« 千駄木庵日乗一月六日 | トップページ | 千駄木庵日乗一月七日 »

2017年1月 7日 (土)

亀井静香氏の妄論について

亀井静香氏が、『月刊日本』平成二十九年一月号で「天皇陛下には基本的人権はない。人間ではない。譲位を認めるべきではない」「天皇のお言葉に対して安倍総理はサボタージュすべし」などと主張したことは旧臘十二月二十五日にも書きました。

 

亀井氏はまた、「天皇陛下の本来のお務めは宮中祭祀と国事行為であって、被災地や激戦地に行かれることではない」とも述べてゐる。亀井氏は、祭祀が、天皇陛下の最も重要なお務めであることは承知してゐるようである。

 

日本天皇は、日本国の祭祀主であらせられ、現御神であらせられ、日本国の「君主」であらせられ「国民」ではあらせられない。これはあまりにも自明のことである。

 

「人権」とは「人間が人間として生きるために生来持ってゐる権利」とだと言ふ。であるならば、「現御神」であらせられる日本天皇は、普通一般の「人間」ではあらせられないのであるから「人権」はお持ちにならない。そんなことは亀井氏が主張しなくとも当たり前のことである。

 

「人権」といふ考へ方は、一二一五年のイギリスの『マグナ・カルタ(大憲章)』がその淵源であると言ふ。さらに「絶対王政」を打倒し「共和制」に移行した「フランス革命」当初の一七八九年八月のフランス国民議会は『人と市民の権利の宣言』(所謂世界人権宣言)を議決した。この「宣言」における多くの原理は今日に至るまで広範囲に及ぶ影響を持ってゐる。つまり、「人権思想」とは、絶対専制君主と人民との闘争に於いて生まれてきた思想であって、君民一体・一君万民の日本國體精神とは本来異質の考へ方である。我が国においては単なる「ヒト」(ホモ・サピエンス)「市民」「人民」といふ概念は無い。わが国においては「ヒト」とは「日人」であり「国民」「臣民」「皇民」である。

 

さらに、「国民」「臣民」「皇民」ではなく「上御一人」であらせられる天皇陛下は、国民としての権利即ち「民権」はお持ちになってをられない。「国民」ではない「君主」が「国民としての権利」即ち「民権」をお持ちにならないのはこれまた当たり前のことである。

 

亀井氏は、天皇陛下が「基本的人権」をお持ちになっをられないことを「お気の毒なことです。申し訳ないことです」などと言ってゐるが、言外に、「天皇には基本的人権はないのだから、譲位される権利もない」と言ってゐるのだ。だからかかる言葉を発するのだ。対談相手の石原慎太郎氏が、「天皇陛下がくたびれるのは当たり前です。そういうことを斟酌すると、私は天皇陛下のご意向を一緒になって考えなといといけないと思います」と述べたのに対して、亀井氏は、「非常にセンチメンタルで、石原さんらしくないね」と返答し、さらに、「天皇陛下には基本的人権はないんです。人間ではないんです。お気の毒な立場ですが、そういう御存在なんです。そういう面で我々は畏敬の念、尊崇の念を持って行けばいいと思う」と語った。

 

祭祀主日本天皇は、現御神として神聖にして最尊最貴の権威を持ってをられる。上御一人日本天皇の現御神・祭祀主たる御本質は決して「お気の毒な立場」ではない。

 

「現御神」あるいは「現人神」とは、読んで字の如く、現実に人として現れた神といふことである。人でありながら神であり、神でありながらながら人であるお方が、祭り主であられる日本天皇なのである。それを名詞で表現したことばが「現人神」「現御神」なのである。だから亀井氏のように一概に「天皇は人間ではない」などと言ふのも間違ってゐる。 

 

葦津珍彦氏は〈現御神日本天皇〉の意義について次のやうに論じてゐる。「天皇おん自らは、いつも過ちなきか、罪けがれなきかと恐れて御精進なさっている。天上の神になってしまって、謬つことなき万能の神だと宣言なさった天皇はない。…現御神とは、地上において高天原の神意を顕現なさる御方というのであって、決して無謬・無過失の神だというのではない。」「現人神というのは人間ではないというのではない。人間であらせられるからこそ、皇祖神への祭りを怠らせられないのである。天皇は、神に対して常に祭りをなさっている。そして神に接近し、皇祖神の神意に相通じ、精神的に皇祖神と一体となるべく日常不断に努力なさっている。天皇は祭りを受けられているのではなく、自ら祭りをなさっている。祭神なのではなくして祭り主なのである。その意味で人間であらせられる。けれども臣民の側からすれば、天皇は決してただの人間ではない。常に祭りによって皇祖神と相通じて、地上において皇祖神の神意を表現なさるお方であり、まさしくこの世に於ける神であらせられる。目に見ることのできる神である。だからこそ現御神(現人神)と申上げる。」(『近代民主主義の終末』)。

 

現御神日本天皇は、天つ神・皇祖神の御子としての神聖なる権威を担って、目に見える人の姿として、現実に地上に現れられた神であらせられる。

 

日本國の祭り主であられる天皇は、「無私」になって神にまつろひ奉る御方であり、神のみ心を伺ひ、それを民に示される御方である。また民の願ひを神に申し上げて神の御加護を祈られる御方である。

 

「祭る」とは無私になって神にまつろふといふ事であり、祭る者が自分を無にして祭られる者=神に従ふといふ事である。「祭り」とは神人合一の行事である。天皇が祭り主として「無私」であられるからこそ、神のみ心を実現され、天照大神の神霊を體現される御方となられるのである。だから民から天皇を仰ぐ時には「この世に生きたまふ神」すなはち「現御神(あきつみかみ)」あるいは「現人神(あらひとがみ)」と申し上げるのである。

 

現御神(現人神)日本天皇は、天つ神・皇祖神の御子としての神聖なる権威を担って、目に見える人の姿として、現実に地上に現れられた神であらせられる。そして、皇祖天照大神の住みたまふ天上界(高天原)と地上とは隔絶した関係ではなく、常に交流してゐる関係にある。

 

日本人の傳統信仰は、皇祖神と天皇の関係ばかりでなく日本の神々と一般國民も種々の形で交流し、両者の間に超えがたい区別などはないのである。神はしばしば人の姿をとって現実世界に現れ、人の口を借りて神意を傳へんとする。

 

天皇陛下が祭り主・現御神として「無私の御存在」であることを「天皇には人権がない」と言ったといふ理解も不可能ではない。しかしそれなら、「お気の毒」などとは言へないはずである。

 

無私の御存在であり、祭祀主・現御神たる天皇陛下の御心に対し奉り、絶対的に従ひ奉るのが臣民の道である。祭祀主・現御神としての天皇陛下の神聖性・尊貴性を正しく語ることをせず、「天皇に人権はない」「お気の毒」などと慎みのない言葉を繰り返し、安倍総理に対して、天皇陛下の御意志・御心を拳拳服膺せず、「サボタージュすべし」などと要求してゐる亀井静香氏には、現御神日本天皇に対する尊崇の心が希薄であるからだと言はざるを得ない。

|

« 千駄木庵日乗一月六日 | トップページ | 千駄木庵日乗一月七日 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/121949/64730174

この記事へのトラックバック一覧です: 亀井静香氏の妄論について:

« 千駄木庵日乗一月六日 | トップページ | 千駄木庵日乗一月七日 »