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2016年11月15日 (火)

国学の精神と言霊思想

 

 『萬葉集』に収められている「柿本人麿歌集」の長歌に、「葦原の 水穂の國は 神ながら 言擧せぬ國…」と歌われている。「わが国は神のみ心のままに生きる国であるから、言挙をしない国…」という意である。日本国の古代信仰においては、日本は全て神のみ心のままに生きていく国であると信じられていた。ゆえに、日本人はあえて自己主張をしないのである。この歌はそういうことを歌っているのである。

 

 しかし、日本民族は言葉を軽視したのではない。この長歌の反歌(長歌のエッセンスを歌った短歌)に「しき島の日本(やまと)の國は言靈のさきはふ國ぞまさきくありこそ」(大和の国は言葉の霊が助けて下さる国です。ご無事でいらっしゃい、というほどの意)と歌われているように、日本人は、言葉は霊が宿り人間を助けてくれると信じていた。古代日本人は、言葉には大きな力(霊力)があると考えた。そこから言霊思想が発生した。言葉は、それほどに大切なものであるからこそ、軽々しく言葉を発しないという信仰を持ったのである。みだりに理論や理屈をあげつらうことはしないという生活態度は、萬葉時代即ち古代以来の日本人の基本的姿勢だった。 

 

 近世国学者平田篤胤はその著『古道大意』において、「一體、眞(まこと)の道と云ふものは、事實の上に具(そなは)って有るものでござる。然(しか)るをとかく世の学者などは、盡(ことごと)く教訓と云ふ事を記したる書物でなくては、道は得られぬ如く思(おもう)て居るが多いで、こりゃ甚だの心得ちがひな事で、教(をし)へと申すものは、實事よりは甚下(ひく)い物でござる。其故は、實事が有れば教へはいらず、道の實事がなき故に、をしへと云ふことがおこる。」と論じている。

 

 意訳すれば、「一体、まことの道というものは、事実の上に備わっているものである。それなのに世の学者は、ことごとく教訓が書かれている書物を読まなくては、道を体得することはできないと思っているのが多い。これは非常に心得違いである。教義・教訓というものは事実よりも甚だ低いものである。その理由は、事実があれば教訓はいらない。道の事実が無いがゆえに教義・教訓が起こってくる」というほどの意である。

 

 「道」は、国の歴史の上に厳然として事実として示されているのであって、外来の儒教や仏教の経典を読まなくては『道』を求めることはできないという考え方は誤りである。むしろ、歴史の事実の上に『道』が現れていないからこそ、書物に書かれている「教義・教条」に頼らねばならないのである。

 

 そもそも教義とか教条というものは、具体的な歴史の事実の上に立って抽象的に論議として出て来たものである。だから、その教義・教条が記された書物のみを読み、知識として吸収し、それのみに頼ろうとする姿勢は、道を体得することにはならない。 

 

 現代においても、ある特定の人物の説いた教義・教条を絶対のものとして尊崇し、それに反する思想を排斥する勢力はまだまだ多い。かつて田中忠雄氏は、こうした人々を「狐憑き」ならぬ「イデオロギー憑き」と定義づけた。共産主義者は、マルクス・レーニン主義を絶対の思想としそれ以外を排斥した。こうした勢力がどれだけ多くの人々を苦しめ、不幸にしてきているかは、それこそ歴史を見れば明白である。もはやかくの如きイデオロギー至上主義では混迷せる現代を救うことはできない。むしろ混乱と不幸を増大せしめるだけである。日本の神ながらなる理想を今日において実現することが大切である。

 

 理論のあげつらいつまり人間の有限知を基盤とした哲学的思考によって得られた認識が、どれだけ宇宙や人生や歴史の真実を説き明かすことができるのか。まずこのことを疑ってかかる必要がある。宗教家の神学的・教義的考察、そして科学者の研究によって得られた知識が、どれだけ宇宙の真実に一致しているかを反省する必要がある。こういう疑問や反省を忘却した人間の傲慢さが今日の文明的危機を招いていると言えよう。

 

 倉前盛通氏は、「日本人が『言挙げ』といい『さかしら』といい『あげつらい』という場合には、人間の言葉そのものの中に、すでに宇宙の奥底に潜む原理から遊離したものを本質的に含むという意味を表わしている。言葉が一つに概念規定をした場合、その概念規定という作業そのものの中に本質的に挙行の要素、誤差、ずれというような諸々の過ちが混じってくる避けることはできない、という意味である」(艶の発想)と論じておられる。

 

 人間の思考や研究の成果としてつくりあげられた理論・教条は、宇宙の真実とは虚構や誤差やずれがある。にもかかわらず、傲慢にも、自然や宇宙や人生を全て人間の作りあげた論理や科学研究によって説き明かこれを改造できるなどと考えたことが、美しい自然を破壊し、人類の生命をも脅かすに至った根本原因である。しかし、日本民族は、既に古代において、人間のかかる傲慢さを反省し、自覚していた。

 それが、古代日本人の「葦原の 水穂の國は 神ながら 言擧せぬ國…」という歌なのである。日本人は、あるがままの自然に素直に随順し、人間と自然は相対立する存在とは考えないで、人間が自然の中に入り、人と自然とは生命的に一体であるとの精神に立つ。

 

 日本人は自然そのもののみならず、歴史からも「道」を学んだのである。わが国に伝わる「道」は歴史に現れているのだから、体系としての世界観や人倫思想基礎を人為的に「さかしらなる知識」をもって言挙し作りあげなくとも、日本の国の歴史の事柄・事実に学べばよかったのである。

 

 歴史や自然を対立的にとらえて、論理や教条を振り回して自然や宇宙や人生や歴史の本質を説き明かそうなどという不遜な考えは持たなかった古代日本人の基本的な姿勢を、現代において甦らせることが必要なのである。

 

 近世国学者が、外圧の危機に中で行ったように、古代日本の歴史精神として今日まで伝えられてきている「道」を、そのままありのままに学び、今日において明らかにすることによって、現代の危機を打開することが、我々の志である。

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