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2017年1月29日 (日)

「天の岩戸隠れ神話」について

天照大神の「御霊代(みたましろ)・依代(よりしろ)」は「八咫鏡」」である。「御霊代・依代」とは神が顕現する時の媒体となるものである。『古事記』には、邇邇藝命が天降られる時、天照大御神が「これの鏡は、もはら我が御魂として、吾が前を拝(いつ)くがごと、斎(いつ)きまつれ」(この鏡こそはもっぱら私の魂として、私の前を祭るやうにお祭り申し上げよ)との御神勅を下されたと記されてゐる。

 

「八咫鏡」は、天照大神の顕現であり、天照大神と同じきもの、一体のものとして拝まれる。『日本書紀』には、鏡を作って日の神の御像としたことが記されてゐる。

 

「八咫鏡」は、天照大神が岩戸にお隠れになった時、石凝姥命(いしこりどめのみこと)がお造りしたと伝承されてゐる。天照大神の神霊の依代(よりしろ)として天孫降臨の後、宮中に安置され、垂仁天皇の時代に伊勢に移され、伊勢の神宮の御神体として祀られた。また、皇位継承の「みしるし」として宮中賢所(かしこどころ)に代りの鏡がまつられてゐる。

 

『日本書紀』には、「伊弉諾尊の曰はく、『吾、御㝢(あめのしたしら)すべき珍(うづ)の子を生まむと欲ふ』とのたまひて、乃ち左の手を以て白銅鏡(ますみのかがみ)を持()りたまふときに、則ち化り出づる神有()す。是を大日孁尊と謂(まう)す」と記されてゐる。

大日孁尊即ち天照大神は、その出生の時に白銅鏡が化して生まれられたのである。このことは、『古事記』に示された天照大神の御神勅及び『日本書紀』に、天照大神が天忍穂耳命(あまのほしほみみのみこと・邇邇藝命の父神)に「宝鏡」を授けて「視此宝鏡、当猶視吾、可与同殿共殿、以為斎鏡」(この鏡を視まさむこと、まさに吾を視るがごとくすべし。ともに床(ゆか)を同じくし殿(おほとの)を共(ひとつ)にして、斎鏡(いはひのかがみ)とすべし)と命じられたと記されてゐることに対応する。

 

鏡は三世紀代の古墳から発見されてをり、その頃には太陽神(日の神)祭祀に用いられてゐたと思はれる。太陽に鏡を向けると、その鏡は太陽光を反射してと太陽と同じようにまぶしく光り輝くので太陽神の神霊を招き迎へ太陽神を象徴するのに最もふさはしいものとされたと考へられる。

 

「天の岩戸隠れの神話」は、天皇の御魂を鎮め奉る宮中祭祀である鎮魂祭と結びついた神話であるとされてゐる。鎮魂祭は、仲秋即ち旧十一月の寅の日に行はれる新嘗祭の前日に行はれると承る。つまりその祭儀は太陽の最も衰へる冬至に行はれた。冬至は農耕民族たる日本人にとって「古い太陽が死ぬ日」であり「新しい太陽が誕生する日」であった。

天照大神の岩戸隠れは太陽の衰弱であり、岩戸よりの出現は新しい太陽の再生なのである。「天の岩戸隠れの神話」は、冬至の日に行はれた太陽復活祭である。

 

松前健氏は、「鎮魂祭は、冬至のころの太陽祭儀であり、冬に衰える太陽の高熱の回復のため、その神の裔としての日の御子であり、かつその化身であると考えられた天皇に対して、そのタマフリを行ったのが趣意であろうということは、すでに定説化している」(『日本の神々』)と論じてゐる。

 

「たまふり」とは、魂に活力を与へ再生させることである。天照大神いったん岩戸に籠られることによって、霊力を復活・更新し、新たにご出現になるのである。そもそも「祭り」とは、原初への回帰による霊力・生命力復活の行事である。

 

「天の岩戸隠れ神話」には、日本の踊りの起源も語られてゐる。即ち『古事記』に、天宇受賣命が「天の石屋戸に覆槽(うけ)伏せて踏みとどろこし、神懸りして、胸乳掛き出で、裳の緒(ひも)を陰(ほと)に忍し垂りき」(伏せた桶の上に立ってそれを踏み轟かせながら神懸りして乳房を出して裳の紐を陰部に垂らした)と記されてゐるのが舞踊の起源なのである。 

 

桶を踏み轟かせたのは、大地に籠ってゐる霊を目覚めさせそれを天照大神のお体の中にお送りすることである。神懸りとは宗教的興奮状態のことである。つまり舞踊の起源は神を祭るために神の前で霊的興奮状態になって舞ひ踊ることであった。これを神楽といふ。天宇受賣命は舞踊を含めた日本芸能の元祖なのである。

 

「阿波礼、阿南於毛志呂、阿南多乃之、阿南佐屋気、於気於気(あはれ、あなおもしろ、 あなたのし、あなさやけ、おけおけ)」(『古語拾遺』)

 

これは、天照大神が天の岩戸からお戻りになり、世界が明るさを取り戻した際、天の岩戸の前で神々が歌ひ踊って喜ぶ場面の掛け声である。日の神たる天照大御神の再臨は、笑ひによって實現した。日本民族にとって「笑ひ」とは、暗黒や邪気を除去し明るい日の神を迎へる歓びであった。

 

日本人が「祭り」が好きなのは、日本人が本来明るい性格の民族であるからである。「面白い」といふの言葉は、實に天の岩戸開き以来の言葉である。神人合一とは、明るい面白い境地なのである。

 

わが日本の国民性は、厭世的でもなければ逃避的でもない。いかなる困難も罪穢も神を祭ることによってこれを明るく打開し祓ひ清め、新たなる力を再生し発揮するのである。

日本人はすべてにおいて明るく大らかな民族であるので、太陽神たる天照大神を主神と仰いだ。「見直し聞き直し詔り直し」の思想もここから発する。明るく笑ひに満たされた歓喜の祭りによって神の再生・再登場が実現する。これが他の宗教は厳しい修行や悔い改めをしなければ神に近づくことができないといふのとは異なる日本伝統信仰の特徴である。

 

祭事とは共同体における霊的心理的宗教的な営みの中でもっとも大切なものである。それは生命の更新・再生であるからである。つまり新たな生命の始まりが祭事によって実現する。

 

「祭祀」は物事の全ての原始の状態を再現復活せしめる行事である。一時的に生命が弱くなることがあっても、祭祀によっていっそうの活力をもって再生する。それは稲穂といふ植物の生命は、秋の獲り入れ冬の表面的な消滅の後に春になると再生するといふ農耕生活の実体験より生まれた信仰行事である。

 

そしてこの稲穂の命の再生は、天照大神の再生と共に行はれるのである。さらに天照大神の再生は人々の知力・呪力・体力・技術力・そしてたゆまぬ努力と明るさを失はぬ精神によって実現する。かうしたことを象徴的に語ってゐるのが「天の岩戸隠れ神話」である。

 

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千駄木庵日乗一月二十九日

午前は、諸雑務。

午後は、明日の出張の準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

午後六時より、春日の文京区民センターにて、『日本の心を学ぶ会』開催。林大悟氏が司会。渡邊昇氏が主催者挨拶。瀬戸弘幸氏と小生が講演。質疑応答。

帰宅後は、原稿執筆。

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2017年1月28日 (土)

日本人は日の神たる天照大神を最尊最貴の神と仰いで来た

天照大神は、その御名に示されてゐる通り、天空に照り輝く太陽の大神である。日の神とも申し上げる。天照大神は、農耕生活にとって最も大切な太陽に神であられる。その太陽神たる天照大神を祭られる祭祀主が「すめらみこと」=日本天皇である。天皇は、天照大神の神威・靈統を継承し体現される神聖君主である。故に、天照大神は皇室の祖先神・日本民族の親神として崇められて来た。日本国を「日出處」、日本天皇を「日の御子」と讃へるのも太陽神たる天照大神信仰による。

 

會澤正志斎はこの神聖なる事実を端的に「謹んで按ずるに、神州は太陽の出づる所、元氣の始まる所にして、天日之嗣、世(よよ)宸極(しんきょく)を御し、終古易らず」(『新論』)と述べた。

 

「元氣」とは、万物の根源にある氣のこと。「天日之嗣」とは、日の神たる天照大神の神威を体現され皇位を継承されてゐる御方といふ意。「宸極」とは、天子の御位のことである。

 

日本民族は神話時代から太陽を神として崇拝して来た。『古事記』に天孫邇邇藝命が降臨された地のことを「朝日の直(ただ)刺す國、夕日の日照る國なり。故(かれ)、此地は甚だ吉き地」(朝日の真っ直ぐに照り輝く地、夕日が照り映える國である。こここそは大変良き所である)と讃へてゐる。

 

日本人の主食である稲は、太陽の光と熱なくして生育しない。つまり稲の命の根源は太陽である。稲の霊と太陽の靈とは一体である。

 

『萬葉集』巻十二所収の「柿本人麻呂歌集」に「久かたの天つみ空に照れる日の失せなむ日こそ吾()が恋止まめ」(大空に高く照り輝く太陽、この太陽がなくなってしまあ日があれば、その日こそ私の恋が終る日でせう、といふ意)といふ歌がある。恋歌にも太陽尊崇の心が表白されてゐる。

 

わが國傳統信仰は、自然の中に生きる神の命と人間の命とが一體となって結ばれる信仰である。それと共に、自分たちの祖先の霊を崇め感謝し奉る信仰である。これを「敬神崇祖」という。

 

古代日本人の素朴な太陽への信仰・崇拝の心が、次第に純化し太陽の光明温熱によって万物万生が生成化育するといふ、その尊い事実を神格化して太陽を最高尊貴な人格神として天照大神を拝むようになった。古代日本人は日の神の偉大性・永遠性を信じ、日の神たる天照大神は最尊最貴の神と仰がれるようになった。

 

『日本書紀』に「既にして伊弉諾尊・伊弉冊尊共に議(はか)りて曰はく。『吾已に大八洲國及山川草木を生めり。何ぞ天下の主者(きみたるもの)を生まざらむ』とのたまふ。是に、共に日の神を生みまつります。大日孁貴と号す。大日孁貴、此を於保比屡咩能武智(おほひるめのむち)と云ふ。一書に云はく、天照大神といふ。一書云はく。天照大日孁尊(あまてらすおほひるめのみこと)といふ。此の子(みこ)、光華明彩(ひかのうるは)しくして、六合(くに)の内に照り徹る」と記されてゐる。

 

ここに記されてゐるように、天照大神は、大日孁貴尊(おほひるめのむちのみこと)とも申し上げる。太陽を神格化した御名である。「ヒルメ」は光り輝く意で、ヒルマ(昼間)に通じる言葉と言ふ。「メ」は女神の意である。つまり「大日孁貴尊」とは、大いなる光輝く太陽の女性神と言ふ意である。日本伝統信仰においては、日本の主神は女性神なのである。「男尊女卑思想」は、儒教・仏教といふ外来思想の影響であり、日本には本来ない思想である。日本民族は古来、男尊女尊の民族である。

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千駄木庵日乗一月二十八日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、原稿執筆・脱稿・送付、明日の講演の準備、明後日のインタビューの準備など。

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この頃詠みし歌

 

旅行きし越前の國の酒を酌み真青き海を思ひ出しをり

 

暗き野に燃ゆる炎を眺めつつ生き行くことを肯ひにけり

 

蛍飛ぶ川辺に遊びし遠き日を思ひ出しをり夢みる如く

 

歩み来しをみなは疲れたる顔を向け我に礼する夕暮の道

 

神々しきすめらみことのお姿をテレビにて拝する今日の喜び(御歌会始)

 

大君は生きたまふ神なりとしみじみと思ふ御姿を拝し()

 

日本人を貶める言葉を吐く人を嫌悪しつつ真向ふ今日の會合

 

書を讀みてもの学ぶことの有難さ日々(にちにち)のわが歩みなりけり

 

常に笑顔で母の世話をする介護の人有難きかなと手を合はすなり

 

煌々と冴えかえりゐる満月はとことはの命を誇りゐる如し

 

強き光放ちて浮かぶ満月を仰げはわが命に新たなる力

 

ただただに月は美し寒空に煌々と照るをうち眺めつつ

 

自分の人生楽しげに語る若き友その幸せのとことはなれよ

 

君の笑み見ては嬉しき今宵かも尽きせぬ思ひにわが魂は燃ゆ

 

登り行きし山の上なる八幡宮 友と拝ろがみし旅思ひ出す

 

この国を守りたまへる武の神を拝みまつりし石清水の宮

 

ひび割れし指見つめつつこの冬は寒さ厳しきとしみじみと思ふ

 

亀がゐると子供らが覗く濁り川 命生きゐることの尊さ

 

通ひ路は常に新しき心持ち歩み行くべし明日はまた来る

 

かそかにも浮かびゐる昼の月を見てわが心淡淡となりにけるかも

 

寒き夜に家から出で来て煎餅買ふ団子坂下は人影まばら

 

國の基危うくなりゆくことをしもしみじみと知る今日の語らひ

 

真向へる女人の能面かそかにも生きゐる如くに見えにけるかも(能面面影)

 

 

 

 

 

すめらみことの御霊鎮まる泉涌寺今日も静かに清らけきかな(孝明天皇御陵)

 

 

月輪陵を拝ろがみまつる冬の朝 皇御国(すめらみくに)に生れし喜び()

 

 

孝明天皇みささぎの御前に佇みて皇国彌榮を祈りまつれり()

 

 

手を合はせ拝ろがみまつるみささきに孝明天皇は鎮まりまします()

 

 

 

登り来し山に鎮まりましませるすめらみことの御霊拝ろがむ()

 

 

とことはに日の本の國を護りませとただに祈れりみささぎの御前(月輪陵)

 

 

討たれたる人々の名が刻まれし墓を拝めば悲しかりけり(霊山墳墓)

 

 

皇国に命捧げし人々の御墓並べる尊きこの山()

 

 

霊山に登りて拝む志士の御霊 維新回天の大いなる歴史()

 

 

清々しき思ひするかも広らなる平安神宮の神域に立ち(平安神宮)

 

 

大空の澄みわたる下いにしへのすめらみことの御霊拝ろがむ()

 

 

 

 

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千駄木庵日乗一月二十七日

午前は、諸雑務。

昼は、若き友人と懇談。意見交換。

午後は、原稿執筆の準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

午後七時より、新宿にて、友人・知人と懇談。

帰宅後は、原稿執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

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2017年1月27日 (金)

深谷隆司氏の正論

深谷隆司氏の正論を紹介します。

20170127

705回「やっぱり、あの朝日新聞」

 深谷隆司の言いたい放題第705

 「やっぱり、あの朝日新聞」

 

 119日の朝日新聞に「南京事件に否定的な本 中国でホテル批判」の見出しの大きな記事が掲載された。中国べったりの朝日新聞がご注進、又、日本批判をあおっているのかと腹立たしい思いがした。

 記事の内容は、アパホテルの全部屋に、同グループ代表の元谷志雄氏が自著を置いているが、その本に「南京虐殺はありえない、被害者名簿は一人分も存在しない」と書かれており、それが問題だというのである。

 中国版ツイッターの動画は9500万回以上再生される騒ぎとなり、中国外務省や在日中国大使館は「日本の一部勢力が歴史を捻じ曲げようとしている」といつものように文句をつけてきた。ご丁寧に後追い記事を書き、韓国にも飛び火、冬季アジア札幌大会組織委員会に撤去を求め、対応に周章狼狽する様子が伝わってくる。同記事に中国新華社速報で「本の撤去、アパが約束」とあったがどこまで本当なのか。海外のホテルには聖書なども置いてある。何を置こうとホテル側には表現の自由、経営の自由があって、公序良俗に反しないかぎり問題は無い。いやなら読まなければいいだけのことで、弱腰になることは全く無いのである。

 

そもそも、南京30万人虐殺はありえないことは今や常識だ。

 1937年、盧溝橋事件から日中戦争となるが、日本軍は一気に攻め入り南京、武漢を陥落させた。当時の南京の人口は約100万人、すでにこの内8割が逃亡し残ったのは約20万であった。これは当時の王警察庁長官の談話にもある。

英、米、仏、独、伊の居留民保護のためにジュネーブ条約に基づき「安全地帯」を設けたが多くの中国人はそこに溢れた。

 東京裁判でマイナー・ベイツ師は「死者12千人」と証言したが、この数字の根拠はなく、ほとんど伝聞であった。不思議なことに年々数が増え、1985年に建てられた「南京虐殺記念館」には30万人と正面に記し、これが中国の主張なのである。鳩山元首相はここで謝罪したが馬鹿げたことである。

南京虐殺の有力な根拠となっているのはティンパーリ編「戦争とはなにか」であるが、ティンパーリはオーストラリア人でマンチェスター・ガーディアンの上海特派員、なんと蒋介石率いる国民党の宣伝部顧問であった。

東中野修造亜細亜大学教授等は「南京事件の証拠写真を検証する」(草思社)を出版したが、3年かけて膨大な研究を行い、虐殺の証拠とされた143枚の写真の内、ただの1枚も証拠写真となるものはなかったと記述している。

 

歴史の真実は時代とともに明らかになっていく。朝日新聞はどう見てもおかしい。日本の新聞として公平公正に書くことを守らなければ、更に読者数は減っていくこと必定であろう。

 

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「天地の初発の時」の回復と現代の救済

 物質偏重・経済至上・科學技術万能の世界を訂正することが現代おいて求められてゐる。日本人が古来抱いて来た自然の中に神の命を観るという信仰精神を回復しなければならない。日本及び日本國民の頽廃を救ふには、日本の伝統精神・宇宙観・神観・國家観・人間観を回復する以外に道はない。

 

 わが國の麗しい山河、かけがへのない道統を重んじ、日本の伝統的な文化を大切なものとする姿勢を取り戻し、祖國日本への限り無い愛と、國民同胞意識をより強固にしなければならない。

 

 我が國には、神話時代(神代)以来の伝統精神=日本國民の歩むべき道がある。それに回帰することによって現代の混迷を打開できる。「神話の精神」への回帰によってこそ今を新たならしめることができる。

 

 日本伝統精神の本質は、自然を大切にし自然の中に神の命を拝む心である。そして祖先を尊ぶ心である。つまりきはめて自然で自由で大らかな精神なのである。

 

 我々日本民族の祖先が有した人生や國家や世界や宇宙に対する思想精神は、誰かが説いた知識としてつくりあげてしまった観念ではなかった。

 

 神とか罪悪に関する日本人の考へ方が、全て「祭祀」といふ實際の信仰行事と不可分的に生まれてきたやうに、抽象的な論理や教義として我が國伝統信仰の精神即ち神道を理解することはできない。我が國伝統信仰は、「神話」と日本人の生活そのもの、とりわけ「祭祀」と共に生きてゐる。

 

 わが國の伝統精神における最も大切な行事は「祭祀」である。「祭祀」は、自然と人の命を拝み、自然と人の命を大切にする精神=神話の精神の實践なのである。「祭祀」が自然を破壊し、人の命を軽んずる現代の状況を救済し打開する原理となる。

 

 天皇は日本國の祭り主であらせられる。天皇はわが國建國以来、常に國民の幸福・世の平和・五穀の豊饒を、神に祈られて来てゐる。稲作生活から生まれた「神話の精神」を、「祭祀」といふ現實に生きた行事によって今日ただ今も継承し続けてきてをられる御方が、日本國の祭祀主であらせられる日本天皇である。天皇の「祭祀」によって、わが國の伝統精神が現代において生きた形で継承され、踏み行はれてゐるのである。

 

 「祭祀」とは神に奉仕(仕へ奉る)し、神の御前において自己を無にして神の御心に従ひ奉ることである。つまり神と自己との一體を確認し、神の御心のままに勤めることをお誓ひする行事である。日本最高の祭り主であらせられる天皇の無私の御精神を仰ぎ奉ることが、我が國の道義の中心である。天皇を中心とする信仰共同體が神話時代以来の日本國の本姿なのである。

 

 人は、はじめから神に生かされ、神と離れた存在ではなく神と一體の存在であった。しかし、様々の罪穢が神との一體観・神と共に生きる姿勢と心を隠蔽してしまった。禊によって罪穢を祓ひ清め、祭りと直會(神と共に供へ物を食する行事)によって神との一體観を回復する。これが神道行事の基本である。

 

 なべての「本来の姿」を回復する行事が「祭祀」である。つまり『古事記』に示されてゐる「天地の初発(はじめ)の時」(天地宇宙の始まりの時)に回帰する行事が「祭祀」である。

 

 今日、混迷の度を深めている我が國も、「天地の初発の時」を回復することによって、危機的状況を打開することができる。實際、日本民族は、全國各地で毎日のやうに祭りを行ってゐる。それは信仰共同體日本の本来の姿を回復する祈りが込められてゐる行事である。 

 

 維新変革も、罪穢を祓ひ清め國家の本来の清浄な姿・神のお生みになったままの麗しい姿を回復することである。「今を神代へ」であり「高天原を地上へ」である。

 

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千駄木庵日乗一月二十六日

午前は、諸雑務。

午後は、日本橋室町の三井美術館で開催中の『日本の伝統芸能店ー国立劇場開場五〇周年記念特別展」参観。

帰宅後は、原稿執筆の準備、原稿執筆。

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2017年1月25日 (水)

 日本固有信仰と仏教の受容

 

『日本書紀』によると、わが国への仏教公式的な伝来は、欽明天皇十三年(五五二)とされ、百済の聖明王が、欽明天皇に釈迦仏像や経典を献じた時であると記されてゐる。しかし、別の説ではそれは欽明天皇七年(西暦五三八)のことだったとされる。

 

『日本書紀』によると、この時、欽明天皇は、仏像の美しさに驚嘆され次のように仰せになったと伝へられる。「西蕃(にしのくに)の献((たてまつ)れる仏の相貌瑞厳(みかおきらきら)し、全(もは)ら未だ曾て看ず」。

 

日本の固有信仰は自然そのものそして祖霊を神として信仰するのだから、仏像などのような美しく威厳のある姿を表現した偶像を造りそれを「神の像」として礼拝することはなかった。だから百済の王様から献じられた金色燦然とした仏像を見て、その美しさに驚嘆したのである。仏教への驚異の念は仏像に対する驚異だったと言へる。

 

またここで注目すべきことは、日本に仏教を伝へた支那や朝鮮を「中華思想」の言葉を用いて「西蕃」(西方の未開人といふの意)と表現してゐることである。これは、日本の独立性・自主性の高らかな誇示であり、支那・朝鮮から多くの文化・文明を輸入してゐた『日本書紀』編纂当時にあっても、日本人は支那・朝鮮の属国意識を持ってゐなかったことの証明である。

 

欽明天皇が、仏教を採用するかどうかを群臣に諮問あそばされた際、仏教受容を支持した蘇我稲目(仏教を日本に伝へた百済系の渡来人といはれてゐる)は「西蕃諸国、一に皆之を礼(いやま)ふ。豊秋日本(とよあきつやまと)、豈に独り背かむや」と答へた。つまり、「西方の蕃人の国々も信仰してゐるのだから、わが国でも信仰しても良いのではないか」といふ意見である。

 

本居宣長は日本人が神として崇める対象を「尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳がありて、可畏(かしこ)きもの」としてゐる。欽明天皇の御代に外国から到来した仏像もさうした外来の「神」であった。だから『日本書紀』は「仏」とは書かず「蕃神」と書いたのである。

 

「蕃神」と名付けられた「仏」も、日本人にとっては「神」なのだから固有信仰の「神」とそう矛盾するものではなかった。「異国の蕃神」も「世の常にない徳と力」があるのだから崇拝してもいいではないかといふのが、当時の日本人の基本的な態度だった。日本人にとって仏とは八百万の神が一神増えたといふ感覚であったと思はれる。

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千駄木庵日乗一月二十五日

午前は、諸雑務。

午後一時半より、永田町の衆議院第二議員会館にて、石破茂衆議院議員にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり、

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、原稿執筆の準備、原稿執筆。

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2017年1月24日 (火)

わが国はグローバリズムを克服し国家民族の独立と栄光を維持してきた

 

米ソ二超大国による冷戦構造が崩壊した後、世界は平和になったかと言うと決してそうではなく、むしろ、民族問題・領土問題・資源問題・宗教問題などで冷戦どころか熱い戦ひが世界各地で起ってゐる。

 

また、多くの国家が世界を一つの市場として利害を共有すれば、世界規模の戦争勃発の危険性を大きく低下させ平和が実現するといふ考へ方がある。いはゆるグローバリズムである。そして、日本はグローバリズムの波に呑み込まれてしまふかのように言はれてゐる。

 

しかし、現実には、各国の利害が衝突すると共に、持てる国と持たざる国との格差が広がってゐる。また無資源国が高値で資源購入を余儀なくされる状況になりつつある。

 

そしてグローバリズムの市場共有を放棄し武力行使をする国が再び出始める可能性も生ずる。つまり、再びブロック経済が第二次世界大戦を勃発させた時に近い状況になりつつある。地球の一体化を目指すといふグローバリズムが逆に世界平和実現を阻む大きな要因になってゐる。そして、市場原理主義の問題をはじめ日本も世界も大変な混乱期にある。

 

さらに、わが日本は、共産支那の中華帝國主義・アメリカ覇権主義・北朝鮮の暴虐が渦巻く狭間にあって、祖国の独立と安全を守るために必死になって戦はなければならない。しかるに、日本国民の多くは日本の傳統精神、國體精神を忘却し、自信を喪失し、日本は内部から弱体化してゐる。

 

しかし、日本がかかる危機的状況に陥ったのは、今が初めてではない。飛鳥・奈良時代も、江戸時代末期も、今日と同じやうな危機に遭遇した。そしてわが國はその危機を乗り切った。

 

飛鳥・奈良時代にも、今日で言ふグローバリズムの波がわが国に押し寄せて来た。しかし、日本はそんな波に呑みこまれることなく自立した国家を作り上げた。

 

飛鳥・奈良時代は、儒教や仏教をはじめとした外来文化・文明が怒涛の如く日本に流入してきた。日本は、さうした言はば当時のグローバリズムをたくみに対峙しつつ、日本独自の文化と政治を確立した。そして平安時代といふ長きにわたる平和の時代を招来せしめた。

 

日本の歴史の中で長期にわたって続いた平和な時代が二つある。平安時代の三五〇年と江戸時代の二五〇年である。これほど長期にわたって平和を持続させた国家は世界史的にも日本だけである。

 

また、江戸時代末期にも、同じような危機に際会したが、明治維新を成し遂げ、日本の独立を守り、近代化を遂げた。

 

つまり、わが国の歴史は、今日で言ふグローバリズムと対峙し、それを克服し、国家民族の独立と栄光を維持し発展させてきた歴史である。

 

その最大の要因は、天皇・皇室を祭祀主と仰いで國の統一と安定を確保するといふ強靭なる日本國體精神である。日本民族がグローバリズムの波に呑みこまれることなく、外来文化・文明を自由に柔軟に受け容れ、自己のものとしさらに発展させた基盤の中核が、天皇・皇室のご存在である。

 

わが國の建国の精神は、「八紘爲宇」の精神である。これは、世界は色々な民族・国家が連帯し共存する一つの家であるといふ精神である。また近代日本の父と仰がれる明治天皇の御精神は、「四海同胞」の精神である。これは、世界の民は兄弟であるといふ精神である。日本は本来的に言葉の真の意味における平和国家である。

 

日本はその傳統信仰の靈的精神の偉大なる包容力によって、よく他國の宗教・文化・文明を取り入れてそれを融和せしめ洗練して、強靱にして高度な日本文化として開花せしめる力を持ってきたのである。

 

世界各国各民族にはそれぞれ伝統精神・傳統文化を保持してゐる。世界の愛国者は、各国各民族の個性・立場・歴史・傳統を尊重し合ひ、真の意味の平和な世界を実現しなければならない。

 

現代日本においても、この強靱にして自由な日本民族の伝統的な文化感覚を発揮して、危機的状況を打開していかなければならない。

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千駄木庵日乗一月二十四日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、原稿執筆の準備、明日のインタビューの準備、資料の整理など。

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水戸學の特質とその影響

尊皇が徳川光圀以来の水戸藩の伝統である。光圀は、常々近臣に対して、「わが主君は天子なり、今将軍はわが宗室なり。あしく了簡仕り、取り違へ申すまじき」と戒め、毎年元旦には、直垂(ひたたれ)を着して早朝京都を遥拝したという。

 

 徳川光圀の學問・尊皇思想は、各方面に多大な影響を及ぼした。それは徳川御三家にまで及んだ。御三家筆頭の尾張藩四代藩主・徳川吉通は、子孫に対する訓誡として「天下の武士は、みな公方(徳川将軍の尊称)家を主君の如く崇めかしづけども、実は左にあらず…三家(尾張、紀伊、水戸)の者は全く公方の家来にて無し、今日の位官は朝廷より任じ下され、従三位中納言源朝臣と称するからは、これ朝廷の臣なり。されば水戸の西山殿(徳川光圀のこと)は、我らが主君は今上皇帝なり、公方は旗頭なりとのたまひし由、然ればいかなる不測の変ありて、保元・平治・承久・元弘のごとき事出来て、官兵を催される事ある時は、いつとても官軍に属すべし。一門の好みに思ふて、かりにも朝廷にむかふて弓を引くことあるべからず」と述べた。

 

 「水戸學」は、天皇國日本の悠遠な真姿を示し、徳川幕藩體制のみならず鎌倉幕府以来の武家政権の転変を超えて持続する皇位の伝統を明らかにした。それは、『大日本史』の綱条の序文に、「人皇基を肇めて二千余年、神裔相承け、列聖統を纉(つ)ぎ、姦賊未だ嘗て覬覦(身分不相応なことをうかがいねらうこと)の心を生ぜず。神器の在る所、日月と並び照らす。猗歟(ああ)盛なる哉。其原(もと)づく所を究むるに、寔(まこと)に祖宗の仁沢、民心を固結し、州基を盤石の如くならしむるに由る也」とある通りである。

 

 「水戸學」は支那思想を重んじたが、無批判に支那思想を受け入れたのではない。藤田東湖は『弘道館記述義』で、「然れば則ち唐虞(唐は七世紀初めから十世紀初めまで、古代支那王朝として最も文明の発展をとげた國。虞は支那古代、舜(しゆん) が尭(ぎよう) からゆずられて帝位にあった王朝の名)の道、悉く神州に用ふべきか。曰く、否。…決して用ふべからざるもの二つあり。曰く禅譲(帝王がその位を世襲せず、有徳者に譲ること)なり。曰く放伐(徳を失った君主を討伐して追い払うこと。「禅譲」と共に、支那の易姓(えきせい)革命思想による考え方)なり。…赫赫たる神州は、天祖の天孫に命ぜしにより、皇統綿々、緒(物事のはじまり)を無窮に伝へ、天位の尊きこと、猶ほ日月の踰ゆべからざるがごとし…万一禅譲の説を唱ふる者あらば、凡そ大八洲の臣民、鼓を鳴して之を攻めて可なり。…若し彼の長ずるところを資り、併せて其の短に及べば、遂に我が萬國に冠絶する所以のものを失はん」と論じている。

 

 この文章は。支那の有徳王君主思想・革命思想を否定し、皇統の無窮を説いている。さらに、支那思想の悪しきところを取り入れたならば、わが國の國體が破壊されるとしている。ここに「水戸學」とりわけ藤田東湖の尊皇思想の真骨頂がある。

 

 今日の日本の精神荒廃の根源を探っていくと、占領下のわが國に奔流のように流れ込んだアメリカ及びソ連製の人権至上主義、平和主義、悪平等主義、経済優先主義に突き当たる。物と金さえあれば皆が幸せになるという考え方が戦後日本に満ち満ちてきた。

 

 わが國の歴史、伝統、文化、道義精神を断ち切って、戦勝国が構築した戦後體制に、大多数の日本人は文字通りマインドコントロールされてしまっている。

 

 わが祖國日本は、今こそ、この日本弱體化のマインドコントロール・精神的呪縛から脱しなければならない。日本人としての魂・誇り・道義精神・文化伝統を取り戻さねばならない。

 

 その意味において、我々は幕末の危機を打開した基本精神である「水戸學」の尊皇攘夷思想を今こそ學び直さなければならない。 

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千駄木庵日乗一月二十三日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆の準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

夜は、団子坂にて、若き友人と懇談。

帰宅後は、原稿執筆。

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2017年1月23日 (月)

千駄木庵日乗一月二十二日

午前は、諸雑務。

午後からは在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、書状執筆、原稿執筆の準備など。

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徳川慶喜の尊皇心

 鳥羽・伏見の戦いにおける大阪城脱出・江戸城明け渡し、という慶喜の姿勢を「不甲斐ない」と批判する史家がいる。現に新政府の東征軍が士気を鼓舞するために歌った『宮さん宮さん』(別名『トンヤレ節』或いは『錦の御旗』)には、「宮さん宮さんお馬の前にひらひらするのは何じゃいな/トコトンヤレトンヤレナ/あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか/トコトンヤレトンヤレナ」「一天万乗のみかどに手向かいする奴を……覗(ねら)いはずさずどんどん撃ちだす薩長土…」「おとに聞こえし関東武士(ざむらい)どっちへ逃げたと/問うたれば…城も気概も捨てて吾妻へ逃げたげな」という歌詞になっている。

 

 この歌は、わが國近代軍歌の濫觴といわれる。作詞は征東軍参謀・品川彌二郎(長州藩士。後に内務大臣・宮中顧問官)、作曲はわが國陸軍の創設者といわれる大村益次郎(周防の人。長州で兵学を講じ、戊辰戦争で新政府軍を指揮。明治二年、兵部大輔となるも同年暗殺される)である。

 

 「あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか」という歌詞に、新政府軍が錦旗の権威を拠り所としていたことが歌われている。また、「おとに聞こえし関東武士どっちへ逃げたと問うたれば城も気概も捨てて吾妻へ逃げたげな」という歌詞に、大阪城を脱出し江戸に帰ってしまった徳川慶喜への侮蔑の念が現れている。

 

 しかし、この歌詞は、慶喜にとってあまりにも酷である。彼の尊皇心が「大阪脱出」「江戸城明け渡し」を行わしめたのである。後年、慶喜はその心情を次のように語った。「予は幼き時よりわが父から水戸家代々の遺訓を聴いた。『万一天朝と幕府との間に事ある際には、わが水戸家は宗藩たる幕府を顧みず、進んで天朝のために忠勤を抽(ぬき)んでねばならぬ』と。予は常にこの遺訓を服庸(心につけて忘れない)したが、いったん過って朝敵の汚名を受け、悔恨おのづから禁ぜす。ここにおいて自ら恭順、その罪に服したのである」。

  

 慶應四年(一八六八)一月十九日、フランス公使・ロッシュは、江戸に帰って来た徳川慶喜に面會し、「再挙」(新政府軍に再度武力戦を挑むこと)を促した。しかし慶喜はこれを拒絶し、次のように語ったという。曰く「わが邦の風として、朝廷の命と称して兵を指揮する時は、百令悉く行はる。たとい今日は公卿大名の輩より申出たる事なりとも、勅命といはんには違背し難き國風なり。されば今兵を交へて此方勝利を得たりとも、萬々一天朝を過(あやま)たば末代まで朝敵の悪名免れ難し。……よし従来の情義によりて当家に加担する者ありとも、斯くては國内各地に戦争起りて、三百年前の如き兵乱の世となり、万民其害を受けん。これ最も余の忍びざる所なり。されば唯当家衰運の然らしむ所と覚悟し、初より皇室に対し二心なき旨を幾度も申し披(ひら)き、天披を待つの外なきことなり。…当家中興の祖より今に二百六十余年、尚も天朝の代官として市民の父母となり國を治めたる功績を何ぞ一朝の怒に空しくすべけんや。此上尚も余が本意に背き、私の意地を張りて兵を動かさんとせば、当家代々の霊威に対して既に忠臣にあらず、まして皇國に対しては逆賊たるべし。……」(『徳川慶喜公伝』)。

 

 また、徳川慶喜は渋沢栄一に次のように語ったと書かれている。「(鳥羽・伏見の戦いで仼)やがて錦旗の出でたるを聞くに及びては、(慶喜は仼)益(ますます)驚かせ給ひ、『あはれ朝廷に対して刄向かうべき意思は露ばかり持たざりしに、誤りて賊名を負ふに至りしこそ悲しけれ。最初たとい家臣の刃に斃るるとも、命の限り會桑(會津と桑名)を諭して帰國せしめば、事此に至るまじきを、吾が命令用ゐざるが腹立たしさに、如何やうとも勝手にせよといひ放ちしこそ一期の不覚なれ。』と悔恨の念に堪へず、いたく憂鬱し給ふ」(『徳川慶喜公伝』)。

 

 『勝海舟日記』(慶應四年二月十一日付)には、徳川慶喜が勝海舟ら幕臣たちに、次のように語ったと記されている。「我不肖、多年禁門(朝廷のこと)に接近し奉り、朝廷に奉対して、御疏意(疎んじられること)なし。伏見の一挙、実に不肖の指令を失せしに因れり。計らずも、朝敵の汚名を蒙るに至りて、今また辞無し(言葉もない)。ひとへに天裁を仰ぎて、従来の落度を謝せむ。且爾等憤激、其れ謂れ無にあらずといへども、一戦結で解けざるに到らば、印度支那の覆轍(失敗の前例・印度や支那が内部に混乱によって西欧列強に侵略されたこと)に落ち入り、皇國瓦解し、万民塗炭に陥らしむるに忍びず。…臣等も我が此意に体認し、敢て暴動するなかれ、若(もし)聞かずして、軽挙の為さむ者はわが臣にあらず。……」。 

 

 要するに旧幕府=徳川慶喜は、天皇の神聖権威に刃向かう意思は全くなかったし、刃向かうこともできなかったのである。慶喜は足利高氏になりたくなったのである。かくて江戸城明け渡しが行われた。慶喜の上御一人日本天皇への忠誠心が明治維新を成就したと言っても過言ではない。

 

 さらに言えば、現御神日本天皇の御稜威を畏(かしこ)んだのは、徳川慶喜及び旧徳川幕府軍のみではない。一般國民もまたしかりであった。鳥羽・伏見の戦いで錦旗が翻った時の状況を、大久保利通のその日記には次のように記している。

 

 「(慶應四年仼)八日巳の刻(午前十時)比(ころ)より八幡辺戦地御巡覧の為、宮(仁和寺宮)御出でにて、錦の御旗を飄(ひるがへ)され、威風凜烈、誠に言語に尽し難き心地にて、老若男女王帥(天皇の軍)を迎えて、有難々々といえる声、感涙に及び候。」。大久保利通の尊皇心が吐露されている文章である。

 

 徳川幕府を崩壊させたのは、岩倉・西郷・大久保等の策謀でもなければ、薩摩・長州・土佐などの武力でもない。それはわが國民全体が古来より持っていた尊皇の心であったのである。

 

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『政治文化情報』平成二十九年二月号のお知らせ

四宮政治文化研究所発行・『政治文化情報』平成二十九年二月号のお知らせ

 

『政治文化情報』は、昭和五十九年創刊以来、小生の論考、時局問題などに関する主張、活動状況の報告、各方面から得た様々な情報などを掲載し、それなりの評価を得て来たと自負致しております。
多くの心有る皆様方のご購読をお願い申し上げます。
見本誌御希望の方はご遠慮なくメールでお申し込み下さい。

メールアドレス m-shinomiya@max.hi-ho.ne.jp

購読料
年間 12000
半年 6000

平成二十九年二月号(平成二十九年一月二十五日発行)の内容

 

〈皇都の一隅より〉

現御神信仰・昭和天皇の御聖徳・大東亜戦争

祭祀主日本天皇は現御神として最尊最貴の権威を持ってをられる

 

天皇と國民と國土は霊的・精神的に一体の関係にある

 

昭和天皇は常に天地の神に平和を祈念されてゐた

 

立憲君主制下の天皇は輔弼機関の決定を不可とされることは出来なかった

 

昭和天皇に「原爆投下」「ソ連参戦」の責任があるといふ主張は事實無根である

 

昭和天皇が東京裁判に東条英機氏以下七人の首を差し出されたといふ主張は事實無根である

 

千駄木庵日乗

池田維霞山會理事長・元交流協會台北事務所長「台湾人と中國人との交流が増えれば増えるほど両者の違いが意識されるようになっている。ビジネスの相手として以外、今日の中國の体制に魅力を感じない」

 

王明理さん(詩人、台湾独立建國聯盟日本本部委員長)「一七二三年、清朝の雍皇帝は『台湾は古より中國に属せず』と言った。台湾と中國人は同一民族ではない。DNA検査によって証明されている。台湾語と中國語(北京語)とは異なる言語である」

 

 

この頃詠みし歌

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2017年1月22日 (日)

徳川光圀の尊皇精神 

 

徳川光圀は水戸藩第二代藩主。寛永五年(一六二八)に生まれ、元禄十三年(一七00)に没している。家康の孫である。

 

 光圀は明暦三年<一六五七>に歴史書・『大日本史』の編纂を命じた。完成したのは明治三十九年<一九0六>である。『大日本史』は、神武天皇から後小松天皇までの國史を漢文の紀伝體(歴史記述法の一つ。本紀(ほんぎ) ・列伝などの別を立てて記す)で編述し、その大義名分論に基づく歴史観は幕末の尊皇攘夷思想に大きな影響を与えた。編纂には二百五十年の歳月を費やして明治の御代になって完成した。紀伝、志表合せて三百九十七巻、目録五巻、計四百二巻。長年月に亘って、父祖の業がかくの如く継承されたことは、古今東西未曾有のない驚異的なことである。

 

 『大日本史』編纂は、一つの著述というより一つの學派の形成と言っていい。しかもそれは経済的にも大事業であった。光圀はそのため二百名以上の學者を四百石から百五十石くらいの禄で抱えた。

 

 ただし、『大日本史』の修史(歴史の編集)の方法は、支那の朱子學(朱子が大成した儒學。格物致知<物の道理をきわめつくして、自分の後天的の知をきわめること>を眼目とする実践道徳を唱えた)の史観の強い影響下にあった。『大日本史』が神武天皇の御代から始まり、神代のことが記されていないのは、「實に據って事を記す」という史観の建て前からで、「記紀」の神代の記述を史実と認めることができないという理由に基づいたと言われている。

 

 また明治維新の思想的原動力の一つは『楠公精神』(楠正成の勤皇精神とその行動)である。楠公崇拝の機運が高まったのは、徳川光圀が湊川に『嗚呼忠臣楠子之墓』と刻された石碑を建てたことが、与かって最も力があった。

 

 さらに光圀は、幕府に対して天皇御陵の修復を進言した。元禄及び享保の時代に幕府が幾分御陵修復を行ったのは光圀や柳沢吉保の進言によったものという。斉昭は光圀の志を継承し、天保四年(一八三三)藤田東湖の妹婿・桑原信毅を京都に送り、山陵調査に当たらしめている。斉昭は鷹司関白や幕府に対し、山陵修補を促した書簡を多く送っている。しかし幕府の対応は冷淡であった。水戸徳川家の尊皇精神は理論だけでなく実行を伴っていたのである。

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千駄木庵日乗一月二十一日

午前は、『政治文化情報』発送作業、発送完了。購読者の皆様には週明けにはお届けできると思います。

午後一時半より、飯田橋のTKP飯田橋ビジネスセンターにて『アジア太平洋交流学会』開催。久保田信之会長がスピーチ、黄文雄拓殖大学日本文化研究所客員教授が「日本を中心とした対米中印露の情勢」と題して講演。質疑応答。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、原稿執筆。

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2017年1月21日 (土)

萬葉古代史研究會 のお知らせ

萬葉古代史研究會

 

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

 

日時 二月八日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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水戸學の基本精神が記された『弘道館記』

 

水戸藩の藩校・弘道館は藩政改革に燃えた第九代藩主・徳川斉昭(烈公)が、天保十二年(一八四一)に創立した。

 

 徳川斉昭(寛政十二<一八00>~萬延元年<一八六0>)は、七代藩主・治紀の第三子。幕末の國難の時期に積極果敢な言動を示して國政に大きな影響を与えた人物である。自ら先頭に立って藩政改革を断行した。また尊皇攘夷の基本的立場から幕政改革を求め続けた。ために、六十三歳でその生涯を終えるまで前後三回幕府から処罰を受けた。

 

 弘道館は単なる藩校ではなく、内憂外患交々来るといった情勢にあった幕末当時のわが國の危機を救うための人材を養成する目的で作られた。儒學・諸武芸のみならず、天文、地理、数學から医學まで教授した当時としては稀に見る壮大な規模の総合教育施設である。斉昭の學校建設の基本精神は、「神儒一致、文武合併」(神道と儒教の融合、文と武を共に學ぶ)であった。

 

 幕末には、水戸藩だけでなく維新回天の大事業に貢献した薩摩藩・長州藩などでもなどでもこうした教育振興策が講じられた。

 

 弘道館の建學の精神と綱領とを記したのが『弘道館記』である。『館記』の草案については、天保七年(一八三六)に斉昭から藤田東湖に下問があり、斉昭・東湖・會澤正志斎(水戸藩士、水戸學の祖・藤田幽谷の思想を発展させた。東湖と共に尊皇攘夷運動の思想的指導者)・青山延于(のぶゆき・水戸藩士、儒學者)・佐藤一斎(陽明學者)の意見が入れられている。

 

 藤田東湖は、文化三年(一八0六)三月十六日に生まれ、安政二年(一八五五)に亡くなった。藤田幽谷(彰考館総裁・『正名論』により水戸學を確立)の次男。東湖の号は屋敷の東に千波湖を望見したことによる。『正気の歌』『回天詩史』『壬辰封事』『弘道館述義』の著者。父の學問を継承発展させ、徳川斉昭の改革の事業を補佐する一方、熱烈な尊皇攘夷論で勤皇家を主導、安政の大地震で圧死した。道義によって鍛えられた日本人の純正な在り方を示した不朽の英傑である。

 

 東湖から正志斎に宛てた書状に、「神州の一大文字にも相成るべき儀、東藩(水戸藩のこと)學術の眼目に仕り」と記されているように、『館記』は、水戸の學問の眼目ばかりでなく、わが國の一大文字にしたいという志で書かれた。

 

 『弘道館記』には、「弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経(天地の間にそなわっている大道)にして……弘道の館は、何のために設けたるや。…上古、神聖(記紀の神々)極(窮極の標準)を立て統を垂れたまひ……宝祚(天皇の御位)これを以て無窮、國體、これを以て尊厳、蒼生(國民)、これを以て安寧、……中世以降、…皇化陵夷(天皇の徳化が次第に衰退する)し、禍乱相次ぎ、大道の世に明らかならざるや、蓋しまた久し。わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。……義公(徳川光圀)…儒教を崇び、倫を明らかにし、名を正し、以て國家の藩屏(朝廷の守護となること、またその人)たり。……臣士たる者は、豈に斯道を推し弘め、先徳を発揚する所以を思はざるべけんや、これすなはち館の、為に設けられし所以なり。……わが國中の士民、夙夜解(おこた)らず(朝早くから夜遅くまで勉励する)、斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の教え(儒教)を資(と)り、忠孝二无(な)く(忠と孝とは根本において一つであることを知る)、……神を敬ひ儒を崇び、偏黨あるなく(一方にかたよらず)、衆思(多くの人々の考え)を集め郡力(多くの力)を宣べ、以て國家無窮の恩に報いなば、すなはち豈にただに祖宗(徳川頼房・光圀)の志、墜ちざるのみならんや、神皇(神々と御歴代の天皇)在天の霊も、またまさに降鑒(天より人間界のことを見る)したまはんとす」と記されている。

 

 『館記』の精神は要するに、日本の神々を敬い、天皇を尊び、祖先を崇める精神である。そして、神道と儒教を尊ぶ姿勢である。この精神によって藩士を教育し、國家的危機打開の為に役立たせようとしたのである。『館記』は水戸學の精神が端的に表現されている文である。水戸學は尊皇ではあるが、徳川家康そして幕府を否定する考えはなかった。この『館記』の解説書が藤田東湖の『弘道館述義』である。

 

 明治維新の基本思想たる『尊皇攘夷』は『弘道館記』の一節「わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。」より発したのである。藤田東湖はこれを解釈して「堂々たる神州は、天日之嗣(てんじつのしし)、世(よよ)神器を奉じ、万方に君臨し、上下・内外の分は、なほ天地の易(か)ふべからざるごとし。然らばすなはち尊皇攘夷は、実に志士・仁人の、盡忠・報國の大義なり。」(『弘道館記述義』)と述べている。

 

 徳川幕藩體制打倒の基本思想が徳川御三家の一つ・水戸徳川家から発したという事実は驚嘆に値する。

 

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千駄木庵日乗一月二十日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

午後六時、新宿にて、永年の同志と懇談、意見交換。

帰宅後は、原稿執筆。

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2017年1月20日 (金)

八幡大神のご神徳

 

八幡神が信仰されるやうになったのは奈良時代からであり、神話には登場されない神である。八幡信仰が盛んになったのは、武門とりわけ源氏の隆盛と深く関はりがあると言はれる。また、怨霊の魂鎮めとも関連があると言はれてゐる。中世以来、討死した武将、攻められて自裁した武将及びその一族を、八幡神として祀った例が多くあると言はれる。

 

神代以来の神々いはゆる天神地祇とはそのご性格を少しく異にしてゐると言へる。ただし日本民族の神への信仰は、教義や教条に基づくのではなく、自然な信仰心によるのであり、あまり理詰めで神のご由来やご性格を考究する必要はないと考へる。

 

「かみ」「かむ」(神)のカは接頭語である。ミとかムに意味がある。ミ・ムは霊的な力をいふといはれてゐる。また、ミは身であり実である。即ち存在の実質・中身のことである。即ち強い霊力・霊威を持った存在のことをカミと言ふ。

 

本居宣長は、「凡て迦微(カミ)とは、古御典等(イニシヘノフミドモ)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊(ミタマ)を申し、また人はさらに云はず。鳥獣(トリケモノ)木草のたぐひ海山など、其餘何(ソノホカナニ)にまれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて。可畏(かしこ)き物を迦微(カミ)とは云なり、すぐれたるとは、尊きこと善きこと功(いさを)しきことなどの、優(スグ)れたるのみを云に非ず、悪(アシ)きもの奇(アヤ)しきものなどをも、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり」と述べてゐる。この考へ方が今日の神道学の神観となってゐる。

 

八幡神も「尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて。可畏(かしこ)き物」なのである。

 

八幡神がわが国最初の神仏習合神として早くから信仰された。聖武天皇は、東大寺大仏(盧舎那大仏)造立に際して、豊前国の宇佐宮に勅使として橘諸兄(従三位左大臣)を遣はし、「国家鎮護」と「大仏造立」の祈願を行はせられた。天平十九年(七四七)に八幡神の「天神地祇を率いて大仏建立に協力しよう」といふ意の神託が下された。

 

天平二一年(七四九)陸奥の国から大仏像に使ふ黄金が献上され大仏造立が完成した。聖武天皇は大変お喜びになり、この年の七月二日天平勝宝と元号を改められた。黄金の発見といふ瑞祥は八幡神の神徳のよるものとされたのであらう。天平勝宝元年(七四九)十二月に、宇佐八幡の神霊が、紫錦の輦輿(れんよ・鳳輦のこと)に乗って入京し、東大寺の地主神として迎へられたと言ふ。紫錦の輦輿は、天皇のお乗り物であり、八幡神がすでにこの頃、応神天皇の御神霊であると信仰されてゐたと思はれる。

 

天応元年(七八一)に、八幡神に「八幡大菩薩」の神号が与へられた。延暦二年(七八三)には、「護国霊験威力神通大自在菩薩」といふ号も加へられてゐる。

神仏習合の初期現象たる「八幡神上京」は、教義・教条の理論的裏付けがあって行はれたのではない。現実が先行し、それに後から理屈がつけられたのである。まず神と仏が習合することが先だったのである。ここが日本民族の信仰生活の特徴であり、幅が広く奥行きが深いといはれる所以である。融通無礙なのである。

 

石清水八幡宮も、創建以来、幕末までは神仏習合の宮寺で石清水八幡宮護国寺と称してゐた。明治初期の神仏分離までは「男山四八坊」と呼ばれる数多くの宿坊が参道に軒を連ねた。今日も、男山の麓からけーブルで登って行くと、宿坊の跡らしい所が点在してゐる。

 

神と仏とがごく自然に同居し、同じく人々によって信仰せられて来たのが日本の信仰の特色であり傳統であらう。神と仏とを理論的教学的に識別する以前に、日本民族の信仰においては、感性において神と仏とを同一のものの変身した存在として信仰したのである。一つの家に神棚と仏壇が祀られ安置されている姿は、一神教の世界ではあり得ないと思ふ。

 

日本人が太古から継承してきた自然信仰と祖霊信仰といふ日本民族の中核信仰に外来宗教が融合されていったのである。石田一良氏は「神道の原質と時代時代の宗教・思想の影響との関係は『着せ替え人形』における人形と衣裳との関係のようなものと喩えられるかもしれない。…神道の神道たる所以は原初的な原質が時代時代に異なる『衣装』をつけ、または『姿』をとって、その時代時代に歴史的な働きをする所にある」(『カミと日本文化』)と論じてゐる。

 

いくら外来宗教を受容したからとて、わが国の風土と日本民族の気質から生まれたすべてを神として拝ろがむ伝統信仰の中核は失はれることはなかったのである。

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千駄木庵日乗一月十九日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母と過ごす。共に『国境の街』『ダンチョネ節』などを歌う。

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆。

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2017年1月18日 (水)

湯浅博氏(産経新聞特別記者)による「世界情勢と安倍外交への期待」と題する講演内容

九月二十四日に開催された『アジア問題懇話会』における湯浅博氏(産経新聞特別記者)による「世界情勢と安倍外交への期待」と題する講演内容は次の通り。

 

「世界の動きはとんでもなく早いスピードで動いている。冷戦構造が終って、パワーが安定し、巨大超大国一国のヘゲモニーで安定しているのが正しいと思えたが、世界が変わって、アメリカのパワーが落ちて中国という地域覇権を目指す国が台頭。アメリカを中国が追い越すという見方もある。各国が経済力・軍事力を伸ばし、アメリカのパワーが相対的に落ちている。

 

ロシアとイランが接近。ロシアがアフガンに攻め込んだ時、イランは反ソ体制の中に入っていたが変わってきている。イランの空軍基地からロシアの爆撃機がシリアを爆撃した。トルコがロシア軍機を警告を経て撃墜。ロシアとトルコが険悪になると思われた。経済制裁が起きて一年経過。エルドアン政権がクーデターで倒れると思われたが、弾き返して反政府を締め付けた。そしてプーチンと接近。戦略的要衝をトルコが抑えている。エルドアンもプーチンも政治的動物。

 

ドゥテルテが出てきて様子が変わった。ドゥテルテは『アメリカがフィリッピンに入って来た時、フィリッピン人がバタバタ殺された』と言った。オバマがドゥテルテとの会見を拒否した。そのためドゥテルテは中国との二国間交渉を始めると言い出した。中国は二国間で小国をまるめこむのが戦略。

 

ハーグ仲裁裁判所で中国は国際的無法者と認定した。九月中旬の南シナ海での中国とロシアの共同演習は、昨年の黒海でのアメリカとルーマニアの合同演習のお返し。欧米がクリミア半島問題で経済制裁をした時も、中国はそれを批判。ロシアと中国はお互いに傷をなめ合ってアメリカに対抗する仲間になっている。中国の東北三省には一億の人口がある。シベリアは六三〇万の人口。圧倒的に中国の人口が多い。

 

日本の対中関係はマイナスが常態化。中国にストレスを抱いている。歴史問題が減っても関係は改善せず。安倍外交は対ロシア新アプローチで接近。日露交渉の正の条件は、①ロシアの経済苦境でタイに譲歩が迫られている。②米国が日露交渉を認めている。負の条件は①米欧が対ロ経済制裁の最中②南シナ海で日本が求める『法の支配』に反する。③ロシアは条約破りの常習者。プーチンの対日接近の理由。①人口減少に悩むシベリア地域。②日本を対中・対米カードに使う。

 

民主主義が後退する。自由・進歩・民主の限界。アメリカの相対的衰退が始まった。オバマ第一期政権の外交の特徴は『軍事力を使わず、軍事介入しない』。抑止力を否定。オバマ第二期政権は、抑止戦略から抑制戦略に後退。

 

イギリスのEU離脱は大英帝国への郷愁。世界は覇権展開している。国家対国家の熱戦が行われている。日本は中・露・北朝鮮という核を持っている国に囲まれている。ロシアは伝統的に拡張主義。専守防衛では日本は守れない。日本は海洋国家になれるのか。

 

一九六四年の東京五輪の時には中国の核実験が行われた。二〇二〇年の東京五輪決定の時には習近平による海洋覇権への挑戦が起こった。日本は海洋国家へ脱皮する。第二次安倍外交の戦略は海洋国家の『遠交近攻』=地球儀を俯瞰する外交。勢力均衡のリアリズム。防衛費増、集団的自衛権の容認、憲法改正」。

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千駄木庵日乗一月十八日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事など。

午後六時、千駄木にて若き友人と懇談。

帰宅後は、原稿執筆、資料の整理。

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繼體天皇の御即位について

何とかして日本皇室の萬世一系・皇統連綿の伝統を否定したい反日歴史学者は、いろいろ想像を逞しくして、わが國古代に王朝の交替があったと主張する。そして葛城王朝・三輪王朝・河内王朝などという「王朝」なるものを設定している。

 

しかし、葛城氏や蘇我氏の権勢が強かったとしても、それは天皇の権威を背景としたものであった。

 

皇統の断絶が案じられた武烈天皇崩御の時も、大伴氏や物部氏という大臣・大連は、大きな権勢を持っていたのであるから、支那などであれば自ら王位を狙い新たな王朝を立てることはできた。にもかかわらず、わが国においては、応神天皇五世の御子孫男大迹尊(おおどののみこと)をお迎えして天皇の御位について頂いた。この事実は、当時すでに萬世一系皇統連綿の道統が継承され続けたことを証ししている。

 

また、『日本書紀』には先帝・武烈天皇の「無道の所業」が記されている。そして、武烈天皇には皇子がおられなかった。にもかかわらず、大和朝廷の打倒すなわち「易姓革命」という事態にならず、皇統に属する方を求めて、皇位をお継ぎ頂いた。これは、萬世一系・皇統連綿の道統が正しき継承され揺るがなかったことを証ししている。 

 

支那などの外國ではこういう状況下では革命が起り、臣下の中から力のある者が王者となり新しい王朝が建てられるのが常である。支那においては「有徳の人物」が天命を受けて「てんし」になるのであり、天子が徳を失えば位を他の人に譲らねばならなかった。これを「易姓革命思想」(支那古来の政治思想。徳のある者が徳のない君主を倒し、新しい王朝を立てること)・「有徳王君主思想」という。

 

しかし、わが國においては、こうした革命思想は最初から排除されていた。いかなることがあっても天皇・皇室打倒の革命は起らず、たとえご縁が遠くなっていても、皇統に属する御方に「天皇」の位についていただいた。

 

つまり、繼體天皇の御代において「日本の天皇(スメラミコト)になられる方は、天照大御神の「生みの御子」たる邇邇藝命、そしてその御子孫たる人皇初代・神武天皇の皇統に属する方でなければならない、という道統が継承され確立していたのである。

 言い換えると、わが國にはどのような事態になろうとも、天皇・皇室を排除して自分が日本國の支配者・統治者になろうとする者はいなかったのである。

 

わが國は、天皇を天照大御神の生みの御子=現御神と仰ぐ。どこまでも皇祖天照大御以来の皇統に属する御方に皇位を継承していただいてきたのである。それは古代から今日にいたるまでのわが國の揺るぎない道統である。

 

「皇室典範」改定・皇位継承は、外来思想に拘泥されることなく、あくまでもわが國の歴史と伝統に基いて行なわれなければならない。祭祀國家の祭祀主たるスメラミコトの御位即ち「天津日嗣の高御座」の御継承は、祭祀主・上御一人の大御心に従い奉るべきである。権力機関である衆参両院や政府が決めるべきではない。

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千駄木庵日乗一月十七日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

午後六時より、水道橋にて、永年の同志二氏と懇談。意見交換。

帰宅後は、『政治文化情報』発送準備。

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2017年1月16日 (月)

武士道について

 肝心の生死の際の覚悟のほどは、合理的な儒教論或いは仏教思想という外来思想とは全く縁のないエモーショナル(感情的)なものによっていた。「今はこう」「今はこれまで」と悟った時、日本の武士は、まっしぐらに顧みることなく死ぬことを潔しとした。これが、日本的死生観である。武士道は仏教から発したものでもなく、儒教から発したものでもない。『古事記』『萬葉集』の歌を見ても明らかな如く、日本伝統的な中核精神(神道)から発した。主君に対する忠誠と名誉が根幹である。新渡戸稲造は、吉田松陰の

 

「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」

 

という歌を引用して、「武士道は一の無意識的なるかつ抵抗し難き力として、国民および個人を動かしてきた」(武士道)と論じている。

 

 もののふのみち(武士道)は、成文法をとって伝えられている理論・理屈ではない。ゆえに、「武士道」については、精々口伝により、もしくは数人の有名なる武士や学者の筆によって伝えられたる僅かの格言があるに過ぎない。和歌もその一つであろう。

 

『萬葉歌』は、飛鳥奈良時代の武士道を伝えている。それは語られず書かれざる掟、不言不文であるだけに実行によっていっそう効力を認められる。理論・理屈を好まない日本人らしい道徳律が武士道なのである。日本の伝統の根幹たる和歌も祭祀もそして武道も理論・理屈ではない。「道」であり「行い」である。そして一つの形式・「型」を大切にし「型」を学ぶことによって伝承される。学ぶとはまねぶである。理論理屈ではないが「道」(歌道・武道・茶道・華道)と言う。

 

 そして武士道は、道徳・倫理精神と共にあった。武士は封建時代において国民の道義の標準を立て、自己の模範によって民衆を指導した。義経記・曽我兄弟の物語・忠臣蔵などの民衆娯楽の芝居・講談・浄瑠璃(平曲・謡曲から発した音曲(おんぎよく) 語り物。義太夫節(ぎだゆうぶし)が行われるようになってからは、義太夫節の別名となった。)小説などがその主題を武士の物語から取った。明治維新の志士たちの歌も近代日本の武士道教育の手本となった。

 

 かかる和歌などの芸術によって武士道が継承され教育されたことは、武士道が教条や独善的観念体系(イデオロギー)ではないということを証しする。

 

 武士は、日本国民の善き理想となった。いかなる人間活動の道も、思想も、ある程度において武士道の刺激を受けた。武士は武家時代において、決して民衆を武力で支配した階級のみでなく、道義の手本でもあった。明治維新をはじめとしたわが国の変革を断行せしめた重要なる原動力の一つに武士道があった。この武士道を今に生きている。

 

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千駄木庵日乗一月十六日

午前は、諸雑務。

午後は、今夜のインタビューの準備。資料の整理。

午後六時より、新宿にて、西部邁氏にインタビュー。『伝統と革新』掲載のためなり。

帰宅は、資料の整理、原稿執筆。

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わが国はグローバリズムを克服し国家民族の独立と栄光を維持してきた

米ソ二超大国による冷戦構造が崩壊した後、世界は平和になったかと言うと決してそうではなく、むしろ、民族問題・領土問題・資源問題・宗教問題などで冷戦どころか熱い戦ひが世界各地で起ってゐる。

 

また、多くの国家が世界を一つの市場として利害を共有すれば、世界規模の戦争勃発の危険性を大きく低下させ平和が実現するといふ考へ方がある。いはゆるグローバリズムである。

 

しかし、現実には、各国の利害が衝突すると共に、持てる国と持たざる国との格差が広がってゐる。また無資源国が高値で資源購入を余儀なくされる状況になりつつある。

 

そしてグローバリズムの市場共有を放棄し武力行使をする国が再び出始める可能性も生ずる。つまり、再びブロック経済が第二次世界大戦を勃発させた時に近い状況になりつつある。地球の一体化を目指すといふグローバリズムが逆に世界平和実現を阻む大きな要因になってゐる。そして、市場原理主義の問題をはじめ日本も世界も大変な混乱期にある。

 

さらに、わが日本は、共産支那の中華帝國主義・アメリカ覇権主義・北朝鮮の暴虐が渦巻く狭間にあって、祖国の独立と安全を守るために戦はなければならない。

 

しかし、日本がかかる危機的状況に陥ったのは、今が初めてではない。飛鳥・奈良時代も、江戸時代末期も、今日と同じやうな危機に遭遇した。そしてわが國はその危機を乗り切った。

 

飛鳥・奈良時代にも、今日で言ふグローバリズムの波がわが国に押し寄せて来た。しかし、日本はそんな波に呑みこまれることなく自立した国家を作り上げた。

 

飛鳥・奈良時代は、儒教や仏教をはじめとした外来文化・文明が怒涛の如く日本に流入してきた。日本は、さうした言はば当時のグローバリズムをたくみに対峙しつつ、日本独自の文化と政治を確立した。そして平安時代といふ長きにわたる平和の時代を招来せしめた。

 

日本の歴史の中で長期にわたって続いた平和な時代が二つある。平安時代の三五〇年と江戸時代の二五〇年である。これほど長期にわたって平和を持続させた国家は世界史的にも日本だけである。

 

また、江戸時代末期にも、同じような危機に際会したが、明治維新を成し遂げ、日本の独立を守った。

 

つまり、わが国の歴史は、今日で言ふグローバリズムと対峙し、それを克服し、国家民族の独立と栄光を維持し発展させてきた歴史である。

 

その最大の要因は、天皇・皇室を祭祀主と仰いで國の統一と安定を確保するといふ強靭なる日本國體精神である。日本民族がグローバリズムの波に呑みこまれることなく、外来文化・文明を自由に柔軟に受け容れ、自己のものとしさらに発展させた基盤の中核が、天皇・皇室のご存在である。

 

わが國の建国の精神は、「八紘爲宇」の精神である。これは、世界は色々な民族・国家が連帯し共存する一つの家であるといふ精神である。また近代日本の父と仰がれる明治天皇御精神は、「四海同胞」の精神である。これは、世界の民は兄弟であるといふ精神である。日本は本来的に言葉の真の意味における平和国家である。

 

日本はその傳統信仰の靈的精神の偉大なる包容力によって、よく他國の宗教・文化・文明を取り入れてそれを融和せしめ洗練して、強靱にして高度な日本文化として開花せしめる力を持ってきたのである。 その根源には、天皇を祭祀主と仰ぐ日本伝統信仰がある。

 

世界各国各民族にはそれぞれ伝統精神・傳統文化を保持している。世界の愛国者は、各国各民族の個性・立場・歴史・傳統を尊重し合ひ、真の意味の平和な世界を実現しなければならない。

 

現代日本においても、この強靱にして自由な日本民族の伝統的な祭祀の精神・文化感覚を発揮して、危機的状況を打開していかなければならない。

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千駄木庵日乗一月十五日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。明日のインタビューの準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。職員の方と母のことについて相談。

帰宅後は、資料の整理など。

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2017年1月14日 (土)

日本こそ『強盛国家』にならねばならない

国家をグローバルな枠組みに従属させ、各国からナショナルなアイデンティティーを剥奪する動きが続いてきた。これに対する反発が世界各地域で起こっている。イギリスのEU離脱、トランプ大統領の登場、ドゥテルテ大統領の登場など、グローバル対ナショナルという構図が成立し、後者が前者に選挙で競り勝つという現象が世界各地で起こっている。こうした事態に日本は如何に対処し、如何なる立ち位置に立つべきであろうか。

 

アメリカという国は、わが國に対して、爆撃すれば相手が屈服すると思って、原爆投下・焼夷弾投下などの空爆を敢行し無辜の民を殺戮した。いくら日米同盟が大事だとは言っても、この事は忘れてはならないと思う。

 

アメリカのご都合主義に振り回されてきたのが戦後日本である。日本を二度と再びアメリカに刃向かわせないようにするために、「占領憲法」を押し付けたのに、朝鮮戦争が始まり共産国家との対決が激化するや、再軍備を迫って来た。「現行占領憲法」がある限り、日本は独立国家ではないし対米自立はあり得ない。

 

日米安保体制の枠内で憲法九条がどうの、安保法制がどうの、といったことを議論する時代は去ったと思う。日本は米国に軍事でも経済でも依存しない「偉大な国」になれば良いのである。わが国がアメリカと対等の立場に立ち、言いたいことが言える国になるためには、自主防衛体制を確立し、自主憲法を制定し、真の独立国家として再生しなければならない。

 

アメリカからの自立と共産支那の排除が必要である。その前提は、戦後体制の打倒である。自主防衛体制確立・対米自立・対共産支那の圧迫の排除とは「日本の核武装」である。最近、トランプ氏の登場で、核武装論議が起っている。日本は核武装すべきだが、トランプと雖も許さないであろう。米軍部が猛反対すると思う。アメリカは、日本がアメリカの軍事的保護下にいるのならいいが、日本が核武装をすると、あの真珠湾攻撃のようにアメリカに撃ち込んでくるのではないかという恐れを今も持っていると思う。

 

ただし、不本意ではあるが、共産支那・北朝鮮による軍事的脅威を受けている日本は、今はアメリカを敵に回してはならないと思う。それこそ共産支那の思う壺である。わが国が核武装し、自主防衛体制を確立するまでは、日米軍事同盟は必要である。この矛盾からいかに脱却するかが問題なのである。

 

戦後日本の復興は、アメリカの占領政策が成功したからではない。明治大正世代の日本人が優秀だったから復興したのである。日本人の血のにじむような努力で復興を遂げたのである。むしろアメリカは日本を弱体化しようと様々なことを行ったのである。

 

私は、ベトナムという国を見直している。フランスと戦い、アメリカと戦い、共産支那と戦い、屈服しなかったあの国を日本は見習わねばならないと思う。ベトナム・イスラエル・北朝鮮は大国ではないが、それなりの力を持ち、支那やロシアやアメリカの言いなりにならない。日本はこの点は見習わねばならない。支那・ロシア・アメリカの言いなりにならない国にならねばならない。

 

一方、共産支那は今や軍事大国・侵略国家の顔を持っている。日本に公害・自然保護対策などの協力をしてもらいたい時には開発途上国の顔を使い、わが國の領土や資源を奪おうとする時には、軍事大国・侵略国家としての顔をして迫ってきている。

 

共産支那は「日中国交」樹立時には、「ソ連は覇権国家だ」と主張し、日米安保も容認し、わが國の北方領土返還要求を支持していたが、日本の経済技術援助のお蔭で経済発展に成功すると、支那自体がアジアにおける覇権国家となり、日本をはじめとしたアジア諸国に脅威を与えている。『恩を仇で返す』とはこのことだ。

 

わが国は共産支那のこうした戦略に毅然とした態度でのぞまなければ、やがて支那の属国になるか、さもなければつぶされる。

 

今後の日本は、いかにして「中華帝国主義」の侵略から祖国を守るかが最大の課題である。「対米自立」の根本に、まず以て日本の敗戦国意識の払拭そして日本の真の自立が確立されなければならない。北朝鮮ではないが日本こそ『強盛国家』にならねばならない。

 

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千駄木庵日乗一月十四日

午前は、諸雑務。

午後二時より、内幸町の日本プレスセンターにて、『アジア問題懇話会』開催。国際政治学者の藤井厳喜氏が、「トランプ米新政権で世界はどう変わるか」と題して講演。活発な質疑応答が行われた。

帰宅後は、原稿執筆、明後日のインタビューの準備など。

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天皇の祭祀について

 

 何故、天皇は神聖なる御存在であらせられるのか。それは天皇が、天照大神の地上に於ける御代理であらせられるという「神話の精神」によるのである。また、何故天皇が日本國の統治者であらせられるのか、それは天皇が、天照大神より日本國を統治せよと御命令を受けておられるという「神話の精神」によるのである。それ以外に理由はないのである。この尊き事実をまず以て確認しなければならない。古代から今日に至るまで様々な時代の変遷があったが、このことは決して変わることはないのである。

 

 「神話の精神」と言うと非科學的だとか歴史的事実ではないと主張してこれを否定する人がいる。しかし、神話は荒唐無稽な伝承ではない。神話において語られているのは、一切のものごとの生成の根源であり古代人の英知の結晶であり、神話的真実なのである。神話には日本民族の中核的思想精神・根本的性格(國家観・人間観・宇宙観・神観・道義観・生活観など)が語られているのである。そして「日本神話の精神」は、は西洋科学技術文明及び排他独善の一神教を淵源とする闘争的な西洋政治思想の行きづまりが原因となった全世界的危機を打開する力を持っている。

 

 しかも日本民族の「神話の精神」はただ単に『古事記』『日本書紀』といった文献だけでなく、「天皇の祭祀」そして「全国の神社の祭祀」という「生きた行事」によって今日まで継承され語られているのである。 

 

 神話には時間を超えた永遠の価値がある。日本民族の伝統的思想精神の結晶である神話への回帰こそがほとんど絶望的と言われている現代の混迷を打開する方途である。

 

 日本天皇が日本國の君主であらせられ、日本の文化と歴史継承の中心者であらせられるということは、天皇が行われる「祭祀」と不可分の関係にある。

 

 信仰共同體・祭祀國家日本の祭祀主であられる天皇は、その本質が神秘的御存在なのである。日本國民は天皇を神聖なる御存在と仰いできた。これを<現御神信仰>という。そしてこの信仰は、日本伝統信仰の中核である。

 

 ところが、「現行占領憲法」には、「天皇の祭祀」についての規定がないので、「天皇の祭祀」は「天皇の私的行為」とされている。このため政教分離規定との関係で、國との関わり合いの問題が常に憲法論争になってきた。しかしながら天皇の祭祀は個人の幸福を祈る私的なものでは微塵もなく、あくまで國家國民の平和と安定を祈念されるのであり、天皇の國家統治の精神そのものである。ゆえに、「天皇の祭祀」は天皇のもっとも大切にして神聖なる「ご使命」である。このことは『成文憲法』に書かれていようといまいと、厳粛なる事実である。

 

 天皇の國家的、文化的統合者としてのご使命の基礎には、祭祀や歌会始などの伝統的儀式にある。天皇と世俗的権力との関わりは時代によって異なり、積極的に関わった時もあれば、そうでない時もあって様々である。しかし歴史的に見て、一貫して変わらなかったのは祭祀であった。その意味で天皇中心の日本國體(不文憲法)を考える時、もっとも本質的なものは祭祀である。

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千駄木庵日乗一月十三日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。「やまと新聞」連載の「歴代天皇の御製に学ぶ」の原稿執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後も、原稿執筆、脱稿、送付。資料の整理。

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2017年1月13日 (金)

現行憲法の重大欠陥 

            

 

 天皇は日本國の永続性および日本國民統合の中心であり、日本文化の継承と発展の中心であらせられる。日本國はいかなる時代にあっても、天皇及び皇室が國家・國民の統合と連帯の基礎であり続けてきた。この歴史的連続性を憲法に正しく規定されていることが大切である。

 

 西洋法思想・欧米國家観に貫かれた「現行占領憲法」では、前文には「主権が國民にあることを宣言し」とあり、第一条には「主権の存する日本國民の総意に基づく」とある。これを根拠にして日本は君主制の國ではないとする意見がある。こういう議論が起こるというところに「現行憲法」の重大欠陥があるのである。

 

日本とは國の成り立ち・歴史伝統が全く異なる欧米の國家論に基づく「國民主權論」「契約國家論」は、日本國體とは絶対に相容れないのであるから、「現行憲法」の天皇条項はわが國體精神とは根本的に相容れない。

 

 西洋諸國の外國の國家観・君主観・権力論を基本にした「現行占領憲法」は、祭祀國家・信仰共同体日本の國柄の精神を正しく表現していない。というよりも、「現行憲法」は、天皇の國家統治を、西洋の絶対君主の暴力的支配と同一視し、國家は個人の暴力的抑圧装置であるとし、天皇及び國家は「個人の敵」であるという考え方に立って制定された憲法である。そして、「民主化」「個人の幸福」「日本の健全な発展」のためには、天皇の「地位」を低め「権能」を弱めることが必要であるという意識のもとに、欧米の政治思想である「國民主権論」が採用されている

 

 「現行憲法」第一条の、「(天皇の地位は注)主權の存する日本國民の総意に基づく」という規定は、日本天皇の御本質を正しく表現していない。主權在民論・契約國家思想・權力國家思想に要約される西洋法思想に基づく規定である。西洋法思想における「主權」とは「國家の意思を最終的に決定する權力」であるとされている(伊藤正己著『注釈憲法』)。その西洋法思想・國家思想である「主權」なる「概念」を、わざわざ成文法として日本國の憲法に規定していることが最大の問題である。

 

 「主權」が、「天皇」にあるか「國民」にあるかを、論議すること自體日本の傳統的な考え方・國體觀とは相容れない。この一点を以てしても、「現行占領憲法」はまさしく日本の傳統を破壊する憲法である。

 

天皇が日本國の君主であらせられるという國體法(不文法)は日本國建國以来不変である。天皇は日本の長い歴史を通じて「統治者」「祭祀主」として君臨されていたということである。

 

 また、信仰共同體・祭祀國家日本の祭祀主であられる天皇を、日本國民は神聖なる御存在と仰いできた。これを<現御神信仰>と言う。この信仰は、日本伝統信仰即ち日本國體精神の中核である。わが國日本及び日本國民が神聖君主・日本天皇にお護り頂いているのであるから、大日本帝國憲法の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という条文の精神は全く正しいのである。

 

 日本国の憲法においては、天皇は日本國の統治者であらせられ、神聖不可侵の御存在であられることを明確に規定されてゐなければならない。

 

 憲法に、日本の國柄に反し天皇の御本質を正しく表現していない天皇条項があるから、日本は安定を欠いているのである。そして、今上陛下の「御譲位」の御心についての様々な動きに顕著に表われているような、政治権力による「皇室軽視」「天皇の御心の無視」という事態が発生するのである。

 

「現行憲法」によるわが國の建國以来の麗しい國柄の隠蔽が、國家の解体・家族の解体・道義の頽廃を招いている。國家存立の根本である「天皇中心の日本國體」を正しく顕現するためには、真正憲法への回帰が大切である。

 

 國家の基本法典たる憲法は必ず、その國民の、立國以来の歴史の中に培われてきた國柄に立脚しなければならない。わが日本においては、肇国以来の「天皇中心の國體」に立脚しなければならない。

 

 日本の伝統的國家観・君主観とは絶対的に相容れない原理で成り立っている「現行憲法」が長く続けば続くほど、麗しい伝統的な日本の國柄が隠蔽され破壊され続けることとなる。これが現代の混迷の根本原因である。「現行占領憲法」は、日本を永久の弱體化しておくために戦勝國=アメリカ占領軍が日本に押しつけた憲法である。「現行占領憲法」は一刻も早く無効を確認し、日本國の建國以来の國柄へ回帰し、現代の混迷を打開しなければならない。

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千駄木庵日乗一月十二日

午前は、諸雑務。

午後は、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、『政治文化情報』原稿執筆、脱稿、送付。

夕刻、谷中にて友人ご夫妻と懇談。

帰宅後は、資料の整理など。

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2017年1月12日 (木)

今日思ったこと

ご譲位に関連して色々報道が行われているが、陛下の御裁可を仰いでいるのであろうか。

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日本の今日的使命

米ソ二超大国による冷戦構造が崩壊した後、世界は平和にるという期待が持たれたが、全くそうはならなかった。むしろ、民族問題・領土問題・資源問題・宗教問題などで冷戦どころか熱い戦いが世界各地で起こっている。

 

資本主義と共産主義は共に、世界各民族・各国家の歴史と伝統を無視し破壊するグローバリズムの思想である。資本主義も共産主義も共に、人間の経済的物質的豊かさを実現することを至上の目的とし、人間の道義精神、国家民族傳統精神を軽視あるいは無視する思想である。

 


アメリカ覇権主義、共産支那の中華帝國主義、ロシアの拡張主義、さらには北朝鮮の暴虐が渦巻く狭間にあって、わが日本は、祖国の独立と安全を守るために必死になって戦わなければならないにもかかわらず、残念ながら、国民の多くは日本の傳統精神、國體精神を忘却し、内部から破壊されつつある。

 

グローバリズムの推進によって、多くの国家が世界を一つの市場として利害を共有すれば、世界規模の戦争勃発の危険性を大きく低下させ平和が実現するという考え方があった。しかし、現実には、各国の利害が衝突すると共に、持てる国と持たざる国との格差が広がっている。また無資源国が高値で資源購入を余儀なくされる状況になりつつある。

 

そしてグローバリズムの市場共有を放棄し武力行使をする国が再び出始める可能性も生ずる。つまり、再びブロック経済第二次世界大戦を勃発させた時に近い状況になりつつある。グローバリズムこそ、世界平和実現を阻む大きな要因になっている。

 

わが國の建国の精神は、「八紘爲宇」の精神である。これは、世界は色々な民族・国家が連帯し共存する一つの家であるという精神である。また近代日本の父と仰がれる明治天皇の御精神は、「四海同胞」の精神である。これは、世界の民は兄弟であるという精神である。日本は本来的に言葉の真の意味における平和国家である。

 

日本はその傳統信仰の靈的精神の偉大なる包容力によって、よく他國の宗教・文化・文明を取り入れてそれを融和せしめ洗練して、強靱にして高度な日本文化として開花せしめる力を持っているのである。

 

世界各国各民族にはそれぞれ伝統精神・傳統文化を保持している。世界の愛国者は、グローバリズムすなわち市場原理主義と共産主義という二つの覇権思想を否定し、各国各民族の個性・立場・歴史・傳統を尊重し合い、真の意味の平和な世界を実現しなければならない。そのさきがけの役目を果たすのが日本である。

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千駄木庵日乗一月十一日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。本日行う『萬葉集』講義の準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

午後六時半より、駒込地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。小生が、山上憶良の歌を講義。質疑応答。

帰途、出席者の方々と懇談。

帰宅後は、原稿執筆。

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2017年1月11日 (水)

維新について

 

 今日の危機的状況を打開するためには、明治維新の精神に回帰し、明治維新と同じやうに、日本的変革の原理たる「天皇中心の國體の明徴化」の理念を基本とした大変革即ち平成維新を断行しなければならないと信ずる。

 

明治維新前夜は、アメリカなどの西欧列強が徳川幕府の弱体化に付け入って武力による圧迫を以て屈辱的な開港を日本に迫って来た。徳川幕府は、外圧を恐れかつ自らの権力=徳川幕藩體制を維持せんとしてそれを甘受しやうとした。かうした状況を打開し、王政復古すなはち天皇中心の國體を明らかにして強力な統一國家を建設し外圧を撥ね除けやうとしたのが明治維新である。

 

何処の國の革命も変革も、洋の東西・時の今昔を問はず、またその変革の是非を問はず、外國との関連・外國からの圧力によって為し遂げられたと言へる。古代日本の大変革たる大化改新も支那・朝鮮(唐新羅連合軍)からの侵攻の危機下に行はれた。ロシア革命も日露戦争・第一次世界大戦の影響下に行はれた。辛亥革命は阿片戦争が影響した。アメリカ独立革命は言ふまでもなくイギリスとの戦ひであった。明治維新もまたしかりである。

 

わが國のやうに建国以来三千年の歴史を有し高度な統合を実現してゐる國家に強大な外敵が出現した場合、民族的一體感・ナショナリズムが沸き起こるのは当然である。西洋列強の日本に対する圧迫が強まった時、これを撥ね除けるために藩といふ地域そして士農工商といふ身分制度を乗り越えて、天皇を中心とした日本國家・民族の一体感・運命共同意識を回復して外敵に当たろうとしたのである。

 

 國家的統合を一層強めて國家体制を変革し強化して外敵から自國の独立を守るといふ精神が明治維新の基本精神である。それを「尊皇攘夷」といふ。天皇を尊び、外國の侵略からわが國を守るといふ精神である。

 

「攘夷」とは夷狄(野蛮な外國)を撃ち攘ふといふことである。西欧列強といふ侵略者、異質の文化に直面した日本民族の國民的自覚と祖國防衛・独立維持の情念の噴出である。アメリカやロシアの軍艦の来航といふ國家的危機に直面して、國防意識が全國民的に高まった時に、自然に発生し燃え上がった激しき情念である。

 

「尊皇攘夷」の起源は、貝塚茂樹氏によると、北狄や南蛮の侵略にあった古代支那(周の末期)の都市國家群・支那民族が、危機を乗り越えやうとした時の旗幟(きし)である。ただし支那の場合は、「尊皇」ではなく「尊王」である。

 

 日本國の長い歴史の中で、「攘夷」の精神は静かに表面に出ず脈々と継承され生き続けたのであるが、白村江の戦いの敗北・元寇・幕末・大東亜戦争といふ外患の時期においてこの精神が昂揚した。

 

 大化改新と明治維新は共通する面が多い。それは外圧の排除であり、政治体制・法体制の整備であり、外國文明・文化の受容である。大化改新後の律令國家体制は明治維新後の明治憲法体制と相似である。

 

維新のことを日本的変革といふ。日本の伝統精神に基づいた変革が維新であり、日本の本来あるべき姿即ち天皇中心の國體を開顕する変革が維新である。維新と革命の違ひは変革の原理を天皇とするか否かである。ゆゑに明治維新は革命ではない。

 

また、神武建國の精神に回帰せんとした明治維新は単なる政治変革ではない。日本の道統への回帰である。そして日本の道統への回帰がそのまま現状の変革になるのである。これを「維新とは復古即革新である」と言ふ。

 

徳川幕藩体制から天皇中心の統一國家への転生は、体制変革のみならず、精神の変革がその根底にあった。日本國家の発展と安定の基礎は、天皇中心の信仰共同体としての日本國體が、現実の國家運営の基盤として正しく開顕してゐることにある。

 

 近代のみならずわが國の歴史が始まって以来、日本國家を統合する<核>が天皇であった。急速な変化と激動の中で、わが國が祖先から受け継いだ伝統を護り、かつ変革を為し遂げた<核>が、天皇のご存在であった。わが國は、どのやうな困難な時期においても、常に伝統を守り、統一体としての國家民族を維持し、かつ、新しいエネルギーを結集して國家変革を行った。その<核>が天皇であった。

 

天皇中心の國體を正しく開顕し、天皇を國家の中心に仰いでこそ、日本國の主體性は確立され、外國の侵略を撃退し祖國の独立を維持することができる。

 

事実、明治維新断行後、天皇を統治者として仰ぎつつ、封建的身分制度は廃止され、廃藩置県によって統一國家が建設され、帝國憲法の発布・議会政治が開始された。そしてわが国は、欧米列強の支配下に置かれることはなかった。

 

わが國の歴史において、日本國民の価値判断の基準は、外来文化・宗教・文明を受容しても、その中核には、天皇を中心とするわが國體精神があった。特に政治・倫理・文化など國家民族形成の基本においてしかりであった。

 

日本人は優秀である。その優秀さは、勤勉性、高い道義心、協力と献身の精神の旺盛さ、謹厳実直さなど色々挙げられるだらう。

 

わが國の祭祀主は、上御一人日本天皇であり、天皇はもっとも清浄な御方であり、現御神であらせられる。天皇が政治・軍事・文化・宗教の最高権威者であらせられる。天皇帰一の國體の開顕が維新である。内憂外患交々来たると言った状況にある今日こそ、維新断行の時である。

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2017年1月10日 (火)

千駄木庵日乗一月十日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、明日の『萬葉集』語義の準備、『伝統と革新』編集の仕事、書状執筆、『政治文化情報』原稿執筆など。

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第六十九回 日本の心を学ぶ會

第六十九回 日本の心を学ぶ會

 

テーマ 対立・闘争が激化する世界情勢と日本の使命―トランプ登場に関連して

 

新しき年平成二十九年を迎えました。

昨年は、アメリカ大統領選挙におけるトランプ氏の勝利や、イギリスのEU離脱など今後の世界を大きく左右する動きが続きました。今年も欧州ではドイツやフランスなどで大きな選挙が予定されており、難民問題やEUからの離脱の議論が盛んになりそうです。さらに選挙の行方によってはEU崩壊が現実となってくる可能性すらあります。

 

イギリスのEU離脱、「アメリカ第一」を掲げたトランプ氏の勝利は、世界各国が「内向き」になり、それぞれの国家利益 を最優先に考え利害が激突する時代がやってきたということです。

 

これまでボーダレスやグローバリズムという国境のない一つの市場を目指していた世界は、大きな転換点を迎えたと言えましょう。

 

つまり我々は「グローバリズムの終焉」に際会しているといえます。そして世界各国のナショナリズムが勃興する時代になったと言えるのではないでしょうか。

 

このような国際状況が、我が国の未来に重大な影響を及ぼすことは明らかです。

トランプ氏はTPPの脱退を表明しており、さらに日韓両国からの米軍撤退、日韓両国の核保有容認発言をしております。さらに中国やロシアは覇権主義を先鋭化させており、我が国の周辺環境は一段と厳しさを増すことになりそうです。

日本は、建国の精神たる「八紘爲宇」、明治天皇の大御心である「四海同胞」の精神を拝しても明らかな通り、言葉の真の意味における「平和国家」であります。

 

そこで、今回の勉強会では対立が激化する世界情勢の中でのわが日本の使命・行くべき道について考えてみたいと思います。

 

【日時】平成二十九年一月二十九日 午後六時から

 

【会場】文京区民センター 2-B会議室

文京区本郷4-15-14 都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、東京メトロ丸ノ内線「後楽園駅4b出口」徒歩5、東京メトロ南北線「後楽園駅6番出口」徒歩5分、JR水道橋駅東口徒歩15

【演題】「対立・闘争が激化する世界情勢と日本の使命-トランプ登場に関連して」

 

【講師】 四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

 

【司会者】林大悟

 

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(3千円くらいの予定です)

 

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

 

この案内文は主催者が作成しました。

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この頃詠みし歌

良き子二人に恵まれしわが妹は六十六歳になりにけるかも

 

重き曲『ショスタコビッチ第五番』自由圧殺の響きとし聴く

 

若き日より聴き来し『白鳥の湖』を今朝も掃除をしつつ聴きをり

 

夕暮の根津権現の神域は静かなりけり清らなりけり

 

敷石を踏みつつ神殿へと歩み行くこの夕暮れの静かなる時

 

拝ろみがて一年のご加護を感謝する夕暮時の根津のみやしろ

 

除夜の鐘を若き僧侶が打つ姿見つつ年越す越前永平寺

 

百八煩悩その一つでも消えよかしと永平寺の鐘を聞きゐたりけり

 

除夜の鐘を聞きつつ参道を歩み行く小雨冷たき越前永平寺

 

仰ぎ見る巨木の命の大いさを身に感じつつ立つ永平寺

 

越前の國一宮の神を拝ろがみて新しき年の出発とする

 

青く美しき日本海を眺めつつ静かなる心となりにけるかな

 

穏やかな日本海を眺めつつ新しき年の平和を祈る

 

青く美しき海の彼方にある國はわが日の本に仇なす國か

 

これほどに喫煙を嫌ふ世の中となりても我は煙草吸ひをり

 

今日もまた母と過ごして『ダンチョネ節』共に歌へば楽しくもあるか

 

寄り添ひて母上の口に食べ物を運べることがわが務めなる

 

息切らし昇り行く坂の上にある母のゐる施設にたどり着きたり

 

心込め文を書く時護りたまふ神を背後に感じゐるなり

 

真昼間の青空は消えて夜となればかすかながらに星がまたたく

 

年賀状で友の健在を知ることが年の始めの楽しみとなる

 

遠く住む友とはもう何年も会ふこともなく年賀状を讀む

 

おろしそば食しつつ逢ひ得ぬ人のことを偲びゐるなり越前の宿

 

知人よりのメールを待ちてゐる時にパソコンを開くことの楽しさ

 

筆を持つ手は何時も活発に動くが嬉し生きてゐる我

 

パソコンのキーを打つ指は忙しなく生きゐる我の命の動き

 

命あることを喜び今日も明日もパソコンのキーをたたき続けむ

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千駄木庵日乗一月九日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

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2017年1月 9日 (月)

オピニオン雑誌『伝統と革新』第二十五号

オピニオン雑誌『傳統と革新』第二十四号

 

平成二十九年冬号 

たちばな出版発行(四宮正貴責任編集)

特集 天皇・皇室と憲法 陛下の「お言葉」を拝し「憲法第一章」を考える

巻頭言『記紀萬葉』に示された「日本國體精神」と「近代成文憲法」            四宮正貴

「インタビュー」

天皇陛下は、長い歴史の中で日本という國の在りようの原点です       中山恭子

陛下のご意思は「高齢譲位」により順調な世代継承を実現する以外にない     所 功

「お言葉」を拝した今こそ、天皇のあり方の特質をしっかり再認識しよ    高乗正臣

「佐藤優の視点」北方領土交渉の展望について                佐藤優

日本の根本規範を取り戻してこそ天皇陛下の「お言葉」の深さを知ることができる

 西村眞悟

象徴としての天皇の尊さ                        富岡幸一郎

禁中は敬神第一                             茂木貞純

國體としての皇位                            黒田秀高

「生前退位」をめぐる状況を読み解く                   新田 均

「聞き書き」豊洲市場の問題、東京オリンピックの問題……。大手メディアの責任は大きい                                   上杉 隆

天皇陛下の「おことば」は、國の命運を分かつ時に発出される「詔」である 

   稲村公望

「お言葉」を拝してあらためて國體を考える                玉川博己 

よりよい世界へと導く憲法を                       大和武久

我が國における承詔必謹と絶対尊皇の精神とは何か             折本龍則

「提言・直言」

靖國神社の今後のあり方について思うこと                 松木謙公

譲位のご意向に込められた意味                      松崎哲久

「連載」

やまと歌の心                            千駄木庵主人

石垣島便り 石垣島の自衛隊配備反対運動について             中尾秀一  

世俗の憲法を超える、わが國の歴史、伝統、精神の唯一の顕現者       木村三浩  

我が体験的維新運動史第24回 靖國神社護持を熱祷する           犬塚博英  

 

 定価 本体価格1000円+税。 168頁

 

〒167―0053 東京都杉並区西荻南二-二〇-九 たちばな出版ビル

 たちばな出版  ☎代表03―5941―2341 FAX5941―2348

 

 定価 本體価格1000円+税。 168頁

〒167―0053 東京都杉並区西荻南二-二〇-九 たちばな出版ビル

 

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萬葉古代史研究會

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

 

日時 一月十一日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

 

はじめての方はテキストは不要です。

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昭和天皇の御聖徳

終戦の年の十二月から翌年一月にかけての大混乱期に、日本全國からマッカーサー宛に送られた『天皇戦犯指名反対』の手紙は、米國ワシントンの國立公文書館の『東京裁判関係文書』にファイルされてゐるだけでも千通を越す。(秦郁彦氏『天皇を救った千通の手紙』)

 

また、全國各地で「ご留位」の嘆願署名運動が展開され、十萬に上る嘆願書が宮内庁に送られてきた。

 

中國地方御巡幸の折の昭和二十二年十二月七日、広島市の奉迎場に、七萬人の市民が集まり、陛下をお迎へした。その時の様子を当時の広島市長・浜井信三氏は次のやうに記してゐる。

 

「『バンザイ、バンザイ』の嵐、歓迎會場の護國神社前の広場には、郡部から出てきた人々も含め数萬の群衆で埋めつくされ、車から降り立った天皇はモミクチャにされた。誰の目からも涙がとめどなく流れつづけた。そして、天皇は壇上から次のように述べた。『このたびは、みなの熱心な歓迎を受けてうれしく思います。本日は、親しく広島市の復興のあとをみて満足に思います。広島市の受けた災禍に対しては、まことに同情にたえません。われわれは、このご犠牲を無駄にすることなく、平和日本を建設して、世界平和に貢献しなければなりません』水を打ったように静まりかえってききいっていた人々の中からドット歓声があがり、バンザイがこだまし、會場は興奮と感激のルツボと化した…。」(『原爆市長──ヒロシマと共に二十年』)

 

昭和天皇は、

 

ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなほる見えてうれしかりけり

 

といふ御製を詠ませられた。

 

終戦時、わが國の『ポツダム宣言』受諾の際に、わが國政府が「天皇の國家統治の大権を変更する要求を包含し居らざることの了解の下に帝國政府は右宣言を受諾す」との条件を付したのに対し、米國務長官・バーンズから送られてきた文書いはゆる『バーンズ回答』には、「最終的の日本國の形態は『ポツダム宣言』に遵い、日本國國民の自由に表明する意志により決定すべきものとす」とあった。まさに、「日本國民の自由に表明する意志」は、國體護持であったのである。

 

昭和天皇は、國民を鼓舞激励し、祖國の復興を成し遂げるために、昭和二十一年二月二十日より二十九年まで満八年半をかけて、行程三萬三千キロ、総日数百六十五日間の地方御巡幸を行はせられた。それは昭和天皇の「國見」であったと拝する。「國見」とは、國土と國民の祝福し、國土の豊饒と國民の幸福を祈る祭事である。昭和天皇は、敗戦によって疲弊した國土と國民の再生のための「祈りの旅」を行はせられた。

 

昭和天皇は、「戦災地視察」と題されて次のやうなお歌を詠ませられた。

 

戦のわざはひうけし國民をおもふ心にいでたちて来ぬ

 

わざはひをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしとぞ思ふ

 

國をおこすもとゐとみえてなりはひにいそしむ民の姿たのもし

 

 鈴木正男氏は、「敗戦國の帝王が、その戦争によって我が子を亡くし、我が家を焼かれ、その上に飢餓線上をさ迷ふ國民を慰め励ます旅に出かけるなどと云ふことは、古今東西の歴史に絶無のことであった。アメリカをはじめとする連合軍は、恐らく天皇は國民から冷たく迎へられ、唾でもひっかけられるであらうと予想してゐた。ところが、事実は逆であった。國民は熱狂して天皇を奉迎し、涙を流して萬歳を連呼した。…天皇の激励によってストは中止され、石炭は増産され、米の供出は進み、敗残の焦土の上ではあったが、國民は祖國再建の明るい希望に燃えて立ち上がった。」(『昭和天皇のおほみうた』)と論じてをられる。

 

昭和三十八年以来、毎年八月十五日に挙行される政府主催『全國戦没者追悼式』における、昭和天皇の「お言葉」では必ず、「胸の痛むのを覚へる」と仰せになっておられる。

 

昭和天皇崩御前年の最晩年の昭和六十三年には、『全國戦没者追悼式 八月十五日』と題されて、

 

やすらけき世を祈りしもいまだならずくやしくもあるかきざしみゆれど

 

と詠ませられた。

 

昭和天皇は、大東亜戦争に対する「政治的責任」「法律的責任」というような次元ではなく、「日本國天皇としての責任」を深く自覚されておられたのである。根本的には、昭和天皇はご自身のご意志で御位にとどまられてその責任を果たそうとされ、また事実は果たされたのである。

 

昭和天皇は、ご生涯をかけて日本國の天皇としての御使命を果たされたのである。それはただただ國民の幸福と平和の実現であった。だからこそ、戦後日本の復興と國民の幸福があり得たのである。

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千駄木庵日乗一月八日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2017年1月 8日 (日)

わが國の伝統信仰と維新

 

 わが國の神は天津神、國津神、八百万の神と言われるように、天地自然の尊い命であり、先祖の御霊である。 

 

 今日、自然破壊が人間の心を荒廃せしめる大きな原因になっている。我が國の自然を大切にする心=自然保護の精神は、歴史的にも文化的にも『神社の森』『鎮守の森』がその原点である。我が民族の祖先は、古代から神々の鎮まる緑豊かな『神社の森』『鎮守の森』を大切に護って来た。

 

 それは鎮守の森には、神が天降り、神の霊が宿っていると信じて来たからである。鎮守の森ばかりではない。ふるさとの山や海に神や精霊が生きていると信じてきたのである。秀麗な山にも神が天降り、神の霊が宿っていると信じて来た。天皇の御祖先である邇邇藝命は高千穂の峰に天降られたのである。そして、富士山・三輪山・大和三山・出羽三山・木曾山など多くの山々は神と仰がれ今日に至っている。

 

 さらに、海の彼方にも理想の國・麗しい國があると信じた。それが龍宮信仰である。海は創造の本源世界として崇められた。

 

 我が國伝統信仰すなわち神道は、自然の中に生きる神の命と人間の命とが一體となって結ばれる信仰である。それと共に、自分たちの祖先の霊を崇め感謝し奉る信仰である。これを「敬神崇祖」という。その最も端的な例が天照大神への信仰である。天照大神は、農耕生活にとって最も大切な太陽に神であられると共に、その太陽神を祭られる祭り主であられる「すめらみこと」=天皇の祖先神であられる。そして天照大神は日本民族の親神として崇められて来たのである。

 

 日本伝統信仰即ち神道は、日本民族の実際生活から生まれて来た信仰なのである。特定の預言者や絶対神の代理人と称する人が説き始めた教条・教義に基づく信仰ではない。ここが神道と仏教・キリスト教などの教団宗教との根本的相違である。

 

 我が國伝統信仰=神道はまことに大らかにして包容力旺盛な信仰である。それは我が國伝統信仰が、前述したように、國民生活の中から自然に生まれてきた信仰精神であるからである。

 

 だからこそ、神道の祭り主であらせられる日本天皇は、仏教や儒教をも尊ばれた。我が國において仏教典を講義され、仏教寺院を建立されたのは、聖徳太子であられる。聖武天皇は、日本仏教の中心寺院として東大寺を建立され、さらに全國に國分寺・國分尼寺を建立された。我が國において仏教は、皇室を通して広まったと言っていいのである。そして日本伝統信仰は外来仏教や儒教を大らかに融合してきた。

 

 今日「政教分離」の原則とやらをやかましく言い立てて、日本伝統信仰=神社神道を排斥する輩こそ、プロテスタント・創価学會・浄土真宗の一部そして共産主義者というような排他独善の教義を信ずる者共なのである。

 

神道の基本行事は、神を祭ること即ち祭祀である。「祭り」とは神に奉仕(仕え奉る)し、神の御前において自己を無にして神の御心に従い奉ることである。つまり神と自己との一體を確認し、神の御心のままに勤めることをお誓いする行事である。

 

 人は、はじめから神に生かされ、神と離れた存在ではなく神と一體の存在であった。しかし、様々の罪穢が神との一體観・神と共に生きる姿勢と心を隠蔽してしまった。禊によって罪穢を祓い清め、祭りと直會(神と共に供え物を食する行事)によって神との一體観を回復する。これが神道行事の基本である。

 つまり人の本来の姿を回復することが祭りの原義である。『古事記』に示されている「天地の初発(はじめ)の時」(天地宇宙の始まりの時)に回帰する行事が祭りである。

 

 混迷の度を深めている我が國も、「天地の初発の時」即ち神がお生みになった日本國の最初の時の姿を回復することによって、この危機的状況を打開することができるというのが、我が國の伝統的な信仰である。

 

 維新とは、実に罪穢を祓い清め國家の本来の清浄な姿・神のお生みになったままの麗しい姿を回復することである。したがって、今日行うべきことは罪穢を祓い清めることである。日本の本来の清浄な姿・神のお生みになったままの麗しい姿に、日本人の本来の生活と信仰とを戻すことである。即ち「今即神代」である。

 

 実際、日本民族は、全國各地で毎日のように禊と祭りを行っている。それは信仰共同體日本の本来の姿を回復する祈りが込められている行事である。

 

 國家を愛することができなくなっているのは、國民の多くが國家に対して誤った見方をしているからである。精神的共同體としての國家と権力機構・経済體制としての國家とをはっきり区別して考えなければならない。権力機構・経済體制としての國家がいかに混乱し破滅的状況にあっとしても、精神的共同體としての國家は永遠に不滅である。

 

 わが國の歴史を顧みても、これまで、壬申の乱、南北朝時代、応仁の乱そしてそれに続く戦國時代というような大混乱の時代も経験したが、天皇を中心とする精神共同體としての國家・日本は生き続け、國家的・民族的統一を全く喪失する事なく必ず太平の世を回復してきた。

 

 我が國民が祭りが好きであるということは、日本人が本来明るい精神を持っているということである。厭世的でもなければ逃避的でもないというのが我が國民性である。いかなる困難も罪穢も神を祭ることによってこれを打開し祓い清めることができると信じ続けてきているのである。

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千駄木庵日乗一月七日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事、『政治文化情報』の原稿執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。元気なり。

帰宅後も、原稿執筆。

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2017年1月 7日 (土)

亀井静香氏の妄論について

亀井静香氏が、『月刊日本』平成二十九年一月号で「天皇陛下には基本的人権はない。人間ではない。譲位を認めるべきではない」「天皇のお言葉に対して安倍総理はサボタージュすべし」などと主張したことは旧臘十二月二十五日にも書きました。

 

亀井氏はまた、「天皇陛下の本来のお務めは宮中祭祀と国事行為であって、被災地や激戦地に行かれることではない」とも述べてゐる。亀井氏は、祭祀が、天皇陛下の最も重要なお務めであることは承知してゐるようである。

 

日本天皇は、日本国の祭祀主であらせられ、現御神であらせられ、日本国の「君主」であらせられ「国民」ではあらせられない。これはあまりにも自明のことである。

 

「人権」とは「人間が人間として生きるために生来持ってゐる権利」とだと言ふ。であるならば、「現御神」であらせられる日本天皇は、普通一般の「人間」ではあらせられないのであるから「人権」はお持ちにならない。そんなことは亀井氏が主張しなくとも当たり前のことである。

 

「人権」といふ考へ方は、一二一五年のイギリスの『マグナ・カルタ(大憲章)』がその淵源であると言ふ。さらに「絶対王政」を打倒し「共和制」に移行した「フランス革命」当初の一七八九年八月のフランス国民議会は『人と市民の権利の宣言』(所謂世界人権宣言)を議決した。この「宣言」における多くの原理は今日に至るまで広範囲に及ぶ影響を持ってゐる。つまり、「人権思想」とは、絶対専制君主と人民との闘争に於いて生まれてきた思想であって、君民一体・一君万民の日本國體精神とは本来異質の考へ方である。我が国においては単なる「ヒト」(ホモ・サピエンス)「市民」「人民」といふ概念は無い。わが国においては「ヒト」とは「日人」であり「国民」「臣民」「皇民」である。

 

さらに、「国民」「臣民」「皇民」ではなく「上御一人」であらせられる天皇陛下は、国民としての権利即ち「民権」はお持ちになってをられない。「国民」ではない「君主」が「国民としての権利」即ち「民権」をお持ちにならないのはこれまた当たり前のことである。

 

亀井氏は、天皇陛下が「基本的人権」をお持ちになっをられないことを「お気の毒なことです。申し訳ないことです」などと言ってゐるが、言外に、「天皇には基本的人権はないのだから、譲位される権利もない」と言ってゐるのだ。だからかかる言葉を発するのだ。対談相手の石原慎太郎氏が、「天皇陛下がくたびれるのは当たり前です。そういうことを斟酌すると、私は天皇陛下のご意向を一緒になって考えなといといけないと思います」と述べたのに対して、亀井氏は、「非常にセンチメンタルで、石原さんらしくないね」と返答し、さらに、「天皇陛下には基本的人権はないんです。人間ではないんです。お気の毒な立場ですが、そういう御存在なんです。そういう面で我々は畏敬の念、尊崇の念を持って行けばいいと思う」と語った。

 

祭祀主日本天皇は、現御神として神聖にして最尊最貴の権威を持ってをられる。上御一人日本天皇の現御神・祭祀主たる御本質は決して「お気の毒な立場」ではない。

 

「現御神」あるいは「現人神」とは、読んで字の如く、現実に人として現れた神といふことである。人でありながら神であり、神でありながらながら人であるお方が、祭り主であられる日本天皇なのである。それを名詞で表現したことばが「現人神」「現御神」なのである。だから亀井氏のように一概に「天皇は人間ではない」などと言ふのも間違ってゐる。 

 

葦津珍彦氏は〈現御神日本天皇〉の意義について次のやうに論じてゐる。「天皇おん自らは、いつも過ちなきか、罪けがれなきかと恐れて御精進なさっている。天上の神になってしまって、謬つことなき万能の神だと宣言なさった天皇はない。…現御神とは、地上において高天原の神意を顕現なさる御方というのであって、決して無謬・無過失の神だというのではない。」「現人神というのは人間ではないというのではない。人間であらせられるからこそ、皇祖神への祭りを怠らせられないのである。天皇は、神に対して常に祭りをなさっている。そして神に接近し、皇祖神の神意に相通じ、精神的に皇祖神と一体となるべく日常不断に努力なさっている。天皇は祭りを受けられているのではなく、自ら祭りをなさっている。祭神なのではなくして祭り主なのである。その意味で人間であらせられる。けれども臣民の側からすれば、天皇は決してただの人間ではない。常に祭りによって皇祖神と相通じて、地上において皇祖神の神意を表現なさるお方であり、まさしくこの世に於ける神であらせられる。目に見ることのできる神である。だからこそ現御神(現人神)と申上げる。」(『近代民主主義の終末』)。

 

現御神日本天皇は、天つ神・皇祖神の御子としての神聖なる権威を担って、目に見える人の姿として、現実に地上に現れられた神であらせられる。

 

日本國の祭り主であられる天皇は、「無私」になって神にまつろひ奉る御方であり、神のみ心を伺ひ、それを民に示される御方である。また民の願ひを神に申し上げて神の御加護を祈られる御方である。

 

「祭る」とは無私になって神にまつろふといふ事であり、祭る者が自分を無にして祭られる者=神に従ふといふ事である。「祭り」とは神人合一の行事である。天皇が祭り主として「無私」であられるからこそ、神のみ心を実現され、天照大神の神霊を體現される御方となられるのである。だから民から天皇を仰ぐ時には「この世に生きたまふ神」すなはち「現御神(あきつみかみ)」あるいは「現人神(あらひとがみ)」と申し上げるのである。

 

現御神(現人神)日本天皇は、天つ神・皇祖神の御子としての神聖なる権威を担って、目に見える人の姿として、現実に地上に現れられた神であらせられる。そして、皇祖天照大神の住みたまふ天上界(高天原)と地上とは隔絶した関係ではなく、常に交流してゐる関係にある。

 

日本人の傳統信仰は、皇祖神と天皇の関係ばかりでなく日本の神々と一般國民も種々の形で交流し、両者の間に超えがたい区別などはないのである。神はしばしば人の姿をとって現実世界に現れ、人の口を借りて神意を傳へんとする。

 

天皇陛下が祭り主・現御神として「無私の御存在」であることを「天皇には人権がない」と言ったといふ理解も不可能ではない。しかしそれなら、「お気の毒」などとは言へないはずである。

 

無私の御存在であり、祭祀主・現御神たる天皇陛下の御心に対し奉り、絶対的に従ひ奉るのが臣民の道である。祭祀主・現御神としての天皇陛下の神聖性・尊貴性を正しく語ることをせず、「天皇に人権はない」「お気の毒」などと慎みのない言葉を繰り返し、安倍総理に対して、天皇陛下の御意志・御心を拳拳服膺せず、「サボタージュすべし」などと要求してゐる亀井静香氏には、現御神日本天皇に対する尊崇の心が希薄であるからだと言はざるを得ない。

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千駄木庵日乗一月六日

午前は、諸雑務。

午後は、「伝統と革新」編集の仕事。原稿執筆。

午後六時より、千駄木にて、若き同志と懇談・意見交換。「若き同志」と書くのは、この方の父上が、私より年下なのです。最近そういう方々ともお付き合いが増えてきています。

帰宅後も、原稿執筆。

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2017年1月 6日 (金)

東條英機元総理と大東亜戦争

 

東條英機元総理は、大東亜戦争とりわけ日本と米英との戦争について『検事の論告より受けたる所感の要点』(昭和二十一年六月五日)といふ獄中で処刑を目前して記した文書で次のやうに総括してゐる。

 

「日本は果たして文明に宣戦せりや。戦争は人類の文明生活に破壊を招来するものにして、従て何れの國家も極力避く可きは論を待たず。之れがため平時國際上戦争の原因発生を紛争の危険前に抑止し、常に互譲の精神を以て之れを阻む迅速なる解決を必要とす。殊に大國國家において然り。…大國の威力を以て小國を屈従し正常なる発展を阻止せんとし然も其の目的を達せんがためには其の生存を脅威せんとするが如き行為は果して之れを以て文明的行為と認むべきや。

一、過去数世紀に欧米の東亜侵略、而して其の搾取政策の前に帝國及東亜民族が其の桎梏の前に苦悩せしかは之れを暫く置くも

二、第一次欧州大戦后の英米の帝國に対する國際圧迫。

三、某々大國に於ける東亜移民の排斥。高関税政策、経済ブロックの結成に依る帝國貿易振興の抑制。

四、支那に於て日支相戦はしむる政策の採用。

五、人種差別待遇。

六、大東亜戦直前に於ける平和通商破棄及経済的脅威。

七、日米交渉終期に於ける帝國に対する受入得ざる策、至難なる提案。

検事の論告に依れば、日本は文明に宣戦せりと称するも、寧ろ文明に宣戦せるは以上の事實より帝國を戦争に追い込みたる英米側に存し其の責任は其の負ふべきものなり。蓋し日本は自己の生存を保証せんがため及東亜國民の生存を永久に確立せんがために戦へるものにして、之れ換言すれば人類の真の文明を求めしがためなり(以下略)」。

 

大東亜戦争とはいかなる戦争であったかを記した血を吐くような文章である。東條英機元総理を始め、我が國の枢要な地位にいた人々二十八名を「文明」と「平和」の名によってその責任を裁くといふ『極東國際軍事裁判』に対する痛烈なる批判である。

 

 東條英機氏はその『遺書』において「開戦当初の責任者として敗戦のあとを見ると、實に断腸の思いがする。今回の刑死は、個人的には慰められておるが、國内的の自らの責任は死を以て贖(あがな)えるものではない。しかし國際的な犯罪としては無罪を主張した。今も同感である。ただ、力の前に屈伏した。自分としてはまた國民に対する責任を負って、満足して刑場に行く。ただこれにつき同僚に責任を及ぼしたこと、また下級者まで刑が及んだことは實に残念である。天皇陛下に対し、また國民に対しても申しわけないことで、深く謝罪する」と書いてゐる。

 

 東條英機氏は、昭和二十三年十二月二十三日、東京巣鴨にて殉難された。辞世において、

 

「たとへ身は 千々に裂くとも 及ばじな 栄えし御世を 堕せし罪は」

「続くものを 信じて散りし 男の子らに 何と答へん 言の葉もなし」

「さらばなり 苔の下にて われ待たむ 大和島根に 花薫るとき」

 

と詠んでゐる。

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千駄木庵日乗一月五日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母に付き添う。共に『ダンチョネ節』を歌う。

帰宅後は、原稿執筆、書状執筆、『伝統と革新』編集の仕事など。

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2017年1月 5日 (木)

精神性を重視した世界観・文明観の確立と日本伝統信仰

 

本当の正しい合理主義は、合理的・科学的態度そのものの倫理や歴史との関係を謙虚に反省し、科学技術や合理的なものの考え方の限界の自覚を前提としたものでなければならない。現実の人間生活は理論や理屈通りには行かないものである。また不条理なものである。

 

 人間の意思決定やものの考え方そして行動は、合理的に論証して行われるのではなく、情念的・情緒的に行われる場合が多い。学問の分野における新たなる発見や発想及び芸術の分野における新たなる創作は、自由な感性・想像力・霊感・啓示・そして狂気というような不条理な心理が源泉となり、偉大な業績を生み出す。その感性・想像力・霊感・啓示・そして狂気をどのようにして正しく統御し自制するかが問題なのである。

 

 人間は理論や理屈では死ねないし、世界は理論や理屈では動かない。学問や芸術のみならず、歴史そのもののも、人間の情念によって動いてきた。歴史の根底を支えてきた民衆は、政治思想や政治技術によっては容易に動かず、心性を揺さぶる情念によって動かされてきたし、自己の情念が美しいと感じたものに対して命を捧げてきた。己れの「美学」が死をも厭わぬ行為に駆り立てるのである。  

 

 つまり今日の人類の危機を打開するためには、真の合理的発想を重んじるとともに、科学技術・物質文明に偏した考え方を改めて、人間の精神性の復活・内面から発する情念の正しき統御が大事なのである。近代合理主義やある一人の人の説く教義で全ての世界が説明できるという傲慢な考えを捨てて、壮大なる宇宙の神秘=無限の可能性は、人間の理性や知能によって全てが説明できるものではないという謙虚な姿勢を持つべきである。ここに宗教の必要性が生じてくる。

 

 先進諸国の<近代合理主義>を根底に置いた物質文明及び経済至上主義の行きづまりによる今日の混迷を打開するためには、正しき「宗教精神」への回帰が大切である。

 

 しかし、「宗教精神」への回帰とは、安易にしていかがわしい神秘主義や狂信的な教団宗教へのよりかかりであってはならない。むしろそうしたものを厳しく否定しなければならない

 

 仏教・キリスト教・マホメット教は、一個人を教祖とし、教団を組織する。そして信者その教祖と教団に依存している。日本の新宗教・新々宗教ももちろんそうである。そうした教団宗教は、往々にして排他独善の姿勢に陥りやすい。世界の宗教史は宗教戦争の歴史といっても過言ではない原因はここにある。そして今日それが日本国内においても世界においてもますます激化してきている。

 

 日本伝統信仰すなわち神道には教祖がいない。教典もない。ただ「神への祭り」を行い、「神の道」に随順して生きる事を大切にしている。これが、わが国の伝統的な信仰精神の基本である。つまり日本神道の本質は、特定の人物によって書かれた教条・教義の中には無いのである。文字通り「神」及び「道」のそのものの中にあるのである。我々日本人は、その「神」を祭り「神の道」を現実に生きることによって宗教的安穏を得るのである。

 

 今日の日本人には、西洋精神の影響を受けて自然への畏敬の念を失ってしまった人が多いが、古来、日本人は自然を神として拝み尊んでいた。日本の神々は,天地自然そのものに宿っている。また祖霊を神と崇める。これは一種の神秘思想と言っていい。そうした日本民族が継承してきた伝統的な正しき信仰精神を正しく継承し現代において生かす事が必要なのである。

 

 日本の伝統信仰は自然神秘思想であることは間違いないが、全てを神や仏という絶対者の支配に任せ、科学的思考・合理的思考を拒絶するという考え方ではない。

 

 日本の古代から継承されてきた「道」は、実に真に合理的にして科学的な考え方である。ただ人間の作り出した科学技術や人間が発見した<合理的法則>というものが全てを解決するという傲慢な考え方を否定するのである。

 

 「神への回帰」「自然への畏敬」という精神性を重視した世界観・文明観を確立することが、これからの人類の生存のために不可欠である。であるがゆえに、神道(神ながらの道)という精神伝統を保持する日本が、新しい文明を切り開いていく可能性が非常に高いのである。

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千駄木庵日乗一月四日

午前は、諸雑務。

午後からは在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。書状執筆、。資料整理。原稿執筆。

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2017年1月 4日 (水)

泉三郎氏(NPO法人米欧回覧の会会長)による「日本近代化の曙―岩倉使節団の挑戦」と題する講演内容

九月十五日に開催された「新三木会九月講演会」における泉三郎氏(NPO法人米欧回覧の会会長)による「日本近代化の曙―岩倉使節団の挑戦」と題する講演内容は次の通り。

 

「幕末から明治初期、技術革新、産業革命の大波が押し寄せていた。西洋が大砲を装備した蒸気船でアジアに進出。中国は香港をもぎ取られる。日本にはペリーとプチャーチンが来て開国を迫る。弱肉強食の危機が迫る。日本は開国したが、裁判権は相手国にあった。関税自主権も喪失。

 

岩倉使節団は、明治四年十一月十二日、横浜港を出帆した。廃藩置県の四か月後に、欧米使節団が派遣された。木戸孝允は三十九歳、大久保利通は四十一歳、伊藤博文は三十一歳、山口尚芳は三十三歳。幕臣出身者も含まれていた。平均年齢は三十一歳。八歳になったばかりの津田梅子など女子留学生が四人参加。中江兆民、平田東助、牧野伸顕も含まれている。派遣組と留守組との十二カ条の約定があった。

 

最初に訪問したサンフランシスコは当時十五万の人口。西洋文明のモデルのような都市だった。最高のホテルであったグランドホテルに宿泊。ものすごい歓迎を受けた。二週間滞在。伊藤博文は英語でスピーチ。大変な話題になった。条約改正交渉をした。アメリカには二百日滞在した。

 

ドイツでは工場を見学。ベルリン訪問。当時八十万の人口。ビスマルクに会った。ビスマルクは使節団に『最後に決めるのは軍事力だ』と言った。ドイツ滞在中に、三条実美から、木戸と大久保に帰国命令が来た。大久保が帰国。木戸と大久保は考え方が違う。大久保は急進的開発独裁。木戸は漸進主義。

 

欧米におけるキリスト教の力に驚いた。新しい条約は結べなかった。久米邦武が編集した『特命全権大使 米欧回覧実記』は近代化のテキストになっている。キリスト教と欧米の礼義・交際・親子男女関係は受け入れ難い。アメリカでそれを感じた。女性を優先し、大切にする。アメリカはカカア天下の国。ボストンで接吻した離れない男女がいるのを見て驚いた。日本の倫理道徳を守り西洋の技術を学ぶ。これが和魂洋才。これを骨子として『明治憲法』と産業政策が出来た。憲法を補完するものとして『教育勅語』が渙発された。

 

北海道がロシアに取られそうになった。日清戦争・日露戦争は防衛の戦争だった。山県有朋と伊藤博文は日露戦争に反対した。児玉源太郎と桂太郎は賛成した。

 

岩倉使節団の予算は五十万米ドル。しかし会計報告なし。大蔵省の火災で資料が無くなったという。かなりいい加減なこともやっていた。武士は金がなくなれば誰かから工面すればいいという気質。伊藤博文はテロも戦争もやって政府要人になった。オールプレイヤー。教育は、塾と藩校のみ。しかしああいう人物が育った。

 

木戸、大久保、西郷が一代目。桂太郎は二代目。桂太郎は横浜語学学校で学びドイツへ留学。二代目は初代を見ているから何とか持つ。三代目即ち士官学校・陸軍大学を出た軍事官僚は現場を知らない。西園寺公望は岩倉具視の後継者。近衛文麿は三代目。山本権兵衛、田中義一、東條英機は人物が小粒。近視眼。命を懸けない」。

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千駄木庵日乗一月三日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

この後、施設に赴き、母に付き添う。三日ぶりなり。元気そうなので安心する。

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆。

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2017年1月 2日 (月)

千駄木庵日乗一月二日

皆様、新年明けましておめでとうございます。

旧臘三十一日より、本日まで、福井県に旅し、気多神宮、永平寺、明通じなどを巡拝し、青く美しい日本海を眺めてまいりました。

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気多神宮

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気多神宮

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羽賀寺十一面観音像

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東尋坊

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呼鳥門よりの日本海の眺め

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