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2016年10月11日 (火)

尊皇精神・勤皇精神の體現者が楠正成公である

尊皇精神とは、日本國の祭祀主であられ神聖なる君主であられる天皇への「かしこみの心」である。そしてそれは日本人の道義精神の根本である。 

 

尊皇精神・勤皇精神の體現者が楠正成公である。日本國民の「楠公崇拝」即ち楠正成を尊崇する心とは、楠公の絶対尊皇の精神と行動に共感する心である。

 

久保田収氏は、「『太平記』四十巻の中で、近世の人々が最も感動深く読んだものは、正成の活動と忠誠とであった。正成が天皇の御召しを受けて参上し、力強く決意を申上げたこと、千早の険に拠って、北条氏の大軍を向こうにまわして、…奮戦し…中興の糸口をつくったこと…七生報國の志を残して、湊川で戦死したことなど、正成が死生を超越し、一意至誠をもって天皇に捧げた純忠の精神は、読む人に深い感動を与え、正成への憧憬と、その志をうけつごうとする決意とを生み出したのである。…天和二年(一六八二)に亡くなった山崎闇斎…の學問の流れを汲んだ若林強斎が、その書斎を望楠軒といって、楠公を崇拝する気持ちを明白にし、正成が『仮にも君を怨みたてまつる心おこらば、天照大神の御名を唱うべし』と申したということに感じて楠公崇拝の心をおこした、と傳えている…強斎は、このことばが『わが國士臣の目当』であると考え、正成を日本人の理想像として仰いだのである。」(『建武中興』)と論じてゐる。

 

足利高氏軍が兵を率いて九州から進攻して来た時、楠正成は、後醍醐天皇に「比叡山に行幸して頂き、正成も郷里の河内に馳せ下り、畿内の兵を以って淀の川尻をさし塞ぎ、物資の都への流入を断ち、敵を兵糧攻めにして苦しめ、その間に義貞と正成とで敵を挟撃すれば、必ず勝利を収めることができる」と献策した。

 

しかし、その献策は朝廷の容れるところとならなかった。『太平記』によると、正成は「討ち死にせよとの勅定ござむなれ。義を重し死を顧ぬは忠臣勇士の存る処也」と言って、五百余騎で兵庫に向ひ、見事に討ち死にした。

 

天皇は現御神であらせられ絶對的に尊ぶべき御存在である。もしも、万が一、天皇の御心や御行動が、自分の考へや思想や理想と異なることがあっても、天皇陛下を批判する事は絶對にあってはならないし背き奉る事があってはならない。むしろ自らの祈りが足りないことを反省すべきである。天皇陛下が間違った御命令を下されたり行動をされてゐるとたとへ思ったとしても、國民は勅命に反してはならずまして反對したり御退位を願ったりしてはならない、如何にしても従へない場合は楠正成の如く自ら死を選ぶべきであるといふのが、わが國の尊皇の道であり、勤皇の道である

 

『太平記』は、楠公を讃嘆して、「智仁勇の三徳を兼て死を善道に守り、功を天朝に播(ほどこす)事は、正成ほどの者は未だ有らず」と書いてゐる。また、足利高氏側近の武将が書いたとの説がある『梅松論』でさへ、「賢才武略の勇士ともかやうの者をや申べきとて、敵も味方もおしまぬ者ぞなかりけり」と楠公をほめてゐる。かかる楠公の絶対尊皇精神は、後世に大きな影響を与へた。

 

久保田収氏はさらに次のごとく論じてゐる。「明治維新のために活動した多くの志士は、ほとんど例外なく楠公に対する感激と崇敬とを抱いていた。…松陰は『七生説』を作って、正成が七度人間と生まれて國賊を滅ぼすことを誓ったことについて、『楠公兄弟、たゞに七たび生れるのみならず、初めより未だ死せざるなり』といい、『是より其の後、忠孝節義の人、楠公に見て興起せざるものなし。…』となし…人々のこころが楠公に帰一した時に、明治維新は成就したのである。」(『建武中興』)

 

高山彦九郎・有馬新七・真木和泉守保臣など維新の志士たちの楠公仰慕の心は非常に強いものがあった。楠公の絶対尊皇精神が、明治維新の戦ひに挺身した志士たちの精神的基盤であったと言っても過言ではない。

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