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2017年1月22日 (日)

徳川光圀の尊皇精神 

 

徳川光圀は水戸藩第二代藩主。寛永五年(一六二八)に生まれ、元禄十三年(一七00)に没している。家康の孫である。

 

 光圀は明暦三年<一六五七>に歴史書・『大日本史』の編纂を命じた。完成したのは明治三十九年<一九0六>である。『大日本史』は、神武天皇から後小松天皇までの國史を漢文の紀伝體(歴史記述法の一つ。本紀(ほんぎ) ・列伝などの別を立てて記す)で編述し、その大義名分論に基づく歴史観は幕末の尊皇攘夷思想に大きな影響を与えた。編纂には二百五十年の歳月を費やして明治の御代になって完成した。紀伝、志表合せて三百九十七巻、目録五巻、計四百二巻。長年月に亘って、父祖の業がかくの如く継承されたことは、古今東西未曾有のない驚異的なことである。

 

 『大日本史』編纂は、一つの著述というより一つの學派の形成と言っていい。しかもそれは経済的にも大事業であった。光圀はそのため二百名以上の學者を四百石から百五十石くらいの禄で抱えた。

 

 ただし、『大日本史』の修史(歴史の編集)の方法は、支那の朱子學(朱子が大成した儒學。格物致知<物の道理をきわめつくして、自分の後天的の知をきわめること>を眼目とする実践道徳を唱えた)の史観の強い影響下にあった。『大日本史』が神武天皇の御代から始まり、神代のことが記されていないのは、「實に據って事を記す」という史観の建て前からで、「記紀」の神代の記述を史実と認めることができないという理由に基づいたと言われている。

 

 また明治維新の思想的原動力の一つは『楠公精神』(楠正成の勤皇精神とその行動)である。楠公崇拝の機運が高まったのは、徳川光圀が湊川に『嗚呼忠臣楠子之墓』と刻された石碑を建てたことが、与かって最も力があった。

 

 さらに光圀は、幕府に対して天皇御陵の修復を進言した。元禄及び享保の時代に幕府が幾分御陵修復を行ったのは光圀や柳沢吉保の進言によったものという。斉昭は光圀の志を継承し、天保四年(一八三三)藤田東湖の妹婿・桑原信毅を京都に送り、山陵調査に当たらしめている。斉昭は鷹司関白や幕府に対し、山陵修補を促した書簡を多く送っている。しかし幕府の対応は冷淡であった。水戸徳川家の尊皇精神は理論だけでなく実行を伴っていたのである。

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