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2017年2月23日 (木)

西郷隆盛の対韓外交論は侵略主義では断じてない

 

 所謂「征韓論」問題について、「征韓論は簡単にいえば、全國三百万人ともいわれる没落士族を救う道は、『外征以外にない』として士族の不満を、外にそらそうとしたということができる」という論議がある。

 

 つまり、西郷隆盛の主張した対韓政策は全くの侵略論であったというのである。これは断じて誤りである。

 

 そもそも「征韓論」という歴史用語自体が大きな誤解を生んでいる。明治新政府の筆頭参議をつとめていた西郷隆盛は、決して朝鮮半島を武力侵略しようとしていたのではない。

 

当時、韓國政府は、わが明治新政府に反感を持ち、國書の受取りを拒否するのみならず、「日本人は畜生と変わるところがないから今後日本人と交際する者は死刑に処す」という布告(今の北朝鮮でもこんな布告はない)を出したり、釜山の日本公館に準じる施設を封鎖したり、日本人居留民を迫害したり、韓國水軍が釜山沖で大演習を行った。

 

 西郷隆盛は、「韓國政府の姿勢を糺すために西郷隆盛が自ら使者として韓國に赴く。万一、韓國側によって西郷が殺されるようなことになったら、やむを得ず戦端を開く」というごく当然の外交交渉を行うべしと主張しただけである。

 

 西郷は閣議で「大使は、宜しく烏帽子(えぼし)・直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし、道を正しうして之に当たるべし。今、俄かに兵を率いて赴くが如きは、断じて不可なり。」と論じている。西郷は征韓でも武力侵略でもなく、礼を尽くして修好にあたろうと主張したのである。

 

 西郷の主張及び目的は、「没落士族を『外征』によって救おうとした」などという侵略主義では断じてない。

 

 葦津珍彦先生は、「かれ(西郷隆盛)の説は決して好戦的でもなく威圧的でもない。十九世紀の列國外交が、常に兵力を用いて強硬外交をした事実とくらべてみれば、『論理的』にはるかに平和的で、礼儀正しい。この西郷の外交理論は、その後も変わっいない。これから間もなく西郷下野の後に(明治八年九月)、日本軍艦が仁川沖で朝鮮に対して発砲したとき、西郷は公然と日本政府の武力行使と威圧外交を非難している」(永遠の維新者)と論じておられる。

 

 大久保利通や岩倉具視が、西郷らの対韓外交論に対して横車を押し反対したのは、西郷や江藤新平など(いわゆる留守政府)からの権力奪取のためである。岩倉・大久保にとって、彼らが洋行中に明治新政府が西郷・江藤らによって牛耳られてしまったことが我慢ならなかった。もし、「西郷遣韓」による韓國外交が成功したら、大久保らの出る幕は益々少なくなってしまう。だから西郷や江藤らの対韓外交政策に反対したのである。「内治優先」というのはあくまでも理由付けである。西郷らの主張を葬り去ることによって大久保らによる権力奪取を目指したのである。

 

 大久保利通は、西郷らの対韓政策を「内治優先」を理由にして反対しながら、西郷下野後の明治七年には台湾出兵を断行し、明治八年には江華島事件を起こして武力による朝鮮政策を行っている。やむを得ざることとはいいながら、大久保の主張も行動も矛盾だらけであり「見上げたもの」などでは全くない。

 

 心ある史家は、西郷は東洋王道精神を実践し、大久保は西洋覇道路線を歩んだという評価をしている。

 

 また、西郷ほど内治についても功績のあった人はいない。西郷が筆頭参議を務めていた期間即ち大久保らの留守中に、封建身分制度の廃止・人権の確立・國民皆兵制・御親兵設置・廃藩置県などの諸改革が行われた。大久保らはこうしたことにも嫉妬したのである。西郷は保守反動では決してない。

 

 明治六年十月十五日、西郷の主張が閣議で大久保利通を含む満場一致で正式決定していたにもかかわらず、大久保と岩倉具視は謀略を用いてこれをひっくり返した。岩倉・大久保は、『五箇条の御誓文』に示されている「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」の御精神を蹂躙したのである。西郷隆盛は道義的にも政治的にも法律的にも何ら責められるべきことはしていない。

 

 さらに大久保と岩倉は西郷が、天皇陛下に直訴・上奏することを恐れ、遮断の策を講じた。西郷隆盛は、天皇陛下に背き奉ったのでは断じてない。岩倉・大久保らの陰謀によって排除されたのである。そして、恩人西郷隆盛を裏切り大久保の手先となったのが川路利良初代警視総監である。

 

 葦津珍彦先生は、「西郷及び西南戦争を戦った第二維新の戦闘者たちは、決して頑迷な復古主義者ではない。議會政治の実現を望んだ。西郷の対韓外交論が閣議で決定されたのに、大久保・岩倉が陰謀を用いてこれをひっくり返したことに抗議して、野に下ったのである。しかして『民選議院設立建白書』を提出したのも彼らである。」と論じておられる。

 

 韓國の近代史家の多くは、「西郷の征韓論は日本侵略主義の原点である」などと主張しているという。そうした歴史問題に関する韓國側の一方的な日本非難に手を貸すような論議が、日本人によって主張されていることは、まことに残念である。

 

 西南戦争の後に確立した西洋に学んで日本を近代化し独立を維持するという基本路線は全面的に否定されるべきではないが、日本の道統・皇道精神を隠蔽させてはならなかった。西洋に学ぶとはあくまでも良きところを取り入れるということであって、西洋になりきることではない。

 

 川路は西洋視察からの帰國の船中で、「『今の日本には何よりもまず内政を安定させて、藩体制から府県にかわったばかりの國内統一と安定を、完成させることが大事だ。そのためにも、その基盤となる警察組織を確立することが、何よりも必要なのだ。日本は今、西欧に誇れるようなものは何もないが、俺(おい)は警察だけは世界一流のものにしたいと思っている。きっとしてみせる』と言った」という。(神川武利氏著『大警視・川路利良』)

 

 川路が本当に「西欧に誇れるものは何もない」と思っていたのだとすれば、日本の道統を無視した考え方であり、西郷隆盛の考え方とは全く逆である。

 

 『大西郷遺訓』には、「廣く各國の制度を採り、開明に進まんと欲せば、先づ我國の本體を立て、風教を張り、而して後、徐(しづ)かに彼の長所を斟酌すべし、然らずして猥りに彼に倣はゞ、國體は衰頽し、風教は萎靡して、匡救すべからざるに至るべし」と書かれている。

 

 『大西郷の精神』とは、国家の自主独立の精神であり、皇室を敬い国民に真の平安をもたらす政治の実現である。西洋列強の侵略から祖国を守り四民平等の国を建設するための大変革であった明治維新を戦い、さらに維新後にあってもなお、東洋の平和と理想の道義国家建設のために戦った大西郷の精神こそ、今の日本にもっとも必要なものである。何故なら今の日本は、幕末及び明治初期の我國以上に、外国から侮りを受け、政治は乱れに乱れているからである。

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