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2017年3月19日 (日)

『屏風にあそぶ春のしつらえ』展を参観して

本日参観した『屏風にあそぶ春のしつらえ』展は、「春を彩る屏風の名品と、茶道具や新収蔵品のおもてなしのうつわをあわせて披露します。本展では、江戸時代・寛永3年(1626)、将軍・徳川家光、その父秀忠の招きに応じ、後水尾天皇が京都・二条城に行幸する様子を描いた《二条城行幸図屏風》を展示します。行幸の道沿いでは見物する大勢の人々が描かれ、みな着飾り思い思いに過ごす情景は、京風俗の宝庫といえます。前期では、《誰ヶ袖図屏風》(江戸時代・17世紀)や《扇面散・農村風俗図屏風》(江戸時代・17世紀)を、後期では《大原行幸図屏風》(桃山時代・16世紀)や俵屋宗達にはじまる俵屋工房制作の「伊年」印《四季草花図屏風》(江戸時代・17-18世紀)などと共に、華やかな春の世界をどうぞお楽しみください」(案内書)との趣旨で開催された。

 

《二条城行幸図屏風》江戸時代・17世紀、《丹波茶入 銘 山桜》江戸時代・17世紀、《紅葉呉器茶碗》朝鮮時代・16世紀、菊池容斎 《桜図》江戸時代・弘化4年(1847)、《誰ヶ袖屏風》江戸時代・18世紀、などを参観。

 

《二条城行幸図屏風》は、寛永三年(一六二六)九月六日、後水尾天皇が京都における徳川将軍の居城である二条城に行幸された時の、天皇と将軍の行列図である。後水尾天皇をお招きしたのは、当時大御所とよばれた前将軍・德川秀忠、第三代・将軍徳川秀忠である。招かれたのは、後水尾天皇、中宮和子(まさこ)そして皇族方である。和子様は秀忠の五女であられる。

 

幕府が、天下を掌握した徳川氏の威信と正統性を天下に示した大行事であった。また公武関係の融和を図る意味もあったとされる。京都の民衆は、将軍の先導で、二条城に赴かれる天皇・皇族方の絢爛たる行列を見て、徳川氏が天下の覇者となったことを強烈に印象付けられたであろう。

 

この行幸を企画したのは、南禅寺の僧・金地院崇伝である。金地院崇伝は徳川将軍のプレーンであり「黒衣の宰相」と言われた人物である。彼は、この行幸の後に起こった「紫衣事件」や、この行事の前、家康存命中の「禁中並びの公家諸法度」制定にも深く関わった。朝廷の廷臣では烏丸光廣が有職故実に基づいて関与したという。

 

この行幸の翌年に、幕府による朝廷規制圧迫策である「紫衣事件」が起こった。その三年後に、後水尾天皇の御譲位が断行された。二条城行幸は、徳川幕府海幕以来続いた徳川氏による朝廷圧迫の最中の束の間の「融和」を示す行事とされる。

 

《二条城行幸図屏風》は、江戸時代から住友家に秘蔵されてきた。大切に保存されて来たためか、絵の具の退色・剥落が非常に少ないという。朝廷のお行列と幕府の行列が細部にわたって精密に描写されている。また沿道で集まった多くの老若男女の生態が克明に描かれている。当時の風俗を知るための貴重な資料とされる。

 

行列は御所から二条城まで堀川通りを南下した。天皇は鳳輦にお乗りになった。後水尾天皇には、内大臣二条康道、右大将九錠道房、右大臣一条兼遐、左大将鷹司教平、関白近衛信尋(のぶひろ)が供奉した。家光の行列は、天皇を奉迎するため中立売通を東上した。将軍の牛車は葵の紋に飾られ皇臣や摂関のみにゆるされる唐庇車(からひさしのくるま)であった。将軍・秀忠には、尾張・紀伊・駿河・水戸の徳川一門、伊達政宗など國持ち大名が鎧兜ではなく公家装束で供奉した。

 

後水尾天皇は『紫衣事件』や』『春日局参内』なを端緒とする幕府に対するお怒りを表明して三十四歳で譲位され、以後、五十一年にわたって院政を敷かれた。修学院離宮を造営され、本阿弥光悦など多くの文化人を庇護された

 

泉屋博古館編の『二条城行幸図屏の世界』には「舞台は『政治・経済・文化の総体』としての京都、登場するのは『この都にながく君臨してきた天皇一族』、そしてそれを見物する『豊かな民』。民衆は立会人であると同時に行幸を盛り上げる最大の立役者でもある。旺盛な観衆表現は、それを演出した将軍の天下の繁栄ぶりを知らしめる重要な役割をも果たしている。公・武・民がそろって始めて行幸図が完成するのだ。しかし行幸の後、程なく幕府は支配を強化し、朝廷も今日の町衆も完全に管理下におかれることとなる」と書かれている。

 

天皇の武家への行幸は、後陽成天皇の豊臣秀吉の聚楽第行幸以来、四十年ぶりのことであった。幕府の将軍が上洛し、参内し、行幸を仰ぐことによって、徳川幕府の正統性と権威を高めたのである。しかし、徳川氏は、表面的には、天朝尊崇の姿勢を示したのであるが、実際には此の行事の後にも「紫衣事件」など朝廷圧迫策をとり続けた。

 

徳川家康には基本的に尊皇心は希薄であったと考える。ただ徳川政権の持続と正統性の確保のためには、天皇及び天皇の伝統的権威を利用した。しかし、天皇・朝廷を京都に事実上の軟禁状態に置いた。

 

元和元年(一六一五)、幕府は『禁中並びに公家諸法度』を制定し、朝廷と宮家・公家に有史以来未曾有の掣肘を加へた。天皇・朝廷に対し奉り京都所司代が厳しい監視にあたった。

 

江戸時代初期、德川幕府の理不尽なる圧迫を受けられたに後水天皇は、「忍」の一字をしきりにしたためられた。私も何年か前に、京都岩倉の実相院で拝観した。 実相院第十七世義尊門主の母・法誓院三位局は、後陽成天皇との間に聖護院門主道晃親王をもうけているため、後水尾天皇とは兄弟のような関係にあり、後水尾天皇は 実相院へは度々行幸されたと承る。

 

後水尾天皇は、

「思ふこと なきだにそむく 世の中に あはれすてても おしからぬ身は」

「葦原や しげらばげれ おのがまま とても道ある 世とは思はず」

といふ御製をのこされてゐる。

 

江戸時代の朝廷は、德川幕府によって圧迫され掣肘され、迫害されたと言っても言い過ぎではない。故に、財政的にも窮乏した。古代・中古時代のような天皇の御陵を造営することもできず、江戸期の歴代天皇は、京都東山泉涌寺の寺域に造営された仏式の石塔の御陵に鎮まられている。徳川歴代将軍が、江戸の芝増上寺、上野寛永寺の豪華な墓が眠っていることと比較すると、德川氏の天皇・朝廷への態度がいかにひどかったかが、事実を以て証明されるのである。

 

江戸時代の禁裏御料はたったの三万石であったと承る。それも、家康が、慶長四年(一六〇一)五月、一五千石を献上した後、家光が一万五升四合、家宣が一万一斗余を献上し、ようやく三万石余になったといふ。まことに畏れ多いが、地方の小大名並の石高であった。

 

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