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2017年1月29日 (日)

「天の岩戸隠れ神話」について

天照大神の「御霊代(みたましろ)・依代(よりしろ)」は「八咫鏡」」である。「御霊代・依代」とは神が顕現する時の媒体となるものである。『古事記』には、邇邇藝命が天降られる時、天照大御神が「これの鏡は、もはら我が御魂として、吾が前を拝(いつ)くがごと、斎(いつ)きまつれ」(この鏡こそはもっぱら私の魂として、私の前を祭るやうにお祭り申し上げよ)との御神勅を下されたと記されてゐる。

 

「八咫鏡」は、天照大神の顕現であり、天照大神と同じきもの、一体のものとして拝まれる。『日本書紀』には、鏡を作って日の神の御像としたことが記されてゐる。

 

「八咫鏡」は、天照大神が岩戸にお隠れになった時、石凝姥命(いしこりどめのみこと)がお造りしたと伝承されてゐる。天照大神の神霊の依代(よりしろ)として天孫降臨の後、宮中に安置され、垂仁天皇の時代に伊勢に移され、伊勢の神宮の御神体として祀られた。また、皇位継承の「みしるし」として宮中賢所(かしこどころ)に代りの鏡がまつられてゐる。

 

『日本書紀』には、「伊弉諾尊の曰はく、『吾、御㝢(あめのしたしら)すべき珍(うづ)の子を生まむと欲ふ』とのたまひて、乃ち左の手を以て白銅鏡(ますみのかがみ)を持()りたまふときに、則ち化り出づる神有()す。是を大日孁尊と謂(まう)す」と記されてゐる。

大日孁尊即ち天照大神は、その出生の時に白銅鏡が化して生まれられたのである。このことは、『古事記』に示された天照大神の御神勅及び『日本書紀』に、天照大神が天忍穂耳命(あまのほしほみみのみこと・邇邇藝命の父神)に「宝鏡」を授けて「視此宝鏡、当猶視吾、可与同殿共殿、以為斎鏡」(この鏡を視まさむこと、まさに吾を視るがごとくすべし。ともに床(ゆか)を同じくし殿(おほとの)を共(ひとつ)にして、斎鏡(いはひのかがみ)とすべし)と命じられたと記されてゐることに対応する。

 

鏡は三世紀代の古墳から発見されてをり、その頃には太陽神(日の神)祭祀に用いられてゐたと思はれる。太陽に鏡を向けると、その鏡は太陽光を反射してと太陽と同じようにまぶしく光り輝くので太陽神の神霊を招き迎へ太陽神を象徴するのに最もふさはしいものとされたと考へられる。

 

「天の岩戸隠れの神話」は、天皇の御魂を鎮め奉る宮中祭祀である鎮魂祭と結びついた神話であるとされてゐる。鎮魂祭は、仲秋即ち旧十一月の寅の日に行はれる新嘗祭の前日に行はれると承る。つまりその祭儀は太陽の最も衰へる冬至に行はれた。冬至は農耕民族たる日本人にとって「古い太陽が死ぬ日」であり「新しい太陽が誕生する日」であった。

天照大神の岩戸隠れは太陽の衰弱であり、岩戸よりの出現は新しい太陽の再生なのである。「天の岩戸隠れの神話」は、冬至の日に行はれた太陽復活祭である。

 

松前健氏は、「鎮魂祭は、冬至のころの太陽祭儀であり、冬に衰える太陽の高熱の回復のため、その神の裔としての日の御子であり、かつその化身であると考えられた天皇に対して、そのタマフリを行ったのが趣意であろうということは、すでに定説化している」(『日本の神々』)と論じてゐる。

 

「たまふり」とは、魂に活力を与へ再生させることである。天照大神いったん岩戸に籠られることによって、霊力を復活・更新し、新たにご出現になるのである。そもそも「祭り」とは、原初への回帰による霊力・生命力復活の行事である。

 

「天の岩戸隠れ神話」には、日本の踊りの起源も語られてゐる。即ち『古事記』に、天宇受賣命が「天の石屋戸に覆槽(うけ)伏せて踏みとどろこし、神懸りして、胸乳掛き出で、裳の緒(ひも)を陰(ほと)に忍し垂りき」(伏せた桶の上に立ってそれを踏み轟かせながら神懸りして乳房を出して裳の紐を陰部に垂らした)と記されてゐるのが舞踊の起源なのである。 

 

桶を踏み轟かせたのは、大地に籠ってゐる霊を目覚めさせそれを天照大神のお体の中にお送りすることである。神懸りとは宗教的興奮状態のことである。つまり舞踊の起源は神を祭るために神の前で霊的興奮状態になって舞ひ踊ることであった。これを神楽といふ。天宇受賣命は舞踊を含めた日本芸能の元祖なのである。

 

「阿波礼、阿南於毛志呂、阿南多乃之、阿南佐屋気、於気於気(あはれ、あなおもしろ、 あなたのし、あなさやけ、おけおけ)」(『古語拾遺』)

 

これは、天照大神が天の岩戸からお戻りになり、世界が明るさを取り戻した際、天の岩戸の前で神々が歌ひ踊って喜ぶ場面の掛け声である。日の神たる天照大御神の再臨は、笑ひによって實現した。日本民族にとって「笑ひ」とは、暗黒や邪気を除去し明るい日の神を迎へる歓びであった。

 

日本人が「祭り」が好きなのは、日本人が本来明るい性格の民族であるからである。「面白い」といふの言葉は、實に天の岩戸開き以来の言葉である。神人合一とは、明るい面白い境地なのである。

 

わが日本の国民性は、厭世的でもなければ逃避的でもない。いかなる困難も罪穢も神を祭ることによってこれを明るく打開し祓ひ清め、新たなる力を再生し発揮するのである。

日本人はすべてにおいて明るく大らかな民族であるので、太陽神たる天照大神を主神と仰いだ。「見直し聞き直し詔り直し」の思想もここから発する。明るく笑ひに満たされた歓喜の祭りによって神の再生・再登場が実現する。これが他の宗教は厳しい修行や悔い改めをしなければ神に近づくことができないといふのとは異なる日本伝統信仰の特徴である。

 

祭事とは共同体における霊的心理的宗教的な営みの中でもっとも大切なものである。それは生命の更新・再生であるからである。つまり新たな生命の始まりが祭事によって実現する。

 

「祭祀」は物事の全ての原始の状態を再現復活せしめる行事である。一時的に生命が弱くなることがあっても、祭祀によっていっそうの活力をもって再生する。それは稲穂といふ植物の生命は、秋の獲り入れ冬の表面的な消滅の後に春になると再生するといふ農耕生活の実体験より生まれた信仰行事である。

 

そしてこの稲穂の命の再生は、天照大神の再生と共に行はれるのである。さらに天照大神の再生は人々の知力・呪力・体力・技術力・そしてたゆまぬ努力と明るさを失はぬ精神によって実現する。かうしたことを象徴的に語ってゐるのが「天の岩戸隠れ神話」である。

 

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