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2016年12月27日 (火)

後鳥羽上皇の御製を拝し奉りて

後鳥羽上皇御製

 

 

奥山の おどろが下も 踏み分けて 道ある世ぞと 人に知らせむ

 

「奥山の草木の茂り合ってゐる下も踏み分けて、本来、道のある世であると、天下の人に知らせやう」といふほどの意と拝する。

 

後鳥羽上皇が御年二十九歳の時、承元二年(一二〇八)五月二十九日『住吉社歌合』で詠まれた御製である。正しい道が行はれなくなった世を正し、正しい道が存することを天下の民に知らせようといふ強いご意志を示された御製である。「道ある世」即ち「道義國家」の回復を熱祷された御製である。「ますらをぶり」の御歌であり述志の御製である。

 

上三句は「道」に掛かり、下句はその「道」を天下にあまねく明らかにしたいといふ強い御意思を示された。武家政権によって「天皇中心の國體」が隠蔽されてゐる状態を正し、日本のあるべき道を明らかにしたいといふ大御心である。

 

後鳥羽上皇はこの御製で、単に鎌倉幕府の専横=北条氏による政治権力壟断を嘆かれたのではなく、「道」即ち上古以来のわが國の道統が隠されてしまった世の中を嘆かれたのである。単に政治的なことをお詠みになったのではなく、傳統的な精神文化・藝術の復興をも願はれたと拝する。

 

武家の権力は、強い者が弱い者を倒して獲得した私的なものである。これを「覇道」といふ。後鳥羽上皇は、天皇の信仰的権威による國家統治といふ本来のわが國の國柄の回復が「正しき道」「あるべき道」であるとされ、「道の回復」を念願された。繰り返しいふが、『承久の變』は、朝廷が政治権力を武家から奪還するなどといふ低次元のことではなかったのである。

 

『承久の變』は、中世以後における「道統の継承」の源流であり淵源であった。『承久の變』以後も、わが國の道統は、祭祀と和歌を根幹として朝廷によって継承された。つまり、後鳥羽上皇の隠岐遷幸は武力戦では敗北であったが、「道の復興」といふ大事業に於いて、後鳥羽上皇は決して敗者ではあらせられなかった。上皇の御志はその後のわが國史に脈々と継承されていった。わが國體は外國の王朝交代・易姓革命とは無縁である。

 

「承久の變」の後、幕府権力が一層強大となり、一君萬民の日本國體は隠蔽されたと言はれているが、「道ある世」の回復を図られた後鳥羽上皇の大御心は、歴史の底流に脈々と流れ続けた。まさに、武家専横の代といふ「おどろ」の下にわが國の「道」は一筋につながって行ったのである。

 

維新とは懸命なる戦ひであるが、単なる破壊や暴力ではない。詩歌は維新の悲願と悲劇と挫折とを謳ひあげることによってその精神的・美的価値を高からしめる。須佐之男命・日本武尊・後鳥羽上皇・後醍醐天皇の御歌を拝すればこの事は明らかである。

 

國體が隠蔽されたといふ意味において、「承久の變」以後と、戦後日本が相似である。我々は、「奥山のおどろが下も踏み分けて道ある世ぞと人に知らせむ」との、後鳥羽上皇の大御心を體して、現代維新の戦ひを行はなければならない。

               

後鳥羽上皇は、高倉天皇の四宮(第四皇子)として治承四年(一一八〇)七月十四日に誕生あそばされ、延応元年(一二三九)二月二十二日、隠岐の地で崩御された。

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