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2016年10月25日 (火)

天照大御神の御心である「清明心」が日本民族の外来文化・文明包摂の精神

太古以来の日本民族の精神的特性は、「清らけき明らけき心」「素直な心」「無私の精神」である。

 

中村元氏は「日本人の思惟方法のうち、かなり基本的なものとして目立つのは、生きるために与えられている環境世界ないし客観的諸条件をそのまま肯定してしまうことである。」(『日本人の思惟方法』)と論じてゐる。

 

「清らけき明らけき心」「素直な心」「無私の精神」とは、中村氏のいふ「与へられてゐる環境・条件をそのまま肯定する思惟方法」とかなり近いものがあると思ふ。

 

「与へられてゐる環境を素直に肯定する思惟方法」が、天地自然を人間と対立する存在ととらへず、天地自然を神としてまつり拝ろがむ信仰生活を生んだと思はれる。それは日本の天地自然が麗しく温和であり人間に大いなる恵みを与へる存在である事による。麗しく豊かな自然に恵まれた日本民族は、現世を肯定し、明るい太陽の下で生きてきた。日本民族は本来明るく大らかな民族である。

 

明治天皇御製

 

あさみどり澄みわたりたる大空の廣きをおのが心ともがな

 

「清明心」をうたひあげられた御製と拝する。大らかな広々とした心が「清明心」である。私心をまじえず眞澄のやうに清らかな心、それが日本人の本来の心である。

 

「清明心」は、佛教思想の影響が強まった中世になる「正直」といふ言葉になった。『早雲寺殿二十一カ条』(室町後期の武将北条早雲の教訓書)に「こころを直にやはらかに持ち、正直憲法にして…あるをばあるとし、なきをばなきとし、ありのままなる心持、持仏冥慮にもかなふと見えたり」と記されてゐる。

「正直の心」は、ありのままなる心・素直な心である。つまり清明心の中世的における表現である。

 

日本民族は、「もののあはれ」といふ美感覚を持ってゐる。「あはれ」とはうれしいにつけ、楽しいにつけ、悲しいにつけて、心の底から自然に出てくる感動のことばである。

 

「もののあはれ」とは、物事にふれてひき起こされる感動である。知的興味とは違った何かに深く感動することのできる感じやすい心のことである。自然・人生の諸相にふれてひき出される素直なる感動の心である。理論・理屈ではない。「清明心」「正直の心」を美感覚の世界における表現が「もののあはれ」といへる。

 

本居宣長に次のやうな歌がある。

 

事しあればうれしかなしと時々にうごく心ぞ人のまごゝろ

 

この宣長の歌について、村岡典嗣氏は「この眞心こそは、やがて古神道に於ける清明(あか)き心、中世神道における正直の觀念の發展せるものに外ならない。彼(註・宣長)が一切の偽善や作為をあくまでも斥け、その見地から儒教を攻撃したのもこの立場からである。」(『日本思想史研究・第四』)と論じてゐる。

宣長にはまた次のやうに歌がある。

 

眞心をつゝみかくしてかざらひていつはりするは漢(から)のならはし

 

宣長のいふ「からごころ」は、日本人本来の素直なる心・清明心・もののあはれとは正反対に位置するといふことである。

 

先人は「正直」「清明心」といふに本人の中核精神が「三種の神器」の一つである「鏡」に象徴されると信じた。

 

北畠親房は、『神皇正統記』で「鏡は一物をたくはず私の心をなくして萬象をてらすに、是非善悪のすがたあらはれずと云ふことなし。其すがたにしたがって感應するを徳とす。是正直の本源なり」と説いてゐる。

 

「清明心」は、鏡の心であり、太陽の心であり、天照大御神の御心である。この精神が、「主体性」を喪失せずに「無私」の態度で一切を包容摂取するといふ矛盾と思へるやうなことを為し得て来た原因であると思ふ。

 

「鏡」は、天照大御神の『神勅』に「吾が児、この寶鏡を視まさむこと、當に吾を視るが如くすべし」と示されてゐる通り、天照大御神の御霊代(れいだい・みたましろ)である。

 

また、仲哀天皇が筑紫に進軍された時、筑紫の県主・五十迹手(いとて)が『三種の神器』の意義を天皇に奏上した言葉に「白銅鏡の如くにして、分明(あきらか)に山川海原を看行(みそなは)せ」(『日本書紀』「仲哀天皇紀」)とあるやうに、鏡のやうに明らかに山川海原を統治されるお方が、天照大御神の「生みの御子」であられせられる日本天皇なのである。

 

「鏡」は天照大御神の広大無辺の御慈愛と曇りなき御心を表象する。天照大御神は、素盞鳴尊が悪い行為をされても、それを良く解釈された。それが太陽の明るく大いなる生命=天照大御神の御神徳である。見直し聞き直して、相手を生かされるのが天照大御神の御心である。それがまさに、日本民族の外来文化・文明包摂の心である。

 

阪本健一氏は、「天照大御神の御神徳は、弟神素盞鳴尊に対する思いやり、見直し、聞き直しの御寛容であり、下からすれば人の児の母胎に宿るが如き、何の不安もなき、絶対帰依の本尊である。」(『明治維新と神道』)と論じてゐる。

 

わが国外来文化・文明を大らかに受容したのは、我が國の建国の過程が外国の侵略即ち異民族間の武力闘争によるのはなく、祭祀的統一であったことによる。しかもその祭祀的統一とは、前述した通り、天地自然を神と拝ろがむきはめて平和的な信仰を「核」としてゐる。大國主命は、須佐之男命の御子孫であらせられ、須佐之男命は天照大御神の弟君であらせられる。

 

日本民族は天地自然を神として拝ろがみ祭ってきた。ゆゑに日本の神々は素盞鳴尊のやうに時に猛威をふるはれることはあっても、一神教の神のやうに「妬み」「裁き」の神ではない。

 

日本民族の包容性は、母胎が生命を摂取し包容するがごとく柔軟であり寛容である。しかしそれは柔軟であり寛容であると共に自身も強靭な生命力を有してゐないと不可能である。天照大御神の「聖胎」はすべてを包摂し聖化する。

 

それと関連させて申せば、皇位継承・皇室典範改定に関する議論で「種」とか「畑」といふことを論ずる人がゐるが、女性天皇が御子を胎内に宿されることを、馬や牛と同じやうに論じることに身の毛のよだつのを覚へる。天皇は、天照大御神の生みの御子であらせられ現御神=天照大御神と同一の神格を有せられる神聖なるご存在であらせられる。

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