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2016年12月20日 (火)

日本民族の精神的強靭性と仏教の受容

 『日本書紀』によると、わが国への仏教公式的な伝来は、欽明天皇十三年(五五二)とされ、百済の聖明王が、欽明天皇に釈迦仏像や経典を献じた時であると記されている。しかし、別の資料ではそれは欽明天皇七年(西暦五三八)のことだったとされている。

 

 『日本書紀』によると、この時、欽明天皇は、仏像の美しさに驚嘆され次のように仰せになったと伝えられる。「西蕃(にしのくに)の献((たてまつ)れる仏の相貌瑞厳(みかおきらきら)し、全(もは)ら未だ曾て看ず」。

 

 日本の固有信仰は自然そのものそして祖霊を信仰しているのであるから、神は姿を見せない、というよりも神の姿はないのである。仏像などのような美しく威厳のある姿を表現した偶像を造りそれを神の像として礼拝することはなかった。だから百済の王様から献じられた金色燦然とした仏像を見て、その美しさに驚嘆したのである。仏教への驚異の念はその教義に対してではなく、仏像に対する驚異だったと言える。

 

 またここで注意すべきことは、『日本書紀』において日本の仏教を伝えた支那や朝鮮を「西蕃」と表現していることである。欽明天皇が仏教を採用するかどうかを群臣に諮問した際に、仏教受容を支持した蘇我稲目(仏教を日本に伝えた百済系の渡来人といわれている)は「西蕃諸国、一に皆之を礼(いやま)ふ。豊秋日本(とよあきつやまと)、豈に独り背かむや」と答えた。

 

 先進文明や文物を伝えた相手の国即ち支那・朝鮮を「西の蛮人(西方の未開人というほどの意)の国」などと言っているのである。日本が支那の中華思想を受け容れさらに自己のものとして、中華思想の本家本元を「蛮人」と見なしているのである。日本の独立性・自主性の高らかな誇示であり、支那から多くの文化・文明を輸入していた『日本書紀』編纂当時にあっても、日本人は支那の属国意識を持ってなかったことの証拠である。ここが支那と朝鮮の関係との大きな違いである。

 

 外国文明の輸入に熱心であり、渡来諸氏族を背景にしたいわゆる国際派の蘇我氏ですら「西蕃」と言っている。そして仏教に対しても「外国も拝んでいるから日本も拝んだらよいだろう」と言った程度で、深い宗教的自覚に基づいて仏教を受け容れるべきだと主張しているわけではない。宗教を何か流行物と同じように考えている。

 

 また仏教輸入に反対した物部尾輿と中臣鎌子にしても「わが国家(みかど)、天の下に王(きみ)とましますは、恒(つね)に天地社稷の百八十神を以て、春夏秋冬に祭り拝(いわいおが)むことを、事(わざ)と為す。方(まさ)に今、改めて、蕃神(となりのくにのかみ)を拝むこと、恐らくは国神(くにつかみ)の怒を致したまはむことを」(日本書紀)と主張して反対した。

 

 この奉答も、日本国の自主性と純粋性を保たんとする国粋的立場から、「外国の神を拝むと日本の国土の神が怒る」と言っているのみである。格別の宗教的論議を組み立てて仏教の受容を拒否しているわけではない。

 

 ともかく、当時の日本は、欽明天皇が、「仏の相貌瑞厳(みかおきらきら)し、全(もは)ら未だ曾て看ず」と仰せられたことに象徴されるように、朝鮮(百済・新羅)から仏像の美しさ即ち仏教芸術において大きな影響を受けたのである。特に仏像は不思議な容貌をしているだけに、何か不思議な御利益がありそうに思われ、礼拝するようになったのであって、仏教の深遠にして煩瑣な教義を学びそれを信じたというわけではない。日本人の大多数は、大乗仏教の煩瑣な教義や哲学体系を論理的に修得するなどということは不得意であった。神道には、神への強靱にして純粋な信仰心はあっても、煩瑣な教義・教条はない。 

 

 仏教は、皇室に公伝したと言われる時期よりも以前に、渡来人によって日本に伝えられていたはずで、飛鳥地方などに定住していた渡来人たちは仏像を祀っていたに違いない。欽明朝初期の調査によると、渡来人の戸数は七0五三戸に及んでいる。

 

 日本の一般庶民も、欽明天皇と同じように、渡来人たちが拝んでいる仏像を見てその美しさというかめずらしさにいたく驚嘆したに違いない。そして仏像の美しさにひかれるとともに、渡来人たちに信じられる仏像に災害の防止や病気の治癒を祈するようになったと思われる。そして「仏教」という外来の新宗教を受け容れ、渡来人以外の人々にも仏教を信じる人が次第に増えていったのだろう。こうした仏像への祈祷によって現世安穏を願う信仰的態度は、のちに「密教」を生み出すのである。

 

 本居宣長は日本人が神として崇める対象を「尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳がありて、可畏(かしこ)きもの」としている。欽明天皇の御代に外国から到来した仏像こそ、まさにそうした外来の「神」であった。だからこそ、『日本書紀』は「仏」とは書かず「蕃神」と書いたのである。

 

 「蕃神」と名付けられた「仏」も、日本人にとっては「神」なのだから固有信仰の「神」とそう矛盾するものではなかった。『日本書紀』に言うところの「異国の蕃神」も、世の常にない徳と力があるのだから崇拝してもいいではないかというのが日本人の基本的な態度であった。日本人にとって仏とは八百万の神が一神増えたという感覚であったと思われる。したがって、国家民族を二分する宗教戦争が起こる余地などなかったのである。

 

 庶民の間に仏像への祈が行われるようになると共に、皇室においても公式に仏教を受け容れるか否かが問題になったと推測される。

 

 用命天皇の御代における仏教の公的な受容の決定も、用命天皇が仏教の祈祷によって御病を癒されようとしたことに発する。『日本書紀』によると、用明天皇二年(五八七)に用明天皇が病の治癒のため仏教に帰依されようとして、「朕、三宝によらむと思ふ、卿等議(はか)れ」(日本書紀)と群臣に諮問されたという。

 

この時、仏教否定派の物部氏及び中臣氏と仏教擁護派の蘇我氏(この二勢力は当時政治的にも対立関係にあった)が対立抗争し、蘇我氏が勝利をおさめる。そして仏教が日本に受け容れられるようになったという。物部氏は神事と軍事を司って皇室に仕えて来た氏族であり、中臣氏も日本固有信仰の祭祀に関わって来た氏族である。

 

 しかし、抗争に敗れた後、物部氏や中臣氏が殲滅され根絶やしにされたわけではない。もちろん、仏教の教義から見ると外道として排斥されるはずの日本固有信仰=祭祀が滅ぼされたわけでもない。仏教の公的な受容後も、国家行事・皇室の公的行事は神式によって執り行われ続けた。

 

 物部氏と共に仏教の受容に反対した中臣氏は、中臣(藤原)鎌足の頃になると積極的に仏教を崇拝するようになった。中臣氏は皇室祭祀に関わってきたので、持統天皇が崩御された時にも、中臣朝臣大嶋という人物は「天神の寿詞」を奏上した。ところが、草壁皇子が薨去された時には、栗原寺伽藍建立を発願したのである。このように古代日本人には神と仏の間に厳しい理論的な区別などはありはしなかったのである。

 

 一つの民族が、固有の宗教とは全く異なった外来宗教を受容するか否かということは、重大問題であるはずである。つまり日本以外の国々では時により民族によっては、国家民族を二分するような壮絶な宗教戦争が起こる。しかし、世界各地で古代から現代に至るまで繰り広げられている血で血を洗う凄惨な宗教戦争は日本では起こらなかった。仏教の受容をめぐる宗教戦争も起こらなかった。蘇我氏と物部氏の政治権力闘争に絡んだ論争があった程度であった。

 

 これが日本宗教史の不思議なところである。しかも日本の固有信仰の祭祀主である天皇及び皇室が、率先して仏教を受け容れた。天皇及び皇室は固有信仰たる天神地祇の祭祀を捨てることはなかった。そして次第に自然な形で仏教は日本の国に受容されていったのである。

 

 こうした日本人の態度をいい加減でルーズな態度と批判する立場もある。しかし、日本人は決してルーズではない。むしろ潔癖な民族である。仏教の受容も、日本の固有信仰と適合する部分についてのみ受容され信仰されたのである。仏教の受容によって、日本固有の信仰を捨て去るということはなかった。仏教は日本の中に深く根づいたが、仏教受容以来千五百年近くになろうとする今日においても、仏教は外来思想と言われているのである。これは日本人の外来宗教への態度がルーズでいい加減ではない証拠である。

 

 日本人の実生活に根ざす固有信仰の精神が、日本民族の同一性の実に強靱な基盤となっているからこそ、かえって日本民族は融通無礙・包容力旺盛な態度を保持し、排他性が希薄だったのである。日本人の固有信仰の強靱さが、日本民族が仏教のみならず外来文化文明を自由に受け容れ、自己のものとしさらに発展させた基盤である。そしてこれが日本文化の固有なる特質である。これを否定することは日本文化そのものをの否定することであり、日本文化の正常な発展の否定である。          

 

 現代日本においても、この強靱にして自由な日本民族の伝統的な文化感覚を発揮して、危機的状況を打開していかなければならない。

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