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2016年12月30日 (金)

「むすびの神」について

天之御中主神と一体の関係にある、高御産巣日神、神産巣日神は、「生(む)す」といふ「天地生成の働き」を神格化し神の御名で表現したのである。「ムス」は生き物が自然に生ずる意、「ビ」は靈力の意であるといふ。また、「生産」「生成」を表はす「ムス」と「神靈」もしくは「太陽」を表はす「ヒ」との合成であるといふ説もある。ともかく高御産巣日神、神産巣日神は、生命力の根源の神である。本居宣長は「凡てものを生成(な)すことの靈異(くしび)なる神靈(みたま)」としてゐる。高御産巣日神は男系の神であり、神産巣日神は女系の神であるとされる。

 

「むすび」は、生命の根源である。ゆへに「結び」を産靈とも書く。人間の生命は男と女がむすぶことによって発生する。「息子(むすこ)」「娘(むすめ)」の語源も「生す子」「生す女」である。男と女がむすぶ(和合する)ことによって新たに生まれた生命が「むすこ」「むすめ」である。

 

また、「むすび」は日本傳統信仰(神道)の根本原理の一つである。自然物を生み成し、結び合ふ靈性・靈力を「むすび」といふ。

 

「むすび」「むすぶ」といふ言葉は信仰的意義を離れても、「おむすび」「紐をむすぶ」といふ言葉がある通り、「離れてゐるものをからみ合はせたり、関係づけたりしてつなげる、まとまって形を成す」といふ意味で日常生活において使用される。

 

「庵をむすぶ」「巣をむすぶ」といふ言葉があるが、庵はいろいろな木材や草を寄せ集めむすぶことによって作られた。そのむすばれた庵や巣の中に人などの生きもの・靈的実在が生活する。つまり生きものの生活は「むすび」の力によって可能となる。

 

折口信夫氏は「むすびめしは、古代の人は靈的なものと考え、米そのものを神靈と考えている。神靈である米をにぎって、更に靈魂を入れておくと考えた。…それが人の身体へ入るともっと育つ。…水をむすぶのは、禊、復活の水を与えるとき、靈的水をあの形で人の中に入れたのだろう。靈魂のある水を掌のなかへ入れて、発達させておいて人の中に入れる。そして『むすび』の作用をさせる。」(『神道の靈魂思想』)と論じてをられる。

 

『國歌君が代』の『苔のむすまで』の「むす」、大伴家持の歌の「草むすかばね」の「むす」も、「生産する・生える・生ずる」といふ語と同根である。

 

西角川正慶氏は、「むすびなる語源は結びに外ならず、靈魂を肉体に来触せしめて、生命力を新たにすること、即ち神の持たるる靈威を宿らしめていることで…鎮魂にほかならぬ。…神話に於ても、天子の重大儀また危機に際しては、天神の御教へと共に、常にこの神の発動がある。」(『神道とはなんぞ』)と論じてをられる。

 

「むすび」といふことが可能なのは“本来一つ”であるからである。この“むすびの原理”(それは愛・和合・調和・合一と言ひ換へても良いと思ふ)といふものが天地宇宙生成の根源神=造化の三神の御働きなのである。天之御中主神を中心とする造化の三神は具体的なお働きをされ、日本人の信仰生活の中心にましますに神であられる。

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千駄木庵日乗十二月三十日

午前は、諸雑務。

午後は、東都北鎮根津神社に参拝。お札納め。

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根津神社神殿

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楼門の下より唐門を望む

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根津神社楼門

この後、湯島天満宮に参拝。

続いて、施設に赴き、母に付き添う。機嫌良し。

帰宅後は、明日からの出張の準備、原稿執筆の準備など。

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「やまと歌」の起源について

韻律即ち和歌は神から授かったと言はれてゐる。和歌の原点・起源は祝詞である。神にものごとを訴へる言葉が自然に韻律を整へるやうになった。神懸かりした女性(巫女・シャーマン)が神のお告げとして語ったり歌ったりした言葉が韻律を持った。それが発達して「やまと歌」になった。

 

「うた」の語源は、神様に何事かを「訴へる」といふところから来てゐる。神に自分の心・神への願ひ事を訴へることが歌の起源である。

 

高崎正秀氏は、「歌は空(ウツ)・現(ウツツ)・うつろ・うつけなどと同義で、神憑りの夢幻的な半狂乱の恍惚状態を指すことから出た語であり、同時にまた、裏・占・心(ウラ)訴(ウタ)ふなどとも同系語で、心の中の欲求を神に愁訴するものであった。」(『伊勢物語の意義』)と論じてをられる。

 

わが國の文藝の起源は神への祭祀における舞ひ踊りと共に歌はれた「歌」であることは、出土してきてゐる土偶によって分かるといふ。

 

ことばを大切にしことばに不可思議にして靈的な力があると信じたがゆへに「言霊のさきはふ國」といはれるわが國においては、歌は何よりも大切な神への捧げものとされたのである。それが祝詞となったのである。祝詞も声調・調べが整ってゐる。

 

日本の古代信仰のみならずあらゆる宗教において神や仏に対して祈りを捧げたり経典を読誦したり、特定の言葉を唱へることが基本的行事である。すべて言葉を唱へる行事である。祈りとは、経典や聖書、祈りの言葉そして題目や念仏も同じである。

 

歌をはじめとした日本文藝の起源は、神への訴へかけである。和歌は神聖な文藝であると考へられていた。神に対してだけでなく、自然や恋人や親や死者など他者に対する何事かを訴へかけが、日本文藝の起源なのである。

 

他者に対して何事かを訴へるものが「歌」であり、何事かを語りかけるものが「物語」である。

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千駄木庵日乗十二月二十九日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、資料の整理。原稿執筆、脱稿、送付。

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2016年12月29日 (木)

この頃詠みし歌

 

筑紫の国のまほろばへの旅を思ひ出す大伴旅人の歌を讀みつつ

 

和やかに握手を交はせど奪はれし領土帰るは未だはるけし

 

佐賀の國の友より贈られし烏賊の味 心にしみてよろしかりけり

 

ずっしりと重き花瓶を捧げ持ち父の霊前に供へまつれり

 

故郷は今此処にあり住み続け七十年となる千駄木の町

 

空に昇る旭日の光を身に浴びて命の力湧き来たるなり

 

葉の散りし銀杏の巨木やがて来る春の日までは恙なくあれ

 

冬の夜の街を歩いてゐる我を酒場の灯りが誘ひゐるなり

 

小さくなりし角栄邸の前を通りわが乗るバスは椿山荘に着く

 

栄枯盛衰は世の常なりと思ひつつ目白台の街を眺め行くかな

 

如何に慰め如何に語らひ過ごしても母のさみしさ癒すすべ無し

 

遠くより呼ぶ声のする夜の更けに我は一人でもの書きてゐる

 

言の葉の美しきしらべにわが心鎮まりて来ぬ佳き歌を讀み

 

素晴らしき歌讀みて後やすらかな心となりて眠りにつかむ

 

大君も民草も共に歌を詠む尊き國柄を護り行くべし

 

すめろぎのやさしき笑みのその奥に強き御意思あり有難きかな

 

天皇は神聖にして侵すべからず この条文の何と畏き

 

天皇に人権無しと声高に叫ぶ政治家の醜きその顔

 

現御神日本天皇を貶めて止まざる男を許さうべしや

 

先帝陛下を貶めて恥じざる政治家は疾()く政界から去りて行くべし

 

今は消えし古き町名の懐かしさ宮永町逢染橋に池之端七軒町

 

佳き人の住みゐし湯島新花町何と懐かしき響きなるかも

 

坂の名は今も変らず残りをり湯島中坂切通坂

 

去り行きし友が幾人かゐることをさみしみにつつ一人酒酌む

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千駄木庵日乗十二月二十八日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆。

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2016年12月28日 (水)

武士道について

 戦後日本は、「平和と民主主義」「人権尊重」「生命尊重」「個の尊重」を最高の価値として押し戴いた。「平和と民主主義」は、國のために戦うという強者の思想を否定し、武力は放棄する、軍隊は持たない、國家の独立・主権・領土・平和・歴史・傳統が侵略的意図を持った外國から蹂躙されても、「戦争は無い方が良い、人命尊重だ」と言って、戦うことを忌避する弱者の思想である。

 

 國家を守る精神は、國民の道義精神の要である。國防と道義は不離一體の関係にある。國を守る使命、言い換えれば、兵役の義務・國防の義務がない國民は、眞の國民とはいえない。運命共同體であるところの國家を生命を賭けて守る使命感・義務観念があってこそ、眞の國民である。

 

 今日の日本人の中には、崇高なる道義精神である「國家を生命を賭けて守る使命感・義務観念」を喪失し、利己主義・利益至上主義に陥り、自分さえよければ他人はどうなってもいいという考え方に陥っている人がいる。

 

 外國人参政権付与も、國民としての義務に「兵役の義務」がきちんと憲法に書かれていないから起こる問題である。税金さえ納めていれば國民であるというまさに利益至上主義的考え方が、「定住外國人も税金を納めているから参政権を付与すべきだ」という考えを生むのである。 

 

 われわれ神洲清潔の民は、強者の立場をとらなければならない。「一人立つ」の精神がなければならない。眞の独立自尊の精神がなければならない。「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の精神を払拭し、祓い清めなければならない。そして、もののふの心・大和魂=日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さを回復しなければならない。須佐之男命・日本武尊そして防人以来の武士道精神に回帰しなければならない。              

 

 李登輝氏は次の如くに言う。「まことに残念なことには、一九四五年(昭和二十年)以降の日本においては、……『大和魂』や『武士道』といった、日本・日本人特有の指導理念や道徳規範が、根底から否定され、足蹴にされ続けてきたのです。……いま日本を震撼させつつある學校の荒廃や少年非行、凶悪犯罪の横行、…などこれからの國家の存亡にもかかわりかねないさまざまなネガティヴな現象も、『過去を否定する』日本人の自虐的価値観と決して無縁ではない、……『日本および日本人の醇風美俗』や『敷島の大和心』、もっと単刀直入に言えば『武士道』について声を大にして大覚醒を呼びかけ、この書を世に問わねばならなかったのです」(『「武士道」解題』)と。

 

 「武士道」とは、字義的には武士が守るべき道を意味する。中世以後発生した武士階級の間に発達した道徳律すなわち道徳的原理の規範のことといわれている。規範ではあるが、聖書やコーランや論語のように特定の人物によって書かれた教義書はない。

 

 武士道は、忠誠・名誉・尚武・勇気などを重んずる。その内容を詳しく言えば、(一)、忠孝を第一とし、(二)、廉恥(心が清らかで、名を惜しみ恥を知る心がつよいこと)を重んじ、(三)、義勇に励み、(四)、狂暴を挫いて孤弱を扶け、(五)、自己の責務を果たすということという。一言にして言えば、難に臨んで死を畏れず、一命を賭して君に仕えることである。

 

 和辻哲郎氏は、武士道の内容について、「(注・武士の)献身の道徳の中核とは…利己主義の克服、無我の実現である。…享楽を欲する自我の没却、主君への残りなき献身、それが武士たちにとっての三昧境であり、従ってそれ自身に絶対的価値を持つものであった。…『武者の習い』の確信が無我の実現にある。」(『日本倫理思想史』)と論じている。

 

 無我の心とは大和魂・そのままの心・もののあはれを感じる心と通じる。合理的な思考や判断以前の素直なる心=大和魂が武士道の奥底にある。武士道とは本来すめらみことに対する無我の献身であった。しかし、中世に至って力の強い者が弱い者を倒して獲得する地位である武士団の棟梁に対する忠誠という「私的」なものになってしまった。そこから覇道が生まれる。

 

 生死の際の覚悟のほどは、合理的な儒教論或いは仏教思想という外来思想とは全く縁のない日本民族特有の感性に依拠する。「今はこう」「今はこれまで」と悟った時、日本の武士は、まっしぐらに顧みることなく死ぬことを潔しとした。これが、日本的死生観である。

 

 武士道は中世に起こったものではない。また、儒教や仏教から発したものでもない。記紀・萬葉の歌を見ても明らかな如く、日本傳統的な中核精神(神道)から発した國及びすめらみことに対する忠誠心と名誉を重んじ恥を知る心が根幹である。

 

 倉前盛通氏は、「“もののあはれ”というか“日本的死生観”というか、混沌の中からもえいでて結ばれいのちを得たものが、解(ほど)けてふたたび混沌の中に隠れていくという生死の見定めは、儒教でも仏教でもなかった。」「武士の生死の覚悟は禅によって定まるものではない。もちろん、論理の虚構を排する禅の哲學は、『さかしらに言挙げせず』の傳統的自然観に結びつきやすかったこともあろう。しかし『今はこれまで』の意志決定は、涅槃や達磨という形而上學的で普遍的な法概念によって把えられるものではなかったであろう。原始の混沌がいまに生きている日本の精神風土、古代の神々の息吹きが残っている風土であるからこそ、論理の枠組みから外れた情動の激しい発露として、武士の死に方が生じてきたのである。…武士道が仏教から生じたものものならば、なぜ禅の盛んであった宋に武士道が生じなかったのであろうか。」(『艶の発想』)と論じている。

 

 大和魂・もののあはれ・日本的死生観が日本武士道の根底にあったのである。ゆえに、日本の武士の祖は、須佐之男命であり倭建命であり神武天皇であらせられる。

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千駄木庵日乗十二月二十七日

午前は、諸雑務。

午後からは在宅して、資料の整理など。

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2016年12月27日 (火)

外交について

共産支那や北朝鮮やロシアは外交駆け引きがうまいと言われるが、共産支那や北朝鮮やロシアの外交官は命懸けなのだと思う。下手なことをすれば収容所送りになる。日本の外交官はそういう危険は全く無い。

 

また、日本の政治家は権力闘争に負けても、刺客とやらを選挙区に立てられるくらいなものであるが、共産支那・北朝鮮・ロシアと言った独裁国家の政治家・官僚は、独裁者に疎んじられたり権力闘争に負ければ命に関わる。権力を失えば、何時殺されるか、投獄されるか分からない。張成沢・薄熙来を見ればそれはあまりにも明らかである。

 

そういう国を相手としているのだから、日本の甘っちょろい外交では太刀打ちできない。だから何時もしてやられて金や技術をふんだくられ、何時までも歴史問題とやらで謝罪されられ続けているのだ。

 

しかし、政治家や外交官にのみ責任を押し付けることはできない。反日野党・メディアの反日的・売国的姿勢が日本の外交をおかしくする元凶である。

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後鳥羽上皇の御製を拝し奉りて

後鳥羽上皇御製

 

 

奥山の おどろが下も 踏み分けて 道ある世ぞと 人に知らせむ

 

「奥山の草木の茂り合ってゐる下も踏み分けて、本来、道のある世であると、天下の人に知らせやう」といふほどの意と拝する。

 

後鳥羽上皇が御年二十九歳の時、承元二年(一二〇八)五月二十九日『住吉社歌合』で詠まれた御製である。正しい道が行はれなくなった世を正し、正しい道が存することを天下の民に知らせようといふ強いご意志を示された御製である。「道ある世」即ち「道義國家」の回復を熱祷された御製である。「ますらをぶり」の御歌であり述志の御製である。

 

上三句は「道」に掛かり、下句はその「道」を天下にあまねく明らかにしたいといふ強い御意思を示された。武家政権によって「天皇中心の國體」が隠蔽されてゐる状態を正し、日本のあるべき道を明らかにしたいといふ大御心である。

 

後鳥羽上皇はこの御製で、単に鎌倉幕府の専横=北条氏による政治権力壟断を嘆かれたのではなく、「道」即ち上古以来のわが國の道統が隠されてしまった世の中を嘆かれたのである。単に政治的なことをお詠みになったのではなく、傳統的な精神文化・藝術の復興をも願はれたと拝する。

 

武家の権力は、強い者が弱い者を倒して獲得した私的なものである。これを「覇道」といふ。後鳥羽上皇は、天皇の信仰的権威による國家統治といふ本来のわが國の國柄の回復が「正しき道」「あるべき道」であるとされ、「道の回復」を念願された。繰り返しいふが、『承久の變』は、朝廷が政治権力を武家から奪還するなどといふ低次元のことではなかったのである。

 

『承久の變』は、中世以後における「道統の継承」の源流であり淵源であった。『承久の變』以後も、わが國の道統は、祭祀と和歌を根幹として朝廷によって継承された。つまり、後鳥羽上皇の隠岐遷幸は武力戦では敗北であったが、「道の復興」といふ大事業に於いて、後鳥羽上皇は決して敗者ではあらせられなかった。上皇の御志はその後のわが國史に脈々と継承されていった。わが國體は外國の王朝交代・易姓革命とは無縁である。

 

「承久の變」の後、幕府権力が一層強大となり、一君萬民の日本國體は隠蔽されたと言はれているが、「道ある世」の回復を図られた後鳥羽上皇の大御心は、歴史の底流に脈々と流れ続けた。まさに、武家専横の代といふ「おどろ」の下にわが國の「道」は一筋につながって行ったのである。

 

維新とは懸命なる戦ひであるが、単なる破壊や暴力ではない。詩歌は維新の悲願と悲劇と挫折とを謳ひあげることによってその精神的・美的価値を高からしめる。須佐之男命・日本武尊・後鳥羽上皇・後醍醐天皇の御歌を拝すればこの事は明らかである。

 

國體が隠蔽されたといふ意味において、「承久の變」以後と、戦後日本が相似である。我々は、「奥山のおどろが下も踏み分けて道ある世ぞと人に知らせむ」との、後鳥羽上皇の大御心を體して、現代維新の戦ひを行はなければならない。

               

後鳥羽上皇は、高倉天皇の四宮(第四皇子)として治承四年(一一八〇)七月十四日に誕生あそばされ、延応元年(一二三九)二月二十二日、隠岐の地で崩御された。

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千駄木庵日乗十二月二十六日

午前は、諸雑務。

午後は、施設に赴き、母に付き添う。看護師の方と相談。

午後四時より、西荻窪にて、『伝統と革新』編集会議。終了後、出席者の方々と懇談。

帰宅後は、山のように積みあがった資料の整理。

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2016年12月26日 (月)

萬葉古代史研究會

萬葉古代史研究會

 

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

 

日時 一月十一日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

 

會場 豊島区立駒込地域文化創造館

豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

 

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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天皇陛下の御聖徳を冒瀆し奉る亀井静香を糾弾する

天皇への國民の「かしこみの心」が國家の安定が保たれて来た根源である。天皇陛下への「かしこみの心」のない政治家・権力者は厳しく排撃すべきである。

 

亀井静香氏は、『月刊日本』平成二十九年一月号で「天皇陛下には基本的人権はない。人間ではない。譲位を認めるべきではない」と主張してゐる。また、「天皇陛下の本来のお務めは宮中祭祀と国事行為であって、被災地や激戦地に行かれることではない」とも述べてゐる。亀井氏は祭祀が、天皇陛下の最も重要なお務めであることは認めてゐる。

 

日本天皇は、日本国の祭祀主であらせられ、現御神であらせられる。また「国民」ではあらせられない。上御一人であらせられる天皇陛下は、国民としての権利即ち「民権」はお持ちになっておられない。そんなことは亀井氏が声高に主張しなくとも当たり前のことである。

 

しかし、祭祀主日本天皇は、現御神として神聖にして最尊最貴の権威を持っておられる。そして祭祀主・現御神たる天皇陛下の御心に対し奉り、絶対的に従ひ奉るのが臣民の道である。祭祀主・現御神としての天皇陛下の神聖性・尊貴性を正しく語ることをせず、「天皇は人間ではない。人権はない」と主張する亀井氏には、天皇陛下に対するかしこみの心、尊崇の念が希薄であると言はざるを得ない。

 

まして亀井氏は、同じ『月刊日本』本年十月号において、「昭和天皇は明治憲法下において、日本國と日本國民を救うことができるお立場でありながら、そうされなかった。大東亜戦争が始まる時、昭和天皇は日本が破滅的な状況へ向かうのをお止めにならなかった。また戦争が終わる時、昭和天皇は広島長崎への原爆投下とソ連参戦までご聖断を下されなかった。もっともっと悲惨な状況になる前に降伏することができたのではないか。そして戦いに敗れた後、勝者による戦争責任の追及が進む流れの中で、東京裁判に東条英機以下七人の首を差し出された」などとし歴史的事実を全く無視した不敬千万なことを言って、昭和天皇の御聖徳を冒瀆し奉ったのである。断じて許し難い。

 

昭和殉難者について昭和天皇は次のように仰せになってゐる。

戦争責任者を連合國に引き渡すのは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして納める訳にはいかないだろうか」(木戸幸一日記・昭和二十年八月二十九日)

「戦犯といえども米國より見れば犯罪人ならんも我國にとりては功労者なり」(同・昭和二十年十二月七日)〉

「戦争の責任は全て私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする」(マッカーサーとの會見・昭和二十年九月二十七日)。

 

このように無私にして仁慈の大御心を示された先帝陛下対し奉り、「東京裁判に東条英機以下七人の首を差し出された」などとし歴史的事実を全く無視した不敬千万なことを言って、先帝陛下の御聖徳を冒瀆し奉ったのである。断じて許し難い。

 

わが國の道義精神の中核は、神を祭られる天皇の神聖なる権威である。日本國民は、天皇の神聖なる権威を通じて道義心を自覚した。ゆゑに天皇は道義の鏡といはれてきた。日本國の祭祀主として神聖なる御存在であられる天皇に対し奉り國民が清らけく明らけく仕へまつる心=清明心が道義の基本である。

 

しかし、「天皇および皇室は日本の道義精神の中核であり鏡である」といふことは、天皇に完全無欠な佛教や儒教やキリスト教でいふところの「聖人」になって頂くことではない。それは、天皇が和歌をはじめとした日本文化継承の中心者であらせられることが、天皇に柿本人麻呂や芭蕉のやうな「歌聖・俳聖」になっていただくことではないのと同じである。

 

誤解を恐れずに言へば、連綿たる道統と血統に基づく天皇の神聖性・正統性と、歴代天皇お一人お一人のご人格とは別である。もちろん、祭祀主としての天皇は日本國におけるもっとも神聖にして清らかなる御存在であるけれども、道徳的に政治的に絶対無謬の御存在ではない。

 

和辻哲郎氏は、「上代人は『善悪の彼岸』にいたのである。ここに上代の道徳的評価意識の第一次の特徴がある。…スサノヲの命は親イザナギの命に対して不孝であった。夫婦喧嘩、兄弟喧嘩は神々や皇族の間に盛んに行われている。…後代の道徳思想においては最も非難すべきものとせられているにかかわらず、神聖な神々の行為として、平然と語られているのである。…神々の行為には確かに悪もある。しかし神々は善事にまれ悪事にまれ『真心』に従って行なうゆえに、すべてそのままでいいのである。神々の行為は善悪の彼岸において神聖なものである。」(『日本古代文化』)と論じてゐる。

 

道徳的政治的法律的な善悪の区別・硬直した倫理教条もしくは自己の思想信条によって、神々や御歴代の天皇のご行動を評価してはならないのである。わが國史において、後代の道徳思想政治思想から見ればあるいは「失徳の天子」といはれる天皇がをられたかもしれない。しかし、基本的に日本民族が太古以来の絶対尊皇精神を保持してきたから、禅譲放伐・易姓革命が起らず、天皇中心の國體が護持され、國家民族の安定が基本的には保たれてきたのである。その根源には、祭祀主としての日本天皇の神聖性への國民の「かしこみの心」があるのである。

 

日本人が古代から抱いてきた現人神(あらひとがみ)思想=現御神(あきつみかみ)信仰は、天皇がイエス・キリストのやうに海の上を歩いたりする超人であるとか何の間違ひも犯されない全知全能の絶対神であるといふ信仰ではない。

日本物語文學の祖とされる『竹取物語』(成立年代不明・作者不明)では、かぐや姫に求婚した天皇が「天竺の宝物を持って来てくれ」などといふ難題を言ひかけられて大いに悩まれることが記されてゐる。日本人の現御神信仰が天皇は絶対無謬の御存在であり全知全能の神とする信仰であったら、このやうな物語が生まれるはずがない。 

 

和辻哲郎氏は、「(天皇が神聖な権威を担ふといふ傳統、皇統が天つ日嗣として神聖であるといふことは・註)この傳統を担っている現人をそのまま神化しようとするのではない。従ってそこには天皇の恋愛譚や、皇室内部における復讐譚などを数多く物語っている。これらは天皇の現人性を露骨に示すものと言ってよいであろう。しかしかく現人たることなしに現人神であることはできない。現人でありながらしかも現人たることを超えて民族的全体性の表現者となり、その全体性の根源から神聖な権威を得てくるということ、従ってこの権威はただ一系であり不易であるということ、それを記紀の物語は説き明かそうとしたのである。」(『日本倫理思想史』)と論じてゐる。

 

現御神あるいは現人神とは、読んで字の如く、現実に人として現れた神といふことである。人でありながら神であり、神でありながらながら人であるお方が、祭り主であられる日本天皇なのである。それを名詞で表現したことばが現人神・現御神なのである。 

 

そしてこの場合の神とは、キリスト教や回教の神のような超自然的・超人間的な神なのではない。だから現御神であらせられる天皇御自身、神仏に祈願を込められ、天皇の御名において神々に御幤を奉られるのである。

 

葦津珍彦氏は〈現御神日本天皇〉の意義について次のやうに論じてゐる。「天皇おん自らは、いつも過ちなきか、罪けがれなきかと恐れて御精進なさっている。天上の神になってしまって、謬つことなき万能の神だと宣言なさった天皇はない。…現御神とは、地上において高天原の神意を顕現なさる御方というのであって、決して無謬・無過失の神だというのではない。」「現人神というのは人間ではないというのではない。人間であらせられるからこそ、皇祖神への祭りを怠らせられないのである。天皇は、神に対して常に祭りをなさっている。そして神に接近し、皇祖神の神意に相通じ、精神的に皇祖神と一体となるべく日常不断に努力なさっている。天皇は祭りを受けられているのではなく、自ら祭りをなさっている。祭神なのではなくして祭り主なのである。その意味で人間であらせられる。けれども臣民の側からすれば、天皇は決してただの人間ではない。常に祭りによって皇祖神と相通じて、地上において皇祖神の神意を表現なさるお方であり、まさしくこの世に於ける神であらせられる。目に見ることのできる神である。だからこそ現御神(現人神)と申上げる。」(『近代民主主義の終末』)。

 

現御神(現人神)日本天皇は、天つ神・皇祖神の御子としての神聖なる権威を担って、目に見える人の姿として、現実に地上に現れられた神であらせられる。そして、皇祖天照大神の住みたまふ天上界(高天原)と地上とは隔絶した関係ではなく、常に交流してゐる関係にある。

 

日本人の傳統信仰は、皇祖神と天皇の関係ばかりでなく日本の神々と一般國民も種々の形で交流し、両者の間に超えがたい区別などはないのである。神はしばしば人の姿をとって現実世界に現れ、人の口を借りて神意を傳へんとする。

日本國の祭り主であられる天皇は、「無私」になって神のまつろひ奉る御方であり、神のみ心を伺ひ、それを民に示される御方である。また民の願ひを神に申し上げて神の御加護を祈られる御方である。

 

「祭る」とは無私になって神にまつろふといふ事であり、祭る者が自分を無にして祭られる者=神に従ふといふ事である。「祭り」とは神人合一の行事である。天皇が祭り主として「無私」であられるからこそ、神のみ心を実現され、天照大神の神霊を體現される御方となられるのである。だから民から天皇を仰ぐ時には「この世に生きたまふ神」すなはち「現御神(あきつみかみ)」あるいは「現人神(あらひとがみ)」と申し上げるのである。

 

「天皇に人権はない」などと慎みのないことを言って、天皇陛下の御意志・御心を拳拳服膺せず、「サボタージュすべし」などと主張する亀井静香氏を厳しく糾弾しなければならない。

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千駄木庵日乗十二月二十五日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、資料の整理、原稿執筆など。

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2016年12月25日 (日)

天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同體國家日本の本質

 日本國の本質は、祭り主・天皇を中心にした國民の信仰的・精神的共同體である。農耕生産の共同生活を営む人々の祭祀がその中核である。祭り主である天皇の祭祀が及ぶ範囲が広がって行って生成された國である。これを『日本神話』は「神が日本國を生みたもうた」と表現した。

 

 したがって、日本といふ國家の本質は権力者が國民を支配するための機関すなはち権力國家ではないし、日本國の君主たる天皇は、武力や権力を以て國民に命令を下す権力者ではない。また、多数の個人が契約を結んで作った國でもない。さらに、世界の多くの國々のやうな征服や革命によって人為的に成立した國家でもない。だから我が國の國體を「萬邦無比」といふのである。

 

 日本民族の生活の基本たる稲作に欠かすことのできない自然の恵みが、太陽であり大地である。日本民族は太陽と大地を神として拝んだ。その太陽の神が天照大神である。また大地の神は國津神として祭られた。また稲穂そのものも神の靈が宿ってゐるものとして尊んだ。そして、古代日本人は太陽神・天照大神を最も尊貴なる神として崇めた。

 

 天照大神をはじめとする天津神、大地の神である國津神、稲穂の靈をお祭りされ、國民の幸福と五穀の豊饒を祈られる祭り主たる天皇は、天照大神の御子即ち日の御子として國民から崇められた。そして、天照大神は、太陽の神であると共に、皇室の御祖先神であると信じられた。

 

 そして、祭り主たる天皇を、稲作を営む古代日本人の共同體の統合と連帯の中心者として仰いだ。

 

 つまり、古代日本の統一は、日の御子たる天皇が行はれる祭祀を中心とし、その祭祀が地方の祭祀を次第に全國的に統一されることによって實現したのである。つまり、古代日本の統一(日本國の生成)は、祭祀的統一である。各部族間の武力闘争はあったにしても、その有限的にして相対的な勝利は、最終的には神への祭祀によって聖化された。

 

 大和朝廷による祭祀的統一によって、日本民族が狭い部族的あるいは地縁的な共同體の分立から、今日の日本國の原形である全體性を確立した。その中心にあったのが<天皇の祭祀>である。これが「祭」と「政」の一致なのである。かかる意味において、日本國は天皇を中心とした信仰共同體(神の國)なのである。

 

 天皇による日本の祭祀的統一といふ歴史を背景として成立した『日本神話』には、天皇の御祖先である邇邇藝命が高天原から地上に天降られる時に、天照大神からの御命令(御神勅)が下されたと記されてゐる。

 

 それには、「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の國は、これ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當(まさ)に天壤と窮まりなかるべし」(豊かな葦原で秋になると稲穂がたくさん稔る國は私の生みの子が統治すべき地である。なんじ皇孫よ、これから行って統治しなさい。元気で行きなさい。天の日の神の靈統を継ぐ者が栄えるであらうことは、天地と共に永遠で窮まりないであらう、といふほどの意)と示されている。

 

 さらに、「吾が高天原に所御(きこしめす)斎庭の穂(いなほ)を以ちて、また吾が兒(みこ)に御(まか)せまつるべし」(私の高天原に作っている神に捧げる稲を育てる田の稲穂を私の子に任せよう、といふほどの意)といふ御命令を下された。

 

 天孫降臨神話の意味するところは、穀物を實らせる根源の力である太陽神の靈力を受けた天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命(アメニギシ・クニニギシ・アマツヒコ・ヒコホノ・ニニギノミコト)が、地上に天降り稲穂を實らせるといふことである。それがわが日本の始まりなのである。そして、天照大神の神靈をそのまま受け継がれた「生みの子」たる邇邇藝命及びその御子孫が永遠に統治される國が日本であるといふことを端的に表現してゐるのである。

 

 天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命という御名前は、「天地に賑々しく實ってゐる太陽神の御子であり立派な男児である稲穂の靈の賑々しい命」といふほどの意である。邇邇藝命とは、太陽神の御子であるとともに稲穂の神の神格化である。この國の人々の生命の糧である稲穂が毎年豊かに實るやうに、といふ古代日本人に共通する切なる願ひが天孫降臨神話を生んだのである。   

「日の御子」は日本の祭祀と政治と軍事を統べる最高のお方

 

 『魏志倭人傳』には、「一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰ふ。鬼道に事へ、能(よ)く衆を惑す」と書かれ、古代日本に祭祀主としてヒミコ(日の御子)といふ女王がをられたと記されてゐる。

 

 『魏志倭人傳』とは、支那の『三國志』のうちの『魏書東夷傳』の中の倭人(日本人のこと)に関する約二千字ほどの記事のことである。ここに書かれてゐることは古代日本の史實そのままではない。三世紀前半に日本に渡来した支那人(魏の國の人)の見聞に基づいてゐるらしく推測される。しかし、その頃の日本の九州(筑紫)に来た支那人が「水行十日陸行一月」の遠隔地即ち大和地方のことを傳聞したことをもととしてゐるといふ。ゆゑにその頃のことをいくらか反映して記されてゐると思はれる。          

 

 古代日本の「祭祀」を「鬼道」などと蔑視し、祭り主たる「日の御子」に「卑弥呼」(いよいよ卑しいと呼ぶ)などといふ侮蔑的な文字が当てられてゐるが、「日の御子」とは、太陽神の御子といふ意味である。そして神を祭り、神の意志を民に傳へ、民の願ひを神に申し上げることのできる靈能を有する人が、政治的統治者となったのである。「日の御子」は古代日本の祭祀と統治と軍事を統べる最高のお方なのである。

 

 そして「日の御子」は太陽神を地上においてそのまま體現される御方であるから、現御神(現實に現れた神)と仰がれることになったのである。

 

 このやうに、三世紀の日本は既に天皇・大和朝廷によって統一されてをり、天照大神信仰・現御神日本天皇仰慕の心による中核とする信仰共同體としての國家の統一が成立してゐた。大和や河内などにある天皇陵をはじめとした多くの古墳は、信仰共同體の精神的エネルギーの結晶である。祭り主天皇の神聖なる権威を崇める心が美しい前方後円墳を作り出したのである。

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千駄木庵日乗十二月二十四日

午前は、諸雑務。

午後は、書状執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事。次号の企画案作成など。

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2016年12月24日 (土)

最近思ったこと

 言語の乱れが國家の混迷を招来する。現下のわが國の今日の日本の様相は文字通りそれである。何でも英語で言えば良いと思っている人が多い。最近は、「ボーダーレス」とか「グローバリゼーション」という言葉が乱れ飛んでいる。「ボーダーレス」とは境界線喪失ということであり、「グローバリゼーション」とは世界化・國際化ということだそうである。日本語の方がよっぽど分かりやすいのに、何故にわざわざ英語で言うのか。

 

 今日の日本は、日本と外國・保守と革新・男と女・堅気とやくざなどの境界線が喪失しつつある時代だという。そして境界線喪失現象が社會の進歩だと思っている人もかなりいる。

 

 男女の境界線がなくなったというのは街を歩けば分かる。男のくせに耳飾りを化粧をしてナヨナヨ歩く若者が増えている。また、これはだいぶ以前からだが女がプロレスなどの格闘技をする時代である。さらに、レズやホモが増えているどころか男同士・女同士の「結婚」すら珍しくなくなっている。

 

 大分以前のことだが、当時の野党・新進党が國會内で座り込みをしたことがある。その時、中曽根康弘元総理が「女性議員を先頭にして座り込みをさせるのは良くない」と批判したら、小池百合子さんが「女性に対する差別だ」とか言って中曾根氏のところに抗議に行ったことがある。昔から日本には、戦さや喧嘩などで「女子供には手を出さない」という不文律がある。小池百合子さんはそれをも差別と言うのだろう。であるならば國賊に対するテロの対象から女性を除外することはできなくなる。

 

 日本人と外國人の境界線もなくなっている。と言うよりも、日本人のくせに祖國の歴史を悪し様に罵る日本人が多くなっている。支那・韓國・フィリッピンなどにわざわざ出かけて行って根掘り葉掘り戦争中の日本軍の「悪行」とやらを野良犬の如く嗅ぎ回る「學者文化人」「マスコミ人」がいる。自分の生まれ育った國を悪く言うことに快感を覚える人間は、血は日本人の血が流れ肉体も日本人なのであろうが、その魂は反日國家に売り渡していると言っても過言ではない。

 

 政治の世界も「保守と革新」というか「右と左」の境界が分からなくなっている。と言うよりも、保守政治家といわれる人の中に、社民党・共産党と同じような考え方を持つ人つまり反日思想・自虐思想を持つ人が増えてきている。そりどころか、亀井静香のように、昭和天皇に対し奉り、誹謗中傷する政治家もいる。

 

 これは外國語ではないが、「人権」「差別」という言葉も多く使われている。「人権侵害だ。差別だ」と言われると、もう返す言葉がなくなってしまうのが今の風潮である。「差別」を辞書で引くと、「①差をつけて扱うこと。わけへだて。「~待遇」②区別すること。けじめ。」とある。たしかに、不当な差別はあってはならないし解消されなけばならない。しかし、全く平等な世の中というのはあり得ない。

 

 それどころか、「区別すること。けじめ」という意味の「差別」や、男女・國家民族・地域の「境界線」があってこそ、文化が生まれ、平和が維持され、道義が守られるのだ。みんなが平等であるべきだということになると、天才も秀才も否定され文化・文明は生まれないし発達もしなくなる。芸術の創造と継承そして伝統護持もできなくなる。「あの人の作品はこの人の作品よりも良い」という「差別」があってこそ文芸・美術・音楽などの芸術や文化が存在するのである。「差別」から文化が生まれるのである。また、國家・民族の境界があるから各國家・民族の伝統文化が守られ継承されるのである。

 

 親と子のけじめ・差別がなくなりつつあるから家庭崩壊が起こり、教師と生徒のけじめ・差別がなくなりつつあるから學級崩壊・教育荒廃が起こっているのである。

 

 さらに言えば、「人間は全て平等だ」とか言って、皇室の御存在を否定する輩がいるが、皇室への國民の尊崇心の希薄化は國家崩壊の予兆である。天皇及び皇室という高貴なる御存在こそ、わが國の存立の基礎である。

 

 「境界線の喪失」は決して時代の進歩ではなく、國家の崩壊・文化の退化・道義の頽廃の同義語である。

 

 「皇紀」とは、日本の紀元を、日本書紀に記されている神武天皇が大和橿原の地に都を開かれ即位された年(西暦紀元前660年)を元年として起算したものである。天皇國日本はキリスト教國家ではないのだから、西暦よりも皇紀を重んじるべきである。

 

 わが國民は有史以来どんな國難に遭遇しても絶望せず、これを打開して来た。そしてその基は、明治維新が尊皇攘夷の精神で断行された如く、日本國民の尊皇精神であり國を愛する心である。今日もまたそうであらねばならない。

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千駄木庵日乗十二月二十三日

午前は諸雑務。

続いて、『政治文化情報』発送作業、発送完了。購読者の皆様には、明日或いは週明けにはお届けできると思います。

夕刻、団子坂にて、若き友人と懇談。

帰宅後は、書状執筆、原稿執筆。

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2016年12月23日 (金)

明治以後における尊皇攘夷運動

 

天皇を中心とした日本国を欧米列強の侵略支配から祖国を守り、世界の中で完全独立国家として屹立させることが明治維新の理想であった。それが尊皇攘夷の精神である。しかし、明治維新後に於いても、「不平等条約」が存続し、日本は西欧列強と対等の立場に立っているわけではなかった。それどころか、文明開化に美名のもと、日本は欧化の風に侵された。

 

明治維新の理想を実現させるべく在野で運動したのが玄洋社をはじめとする愛国運動であった。そしてそれは、欧米列強に屈従する政策を取る政府、欧化の風に侵された文化文明、この二つを粛正することを目指した戦いであった。

 

民権と国権は相対立するととらえる説があるが、決してそうではない。国権とは、民権を圧迫する国家権力のことではなく、祖国の独立のことである。

 

明治新政府は、「脱亜入欧」「文明開化」「富國強兵・殖産興業」の道を突き進んだ。つまり、欧米の文化・文明を取り入れて日本を近代化し、國を富ませ、軍事力を強固にし、生産を増やし産業を発展させることを目指したのである。

 

明治初期に岩倉使節団に参加して欧米を視察した政府高官たちの基本的観念には、第一に、欧米の文明に対する高い評価があり、第二に、アジアに対する蔑視とは言わないまでも欧米に比較してアジアは未開であるという認識があり、第三に日本の発展は、アジアから脱して欧米に入ることによって達成されるという考え方である。そして大久保利通・岩倉具視などは、その能力がわが日本にはあると確信した。これはまた、『五箇条の御誓文』の「知識を世界に求め大に皇基を振起すべし」という大御心に沿うものであると考えたのであろう。

 

大久保利通は、明治七年に書いた『殖産興業に関する建議書』には、「必ずしも英國の事業に拘泥して、之を模倣す可きにあらずと雖も、君民一致し、其國天然の利に基き、財用を盛大にして國家の根抵を固(かと)ふするの偉績に至りては、我國今日大有為の秋に際して宜しく規範と為すべきなり、況や我邦の地形及天然の利は、英國と相類似するものにあるに於ておや、……」と記している。わが國と國柄および天然自然条件が類似する英國を規範として殖産興業につとめるべきであるという主張である。 

 

東洋の伝統を否定あるいは軽視して西洋型の帝國としての日本帝國を建設せんするこの大久保路線は、反対者によって『西洋覇道路線』とも名付けられる。そしてこの路線は、大久保の死後、伊藤博文・大隈重信・山県有朋らによって継承される。

 

さらに「脱亜入欧」「文明開化」の論理は、体制側・権力側の基本姿勢であっただけでなく、反体制運動にも踏襲されその思考の型となった。後のマルクス主義などの西洋革命思想による日本の変革運動がそれである。

 

 

明治新政府の「脱亜入欧」「文明開化」の論理に対抗したのが、明治初期においては西郷隆盛に象徴される伝統護持派である。明治第二維新運動では、西郷隆盛、江藤新平、島田一郎などが命を捧げたが、未完に終わった。

 

その精神と行動を継承する在野の國民の側即ち草莽の士の愛國維新運動である玄洋社は、明治十四年二月、福岡に創設された。「皇室を敬体戴すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権利を固守すべし」の三箇条を憲則に掲げた。

 

明治二十一年に三宅雪嶺・志賀重昂・杉浦重剛らによって結成された國粋主義文化団体・政教社(雑誌『日本人』を刊行)であり、そしてそれに続く大正維新運動・昭和維新運動なのである。    

 

そして、「脱亜入欧」「文明開化」の論理の克服は、大東亜戦争の敗北とその結果としての現代日本の様々な矛盾の根本的原因にも関わる今日的課題なのである。

 

 

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千駄木庵日乗十二月二十二日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』発送準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

午後六時半より、水道橋にて、永年の同志と懇談。意見交換。

帰宅後は、書状執筆、原稿執筆。

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2016年12月21日 (水)

『笹川平和財団日米交流事業主催講演会・中国・欧州関係の進展とその世界的影響』におけるケント・E・カルダー氏(ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院SAIS、エドゥィン・O・ライシャワー東アジア研究所所長)の講演内容

八月二十四日に開催された『笹川平和財団日米交流事業主催講演会・中国・欧州関係の進展とその世界的影響』におけるケント・E・カルダー氏(ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院SAIS、エドゥィン・O・ライシャワー東アジア研究所所長)の講演内容は次の通り。

 

「問題を理解するには現場主義でなければならない。日米関係の未来を把握するにはグローバルな状況を理解しなければならない。マクロ的に見ると、世界は深いところから変わりつつある。南シナ海の緊張はグローバルを要素としている。

 

ヨーロッパに大きな変化が起こっている。九十一年にユーゴスラビアとソ連が崩壊。多くの国が独立。旧ソ連の権力が集中していた国が独立。ロシア皇帝の夏の都であったサンクトペテルブルグは、国境から三㎞しか離れていない。ウラジオストク、カムチャッカは今もロシアの一角を占めている。

 

ベルリンの壁が崩れてから始まった。モンテネグロは200663日に独立し、NATOに加盟。NATOは東方拡大を果たした。ベラルーシ、ウクライナはNATOに入っていないがロシアの一員ではない。これらの国々はワルシャワ条約機構に加盟しソ連軍が入っていた。エネルギーの絆も深かった。ロシアのエネルギーへの依存度が高い。ロシアと深い経済関係がある。今のロシアの指導者は、安保面では敵対的に見ている。軍事面で海や空において低度の対立が起こっている。

 

一九八一年にギリシアが民主化。二〇一三年にクロアチアがEUに入った。統一通貨も用いるようになった。ユーロを導入。バルト三国の旧ソ連のメンバーはすべてユーロを導入。特にユーロを通じてドイツと関係が深い。地中海諸国はどんどん赤字が増え、後れを取ってきた。バルト三国は財政をうまくやっている。スペイン、キプロス、イタリアなどの地中海國は共通通貨で関係が深くなっている。

 

中国のマーケットの規模はイギリスにとってとても大きい。鍵を握るのはドイツ。フォルクスワーゲンは中国を外せない利益を出している。関係は強化されている。

 

ヨーロッパは抜本的に変化しつつある。旧ソ連の一部を包含している。アメリカはヨーロッパの脆弱性を意識しなければならない。日本はこのことを理解すべし。NATOは機構として大西洋を中心にしている。日本はロシアと対話するのは当然。NATOとも対話を進化すべし。伊勢志摩サミットで道が開ける。日米同盟を強化しなければならない。

 

中国とヨーロッパの関係は進化している。ロシアは地政学的に脆弱になっている。中国は強くなっている。中国はフィリッピンとの絆を深めている。ナショナリズムが熱くなるのが怖い。フィリッピンのドゥテルテ政権は中国寄りにシフトしている。中国国内はデリケートになっている。中国は守りの姿勢になっている。シリコンバレーと日本の関係を強化すべし。日米欧は人権などで同じ価値観を持っているが、中国はそうではない。中欧関係の強化はバランスが取れていない。多元主義が重要」。

 

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千駄木庵日乗十二月二十一日

午前は、諸雑務。

午後一時半より、芝の駐健保会館にて、『大行社幹部会』開催。顧問の一人としてスピーチ。この後、六本木にて、『納め会』開催。山口申・蜷川正大両氏が挨拶。懇談が行われた。

帰宅後は、原稿執筆、『政治文化情報』発送準備など。

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わが国政府は、終戦時の旧ソ連=ロシアの暴虐行為・侵略に対して謝罪と賠償を求めるべし

二階俊博自民党幹事長は、十二月十五、十六両日の日ロ首脳会談について、十六日に、記者団に対して、「国民の大半はがっかりしていると心に刻んでおく必要がある」と述べた。さらに二階氏は、十九日には、「ロシアの終戦当時のことについて一言おわびを言ってもらうぐらいのことがあってもよい」と語った。

 

二階氏は対共産支那の姿勢では大いに批判すべきところのある人だが、今回のこの発言は首肯できる。特に終戦時のロシアによるわが国国民に対する暴虐行為についての発言は正しい。

 

昭和二十年八月九日、旧ソ連=ロシアは「日ソ中立不可侵条約」を踏みにじって満州、朝鮮半島、北方領土=南樺太全千島などに攻め込み、侵略を開始した。

 

旧ソ連は日本から日米の終戦交渉を依頼されていたにもかかわらず、「日ソ中立不可侵条約」を一方的に破棄し、米軍による原爆投下、日本全土への空襲などによって気息奄々としていた日本に対し、宣戦を布告した。

 

ロシア軍=旧ソ連軍は、満州に侵攻、更に千島・樺太に上陸し、略奪・強姦・殺戮など悪逆・暴虐の限りを尽くした。

 

更に、100万人以上の日本人を拉致し、シベリアに強制連行し、強制労働をさせた所謂『シベリア抑留』で50万人以上を大虐殺した。

 

ロシアは戦後七十一年を経過しても、一切謝罪していない。ロシアの行為は「一言のお詫び」では済まされない。わが国政府は、この事実を対ロシア外交交渉に於いて強く指摘し、ロシアの謝罪と賠償を要求するべきだ。

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千駄木庵日乗十二月二十日

午前は、諸雑務。

午後は、目白の椿山荘において開催された深見東州氏の『クリスマス・絵画コンサート』鑑賞。

この後、施設に赴き、母に付き添う。医師と看護師の方々と面談。

帰宅後は、原稿執筆、明日のスピーチの準備。。

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2016年12月20日 (火)

日本民族の精神的強靭性と仏教の受容

 『日本書紀』によると、わが国への仏教公式的な伝来は、欽明天皇十三年(五五二)とされ、百済の聖明王が、欽明天皇に釈迦仏像や経典を献じた時であると記されている。しかし、別の資料ではそれは欽明天皇七年(西暦五三八)のことだったとされている。

 

 『日本書紀』によると、この時、欽明天皇は、仏像の美しさに驚嘆され次のように仰せになったと伝えられる。「西蕃(にしのくに)の献((たてまつ)れる仏の相貌瑞厳(みかおきらきら)し、全(もは)ら未だ曾て看ず」。

 

 日本の固有信仰は自然そのものそして祖霊を信仰しているのであるから、神は姿を見せない、というよりも神の姿はないのである。仏像などのような美しく威厳のある姿を表現した偶像を造りそれを神の像として礼拝することはなかった。だから百済の王様から献じられた金色燦然とした仏像を見て、その美しさに驚嘆したのである。仏教への驚異の念はその教義に対してではなく、仏像に対する驚異だったと言える。

 

 またここで注意すべきことは、『日本書紀』において日本の仏教を伝えた支那や朝鮮を「西蕃」と表現していることである。欽明天皇が仏教を採用するかどうかを群臣に諮問した際に、仏教受容を支持した蘇我稲目(仏教を日本に伝えた百済系の渡来人といわれている)は「西蕃諸国、一に皆之を礼(いやま)ふ。豊秋日本(とよあきつやまと)、豈に独り背かむや」と答えた。

 

 先進文明や文物を伝えた相手の国即ち支那・朝鮮を「西の蛮人(西方の未開人というほどの意)の国」などと言っているのである。日本が支那の中華思想を受け容れさらに自己のものとして、中華思想の本家本元を「蛮人」と見なしているのである。日本の独立性・自主性の高らかな誇示であり、支那から多くの文化・文明を輸入していた『日本書紀』編纂当時にあっても、日本人は支那の属国意識を持ってなかったことの証拠である。ここが支那と朝鮮の関係との大きな違いである。

 

 外国文明の輸入に熱心であり、渡来諸氏族を背景にしたいわゆる国際派の蘇我氏ですら「西蕃」と言っている。そして仏教に対しても「外国も拝んでいるから日本も拝んだらよいだろう」と言った程度で、深い宗教的自覚に基づいて仏教を受け容れるべきだと主張しているわけではない。宗教を何か流行物と同じように考えている。

 

 また仏教輸入に反対した物部尾輿と中臣鎌子にしても「わが国家(みかど)、天の下に王(きみ)とましますは、恒(つね)に天地社稷の百八十神を以て、春夏秋冬に祭り拝(いわいおが)むことを、事(わざ)と為す。方(まさ)に今、改めて、蕃神(となりのくにのかみ)を拝むこと、恐らくは国神(くにつかみ)の怒を致したまはむことを」(日本書紀)と主張して反対した。

 

 この奉答も、日本国の自主性と純粋性を保たんとする国粋的立場から、「外国の神を拝むと日本の国土の神が怒る」と言っているのみである。格別の宗教的論議を組み立てて仏教の受容を拒否しているわけではない。

 

 ともかく、当時の日本は、欽明天皇が、「仏の相貌瑞厳(みかおきらきら)し、全(もは)ら未だ曾て看ず」と仰せられたことに象徴されるように、朝鮮(百済・新羅)から仏像の美しさ即ち仏教芸術において大きな影響を受けたのである。特に仏像は不思議な容貌をしているだけに、何か不思議な御利益がありそうに思われ、礼拝するようになったのであって、仏教の深遠にして煩瑣な教義を学びそれを信じたというわけではない。日本人の大多数は、大乗仏教の煩瑣な教義や哲学体系を論理的に修得するなどということは不得意であった。神道には、神への強靱にして純粋な信仰心はあっても、煩瑣な教義・教条はない。 

 

 仏教は、皇室に公伝したと言われる時期よりも以前に、渡来人によって日本に伝えられていたはずで、飛鳥地方などに定住していた渡来人たちは仏像を祀っていたに違いない。欽明朝初期の調査によると、渡来人の戸数は七0五三戸に及んでいる。

 

 日本の一般庶民も、欽明天皇と同じように、渡来人たちが拝んでいる仏像を見てその美しさというかめずらしさにいたく驚嘆したに違いない。そして仏像の美しさにひかれるとともに、渡来人たちに信じられる仏像に災害の防止や病気の治癒を祈するようになったと思われる。そして「仏教」という外来の新宗教を受け容れ、渡来人以外の人々にも仏教を信じる人が次第に増えていったのだろう。こうした仏像への祈祷によって現世安穏を願う信仰的態度は、のちに「密教」を生み出すのである。

 

 本居宣長は日本人が神として崇める対象を「尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳がありて、可畏(かしこ)きもの」としている。欽明天皇の御代に外国から到来した仏像こそ、まさにそうした外来の「神」であった。だからこそ、『日本書紀』は「仏」とは書かず「蕃神」と書いたのである。

 

 「蕃神」と名付けられた「仏」も、日本人にとっては「神」なのだから固有信仰の「神」とそう矛盾するものではなかった。『日本書紀』に言うところの「異国の蕃神」も、世の常にない徳と力があるのだから崇拝してもいいではないかというのが日本人の基本的な態度であった。日本人にとって仏とは八百万の神が一神増えたという感覚であったと思われる。したがって、国家民族を二分する宗教戦争が起こる余地などなかったのである。

 

 庶民の間に仏像への祈が行われるようになると共に、皇室においても公式に仏教を受け容れるか否かが問題になったと推測される。

 

 用命天皇の御代における仏教の公的な受容の決定も、用命天皇が仏教の祈祷によって御病を癒されようとしたことに発する。『日本書紀』によると、用明天皇二年(五八七)に用明天皇が病の治癒のため仏教に帰依されようとして、「朕、三宝によらむと思ふ、卿等議(はか)れ」(日本書紀)と群臣に諮問されたという。

 

この時、仏教否定派の物部氏及び中臣氏と仏教擁護派の蘇我氏(この二勢力は当時政治的にも対立関係にあった)が対立抗争し、蘇我氏が勝利をおさめる。そして仏教が日本に受け容れられるようになったという。物部氏は神事と軍事を司って皇室に仕えて来た氏族であり、中臣氏も日本固有信仰の祭祀に関わって来た氏族である。

 

 しかし、抗争に敗れた後、物部氏や中臣氏が殲滅され根絶やしにされたわけではない。もちろん、仏教の教義から見ると外道として排斥されるはずの日本固有信仰=祭祀が滅ぼされたわけでもない。仏教の公的な受容後も、国家行事・皇室の公的行事は神式によって執り行われ続けた。

 

 物部氏と共に仏教の受容に反対した中臣氏は、中臣(藤原)鎌足の頃になると積極的に仏教を崇拝するようになった。中臣氏は皇室祭祀に関わってきたので、持統天皇が崩御された時にも、中臣朝臣大嶋という人物は「天神の寿詞」を奏上した。ところが、草壁皇子が薨去された時には、栗原寺伽藍建立を発願したのである。このように古代日本人には神と仏の間に厳しい理論的な区別などはありはしなかったのである。

 

 一つの民族が、固有の宗教とは全く異なった外来宗教を受容するか否かということは、重大問題であるはずである。つまり日本以外の国々では時により民族によっては、国家民族を二分するような壮絶な宗教戦争が起こる。しかし、世界各地で古代から現代に至るまで繰り広げられている血で血を洗う凄惨な宗教戦争は日本では起こらなかった。仏教の受容をめぐる宗教戦争も起こらなかった。蘇我氏と物部氏の政治権力闘争に絡んだ論争があった程度であった。

 

 これが日本宗教史の不思議なところである。しかも日本の固有信仰の祭祀主である天皇及び皇室が、率先して仏教を受け容れた。天皇及び皇室は固有信仰たる天神地祇の祭祀を捨てることはなかった。そして次第に自然な形で仏教は日本の国に受容されていったのである。

 

 こうした日本人の態度をいい加減でルーズな態度と批判する立場もある。しかし、日本人は決してルーズではない。むしろ潔癖な民族である。仏教の受容も、日本の固有信仰と適合する部分についてのみ受容され信仰されたのである。仏教の受容によって、日本固有の信仰を捨て去るということはなかった。仏教は日本の中に深く根づいたが、仏教受容以来千五百年近くになろうとする今日においても、仏教は外来思想と言われているのである。これは日本人の外来宗教への態度がルーズでいい加減ではない証拠である。

 

 日本人の実生活に根ざす固有信仰の精神が、日本民族の同一性の実に強靱な基盤となっているからこそ、かえって日本民族は融通無礙・包容力旺盛な態度を保持し、排他性が希薄だったのである。日本人の固有信仰の強靱さが、日本民族が仏教のみならず外来文化文明を自由に受け容れ、自己のものとしさらに発展させた基盤である。そしてこれが日本文化の固有なる特質である。これを否定することは日本文化そのものをの否定することであり、日本文化の正常な発展の否定である。          

 

 現代日本においても、この強靱にして自由な日本民族の伝統的な文化感覚を発揮して、危機的状況を打開していかなければならない。

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千駄木庵日乗十二月十九日

午前は、諸雑務。

昼は、若き友人と懇談。

午後は、今夜行う講義の準備。

午後五時半より、池袋の広瀬事務所にて、『呉竹会青年部勉強会』開催。『巨人頭山満翁』輪読。小生が講義、質疑応答。終了後、出席者と懇談。

帰宅後は、書状執筆。

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2016年12月18日 (日)

わが國體精神・天皇の國家統治は民の幸福実現を最高の目標としている

わが國體精神・天皇の國家統治は民の幸福実現を最高の目標としている

 

 わが國體精神・天皇の國家統治は、民の幸福実現を最高の目標としている。國民の幸福の実現こそが天皇の統治の目的である。わが國においては、古代より國民を「おほみたから(大御宝)」と言ってきた。民を尊ぶことが天皇の御統治の基本である。日本伝統信仰おいては、人は神の分け御霊であり、人間は本来神の子として尊ばれるべき存在である。

 

御歴代の天皇は、國民の幸福を祈られ、「おほみおや(大御親)」としての仁慈の大御心を以て「おほみたから」であるところの國民に限りない仁政を垂れたもうてきたのである。國民の幸福を実現する政治制度という意味で「民主政治」「民主主義」という言葉を使うとするなら、わが國の天皇統治はまさにそういう政治制度を生み出す根幹なのである。

 

天皇中心の國體を正しく実現する事を目的として断行された明治維新の基本的精神は、慶応四年三月一四日、明治天皇が京都御所南殿で、公家、諸侯や百官を率いて天地神明に誓われた『五箇条の御誓文』に示されている。それは、「広く会議を興し万機公論に決すべし」「上下心を一にして盛に経綸を行ふべし」「官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す」「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」「智識を世界に求め大に皇基を振起すべし」の五か条であり、國民の幸福を実現する政治制度という意味での民主政治の基本が示されている。

 

葦津珍彦氏は「五箇条の御誓文に見られる政治思想そのものは、決して外國の政治学理論によってはじめて教えられたものではなく、いわゆる幕末時代、約二十年の間に、日本人が政治実践の中から、自然成長的に形成されてきた日本人の政治思想であった。」(『近代民主主義の終末』)と論じている。

 

 昭和天皇は、昭和五十二年八月二三日、那須御用邸で、宮内庁記者団に対して、「(『昭和二十一年元旦の詔書』の)第一の目的は御誓文でした。神格とかは第二の問題でありました。当時アメリカその他の勢力が強かったので、國民が圧倒される心配がありました。民主主義を採用されたのは、明治天皇の思召しであり、それが『五箇条の御誓文』です。大帝が神に誓われたものであり、民主主義が輸入のものではない事を示す必要があった」と仰せになられた。

 

天皇の國家統治は、まさに「輸入のものではない民主政治であり民主主義」なのである。天皇の國家統治をやまとことばで「きこしめす」「しろしめす」と申し上げる。天皇の統治は民の心をお聞きになり、民の心をお知りになる事が基本である。そしてそれは議会によって実現する。ゆえに、明治維新断行後において、帝國議会が開設され『大日本帝國憲法』が施行されたのである。

 

近代に於いてのみならず、古代日本においても、國民のために政治が天皇の統治によって実現していたのである。『日本書紀』の「仁徳天皇紀」には次のように記されている。「天皇の曰はく、『其れ天の君を立つるは、是百姓(おほみたから)の爲になり。然れば君は百姓を以て本とす。是を以て、古(いにしへ)の聖王(ひじりのきみ)は、一人(ひとりのひと)も飢ゑ寒()ゆるときには、顧みて身を責む、今百姓貧しきは、朕(われ)が貧しきなり。百姓富めるは朕が富めるなり。未だ有らじ、百姓富みて君貧しといふことは』とのたまふ」。

 

天皇が國民の幸福を祈られる祭祀を執行され、國民は天皇の大御宝であるという事が正しく実現され、萬機は公論によって決せられるという体制が真に確立する時、國民のための政治即ち民主政治が、言葉の上においてではなく、実際政治に於いて正しく実現するのである。天皇のまつりごとにこそ、真の民主政治のである。

 

天皇は常に國民の幸福を祈られている。わが國の天皇は民の幸福をわが幸福とされ民の不幸をわが不幸とされてきた。わが國は君民一体の國柄である。これこそ真の民主政治でなくして何であろうか。

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千駄木庵日乗十二月十八日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』発送準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

夕刻、谷中にて、参議院議員及び秘書の方と懇談。

帰宅後は、明日行う講義の準備。

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日本の外交について

独裁国家・全体主義国家の指導者、最高権力者は人殺しである。プーチンはこれまで、反対派粛清・暗殺を指令した。金正恩は気に入らない人間は自分の叔父でも残虐なる方法で殺している。習近平は、形だけの裁判は行うが、敵対者・邪魔な者を監獄に放り込んでいる。ロシア・支那・北朝鮮の独裁者は根本的にそういう体質を持っている。

 

そういう国の政治家や外交官は、政策の実行や相手国との交渉に失敗すれば、独裁者によって粛清される危険がある。まさに命懸けなのである。

 

人を殺すことすら厭わない、あるいは何とも思わない人と、あるいは失敗したら殺される危険がある人と、外交交渉するのは生易しいことではない。

 

日本の外交は下手だと言われる。そもそも戦後日本の政治家で、直接的にしろ間接的にしろ人を殺した人はいないのではないか。また、生命の危険にさらされた人はあまりいないのではないか。

 

明治維新の後、わが国は大国を相手に自国の独立を維持するために、懸命に闘い、日清日露両戦争に勝って、遂に世界五大大国の一つに入った。その頃の日本国の指導者は、大久保利通、伊藤博文、山県有朋、黒田清隆など戊辰政争を戦った人々である。彼等は武士であり、軍人であった。直接的間接的に一人や二人、否、もっと多くの人々を殺していると思う。

 

今の日本の政治家の多くは、二世三世の政治家である。人を殺した人はいない。否、虫も殺したこともないー人もいるのではないか。

 

安倍総理の祖父・岸信介氏は、戦後の政治家の中でも命懸けと言っていい体験をした人である。戦時中は、東條英機総理の部下の東京憲兵隊長に脅迫された。戦後は、A級戦犯容疑者として逮捕され、どうなるか分からない経験をした。また第一次安保の時は、首相官邸がデモ隊に囲まれ、当時の小倉警視総監から『これ以上守ることは困難だ』とまで言われた。そういう状況下にあって、安保改定を実現した。まさに命懸けであった。

 

安倍晋三氏は、命懸けで国務に挺身していると思う。私にはそう思える。しかし、全体主義国家、独裁国家の指導者とは全く異なる。むしろ性格的には温和であろう。そういう人が独裁者に立ち向かっているのである。

 

安倍氏は祖父の遺志を継承して、政治家として総理として努力していると思う。一層の奮闘を祈る。

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『奥野誠亮お別れの会』における追悼の言葉

十二月十二日に行われた『奥野誠亮お別れの会』における追悼の言葉は次の通り。

 

安倍晋三内閣総理大臣「あまりにも偉大な保守政治家であられた。惜別の情がこみ上げてくる。十月に自民党本部に来られた時、名物のビーフカレーを平らげる健啖家ぶりであったとうかがった。百三年の歳月を思い。お疲れ様でした、有難うございましたと申し上げたい。国家総動員法が施行された年に内務省に入られた。戦後は、戦後処理を担われ、GHQとの交渉で涙をためて屈辱に耐えられた。私は平成五年に初当選して以来、ご指導を受けた。私は吉田松陰先生の『至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり』という言葉を胸に刻んでいる。奥野誠亮先生はそのお名前の通り、『誠』を貫かれた。誠意と情熱の人であられた。文部大臣時代、日教組と対峙された。筑波大創設に貢献された。ご子息の奥野信亮先生と共に、私も國の為に身をつくすことを覚悟している。『ふるさと』に『こころざしをはたして、いつの日にか歸かえらん』という歌詞がある。まさに奥野先生は志を果たして故郷に帰られた。先生がやり残されたことをしっかり受け継いでいく。ご冥福を心から祈りお別れの言葉とする」。

 

綿貫民輔元衆議院議長「奥野先生の百歳のお祝いに、スカイツリーに昇ったこと忘れることができない。正しいと信じたことは妥協しない姿勢を貫かれた。松田竹千代先生の遺志を受け継いで、アジアからの留学生のために地道な努力をされた。ゴルフや麻雀や書道を一緒にさせて頂いた。前議員の会では最長老として威厳のあるお姿を拝した。先生の『一怒一老、一笑一若』というお言葉を胸に頑張っていきたい。やすらかにお眠り下さい」。

 

石原信雄元内閣官房長官「上司としては厳しいが、先輩としては優しい部下思いの方だった。日本人の誇りを大切にされ行動された。生前のご指導に感謝してお別れの言葉とする」。

 

山口昌紀近畿日本鉄道代表取締役会長「昭和三十四年の伊勢湾台風の時、近畿日本鉄道は存在が危ぶまれる被害を受けた。奥野先生は、名古屋・大阪直通のための線路の幅の統一そして税金免除という起死回生の救助の手を差し伸べて下さった。感謝の思いは言葉に尽くせない。自主憲法制定を主張され、義を重んじられた。先生は我々の心の拠り所であられた。今後も奈良・大和の国を見守って下さい」。

 

奥野信亮衆議院議員(御子息)「地方税制・地方財政の基礎を築いたと評価されている。『派に頼らず義を忘れず』の考え方で歩んできた。大東亜戦争の正しい評価、自虐精神の脱却を訴え続けてきた。一度言い出したら聞かない人であった。家族を大事にした。やさしいおじいちゃんだった。百二歳でゴルフをやった。今年の十一月に入っても麻雀を楽しんだ。『恕』の精神を引き継いでいきたい」。

 

国士政治家・奥野誠亮先生のご冥福を衷心より祈念申し上げます。

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千駄木庵日乗十二月十七日

午前は、諸雑務。

午後は、資料の整理。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆。

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2016年12月17日 (土)

「泥棒に追銭」にならねば良いが…。

「金を奪はれ技術を奪はれその上に領土帰らぬことなきを祈る」

 

最近詠んだ歌です。共産支那への援助と同じ轍を踏む危険があります。共産支那は日本の経済技術によって近代化し、軍事力を増強し、わが国に侵略の牙を剥いてきています。

 

北方領土の返還が確約され、実行されない限り、ロシアに経済技術援助をすべきではありません。領土を取られ上に金と技術を取られる。これを「泥棒に追銭」と言うのです。

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大日本帝国憲法に回帰すべきである

天皇は、大嘗祭をはじめとした宮中祭祀において、天照大御神をはじめとした天神地祇、歴代の皇霊を祭られる。日本人の自然を大切にする心と潤いのある衣食住の基本には、全てを神として拝み、神として祭る心がある。その最高の実行者が、和歌を詠まれ、農事を行われ、祭祀を行われる日本天皇であらせられる。

 

天皇の祭祀は、五穀の豊穣・國民の幸福を祈られる。また、天皇の祭祀はわが國伝統信仰にの根幹であり民族儀礼であって、日本國の成立と共に行われてきた。それは『記紀』に記された神武天皇の御事績を拝すれば明らかである。

 

したがって、天皇の祭祀は私事ではない。信仰共同体日本の根幹であり最も大切なる公事である。日本國家生成の根源である。ゆえに、「天皇の祭祀は天皇の先祖祭りだから私事である」という意見は誤りである。ただし、天皇の祭祀は天皇政治権力行為ではない。

 

戦後日本の「民主化」「非軍事化」「伝統否定」の中での天皇および皇室は、祭祀主・宗教的権威としての天皇の本質を軽視し隠蔽して来た。祭祀が私的行為とされている。また自衛隊とのつながりも極端に制限されている。

 

憲法改正は、國家の基軸中の基軸を為す天皇の「統治大権」「祭祀大権」の復権が何よりも先に行われなければならないのである。これが為されない憲法改正は全く意味がない。現御神・祭祀主としての伝統的な天皇および日嗣の御子の真姿への回帰・天皇の御本質の復元が根本である。

 

西洋法思想・欧米國家観に貫かれた現行占領憲法の、「(天皇の地位は仼)國民の総意に基づく」という規定は、日本天皇の御本質を正しく表現していない。そればかりではない。この規定は天皇及び皇室の尊厳性・神聖性を冒瀆し隠蔽する元凶となっている。

 

西洋諸國の外國の國家観・君主観・権力論を基本にした現行占領憲法は、祭祀國家・信仰共同体日本の國柄の精神を正しく表現していない。というよりも、現行憲法は、天皇の國家統治を、西洋の絶対君主の暴力的支配と同一視し、國家は個人の暴力的抑圧装置であるとし、天皇及び國家は「個人の敵」であるという考え方に立って制定された憲法である。

 

そして、「民主化」「個人の幸福」「日本の健全な発展」のためには、天皇の「地位」を低め「権能」を弱めることが必要であるという意識のもとに、欧米の政治思想である「國民主権論」が採用されている。

 

天皇及び皇室は、占領軍によって押し付けられた占領憲法の規定などに全く拘束される必要はない。三千年の伝統のある天皇中心の國體及び天皇・皇室を、アメリカから押し付けられた成文法の枠の中、もっといえば欧米から輸入された近代民主主義の中に閉じ込めてしまったことが大いなる誤りなのである。

 

成文法は、人間相互の不信の上に成り立つものである。人間同士が信じ合えないから、成文法を作ってお互いにそれを遵守することによって秩序を保つのである。

 

ところがわが國は天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀共同体である。前述した通り、天皇と國民の関係は権力関係・法律関係ではなく、精神的・信仰的関係である。ゆえに、天皇は人間不信の上に作られた成文法の枠外の御存在であられる。

 

現行憲法による建國以来の國柄の隠蔽が、國家の解体・家族の解体・道義の頽廃を招いている。

 

日本の伝統的國家観・君主観とは絶対的に相容れない原理で成り立っている現行憲法が長く続けば続くほど、麗しい伝統的な日本の國柄が隠蔽され破壊され続けることとなる。現行占領憲法は一刻も早く否定し、日本國の建國以来の國柄へ回帰し、現代の混迷を打開しなければならない。

 

わが國日本及び日本國民が神聖君主・日本天皇にお護り頂いているのであるから、大日本帝國憲法の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という条文の精神は全く正しいのである。天皇は日本國の統治者であらせられ、神聖不可侵の御存在であられることを明確に規定した憲法=大日本帝国憲法に回帰すべきである。

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千駄木庵日乗十二月十六日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、書状執筆、原稿執筆、資料の整理など。

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2016年12月15日 (木)

靖國神社の戦没者への祭祀は、古来よりの日本民族の道義精神の典型である

私は、靖國神社に参らせていただく度に、靖國の英靈が天上界からわが國をお護り下さってゐることをひしひしと實感させていただく。日本國民として、英靈に感謝の誠を捧げ、慰靈し顕彰することは、聖なるつとめである。

 

日本民族は古来、祖靈と自然を神と崇め、祭って来た。わが國の傳統信仰の祖靈崇拝と自然崇拝が、天皇を中心とする信仰共同體國家日本の土台、言ひ換へれば日本國體の根幹を成してゐる。そしてそれは、國民道徳・道義精神の根幹でもある。

 

わが國の神々の中で、最尊最貴の神として信仰され崇められてゐる神である天照大神は、御皇室の祖先神であると共に、自然神である太陽神である。

稲作生活を営んで来た日本人は、太陽・山・海・川など大自然の恵みの中に生きて来たので、自然を神と崇めた。また、祖先から稲の種と水田と農耕技術といふ恵み祖先から傳へられたので、祖先に感謝する思ひが強かった。皇祖神と太陽神が一體であるといふことは、わが民族の傳統信仰が祖靈崇拝と自然崇拝であることを端的に示してゐる。これを〈敬神崇祖〉と言ふ。

 

〈敬神崇祖〉といふわが國の國民道徳の基本は、神學・教義といふ〈抽象概念〉として継承されて来なかった。上は天皇から下萬民に至る日本民族の生活の中の〈神祭り〉〈祭祀〉といふ行事によって、古代より今日まで傳へられて来た。

靖國神社の戦没者への祭祀は、さうした古来よりの日本民族の道義精神の典型である。祖靈・死者の魂を尊びこれをお祭りすることは、日本民族の傳統信仰の基本であり、道義心・倫理觀の根幹である。わが國民は、鎮守の神を敬ひ、亡くなった祖先の御靈を崇め、その御加護を祈ってきた。これが我々日本民族の生活の土台である。

 

神まつるみ社に来て手を合はすこの静かなる時を尊ぶ

 

平らけくやすらけき世を祈りたり冬日かがよふ靖國の宮

 

爽やかに冬の日の照る佳き日にぞ靖國の御靈を拝ろがみまつる

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千駄木庵日乗十二月十五日

午前は、諸雑務。

午後は、書状執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

午後六時より、お茶の水にて、『伝統と革新』編集実務担当者の打ち合わせ。

帰宅後は、原稿執筆など。

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この頃詠みし歌

佳き人ら集ひて今日は佳き人の米寿を祝ふ靖國の宮(湯澤貞先生米寿祝賀会)

 

平らけくやすらけき世を祈りたり冬日かがよふ靖國の宮

 

爽やかに冬の日の照る佳き日にぞ靖國の御靈を拝ろがみまつる

 

金を奪はれ技術を奪はれその上に領土帰らぬことなきを祈る

 

御舟描きし炎と虫の絵を見つめわが情念も燃え立ちて来る

 

こんなところにゐるのは嫌だと嘆きたまふ母の言葉に答へるすべなし

 

弱りゆく母の手を取りただただに神に祈るよりすべなかるべし

 

朝に夜に神と仏に祈るなりわが母上の身体健全

 

大きなくしゃみ出でたるときの爽やかさ一人居の部屋に響きわたれば

 

長き歳月交はり来たりし友と共に酒酌み交はす時の楽しさ

 

わが手をば離したまはぬわが母は心にしみていとしかりけり

 

手を振りて友と別れし寒き夜 帰りの道はさみしかりけり

 

過ぎて行く歳月思へば下弦の月冴えかへりゐる夜空冷たし

 

若き夫婦が喜びの顔で生まれ来し子のことを我に語れる

 

丘越えて聞こえ来るなる汽笛の音何故かさみしき響きなりけり

 

夢より覚め現実の世界に戻り来て立ち上がりたる肉体重し

 

車窓より見ゆる三日月我と共に冬の夜空を動き行くなり

 

月と共に行く旅ゆゑに目指す地は他界の如くに思はるるかな

 

権力の頂点に立ちし人は皆奈落に堕ちる韓國といふ國

 

五十年の歳月流れはるかなるわが青春の日々思ひ出す(日本學生同盟結成五十年)

 

五十年の昔なれども昨日の如く思ひ出さるる青春の日々()

 

安らかに眠りましませ 我との会話途絶えし母は眼(まなこ)を閉じぬ

 

この國を憂ひてやまざりりし政治家の遺影を畏み仰ぎまつれり(奥野誠亮先生お別れの会)

 

百三歳の天寿を全うせし人の遺影は清く大いなるかな()

 

白菊を捧げて冥福を祈りたり國士政治家のみはふりの庭()

 

魂の雄叫びを聞く思ひする歌を繰り返し読みてゐる夜

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千駄木庵日乗十二月十四日

午前は、諸雑務。

午後は、今夜行う『萬葉集』講義の準備。

午後六時半より、駒込地域文化創造館にて、「萬葉古代史研究会」開催。小生が山上憶良などの歌を講義。質疑応答。

帰途、出席者の方々と懇談。

帰宅後も、原稿執筆。

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2016年12月14日 (水)

維新=日本的変革の根本精神

「天の下 清くはらひて 上古(いにしへ)の 御まつりごとに 復(かへ)るよろこべ」

 

橘曙覧(江戸末期の歌人・国学者。越前の人)の歌である。

 

清明心(きよらけくあきらけき心)が日本民族の伝統的道義精神である。現状の穢れを祓ひ清め、神代のままの清く麗しい日本を回復することを喜び希求した歌である。

 

維新すなはち復古即革新の精神をうたひあげてゐる。この歌の心が維新=日本的変革の根本精神であると思ふ。維新とは、「今即神代」「高天原を地上へ」の實現である。それは、「常世」への憧れの心と一体である。混迷せる現実の世界から祓いひ清め、清浄なる国を建設せんとする変革運動もまた、日本人が伝統的に抱いてきた他界即ち理想国への憧憬の精神にほかならない。大化改新・明治維新・明治維新は、全て「今を神代へ」「神武建国への回帰」といふ理想のもとに断行された。今日我々の目ざす維新変革もまたさうであらねばならない。

 

現代日本の汚れを祓ひ清め、正しき國の在り方・日本人としての正しき姿を取り戻すことが維新である。

 

「神話」には時間を超えた永遠の価値がある。日本民族の傳統的思想精神の結晶である「神話」への回帰こそが、現代の混迷を打開する方途である。

 

天皇中心の祭祀國家の理想に近づく努力をし続けることが、闘争戦争絶え間無き現實社會を改善する方途である。道義國家・人倫國家・祭祀國家としての日本への回帰こそが、道義的に生きる共同體を建設する方途である。

 

日本は傳統と変革が共存し同一なのである。だから維新を<復古即革新>と言ふ。復古とは、時間的過去、過ぎ去った昔に帰ることではない。久遠の今、天地生成、天孫降臨、神武肇國に回帰することである。

 

今日においてこそ、尊皇攘夷の維新が断行されなければならない。復古(尊皇)即革新(攘夷)を實現しなければならない。

 

現代文明・文化は西洋文化・文明が主流となってゐる。現代文明とは、事物を科学の論理によって技術革新を行ふようになった文明のことである。それは、経済至上・物質的豊かさ至上の社會を作り出した。そして、現代文明は、核戦争の危機・自然破壊・人心の荒廃・経済の破綻そして民族紛争・宗教紛争を見ても明らかな如く、既に頂点を越えて没落の時期に差しかかってゐる。

 

現代文明・文化の欠陥を是正し、新たなる文化を形成するには、欧米文化偏重から日本傳統文化へと回帰しなければならない。日本傳統精神を世界に発展させて、混迷せる現代世界を救済する役目をわが日本は背負ってゐる。日本傳統信仰の精神が世界の國と民を永遠の平和と幸福に導く道である。日本人が古来抱いて来た自然の中に神の命を観るといふ信仰精神を回復しなければならない。

 

混迷せる現実の世界から祓いひ清め、清浄なる国を建設せんとする変革運動もまた、日本人が伝統的に抱いてきた他界即ち理想国への憧憬の精神にほかならない。大化改新・明治維新・明治維新は、全て「今を神代へ」「神武建国への回帰」といふ理想のもとに断行された。今日我々の目ざす維新変革もまたさうであらねばならない。

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千駄木庵日乗十二月十三日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後も原稿執筆。

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2016年12月13日 (火)

伊勢皇大神宮の式年神宮と維新の精神

伊勢の皇大神宮の式年神宮は、二十年に一度、御正殿以下御垣内の諸社殿を全て新しく造り替え、御正殿内の御装束御神宝の一切を新しく調進して、新しい御正殿の御神座に大御神の御移りを願うと承る。『古事記』『日本書紀』そして『萬葉集』が編纂された時代である飛鳥時代に、天武天皇が定められ持統天皇の御代から始められた伊勢の神宮の重要な祭祀である。もっとも鄭重にして特別の神嘗祭(その年の稲の初穂を天照大神および豊受大神に捧げる祭)であるといわれている。ゆえに大神嘗祭(おおかんなめさい)とも称されている。

 

持統天皇の四年(六九〇)に天照大神をお祭りする皇大神宮、同六年に豊受大神をお祭りする豊受大神宮の第一回の式年遷宮が行われたと承る。式年とは定まった年という意である。

 

式年遷宮は、ただ単に「社殿などが古くなったので作り替える」という行事ではない。神をお迎えしお鎮まり頂く神殿を、二十年に一度の周期で新たならしめることによって、神域全体ひいては天地宇宙を更新し、神の威力を益々発揮して頂くという意義がある。もちろん我々日本国民も霊的宗教的に新たに生まれ変わるのである。

 日本伝統信仰の祭りとは、人の霊・心・肉そして天地一切を更新し清浄化する行事である。そもそも祭りとは神人合一・今即神代を実感する行事である。恐れながら、天皇御即位の御時の大嘗祭もしかリである。天皇の肉身は変わられても現御神(あきつみかみ・天照大神の地上的御顕現)としての天皇の御本質は不変で、新たなる天皇の肉身に神霊が天降られ天孫降臨が繰り返されるという信仰の祭儀であるところの大嘗祭と伊勢の御遷宮(大神嘗祭)は相似である。

 

真弓常忠氏は「神宮の遷宮は二十年一度の大神嘗祭であり、…皇祖の大御神の神威に新たな甦りを仰ぐ最大最重の厳儀である。それは、宮中の大嘗祭に相相応する大儀である。このことは、皇居においても、御代ごとに遷宮する例であったのが、持統天皇の藤原京より恒久的な皇居を営まれたことも照応する。昔から伊勢の遷宮を『皇家第一の重事、神宮無双の大営』(『遷宮例文』)といわれてきた所以がここにある。それは始源においては、大嘗祭と表裏一体の相対応する大儀であった」(大嘗祭の世界)と論じておられる。

 

常に全てを祓い清めて新生を繰り返し永遠の生命を甦らしめるというのは、日本伝統信仰の根本である。日本は長い歴史を有する国であるが、ただ古さを誇りとするのではなく、伝統を顧みつつ常に新生を繰り返してきたところに素晴らしさがあるのである。単に歴史が長いというのなら支那・朝鮮・エジプト・ギリシアなどの国々も長い歴史を有している。しかし、それらの国々の古代民族信仰は皆滅びたり大きく変質し、今日残っている神殿なども廃墟と化し、ただ観光施設として見物の対象になっているのみである。

 

ところがわが日本おいては、これだけ科学技術が進歩し物質文明が豊かになっている今日においても、古代信仰・民族信仰が脈々と生きており、伊勢の神宮をはじめとした全国各地で神社で毎日のようにお祭りが行われている。のみならず日本伝統信仰の祭り主であらせられる天皇は多くのみ祭りを厳修され、国家の平安・国民の幸福・五穀の豊饒を神に祈り続けられている。そしてその祭り主たる日本天皇は日本国家の中心者として君臨あそばされている。このようにわが祖国日本は永遠の生命を保ちつつ革新を繰り返してきている国である。これが世界に誇るべき日本の素晴らしさである。

 

維新といい、日本的変革というも、要は日本国そして日本国民一人一人を新生せしめ、清浄化し、天皇国日本の本来の姿そして「み民われ」としての日本国民本来の姿を回復することによって現状の革新を行うということである。大化改新も明治維新も建武の中興もそういう精神に基づいて断行された。

 

 影山正治氏は「我々は神前に大祓の祝詞を至心に奏上することによって御國の罪・穢を祓ひ清めて神國の本来に還へらむ事を祈り、また我の罪・穢を祓ひ清めて神我の本領に還へらむことを祈るのである。…今こそ全日本人が朗々と大祓の祝詞を斉唱しつつ、皇國の維新、全世界の維新に當らねばならない」(正続古事記要講)と論じておられる。

 

 現代日本の汚れを祓い清め、正しき国の在り方・日本人としての正しき姿を取り戻すことが維新である。日本は伝統と変革が共存し同一なのである。だから維新を<復古即革新>というのである。

 

 この場合の「復古」とは単に時間的過去に逆戻りすることではない。古代の伝統精神の新たなる発見である。古代からの日本の伝統精神を復活せしめ硬直し腐敗した現代を一新する。これが維新である。古事記の編纂もかかる維新の精神の基づいて行われたのである。

 

太安萬侶(おおのやすまろ)は古事記序文において「古を稽(かむがへ)て風猷を既に頽れたるに繩(ただ)したまひ、今を照して典教を絶えなむとするに補ひたまはずといふこと無かりき」(いつの時代にあっても、古いことを調べて、現代を指導し、これによって衰えた道徳を正し、絶えようとする徳教を補強しないということはありませんでした、というほどの意)と述べている。これが復古即革新の精神である。大化改新も明治維新も、神武建国への回帰・神武建国の精神の復興がその原基であった。

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千駄木庵日乗十二月十二日

午前は、諸雑務。

午後一時より、紀尾井町のホテルニューオータニにて、『奥野誠亮お別れの会』開催。安倍晋三内閣総理大臣、大島理森衆議院議長、綿貫民輔元衆議院議長、石原信夫元内閣官房副長官、山口昌紀近畿日本鉄道代表取締役会長がお別れの言葉及び弔詞を述べた。そして子息の奥野信亮衆議院議員が挨拶した。続いて全員が献花を行った。最高裁判所長官、元総理、元衆参両院議長、自民党公明党幹部、各閣僚、衆参両院議員など多数の人々が出席した。

追悼の言葉は次の通り。

安倍晋三内閣総理大臣「あまりにも偉大な保守政治家であられた。惜別の情がこみ上げてくる。十月に自民党本部に来られた時、名物のビーフカレーを平らげる健啖家ぶりであったとうかがった。百三年の歳月を思い。お疲れ様でした、有難うございましたと申し上げたい。国家総動員法が施行された年に内務省に入られた。戦後は、戦後処理を担われ、GHQとの交渉で涙をためて屈辱に耐えられた。私は平成五年に初当選して以来、ご指導を受けた。私は吉田松陰先生の『至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり』という言葉を胸に刻んでいる。奥野誠亮先生はそのお名前の通り、『誠』を貫かれた。誠意と情熱の人であられた。文部大臣時代、日教組と対峙された。筑波大創設に貢献された。ご子息の奥野信亮先生と共に、私も國の為に身をつくすことを覚悟している。『ふるさと』に『こころざしをはたして、いつの日にか歸かえらん』という歌詞がある。まさに奥野先生は志を果たして故郷に帰られた。先生がやり残されたことをしっかり受け継いでいく。ご冥福を心から祈りお別れの言葉とする」。

綿貫民輔元衆議院議長「奥野先生の百歳のお祝いに、スカイツリーに昇ったこと忘れることができない。正しいと信じたことは妥協しない姿勢を貫かれた。松田竹千代先生の遺志を受け継いで、アジアからの留学生のために地道な努力をされた。ゴルフや麻雀や書道を一緒にさせて頂いた。前議員の会では最長老として威厳のあるお姿を拝した。先生の『一怒一老、一笑一若』というお言葉を胸に頑張っていきたい。やすらかにお眠り下さい」。

石原信雄元内閣官房長官「上司としては厳しいが、先輩としては優しい部下思いの方だった。日本人の誇りを大切にされ行動された。生前のご指導に感謝してお別れの言葉とする」。

山口昌紀近畿日本鉄道代表取締役会長「昭和三十四年の伊勢湾台風の時、近畿日本鉄道は存在が危ぶまれる被害を受けた。奥野先生は、名古屋・大阪直通のための線路の幅の統一そして税金免除という起死回生の救助の手を差し伸べて下さった。感謝の思いは言葉に尽くせない。自主憲法制定を主張され、義を重んじられた。先生は我々の心の拠り所であられた。今後も奈良・大和の国を見守って下さい」。

奥野信亮衆議院議員(御子息)「地方税制・地方財政の基礎を築いたと評価されている。『派に頼らず義を忘れず』の考え方で歩んできた。大東亜戦争の正しい評価、自虐精神の脱却を訴え続けてきた。一度言い出したら聞かない人であった。家族を大事にした。やさしいおじいちゃんだった。百二歳でゴルフをやった。今年の十一月に入っても麻雀を楽しんだ。『恕』の精神を引き継いでいきたい」。

国士政治家・奥野誠亮先生のご冥福を衷心より祈念申し上げます。

 

いったん帰宅し、『政治文化情報』の原稿執筆。

午後六時半より、虎ノ門のホテルオークラ東京にて、『加瀬先生のお誕生を祝う会』開催。倉田信靖東京国際大学理事長・総長 、山田宏衆院議員、呉善花さん、松原仁衆院議員、村松英子さん、石平氏などが祝辞を述べ、加瀬英明氏が挨拶した。西村眞悟元衆院議員の音頭で乾杯し、盛宴に移った。

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祝辞を述べる倉田信靖氏

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挨拶する加瀬英明氏

帰宅後も、『政治文化情報』の原稿執筆。

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2016年12月11日 (日)

天皇統治と「国見」

 「國見」とはただ単に景色を眺めるのではなく、天皇が國を見渡して五穀の豊饒と民の幸福をお祈りし祝福される行事である。

 

 「目は口ほどにものを言ひ」といふ言葉もあるごとく「見る」といふのは対象物を認識する上で大切な行為である。天皇統治の事を「みそなはす」(「御覧になる」・「見る」の尊敬語)と言ふ。「国見」とはただ単に天皇が景色を視覚的にご覧になるといふのではなく、国土と国民を祝福されるといふ意義がある。鎮魂儀礼であり祭祀である。

 天皇が神聖なる天香具山に登られて「國見」をされることは、天皇が行はれる國土讃嘆の農耕儀礼・祭祀である。新しい年の始まりを知らせる「春のことぶれ」(春が来たことを広く知らせること)・天地一新の行事である。

祭祀主であり現御神である天皇が「國見」をされ祝福されることによって、國魂・國土が新たなる靈力を発揮し吹き返し新生する。國土が國が始まった時の若々しい命の姿に復元し新生し豊かな稔が約束されるのである。天皇が「國見」をされることによって國土の新生と五穀豊饒が實現する。

 

 つまり「國見」は、天の神の地上における御代理即ち現御神(あきつみかみ)たる天皇が、國土に稲穂を豊かに實らせるといふ天の神から命じられた最大の御使命を實現するといふ天皇の統治にとって重大意味を持つ祭祀なのである。

           

 昭和五十四年十二月四日、先帝昭和天皇は奈良県に御行幸あらせられた。翌四日、萬葉學者・犬養孝氏の御案内で、高市郡明日香村の甘橿丘にお登りになり、大和盆地を双眼鏡で一望された。この時、犬養氏は、この舒明天皇の御製など五首を朗詠した。犬養氏の「昭和の國見ですね」とふ言葉に、先帝陛下は声を立ててお笑ひになったと承る。そして、次のやうな御製を詠ませられた。

 

「丘に立ち歌をききつつ遠つおやのしろしめしたる世をししのびぬ」

 

 昭和五十九年十二月、再び奈良県に御行幸になり、翌昭和六十年の新年歌會始に「旅」といふ御題で賜った御歌が、

 

「遠つおやのしろしめしたる大和路の歴史をしのびけふも旅ゆく」

 

である。

 

 農業國家・稲作國家であった古代日本は、國民生活は旱魃や洪水などの自然環境によって大きく支配される。したがって、集団の統率者は常に祭りを行って、自然の恵みを願ひ感謝しそして自然災害が起こらないやうに神に祈る祭祀を行ふことが大きな使命であった。ゆゑに、祭祀は、天皇の重要な御使命であった。

 

日本においては宗教と政治、祭祀と政治は一体であるべきである。これを<祭政一致>といふ。

 

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千駄木庵日乗十二月十一日

午前は、諸雑務。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

この後、お茶の水にて、同志と懇談・打合せ。

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後も、原稿執筆。

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「元初の清浄なる日本」に帰ることが維新である

 

「神話の精神」は今日唯今、「天皇の祭祀」に脈々と継承され生きてゐる。太古の神話の精神が今日も行き続けてゐる民族は日本民族のみである。ゆゑに、わが國體は萬邦無比なのである。

 

わが國には、「今即神代・神代即今」「高天原を地上へ」といふ言葉がある。西田幾多郎氏は、「神皇正統記が大日本者神國なり、異朝には其たぐひなしといふ我國の國體には、絶対の歴史的世界性が含まれて居るのである。我皇室が萬世一系として永遠の過去から永遠の未来へと云ふことは、単に直線的と云ふことではなく、永遠の今として、何処までも我々の始であり終であると云ふことでなければならない。天地の始は今日を始とするといふ理も、そこから出て来るのである。慈遍は神代在今、莫謂往昔とも云ふ(旧事本紀玄義)。日本精神の真髄は、何処までも超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的と云ふことにあるのである」(世界新秩序の原理・「西田幾多郎全集 第十二巻」所収)と論じてゐる。

 

「日本精神の真髄は、何処までも超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的と云ふことにある」といふことが非常に重要である。わが民族は、神代・天上の理想國を地上・今の代と隔絶した存在とは決して考へなかったのである。神代は時間を超越した實在である。今此処が神代なのである。「神代今に在り、往昔と謂ふ莫れ」とはさういふことを意味する。それは観念的論議ではない。日本の天地自然の中に神々は生きてゐたまふといふわが國の傳統信仰である。

 

「神代即今」「今即神代」の理想を継承し顕現させることによって、現代を祓ひ清め変革することが真の「復古即革新」すなはち維新である。「復古」の「古」とは「元初の日本」「永遠にして常に新しい神代」のことである。

 

現状の穢れを祓ひ錆を落とすために、「元初の清浄なる日本」に帰ることが維新である。今日の危機的状況を維新変革の好機ととらへねばならない

 

大東亜戦争敗北以来、わが國は、天皇を祭祀主と仰ぐ日本國體の真姿を隠蔽してゐる。今こそ復古即革新すなはち維新の戦ひを断行し、日本のあるべき姿を回復し、國難を乗り越えなければならない。

 

神代以来の祭祀國家・信仰共同体たる日本の真姿の中心におはしますご存在が、祭祀主たる天皇であらせられる。天皇がおはしまさずして、真の日本はあり得ない。祭祀主であらせられ、神の如くに清浄なるご存在であり、尊厳性・道義性の体現者であらせられる天皇に帰一する日本を復興することが、國體の開顕であり明徴化である。

 

我が國國民の心の底にある國體精神を蘇らしめ、それを核として強大な統合力を生み出し、混迷せる状況に対して革新の行動を起こすことが今求められてゐる。

 

わが國は日本喪失の精神状況から脱出して、日本民族の誇りと矜持を取り戻さねばならない。それは偏狭な排外主義・独善に陥ることでは決してない。「神話の精神の復活」によって精神の救済を図るといふことである。

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千駄木庵日乗十二月十日

午前は、諸雑務。

正午より、グランドヒル市ヶ谷にて、『日本学生同盟創設五十年 三島由紀夫研究会結成四十五年 第十一回「早雪忌」の集い』開催。玉川博己氏が主催者挨拶。山本之聞、斉藤英俊、木村三浩、宮崎正弘氏などがスピーチ。献杯が行われ、盛宴に移った。多くの同志・友人が参集した。

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この後、施設に赴き、母と過ごす。

帰宅後は、原稿執筆。

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2016年12月10日 (土)

日本人は、肉体は滅びても、生命は永遠といふ信仰を持ってゐる

 

日本人にとって「死」とは虚無の世界への消滅ではない。生の世界と死の世界は絶対的に隔絶してゐない。人が死んでも、その魂をこの世に呼び戻すことができると信じてゐる。

 

本来日本人は、「死ぬ」と言はず「身罷る」「逝く」「神去る」「隠れる」と言った。「葬る」ことを「はふる」といふ。「はふる」とは羽振るである。魂が空を羽ばたいて飛んでいくといふことである。羽振りが良いとは勢ひがあるといふ意である。

 

日本武尊は薨去された後、その御霊は白鳥となって故郷に向かって飛んで行かれた。古代において鳥は霊魂を運ぶものと信じられた。肉体を離脱する霊魂の自由性・不滅性の最も原初的な信仰である。そしてその鳥が純白なのは、清らかさを好む日本人の生活感覚から生まれたのであらう。

 

「身罷る」「逝く」「神去る」「隠れる」といふ言葉は、肉体は滅びても生命・霊魂は生き続けるといふ信仰に基づく言葉である。今でも、丁寧な言ひ方をする時には「死んだ」とか「死ぬ」と言はない。「他界する」「昇天する」といふ。また、「亡きがら」「遺体」とは言っても「死体」とは言はない。

 

肉体の死は、人間そのものの消滅ではなく、現世から身を隠すことに過ぎない。だから、死後の世界を幽世(かくりよ)と言ひ、死後の人間を隱身(かくりみ)と言ふのである。

 

日本人は、古来、霊魂が遊離して肉体は滅びても人間が無に帰するといふことは無いと信じて来たのである。

 

柳田國男氏は、「日本人の死後の観念、即ち霊は永久にこの国土のうちに留まってさう遠くへは行ってしまはないといふ信仰が、恐らくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられて居る」(『先祖の話』)と論じてゐる。

 

死者の霊魂は、この世と隔絶したに世界行ってしまふのではなく、この世の近くに留まって子孫を見守ってゐるは、わが国において永く継承されてきてゐる。それは、「ご先祖様が草葉の蔭から見守ってゐる」といふ言葉がある通りである。

 

この世を去った人の霊魂を身近に感じて来たのが日本人の伝統的祖霊観、生死観である。日本人が比較的死を恐れない強靭な精神を持ってゐるのは、かうした信仰が根底にあるからであらう。

 

魂が身体から遊離することが死である。それがために肉体人間は力を失ふ。死とは無に帰するのではない。勢ひがなくなることを意味する「しほれる」が「しぬ」といふ言葉の語源である。『萬葉集』の柿本朝臣人麻呂の歌「淡海(あふみ)の海()夕波千鳥汝()が鳴けば心もしぬに古(いにしへ)思ほゆ」の「しの」である。くたくたになってしまって疲れるといふ意味である。気力がなくなってしまったといふ意味である。

 

枯れるといふ言葉と同根の「から」が「亡骸」のからである。死とは命が枯れることであり、肉体から魂・生命が去ることである。死は消滅ではなく、生き返るのであり、甦るのである。日本伝統信仰には死はない。

 

死後の世界=他界は近く親しく、いつでも連絡が取れるところである。だから草葉の陰から見守ってゐてくれるといふ言葉があるのである。お盆には先祖の御霊が帰って来るといふ信仰もある。生と死の区別は明白ではなく、人はこの世を去ってもまた帰って来るといふ信仰がある。死とは誕生・元服・結婚と同様の「生まれ変はりの儀式の一環」である。

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千駄木庵日乗十二月九日

午前は、諸雑務。

午後からは、在宅して、原稿執筆の準備、資料の整理など。

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2016年12月 9日 (金)

『政治文化情報』平成二十八年十二月号のお知らせ

四宮政治文化研究所発行・『政治文化情報』平成二十八年十二月号のお知らせ

 

『政治文化情報』は、昭和五十九年創刊以来、小生の論考、時局問題などに関する主張、活動状況の報告、各方面から得た様々な情報などを掲載し、それなりの評価を得て来たと自負致しております。
多くの心有る皆様方のご購読をお願い申し上げます。
見本誌御希望の方はご遠慮なくメールでお申し込み下さい。

メールアドレス m-shinomiya@max.hi-ho.ne.jp

購読料
年間 12000
半年 6000

平成二十八年十二月号(平成二十七年十一月二十日発行)の内容

 

〈皇都の一隅より〉

亀井静香氏などによる靖國神社への申し入れについて

 

戦没者への祭祀は古来よりの日本民族の道義精神の典型

 

靖國神社創立の精神

 

「伝統的な温情と和解の心」はわが國史を貫いてゐる美風である

 

靖國神社の御祭神に関する政治家の「申し入れ」には違和感がある

 

亀井静香氏の歴史認識について

 

菅沼光弘氏(元公安調査庁調査第二部長)「日本は専守防衛だから適地を攻撃できるミサイルを持っていない。しかしこれでは守れない。攻撃こそ最大の防御」

 

中山恭子さん「西村眞悟氏のいない國会は軽い。『日本の心』を語る熱い政治家が國会にいないのは残念」

 

西村眞悟氏「『戦後体制』とは、天皇陛下の『詔勅』を封印していること」

 

高村正彦氏(自民党副総裁)「私は村山内閣の経済企画庁長官を務めた。村山氏が『自衛隊合憲・日米安保を肯定する』と言ったことに感激し、不毛な論議は終ったと思って来た。しかし最近不毛な論議が始まったことを悲しんでいる」

 

王逸舟氏(北京大学國際関係学院副院長)「共産党の基盤が変って来ている。汚職が深く広くはびこっている。所得の配分が課題」

 

宮本雄二氏(宮本アジア研究所代表/元中國大使)「経済が持続的に発展しない限り、中國の発展と中國共産党の統治はあり得ない」

 

エフィ・フィトリアニ氏(インドネシア大学國際関係学部長)「一帯一路の中國の提案は南シナ海での中國の行動があるので受け入れがたい」

 

柯隆氏(富士通総研主席研究員)「経済力だけが強化されても大國にはなれない。経済・軍事力・文明の力の三つがなければ大國にはなれない。今の中國は文明が発展していない。大國にも強國にもなれない」

 

肖耿氏(香港大学経済・工商管理学院教授、HSBC社外取締役)「経済圏構想である『一帯一路』は、習近平はお金を使ってインフラを作れば皆発展すると見ている。しかし軍事的戦略と誤解された。中國人も理解していない」

 

津上俊哉氏(津上工作室代表/元経産省通商政策局北東アジア課長)「中國は右と左に振り子のパターンが大きく振れる。中國は危なくなると危機回避のためにプラグマチズムの対応をする」

 

浅川公紀筑波学園大学名誉教授「エスタブリッシュメントの不公正への怒りがトランプにはある。大統領になってもそういう事は出てくる」

 

この頃詠みし歌

 

 

 

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2016年12月 8日 (木)

笹川平和財団主催『講演会・紛争解決の視角から見た日中の歴史和解』における登壇者の発言

八月八日に開催された笹川平和財団主催『講演会・紛争解決の視角から見た日中の歴史和解』における登壇者の発言は次の通り。

 

高原明生氏(東京大学大学院法学政治学研究科教授、公共政策大学院副院長)「二十一世紀の日中関係について、国民の相互理解を深めること。歴史問題をめぐって深くて広いギャップがある。発展段階にある中国は、富国強兵、富民強国のパラダイムにとらわれている。一日も早くそういう状況から脱してほしい。近代化とはヨーロッパ化と同じ意味が多い。近代と伝統の間で摩擦が起こる。日本では傳統と近代のバランスが落ち着いた。今の中国は西洋に反発している。これを早く乗り越えてポスト近代になってもらいたい。日本人と中国人がもっと積極的に交流すること。知識交流が大事。暴力の問題を見ると体制の問題が出てくる。韓国では日本料理店は壊されていないが、中国では壊される」。

 

汪錚氏(シートンホール大学平和と衝突研究センターディレクター、ジョン・C・ホワイト外交国際関係大学院准教授)「人類の歴史は紛争の歴史と言われるが、紛争についての研究は無かった。最近形成されてきた。平和の研究、安全保障の研究との違いはどうか。紛争の原因を見つけ出すことが根本。そして正しい薬を施すこと。中日双方の問題はどこにあるのか。中国の歴史認識はどう作られ、中国の政治・外交にどう影響してきたのか。二〇一二年、尖閣問題で中日関係に危機が起こった。国辱という言葉が中国人のナショナルアイデンティティ。一八四〇年から一九四五年に百年の国恥を受けたと考える。歴史の誇り、歴史のトラウマ、選民意識の三つが、中国の政治外交に大きな影響を及ぼしている。歴史は中国人の宗教だと言う人がいる。歴史・記憶は現代のナショナルアイデンティティに大きな影響を及ぼしている。習近平の言う中国の夢というのも百年の国辱がペースになっている。集団的目標になっている。日中の歴史の和解度は低い。これが中日関係の根源的問題。日中の対立はハンチントンの言う文明の対立と言える。歴史問題の解決には時間がかかると言う人がいる。二〇一二年にワシントンで開かれた中日和解に向けてのシンポジウムでは、交渉・仲介ではなくお互いに理解しなければ解決しないという結論になった。両国は歴史教育に注目し、対話し、改革すべきである。和解は難しい。民衆の歴史認識を変えるのは難しい。しかしアイデンティティの変化は表れている。一世代間の歴史認識の違いはある。中日戦争に対して、一九八〇年が一番強烈。しかし一貫して変わらないものではない。スマートホンの時代で垣根が取り除かれている。CNSを通して庶民が新しい歴史認識ができる。政府とは違う新しい観点、新しい歴史解釈ができてきている。しかしさらに過激な歴史観も広まっている。対話をすべきである。歴史叙述が復讐にならないように教育が大事である。中日関係が悪くなってから、中日協力の報道が少なくなっている」。

 

呂暁波氏(コロンビア大学政治学教授、バーナード校政治学部主任)、「草の根の人たちの影響が強い。国辱を忘れない。忘れないことになぜこだわるのか。日本などの東洋には恥の文化がある。西洋には罪の文化がある。永遠に忘れないものを選んでいる。記憶は選ばれたもの。インターネットによってポピリズムの風潮が出ている」。

 

劉傑氏(早稲田大学社会科学総合学術院教授)「歴史の記憶の仕方は日本人と中国人とは異なる。近代化の歴史、戦争の歴史、敗戦の歴史の三つが日本人の歴史。中国は被害・抵抗・勝利・革命の歴史。中國は、近代化の歴史は語られていない。中国は阿片戦争以降の歴史をずっと語っている。『対華二十一カ条の要求』を受諾した大正四年五月九日を『国恥記念日』とした。恥を雪(すす)ぐことを政治外交理念にした。歴史は選択して記憶される。和解の難しさ。知的レベルの和解が達成されていない。その前提は知の独立が不可欠。知識人同志の共同体的にものが成立しなければ和解はできない。独立した地の共同体を如何にして作っていくか、それを目指していくべし。階級闘争の和解は達成し中国は近代化」。

 

千駄木庵主人曰く。「支那人は国恥を忘れないと言うが、戦後七十年間、さらに田中内閣によるいわゆる「日中国交正常化」以来、日本は何回支那に対して謝罪させられてきたであろうか。そして、どれだけ支那に対して経済技術援助をして来たであろうか。しかるに支那は日本の経済技術援助によって経済発展に成功したら、「過去の歴史問題」を蒸し返し、反日行動を激化させた。のみならず。軍事力を増強し続け、わが國及び周辺諸国に対して侵略の牙をむいてきている。「和解」「相互理解」「友好」を一方的に破壊しているのは支那である。

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「第一回台湾歴史講座」における永山英樹氏による「オ―ストロネシア人の島―漢人中心史観では語れない台湾史の魅力」と題する講演の内容

八月六日に開催された「第一回台湾歴史講座」(台湾研究フォーラム第174回定例会)における永山英樹氏による「オ―ストロネシア人の島―漢人中心史観では語れない台湾史の魅力」と題する講演の内容は次の通り。

 

「馬英九は『一つの中国』を掲げ、台湾は中国の一部とした。蔡英文政権は『一つの中国』を受け入れず、民主主義国家と仲良くしようとしている。台湾人意識の高まりが蔡英文さんを総統に押し上げた。台湾と中国は別々の歴史の歩みをしてきた。異なる社会、異なる意識が形成された。台湾人が台湾の歴史を知り始めたのは最近。学校で台湾の歴史を教えなかった。民間で台湾史の研究が進んでいる。正しい歴史認識を形成してゆく。台湾は南島語族(オーストロネシア語族)の島。マレーポリネシア語族とも言われる。東南アジア、太平洋、インド洋、イースター島、ハワイ、台湾が南島語族。発祥した言語が共通している。オーストロネシア語族は台湾から太平洋に散っていったのではないか。原住民の歴史を見るべきである。国民党の台湾支配は、漢人中心主義を主張し、台湾支配を正当化した。火事場泥棒。法的正統性が無かったからこういう主張をした。中共も同じ。台湾原住民は平地の人(客家人)を憎んでいる。みんな奪われた。だから日本人と国民党が大好き。客家人は原住民を差別。蔡英文には半分近く原住民の血が入っている。タイヤル人の血が四分の一」。

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千駄木庵日乗十二月八日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。最終校正、完了、送付。

この後、施設に赴き、母に付き添う。機嫌良し。有り難し。

帰宅後は、原稿執筆。

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日本伝統精神への回帰

 

 古代日本精神を今日まで文献的に伝えているものは『古事記』『日本書紀』『萬葉集』である。これらの文献は、『聖書』『コーラン』『仏典』『論語』のような教義・教条が書き記されている文献ではない。日本の神々と日本国の歴史が叙述され魂の表白たる歌が収められているのみである。日本人があくまでも真実を尊び人間の感性を重んじ抽象的な論議や理論を重んじなかった証拠である。

 

 近世の国学者・平田篤胤はその著『古道大意』において、「古ヘ儒佛ノ道、イマダ御国へ渡リ来ラザル以前ノ純粋ナル古ノ意(ココロ)古ノ言(コトバ)トヲ以テ、天地ノ初ヨリノ事実ヲ素直ニ説広ヘ、ソノ事実ノ上ニ真ノ道ノ具ツテイル事ヲ明アムル学問デアル故ニ、古道学ト申スデゴザル」「真ノ道ト云フモノハ教訓デハ其旨味ガ知レヌ、仍テ其古ノ真ノ道ヲ知ベキ事実ヲ記シテアル其ノ書物ハ何ジヤト云フニ、古事記ガ第一デゴザル」と述べている。

 

篤胤は、儒教や仏教という外来思想が日本に入り来る前の純粋なる古代日本の言葉を以て天地生成の起源からの事実を素直に記述し、その事実の上に立って日本民族固有の『道』を明らかにするのが古道(日本伝統精神を学ぶ学問)であり、日本伝統精神は教義・教条ではその真の意義を体得することはできず、古代以来の日本伝統精神を記してある書物の第一は『古事記』であると論じているのである。

 

 さらに近世の国学者であり萬葉学者であった契冲はその著『萬葉代匠記怱釈』において「神道とて儒典佛書などの如く、説おかれたる事なし。舊事記、古事記、日本紀等あれども、是は神代より有りつる事どもを記せるのみなり。」と論じている。

 

 つまり日本の伝統精神すなわち日本民族固有の『道』は事実の上に備わっており、一人の人物が書き表した教義書・経典に依拠しないというのである。抽象的・概念的な考え方に陥った教義万能・経典万能の思想から脱却し、日本人としての真心を以て祖先の歴史の真実を見てそれを戒めとしつつ自己の道徳意識を養成し、人間の真心をうたいあげた言の葉(即ち和歌)を学ぶことが、日本人一般の思想傾向である。

 

 こういう教義・教条を排するという日本民族の柔軟な態度が、日本文化の発展の基礎であり、日本が古代以来仏教や儒教などの外国思想を幅広く受け入れて自己のものとし、さらにそれをより高度なものにし、さらに近代においては西洋科学技術文明を取り入れた原点である。

 

 現代社会は、思想とか信仰というものが、人間の心性の中に深く根ざしたものとして把握されるのではなく、洗脳という形で個人の中に注入される<イデオロギー>と化している。それは人格破壊を招く機械的な洗脳と言う恐ろしさを持っている。<狐憑き>ならぬ<イデオロギー憑き>なのである。

 

 教義・教条とかイデオロギーが人格から分断され洗脳という形で多くの人々を支配した時の恐ろしさは、共産支那や旧ソ連そして北朝鮮などという社会主義国家のこれまでの歴史を見れば明白である。

 

 日本民族の生活態度の基本的特質、言い換えれば日本人の文化感覚を回復することが、こうした危険な状態を是正する唯一の道である。日本伝統精神が今後の世界においても実に大きな価値を持つのである。    

 

 近代科学技術文明は、自然を恐れず、自然を征服し作り替え破壊することによって、人類の進歩と発展を図ってきた。しかしその結果、公害問題が深刻化するとともに核戦争の危機にさらされ、今日人間生活そのものが荒廃し、人類は破滅に向かって歩み始めている。

 

 これを打開するためには、自然に調和し大らかにして柔軟な日本伝統精神に回帰する以外にないのである。

 

 樋口清之氏は「日本人は、一般的傾向として、経験的な知恵や合理的知識をを分析や説明をこえた先験的・信仰的なとらえ方で身につける。このため近代分析科学的な理解方法しか身につけていない人からは、前近代的な迷信だと誤解されることもある。しかし分析に対する総合、対立に対する調和という伝統的な思考の中に、先人の生きざまの英知を各所で発見するのである。」(自然と日本人)と論じている。

 

 今日の世界は、これまでの組織された体系を持つイデオロギーや教義では救い得ない末期的状況にあると言っていい。古い体系は次々に崩壊しつつある。我々の目標は、まともな日本を回復するために、日本の伝統精神の英知を取り戻さねばならないのである。繰り返し言うが、日本の伝統精神とは、イデオロギー・教条ではない。日本の自然と風土と生活の中から生まれた日本民族の自ずからなる歴史の精神である。

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千駄木庵日乗十二月七日

午前は、諸雑務。

午後は、平河町の平河天満宮に参拝。

この後、平河町の先輩同志の事務所訪問。懇談。

夕刻、谷中にて、地元の友人ご夫妻と懇談。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事。

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2016年12月 7日 (水)

やまと歌と維新

明治天皇は次のやうな御製をのこされてゐる。

 

「とこしへに 民やすかれと いのるなる わがよをまもれ伊勢のおほかみ」(明治二十八年・日清戦争)

 

「民草の うへやすかれと いのる世に 思はぬことの おこりけるかな」(明治三十七年・日露戦争)

 

「暁の ねざめのとこに おもふこと 國と民との うへのみにして」(明治三十八年・日露戦争)

 

「千萬の 民とともにも たのしむに ますたのしみは あらじとびおもふ」(明治四十三年)

 

明治天皇は、御生涯において、九万三千三十二首の御製を詠ませられたと承る。明治維新断行、そして近代日本建設という未曽有の変革と発展は、明治天皇の偉大なる神聖権威のもとに推進せられた。そしてそれは和歌やまと歌の隆昌と一体であったのである。

 

維新は和歌の復興とは一体である。何故なら、天皇の國家統治の基本に和歌があるからである。和歌は天皇の國家御統治と一體であるばかりでなく、日本の変革の時期、発展の時期に和歌が隆昌する。『萬葉集』は、大化の改新から平安遷都といふ大変革大建設の時代に詠まれた全国民の歌が収められてゐる。

 

今日の日本も、国難に見舞はれてゐる。しかし、天皇を君主と仰ぐわが日本は、大化の改新・明治維新と同様に、強固なる国民精神を発揮して、国難を打開し、新たなる変革と建設の時代に入ることは必定である。その精神的基盤を正しく確立し、国民精神を喚起するためにも、和歌・やまと歌の復興が為されなければならない。

 

国家的な危機にある現在、「勅撰和歌集」を撰進が行われるべきである。また、衆参両院議員、各省庁の枢要な地位にある公務員は、和歌を詠み、新年に際して、天皇陛下の奏覧を仰ぐべきである。

 

私は、山中峯太郎氏著『愛の国父 明治天皇』(昭和三十二年五月第五版発行)といふ本を持ってゐる。昭和三十二年、私が小学校二年生の時に購入した本である。日清・日露の戦いを中心にして、明治天皇の御事績が書かれた本であり、当時私はこの本を読んで非常に感激した。

 

山中氏は次のやうに書いてゐる。「日本は明治時代に、支那の戰爭し、ロシヤと戰爭し、大正時代にドイツと戰爭し、昭和時代にアメリカとイギリスそのほかと戰爭した。しかし、アメリカが勝手にきめた『侵略戰爭』をしたのではない。日本が戰ったのば、外國の勢力に迫られて、日本をまもるための戰爭であったのを、正しい歴史が証明する。」「ある日、天皇は宮内大臣の田中光顯に言われた『おまえたちは、ぐあいかわるいことがあると、辞職という方法がある。しかし、わたしには、そのような方法はない。そうではないか』『はい……』気の強い田中光顯も、恐れ入って何とも言えなかった。」と書かれてゐる。

 

この本を私が讀んだ同じ年の昭和三十二年に、『明治天皇と日露大戦争』(渡辺邦男監督、新東宝製作)が公開された。父が連れて行ってくれたのだが、嵐寛寿郎演じるところの映画の中の明治天皇も「天皇には辞職はない」といふ言葉を、語ってゐた。また映画のところどころに、明治天皇御製が朗誦された。まことに素晴らしい映画であった。

 

私が愛国心に目覚め、やまと歌に関心を持ったのは、この本を読みこの映画を見てからかも知れない。この映画と本が私の愛国心の目覚めに大きな影響を与へたことは確かである。

 

また、私がまだ幼少の頃、外から家に帰って来ると、母が新聞を讀みながら涙をぽろぽろ流しながら泣いていた。気丈な母が泣いているのを見たことが無かった私は驚いた。母は、貞明皇后崩御の報道記事を見て泣いていたのだった。貞明皇后が崩御されたのは、昭和二十六年五月十七日であるから、私がまだ四歳の時であった。

 

私は、自然に尊皇愛国の心を父母の教育によって身につけることができたのである。父母に心より感謝している。

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千駄木庵日乗十二月六日

午前は、諸雑務。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。(最終校正)

この後、施設に赴き、母に付き添う。

帰宅後も、『伝統と革新』編集の仕事。

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2016年12月 6日 (火)

武士道について

 

和歌と武と祭祀は一体である。日本國が本来的に和を尊ぶ國であり、天皇・皇室が武力を以て民を支配する御存在ではあらせられないといふことを強調するために、天皇・皇室と「武」との関係を軽視したりあるいは否定してしまふ論議がある。さういふ論議がと現行占領憲法の誤れる「平和主義」と結びつける人もゐるやうである。

 

しかし、昨日も論じたやうに、天皇・皇室が「武の道統」を継承して来られた事は、天皇の國家統治を表象する「三種の神器」に「草薙剣」がある事によって明白である。「草薙剣」は、素戔嗚尊が、出雲國簸川(ひのかわ)上流で八岐大蛇(やまたのおろち)を切った時に、その尾から出たと傳へられる剣である。

 

『古今和歌集』の「仮名序」に、「人の世となりて、素盞鳴尊よりぞ三十文字あまり一文字はよみける」と書かれ、素盞鳴尊がお詠みになった

 

「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣つくるその八重垣を」

 

が、和歌(三十一文字)の起源であると説かれてゐる。素盞鳴尊は、皇祖・天照大御神の弟神であらせられ、且つ、「武の神」であり、和歌を始めてお詠みになられた御方なのである。和歌は神詠であるといふ古来よりの信仰はここから生まれた。和歌と武とは一体なのである。これを「剣魂歌心」といふ。この事は、女性天皇におおかせられても何の変りはない。

 

 古代日本における劔・矛・弓などの武器は、鎮魂の祭具であり神事的意味を持つ。八千矛神(多くの矛を持つ神)は武神であるよりは呪術的機能を持った神であった。弓の弦を鳴らして鎮魂する。

 

 「三種の神器」は、皇霊が憑依(のりうつること)すると信じられ、日本天皇の国家統治言い換えれば日本民族の指導精神の象徴である。

 

奈良時代から平安時代に入って、外国との緊張関係が薄れ、国防意識・軍事意識も薄れた。さらに、実際政治も藤原氏などの臣下の手に移った。しかし、祭祀と和歌は天皇の本質的お役目として貫かれた。平安時代から江戸幕藩体制終焉まで、そして戦後日本は、武(剣)・玉(祭祀)・鏡(歌・知)という「三種の神器」の御精神の一つである「剣」の精神が隠蔽せられた。後鳥羽上皇・後醍醐天皇・孝明天皇・明治天皇はこれを回復された。

 

 武の精神を回復されようとした天皇はまた御自身も和歌もよく詠まれ和歌の道を大切にせられた。後鳥羽上皇・後醍醐天皇・孝明天皇・明治天皇の御事績を仰げばそれは明白である。神武天皇の「撃ちてしやまむ」の御精神はついに絶えることはなかった。

 

武士道は、生きた魂として存在し、日本民族の活力たる精神である。武士道は、道徳・倫理精神と共にあった。武士は封建時代において国民の道義の標準を立て、自己の模範によって民衆を指導した。義経記・曽我兄弟の物語・忠臣蔵などの民衆娯楽の芝居・講談・浄瑠璃・小説などがその主題を武士の物語から取った。明治維新の志士たちの歌も近代日本の武士道教育の手本となった。

 

和歌などの芸術によって武士道が継承され教育されたことは、武士道が教条や独善的観念体系(イデオロギー)ではないということを証しする。武士道は、日本国民の善き理想となった。いかなる人間活動の道も、思想も、ある程度において武士道の刺激を受けた。武士道は、道義の手本でもあった。明治維新をはじめとしたわが国の変革を断行せしめた重要なる原動力の一つに武士道があった。この武士道を今に生かさなければならない。

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千駄木庵日乗十二月五日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆の準備。

この後、施設に赴き母に付き添う。母はずっと私の手を握っている。

帰宅後も、原稿執筆の準備。

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2016年12月 5日 (月)

天皇・皇室の「和」のご精神は戦後の似非平和主義とは無縁である

 

いわゆる「戦後平和主義」は、我が国の独立と平和と安全を根底から揺さぶり続けてきただけでなく、国民精神を堕落せしめた原因である。自分さへ安穏な生活をしていればいい、みんなのため・国家のために身を捧げるなどといふのはまっぴらだといふ思考が蔓延した原因は実に「戦後平和主義」にあったと考へる。

 

戦ひの精神を忘却した国と国民は、他国から侮りを受ける。今の日本がまさにそうである。好戦的な国民になるべきだと言うのではない。しかし、我が国を無法に攻撃し侵略し支配しやうとする外敵に対してはこれと果敢に戦ふ姿勢は絶対に必要である。その意味で「現行占領憲法」の「似非平和主義」は否定すべきである。

 

日本国及び日本皇室の「和」の精神を尊ぶへきは当然である。しかしそれは「戦後平和主義」とは全く異なる精神である。

 

皇位のみしるしである「三種の神器」に「剣」があることは、天皇が武の道統

の継承者であらせられることは歴然たる事実である。女性天皇も例外ではない。天照大神も武装されたし、斉明天皇は百済救援のために全軍を率いて出陣された。このことを正しく理解し認識しなければならない。

であります。

 

後鳥羽上皇は、和歌に優れておられた。元久二年(一二〇五)には、『新古今和歌集』を編纂せられた。そして、武の面でも競馬(くらべうま)・笠懸(かさがけ)・狩猟・水練などをも率先して行なわれた。御所内に番鍛冶をおいて、菊銘の太刀を製作されたばかりでなく、自ら刀剣の鑑定まで行なわれたと承る。これが天皇・皇室の本来の姿であって、武の否定は國體の本義・皇室の伝統に反する。

 

 

 聖武天皇御製

 

「ますらをの行くとふ道ぞ凡(おほ)ろかに思ひて行くな丈夫(ますらを)の伴」(ますらおの行くべき道だ。いい加減に思って行くな。ますらおたちよ)

 

 天平四年に、節度使を諸道に遣わされた時の御歌である。この時節度使となった者は、東海東山二道が藤原房前(ふささき)、山陰道が多治比眞人(たじひのまひと)、西海道が藤原宇合(うまかひ)である。宮中で御酒を賜った時の御製。玉音豊かにお詠みあそばされたと御推察申し上げてよい。この一行中の宇合の送る時の歌が蟲麿の歌である。

 

 仏教を尊崇し、各地に国分寺・国分尼寺を建て、奈良に大仏を造立された聖武天皇も、丈夫の行くべき道・あるべき姿を示されている。天皇の臣下を思われ、国の礎が揺るぎなさを示される雄渾な機略を感じさせる。これは、御歴代の天皇御製に伝来する特質であり、君民一体の国柄と申してよい。

 

武(剣)・玉(祭祀)・鏡(歌・知)という「三種の神器」の御精神の一つである「剣」の精神は今日に於いてますます重要になって来ている。『現行占領憲法』に明らかなように、戦後日本は武の精神が希薄になっている。これは重大な國體隠蔽・日本伝統精神の衰微というべきである。

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千駄木庵日乗十二月四日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆の準備。

午後六時より、西新宿のヒルトン東京にて、『一般社団法人 美し國設立五周年記念大会』懇親パーティーに出席。菅家一比古氏が挨拶。加瀬英明氏、久保田信之氏などが祝辞を述べ、盛宴に移った。

帰宅後は、原稿執筆。

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2016年12月 3日 (土)

天照大御神の御心たる「清明心」が日本民族の精神的特性

 

太古以来の日本民族の精神的特性は、「清らけき明らけき心」「素直な心」「無私の精神」である。

 

中村元氏は「日本人の思惟方法のうち、かなり基本的なものとして目立つのは、生きるために与えられている環境世界ないし客観的諸条件をそのまま肯定してしまうことである。」(『日本人の思惟方法』)と論じてゐる。

 

「清らけき明らけき心」「素直な心」「無私の精神」とは、中村氏のいふ「与へられてゐる環境・条件をそのまま肯定する思惟方法」とかなり近いものがあると思ふ。

 

「与へられてゐる環境を素直に肯定する思惟方法」が、天地自然を人間と対立する存在ととらへず、天地自然を神としてまつり拝ろがむ信仰生活を生んだと思はれる。それは日本の天地自然が麗しく温和であり人間に大いなる恵みを与へる存在である事による。麗しく豊かな自然に恵まれた日本民族は、現世を肯定し、明るい太陽の下で生きてきた。日本民族は本来明るく大らかな民族である。

 

明治天皇御製

 

あさみどり澄みわたりたる大空の廣きをおのが心ともがな

 

「清明心」をうたひあげられた御製と拝する。大らかな広々とした心が「清明心」である。私心をまじえず眞澄のやうに清らかな心、それが日本人の本来の心である。

 

「清明心」は、佛教思想の影響が強まった中世になる「正直」といふ言葉になった。『早雲寺殿二十一カ条』(室町後期の武将北条早雲の教訓書)に「こころを直にやはらかに持ち、正直憲法にして…あるをばあるとし、なきをばなきとし、ありのままなる心持、持仏冥慮にもかなふと見えたり」と記されてゐる。

「正直の心」は、ありのままなる心・素直な心である。つまり清明心の中世的における表現である。

 

日本民族は、「もののあはれ」といふ美感覚を持ってゐる。「あはれ」とはうれしいにつけ、楽しいにつけ、悲しいにつけて、心の底から自然に出てくる感動のことばである。

 

「もののあはれ」とは、物事にふれてひき起こされる感動である。知的興味とは違った何かに深く感動することのできる感じやすい心のことである。自然・人生の諸相にふれてひき出される素直なる感動の心である。理論・理屈ではない。「清明心」「正直の心」を美感覚の世界における表現が「もののあはれ」といへる。

 

本居宣長に次のやうな歌がある。

 

事しあればうれしかなしと時々にうごく心ぞ人のまごゝろ

 

この宣長の歌について、村岡典嗣氏は「この眞心こそは、やがて古神道に於ける清明(あか)き心、中世神道における正直の觀念の發展せるものに外ならない。彼(註・宣長)が一切の偽善や作為をあくまでも斥け、その見地から儒教を攻撃したのもこの立場からである。」(『日本思想史研究・第四』)と論じてゐる。

 

宣長にはまた次のやうに歌がある。

 

眞心をつゝみかくしてかざらひていつはりするは漢(から)のならはし

 

宣長のいふ「からごころ」は、日本人本来の素直なる心・清明心・もののあはれとは正反対に位置するといふことである。

 

先人は「正直」「清明心」といふに本人の中核精神が「三種の神器」の一つである「鏡」に象徴されると信じた。

 

北畠親房は、『神皇正統記』で「鏡は一物をたくはず私の心をなくして萬象をてらすに、是非善悪のすがたあらはれずと云ふことなし。其すがたにしたがって感應するを徳とす。是正直の本源なり。」と説いてゐる。

 

「清明心」は、鏡の心であり、太陽の心であり、天照大御神の御心である。この精神が、「主体性」を喪失せずに「無私」の態度で一切を包容摂取するといふ矛盾と思へるやうなことを為し得て来た原因であると思ふ。

 

「鏡」は、天照大御神の『神勅』に「吾が児、この寶鏡を視まさむこと、當に吾を視るが如くすべし」と示されてゐる通り、天照大御神の御霊代(れいだい・みたましろ)である。

 

また、仲哀天皇が筑紫に進軍された時、筑紫の県主・五十迹手(いとて)が『三種の神器』の意義を天皇に奏上した言葉に「白銅鏡の如くにして、分明(あきらか)に山川海原を看行(みそなは)せ」(『日本書紀』「仲哀天皇紀」)とあるやうに、鏡のやうに明らかに山川海原を統治されるお方が、天照大御神の「生みの御子」であられせられる日本天皇なのである。「鏡」は天照大御神の広大無辺の御慈愛と曇りなき御心を表象するのである。

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千駄木庵日乗十二月三日

午前は、諸雑務。

午後十二時半より、九段の靖国神社にて、『湯澤貞靖国神社元宮司の米寿を祝う会』開催。参加者全員で昇殿参拝。靖国会館にて、祝賀会開催。沼山光洋氏が司会。徳川康久靖国神社宮司、山谷えり子・有村治子両参院議員、小堀桂一郎、田母神俊雄の各氏などが祝辞を述べた。堀江正夫元参院議員の音頭で乾杯を行い。盛宴に移った。多くの先輩・同志が参集し盛大な祝賀会であった。

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祝賀会会場風景

この後、施設に赴き、母に付き添う。やや元気を回復していた。有り難し。施設の担当者の方と今後のことについて相談。

夕刻、地元の友人と懇談。

帰宅後は、原稿執筆、脱稿、送付。

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日本は言葉の霊が栄える国であり言葉の霊の力によって生命が豊かに栄える国

 

言葉・言語は、文化の基礎であり、文化は言葉によって成り立つ。人間が言葉を利用し支配することよりも、人間が言葉に支配されることが多い。まさに言葉は神であり霊なのである。人間生活は言葉によって成り立つと言っても過言ではない。

 

『聖書』の『ヨハネによる福音書』の冒頭に、「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき」と記されてゐる。

 

一切の最始原は言葉であり、神は言葉であり、萬物は言葉=神によって成ってゐる即ち言葉が事物の本質であるといふ宣言である。すべての存在は言語・言葉を通じて表現される。神も「神」といふ言葉がなければ存在が表現されない。

 

「言葉がすべての事物の本質である」といふ思想は、仏教においても説かれてゐる。弘法大師・空海は、「内外の風気(ふうき)わずかに発すれば、必ず響くを名づけて声というなり」「それ如来の説法は必ず文字による」「五大にみな響きあり。十界に言語を具す。六塵ことごとく文字なり。法身はこれ實相なり」(「『聲字即實相義』)と論じてゐる。声字即ち言葉が世界と存在者の實相そのものであるといふのである。

 

道元は、「いはゆる経巻は、盡十方界これなり。経巻にあらざる時処なし。」(『正法眼蔵』第二十四『仏経』)「峰の色溪の響きもみなながら我釈迦牟尼の声と姿と」(『傘松道詠』)と説いてゐる。森羅万象すべてが仏の言葉だといふのである。

 

『ヨハネによる福音書』の「言葉」も、空海のいふ「聲字」も、道元のいふ「経巻」「聲」も、人間の発する「音」や人間が書く「字」に限定されるのではなく、大宇宙の萬有一切をさしてゐる。大宇宙の萬有一切が神の言葉であり、仏の言葉であるとするのである。

 

日本民族は、言葉を神聖視してきた。日本人は、萬物は言葉=神によって成ってゐると信じた。即ち言葉が事物の本質であるといふことを本然的に信じてゐた。

日本の國は、「言霊の幸はふ國」といはれる。日本は、言葉の霊が栄える国であり、言葉の霊の力によって生命が豊かに栄える国である、といふ意味である。日本人は、言葉に霊が宿ると信じ、言葉には生命を持ち、言葉を唱へることによってその霊の力が発揮されると信じた。

 

『御託宣』『神示』は神霊が籠り神威が表白された言葉である。『祝詞』は人間が神への訴へかけた言葉であり、『歌』も人間の魂の他者への訴へである。祝詞にも歌にも霊が込められてゐる。祝詞を唱へ歌を歌ふと、そこに宿る言霊が発動し偉大なる力を発揮すると日本人は信じた。神・人・天地自然にまでその力が及ぶのである。これが「言霊の幸はふ」といふことである。日本文藝の起源はここにある。

 

日本の古代信仰のみならずあらゆる宗教は、神や仏に対して祈りを捧げたり経典を読誦したり、題目や称名念仏など特定の言葉を唱へることが基本的行事である。

 

折口信夫氏は、「(言霊信仰とは)古くから傳っている言葉の持ってゐる霊力・魂というものを考へてゐるのであり、それが言霊、つまり言語の精霊である。祝詞には勿論これがあると信じてゐた。…言葉そのものに威力・霊魂があると考へた。それが言霊である。それは唱辭(トナヘゴト)以外、…抒情詩其他のものゝ上に皆あると信じたのである。古い物語を語るとその内の霊魂が動き出す、歌を歌ひかけると、その歌のうちにひそんでゐる霊魂が働きかけると信じてゐたのである。」(『古代人の信仰』)と論じてゐる。

 

「言霊のさきはふ國」といはれるわが國においては、祝詞や歌は何よりも大切な神への捧げものとされた。日本文藝の起源は、神への訴へかけである。やまとうた・和歌は神聖な文藝であると考へられてゐた。神に対してだけでなく、恋人や親や死者など他者に対する何事かを訴へかけが、日本文藝の起源である。

 

他者に対して何事かを訴へるものが「歌」であり、何事かを語りかけるものが「物語」である。「うた」の語源は、神様に何事かを「訴へる」といふところから来てゐる。神に自分の心・神への願ひ事を訴へることが歌の起源である。

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千駄木庵日乗十二月二日

午前は、諸雑務。

午後は、原稿執筆の準備。

この後、施設に赴き、母に付き添う。少し元気がない。

帰宅後は、資料の整理。

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2016年12月 2日 (金)

西村眞悟氏の正論

西村眞悟氏の正論を紹介します。

 

西村氏の憤怒に全く同感します。

 

四宮正貴拝

          〇

 

再び言う、承詔必謹、!

平成28121日(木)

 昨十一月三十日、
 政府は、安倍晋三首相の私的諮問機関「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」
の第五回会合を官邸で開き、「専門家16人」からの意見聴取を終了した、と報じられ、
翌十二月一日の朝刊(産経新聞)には、その「専門家16人」の
 天皇陛下の譲位に関する意見が
「有識者会議のヒアリング対象者の見解」という一覧表で掲載された。
その一覧表とは、各ヒアリング対象者の天皇陛下の譲位に関する賛否の意見が、
 賛成、反対×、その他
で示されている。

 同じ十一月三十日、
 五十一歳の誕生日を迎えられた秋篠宮が記者会見に応じられ、
天皇陛下の八月八日のお言葉に関して記者の質問に応えられた。
次のお考えが掲載されている。

 「長い間考えてこられたことをきちんとした形で示すことができた、
 これは大変良かったことだと思いますし、
 様々な制限がある中で、
 最大限に御自身の考えを伝えられたのではないか
 と考えております。」

 この秋篠宮のお言葉は、十月二十日の地久節において
皇后陛下が発表された次のお言葉に対応するものである。

 「皇室の重大な決断が行われる場合、
 これに関わられるのは皇位の継承に連なる方々であり、
 その配偶者や親族であってはならない
 との思いをずっと持ち続けておりましたので、
 皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上でなされたこの度の陛下の御表明も、
 謹んでこれを承りました。」

 従って、秋篠宮のお言葉は、
皇后陛下が、「皇室の重大な決断が行われる場合」に「これに関わられる方々」
として挙げられた、「皇位の継承に連なる方」として
天皇陛下から御相談を受けてこられたうえでの言葉である。

 さて、本稿の冒頭に改めて「有識者会議」が、
安倍総理の「私的諮問機関」であること、
その正式名称が、
「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」であること、
その上で、
この有識者会議が、専門家を招いて意見をヒアリングし、
その意見が、×、で報道されたこと、
を記した理由は、
 
 この三つの要素を総合すれば、
安倍内閣とこの「有識者会議」が、
本人達の主観的意図はともかくとして、
昭和二十二年五月三日施行された「憲法の下僕」として、
我が国の天皇と皇室を、
このGHQ憲法の枠に閉じこめるためにあることを端的に示しているからである。
そもそも、GHQ憲法の次元に、
万世一系の皇統を受け継ぐ天皇の御存在は納まるはずもない。
その「GHQ憲法」の為に日本と天皇があるのではない。
 しかるに、無理にそのGHQ憲法の枠内で議論するために、
の名称が付けられた。
馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
いや、不敬ではないか。
何故なら、
天皇陛下は、
宮中の祭祀が天皇の本質的なおつとめであることを踏まえられたうえで、
「国民のために祈り、国民によりそう」、という重要なおつとめが、
加齢の故に若いときのようにはし難くなったことに懸念を表明されたのである。
 それを、「天皇の公務の負担軽減」とは何か!
 御真意を曲解すること甚だしいと言わざるを得ないではないか!
 有識者会議は「国民のために祈り、国民によりそう」天皇のおつとめを、
 今上陛下が「天皇の負担」と思われ、
その「負担の軽減」をお望みになって、
八月八日のお言葉を発せられたとでも思っているのか!

また
それが総理大臣の私的諮問機関とは何か。
かつて、憲法第1条を引きあいに出し、
「天皇の地位は国民の意思に基づく」から
政権を取った自分たちの意思に天皇は従わねばならないとして、
国家元首でもない習キンヒラという男と天皇の会見を強引にセットした者がある。
安倍総理もこの事例通り、
総理大臣は、天皇の上位にあって、天皇の譲位を、
「認めてやる」か「認めない」かを決めてやる立場にあると思うのか。
私的諮問機関なら、
総理の気に入らない者を「有識者」にする必要はない。
従って、昨年の戦後七十年決議の時に招いた中西輝政京大名誉教授を、
今回「有識者」から外した理由も合点がゆく。
しかし、気に入るものだけを集める「私的諮問」なら、「私的」にやれ。
専門家を仰々しく官邸に呼び込んでするべきではない。
山口県の私邸でやれ。

さらに
街頭の通行人のインタビューではあるまいに、
天皇の譲位というやんごとなき高貴な地位に関する「専門家」の意見が、
×で報道されるとは恐れ入る。
×でやるなら、GHQ憲法の規定に忠実に従って、
有識者は毎日、全国各地の街頭に立って、
通行中の「主権の存する国民」にインタビューして
×の集計をしたらどうか。
また、「専門家」なら、
そんな軽薄な「私的諮問」で意見を言うのは、
「専門家」の名が廃る、と言って、以後「出演」を断ってはどうか。

 これに対して、
同じ十一月三十日に明らかにされた
皇后陛下のお言葉に続く秋篠宮のお言葉は、
我が国開闢以来、万世一系百二十五代の皇統を歴代継承してきたって今日に至る
皇家の家訓に基づくものである。
 即ち、ともに、
聖徳太子の十七条憲法三に曰く、承詔必謹、に帰結するお言葉である。

GHQ
憲法の為に、日本があり天皇があるのではない。
万世一系の天皇を戴く我が歴史の中に流れる清流の如き、
眞の憲法に目覚めよ。
皇后陛下と秋篠宮の言われる通り。
それは、承詔必謹、!

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「古典の精神」「國體精神」の回復と維新

保田與重郎氏は次のやうに論じてゐる。

 

「國學者の考へた古典論は、文化論と同一であり、國體論と一體であった。彼らはさういふ古典論の護持によって、本質的な討幕攘夷の思想を了知したのである」「國學者は、文化と精神の問題に身を置いてゐたから、四邊を考へることなく、始めより人心の内部の尊攘運動展開したものである。國學者の古典論は人心を先とした考へ方である。それによって彼らは御一新の思想原理をたてたのである」「西郷隆盛の遺訓に『正道を踏み國を以て斃るる精神なくば、外國交際は全かる可からず』とあるのは、單に外交のみではなくして、又文化上の問題の眞意を云ふものとして解したい。あるひは『國の凌辱せらるるに當りては、縦令國を以て斃るる共正道を踐み義を盡すは政府の本務也』と云うてゐる。正道とは古典の精神である。古典の精神とは我が国に於ては、上は國體の精神であり、國史の精神であり、又文化の精神であった。「宮廷の尊貴と文化へ歸依する心情の美學が、文化上の討幕攘夷の本領を了知した時、國學者の哲學となって四邊に影響し、復古御一新の最高の原理となったのである」「絶對的な古典としての古事記と、古典の精神を示す文藝としての古典である萬葉集を、我が古典の中の古典として決定したことは、古典時代を明らかにしつゝ、古典論を體系づける上で行はれた思想であった。維新としての古典復興を實現した原理としての國學の思想は、傳統の古典的時代といふ考へ方を押しつめて、古典論といふ思想を明らかにし、文化思想上の討幕攘夷の中核を結成したものである」(『國學と古典論の展開』保田與重郎全集第二十巻所収)

 

現代における「討幕攘夷」とは戦後体制の打倒である。西郷隆盛の言った「正道」とは古典の精神であり國體精神であるといふのは卓見である。「討幕攘夷」即ち戦後体制打倒の根柢のなければならないのは尊皇精神である。保田氏が言はれる「宮廷の尊貴と文化へ歸依する心」である。幕末期と同じやうに内憂外患交々来たると言って状況の今日において、まさに幕末と同じやうに「古典の精神」「國體精神」即ち『古事記』『萬葉』の精神に回帰し、國學が復興しなければならない。まさに「本立ちに道生ず」なのである。

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千駄木庵日乗十二月一日

午前は諸雑務。

午後は、来客あり。書状執筆。

この後、施設に赴き、母に付き添う。やや元気回復。安心する。

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆。

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2016年12月 1日 (木)

天皇陛下が、『現行占領憲法』の制約を受けることはあり得ない。

「西洋成文憲法は権力に対する制限規範である。権力は放っておくと濫用されるので、為政者の手を縛る必要がある。イングランド最悪の王と言はれるジョン王と諸侯との間で結ばれた『マグナ・カルタ』(大憲章)が西洋成文憲法の起源であり、『国王も法の下にある』といふ原則=「法は王権に優越する」という法治主義を確立した」とされる。

 

日本天皇の国家統治の本質は、権力・武力による国家・国民支配ではない。神聖なる権威による統治である。むしろ、天皇の神聖なる権威が権力者・為政者の権力濫用を抑制するのである。それがわが国の建国以来の國體であり歴史である。また、天皇の「仰せごと・みことのりが」わが國における最高の法である。天皇が成文法の下にあるなどといふ事は絶対にあり得ない。また、わが國の最高の成文憲法は、「天壌無窮の御神勅」である。

 

「現行占領憲法」は、その法思想・理念もアメリカの押し付けであるから、「マグナ・カルタ」を起源とする西洋成文憲法思想に貫かれている。日本天皇は、権力を濫用して国民を苦しめるジョン王などの西洋専制君主とは全くその本質を異にする。「現行憲法」は、わが國體とは相容れない。

 

また、「祭祀國家日本の祭祀主・天皇」に関する神聖なる事柄は、世俗の法律問題・政治問題ではない。即ち決して『現行憲法』が規定する「政治権力作用としての國政」ではない。政治権力や成文法によって、「祭祀國家日本の祭祀主・天皇」を規制し拘束し奉るようなことがあってはならない。

 

わが國においては、成文法が基となって國體が成立するのではない。國體が基となって成文法が成立するのである。

 

天皇は、権力や成文法を超越された神聖なるご存在である。従って、天皇陛下の「詔」は、臣下國民が従ひ奉るべき絶対の「法」である。

 

今上陛下が今年八月二十二日の「玉音」はまさに「詔」である。安倍晋三内閣総理大臣をはじめわが國の政府・政治家はこの事を正しく認識し、陛下の大御心にこたへ奉るべきである。

 

繰り返し言ふ。成文憲法及び成文法そしてそれに基づく政治権力機関は、天皇國日本の道統を破壊したり否定した制約したり隠蔽する権限は全くないのである。むしろ天皇國日本の道統に即した憲法及び法律そして権力機関であらねばならないのである。

 

戦勝國によって押し付けられた『占領憲法』の制約下に、上御一人日本天皇を置き奉る事があっては絶対にならない。天皇の「詔」「大御心」が最高最尊の「法」である。「成文憲法」は「権力の制限規範である」と言はれる。であるならば、「國政に関する権能を有しない」とされる天皇陛下が、『現行占領憲法』の制約を受けることはあり得ない。

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『速水御舟の全貌―日本画の破壊と創造』展参観記

本日参観した『速水御舟の全貌―日本画の破壊と創造』展は、「このたびの展覧会では、開館50周年を記念し、当館の『顔』ともいえる御舟コレクションに、他所蔵の各時期の代表作品も加え、初期から晩年にいたる御舟の作品約80点でその画業の全貌をふり返ります。『梯子の頂上に登る勇気は貴い、更にそこから降りて来て、再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い』と語り、新しい日本画を目指して努力と挑戦を続けた御舟は、40年という短い人生の中で、一つのところにとどまらず、生涯を通して新たな表現に挑み続けた画家でした。本展では、研鑽を積んだ修業時代や画塾の兄弟子・今村紫紅の感化を受けた時代から始まり、洋画家・岸田劉生や西洋画、宋代院体花鳥画などへの意識から生まれた写実への追求、代表作《炎舞》以後の新たな日本画への挑戦、さらに渡欧後に取り組んだ人体表現や晩年の水墨による花鳥画に至るまで、御舟の各時期の代表作品を集めて展示いたします。当館の御舟コレクションと他所蔵の御舟の名品が一堂に会する23年ぶりの大回顧展です」(案内文)との趣旨で開催された。

 

《炎舞》《名樹散椿》《洛北修学院村》《京の舞妓》《菊花図》《鍋島の皿に柘榴》《鍋島の皿に柘榴》《翠苔緑芝》《名樹散椿》《円かなる月(絶筆)》《花ノ傍》《昆虫二題》《紙すき場》などを参観。

 

どの作品も写実が見事であった。特に昆虫類や果物や草花の写実は、ただ写実しただけでなく対象の生命と言うか魂と言うべきものを写しとっているという感じである。徹底した写実にして写実にあらず、「命」を活写している。生命の讃歌になっていると思った。絶筆の《円かなる月》は、皇居前の松と月が描かれていた。松の緑と銀色の月の色彩が美しく幽遠な作品となっている。《名樹散椿》《翠苔緑芝》は、琳派の伝統を受け継いだ絢爛たる色彩で描かれた屏風絵であった。

 

代表作の《炎舞》(重要文化財)は燃え上がる赤い炎とそこに乱舞する蛾が描かれている。これも写実と言うよりも幻想美の世界になっている。速水御舟は近代日本の画家の中でも、一種独特の世界を創造していると思う。四十歳で亡くなったのが惜しまれる。

 

《埃及土人之灌漑》という作品があった。昭和五年に渡欧した時、御舟はイタリア、ギリシャ、フランスなどの他、ナイル河氾濫期のエジプトにも訪れた。その時の作品である。働いているエジプト人が描かれている。最近、「土人」という言葉が差別語であるなどという議論があったが、御舟は差別意識があってこういう画題にしたのではないのは当然である。

 

私は毎年十一月には、必ず山種美術館を参観する。展覧会を見るのも楽しみであるが、この美術館で制作しているカレンダーを購入するのも目的である。カレンダーを書斎に掛けてその絵画を見て心を癒すのである。

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千駄木庵日乗十一月三十日

午前は、諸雑務。

午後は、広尾の山種美術館で開催中の『速水御舟の全貌―日本画の破壊と創造』展参観。

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆。

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