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2016年12月17日 (土)

大日本帝国憲法に回帰すべきである

天皇は、大嘗祭をはじめとした宮中祭祀において、天照大御神をはじめとした天神地祇、歴代の皇霊を祭られる。日本人の自然を大切にする心と潤いのある衣食住の基本には、全てを神として拝み、神として祭る心がある。その最高の実行者が、和歌を詠まれ、農事を行われ、祭祀を行われる日本天皇であらせられる。

 

天皇の祭祀は、五穀の豊穣・國民の幸福を祈られる。また、天皇の祭祀はわが國伝統信仰にの根幹であり民族儀礼であって、日本國の成立と共に行われてきた。それは『記紀』に記された神武天皇の御事績を拝すれば明らかである。

 

したがって、天皇の祭祀は私事ではない。信仰共同体日本の根幹であり最も大切なる公事である。日本國家生成の根源である。ゆえに、「天皇の祭祀は天皇の先祖祭りだから私事である」という意見は誤りである。ただし、天皇の祭祀は天皇政治権力行為ではない。

 

戦後日本の「民主化」「非軍事化」「伝統否定」の中での天皇および皇室は、祭祀主・宗教的権威としての天皇の本質を軽視し隠蔽して来た。祭祀が私的行為とされている。また自衛隊とのつながりも極端に制限されている。

 

憲法改正は、國家の基軸中の基軸を為す天皇の「統治大権」「祭祀大権」の復権が何よりも先に行われなければならないのである。これが為されない憲法改正は全く意味がない。現御神・祭祀主としての伝統的な天皇および日嗣の御子の真姿への回帰・天皇の御本質の復元が根本である。

 

西洋法思想・欧米國家観に貫かれた現行占領憲法の、「(天皇の地位は仼)國民の総意に基づく」という規定は、日本天皇の御本質を正しく表現していない。そればかりではない。この規定は天皇及び皇室の尊厳性・神聖性を冒瀆し隠蔽する元凶となっている。

 

西洋諸國の外國の國家観・君主観・権力論を基本にした現行占領憲法は、祭祀國家・信仰共同体日本の國柄の精神を正しく表現していない。というよりも、現行憲法は、天皇の國家統治を、西洋の絶対君主の暴力的支配と同一視し、國家は個人の暴力的抑圧装置であるとし、天皇及び國家は「個人の敵」であるという考え方に立って制定された憲法である。

 

そして、「民主化」「個人の幸福」「日本の健全な発展」のためには、天皇の「地位」を低め「権能」を弱めることが必要であるという意識のもとに、欧米の政治思想である「國民主権論」が採用されている。

 

天皇及び皇室は、占領軍によって押し付けられた占領憲法の規定などに全く拘束される必要はない。三千年の伝統のある天皇中心の國體及び天皇・皇室を、アメリカから押し付けられた成文法の枠の中、もっといえば欧米から輸入された近代民主主義の中に閉じ込めてしまったことが大いなる誤りなのである。

 

成文法は、人間相互の不信の上に成り立つものである。人間同士が信じ合えないから、成文法を作ってお互いにそれを遵守することによって秩序を保つのである。

 

ところがわが國は天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀共同体である。前述した通り、天皇と國民の関係は権力関係・法律関係ではなく、精神的・信仰的関係である。ゆえに、天皇は人間不信の上に作られた成文法の枠外の御存在であられる。

 

現行憲法による建國以来の國柄の隠蔽が、國家の解体・家族の解体・道義の頽廃を招いている。

 

日本の伝統的國家観・君主観とは絶対的に相容れない原理で成り立っている現行憲法が長く続けば続くほど、麗しい伝統的な日本の國柄が隠蔽され破壊され続けることとなる。現行占領憲法は一刻も早く否定し、日本國の建國以来の國柄へ回帰し、現代の混迷を打開しなければならない。

 

わが國日本及び日本國民が神聖君主・日本天皇にお護り頂いているのであるから、大日本帝國憲法の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という条文の精神は全く正しいのである。天皇は日本國の統治者であらせられ、神聖不可侵の御存在であられることを明確に規定した憲法=大日本帝国憲法に回帰すべきである。

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