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2016年10月 3日 (月)

大橋訥庵・梁川星厳の幕府批判と徳富蘇峰の正論

大橋訥庵(江戸後期の儒学者。文久二年、坂下門外の変の実質的指導者として捕縛され、拷問により死去)は、「幕府果して能く天朝を崇敬し、征夷の大任を顧みて、蛮夷の凌辱を受ることなく、神州に瑕瑾を付けず、然ればそれより大功と云ふ者なきゆえ、天朝にて眷顧を加へて優遇し玉ふべき、固より論なし。然るに後世の幕府のさまは、余りに勢威の盛大なるより、天朝を物の数とも思はず、恭遜の道を失ひ尽して、悖慢の所行甚だ多し。且や近年に至るに及んで故なく夷蛮に腰を屈して、国の醜辱を世界に顕し、開闢以来になき瑕瑾を神州に付けたれば、其罪細少のことと云んや。」(『文久元年九月政権恢復秘策』・徳川幕府が、天皇・朝廷を崇敬し征夷大将軍の使命を正しく果たしてゐれば、外敵の凌辱を受けることなく、神国日本を傷つけることもない。さうであれば大変な功績である。しかし今の幕府はあまりに威勢が大きいので、朝廷をものの数とも思わず、朝廷に対して慎み深くする道を失ひ、驕慢の所業が甚だ多い。しかも近年理由もなく外敵に屈して、国が辱めを受けることを世界に示し、日本国始まって以来無かったやうな傷を神国日本に付けた。その罪は小さいなどと言ふことはできない、といふ意)と論じた。

 

これは、徳川幕府が、天皇・朝廷を物の数とも思はず、軽んじて来たのに、肝心要の外敵を征伐するといふ「征夷大将軍」の使命を果たすことができないといふ、まさに徳川幕府最大の罪を追及した激烈な文章である。明治維新といふ尊皇倒幕・尊皇攘夷の一大変革の基礎理論を主張してゐる。

 

梁川星厳(江戸末期の漢詩人。梅田雲浜・吉田松陰などと交流があったため、「安政の大獄」で逮捕されるはずであったが、大獄の直前に逝去)は、徳川幕府がペリーの恫喝に恐怖し、何ら為すところなく、安政五年(一八五八)に『日米修好通商条約』を調印したことに憤り、次の詩を詠んだ。

 

「紀事

當年の祖(だいそ)氣憑陵(ひょうりょう)、

風雲を叱咤し地を卷きて興る。

今日能はず外釁(がいきん)を除くこと、

征夷の二字は是れ虚稱。」

(その昔、なんじ(徳川氏)の祖先(家康)の意気は、勢いを盛んにして、人を凌(しの)いでゐた。大きな声で命令を下し、風雲を得て、地を巻き上げて、勢いよく興った。 今日(こんにち、)外敵を駆除することができなければ、徳川氏の官職である征夷大将軍の「征夷」の二字は、偽りの呼称呼び方になる、といふ意)

 

徳富蘇峰氏はこの詩を引用して、「(ペリー来航は・注)一面外国の勢力のはなはだ偉大なるを教え、一面徳川幕府の無能・無力なるを教え、かくのごとくにして徳川幕府は恃むに足らず、恐るるに足らず、したがって信ずるには足らざることの不言の教訓を、実物をもって示した…(天皇は・注)現つ神の本面目に立ち還りここにはじめて京都における朝廷自身が、実際の政治に関与し給う端緒を開き来った。…政権の本源は朝廷にあることを朝廷自身はもとより、さらに一般国民にも漸次これを会得せしめ」(『明治三傑』)た、と論じでゐる。

もともと戦國時代の武士の覇権争ひの勝者・覇者であった徳川氏は、その力を喪失してしまへば、国の支配者たるの地位も失ふのである。

 

外交問題とくに国家民族の独立維持・国家防衛といふ国家の大事に自ら決定し、実行することができなくて、京都の朝廷にお伺いを立て、各藩諸侯らに諮問するに至って、徳川幕府は完全に幕府としての資格を失った。従って、この後の幕府はその存立及び権力行使の正統性を喪失したと言っても過言ではない。『安政の大獄』などの維新勢力弾圧は、全く正統性の無い権力による悪逆非道の暴挙であった。

 

今日の外患の危機も、日本国民が、天皇中心帰一の國體精神を正しく体得し、強い愛国心を持つことによって打開できると確信する。

 

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