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2017年6月 3日 (土)

國學の現代おける意義

日本人の農耕生活・弥生文化から生まれた信仰は、天地自然を神として拝む信仰である。天も地も山も海も川も樹木も、神の命としてこれを尊ぶ心が日本人の根幹にある。天地自然に神の声を聞くのである。殊更に宗教教義を作り出してこれを遵守しなければ神の怒りにふれるなどといふ観念は日本伝統信仰には無い。日本の伝統信仰には、西洋的意味での神学もイデオロギーも無い。

 

 だから日本人は、理論体系を作り出すことはしない。日本伝統信仰においては、一人の人物の説いた教義を絶対のものとしてこれを信奉し、これに反するものを排撃するといふことをしない。

 

日本人は、人としての自然な情感・感性・驚きは大切にするが、さうしたものから遊離した超越的な『真理』『論理』『原理』と称するものを設定しない。なぜなら超越的な『真理』『論理』『原理』と称するものは、作り事であり、嘘や独善と隣合はせであると直感するからである。

 

 つまり日本の伝統精神すなはち日本民族固有の『道』は、事実の上に備はっており、一人の人物が書き表した教義書・経典に依拠しないといふのである。抽象的・概念的な考へ方に陥った教義万能・経典万能の思想から脱却し、日本人としての真心を以て祖先の歴史の真実を見てそれを戒めとしつつ自己の道徳意識を養成し、人間の真心をうたひあげた言の葉(即ち和歌)を学ぶことが、日本人一般の思想傾向であった。

 

 このやうな教義・教条を排するという日本民族の柔軟な態度が、日本文化の発展の基礎であり、日本が古代以来仏教や儒教などの外国思想を幅広く受け入れて自己のものとし、さらにそれをより高度なものにし、さらに近代においては西洋科学技術文明を取り入れた原点である。

 

 そもそも教義とか教条といふものは、具体的な歴史の事実の上に立って抽象的に論議として出て来たものである。だから、その教義・教条が記された書物のみを読み、知識として吸収し、それのみに頼らうとする姿勢は、道を体得することにはならない。 

 

 現代においても、ある特定の人物の説いた教義・教条を絶対のものとして尊崇し、それに反する思想を排斥する勢力はまだまだ多い。かつて田中忠雄氏は、かうした人々を「狐憑き」ならぬ「イデオロギー憑き」と定義づけた。

 

共産主義者は、マルクス・レーニン主義を絶対の思想としそれ以外を排斥した。かうした勢力がどれだけ多くの人々を苦しめ、不幸にしてきてゐるかは、それこそ歴史そして現代の諸事象を見れば明白である。もはやかくの如きイデオロギー至上主義では混迷せる現代を救ふことはできない。むしろ混乱と不幸を増大せしめるだけである。日本の神ながらなる理想を今日において実現することが大切である。

 

 「理論のあげつらひ」つまり人間の有限知を基盤とした哲学的思考によって得られた認識が、どれだけ宇宙や人生や歴史の真実を説き明かすことができるのか。まづこのことを疑ってかかる必要がある。宗教家の神学的・教義的考察、そして科学者の研究によって得られた知識が、どれだけ宇宙の真実に一致してゐるかを反省する必要がある。かういふ疑問や反省を忘却した人間の傲慢さが今日の文明的危機を招いてゐると言へよう。

 

 倉前盛通氏は、「日本人が『言挙げ』といい『さかしら』といい『あげつらい』という場合には、人間の言葉そのものの中に、すでに宇宙の奥底に潜む原理から遊離したものを本質的に含むという意味を表わしている。言葉が一つに概念規定をした場合、その概念規定という作業そのものの中に本質的に虚構の要素、誤差、ずれというような諸々の過ちが混じってくる避けることはできない、という意味である。」(『艶の発想』)と論じてをられる。

 

 人間の言葉(ここで言ふ「言葉」とは人間の思考や研究の成果としてつくりあげられた理論・教条のこと)は宇宙の真実とは虚構や誤差やずれがある。にもかかはらず、傲慢にも、自然や宇宙や人生を全て人間の作りあげた論理や科学研究によって説き明かこれを改造できるなどと考へたことが、美しい自然を破壊し、人類の生命をも脅かすに至った根本原因である。しかし、日本民族は、既に古代において、人間のかかる傲慢さを反省し、自覚してゐた。

 

 それが、古代日本人の「葦原の 水穂の國は 神ながら 言擧せぬ國…」といふ歌なのである。日本人は、あるがままの自然に素直に随順し、人間と自然は相対立する存在とは考へないで、人間が自然の中に入り、人と自然とは生命的に一体であるとの精神に立つ。

 

 日本人は自然そのもののみならず、歴史からも「道」を学んだ。わが国に伝はる「道」は歴史に現はれてゐるのだから、体系としての世界観や人倫思想基礎を人為的に「さかしらなる知識」をもって言挙し作りあげなくとも、日本の国の歴史の事柄・事実に学べばよかったのである。

 

 歴史や自然を対立的にとらへて、論理や教条を振り回して自然や宇宙や人生や歴史の本質を説き明かそうなどといふ不遜な考えは持たなかった古代日本人の基本的な姿勢を、現代において甦らせることが必要なのである。

 

 近世国学者が、外圧の危機に中で行ったやうに、古代日本の歴史精神として今日まで伝へられてきてゐる「道」を、そのままありのままに学び、今日において明らかにすることによって、現代の危機を打開することが大切である。

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