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2016年12月26日 (月)

天皇陛下の御聖徳を冒瀆し奉る亀井静香を糾弾する

天皇への國民の「かしこみの心」が國家の安定が保たれて来た根源である。天皇陛下への「かしこみの心」のない政治家・権力者は厳しく排撃すべきである。

 

亀井静香氏は、『月刊日本』平成二十九年一月号で「天皇陛下には基本的人権はない。人間ではない。譲位を認めるべきではない」と主張してゐる。また、「天皇陛下の本来のお務めは宮中祭祀と国事行為であって、被災地や激戦地に行かれることではない」とも述べてゐる。亀井氏は祭祀が、天皇陛下の最も重要なお務めであることは認めてゐる。

 

日本天皇は、日本国の祭祀主であらせられ、現御神であらせられる。また「国民」ではあらせられない。上御一人であらせられる天皇陛下は、国民としての権利即ち「民権」はお持ちになっておられない。そんなことは亀井氏が声高に主張しなくとも当たり前のことである。

 

しかし、祭祀主日本天皇は、現御神として神聖にして最尊最貴の権威を持っておられる。そして祭祀主・現御神たる天皇陛下の御心に対し奉り、絶対的に従ひ奉るのが臣民の道である。祭祀主・現御神としての天皇陛下の神聖性・尊貴性を正しく語ることをせず、「天皇は人間ではない。人権はない」と主張する亀井氏には、天皇陛下に対するかしこみの心、尊崇の念が希薄であると言はざるを得ない。

 

まして亀井氏は、同じ『月刊日本』本年十月号において、「昭和天皇は明治憲法下において、日本國と日本國民を救うことができるお立場でありながら、そうされなかった。大東亜戦争が始まる時、昭和天皇は日本が破滅的な状況へ向かうのをお止めにならなかった。また戦争が終わる時、昭和天皇は広島長崎への原爆投下とソ連参戦までご聖断を下されなかった。もっともっと悲惨な状況になる前に降伏することができたのではないか。そして戦いに敗れた後、勝者による戦争責任の追及が進む流れの中で、東京裁判に東条英機以下七人の首を差し出された」などとし歴史的事実を全く無視した不敬千万なことを言って、昭和天皇の御聖徳を冒瀆し奉ったのである。断じて許し難い。

 

昭和殉難者について昭和天皇は次のように仰せになってゐる。

戦争責任者を連合國に引き渡すのは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして納める訳にはいかないだろうか」(木戸幸一日記・昭和二十年八月二十九日)

「戦犯といえども米國より見れば犯罪人ならんも我國にとりては功労者なり」(同・昭和二十年十二月七日)〉

「戦争の責任は全て私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする」(マッカーサーとの會見・昭和二十年九月二十七日)。

 

このように無私にして仁慈の大御心を示された先帝陛下対し奉り、「東京裁判に東条英機以下七人の首を差し出された」などとし歴史的事実を全く無視した不敬千万なことを言って、先帝陛下の御聖徳を冒瀆し奉ったのである。断じて許し難い。

 

わが國の道義精神の中核は、神を祭られる天皇の神聖なる権威である。日本國民は、天皇の神聖なる権威を通じて道義心を自覚した。ゆゑに天皇は道義の鏡といはれてきた。日本國の祭祀主として神聖なる御存在であられる天皇に対し奉り國民が清らけく明らけく仕へまつる心=清明心が道義の基本である。

 

しかし、「天皇および皇室は日本の道義精神の中核であり鏡である」といふことは、天皇に完全無欠な佛教や儒教やキリスト教でいふところの「聖人」になって頂くことではない。それは、天皇が和歌をはじめとした日本文化継承の中心者であらせられることが、天皇に柿本人麻呂や芭蕉のやうな「歌聖・俳聖」になっていただくことではないのと同じである。

 

誤解を恐れずに言へば、連綿たる道統と血統に基づく天皇の神聖性・正統性と、歴代天皇お一人お一人のご人格とは別である。もちろん、祭祀主としての天皇は日本國におけるもっとも神聖にして清らかなる御存在であるけれども、道徳的に政治的に絶対無謬の御存在ではない。

 

和辻哲郎氏は、「上代人は『善悪の彼岸』にいたのである。ここに上代の道徳的評価意識の第一次の特徴がある。…スサノヲの命は親イザナギの命に対して不孝であった。夫婦喧嘩、兄弟喧嘩は神々や皇族の間に盛んに行われている。…後代の道徳思想においては最も非難すべきものとせられているにかかわらず、神聖な神々の行為として、平然と語られているのである。…神々の行為には確かに悪もある。しかし神々は善事にまれ悪事にまれ『真心』に従って行なうゆえに、すべてそのままでいいのである。神々の行為は善悪の彼岸において神聖なものである。」(『日本古代文化』)と論じてゐる。

 

道徳的政治的法律的な善悪の区別・硬直した倫理教条もしくは自己の思想信条によって、神々や御歴代の天皇のご行動を評価してはならないのである。わが國史において、後代の道徳思想政治思想から見ればあるいは「失徳の天子」といはれる天皇がをられたかもしれない。しかし、基本的に日本民族が太古以来の絶対尊皇精神を保持してきたから、禅譲放伐・易姓革命が起らず、天皇中心の國體が護持され、國家民族の安定が基本的には保たれてきたのである。その根源には、祭祀主としての日本天皇の神聖性への國民の「かしこみの心」があるのである。

 

日本人が古代から抱いてきた現人神(あらひとがみ)思想=現御神(あきつみかみ)信仰は、天皇がイエス・キリストのやうに海の上を歩いたりする超人であるとか何の間違ひも犯されない全知全能の絶対神であるといふ信仰ではない。

日本物語文學の祖とされる『竹取物語』(成立年代不明・作者不明)では、かぐや姫に求婚した天皇が「天竺の宝物を持って来てくれ」などといふ難題を言ひかけられて大いに悩まれることが記されてゐる。日本人の現御神信仰が天皇は絶対無謬の御存在であり全知全能の神とする信仰であったら、このやうな物語が生まれるはずがない。 

 

和辻哲郎氏は、「(天皇が神聖な権威を担ふといふ傳統、皇統が天つ日嗣として神聖であるといふことは・註)この傳統を担っている現人をそのまま神化しようとするのではない。従ってそこには天皇の恋愛譚や、皇室内部における復讐譚などを数多く物語っている。これらは天皇の現人性を露骨に示すものと言ってよいであろう。しかしかく現人たることなしに現人神であることはできない。現人でありながらしかも現人たることを超えて民族的全体性の表現者となり、その全体性の根源から神聖な権威を得てくるということ、従ってこの権威はただ一系であり不易であるということ、それを記紀の物語は説き明かそうとしたのである。」(『日本倫理思想史』)と論じてゐる。

 

現御神あるいは現人神とは、読んで字の如く、現実に人として現れた神といふことである。人でありながら神であり、神でありながらながら人であるお方が、祭り主であられる日本天皇なのである。それを名詞で表現したことばが現人神・現御神なのである。 

 

そしてこの場合の神とは、キリスト教や回教の神のような超自然的・超人間的な神なのではない。だから現御神であらせられる天皇御自身、神仏に祈願を込められ、天皇の御名において神々に御幤を奉られるのである。

 

葦津珍彦氏は〈現御神日本天皇〉の意義について次のやうに論じてゐる。「天皇おん自らは、いつも過ちなきか、罪けがれなきかと恐れて御精進なさっている。天上の神になってしまって、謬つことなき万能の神だと宣言なさった天皇はない。…現御神とは、地上において高天原の神意を顕現なさる御方というのであって、決して無謬・無過失の神だというのではない。」「現人神というのは人間ではないというのではない。人間であらせられるからこそ、皇祖神への祭りを怠らせられないのである。天皇は、神に対して常に祭りをなさっている。そして神に接近し、皇祖神の神意に相通じ、精神的に皇祖神と一体となるべく日常不断に努力なさっている。天皇は祭りを受けられているのではなく、自ら祭りをなさっている。祭神なのではなくして祭り主なのである。その意味で人間であらせられる。けれども臣民の側からすれば、天皇は決してただの人間ではない。常に祭りによって皇祖神と相通じて、地上において皇祖神の神意を表現なさるお方であり、まさしくこの世に於ける神であらせられる。目に見ることのできる神である。だからこそ現御神(現人神)と申上げる。」(『近代民主主義の終末』)。

 

現御神(現人神)日本天皇は、天つ神・皇祖神の御子としての神聖なる権威を担って、目に見える人の姿として、現実に地上に現れられた神であらせられる。そして、皇祖天照大神の住みたまふ天上界(高天原)と地上とは隔絶した関係ではなく、常に交流してゐる関係にある。

 

日本人の傳統信仰は、皇祖神と天皇の関係ばかりでなく日本の神々と一般國民も種々の形で交流し、両者の間に超えがたい区別などはないのである。神はしばしば人の姿をとって現実世界に現れ、人の口を借りて神意を傳へんとする。

日本國の祭り主であられる天皇は、「無私」になって神のまつろひ奉る御方であり、神のみ心を伺ひ、それを民に示される御方である。また民の願ひを神に申し上げて神の御加護を祈られる御方である。

 

「祭る」とは無私になって神にまつろふといふ事であり、祭る者が自分を無にして祭られる者=神に従ふといふ事である。「祭り」とは神人合一の行事である。天皇が祭り主として「無私」であられるからこそ、神のみ心を実現され、天照大神の神霊を體現される御方となられるのである。だから民から天皇を仰ぐ時には「この世に生きたまふ神」すなはち「現御神(あきつみかみ)」あるいは「現人神(あらひとがみ)」と申し上げるのである。

 

「天皇に人権はない」などと慎みのないことを言って、天皇陛下の御意志・御心を拳拳服膺せず、「サボタージュすべし」などと主張する亀井静香氏を厳しく糾弾しなければならない。

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