、原稿執筆。

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2017年7月 3日 (月)

都議会選挙について

都議会選挙で自民党大敗は致し方のないことである。民進・共産・社民が伸びなかったのは良かった。日野市の古賀俊昭氏が当選したのはまことに良かった。文京区は共産が落ち自民が通ったのも良かった。

 

小池さんは、左翼ではないし、國體観、国防安保ではまともな姿勢の人である。ただ、当選して来た小池新党の数多くの新人議員がきちんとした議員活動ができるのかどうか。不安である。

 

今回の選挙も「風」に左右されたという。その「風」なるものは、メディアが作り出している部分が非常に多いと思う。しかし、安倍晋三氏の人事に大きな問題がある。さらに色々な疑惑に対する処理の仕方も多くの国民の反発を買うようなやり方を押し通してしまった。安倍自民党は反省しなればなるまい。

 

安倍氏が命懸けで国政に取り組んでいるのは分かる。しかし我々は、何が何でも安倍総理そして自民党支持というわけではない。正しいことを実行する安倍総理・自民党を支持するのである。

 

皇室・憲法・国防安保・教育という国家基本問題で正道を堂々と歩んでもらいたい。

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千駄木庵日乗七月二日

午前は、諸事。

 

午後は、原稿執筆。

 

夕刻、母校の千駄木小学校に赴き、投票。

 

帰宅後は、原稿執筆・脱稿・送付。資料の整理。

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2017年7月 2日 (日)

『現行占領憲法』改正では駄目。

「現行占領憲法」は、「大日本帝国憲法」の第一条から第三条に成文化された最も大切な國體法を抹消した。「占領憲法」は、「大日本帝国憲法」には無かった「国民主権」を明示した上「天皇の神聖性」の規定を削除した。

 

 「大日本帝国憲法」を改正した憲法であるとする「現行占領憲法」は、「大日本帝国憲法」の改正限界を大きく超えて國體の基本を隠蔽してしまったのである。その上、日本の國體に全く合致しない西洋の悪しき普遍主義に毒されている。

 

 成文憲法が国家の存立の基本を破壊もしくは否定するのであれば、これを否定しなければならない。「現行占領憲法」はまさしくそういう憲法である。

 

『現行占領憲法』に日本國體と絶対に相容れない「国民主権論」が取り入れられたことは、単なる「日本弱体化」などではない。近年の「皇室典範改定」「天皇御譲位」に関する論議や実際の動きを見ていて、『現行占領憲法』が日本國體破壊の導火線であったと思い知った。『皇室典範』が『憲法』の下位法となり、衆参両院で改定できるようになったことは、重大なる國體破壊である。

 

『現行憲法』には、第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。

 

天皇は、主権者たる国民の総意によってその地位にあるのだから、国民の代表者たる衆参両院議員、そして議員によって指名され選出された内閣の決定に、天皇及び皇族は従わねばならない」という考え方が今日大手を振って歩いている。

 

「国民の総意」の「国民」について、現在の生きている日本国民ではなく、過去現在未来にわたる『日本国民』であるという説がある。「占領憲法」を出来得る限り『日本國體』に合致させようという解釈である。しかし、現実には、衆参両院議員の過半数に意思によって『皇室典範』が改定されてしまうのである。それどころではない。衆参両院議員の三分の二の意思によって、「天皇を君主と仰ぐ日本國體」すら廃絶される危険すらある。そんなことはあり得ないという意見もあるだろうが、可能性は皆無ではない。

 

まさに「諸悪の因は現行憲法」なのである。ともかく、国民主権論という國體破壊思想をわが国から祓い清めねばならない。

 

『現行占領憲法』に如何に亡國的なことが書かれていても、「現行憲法は戦勝國が無理矢理押しつけたものであり、正統なる憲法ではない」として全面的に否定する事ができた。しかし、『現行占領憲法の』の国民主権思想そして國體条項をそのままにして、第九条などを改正する、その「改正憲法」は、アメリカの押しつけではなく、「國民の意志」によって定められたこになる。

 

「現行占領憲法」無効確認・全面否定、「正統憲法」回復が正しいと信ずる。

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2017年7月 1日 (土)

千駄木庵日乗七月一日

午前は、諸事。

午後二時より、靖国神社境内の靖国会館にて、日本学協会主催『日本学講座』開催。永江太郎氏が挨拶。橋下富太郎麗澤大学助教が「新渡戸稲造における武士道」と題して講演。質疑応答。

帰宅後は、原稿執筆。

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田久保忠衛杏林大学名誉教授による「トランプ政権下 日米関係の今後を考える」と題する講演内容

二月二十に開催された『アジア問題懇話会』における田久保忠衛杏林大学名誉教授による「トランプ政権下 日米関係の今後を考える」と題する講演内容は次の通り。

 

「アメリカは、アメリカ第一主義・保護主義・孤立主義で内に向かっていくのではないか。国際機関になるべく関係しないようになる。EUから脱退したイギリスはその大きな傾向。アメリカと欧州で起こっていることは共通点がある。トランプはイギリスのEU脱退に賛成。

 

オバマの失敗で全てトランプの方に向いてしまった。オバマドクトリンは何もしないドクトリン。二期目は何もコミットメントしなかった。『世界の警察官にならない』と言ってシリアに介入しなかった。その結果、シリア系難民が出来てドイツに入ってきた。難民の玉突きの一発はオバマが何もしなかったこと。オバマが何もしなかったことが今日の混乱を招いた原因。

 

アメリカの戦後の大統領、トルーマンからニクソンまで、良いか悪いかは別として、自由民主主義・人権という普遍的価値を掲げて前進し血を流してきた。日本は血を流していない。『金は要らない血を流せ』と言われたらどうするのか。

 

この前の大統領選くらいみっともない大統領選は見たことなし。政策論争があっただろうか。クリントンは罪が深い。国務長官の時、メールを公私の別なく何万通使用した。クリントンファウンデーションの基金にどういうお金が入っているのか明らかになる前に選挙が始まってしまった。公私の区別が無かった。この巨大なしこりが残っている。

 

トランプ政権の政治的不安定は当分続くと思っている。政権移行チームに娘・娘婿・次男・三男の五人の親族を入れた。娘婿が大統領特別顧問。ユダヤ系不動産業者。ホワイトハウスは混乱。ケネディは末弟を司法長官にした。

 

政策は親露反中になると皆が言っている。トランプは『自分が尊敬する人物はプーチン』と言った。大統領補佐官は『人類にとって最大の敵は国際テロリスト。テロとの戦いでロシアと手を結ぶ』と言った。アメリカは反中国で一致しているというのはどうかなと思う。トランプは日本と中国をうまく操ろうとしている。トランプは中国に対してやわらかいシグナルの方を多く出している。トランプは同盟国と敵対国の差別がない。

 

安倍さんは『独立自尊の道義国家』を唱えれば良い意味で日本第一になる。日本のモラルを高らかに掲げると宣言したらいい」。

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天皇を祭祀主・君主と仰ぐ日本國體を隠蔽する一切の事象を祓い清めねばならない

 

三島由紀夫氏は、祭祀國家と政治機構としての國家について次のように論じている。

「ネーションというものは祭祀國家というものが本源的にあって、これは管理機能あるいは統治機能と全然関係がないものだ。ここにネーションというものの根拠を求めなければ、私は将来守ることはできないのだという考えを持っている。……ラショナル(四宮注・合理的)な機能を統治國家が代表して、イラショナル(非合理的)なイロジカル(非論理的)な機能はこの祭祀國家が代表している。ぼくの考えるよき國家というのは、この二つのイロジカルな國家とロジカル(論理的)な國家が表裏一體になることがぼくの考えるいい國家なんです。…天皇でなければだめなんです。どうしても祭祀國家の大神官がいなくちゃならんですね。」(『尚武の心』所収・村上一郎氏との対談「尚武の心と憤怒の抒情」)

「統治國家は遠心力とすれば祭祀國家は求心力であり、前者を空間的國家とすれば、後者は時間的國家であり、私の理想とする國家はこのやうな二元性の調和、緊張のはらんだ生ける均衡にほかならない」「祭祀的國家はふだんは目に見えない。ここでは象徴的行爲としての祭祀が、國家の永遠の時間的連續性を保障し、歴史・傳統・文化などが繼承され、反理性的なもの、情感的情緒的にものの源泉が保持され、文化はここにのみ根を見いだし、眞のエロティシズムはここにのみ存在する。このエートス(四宮注・民族社會に共通な精神)の國家の首長が天皇である。」(「『變革の思想』とはー道理の實現」)

 

日本國の素晴らしさは、古代に生成した天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀國家が今日に至るまで解體したり断絶したりすることなく今日まで連綿として続いていることである。わが國は神話の時代のままに、高天原から天降られた天照大御神の「生みの御子」の使命を現身の形でそのまま受け継がれる天皇を現實に日本國の元首・君主と仰いでいることである。こういう貴い國は世界の何処を探しても見当たらない。

 

そしてその信仰共同體・祭祀國家は、単に理念的な存在もっと言えば架空にして抽象的な存在ではなく、山紫水明麗しい大自然に恵まれ稲作を中心とする農耕そして漁業などを営み、村落共同體から民族共同體へと生成発展してきたのである。

 

日本神話は天皇中心の日本國體を、「豊葦原千百秋之瑞穂國は、天照大御神生みの御子すなわち日本天皇の統治される國」と表現したのである。

 

天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀國家・信仰共同體國家であってこそ、國家への忠誠心も持つことが出来るし、國民としての道義精神と真の遵法精神を持つことができるのである。単なる行政機構・権力機関としての國家に誰が忠誠を誓うであろうか。

 

具體的にいえば、「國に税金を取られる」「公害訴訟の國側の弁護人」と言う場合の「國」は「行政機構」「権力機関」としての國であり、「祖國に帰る」「お國自慢」「権門上に驕れども 國を憂うる誠なし」と言う場合は共同體としての國である。

 

ゆえに、神代以来連綿として続いてきた天皇國日本というわが國體の尊厳性を守るというのがわが国に於ける最高の遵法精神なのである。日本國立國の基礎であり成文法の基盤である天皇および天皇中心の國體の尊厳性をお護りする精神が最も大切である。

 

憲法をはじめとした成文法及び國家機関の正統性は、天皇を中心とする日本國體の上に立脚しているところにある。天皇の正統性は成文憲法に立脚するのではない。

 

「現行憲法」において「天皇の地位は日本國民の総意に基づく」と規定されているが、この「日本國民の総意」を日本國體精神に則って解釈すれば、永遠の過去から永遠の将来にわたる國民の総意即ち日本國體精神ということである。

 

大野健雄氏(元宮内庁総務課長)は「総意に基づくというのは、この天皇の御地位は肇國以来子々孫々の末に至るまで、國民の総意を以てお護りしてきたし将来もするのであるぞ、という過去の事實と将来の決意を中外に宣明したものと解すべきである。金森國務相も…議會において『現在の瞬間に生きている日本國民ではなくて…過去及び将来の人をも併せ考えうる考え方である』と言い又『過去、現在、未来という区別なく一つの総意である』と述べているのは、その意味である」(「天皇のまつり」)と論じておられる。

 

「現行憲法」の言う「國民の総意」とは、決してある時点における國民各個人の集合による多数決の総計結果ということではなく、永遠の過去から永遠の未来にわたる日本國民の普遍的な意志即ち日本國體精神のことであるという解釈が正しい。

 

故三潴信吾先生は、かつて『憲法懇話會』(三潴先生を囲む憲法勉強會)で、「わが國の統治機構論における不文法の意義」と題して講義し、「不文法とは、天地の公道、人倫の常経、善良の風俗、公の秩序、信義誠實の原則、公共の福祉である。不文法は成文法以上に大事である。明治になって成文法のみが土台という考えが圧倒的な力を持った。そして、法文の語義と形式論的解釈が取り入れられた。法の条文を形式的に守るという法秩序では、裁判のためにどんどん正義が葬られる。法律が認めないがきりどんな良いことでもしてはいけない、という事になってしまう。公共の福祉という言葉が多数決原理に解釈されているのは誤りである。公共の福祉を多数決原理に解釈すると集団暴力になる。多数決原理がデモクラシーの基礎というのも誤り。National tradition(自國の傳統)こそが、デモクラシー・立憲政體の基礎である。不文法の源は、価値根源の世界・生命自覚の大本。アテネではイデア、日本では高天原のことである。『正義』を『Right()』というのは、『右手は左手よりも強い』ということを根拠とした『力の強い方が正義だ』という権力主義のローマ法思想に基づく。ゲルマン古来の法思想は『ミレーの晩鐘』に象徴される。National tradition(自國の傳統)が不文法の基であることを肝に銘ずべし。それが國の品格を決定する。不文法主義は性善説に立つ。信を本とする。ローマ法の権力主義を受け継いだドイツ法の成文法主義は性悪説に立つ。万人の万人に対する戦いという考え方が現代法の基礎になっている。これを東大法學部が教えている。他人を信用しない。法で正義を守るのではなく法を守ることが法治主義となっている。アメリカは成文法主義でなければ國家の法秩序が保てない。日本がアメリカナイズされると、天皇や國家民族の傳統よりも法律の法が上だということになる。日本は天皇國であり皇國である。これをしっかりわきまえないと大変な間違いを犯す」と語られた。

 

三潴信吾先生が憂慮されたこ通りの事が現實になったのが今日の状況である。『大日本帝國憲法』には「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定されていた。これこそまさに日本國體精神に立脚した精神である。日本國の憲法には、天皇は神聖不可侵の御存在である事を正しく規定されるべきである。

 

また「現行占領憲法」において、天皇は「政治的権能を有しない」と規定されている。天皇陛下は「権力者」ではあらせられないということである。であるならば、天皇陛下に対し奉り、「権力の制限規範」とされる「成文憲法」が掣肘する事があってはならないのである。

 

天皇に対する尊崇の心・國體を護持しようという精神を國民が喪失すると、日本は日本でなくなり、日本國民は日本國民でなくなり、國は解體し、精神的に荒廃して行く。今日の日本はまさにそういう状況になってきつつある。日本の道義の頽廃は國民の尊皇精神が希薄になっているところにその原因がある。

 

わが國においては、國家への忠誠心と天皇尊崇の心は一體である。道義の回復も國防體制の確立も政治の安定も経済の再建も、天皇尊崇の精神が正しく回復されなければ不可能である。

 

悠久の太古から自然に生成されてきた天皇を中心とする麗しい信仰共同体である祖國日本が破壊され隠蔽され、人工的・人為的な利益國家・契約國家・権力國家にわが國が成り果ててしまうことは何としても阻止しなければならない。そのためには、天皇を祭祀主・君主と仰ぐ日本國體を隠蔽する一切の事象を祓い清めねばならないのである。

 

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千駄木庵日乗六月三十日

午前は、諸事。

午後二時、平河天満宮参拝。

この後、平河町の先輩事務所訪問。懇談、意見交換。

帰宅後は、原稿執筆など。

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