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2017年7月26日 (水)

『東京藝術大学創立130周年記念特別展 藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!』参観記

昨日参観した『東京藝術大学創立130周年記念特別展 藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!』は、「東京藝術大学は今年、創立130周年を迎えます。これを記念し、大規模なコレクション展を開催します。東京美術学校開設以来、積み重ねられてきた本学のコレクションは、国宝・重要文化財を含む日本美術の名品ばかりではなく、美術教育のための参考品として集められた、現在では希少性の高い品々や、歴代の教員および学生たちが遺した美術学校ならではの作品が多くあることが特徴となっています。本展では、多様なテーマを設けて、すでに知られた名品だけでなく、これまで日の目を見ることの少なかった卒業制作などの作品、模写、石膏像や写真・資料類にもスポットをあてることによって、藝大コレクションの豊富さ、多様さ、奥深さをご紹介します。また、近年の研究成果を展示に反映させ、コレクションに新たな命を吹き込まれていくさまもご覧いただきます」(案内書)との趣旨で開催された。

 

椿椿山「佐藤一斎像画稿」、原田直次郎「靴屋の親爺」、浅井忠「収穫」、黒田清輝「婦人像(厨房)」、狩野芳崖「悲母観音」、横山大観「村童観猿翁」、白滝幾之助「稽古」、下村観山「天心岡倉先生(草稿)」、鏑木清方「一葉」、前田青邨「白頭」、平櫛田中「活人箭」「禾山笑」、和田英作「渡頭の夕暮れ」、高村光太郎「獅子吼」、青木繁「黄泉比良坂」、高橋由一「鮭」、小倉遊亀、「月光菩薩坐像」(奈良時代)、「広東錦」(飛鳥時代)、「絵因果経」(奈良時代)、「羅漢図」(南宋時代)などを参観。

 

それぞれ美術史にのこる名品である。何回も見た作品もあったが今回初めての作品もあった。

 

和田英作「渡頭の夕暮れ」に最も感激した。何回か見た作品であるが、落日に染まる多摩川の水面を、渡し場でじっと見つめる農民の姿が描かれている。老人と中年の男性、赤子を背負う女性、そして二人の子供が船を待っているのであろう。じっとこの作品を見つめていると何故か涙が浮かんでくる。不思議な絵である。

 

狩野芳崖「悲母観音」は、芸大美術館の収蔵作品展では必ずと言っていいほど展示される。生まれたての赤子に甘露の水を灌ぐ観音様の姿が描かれている。観世音菩薩の慈悲の心がそのまま絵画になっているように思える。芳崖が亡くなる四日前まで描いていた絶筆であり、作家自身の最高傑作として名高い。日本美術史上重要な作品とされている。

 

「羅漢図」(南宋時代)の「羅漢(らかん)」とは、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者ことだそうであるが、角ばった坊主頭が面白い。私が子供の頃、私宅近くの日暮里に及川裸観(らかん)という人がいたのを思い出した。坊主頭で上半身は裸、半ズボン姿で「薄着は健康のもと」と書かれたのぼりを持ち、たすきがけをして「ワハハ、ワハハ」と笑いつつ「御機嫌よう、御機嫌よう」と言いながら走っていた。日本全国を行脚し、健康体操の指導、健康相談を行っていた。「裸のおじさん」「羅漢さん」と呼ばれていた。「羅漢図」の「羅漢」はその「裸のおじさん」によく似ているのである。昭和六十三年に八十八歳で亡くなったという。

 

高村光太郎「獅子吼」は、光太郎の「卒業制作」である。若々しい日蓮が路上で説法する姿である。若い頃の日蓮の強靭な意志が伝わってくる。弘法大師空海を描いた絵画や彫刻は多いが日蓮は珍しい。

 

「藤田嗣治資料」というのも展示されていた。君代夫人が寄贈した五千点以上にのぼる資料の一部である。日記帳・書簡などである。日記帳に「中河与一」という文字が見えたのだが、ケースの中に入っており、字が細かくてよく讀めなかった。

 

私は藤田嗣治(レオナール・フジタ)の作品が好きである。乳白色が用いられた何か不思議な感じのする絵である。見ていて美しいなあという思いがする。絵画というものは美しくなければいけない。

 

何故私がレオナール・フジタに関心を持つようになったかと言うと、フジタが私の文芸上の恩師である中河与一先生と深い親交があったからである。中河先生の家の応接間には、フジタが描いた『嬉子像』という中河先生の三女の方の肖像画が飾られていた。そしてその隣には、佐伯祐三が描いた『恐ろしき顔』と題した中河先生の肖像画も掲げられていた。

フジタも佐伯も近代日本における洋画家の最高峰である。二人とも日本国内のみならず、欧米において高い評価を得ている。中河先生のこの二人と若いころから親交があったのである。中河先生自身、画家を志して岡田三郎助の指導を受けたこともある。

 

中河先生と藤田は戦後、同じような運命を背負った。二人とも「戦争協力者」とされ、作家や画家や評論家たちから非難攻撃を受け文壇及び画壇から追放された。中河も藤田も祖国の危機に際して、粉骨砕身その芸術家としての立場から、大東亜戦争に協力した。敗戦後、文壇・画壇において、「戦争協力者」「戦争犯罪人」烙印を押され二人に対する追及が起こった。戦争への反省と言うよりも、画家や作家たちの戦勝国へのおもねり、時局便乗、自己保身のために行われたという側面もある。そのターゲットにされたのが、文壇では文芸評論などで活躍した中河与一先生であり、画壇ではいわゆる「戦争画」を描いた藤田嗣治だった。

 

「戦争協力」という言葉自体実に怪しげな言葉である。第一、戦時中は日本国民のほとんどが戦争に「協力」したのである。

戦後、藤田はフランスに渡り、彼の地で創作活動を続けた。中河与一はパリに藤田を訪ねたこともあった。藤田はパリで子供たちを主題とした作品を多く描いた。しかし、描かれた子供たちには笑顔が無かった。藤田の孤独感を象徴しているように私には思えた。

 

中河与一の父君は医師であり、藤田の父君も医師である。藤田の父が陸軍軍医総監であった。

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