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2016年10月 2日 (日)

「一君萬民」の國體明徴化による國難の打開

ペリー来航より約五十年も前の文化元年(一八〇四)、長崎に来航したロシアのロザノフに対する幕府の対応に不満を抱いたロシアは、文化三年から翌年にかけて、わが國領の樺太を攻撃した。幕府は文化四年にこの事件の概要を朝廷に報告した。

 

今谷明氏はこの事を、「幕府自らの軍事力に自身を喪失した時、天皇の権威に依存するという体質があらわれた。…秀吉のいう『日本は神國』、家康のいう『日本は神國仏國』のごとく、外圧を意識したときの民族のアイデンティティーが神國思想としてもちだされる構造は、秀吉時代以来、一貫したものであった」(『武家と天皇』)と論じてゐる。

 

さらに、阿片戦争で清國が敗れ、わが國にも外國船が頻繁に現はれるようになり、対外的危機が深刻化した弘化三年(一八四六)八月、この年の二月に御年十六歳で即位された孝明天皇は、海防の強化を命じた勅書を幕府に下されると共に、最近の対外情勢の報告を幕府に求められた。

 

藤田覚氏は、「朝廷は、幕府に対して対外情勢の報告を要求できる、幕府は朝廷に報告する義務があるという慣行は、文化四年を先例とし、弘化四年に確認され、この後頻繁に幕府は朝廷に報告するようになった」(『幕末の天皇』)と論じてゐる。

 

徳川幕府成立以来の「國政は一切徳川幕府に委任されてゐる。朝廷は政治に口出しさせない」といふ原則を幕府自身が踏み躙らざるを得なくなったのである。これが幕府の権威の大きな失墜であり、幕府瓦解の始まりであった。

 

孝明天皇は、弘化四年(一八四七)四月二十五日に石清水臨時祭を挙行され、異國船撃退を祈願された。

 

嘉永六年(一八五三)にペリーが来航した。孝明天皇は、御年二十三歳であらせられた。ペリーの軍艦は、江戸湾に侵入し、大砲をぶっぱなして示威行動を行った。わが國に開港を迫ったアメリカは、決してわが國に親愛の情を持ってゐたわけではなく、わが國を勢力下に置かうと企図してゐたのである。それはペリーが幕府に提出した『國書』を見れば明らかである。

 

鎖國といふ徳川氏政権掌握以来の基本政策を外國の脅迫によって修正することは、幕府の権威と正統性を失墜する危険があった。そこで幕府は、國民的合意を達成するために、ペリーの要求に如何に対応すべきかを朝廷・各大名そして陪臣(註・大名の臣)にまで広く諮問した。

 

この事実もまた、國家の大事を徳川幕府のみで打開できないといふ幕府の弱體化・権威の失墜を天下に示し、日本國は天皇中心國家であるといふ古代以来の國體を明らかする端緒となった。これが明治維新の原理たる「尊皇倒幕」「尊皇攘夷」の精神の生まれた根本原因である。

 

ペリー来航直後の小浜藩(今日の福井県西部地方)の布告には、「上御一人様より、下末々迄心を合せ此御國(注・日本國の事)を守り、昔より之れ無き恥を取り申さざる様に骨折候事第一の心得に候。去(さる)に依り、他國(註・他の藩の事)の御領地のと申差別なく、日本國中一家内同様の心得にて、萬々異國船参り無作法を致し候時は、上下男女の差別なく命を捨て此御國を守り候心得第一の勢にて候」とあった。

 

群雄割拠の幕藩体制を超克して、天皇中心の統一國家の真姿に回帰することによって外國の侵略から祖國を守るべしを論じてゐる。つまり、幕末の祖國の危機に際して、日本民族は自然に、日本國家・民族としての一体感・運命共同意識中心に古代からの國家の統一者である天皇を仰いだのである。國民の同胞意識・連帯感、そして外敵に抗するナショナリズムの中心には天皇がゐまさねばならなかったのである。明治維新後の近代日本における「一君萬民」の國體明徴化そして皇軍創設は、かかる精神に基づくのである。

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