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2017年4月 6日 (木)

谷中霊園散策記

本日散策した谷中霊園では、次の方々の墓所を拝した。

澀澤榮一(号青淵)  幕臣、維新後は大蔵官僚実業家第一国立銀行東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営。「日本資本主義の父」ともいわれる。漢学特に論語に造詣が深く、論語に関する著書がある。私の母校二松学舎を援助し、舎長に就任している。また私が書生をしたことがある野依秀市先生のことも援助した。

坊城俊章 幕末の公家、戊辰戦争に参加。明治期の陸軍軍人・政治家。陸軍歩兵中佐、貴族院伯爵議員。日清戦争では台湾兵站司令官として活躍。 陸軍少将、山形県知事

 

大道長安  明治期の曹洞宗の僧。救世教(熱海の救世教とは全く別)の祖。越後国(新潟県)の出身、観音信仰と在家主義に立ち、社会貢献を訴える救世主義を唱えた明治41年、長安が没すると救世教は三代まで続いたようだが、活動を主導する後継者を立てることができず消滅したという。墓所は荒れていた。

 

出羽の海秀光 第31代横綱常ノ花寛市。相撲協会理事長。本名は山野辺 寛一(やまのべ かんいち)。私の幼少の頃はこの人が相撲協会のトップ。昭和三十二年、衆議院予算委員会で日本相撲協会の在り方が追及されて改革を迫られ、心労と責任感から、同年五月四日に蔵前国技館内の取締室にガスを充満させ割腹自決を図ったが命をとりとめた。相撲好きの私には、今も印象に残っている事件であった。

有坂 成章 長州藩士。日本陸軍軍人、男爵。帝国陸軍の国産小銃を開発した。最終階級は陸軍中将。別名に淳蔵。日露戦争の旅順攻略戦、奉天開戦に貢献。

 

鶴田 皓 明治時代の法制官僚。元老院議官。佐賀藩士。東京帝国大学法学部講師。諸法典編纂に参加。「元老院議官正二位勲二等鶴田君碑 司法大臣山田顕義篆額 大審院検事三島毅撰」という石碑が建てられてゐた。三島毅は、二松学舎の創立者である。谷中墓地や青山墓地には、三島毅先生が撰文を書いた石碑が多い。

 

戸田忠至 江戸時代後期(幕末)から明治時代前期にかけての大名。下野宇都宮藩の重臣、後に下野高徳藩の初代藩主。江戸幕府若年寄でもあった。文久2年(1862年)閏814日、幕府が宇都宮藩の提出した山陵修補の建白を採用した。この頃、戸田姓に改める。同年1022日、宇都宮藩が幕府より天皇陵補修の命を受け、忠至は山陵奉行に任じられた。文久3年(1863年)121日、従五位下大和守に叙任する。元治元年(1864年)129日に大名格となり、同年712日に諸侯に加えられた。同年末までに畿内における山稜全ての補修を終了、慶応元年(1865年)925日に幕府はその功績に対し2000両を支給した。

 

重宗雄三 、昭和期の政治家、実業家。参議院議長を39年間にわたり務めた。山口県岩国市出身。佐藤・岸信介とともに長州御三家と呼ばれた。長期にわたって参院議長をとつとめ、且つ、岸佐藤兄弟と盟友関係にあったことから、大変な権勢を誇り、参議院は「重宗王国」と呼ばれた。歴史上の人物になったが、私は大学時代この人に会ったことがある。当時生長の家が参院選で重宗氏を推薦した。そして私は、当時永田町の角にあった平河ビルという政治家の事務所がたくさん入っているビルにあった重宗氏の事務所で手伝いをした。眼光の大変鋭い人であった。多くの政治家が事務所参りをしていた。その後、河野謙三氏などの反乱が起こり事実上失脚した。

竹内 綱 土佐藩士、実業家、政治家。内閣総理大臣を務めた吉田茂は五男、麻生太郎は外曾孫。明治11年(1878年)4月、前年の西南戦争にあたり、西郷軍に通謀する立志社のために小銃800丁と弾薬を手当てし、西郷隆盛らに呼応して政府転覆を企てたという嫌疑がかけられる。その結果、士族の身分を剥奪された上、禁獄1年の刑に処せられた。竹内が逮捕されたのは炭鉱経営で出張中の長崎であったが、間もなく東京の獄につながれる。その中には陸奥宗光や林有造らが含まれていた。しかし、5月の大久保利通の暗殺以後、政府は国事犯を東京に置く危険を悟って、彼らを地方に分送した。竹内は911日、新潟の監獄に護送された。明治12年(1879年)8月、満期放免となった竹内は、板垣退助が創立した愛国社の再建に取り組むことになる。翌年、愛国社は国会期成同盟に改称されたが、竹内はこの国会期成同盟を足場にして、後藤象二郎らとともに国会開設・自由民権を掲げ、自由党結成の原案を作成した。私は竹内綱の墓所が谷中霊園にあったとは全く知らなかった。簡素な墓所であった。麻生氏はお参りをしているのだろうか。

 

小平 浪平 技術者・実業家で、株式会社日立製作所の創業者。

 

小針重雄 三浦文治 琴田岩松 横山俊六 天野市太郎連名の墓 加波山事件(かばさんじけん)死刑になった人々。加波山事件とは明治七年(1884)に発生した栃木県令三島通庸等の暗殺未遂事件。過激にして急進的な自由民権運動であった。栃木県庁落成時に、民権運動を厳しく弾圧した三島通庸県令や集まった大臣達を爆殺する計画であったが、爆弾を製造中に誤爆。計画が未遂に終わると、茨城県加波山山頂付近に立てこもり、「圧制政府転覆」「自由の魁」等の旗を掲げ、決起を呼びかけるビラを配布した。また警察署や豪商の襲撃を行なった。この人々は市谷監獄で処刑されたという。

 

谷中霊園は、近代日本の歴史的人物が多く眠っている。体制側の人、そして反体制側の人が共に眠っている。

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