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2016年11月15日 (火)

政治家の尊皇心

 わが國の愛國心の根底にあるのは、天皇仰慕の心である。わが國は、天皇を中心とした神の國である。そして、日本天皇の國家統治の御精神は決して排他的ではない。憎悪でもない。君民一体・萬邦共栄・四海同胞・八紘一宇の精神である。それはわが國の歴史の寛容性・平和性・包容性を見れば明らかである。それは、わが國の神話の精神・天皇の祭祀の精神である。一切を神として拝む精神である。わが國の愛国心は、祭祀主として無私の御存在であらせられる天皇への仰慕の思いと一体である。

 

 現下日本の政治・行政の混迷の原因は、政治家や官僚に「尊皇愛國の心」が希薄になっているからである。政治家や官僚は、日本國の神聖なる君主であらせられ日本國民の道義精神を体現されている祭り主・日本日本天皇へのかしこみの心が基本になければならない。政治家や官僚に「天皇の臣下」という自覚があれば、極悪非道なことはできない。

 

 昭和十年に起こった第二次大本教事件で、逮捕された大本教の幹部多数は、当局側の凄惨なる拷問に遭い多くの人が獄死したり精神に異常を来したりした。裁判で、弁護側が警察官を呼び出してこの問題を追及すると、警察官は否定した。これを聞いていた出口すみ大本二代教主(教祖・出口なおの五女)は、「そちらは天皇陛下の番頭ではないか」と激しく迫った。「天皇の臣下であるのなら嘘をつくな」と迫ったのである。警察官はいずれも色を失い、裁判長はあわてて公判を一時停止したという。(出口京太郎氏著『巨人 出口王仁三郎』・出口栄二著『大本教事件』)

 

 天皇の臣下という自覚が官僚に道義心を回復させた実例である。今日の政治家・官僚のみならず一般國民にも、天皇の臣下・天皇の民としての自覚の回復が大切である。

 

 戦後の宰相と言われる人物に尊皇精神は強固であった人がいた。昭和二十七年十一月十日、今上天皇が立太子の礼の時、吉田茂総理大臣は寿詞(お祝いの言葉)で、自らを「臣 茂」と読み上げた。吉田茂氏は、天皇の臣下であるという自覚・矜持があったのである。

 

 さらに、吉田茂氏は、昭和二六年の「サンフランシスコ講和条約」調印式出席の心境について、「唯奉敕使萬里外 五洲視聴聚一身」と揮毫した。

 

 「占領憲法」には「主権在民」と規定され、曲學阿世の憲法學者にの中には「日本の元首は内閣総理大臣だ」などと論ずる輩もいるのに、吉田氏は天皇の臣下としての自覚と矜持を持っていた政治家であり、まさに昭和の忠臣と言って良いであろう。

 

 だからこそ、昭和天皇は昭和三十年に次のような御歌を詠ませられているのである。

 

「 小田原に往復の折、吉田茂元首相の家の前を通りて詠める

 

往きかへり枝折戸を見て思ひけりしばし相見ぬあるじいかにと」

 

 昭和天皇と吉田茂元総理との関係はまさに、「君臣水魚の交わり」に近い麗しい関係だったのではないかと考える。

 

 天皇陛下に対し奉り、吉田茂元総理と正反対の考えを持っていたのが、後藤田正晴氏である。後藤田氏は、平成十二年十二月五日号の『日本経済新聞』で、中央省庁再編に関するインタビューに答えて、「まず大臣という名前を変えたらどうか。だれの臣下ですか?行政の長なんだから『長官』でいい」などと述べた。

 

 これは天皇を君主と仰ぐ神代以来の日本國體を否定し、さらに「現行憲法」体制においても日本は立憲君主國であるという事実を否定する許しがたい発言である。社民党や共産党や極左分子がこのような発言をするならともかく、警察庁長官・内閣官房長官・自治大臣・内閣副総理を歴任し体制側の頂点に立ったと言ってもいい政治家が、國體否定の思想をもっていたのである。

 

 後藤田は、警察庁長官という厳正中立であるべき治安機関の最高責任者を務めたにもかかわらず金権政治家田中角栄の大番頭となった倫理観・道義心の欠如した人物であった。

 

 昭和四十八年五月二六日、増原恵吉防衛庁長官(当時・後藤田氏と同じ旧内務官僚で後藤田の先輩にあたる)は、昭和天皇に「当面の防衛問題」について内奏した際、昭和天皇は、「近隣諸國に比べ自衛力がそんなに大きいとは思えない。國會でなぜ問題になっているのか。防衛問題は難しいだろうが、國の守りは大事なので、旧軍の悪いことはまねせず、いいところは取り入れてしっかりやってほしい」とのお言葉を賜った。陛下のこのお言葉を増原長官が記者たちに話したことが、例によって政治問題化し、「天皇の政治利用だ」との批判を受け、増原氏は防衛庁長官を辞任した。

 

 この時、増原氏は「天皇陛下という文字を見ただけで涙が出てくる私が、陛下を政治利用するはずがない」ということを言った。増原氏はさぞや断腸の思いであったろう。

 

天皇陛下・皇室のことを思うと自然に涙が出てくるというのは「忠良なる臣民」の自然の姿である。増原氏は真に忠臣であったのである。

 

 岸信介氏も尊皇精神の持ち主であった。第一次安保騒動の時、アイゼンハワー米大統領の訪日延期を要請した時のことを、岸氏は次のように語っている。「あの頃警察官は本当に疲れ果てていた。機動隊の数も少なく、装備も悪いし、訓練もしていない。……陛下ご自身が(注羽田にアイゼンハワーを)お迎えに行かれなければならない。そういう警備を考える時、これはできない、もし何かの間違いが生じたら、総理が本当に腹を切っても相済まない、それで私としてはどうしても警備に確信がもてないと思って(注アイゼンハワー訪日を)断ったんです」(『岸信介の回想』

 

 つまり、自分の一身はどうなってもいいが、羽田空港に大統領を出迎えに行っていただいた陛下の御身に萬一のことがあったら死んでも償い切れないということで、アイゼンハワー訪日延期を決定したのである。そして岸内閣は総辞職したのである。      

 

 第一次安保騒動の警備に出動した経験のある元警察官の話によると、「夜は國會の面會所の地下室に仮眠させられた。ここが襲われだらどうしようという思いにかられた」と話していた。

 

 また、サイパンが陥落した後の昭和十九年七月、岸信介氏が東條英機総理と決定的に対立した際、身分は一大佐である四方諒二東京憲兵隊長が、商工大臣である岸氏の家を訪れ、軍刀を立て、「東條総理大臣が右向け右、左向け左と言えば、閣僚はそれに従うべきではないか、それを総理の意見に反対するとは何事か」と脅迫した。岸氏はそれに対し、「黙れ兵隊!お前のようなことを言う者がいるから、東條さんはこの頃評判が悪いのだ。日本において右向け右、左向け左という力を持っているのは天皇陛下だけではないか。それを東條さん本人が言うのならともかく、お前たちのようなわけのわからない兵隊が言うとは何事だ、下がれ!」と一喝して追い返した。(『岸信介の回想』)

 

 このように岸氏という人はきわめて強い尊皇精神と気骨を持った人であった。今の政界にこういう政治家はいるだろうか。  

 

 岸氏の弟の佐藤栄作氏は総理退任後、侍従長になることを切望したと伝えられる。吉田氏にも岸氏にも佐藤氏にも、「天皇の臣下」としての深く強い自覚と責任感があった。

 

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