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2016年11月19日 (土)

『大日本帝国憲法』第一条について

伊藤博文は、その著『憲法義解』において、「恭て按するに天皇の宝祚は之を祖宗に承け之を子孫に伝ふ国家統治権の存する所なり而して憲法に殊に大権を掲けて之を条章に明記するは憲法に依て新設の義を表するに非すして固有の國体は憲法に由て益々鞏固なることを示すなり」と論じた。

 

天皇の国家統治の大権を成文憲法に明記するのは、「新設の義を表するに非すして固有の國体は憲法に由て益々鞏固なることを示すなり」と論じてゐるところが大事である。天皇は、「成文憲法」に基づいて国家を統治されるのではないことを明確に示したのである。

 

「第一条 大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」

 

この条文について伊藤博文は、「皇統一系宝祚の隆は天地と与に窮なし本条首めに立国の大義を掲け我か日本帝国は一系の皇統と相依て終始し古今永遠に亘り一ありて二なく常ありて変なきことを示し以て君民の関係を万世に昭かにす。統治は大位に居り大権を統へて国土及臣民を治むるなり古典に天祖の勅を挙けて瑞穂国是吾子孫可王之地宣爾皇孫就而治焉と云へり」と論じ、天皇の国家統治は、『天壌無窮の御神勅』に基づくことを明示した。

 

『大日本帝国憲法』において「しらしめす」の漢語表現として「統治」という言葉を用いた。そしてこの「統」という言葉は統べる(統一する)という意であり、「治」は治める(本来の位置に置く)という意である。明治天皇が明治元年三月十四日に発せられた『明治維新の宸翰』に「天下億兆一人も其處を得ざる時は、皆朕が罪なれば…」と仰せになっている。このお言葉こそまさしく「治める」の本質なのである。無私と慈愛というまさに神の如き御心で日本を統治されるお方が日本天皇であらせられるのである。

 

 

「治める」ということについて大原康男氏は「『ヲサ』『ヲサム』を『すべて散在してるものを一つにまとめること、或ははなれてゐるものを一つにすること』とする…『乱れた糸の筋を揃え、秩序正しく物みなその所を得る』という意義を有する漢語の『治』と『正しい位置を与える』意のregieren床の『をさむ』は、語義において相通ずるものをもっているといえよう。『ヲサム』は『一定の階層秩序と強制の体系』を内容とする普遍的“統治”概念語であるということができる」(現御神考試論)と論じておられる。

 

すなわち、天皇が日本国を治められるのは、日本国の生きとし生けるもの・ありとしあらゆるものにその所を得さしめることなのである。明治天皇の『天下億兆一人も其處を得ざる時、皆朕が罪なれば、…』(明治元年三月十四日に示された『明治維新の御宸翰』)という御精神こそ天皇統治の本質であると拝する。

 

さらに明治陛下はその御宸翰で、『朕身骨を労し心志を苦め艱難の先に立、古(いにしえ)列祖の盡させ給ひし蹤(あと)を履み治蹟を勤めてこそ始て天職を奉じて億兆の君たる所に背かざるべし』と仰せになっている。

 

日本天皇は、『朕は国家なり』と言うような国家国民を私物化する西洋的な絶対専制君主とは全くその本質を異にする。日本天皇は天津神の御委任により「天職を奉じて」日本国に君臨されているである。故に天皇は常に無私の心で統治されるのである。無私の心とは神の御心のままということである。さらに御歴代の天皇の踏み行われた道を継承されることを心がけられるのである。そのことがそのまま億兆の民にその所を得さしめる事即ち国民の幸福実現となるのである。

 

明治天皇の外祖父中山忠能前権大納言は、明治天皇御即位に当たって、「そもそも皇国は天照皇大神の御国で、天子をしてこれをあずからしめてあるので、至尊といえども吾物と思召ては、自然御随意の御処置に押移るべく、…」と言上したという。

 

天皇の国家統治とは権力・武力を以て民を屈従せしめ私物化することではないのである。日本天皇の無私の精神および神聖なる権威はかかる御精神から発生するのである。

 

支那においては、天を以て帝権の象徴とし、地を以て民衆に擬し、天と地とは相対立する相対的関係のあるととらえ、天子たる皇帝はは民衆を上から見下ろし支配すると考えている。しかしわが国においては、天子たる天皇は天の神の御子として地上に天降られ、国民もまた神々の子孫であり、天皇は一大家族国家の中心であると考えている。簡単に言えば支那においては天子は権力と武力によって国民を支配し、日本においては天皇の信仰的権威によって国民を慈しむのである。この違いは支那と日本の国家の成り立ちとその後の歴史の違いによると思われる。 

 

天皇が日本伝統信仰的中心者として君臨するということは、現実政治に全く関わりを持たれないということではない。むしろ無私にして清らかな天皇の御存在が国家の中心にいまし、常に国家の平安と国民の幸福を神に祈る祭祀を続けられているということが、政治のみならず日本国のあらゆる物事の安定と調和と統一の核となり、道義性の維持の基となって来た。その尊い事実が天皇の国家統治そのものなのである。

 

混迷の極にある現代日本を救うには、統治者としての天皇の御本姿を回復することが大切であると考える。復古即革新=維新とはそういうことを言うのである。 

 

ともかく井上毅・伊藤博文などの先人たちは、日本の國體を根幹としつつ近代成文憲法を実に苦心して作りあげたのである。大日本帝国憲法は決してドイツから輸入した翻訳憲法ではなかったのである。大日本帝国憲法は、明治維新の輝かしい歴史の所産であり、日本国民の政治的良識の結晶であった。

 

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