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2017年4月 7日 (金)

「一君万民」の思想が差別をなくし國民的和合を実現する

 

「自由」とは、他人の「自由」を侵害しないところに存在するものであり、「人権」も他人の「人権」を十分に尊重するところに存在するのであり、「公平性」は勤勉さ・有能さ・善良さの上に成り立つのである。「平和」とは他人に守ってもらうのではなく自分の努力で築き上げるものである。

 

自由・人権・公平・平和もその根底に、わが國の傳統に根ざした道義精神・自主独立の精神があってはじめて正しく実現するのである。

 

ところが今日のわが國は、自國の傳統に対する誇りを喪失してしまっているから、自由とは「勝手気まま」となり、人権は「エゴイズムと欲望の充足」となり、公平よりも平等を強調し「自分より能力のあるもの・勤勉なものを引きずり下ろす精神」が横溢し、平和とは「祖國が侵略されても戦わない敗北主義」と成り果てている。これではわが國亡國への道を歩まざるを得ない。

 

しかいわが國には建國以来三千年という光輝ある歴史と傳統がある。「愚者は歴史を経験するのみだが、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。今日の國難を打開するために歴史に学ばねばならない。わが國には大化改新・建武中興・明治維新という國難を乗り切った歴史がある。その歴史に学ばねばならない。そして日本の國柄、歴史と傳統に回帰し開顕しなければならない。

 

人間を欲望充足の動物と考え、國家を権力機構・搾取機関と考えているかぎり、國家と個人は永遠にそして絶対的に相対立する関係となる。人権問題を考える場合、その根本において、人間とは如何なる存在であるのか、國家とは何かが、正しく把握されなければならない。

 

人間は絶対的にして永遠の宇宙大生命の地上における自己実現である。國家とは人々が共同して生活する精神的結合体である。ゆえに、人も國家も本来的には倫理的存在である。個としての人間は共同体なくして生きていくことはできない。歴史と傳統という縦(時間)の思想、共同体における共生という横(空間)の思想を回復しなければ個人も共同体も滅亡せざるを得ない。

 

歴史からも共同体からも切り離された個人は存在し得ない。歴史傳統の体現者であり國民統合の中心者を否定することが國家および國民の破壊をもたらすのである。

 

「人権」という言葉がこれまで左翼にからめ取られ、天皇を君主と仰ぐわが國の國柄の否定・傳統破壊の道具としてまで用いられてきた。戦後の「差別撤廃運動」はそのまま「天皇制否定運動」でもあった。しかし、天皇を君主と仰ぐ日本國体の開顕こそが、真の差別撤廃の原基である。

 

全國水平社設立の中心人物西光万吉氏の「人間に光あれ、人の世に熱あれ」のあの叫びをもう一度深く思うべきである。光のある人間を生み、熱のある世の中を実現するには、正しき人間観と國家観の確立がなされなければならない。そして西光万吉氏が主張した「高次タカマノハラの展開」(高天原が天照大神を中心に八百万の神々が同胞として生活していたように、地上においても祭祀主天皇を中心として全國民が同胞として生活する理想世界の実現)が今日においても光を放つ思想であると信ずる。

 

わが國の傳統たる「一君万民」の思想そして「天皇の民」の自覚が、差別をなくし國民的和合を実現するのである。

 

日本國の傳統的國家観・君民一体の國體を、西洋の絶対君主支配下の体制と同様なものとしてこれを排除し否定してはならない。天皇および天皇を中心とする國柄を「差別の根源」として否定することは誤りである。天皇を中心とする國柄を護っていくことによって國民としての権利・生命・福祉・安全が真に守られ尊重されるのである。

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