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2017年3月29日 (水)

天皇及び皇室は、成文憲法などの世俗的な法律を超越したご存在である

西洋成文憲法は「権力に対する制限規範」であるという。イングランド最悪の王と言われるジョン王と諸侯との間で結ばれた『マグナ・カルタ』(大憲章)が西洋成文憲法の起源であり、『国王も法の下にある』といふ原則=『法は王権に優越する』といふ法治主義を確立した、とされる。「権力は放っておくと濫用されるので、為政者の手を縛る必要がある。その為に成文憲法が必要とする」という考え方である。これが西洋成文憲法の根底にある思想である。

 

しかし、日本天皇の国家統治の本質は、権力・武力による国家・国民支配ではない。天皇の祭祀主としての神聖なる権威による統治(すべおさめる。しろしめす。きこしめす)である。むしろ、天皇の神聖なる権威が権力者・為政者の権力濫用を抑制するのである。それがわが国の建国以来の國體であり歴史である。また、天皇の「仰せごと・みことのりが」わが國における最高の法である。天皇が成文法の下にあるなどといふ事は絶対にあり得ない。また、わが國の最高の成文憲法は、「天壌無窮の御神勅」である。

 

日本国は信仰共同体であり国民が契約を結んで人工的に作った国ではない。そして祭祀主である天皇は国民と対立してこれを力によって支配する御存在ではない。これが日本肇国以来の国柄であり國體である。

 

近代日本の成文憲法即ち『大日本帝国憲法』は肇国以来の日本の国柄即ち日本國體を成文化したものである。

 

西洋憲法思想では、前述したように、「憲法は権力に対する制限規範である」され、権力は放っておくと濫用されるので為政者の手を縛る必要から成文憲法が必要であるとされる。このような性格を持つ成文憲法に、神話時代より悠久の歴史を有する日本国体を規定すること自体不自然なことなのである。

 

つまり、日本の歴史と傳統そして日本國體は、西洋の契約思想や人間不信を基盤とした西洋近代の成文法とは基本的に相容れないのである。また西洋の国家観である「国家法人説」とは相容れないのである。

 

わが日本は国家の本質と君主たる天皇の御本質が建国以来、信仰的に厳然と確立している。これを法律論的に言えば、不文法によって定まっているということである。故に成文憲法でそれを変革することはできないし、成文憲法は不文憲法(立国の基本)に反する規定をしてはならない。西洋から輸入した近代法思想に基づく成文憲法によって立国の基本即ち日本國體を覆したり破壊してはならない。

 

換言すると、天皇及び皇室そしてそれを中心とする日本國體は、成文憲法などの世俗的な法律を超越しており、成文憲法などの権力機関で制定された法律は、國體及び皇室にかかわることに干渉することはできないのである。

 

日本天皇が日本国の君主・統治者であらせられるのは、日本の伝統信仰・歴史的な国体観念に基づくのであって、成文憲法に規定されているから天皇が君主であらせられるのではない。

 

日本天皇は、祭祀国家日本の祭祀主であらせられ、本来政治権力者てはあらせられない。「現行占領憲法」にも、「第四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と書かれている。従って、日本天皇は、「権力の制限規範」である「成文憲法」たる「現行占領憲法」によって規制される御存在ではあり得ないのである。

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