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2016年10月 4日 (火)

明治維新は「一君万民・尊皇倒幕・尊皇攘夷」を基本精神とする大変革

梁川星厳は、尊皇攘夷思想の志士たちと交流を深め、鴨川のほとりの「鴨沂(おうき)小隠」と名付けられた梁川星厳の家には、佐久間象山・横井小楠・頼三樹三郎・梅田雲浜・吉田松陰・宮部鼎蔵が訪れた。また、反幕府の廷臣たちとも交流した。

 

梁川星厳は、「楠公精神」の継承者であった。次の詩をのこしてゐる。

 

「豹は死して皮を留む、豈偶然ならんや

湊川の遺蹟、水天に連なる

人生限り有り 、名は盡くるなし

楠氏の精忠万古に伝ふ」

(豹も死ねば立派な皮を遺す、決して偶然ではない。湊川の遺跡は水と天につながってゐる。人生には限りがあるが、名は尽きることはない。楠氏の忠誠は永遠に語り伝へられゐる、といふ意)

 

安政五年の井伊直弼の「違勅調印」に憤った越前、水戸、薩摩の尊皇の志士は、活発な反幕閣・井伊排撃運動を展開した。彼等は公卿と結び、朝廷の威光によって形成を挽回しようとした。その運動に京の都において協力した人物たちが、井伊派から「悪謀の四天王」と言はれた池内大学、梅田雲浜、頼三樹三郎、梁川星厳の四人であった。近衛忠熙、三条實萬などを動かして、水戸藩に密勅を下し、幕府の罪を責めるといふ方針のもとに一致協力した。

 

井伊直弼の配下、長野主膳は、水戸藩への降勅の実現に大きく貢献したのが梅田雲浜と梁川星厳であるとして、この二人を捕縛せんとした。雲浜は捕縛されたが、星厳は捕縛直前にコレラに罹り病死した。

 

江戸時代はたしかに二百数十年の「太平の世」が続いた。これは徳川氏の功績である。しかし、幕末期、欧米列強の侵略の危機を打開し、日本の独立を維持するためには、徳川幕府が、天皇及び皇室の神聖権威に対抗すべく不遜不敬にも創出した「東照大権現」の神威では、とても國民的統一の信仰的核にはなり得なかった。

 

今谷明氏は、「東照大権現の神威は、武家階層はともかく、民衆レベルに浸透したとはとうてい考えられない。反面、大衆の間に天皇祖神を祭る伊勢の神威が高まっていくのは、よく知られているとおりである。伊勢と日光の勝負はもはやついて居た。」(『武家と天皇』)と論じてゐる。

 

現御神信仰・尊皇精神の興起は、勤皇の志士たちのみならず、一般庶民においても旺盛であった。伊勢の皇大神宮への民衆の集団参拝(いわゆる御蔭参り)が行われ一般庶民の皇室の御祖先神に対する信仰が大きく復活してきてゐた。天保元年(一八三〇)には、御蔭参り参加者が閏一月から八月までで五百万人に達したといふ。

 

國家の独立と安定と統一を保持するには、日本の伝統と自主性を體現される御存在=神聖君主日本天皇を中心とした國家體制を確立しなければならなくなった。欧米列強の侵略から祖國日本を守るための國家體制は、神話時代からの伝統的君主である天皇を中心とする國家でなければならないといふことが全國民的に自覚されるようになった。そして、一君万民の國體を明徴化する明治維新が断行されたのである。

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