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2017年6月 2日 (金)

日本は「神ながら 言擧せぬ國」

 

 「日本の道」すなわち倫理精神・信仰精神は、教条的な形で理論として伝えられているのではなく、和歌によって伝えられている。『萬葉集』はその典型である。

 

 その『萬葉集』に収められている「柿本人麿歌集」の長歌に、「葦原の 水穂の國は 神ながら 言擧せぬ國…」と歌われている。「わが国は神のみ心のままに生きる国であるから、言挙をしない国…」という意である。日本国の古代信仰においては、日本は全て神のみ心のままに生きていく国であると信じられていた。ゆえに、日本人はあえて自己主張をしないのである。この歌はそういうことを歌っているのである。

 

 しかし、日本民族は言葉を軽視したのではない。この長歌の反歌(長歌のエッセンスを歌った短歌)に「しき島の日本(やまと)の國は言靈のさきはふ國ぞまさきくありこそ」(大和の国は言葉の霊が助けて下さる国です。ご無事でいらっしゃい、というほどの意)と歌われているように、日本人は、言葉には霊が宿り人間を助けてくれると信じていた。古代日本人は、言葉には大きな力(霊力)があると考えた。そこから言霊思想が発生した。言葉は、それほどに大切なものであるからこそ、軽々しく言葉を発しないという信仰を持ったのである。みだりに理論や理屈をあげつらうことはしないという生活態度は、萬葉時代即ち古代以来の日本人の基本的姿勢だった。 

 

 近世国学者平田篤胤はその著『古道大意』において、「一體、眞(まこと)の道と云ふものは、事實の上に具(そなは)って有るものでござる。然(しか)るをとかく世の学者などは、盡(ことごと)く教訓と云ふ事を記したる書物でなくては、道は得られぬ如く思(おもう)て居るが多いで、こりゃ甚だの心得ちがひな事で、教(をし)へと申すものは、實事よりは甚下(ひく)い物でござる。其故は、實事が有れば教へはいらず、道の實事がなき故に、をしへと云ふことがおこる。」と論じている。

 

 意訳すれば、「一体、まことの道というものは、事実の上に備わっているものである。それなのに世の学者は、ことごとく教訓が書かれている書物を読まなくては、道を体得することはできないと思っているのが多い。これは非常に心得違いである。教義・教訓というものは事実よりも甚だ低いものである。その理由は、事実があれば教訓はいらない。道の事実が無いがゆえに教義・教訓が起こってくる」というほどの意である。

 

 「道」は、国の歴史の上に厳然として事実として示されているのであって、外来の儒教や仏教の経典を読まなくては「道」を求めることはできないという考え方は誤りである。むしろ、歴史の事実の上に「道」が現れていないからこそ、書物に書かれている「教義・教条」に頼らねばならないのである。それが支那における儒教である。日本における儒學は、「日本の道」を説明するために儒教文献を借用したのである。

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